ななめのa.k.a織戸久貴さんの「負けヒロインについて語るときに僕の語ること」を読んだら、思い浮かんだことがあったので、書きます。
「負けヒロイン」というのはいわゆるハーレム物ラブコメなどで、最終的に男性主人公と結ばれることのなかったキャラクターを指す言葉のようです。
こうした漫画やライトノベルなどで、「真のヒロイン」がいったい誰になるのか、読者のあいだで連載中に考察がなされ、あたかもミステリにおけるフーダニット(犯人当て)のように、作中の数々の伏線を踏まえてヒロイン当てがなされる、そういう風習があるということは、なんとなく知っていました。
織戸久貴さんが「負けヒロイン」について並々ならぬ思いを抱いているらしいということも、たとえば「負けヒロイン俳句集」などで知っていました。しかしここまで重要な概念となっていることは知りませんでした(ちなみに「負けヒロイン句集」は四季かキャラクターのタイプごとに30×4=120句くらいで一冊にまとまると結構な数――100部くらい――は文フリや通販等で需要があるのではないかと思います。ぜひやっていただきたいです)。
で、上の記事ではアジカンの「エントランス」が最初に、fish in water project「セツナブルー」が最後に挙げられているのですが、最後まで読んで私の脳内に不意に思い浮かんだのが、GRAPEVINE「超える」という曲です。(以下、織戸さんの記事の内容からは離れます)
「超える」は2007年発表のシングル。当時は「なんだか地味だな」と思ったのですが、去年聞き直すと、(けっこういいなあ)と思って、聞いたり歌ったりしてきました。が、歌詞の意味がよくわからない(GRAPEVINEの歌詞は全般的にそうなのですが)。これまでは、歌い手同様に男性視点で、「30歳くらいのチャラい男が遊びで付き合った女性に意外に本気になっちゃった話」なのかな、くらいのイメージで受け取っていました。
ところが……。
先の「負けヒロイン」概念の文脈の中に置き直すと、つまりヒロイン視点として受け取り直すと、この歌詞がパーフェクトに理解できることに気づき、私は戦慄したのです。
以下、たぶん他に誰もこのような解釈をしている人はいない、あるいは作詞者でもそのようには考えていないかもしれませんが、一度そうだと考えるともう、そうだとしか思えなくなってしまったので、他のリスナーにも問いたいと思い、私の解釈を記します。
* * *
先に説明しておくと、私がいわんとしている解釈は、これが「負ける」瞬間、つまりヒロインによる告白シーンを扱っている、ということです。
まずは一番。
うすくちの恋 こうやって夏が終わる
先へ急ぐのが精一杯
最初の「うすくちの恋」は、それまでに積み重ねられてきた恋愛未満のエピソードのことです。夏祭りやら海やらプールやらも終わった。次の季節が始まる。ライバルとなる登場人物も多くて、自分の気持ちを整理する余裕がない。そうして日々が次第に過ぎてゆく。
だけど降ってきた偶然
こりゃもう思し召しと信じて
ところがそんな中、僥倖ともいうべきイベントが起こり、二人きりになる。この機会を逃してはいけない。「こりゃもう」という言葉遣いからは、ヒロインの、上品ぶるというよりはくだけたパーソナリティが垣間見える。次からサビ。
今 限界を超える そのくらい言わないと
描きだすもの
愛も欲望も全部絡まっていて
タイトルフレーズが出てきました。「限界を超える」というのは、これまでのヌルい関係を壊す、キャラクターの分を超える、自分の感情を正直に言い表す、すなわち、理性や世間体をなりふりかまわずぶっちぎる、ということです。
二番。
きみと出会う幸運が 殊の外
つまらぬ感情を連れてきた
「これまでのヌルい関係を壊す、キャラクターの分を超える、自分の感情を正直に言い表す」というのは、ふだんは決して見せることのない自分の無様で弱い部分をさらけ出す、その熱によって相手を圧倒しようとする、ということです。それは同時に、常なら「つまらぬ感情」として切り捨ててきたものに、向き合う必要に迫られる、ということでもある。ヒロインは、はたしてそれに耐えることができるのか。
きみが察知した運命
ねえ
それは聞きたくもない
相手がこちらの意図に気づきました。同時に、いわゆる「負けフラグ」が立ち始めます。「先へ急ぐのが精一杯」だった日常的時間が止まり、「運命」全体を見渡す走馬灯的時間が現れる。一瞬、「聞きたくもない」とたじろいでしまいます。
ばかでかい音で砕け散ったっていいんだ
その答えなど
いつもひとつじゃないのはわかってた
「ばかでかい音」というのは、たぶん自分の心臓音です。「その答え」はもちろん、「で、あなたは結局だれが好きなの?」という問いに対するもの。相手は優柔不断で移り気な人間なので、とうぜん答えは「いつもひとつじゃない」。でもどうやら、最近はそうでもないらしい。「ひとつ」になり始めてきたらしい。ヒロインは「砕け散ったっていい」と覚悟を決める。
二番目のサビが終わり、ここで間奏に移るんですが、歌詞カードには載っていないものの、「わかってた」の直後、「(わかってんぜ)」という男言葉が入ります。これをどう捉えるか。これまでの「超える」=男性視点説なら問題はありませんが、ヒロイン視点説ではちょっとハードルになります。先の「こりゃもう」と合わせて考えると、ヒロインは性根は江戸っ子的な言葉遣いの感性を持っている人物なのかもしれません。
ばかでかい音量で 曝け出すつもりだ
その答えだって いっそひとつだと思えばいいね
なぜヒロインはこれまで、このような機会を持つことを恐れてきたのでしょうか。それは相手が、答えの「いつもひとつじゃない」優柔不断な人物で、交友関係もわりあい重なっている、そういう人間関係を更新するのはかなり負担が大きいからではないでしょうか。でもその答えは「ひとつ」になってきたようだ。だとすれば、それはYESかNOに違いない。ヒロインは自身の「つまらぬ感情」に打ち克つことができるならば、相手の「その答え」がどうであれ、停滞する「うすくちの恋」を超えられるであろう。
今 限界をも超える そのくらい言っていいか
描き出す世界
既存の関係は完全に更新され、新しい世界が描き出されます。ヒロインは「負け」る。そういう予感がある。いや、結果はもうわかっている。でも、それは単に悲しいだけじゃない、これまで過ごしてきた時間が無駄だったわけでもない、そしてこれからの時間すべてが灰色に塗りつぶされるわけでもない。個人と個人がぶつかりあい、自分の思う通りにいかない事態が生じた、そのことをそのまま受け止め、相手をむしろ勇気づける。痛みを引き受けたそういう強さは、それまでの自分を超えている。
愛も欲望もさっきから図々しい
騒々しい
とはいえ、頭では上記のようにわかっていても、この瞬間、色んな感情や欲望がぐっちゃんぐっちゃんに入り混じっています。相手が振られるかもしれないし、付き合ってもすぐ別れるかもしれない。人生は長いのだから、この先「あわよくば……」ということだってないとはいえない。そんな打算、醜さ、弱さ、したたかさも、いまこの瞬間自分の内に存在する。それは単なる「確認作業」どころではなくて、己のすべてを賭けることです。「超える」とは賭けることです。
たとえ負けようとも、己のすべてを賭けずにはいられない。そんな人物を、悲しむでも蔑むでもなく、力強く肯定する。ヒロインを「見る私」にできることは、それくらいしかない。
どうでしょうか。だんだん、そんな歌に聞こえてきませんか。
たぶん、女性ボーカルがカバーすると解釈としては一番強くなるのではと思うのですが……ミドルテンポだから派手さに欠けて難しいかな。もし『負けヒロインが多すぎる』がアニメ化するようなことがあれば、ぜひカバー曲を起用していただきたく、企画を探しているプロデューサーの方には希望いたします。