立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

一、二、三、そして〈遊ぶ〉ことの奥義――『殊能将之未発表短篇集』(1)

発売のアナウンスがあった時は「短篇が執筆されていたのか?」と目を疑ったけど、『殊能将之未発表短篇集』(講談社、2016)には短篇が三つと、私小説ふう日記エッセイ一つが収められている。短篇のうち、「犬がこわい」は犬恐怖症の男とその近所に現れた巨大犬をめぐるやや日常の謎を思わせる話で、「鬼ごっこ」はヤクザらしい追う者と追われる者との疾風怒濤のバイオレンス・アクション、「精霊もどし」は生きている死者を題材とするどちらかといえばホラー寄りで、後者二つは自身フェイバリットを公言していた黒沢清の感じに近い。いずれも純然たるミステリというよりは、いわゆる「奇妙な味」というか、『異色作家短篇集』『奇想コレクション』などに入っているようなタイプ。かつての日記「memo」「reading」にあったような志向からすれば、こういった作品は確かに、書かれていてもおかしくはなかった。
とはいえこれまで著者の短篇といえば、『樒/榁』(講談社ノベルス、2002)はシリーズものの短篇二つのカップリングだけれど合わさることで意味を持つ、形式的には中篇だし、ほかにはリレー短篇連作『9の扉』(マガジンハウス、2009)に参加した「キラキラコウモリ」(「ウフ。」2008年5月号)一編しかない。だから短篇というとどのようなものなのか、まったく知られていなかった。その意味で、これまでの作品を読んできた人ならば、まずこわごわと手にし、ついでまぎれもないあの質感に安堵、そして面白く読むことができるとおもう。

「短篇」と聞いたときに私は、「reading」に書かれた次の一節を思い出した。

 中村融山岸真編『20世紀SF (3) 1960年代 砂の檻』(河出文庫)にトーマス・M・ディッシュ「リスの檻」が収録されていたので、うれしくなった。
 わたしはディッシュが好きで、短編集を4冊持っている。暇なときに、ぽつりと1編読むのが実に楽しい。(したがって、まだ全部は読んでいません)
White Fang Goes Dingo(1966; Arrow, 1971)
Under Compulsion (1968, Granada 1970)
Getting Into Death and Other Stories (1976; Pocket,1977)
The Man Who Had No Idea (1982, Bantam)
 ほかにももう1、2冊短編集があるはずだが、まだ買っていない。
 ディッシュという人は、典型的な短編型作家で、長編はあまりうまくない。どうやら長編の構成ができないらしく、長めの中編の感覚で一気に進められるショートノベル(例・『人類皆殺し』ハヤカワ文庫SF)はまだいいが、ぶ厚い長編になると、いくつかの短編がつながったような話になってしまう。長い物語をゆうゆうと語る資質に欠けているんだろうと思う。
 そのかわり、短編はものすごくうまい。もう、信じられないくらいうまい。わたしは弟子になりたいくらいだ。なんだったら、ニューヨークまで行って、アパートメントの玄関口で土下座して待っていてもいい。(「reading」2001年2月7日)

 「弟子になりたい」という言葉は、チラとでもトマス・M・ディッシュふうの短篇を書こうと志向しなければ出てこない言葉だろうから、私はずっと気になっていた。今回の収録作はエッセイ「ハサミ男の秘密の日記」含め、すべて1998~99年(つまり34~35歳ごろ)に執筆されたと推定されている、ごく初期のものである。長篇ほど革新的ではなくとも、クオリティは高いのだから、もしこうした短篇群が次々と書かれていれば、……と夢想してしまう。


短篇はすべて執筆時の現在、つまり前世紀末の日本を舞台にしているが、携帯電話とインターネットがないことを除けば、時代的な古さは感じさせない。現代の日常的な風俗を対象にすることは、『ハサミ男』から「キラキラコウモリ」に至るまで、欠かせない重要なモチーフだった。そしていずれの短篇も、日常の中にある超常的な存在が示唆されていることを考えれば、これは『美濃牛』から『黒い仏』への“飛躍”を、連続したものとして捉える補助線ともなる。もしこれらがその間(つまり実際に編集部と掲載に向けたやり取りをしていた2000~01年頃)に「メフィスト」に発表されていたならば、作品が読者へ与えるイメージは、また違っていたかもしれない。

『未発表短篇集』というタイトルはいかにも無愛想で、そのまま刊行されるのだろうか、と思っていたら、本当にそのまま出た。まだ読む前、内容紹介を見て、「犬がこわい」「鬼ごっこ」「精霊もどし」からもしメインタイトルを選ぶとすると「精霊もどし」かな、所ジョージの曲名にあるけど、『鏡の中は日曜日』『子どもの王様』もイタダキものの書名だし、『キマイラの新しい城』は『ハウルの動く城』みたいだし……と思っていたら、「精霊もどし」の120頁ラスト2行を読んでブッ飛んだ。そうか、これをメインに据えると、別の意味を持ってしまう……というわけで、半分は納得した。
この本がまとまるまでには、おそらく水面下で多くの議論があったことと思う。そんなことを臆測してもしょうがないが、しかし、かつて次のように書かれたことを思い出す人も多いのではないか。

 作家や芸術家が早逝すると、「まだこれから傑作を創造したかもしれないのに」という反応が出るのがつねだが、わたしはこれが嫌いである。

 永田耕衣という俳人がいて、阪神大震災被災したあと、老人ホームに入って、そこで息を引きとった。
 耕衣の弟子という人がたびたび面会に行っていたのだが、この人は、耕衣が痴呆状態になったあと、老人ホームを訪れるたびに、ベッド脇のテーブルの上を探しまわったらしい。
 もしかしたら新しい俳句を書いたんじゃないか、と考えたのだ。
 この話はその弟子自身が書き記していて、ご本人は「耕衣文学を後世に残すための崇高な使命を果たした」つもりでいるらしいが、わたしが耕衣なら、こんなやつには見舞いに来てほしくないよ。ろくなもんじゃないよね。
 リンダ・マッカートニーが亡くなったとき、日テレの某女子アナが番組で、
ポール・マッカートニーがすばらしい追悼の曲を書いてくれることを期待します」
 とコメントしたので、わたしはテレビの前で激怒した。
 たぶん、このバカ女はエルトン・ジョンの〈キャンドル・イン・ザ・ライト〉のことが頭にあったのだろうが、あれは昔の曲の替え歌だ。新しく作曲したわけじゃない。本当に悲しいときに曲なんか書けるかっ!
 わたしはこういう連中が大嫌いである。才能があろうがなかろうが、創造力が枯渇していようがしていまいが、たんに死を悼みたいと思う。(「memo」2002年10月)

 あるいは、『樒/榁』の冒頭で、未発表原稿掲載にあたっての編集部からの説明がやや揶揄気味に挿入されていたことなど。

作者と作品を峻別した人らしい発言だと思い、また非常にもっともだとも思う。もちろん、没後刊行の作品すべてを否定するものではないはずである。ジョルジュ・ペレックの未完の遺作『53 Jours』を読み終え、〈この本を編集したハリー・マシューズとジャック・ルーボーは偉いね。ペレックへの深い友情を感じたな。〉(「reading」2006年7月24日)などと評価しているくらいなのだから。

今回の三つの短篇は公表を期して届けられたもので、「秘密の日記」のほうもおそらくは外部の目を意識した文章になっているのだから、相応のエクスキューズはある。そうした事々を考え合わせると、やっぱり三年という時間は必要だったのかもしれない……とおもう。

(続く)

 

 

殊能将之 未発表短篇集

殊能将之 未発表短篇集