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襤褸は着ててもロックンロール

『立ち読み会会報誌』第三号〈特集 新・叙述トリック試論〉に関するお知らせ

 twitterではすでにお知らせしていましたが、現在、『立ち読み会会報誌』第三号という新刊を準備しています。

 内容は標題のとおり、叙述トリックに関する特集です。

 第一号(2017年11月)の時に「第三号まで殊能将之作品特集をします」といい、第二号(2019年5月)の時に「前号の内容を延長して書いてしまいました」といい、浦賀和宏先生逝去(2020年2月)の時に「第三号は急遽、浦賀和宏作品特集にします」といい、それで今回の叙述トリック特集なので、もはや誰も信用などしてくれないと思いますが(いま書いてきて、エッ前回からもう二年も経ってるの!と思いましたが)、自分としてはここに至る流れには、それなりに理由がありました。

 というのも、殊能作品にせよ、浦賀作品にせよ、「叙述トリック」がやはり重要なキーワードなので、まずそれをきちっと押さえておかないといけないのではないか、と思ったのが一つ。特に殊能センセーに関しては、去年、ある資料を見せていただいて、

(この方はこれほどまでに叙述トリックにこだわっていたんだなあ……)

 と思ったことがありました。なので、やはりこちらの方を先に片づけておきたくなった。

 で、元々は第32回文学フリマ東京に合わせて作る予定で、エントリもしていたのですが、いわゆる緊急事態宣言の延長で、おそらく開催されないだろうと入稿締め切りを延ばしたら、開催されるというので慌ててしまいました。新刊はないので既刊だけでも並べるという案もありましたが、結局出店はキャンセルし、上述の新刊のほうをなるべく進める、ということにしました。

 予定としては、5月の終わり~6月の始めくらいから、通販を始めるつもりです。【一番下の追記を御覧ください。】詳細がかたまりしだい、こちらで改めてお知らせします。今回はサンプルとして「はじめに」を公開するので、それを見ていただくと、どういう意識で書いているのか、大体わかると思います。(いちおう先に警告しておくと、今回の新刊では「この小説には叙述トリックが使われている」という程度の言及は、特に断りなく行なうのでご了承ください。もっと内容に踏み込む箇所では、先に断ります)

【目次】
はじめに
第1章 叙述トリックはどのように語られてきたか
第2章 本稿で参照するモデル
第3章 一人称・手記・信頼できない語り手
第4章 三人称・映画・モンタージュ
第5章 メタフィクション・作中作・パラテクスト
第6章 サプライズ・ネタバレ・インターネット
結語
主な参考・引用文献

【判型】新書判サイズ(二段組)

【価格】1500円

 よろしくお願いします。

 

【追記 2021.07.01】

 上のように予告を書いてから、予想を超えて鬼のような多忙状態に陥ってしまったため(現在もその渦中)、なかなか完成の目処がたちません。また見通しができましたら、こちらでご報告します。予告した時に、10人くらいの方から、「出たら買う」と仰っていただいたのを、励みにしております。

 これまではこのブログに断片というかメモ書きをバーっと書いていって、それを総合する、という書き方をしていたのですが(たとえばこういうの)、今回、ネタバレ全開なので、なかなかそれはやりにくい。ただ、多少なりとも作業を進めながら自分のモチベーションを保つのと、後は「出す出す詐欺じゃなくて本当に進めてますよ!」というアピールないし証明のために、何かしらのかたちで内容の虫干しはそろそろやっておきたいところです。

ヒロイン視点として読むGRAPEVINE「超える」

 ななめのa.k.a織戸久貴さんの「負けヒロインについて語るときに僕の語ること」を読んだら、思い浮かんだことがあったので、書きます。

「負けヒロイン」というのはいわゆるハーレム物ラブコメなどで、最終的に男性主人公と結ばれることのなかったキャラクターを指す言葉のようです。

 こうした漫画やライトノベルなどで、「真のヒロイン」がいったい誰になるのか、読者のあいだで連載中に考察がなされ、あたかもミステリにおけるフーダニット(犯人当て)のように、作中の数々の伏線を踏まえてヒロイン当てがなされる、そういう風習があるということは、なんとなく知っていました。 

 織戸久貴さんが「負けヒロイン」について並々ならぬ思いを抱いているらしいということも、たとえば「負けヒロイン俳句集」などで知っていました。しかしここまで重要な概念となっていることは知りませんでした(ちなみに「負けヒロイン句集」は四季かキャラクターのタイプごとに30×4=120句くらいで一冊にまとまると結構な数――100部くらい――は文フリや通販等で需要があるのではないかと思います。ぜひやっていただきたいです)。

 で、上の記事ではアジカン「エントランス」が最初に、fish in water project「セツナブルー」が最後に挙げられているのですが、最後まで読んで私の脳内に不意に思い浮かんだのが、GRAPEVINE「超える」という曲です。(以下、織戸さんの記事の内容からは離れます)

「超える」は2007年発表のシングル。当時は「なんだか地味だな」と思ったのですが、去年聞き直すと、(けっこういいなあ)と思って、聞いたり歌ったりしてきました。が、歌詞の意味がよくわからない(GRAPEVINEの歌詞は全般的にそうなのですが)。これまでは、歌い手同様に男性視点で、「30歳くらいのチャラい男が遊びで付き合った女性に意外に本気になっちゃった話」なのかな、くらいのイメージで受け取っていました。

 ところが……。

 先の「負けヒロイン」概念の文脈の中に置き直すと、つまりヒロイン視点として受け取り直すと、この歌詞がパーフェクトに理解できることに気づき、私は戦慄したのです。

 以下、たぶん他に誰もこのような解釈をしている人はいない、あるいは作詞者でもそのようには考えていないかもしれませんが、一度そうだと考えるともう、そうだとしか思えなくなってしまったので、他のリスナーにも問いたいと思い、私の解釈を記します。

www.youtube.com

 * * *

 先に説明しておくと、私がいわんとしている解釈は、これが「負ける」瞬間、つまりヒロインによる告白シーンを扱っている、ということです。

 まずは一番。

うすくちの恋 こうやって夏が終わる

先へ急ぐのが精一杯

 最初の「うすくちの恋」は、それまでに積み重ねられてきた恋愛未満のエピソードのことです。夏祭りやら海やらプールやらも終わった。次の季節が始まる。ライバルとなる登場人物も多くて、自分の気持ちを整理する余裕がない。そうして日々が次第に過ぎてゆく。

だけど降ってきた偶然

こりゃもう思し召しと信じて

 ところがそんな中、僥倖ともいうべきイベントが起こり、二人きりになる。この機会を逃してはいけない。「こりゃもう」という言葉遣いからは、ヒロインの、上品ぶるというよりはくだけたパーソナリティが垣間見える。次からサビ。

今 限界を超える そのくらい言わないと

描きだすもの

愛も欲望も全部絡まっていて

 タイトルフレーズが出てきました。「限界を超える」というのは、これまでのヌルい関係を壊す、キャラクターの分を超える、自分の感情を正直に言い表す、すなわち、理性や世間体をなりふりかまわずぶっちぎる、ということです。

 二番。

きみと出会う幸運が 殊の外

つまらぬ感情を連れてきた

「これまでのヌルい関係を壊す、キャラクターの分を超える、自分の感情を正直に言い表す」というのは、ふだんは決して見せることのない自分の無様で弱い部分をさらけ出す、その熱によって相手を圧倒しようとする、ということです。それは同時に、常なら「つまらぬ感情」として切り捨ててきたものに、向き合う必要に迫られる、ということでもある。ヒロインは、はたしてそれに耐えることができるのか。

きみが察知した運命

ねえ

それは聞きたくもない

 相手がこちらの意図に気づきました。同時に、いわゆる「負けフラグ」が立ち始めます。「先へ急ぐのが精一杯」だった日常的時間が止まり、「運命」全体を見渡す走馬灯的時間が現れる。一瞬、「聞きたくもない」とたじろいでしまいます。

ばかでかい音で砕け散ったっていいんだ

その答えなど

いつもひとつじゃないのはわかってた

「ばかでかい音」というのは、たぶん自分の心臓音です。「その答え」はもちろん、「で、あなたは結局だれが好きなの?」という問いに対するもの。相手は優柔不断で移り気な人間なので、とうぜん答えは「いつもひとつじゃない」。でもどうやら、最近はそうでもないらしい。「ひとつ」になり始めてきたらしい。ヒロインは「砕け散ったっていい」と覚悟を決める。

 二番目のサビが終わり、ここで間奏に移るんですが、歌詞カードには載っていないものの、「わかってた」の直後、「(わかってんぜ)」という男言葉が入ります。これをどう捉えるか。これまでの「超える」=男性視点説なら問題はありませんが、ヒロイン視点説ではちょっとハードルになります。先の「こりゃもう」と合わせて考えると、ヒロインは性根は江戸っ子的な言葉遣いの感性を持っている人物なのかもしれません。

ばかでかい音量で 曝け出すつもりだ

その答えだって いっそひとつだと思えばいいね

 なぜヒロインはこれまで、このような機会を持つことを恐れてきたのでしょうか。それは相手が、答えの「いつもひとつじゃない」優柔不断な人物で、交友関係もわりあい重なっている、そういう人間関係を更新するのはかなり負担が大きいからではないでしょうか。でもその答えは「ひとつ」になってきたようだ。だとすれば、それはYESかNOに違いない。ヒロインは自身の「つまらぬ感情」に打ち克つことができるならば、相手の「その答え」がどうであれ、停滞する「うすくちの恋」を超えられるであろう。

今 限界をも超える そのくらい言っていいか

描き出す世界

 既存の関係は完全に更新され、新しい世界が描き出されます。ヒロインは「負け」る。そういう予感がある。いや、結果はもうわかっている。でも、それは単に悲しいだけじゃない、これまで過ごしてきた時間が無駄だったわけでもない、そしてこれからの時間すべてが灰色に塗りつぶされるわけでもない。個人と個人がぶつかりあい、自分の思う通りにいかない事態が生じた、そのことをそのまま受け止め、相手をむしろ勇気づける。痛みを引き受けたそういう強さは、それまでの自分を超えている。

愛も欲望もさっきから図々しい

騒々しい

 とはいえ、頭では上記のようにわかっていても、この瞬間、色んな感情や欲望がぐっちゃんぐっちゃんに入り混じっています。相手が振られるかもしれないし、付き合ってもすぐ別れるかもしれない。人生は長いのだから、この先「あわよくば……」ということだってないとはいえない。そんな打算、醜さ、弱さ、したたかさも、いまこの瞬間自分の内に存在する。それは単なる「確認作業」どころではなくて、己のすべてを賭けることです。「超える」とは賭けることです。

 たとえ負けようとも、己のすべてを賭けずにはいられない。そんな人物を、悲しむでも蔑むでもなく、力強く肯定する。ヒロインを「見る私」にできることは、それくらいしかない。

 どうでしょうか。だんだん、そんな歌に聞こえてきませんか。

 たぶん、女性ボーカルがカバーすると解釈としては一番強くなるのではと思うのですが……ミドルテンポだから派手さに欠けて難しいかな。もし『負けヒロインが多すぎる』がアニメ化するようなことがあれば、ぜひカバー曲を起用していただきたく、企画を探しているプロデューサーの方には希望いたします。

既視感の二つの段階――知念実希人『硝子の塔の殺人』

 まず先にお断りしておくと、本作は「ミステリマニアミステリ」です。ミステリマニアの館主が、ミステリマニアたち(それは必ずしも客全員ではありません)をヘンな建物に招いて、ミステリ談義をするうち、事件が起こる。

本格ミステリ小説の舞台になりそうな建物ですよね。いかにも殺人事件が起きそう」

 作中舞台に関する描写に続き、それをめぐって交される登場人物のこうした台詞を目にする時、読者の脳裡に浮かぶイメージは、おそらく三つの層を成しています。

  • イメージA 「作中現実そのもの」としての、純然たる視覚的イメージ
  • イメージB 「イメージA」は「いかにも」「本格ミステリ小説の舞台になりそう」だ、そうしたミステリを過去に何例も見てきた、という既視感1
  • イメージC 「イメージB」それ自体が「いかにも」「本格ミステリ小説」の登場人物らしい台詞だ、そうしたミステリを過去に何例も見てきた、という既視感2

 たとえば、ガラスでできた塔がある。ミステリ読者でなければ、それを前にしても「変った(あるいはヤバイ)建物だな」ぐらいに思って、特に感じ入るということはないはず(イメージA)。

 ところが同じ風景を前にしても、ミステリ読者(それは必ずしもマニアだけとは限りません)は「これはいかにもミステリの舞台っぽい建物だな」と思う。ミステリを読まなければこういうドン・キホーテ的な、あるいは聖地巡礼的な感想は生まれなかったわけで、これがイメージB=既視感1です。

 のみならず、「作中人物としてのミステリ読者」は、既視感1のような評価を作中で下してしまう。そしてそれを読んだ現実の読者は、この既視感1自体が「いかにも」ミステリらしいな、と思う。これがイメージC=既視感2です。

 つまり、作中舞台を前にして、「いかにも」という二つの既視感が読者に浮かぶわけですが、この二つの既視感の間には、微妙な空隙があります。この空隙こそが、本作の成立と評価の核心部に関わると思うので、以下、説明します。

 二つの既視感は、「ミステリ読者」が対象に視線を向けた時、対象から返される感覚です。この二つの成立はおそらく段階的で、まず「ミステリ」が数多書かれなければ「既視感1」は生じず、次いで「ミステリ読者が作中人物として登場するミステリ」が数多書かれなければ、「既視感2」は生じなかったのではないか。

 現実のミステリ読者
  ↓ 既視感2 ↑
 作中人物としてのミステリ読者
  ↓ 既視感1 ↑
 作中現実(イメージA)

 いわゆる「新本格史観」成立以後の視野においては、この既視感1/既視感2の間にある空隙が見分けがたいものとなっているのではないか、というのが私の考えです。どういうことか。それを説明するにはまず、両者の質の違いについて見ていきましょう。

 既視感1を支える感覚は、実は「驚き」です。虚構の中で何度も見たような光景が、眼の前に、唯一無二の現実として広がる。まるで虚構の中に自分が取り込まれてしまったような、内部/外部を打ち破る感覚としての、驚き。

「魅力的な事件が起こったので、昨日からついテンションが上がってしまって。寝たあとも事件についての夢ばかり見ていました。とても楽しい夢でした」

 といったポジティブな反応にせよ、あるいは、

「いい加減にしろ!(……)これはミステリ小説じゃないって言っているだろ。現実なんだよ」

 といったネガティブな反応にせよ、(一応、と本作については言っておきますが)その起点となるのは、上述の、n度くりかえされた虚構が1度の現実として顕れる、という階層侵犯に対する驚きです。 

 既視感2も、最初はそうした、階層侵犯の「驚き」を伴っていたのかもしれません。現実のミステリ読者が作中世界へと出張って、散文的なミステリ論をえんえんと繰り広げるうち、唯一無二の現実としての事件に巻き込まれる。ただ、『十角館の殺人』以降はとりわけそうだと思いますが、同じような設定のミステリが増えると、それは単に「そういう設定」の小説として、階層侵犯への驚きは逓減していきます。

 しかし、幾度くりかえされようと、作中人物にとって、既視感1の根底をなす「驚き」は減りません。シリーズ探偵(およびその仲間たち)ならいざしらず、たいていの人間にとって、ヘンな場所でヘンな事件に出会う、というのは、一度きりの冒険であり、その慄きが消えることはない。こうして、1度の「驚き」が、n度の「月並」として、読者には受け取られる。新作を書こうとすれば不可避に増殖する二重の「既視感」に、どのように新風を吹き込むか。メタジャンル小説が必然的に抱え込むそのハードルこそがおそらくは、新本格成立以後の、「館もの」をはじめとするクローズド・サークル小説が、主に乗り越えようと格闘してきたものでした。

 跋文で島田荘司が「新本格の終わり」を強調するのも、そこに関わるのでしょう。「綾辻行人」という作家はこれまでにも、いくつもの小説に登場してきた。でもたぶん、こういうふうな使われ方をすることは、これまでなかった。『十角館の殺人』で「エラリイ」だの「カー」だの「アガサ」だのといったカタカナ名を振り廻し、しかし決して作中に「綾辻行人」という名前だけは書くことのなかった20代の青年が、今や60を過ぎた大家として、虚構の中で語られているわけです。「ああびっくりした、」(綾辻行人――本書帯文)という「驚き」は、こうした文脈で受け取る必要があるでしょう。

 ところが、作中人物にとってはエバーグリーンな階層侵犯感覚(既視感1)であっても、それを受け取る現実の読者、それもすれからしのミステリ読者にとって、今やその「驚き」はうすい(既視感2)。それはおそらく「現実の読者」を超える外部がないからで、メタミステリとか、なんだとか、色々な試みがなされてきましたが、結局のところ、それらの試みは一作一作において辛うじて成立するものにすぎず、たとえば「既視感3」とでもいった新たな感覚を形成できるフィールドというのは、この方向性ではもうきっと存在しない、大体このあたりが限界かな、といった破線が、誰にとってももう長いこと見えてきている、ということではないでしょうか。

 そもそも新作ミステリについて「新本格」が謳われるのを見るのもずいぶん久しぶりのことで、〈まだあった「新本格推理小説(ミステリ)!〉というキャッチコピーが使われた時点(2013年)で、もはやそれをまともに受け取る人はいなかったでしょうし、むしろ誰もが忘れかけていたような今、ここで島田のいう「新本格」は、あえて名指しして終わらせるもの、として持ち出された気配があります。つまり、思いきりパラフレーズしていうならば、「作中人物」「テーマ」としての「ミステリマニア」は、「新本格」以後の日本の本格ミステリ復興において、大いに役立った、しかしそれはもはや歴史的使命を終えた、虚構世界の中の彼らをロケットブースターのように切り離さなければ、この先はない――とでもいったような。

 その意味では、「ミステリマニア」という存在がここまで悲愴感を以て語られるのを見るのは初めてです。その、「閉じた存在」としてのクローズド・サークル/ミステリマニアに向けられた「終わり」の眼差しは、『霧越邸事件』(1990年)や『どんどん橋、落ちた』(1999年)の時などとは、ずいぶん違う気がする。だとすると、一見豪華な帯文の錚々たる面々による言葉の列なりも、また別種の会合として見えて来もする――まあ、そうした「終わり」がホントかどうかはともかく、私が気になるのは、もっと別のことです。

 

【以下、本作の核心部分に言及するので、未読の方はご注意ください】

 

 ミステリマニアによるミステリマニアのためのクローズド・サークル。2000年代後半以降、そうした設定の作品にとって、「ある傾向」がなぜかよく伴われることを、このブログでも何度か紹介してきました。その「傾向」とは、

 ①トリックがショボい

 ②ミステリマニア(作者/読者)が、ミステリが好きすぎて殺人を犯す、という展開になる

 です。

 ①の意味では、この小説は、かなり充実しています。さすがに、というべきか、ダミー推理も、真の解決も、じゅうぶんクオリティが高い。不思議なのは、しかし、にもかかわらず、なぜか自作を貶めるような記述が散見されることです。それが意図なのだから仕方ないじゃないか、といわれればそうなのかもしれませんが、私としては、「同人誌まがいの劣化版」とまで書く必要はない(それくらいには面白い)と思うし、本当に「劣化版」ならばもっと全然違う方向性でもっとグレードの高いものを書いた方が良いのではないかと思うし、そこまでいわれると最後まで読んでもその後のフォローにも「言い訳」感を払拭することができず、貶められれば貶められるほど虚しさが募ってきて、本作自体を「傑作」として他人に勧めづらい、という気分になってきます。

 ②は上述の、内部/外部の問題と関わります。ミステリの歴史は表現規制と無関係ではなく、大方の創作者にとって、たとえどれほど残虐な内容であろうとも、虚構と現実は別、というのが(線引が難しい領域もありますが)、基本的な立場ではなかったでしょうか。ところが、こうした傾向の作品群においては、しばしば、「ミステリを読みすぎたために殺人を犯すようになった」人物がでてきます。「名探偵に会いたいから事件を起した」ならまだかわいいもの。「ミステリの読み過ぎで自分でも殺人行為に魅了されるようになった」とか、「ミステリ作家がスランプのあまり現実に事件を起してそれを作品化しようとした」とか、作者たちはそれなりに「驚き」を求めているのだと思うのですが、あれほどまでに多くの人が死守してきた内部(虚構)/外部(現実)の線引が、なんというか、ぐずぐずに崩されて、自分がこれまでミステリを好きで読んできて、今も好きでホラこういうふうに読んでいて、でもそれがこう、あれでしょ? オレもこのまま読んでたらフトしたことで殺人に魅了されたりしちゃうということ? とでもいったような、それこそ「踏みにじられた」ような悲しい気分になってきます。いや、そういうオマエこそが虚構と現実の区別がついていない浅い読み方だ、という指摘は正しいはずですが、私としては、「虚構と現実の区別がつかないミステリマニア」自体は、『陸橋殺人事件』(1925)やら『グリーン家殺人事件』(1928)やら『虚無への供物』(1964)やらの昔から批判的に描かれてあるのだから(『十角館』もそこに含まれるでしょう)、何も今更それを「大ネタ」として持ち出さなくとも、というか、島田荘司の言説に乗ればそれをいったん「卒業」して、忘れたほうが、新しい領域が切り拓けるんじゃないかな、という感じを抱いています。いや、もし「マニア」的にいうならば、本作に登場する「マニア」は、まだそれほどマニア度が高くないのかもしれません。それは、陽光を嫌うだろう稀覯書を展望室に集めるといった初歩的な行為もさることながら、「マニア」が普通、ミステリならなんでも一様に好き、というようなことはあんまりなくて、あれは欠点だけどでも次作に至るまでに必要な経過点だった、とか、あの人のダメなところも含めて全部丸ごと好きだ、とか、いやむしろ「好き」よりも「嫌い」で語るほうに大いに力瘤が入る、とか、世間で評価されている誰某の面白さがオレには全然ワカラナイどれだけ売れてもいけすかなさしか感じない、といった各人が持っているはずの凸凹した感覚が、のっぺりとした「好き」に全体的に覆われているような感じがあって、ウーム、「マニア」って、そういうものかしら、と思わなくもないのです(私は自分がマニアだとは思っていませんが――みたいな面倒な自意識をマニアの人たちは懐きがちです)。

 ともあれ、内部/外部について、もう一つ、島田の言を引いてみましょう。

『硝子の塔の殺人』は、「新本格」と呼ばれたこの特殊な時代を令和の上空から俯瞰し、丹念に総括し、ジャンルの作法を完璧に使いこなして、ブーム終幕に、誰も予想しなかった最高作を産み落として見せた(……)この力作の設計図は、おそらくは知的操作で、方程式を組むようにして机上で考案されたと推察する。

 重要なのは、「上空から俯瞰」と「設計図を机上で考案」です。この二つは対象(新本格全体/『硝子の塔の殺人』全体)を外部から眺めるということで、いわば建物に対する見取り図、です。作中、この「見取り図的なもの」が、何度かモチーフとして登場します。冒頭におかれた建物全体の「見取り図」はもちろんのこと、「トライデン」の「模型」、そして貴重なミステリを集めた「書架」です。特に書架というのはこの手の小説にとって欠かせないもので、作者自身のミステリセンスが問われるコワイ部分でもある。ところで「バベルの図書館」的な発想でいえば、「あらゆる傑作ミステリを網羅した書架が作中に登場する小説」があるとして、その小説自体は、入れ子構造のようにその書架に含まれるのでしょうか。たぶん、その小説、というか、作者の既刊自体含まれないことが多いのではないでしょうか(チャッカリ登場させて宣伝する方もいらっしゃいますが)。だとすると、この書架にはたぶん、「知念実希人」という名前は(少なくともあからさまには)含まれていない。硝子の塔の館主が「館シリーズ」既刊全作を含む書架を構成できたのは、「知念実希人」が「新本格」の外部に(時代的に)いたからで、20代の「綾辻行人」には、こんな書架は書けなかった。だとすれば、もしこれからこうした「書架ミステリ」(いま名付けました)が十年後か二十年後かに書かれるとして、そこに「知念実希人」の名前が含まれるためには、おそらく、「書架」とはまるで異なる外部へと遠く離れた、まったく異なる「本格」が書かれる必要があるのだろう、……。

 大小様々な声が犇めく賑やかな本書から、わたしが最終的に聞き取ったのはそうした、レクイエムならざるレクイエムとでもいうべき、静かな調べなのですけれども。

 

 

ストレンジ・フィクションズ臨時増刊『夜になってと遊びつづけろ よふかし百合アンソロジー』の感想

 承前


 申し訳ない話ですが参加したにもかかわらずリリース前までに通読できていなかった『夜になっても遊びつづけろ』全作をようやく通読できたので、以下若干の裏話的なハナシを交えながらまた多少の内容にも踏み込みながら紹介していきたいと思います。

 

織戸久貴「綺麗なものを閉じ込めて、あの湖に沈めたの」

 もともと夜が好きなわけじゃなかった、といつも思っている。孤独でいることがことさら楽しいというわけでもない。けれど夜には、あの場所には自分の求めているなにかがあるんじゃないか、という淡い期待をおさえきれず、何度も誘われるようにさまよっている。

 この企画は元々、織戸さんの発案で、〈これは妄言なんですが、ストフィク百合文芸やるっつったら来る人いますか〉という発言があったのは今見ると2月1日のことで、その時にはまだ全然テーマも決まっていなくて、プランにはいくつかの案とリリース予定は3月末脱稿の4月中発売、とだけ書かれてある。私は正直馴染のうすいテーマ、というか、ウカツには手を出し難いなあという外面向けの警戒心が働いて(娘がいて家族バレしているこのアカウントでこのテーマで書くことのできる技量と見識と覚悟と胆力が自分にある気がしなかった)、まあ、今回は見送ろうかな、と思っていたら、千葉さんが〈タイトル『夜になっても遊びつづけろ』でどうですか〉と言い出したので、金井美恵子読者としては退くに退けなくなってしまい(特に『小春日和』に入っている「花物語」は最愛の短篇の一つなので)、馴染みがうすいならうすいでこの未知の領域の只中であるいは傍らでしばらくゴロゴロと向き合ってみようかな、ということで、エイヤッと清水の舞台から薄氷を踏む思いで腹を括ったのでした。で、「やります」とは手を挙げたものの特に勝算もないまま、織戸さんが次第次第に(自身で出した募集要項の上限文字数を二倍以上超えて)完成させてゆくのを青い顔をしながら眺めていたこの春先、でした。
 織戸さんの文章を読んでもう十年近くになると思いますが、一時期傾きかけたやや気取って見えなくもない古井由吉的な読み手に負荷を多量にかける文体にはある危うさがあって(古井由吉の場合は作者も高齢でそれこそがテーマで連作短篇でその道のオーソリティだからいいかもしれないけどそういう語りかけで大体がアドレッセンスな年頃の語り手が300枚も400枚も500枚も語ろうとすると無理が出てしまう)、最近はそういう美的なコンクリートな隙のない文体に読み手をもてなそうという独自のバランスないし余裕が出て来たように思います。
 で、本作のワーキングタイトルは「猫を捨てる」で、私はそっちの方がいいような気がしたのですが(「~たの」というやや幼い語りかけが最終部では大学生となる語り手の意識にマッチしていないような気がして)、結局はこの長いタイトルが採用されたのですが、数々の試行錯誤を経て得られた結末は(「前にも再会エンド書いとったやんけ!」といわれればそうなのかもしれませんが)、ことに最後の、作中の時間が、黄金色の光が斜めに射して無数の瞬きのように照り返しやがて燃え上がりゆく川面を渡る風とともにゆっくりと経過しようとしながら一方で語り手の言葉を裏切って次第にスローモーションとなって別の時間として結晶化するつまり二重の時間として分裂・結合する一文に辿り着いた時、私のように不案内な人間にも、なるほど、これか。これが百合なのか。と思わしめたのでした。

 

鷲羽巧「夜になっても走りつづけろ」

要するに、言葉があれば、言葉以外は、前に進むんだよ。なあ、そうだろ。だから喋らなきゃいけない。そう云うもんだろ。そう云うもんなんだよ。そうじゃなきゃいけない。

 鷲羽さんは初めて読んだのですがそれまでtwiiterアカウントだけ拝見しているとフェイバリットが『論理の蜘蛛の巣の中で』と『小説のタクティクス』、そして本作のテーマはやっぱり、というべきか、アメリカ。となると私自身とも関心のありかが近いような気がして参ります(京大SF研OBの呉衣さんにはいつか『ミスティック・アメリカ』を完成させていただきたい)。原稿を提出したのがまず織戸さん、私、九鬼さん、と先に用意をしていた人達で、鷲羽さんは四番目でしたが、この時はまだ誰も全体を把握できていないわけで、どーもよふかし百合アンソロジーです、と宣言しておいて私みたいに中高生が学校でどーたらこーたらヒャッヒャウフフみたいな話がズラズラズラズラズラズラズラズラズラズラズラと並ぶと平々凡々で世に山とあるライバル連中の中で埋もれちゃうだろうな、アイツらには勝ちたいよな(とここで「○○百合合同」「××百合アンソロジー」などと書かれてある仮想敵サークルの既刊の表紙画像をサーバーに貼って)、どうかな、という一抹の不安もないこともなかったのですが、さすがというべきかいや当然というべきか、かなり異なるものが出てきて、大体このあたりから、どうも振れ幅が大きいアンソロジーになるらしいぞ、ということがハッキリしてきたように思います。
 この小説はロードノベル、というか、語り手が車を運転しながら同乗している聞き手に語りかける、という問わず語り式ないし劇的独白型の体裁になっているのですが、大きな参照元としてシモン・ストーレンバーグ『エレクトリック・ステイト』があるらしく、たしかにこれはリリース時に私もすばらしいと思ったのですが、鷲羽作は横組ならば右へ右へとなるところ、翻訳小説のていを装って、日本語縦組で左へ左へ、つまり西へ西へと電子書籍のページを繰らせていく意匠が秀逸で、その行動はやがて来たる長い夜の終わりを求めて疾駆する傷だらけのテロリスト(たち)の道行への加担を容易に連想させ、何気ない日常会話においてさえ、「爆弾作りたいよな」「一揆起こしたいよな」「国会前で◯◯のass holeに××ぶち込んでやりたいよな」などという穏やかならぬやりとりさえ漏れ聞こえかねない昨今、なんともその空気にマッチした忘れ難い感情を一読、想起させてくれます。

 

笹帽子「終夜活動」

「君はいま、耳を澄まして、この世界を見ているんだ」

「ASMRって何だろう?」と思って検索したら「Autonomous Sensory Meridian Response(自律感覚絶頂反応)」の略で、なんらかの心地よい感覚を引き起こす音響作品のことらしい。で、「10年くらい前に流行ったバイノーラル録音みたいなものか?」と思ったら、バイノーラルは手段に過ぎない一方、ASMRは感覚の方に重点がある概念なので、ASMRの方が懐が広くて混沌としているそうな。じゃあそれが小説とどう関係してくるのかというと、形式的にはASMRシナリオ風の表記(レーゼドラマのような台詞とト書き)のパートがあって、それが地の文に侵入してくる、というのが一つの読みどころになっています(部分的なレーゼドラマ風表記は過去の近現代文学たとえば金井美恵子でいえば『文章教室』などにも多数ありましたがこういうふうにスパダリ鬼畜系叙述トリック?な内容とマッチした「侵入」のかたちでの表現は初めて見たようにおもいます)。この方は合同アンソロジーに何度も参加経験があるからか書き方が慣れている感じで、今回のテーマに一番マッチしているのはこの短篇ではないでしょうか。三題噺ふうにいえば「百合」にカップリングされた「夜」から太陽が引き出されて、そこに異質な「ASMR」がぶつかってくる、という、さながら俳諧的な飛躍に、謎をちょくちょく残しながら進めていく書き方も、最近周囲で「小説がうまい」という言い回しが若干話題になりましたが、その意味で、うまい。

(完全に偶然ですが笹帽子さんの直前の私の担当篇のラストで出したEARTHのドローン・ミュージックというのは重低音を聞いたらリラックスできた――神経性頭痛がなくなった――ということなので、ASMRと繋がってんじゃん! と思いましたが誰も気づいてくれないと思うのでこの機会に書いておきます)

 

鈴木りつ「夜はさらなり」

「でもあれらしいよ 曜変天目が再現できたら、国から賞とかもらえるって」

「そうなんだ それで再現できそうなの?」

 実は、千葉さんと鈴木さんは落ちたかな(ションボリ)……と思った時があった(あったのです)。で、ある朝起きたら8頁くらいのPDFがアップされていて、6時くらいに読んだ。一日で仕上げた、という御本人の言はもちろん、ゼロから作り上げたわけではなく、事前にあるていど準備をしておいて一気呵成に描いた、ということだと思いますが、正直、「これが本当のクリエイティビティーというものか!」と衝撃に打たれた。すぐさまPDFを拡大して隅から隅まで眺めたんですが、全部の描線(あとスミの表現と映像的なモンタージュ感覚)がピチピチ生きて跳ね回っている、という感じで、自分が載せてもらった挿絵とは(当然ながら)較べるべくもなく、いやむしろ自分が同じ号に載っているのが烏滸がましいほどで、私も人間として三生ぐらい善行を積んでこんな線がかけたらいいな、と切に思い、その時、ああそうか、オレは人間なのか、と思って、それまで「百合が俺を人間にしてくれた」という物言いに(ホンマかいな)と大いに疑いを差し挟む心の持ち主だったのですが、もしかするとそういうこともこの世には本当にないこともないのかもしれないな、という心性の一抹の傾きを感じたのでした。

 ところで最後に主人公がうっすらと望みをかける「曜変天目が再現できたら、国から賞とかもらえる」ですがこれは金井サンとも若干関係があるので、紹介しておきます。国の賞(章)はふつう憲法14条の「栄典の禁止」のために紫綬褒章でも文化勲章でも賞金はなく(受章式のための交通費も自腹)、その意味では受章者向けに裏ワザ的に編み出された毎年年金が支給される文化功労者芸術院会員や人間国宝(それぞれ年間350万、250万、200万支給)がターゲットになるかもしれませんが、これは作家活動のオマケみたいなものなのでたぶん早くとも50代後半からで、また定員があるので欠員(端的にいえば死亡)がない限り入れない。賞金が出るのは芸術院賞(100万円)か芸術選奨(70歳までは30万円、50歳までは20万円)ですが反体制的、とまではいわないまでもいちおう非体制的な作家にとってはこれを受けるか否かが微妙な問題となるらしく、芸術選奨まではギリOKかな?ということで『カストロの尻』で芸術選奨を受けた際のことが「50年、30年、70歳、30万円」(「新潮」2018年5月号)で書かれているのですが、そういえばかつて第三の新人たち、つまり安岡章太郎阿川弘之遠藤周作小島信夫小沼丹やが次々と芸術院会員になった際、島尾敏雄は会員になるべきかどうかでだいぶ苦しんだらしく(その後会長)、そういうのをだいたい断った瀧口修造武田泰淳大岡昇平なんかもエライとは思うのですが、あんまり人が苦しむのも私はなんだなと思って、それぞれの方の判断についてとやかく言うべきではないのかなと思い直したことがあった(絓秀実があるトークイベントで秋山駿の芸術院入会について語るのを聴いた時)。iPS細胞研究の山中教授でさえあれだけ研究資金獲得に奔走されているのを見れば(ノーベル賞の賞金は一億円弱)、曜変天目の再現(というとまるで錬金術師のようですが)で国が支援してくれるかとなると……と思うと、その茨の道が推し測られて、二人の会話のその続きがますます見守りたくなるものとなるのです。

 

九鬼ひとみ「新井さん、散歩をする」

「見えないの?」新井さんはつぶやいた。

「誰が? ここには誰もいないよ」私が答えた。

 新井さんの瞳は、私ではなく別の誰かをとらえていた。

「聞こえないの?」

「だから、何も聞こえないよ!」

 この人はすごい書き手なんだな、と思ったのは、三年前に長篇『カップラーメンの呪い』を読んだ時でした。それまでは(失礼ながら)あまり文章がうまくない方なのかな、と思っていたら、そんなセコセコした文体観をぶち壊すぐらいの世界像こそを問題にしているのだ、ということが、ようやく腹に落ちました(その前の長篇がメフィスト賞の座談会で取り上げられて、今度はもっといくんじゃないかな、と思っていたら、一行コメント欄でさえスルーされていたのは無念の極みでしたが、何らかのかたちで広く読まれるといいな、と思うのですが。たぶん、九鬼ファンが増えると思います――と二年ぐらい前に御本人にお伝えしたのですが、実現の気配がないので、ここに書いておきます。『カップラーメンの呪い』が読みたい方は、下のアカウントの九鬼ひとみさんにコンタクトしてみてください)。

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「新井さん」は「姉妹団」が出てくる話で、そういうと、わかる方には「ああ、アレね」と伝わると思いますが、初稿ではもっと違う結末で、さすがに「これはテーマからギリギリ外れてるんじゃないでしょうか」などという話が出て、今のバージョンになったのですが、それが好評だと聞くともう我が事のようにうれしくて、このまま「何を書いても九鬼節になる」という路線を確立していただきたい。あと、矢部嵩さんの挿画。そういえば「殺人野球小説」を読んだ時に、結末まで読んで、器用な方だな、と唸ったのを思い出した。

紙月真魚「君の手に花火が透ける」

けれど、永遠に続く時間を今だなんて呼べはしないのだ。

 集中では織戸さんに続く長さ(100枚弱)の一篇。末尾の参考文献一覧を見るとわかりますがこれはたださえ困難な合同テーマに輪をかけて困難なテーマに挑戦した一篇で、読むまで(どうなるかな……大丈夫かな……)と勝手ながらハラハラしました。執筆前の梗概を読んだ段階では、架空の病気にしようか、どうか、という悩みもあったような気がしますが、そうしなくて本当によかった。というのはその話を聞いた時に、私は「これは絶対に架空の病気にしない方が良い」とお話して、でもそれはそれでハードルが高くて、なぜならこれまでこれこれこういう文学史ができていて、こういう地雷原があるからで、どうですか、挑戦できると思いますか、などと深夜のボイス会議で長時間お伝えする、という客観的に見ればなかなかにパワハラ気味な行為に及んだりもしたのですが、でも紙月さんはそこに挑むだけの資格も意欲も持っていた。
 考えてみれば、伊吹亜門さんも阿津川辰海さんもデビュー前の短篇はけっこう出来にバラツキがあって、でもそれは全部チャレンジングだった。こじんまりとこぎれいにまとまることなど問題ではなかった。そういう柄の大きさを見せつけられたような気がして、また進行管理に多大な労をとっていた織戸プロデューサーのゲキヅメ(誇張表現です)を乗り越えて〈百合小説アンソロジーに参加するのはギャングに入団するのと同じぐらい硬い覚悟がなければいけないよ、と死んだお婆ちゃんは言っていました。覚悟、それはわからん。〉と韜晦的に語られた努力の跡は、さなきだに男性だらけ(多分)の執筆陣について抱かれるであろうテーマ自体の持つ社会的構造的搾取感を二重に引き受けた上でそれを内破するという試み、つまり世界変革への意志に賭けられ、それが主人公の軌跡とシンクロして、読みながら電車の中でボロボロ泣いてしまいました(実際には整合性がよくわからない部分はあり、とりわけ最後にウルフカットの人物が現れるくだりは個人的にはやりすぎに思うのですが)。手記の最終盤、作者が台詞をキーで叩いているというよりは、人物の喉から声が迸っているように感じて、その強度は私もやろうと思ってできなかったことで、この人は色々アンバランスだけど、もう物語作者なんだな、とおもった。

 

murashit「できるかな」

人みな、さまざまな通信手段を介して、情報や感情をやりとりしています。情報や感情は複雑にエンコードされ、特定の誰か、あるいは不特定の誰かのもとに届けられています。届けずにはいられないからです。ですから、ひとけのない草むらにおもむくよりも、あなたの手元にあるスマートフォン、情報をやりとりするために作られた小さな機械(これも電気で動いています)をいじって、あの日あったことを誰かにぶつけてやればよいのです。みんなそうしています。あなたもそうしたのでしょうか。それともやっぱり、誰にも言えなかったのでしょうか。

 これは二人称小説ですが「夜になっても走りつづけろ」と大きく異なるのは、語り手の立っているシチュエーションが見えにくい点で、迂回的な噛んで含めるような語り口で、どうやら深夜に酔っぱらって帰り道についているらしい聞き手の状況を実況中継式に説明して作品世界を建て上げながら、しだいしだいにストーカー的というのか催眠的というのかナラティブセラピー的というのか、「あなた」と「わたし」の関係が見えてきて、そうか、そう終わるのか。というところで、終わる。

 ところが――最後まで読んだ方は、ここのあらすじ(いわばテクスト外)をよーく読んで下さい。エッと思うはず。そういえば冒頭に戻ると「はじめに」と書いてあった。「はじめに」とは何か。これはほんとうにメークビリーブなのか。だったらこのテクストはいったいどうやって出力されたのか。大いなる「???」の渦に巻き込まれることでしょう。ボルヘス的なようでいてそうでないような、正直一番「やられたな」と思ったフィニッシュだからとやかく言わずに「とにかく読んで」としか言いようがないのですが、こうなるともう「あとがき」が偶然?存在しないのさえ飢餓感を煽り立てられますね。

 

谷林守「彼女の身体はとても冷たい」

夏が近づいてくると、雨上がりの空気感が変わってくる。パーカーがじめっとする感触は不快だけど、雨上がりのにおいがアスファルトから立ち上がるときは、からっとした空がもうすぐやってくるという夏の予感が胸を満たしてくれる。そのにおいをかぐと、心がわくわくした。

 谷林さんは文書捏造能力(良い意味で)がほとんど辻原登的方向に進まんとされていますがこれは純粋に非SFで、学校ミステリ系です。たぶん、アンソロジーのテーマに対しては一番ストレートな、というか、手にした読者は事前にはおおよそこういう話を想像していたんじゃないしょうか(他が変化球だらけなので)。これは書いたら谷林さんに怒られるかもしれませんが、しかし他に書く機会がなくて私は良い話だと思うので紹介してしまいますが(なので先に謝罪したいと思います、申し訳ありません)、7~8年ぐらい前に谷林さん(その頃はまだおそらく谷林さんではなかった)が「小説に無関係な事象は世界に一つもない」(大意)とドストエフスキー直系的な発言をtwitterでしたら、どなたかが「じゃあ谷林さん(繰り返しますがその頃はまだ谷林さんではなかった)もいつかファッションを語れるようになるんですか」と絡んでいたのを目撃したのですが、私はこれは谷林さんが絶対正しいと思った。
 で、そういう、今を生きている人間(この作品でいえば地方から東京に引っ越してきた人物)が全身をセンサーにして全世界を感覚するという文章の「肌ざわり」(by尾辻克彦)が端々に現れていて、そのディティールの密度は同じく学校を舞台にした私とは比較にならないリッチさで、絶えず変化する人間関係の距離感、東京の昼と夜、賭けに用いられる食い物の個数とスイーツ系飲み物の数ヶ月差タッチの流行り廃り、プールの後の体感温度、吐瀉物の滲み広がりぐあい、幼い頃の記憶の仕方、などなど、いちいち(この人はここまで観察しているのか)と思わせられる。あと一つ挙げるとすると、本作では収録作中、ディスコミュニケーションが最も明確なかたちで露わになる。これはどちらかといえば「友愛」のほうに傾きがちだったこのアンソロジーの中では珍しく、だから「あの人は救われないままその後どうなったんだろう」というのが最も気になるわけですが、この「断絶」の身振りはやはりあえて取られたものと考えるべきでしょう(またモチーフとしてもちょうど織戸作の裏ヴァージョンのようなかたちになっており、「母親との関係がうまくいっていない」という私含め被りがちな設定を各人がどのように料理しているか、も比べどころ)。のみならず、アンソロジーを最初から順番に読んだ読者は、murashit→谷林守→千葉集と、作中のモチーフが不思議に奇跡的にミラクルにマジカルに連鎖してゆくことに気づくでしょう。これは純然たる偶然なのかそれとも多少なりとも執筆者が意識したかどうかはわかりませんが(原稿提出は参加者全員が見られるサーバー上で行われたので)、もしかすると多人数参加アンソロジー独自の面白味なのかもしれません。

 

千葉集「芋よりほかにふかすものもなし」

 食を通じて無知な大衆に知恵をさずけ、よりよき生を提案する。啓蒙かくあるべきと言わざるをえない。
「〝へえ~……あっ、でもビタミンCは熱に弱いんでしょ。焼き芋にしたらダメなんじゃないんですか?〟」
 あっ、痛いところだぞ。山岡さんもこれまでか……?
「〝それが違うんだな!〟」
 さっすが~~~。

 企画が動き出した頃に伊吹亜門『雨と短銃』が出て、千葉さんが〈あれからもう五年か……みなさんはどうですか。成長しましたか。本格ミステリ大賞は獲れましたか。〉といったので、〈少なくとも同人誌出したり特別賞もらったり連載したりしてるから漸進してるのでは〉〈😭〉というやりとりがあった。この前の『日本探偵小説全集リミックス』で千葉さんの「風博士vs.フェラーリ」が自主ボツになった時に、千葉さんも書き手としてそれなりに自己内ハードルが高くなってきているのかな、と勘ぐったりしたものでした。
 さて最終篇。アンソロジーのトリで総括的というか象徴的というか、ジャンル全体を俯瞰するようなメタジャンル的な話でオチをつけて読者の印象に残ってオイシイところを持って行く、というのはズルい人が使いがちな手で、私は『異色作家短篇集リミックス』『日本探偵小説全集リミックス』で二回ともトリでそういう反則技を使ってしまったので、今回はなるべく姿勢低くピースの一片になろうと思って、ではトリ役は誰かな、と思っていたら、千葉さんがそういう話を書いてくれたので、これを最後にしましょう、と提案したらそれが通ったのでした(「どこがメタジャンルやねん」と思われるかもしれませんが)。つまり織戸~谷林で本編が一周して千葉作でエピローグ的に終る、という感じになっているのですが、最初はもっと全然違う話で、学園ものとかアイドルものとか、話の根本から二転三転したはずですが、結果としては的の真ん中をハズシしているようでいてそうでないような、「よふかし百合とはいったい何だったのか」と読み手の心中をざわざわと搔き乱して即断を許さずいつまでも余韻の尾を引かせてまた新たな次の夜へと向かわしめるような、一番いいかたちになったのではないでしょうか。

***

 何千言かを費やして書いてきましたがちょうど書き終りつつある頃に上の評をお見かけして、ああそうか結局そういうことだったのか 、とその一言でようやく自分(たち)が何をやっていたのかが腑に落ちた。

 金井美恵子の第一エッセイ集『夜になっても遊びつづけろ』のタイトルの元となった堀川正美「経験」が最初に引かれている冒頭の一篇「若者たちは無言のノンを言う」は1967年11月に発表されたフーテン族に関するもので、本の全体としてはいわゆる68年ムーヴメントというかカウンターカルチャーの色が強い。それから半世紀以上経って当時の人もだいぶ死んだり生き残ったり成功したり失敗したりしたはずですが、私は十何年か前に京都の古本屋で文庫本(1050円)を買って、あと東京に出て来た時に単行本(315円)も買って、エッセイ・コレクション(2376円)が出た時にも買って、何度かパラパラめくってきたように思う。

なぜこれであれほどまでに焦げ付くのかがわからないんだけど、こういうのはもしかすると自転車に乗れる人が「自転車に乗れない人の感覚がわからない」というみたいなものなのかもしれない。

 2020年の春頃から自分でもよくわからない(本当はわかっている)実存的不安なのか夜泣き対応の後遺症なのか何なのか、22時ぐらいに子供と寝落ちして夜中の1~2時ぐらいに眼が覚めることが多くて、こんな生活してたら身体に悪いんだろうなあそのうち頭の血管破裂したり心臓発作起こしたりでもしたらヤダなと思いながら、企画が決まってからは起きる度に最近ようやく入手したPCに向かって、ああこんなんじゃ駄目だみんなが俺を笑ってるいや失笑さえ洩れない絶対零度だシチュエーションを逆手に取って読者全体をズンドコに突き落とすような小賢しい真似なんてできないし元々ない人望をさらに失うだけいやそれより一年待たせる方がひどい完成度より完成だ二番手になって勢いをつけるのが大事なんだ誰だってクソくだらないものの十や二十は書いてる駄作を発表する勇気!やっぱ没!妖異金瓶梅のオマージュなんかできないよ!山村正夫の忍者物ひでえな!もう昔のネタで凌ぐしかないのか!ラストはマシに書けたかもな!などと去り来たる思いをこう圧縮して書いてみるとヤバい人のようですが、別にそういうことではなくて、大体一か月ほど一夜一夜を呻吟して過ごしていくうちに春の夜明けはだんだんと早まっていったのですが、グロテスクで汚辱に塗れた世界の只中で、「日々の暮らしを豊かにしていく」(by織戸久貴)こととはいったい何なのか、ということを多少は実感できたように思います。もしかすると、ここまで読んできてくださった方にとっても、それが同じようであったら良いのですが。

 結果的に、いつものストレンジ・フィクションズメンバーから不参加となったのは犬飼ねこそぎさんだけでしたが、その代り(?)、カッパ・ツーを受賞したデビュー長篇『密室は御手の中』がついに完成して、7月28日に出るそうです。

www.hanmoto.com
 こちらもよろしくお願いします。

 ところで、レヴィ・ストロースの言う、思春期のインディアンが手に入れようとする守護霊、そのために試練の旅に出るところの守護霊に見合うものは、わたしたちにとってどのような形をもつのだろうか。わたしは文学少女だからさしあたって、守護霊は言霊だというくらいの破廉恥さは持ちあわせているが、他人のことは知らない。

 さてさて、いよいよこの原稿も終わりに近づいて来て実際嬉しさを隠しきれないところだ。今夜も、ジョージやサディやジミーや、ダダちゃんやキダくんは新宿のサテンでボンヤリしていることだろう。あるいはお芝居ごっこをしているかもしれない。とにかく、夜になっても遊びつづけろ! わたしは彼らの将来を心配する老婆心は起さないし、今年の夏彼らが社会に与えた衝撃を買い被りもしない。

ストレンジ・フィクションズ臨時増刊『夜になっても遊びつづけろ よふかし百合アンソロジー』に寄稿しました。

 織戸久貴さん完全プロデュースによるチャリティ同人誌『(ストレンジ・フィクションズ臨時増刊)夜になっても遊びつづけろ よふかし百合アンソロジー』がリリースされました。

 詳しくは以下を御覧ください。

note.com

note.com

 私は短篇「餃子の焼き方。」本文と挿絵を寄稿しました。

 よろしければよろしくお願いします。

 

 

「殊能将之」と『楚辞』

 以下に掲出するのは、第28回東京文学フリマで頒布した有料ペーパー「T B C N海賊版v o l.2 特集・殊能将之(その二)余滴」に載せた記事です。『立ち読み会会報誌』第二号の責了後に、

「そういえば〈殊能将之〉って〈特殊な才能で軍勢を率いる〉という意味だといわれているけど、ホントかな?」

 という疑問がフト浮かんで、それについてアレコレ読みながら書いたものです。なにしろ数時間の勢いで書いたものなので、もっとちゃんと『楚辞』の訳文を読み比べるなど色々した後でこのブログにも載せたいな、と思っていたのですが(特に、中国語および中国古典文学に詳しい方にしてみれば、ツッコミどころがあるはずなので)、特に進展しないまま二年が経ってしまいました。ある種のヨタ話というか、眉唾というお気持ちで、御覧いただければ幸いです(そして、耳寄り情報があったら、ぜひ教えてください!!)。

 

***

 

【『楚辞』について】
○第二号を責了したあとで、私はある一つの重大な点を見落としていることに気がついた。それは、「殊能将之」というペンネームの典拠とされる『楚辞』をまだ見ていないということだ。
殊能将之」の元ネタは『楚辞』だよ、ということは、いつ頃からいわれだしたのだろう。いま初出を確認する余裕がないが、『美濃牛』文庫版(2003)の池波志乃解説にはすでに〈『楚辞』から引いたと思われる筆名〉とあるから、たぶんそれ以前なのだろう。『黒い仏』文庫版(2004)の豊崎由美解説ではさらに踏み込んで、〈『楚辞』中の一編、屈原「天問」の〈殊能将レ之 (しゅのうもてこれをひきいたる(特殊な才能でこれ“軍勢”を率いる)という言の引用である〉とある(2019年5月5日現在、日本版ウィキペディアにも豊崎解説を根拠にそう書いてある)。
 ところが、『楚辞』の日本語訳をいくつか見てみると、この「殊能将之」という語句には、どうも異なる解釈が存在し、必ずしも「特殊な才能でこれ“軍勢”を率いる」という意味では定まっていないようなのだ。ここでは、そうした複数の解釈について記すことにする。
 そのために、まず『楚辞』と屈原について紹介しよう。
『楚辞』は中国南部の楚地方で作られた韻文17篇を集めたアンソロジーで、中心を成すのは屈原(前343-前278)によるものとされている。屈原は博覧強記の文人でかつ政治家でもあったが、ある時、対立する同僚の策略によって失脚し、楚を追い出されてしまう。滅亡しゆく祖国への愛と憤懣を元に作られたのが『楚辞』所収の諸編だが、さすがに大昔のことだけに、(ホントに屈原が書いたのか?)という見方も強くあって、後世の人々の手が入っているんではないかという点、ホメロスと似たような事情かもしれません(最期は汨羅江に身を投げて死んだ、その旧暦5月5日・端午の節句にチマキを作って食べる風習はもともと、屈原を鎮魂するための行事からだった――と書いていて気づいたが、今日はたまたま5月5日ではないか)。屈原による原文は残っておらず、後世に書かれたおびただしい註釈本を総合して、現在流布しているバージョンは成り立っている。
「天問」は『楚辞』の中でも、いっぷう変わった一篇。成立事情としては――祖国を追放され彷徨していた屈原がある時、楚の先王の廟にたどりついた。その建物には森羅万象の伝説を描いた図画があった。それ見た屈原の胸中から、古今の伝説に関する疑問が一挙に噴出し、それを壁に書きつけた……というもの。なので、全体は詩というか、190弱の疑問文、というよりも疑問文の形をした説明(屈原は別に「答え」を必要としているわけではない)の集積によって書かれている。思い切っていえば、「中国の伝説あるある」をテツandトモの「なんでだろう~」の形式で書いた、といえば想像しやすいかもしれない。
 該当箇所は第九段(この「段」という区切り方も便宜的なものなので、ものによっては第●行、などとも書かれています)。天地開闢への疑問(この世の始まりをいったい誰が語り伝え得たのか?)から始まって時間を前後しながら、だいたい周王朝(前1050頃‐前256年)の成立あたりまでたどりついた箇所。そこにこうある。

 

稷維元子 帝何竺之
投之於冰上 鳥何燠之
何馮弓挾矢 殊能將之
既驚帝切激 何逢長之

 

 まず、最初の「稷」=后稷について紹介しよう。
 后稷(こうしょく)は中国の古代神話に出てくる人物で、その十五代後の武王が周王朝を建てた(つまり実在が疑わしい人物だが、いちおう武王の系図をたどれば后稷に行き着く、とされている)。后稷には出生の時から奇怪なエピソードがまつわりついていた。帝・嚳(こく)の妃であった母・姜嫄がある時、巨人の足跡を踏んで妊娠した。怪しく思い、生まれた赤子を何度か捨ててようとするのだが、そのたびに動物たちが彼を守ったので、赤子を育てることにした。すると彼は、幼少期から不思議と植物を育てることが得意で、長じて帝・舜に仕えて農師を務めたことから、のちに「農業神」として称えられることになった――すなわち后稷=農事に強い人、というパブリックイメージが、「天問」のこの部分の前提としてある。だから、「稷維元子 帝何竺之 投之於冰上 鳥何燠之」とは、「稷は元子、帝何ぞ之を竺(毒)する。之を氷上に投ずれば、鳥何ぞ之を燠(あたため)る」で、「稷は帝の子なのに、帝が彼を憎んだのなんでだろう~? 稷を氷の上に投げ捨てたら、鳥が彼を温めたのなんでだろう~?」という意味であり、ここには解釈の余地は少ない。
 ところが、次が問題になる。というのは、后稷といえば農事、というパブリックイメージであるにもかかわらず、テクストはなぜか弓矢すなわち武芸の才能の話題に移るからだ。「殊能将之」の語句に関していえば、
  ①「殊能」とは何か?
  ②「之」とは何か?
  ③これは誰について述べているのか?
 について、解釈が分かれることになる。『楚辞』に関する最も早く基礎的な註釈者・王逸(2世紀前半頃)は「殊能」の持ち主は后稷という見方。後世の有力な註釈者・洪興祖(12世紀前半頃)は武王(后稷の子孫で周王朝の建国者)という見方だという。
 私は中国語はよくわからないので、『楚辞』の邦訳を何バージョンか見ただけだが、日本語訳の場合は現在、だいたい武王説が多いようだ。すなわち、このブロックだけを見ると「武王」という名は出てこないので、「なんで后稷の話からいきなり武王の話になるの?」とも思うが、この「天問」ではそれまでの流れで武王の話をしているので、話題が后稷から急に弓矢の才能の持ち主=武王に移行しても無理がない、という見方。星川清孝訳(明治書院、1970)によれば、「何馮弓挾矢 殊能將之 既驚帝切激 何逢長之」とは、「どうして弓をひきしぼり、矢をたばさんで、周の武王はすぐれた才能を以て衆をひきいたのであろうか。すでに帝紂を驚かすことがはげしかったのに、どうして子孫長く王位に居るという幸運に逢ったのであろうか」という、周王朝の建国にまつわる解釈になる。つまり、
  ①殊能=武芸
  ②之=衆(軍勢)
  ③才能の持ち主=武王
 という見方だ(先の豊崎解説もこうした説によるものだろう)。
 一方、橋本循の訳注(岩波文庫、1935)では后稷説を採っている。

 

后稷は長じて後、堯に事(つか)へて司馬たりしことあり。(司馬は兵馬を統率する役なり。)其時稷は弓を引くに満を持し矢を挟み、衆に秀でたる絶藝あり、以て衆を率いたるが、如何なれば、かゝる殊能を有せしや。其の生るるや帝嚳の驚き憎むこと激切にして、之を陋巷に、平林に、氷上に棄てたるに如何なれば子孫長く国を享くるに至りしや。

 

 しかし、武王と「弓矢」とはすんなり結びつくが、后稷がスゴイ武芸の持ち主だったという話はいまいちピンとこない(后稷伝説について言及のある『史記』や『詩経』にもそんなエピソードはない)。橋本は后稷と武芸の結びつきについて、劉永濟の註釈書『天問通箋』を根拠にこう説明する。

 

此章は后稷が司馬たりし時のことを言ふなり。古経籍には后稷が農官たりしことを言へども其の弓矢を将ゆるを言ふ者なし。たゞ詩疏に尚書刑徳放を引いて稷の司馬たりしことを云ひ、「詩の魯頌閟宮篇」の鄭箋にも后稷の司馬たりしことを云ふ。按ずるに屈原は多く古史異説に本づき儒書と異る所あり。

 

 すなわち、后稷がスゴイ武芸の持ち主だったという根拠はないが、司馬=兵馬を統率する役職にいたことがあるというエピソードはいくつかの文献にある。たぶん屈原はこうした異説に基づいて、后稷と武芸の関係について書いたのだろう……云々。これだと以下になる。
  ①殊能=武芸
  ②之=衆
  ③才能の持ち主=后稷
 ところが、中国の古詩とその解釈を掲載したサイト「古詩文網」の「天問」およびその日本語訳を掲載しているブログ「プロメテウス」の記事「屈原の天問を読もう!この疑問が解ればあなたも中国神話上級者!!」を見て私は驚いた。そこでは次のように解釈されている。

 

 为何长大仗弓持箭,善治农业怀有奇能?(「古詩文網」)
(后稷は)なぜ弓矢と共に育ったのに、農業を善く行い特別な才能を持ったのか?(「プロメテウス」)

 

 くりかえしになるが私は中国語がわからないので、「古詩文網」のこの部分の注釈部分にある、

 

何冯弓挟矢:冯,通“秉”,持。将,资。闻一多说:“言天何以秉弓挟矢之殊能资后稷也。传说盖为后稷初生,有殊异之质,能秉弓挟矢,其事神异,故举而问之。”

 

 がどういうニュアンスなのか、またどういう根拠に基づいた解釈なのか理解できないのが残念だが(そこで五冊くらい挙げられている注釈書をキチッと読み込めばわかるのかもしれませんが……)、さしあたり上記の見方によれば、
  ①殊能=農事その他
  ②之=衆
  ③才能の持ち主=后稷
 で、原文の配列における「后稷=農官、農業神」と「武芸の才能」という対立するイメージの矛盾を含みこんで、「后稷が武芸と農事どっちも得意だったのなんでだろう~?」という疑問を屈原は書いたんだ、という説にならないだろうか?
 さて、『楚辞』に関する長い紹介だったが、ようやく今回の言いたいことに辿り着いた。
 私は以上の解釈のうち、どれが有力なのかも判断できないし、またセンセーがペンネームをつけるにあたりどの訳本を御覧になったのかも知らないが、面白いのは最後のものだと思う。すなわち――

 

(何馮弓挾矢)殊能将之?=(なぜ弓矢と共に育ったのに、)農業を善く行い特別な才能を持ったのか?

 

 という疑問文を思いっ切り意訳すれば、このペンネームは、

 

(なぜSF研出身なのに)本格ミステリを書いてデビューしたのか?

 

 という自嘲が込められている、とパラフレーズできなくもないだろうからだ。そして、あれほどエドガー・アラン・ポーと誕生日が同じ1月19日であることを公言していたセンセーのことであるから、クリストファー・プリースト『奇術師』への感想で

 

わたしは本格ミステリとSFという「似たものどうし」に思いをめぐらせた。このふたつのジャンルは、ともにエドガー・アラン・ポーを直接の起源としており、双子の兄弟といってもよい。(「memo」2004年4月後半)

 

 と書かれていたことも考え併せると、そうした「問い」に対する「答え」がありうるとすれば、その二つは通底しているからだ、ということになるのではないかと思う。
 なにぶん門外漢の浅知恵なので、詳しい方からすれば、それは無理筋でしょ、と言われるかもしれないですが、しかし、一門外漢としては、〈それこそ「サンプリング」の精神だと啖呵を切〉りたい気持もないではない。

 

(以下は慶長年間発行の『歴代君臣図像』国会図書館デジタルコレクションより。上図が后稷、下図が武王。「殊能」の持ち主は一体、どっちだ!)

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「宇宙人問題(ミステリの推理が常識外の可能性を無視する問題)」にかんする雑感

本を読まない弟に「殺人事件で全部宇宙人の仕業でした、みたいな可能性を無視できるのは何で?」と言われた - Togetter

 話題になっていたので、読んでみた。が、まとめられていない呟きも多くあり(直接言及しない人も多かった)、そちらの方に面白いコメントが色々あった。以下は、それを読んでの雑感。

 いわゆる「宇宙人問題」みたいなことは、ミステリを読み始めたぐらいの頃なら、結構な数の人が考えたことがあるのではないか(私も高校生くらいの頃によく考えた)。これは確かに難問。が、今ではそのギモンを展開してゆくうえで、いくつかの取っ掛かりがあるので、それを書いてみる。

 

1.常識(「可能性の無視」は「常識」が決める)

 まず、逆に「なぜ(ミステリに馴染み始めた頃の私のような読者は))『宇宙人問題』のような疑問を持つのか?」という問いの立て方をしてみたい。

 思うにそれは、フィクションが、いわゆる「現実」よりも自由度が高いように感じられることへの、慄きのような感覚から生じるのではないか? つまり、「なぜAであってBではありえなかったのか?」「なぜBでありうる(ありえた)にもかかわらず、Aは平然とBを無視してAでいられるのか?」という、作品内現実の在り方に対する、無根拠さへのおそれ、疑い。

 この疑問への応答としてよく持ち出されるのは、「オッカムの剃刀」のような考え方ではないか(あるいは、実際の司法でいうなら、「合理的な疑い」のような考え方がある)。しかしそれにしても、推論を進める上での経済的な判断の立場であって、確かに、「それ以外の可能性」を完全には否定していない。とはいえ仮に、もし自分が現実に事件(刑事事件)に巻き込まれたとしたら、極端な可能性を合理的に絞り込む「常識」の観点から、たとえば世界五分前仮説のような考えは否定されるし、司法では通用しないだろう。

 こうした「常識」は、問題解決というある目的のために「絶対的ではないが、その方が合理的である」というような判断が社会的に積み重ねられ、また個人の内にも生成してゆく感覚をさす。個人と集団との間で「ジャンルらしさ(そのジャンルに固有の感触)」を決めるものとして共有される感覚でもある。だから、「常識」が共有されていない段階では、「これ、なんで???」ということになる。まったく自由な観点からすれば、「常識」とは一面、不自由で不自然きわまりないものだから。しかし一方で、「常識」の側からすれば、「完全な自由」とは、「なんでもありうるがゆえに、(未だ)なんでもない」というフニャフニャ状態に見える。たぶん、ミステリの書き手(の話には、ここまで風呂敷を広げると、限らなくなってきますが)にとっては、「絶対的ではないが、その方が美しい」「その方が面白い」という「可能性の切り捨て」を積み重ねて具体化しゆく際の拠り所となる感覚が、「常識」なので、いきなり「なんでAはBじゃないの?」と訊かれると、(ウーム……)と、それを説明しようとする理路の、案外なヤヤッコシサに、驚きたじろぎ、一瞬考え込む、ということも、あるのじゃないかしらん? そして実際、「そういうもの」という実感がまったくない相手に、「そういうもの」として腑に落とさせる、ということは、これは相当な難題なのだ。

 

2.メタゲーム(「可能性の無視」を支える「常識」は変わりうる)

 1.の「常識」はいわばミステリに限らず「ジャンルのジャンルらしさ」の規定に関わるものだが、ここでは次いでミステリの「ゲーム」性について述べる。

 仮に、ミステリを、推理を核としたゲーム性を持つジャンルのことだとする。この「ゲーム性」には二つの次元がある。一つは、作品内現実として語られるそれ(いわば探偵対犯人)であり、もう一つは、作品自体をかたちづくる「語り」としてのそれ(いわば読者対作者)だ。この二つの次元の間には、微妙な空隙がある。

 推理ゲームにおいて「極端な可能性」が否定できない(だから疑問が生じる)のは、推理の前提が「ゲームのルール」として明文化されていないからではないか? だから作者がいちいち出てきて「ルール」を保証すれば、障害はクリアできる……かに見える。

 たとえばミステリを将棋のようなゲームだとすれば、ルールとは「そういうもの」なので、いちいち「なぜ香車はこのように動くのか?」などと疑問を持っていては遊戯できない。ルールがどうしても腑に落ちないならばゲームをやめるか、別のゲームをするか、別のゲームを発明すればよい(そしてミステリは将棋ではない)。

 ミステリは明文化されたルールによって完全に縛られたゲームではないが(「ナントカの十戒」などはしょせん「自粛要請」のようなものだ)、「暗黙の了解」のような擬似ルール的な感覚の拠り所となる「常識」は(「探偵対犯人」の次元においても、「読者対作者」の次元においても)、ある。

 そしてさらに、ミステリの各作品は創作物である以上、そのジャンルの「常識」を書き換えるメタゲームの側面をも含み込んでいる。

 上述の「常識」は時代や場所などの環境によって(作品の内でも外でも)、変わりうる。たとえば地球の現代社会が舞台なら、我々が普段見慣れたルールが「暗黙の了解」かもしれないが、ジャック・ヴァンス『宇宙探偵マグナ・リドルフ』のような宇宙社会なら、容疑者は最初から宇宙人。あるいは『星を継ぐもの』のようなバランスの場合もある。

 私は一読者として、「フェアプレイ」に重きを置いていると思うが、その拠り所となる感覚も、ある程度は環境に依存している。たとえば「特殊設定」ものなら、ルールを適度に明文化した上で読者の盲点を突きルールをハックするような成り行きであれば、宇宙人だろうと幽霊だろうと「フェア」に感じると思うし、あるいは先鋭的な作品を読んで(ウームこれは……)と首を傾げながら、何年か経った後に読み返してその意外に緻密な組み立てぶりに、納得させられた、「常識」を書き換えられた(あるいは何年か経つうちに自分も周囲も変わっていた)、ということもある。

 

3.応答(「可能性の無視」を支える「常識」を変えるメタゲームは、「可能性の無視」への批判に応答して行なわれる)

 2.で創作物としてのメタゲーム性ということを書いた。もし創作されたミステリがゲームであるとすれば、そこには「勝ち負けをつける」とか、「先行作の課題を乗り越える」というような、何らかの目的があるのではないか。

 あらゆる小説が何らかの意味で、方法で、語られたものだとするなら、やはりその「語り」には、何らかの目的があるのではないか? 何の目的もない「語り」が小説として差し出されることがあるのか? あっても良いが、自分が小説としてそこに何らかの価値を見出すとしたら、やはり何らかの判断基準が必要になるだろうとおもう。

 小説の「語り」に何らかの目的があるとするならば、そこには巧拙(のようなもの)があり、「語りの経済性」を重視しないならしないなりの、別種の具体的な感覚があってくれないと困るのではないか。少なくとも「現実そのもの」と創作された「作品」には、それぐらいの違いはあるのではないか?

 「極端な可能性を否定できない」という批判を「常識」が完全には克服できないとする。正直にいえば、こうした身も蓋もない現実暴露には、私は折に触れ立ち返る必要があると思う。というのは「このルールはなんかヤダ」という身も蓋もない違和感に叱られるということがなければ、おそらくは、ゲームをやめることも、別のゲームを発明することもできず、最悪の場合はダラダラとした惰性が続くということも考えられる。

 しかし逆に、身も蓋もない批判の方も、「そういうものだから」という「常識」の息の根を止めるまでには至っていないのではないか? 作家の方はそうした批判を克服できないなりに織り込んで、あの手この手で書いてきたのではないか?

 つまり「宇宙人問題」は、批判内容(WHAT)としては良いが、批判方法(HOW)としては、そのままでは凡庸すぎて弱いのではないか? 少なくとも、今『陸橋殺人事件』のような作品が書かれたとして、私は心動かされないと思う。せめて『虚無への供物』ぐらいには手が込んだ批評でないと困るような気がする。

 先に「AがAであるのはそういうものだから」という判断を支えるのは、「その方が美しいから……」「その方が面白いから……」として可能性を切り捨ててゆく「常識」の感覚、ということを書いたが、とうぜん個人の内には、「美しくない方が良い」「面白くない方が良い」という判断もありうる。しかしその判断も、表現された途端に「その方がリアルだから……」「その方が高度に戦略的だから……」「美しくない方が美しいから……」というような理路となって、ジャッジされうるのではないか。

 

 

 ……というようなことを、昨日つぶやいたので、まとめてみたのですが、しかし読み返してみると、これらは1.2.3.とも、どういうジャンルにおいてもあてはまるようなことであり、特にミステリに限ったことではないかもしれない。私の文章に抽象的で地に足のつかないフワフワしたところがあるとすれば、それはミステリに特有の、というか、話の本丸のはずの、「推理」にまったく踏み込んでおらず、その外面をグルグルめぐって終始していることからくるのかもしれない。つまり、ジャンル論と推理論を混同して書いてしまったのかもしれない(冒頭のtogetterでジャンル論の話が多かったので、それに引きずられたのだろうか)。

 話の本丸の「推理」の方は、もっと色々参照して学びたいと思っています。

 以上です。