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襤褸は着ててもロックンロール

探求型小説についてのメモ

はじめに

 以下はmurashitさんの次の記事に触発されて書くものです。  

murashit.hateblo.jp

 そういえば私もこのへんのハナシが好きだったはずだけど、最近読んでなかったな、と思って、じゃあ自分の好みをまとめておこうかな、という気持になったのです。
 タイトルに挙げた「探求型小説」というのは仮につけたものです。この手の作品はけっこう多いので、たぶんもっと適当なネーミングをしている人がすでにいるはずですが、私は以下、この名称のもとにいくつかのジャンルに当てはまる特徴をまとめてみたいと考えています。
 近いことはこれまで、「歴史ミステリ」についてだとか「メタフィクション」についてだとかの中で、書いてきました。今回書くのは、それらの考え方を敷衍したものです。

探求型小説の特徴

 私が「探求型小説」と呼ぶ型の特徴は、次の三つです。

①主人公がある対象(謎、事件、人物など)について調査探究する過程自体が小説になっている

②対象について調査すべき時間的範囲は、過去に属すことが多い
③そしてその対象はふつう、派手な刑事事件などでないことが多い(作中現在で起こる殺人事件の謎を調べるとなるとそれは通常のミステリなので)

 これだけ。murashitさんは「三つの段階」(最初の疑問/自分探し/謎の放棄)を挙げていますが、その三段階すべてを満たすとすると、ジャンルというより小説作法の話になるでしょう(つまり好みの問題)。私が試みるのは、まず「探求型小説」(上記の特徴を持つ作品)という網を大きく作って、そこに引っかかるものを、「三段階」という小説作法=好みにどの程度あてはまるのか、あてはまらないのか、見ていくということになるでしょう。

探求型小説の核心

 いきなり「探求型小説」の核心、というか、「歴史ミステリ」や「メタフィクション」と共有する小説原理について述べます。こここそが、私が最も興味関心を抱いている点であり、まずそれを述べておくことで、見晴らしがよくなるだろうからです。
「俺はANATAだ」でも述べたように、その核心とは境界侵犯です。小説の冒頭では、「主人公」と「対象」とは、独立して存在している(と見做されている)。つまり、安全な距離を保っている。それが、ある場面で、「対象」が領域を破って、「主人公」の領域に侵入してくる。
 三島由紀夫が「小説とは何か」で、柳田國男『遠野物語』第22節の「(亡霊が出現して)裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり」という描写をとりあげ、「物語は、このとき第二段階に入る。亡霊の出現の段階では、現実と超現実は併存している。しかし炭取の回転によって、超現実が現実を犯し、幻覚と考える可能性は根絶され、ここに認識世界は逆転して、幽霊のほうが『現実』になってしまったからである。(……)私が『小説』と呼ぶのはこのようなものである」と述べたように、私が「境界侵犯とは何か」の例として挙げるのは、ポー「アッシャー家の崩壊」終盤の場面です。
 激しい烈風の吹きつける夜、語り手の「わたくし」がラーンスロット卿著『狂える会合』という本をアッシャー(兄)に読み聞かせていると、本の内容に合わせたかのうように、鋭い悲鳴や何かの軋る音が部屋の外から聞こえてくる。アッシャー(兄)はそれを聞いて怯え、病気の妹が死んだと思って埋葬したのは間違いだった、妹は本当は生きていた、彼女が甦って棺を開けてやってきているのだ、と喚く。そして兄は、

「気違いめ! 彼女はいまその扉の外に立っているのだぞ」
 彼の言葉の超人間的な力にまるで呪文の力でもひそんでいたかのように――彼の差したその大きい古風な扉の鏡板は、たちまち、その重々しい黒檀の口をゆっくりうしろの方へと開いた。それは吹きこむ疾風の仕業だった、――がそのとき扉のそとにはまさしく、背の高い、屍衣を着た、アッシャー家のマデリン嬢の姿が立っていたのである。(佐々木直次郎訳)

 この場面では、扉が開くまで、蘇生した「妹」の存在は物語内容の次元(つまり、兄のセリフの次元)に留まっている。それが、実際に姿を見せ、兄に襲いかかるとき、蘇生した「妹」は物語内容の次元を破って、物語行為の次元に飛び出してくるような怖さを持つ(話の内から外に出てきて物理的影響力を持つ)。これは境界侵犯の方法をホラーに応用した場合ですが(前にも挙げたようにこれで有名なのはサキの「開いた窓」や鈴木光司の『リング』などがあります)、同様のことは、「探求型小説」についても言えます。つまりこの角度から見た場合の焦点は、このターニングポイントがどこにあるか(あるいは無いのか)ということになってくるでしょう。

探求型小説における境界

 歴史ミステリが「作中現実(主人公のいる次元)の舞台となる時間(過去・現代)」×「対象の舞台となる時間(過去・現代)」×「謎の実在性(架空・実在)」で八パターンに主に分けられたように、「探求型小説」についても、パターンを分かついくつかの境界要素を考えてみましょう。

  •  テクストのジャンル(小説/非小説)
  •  人称(一人称/三人称)
  •  作中現実(主人公のいる次元)の舞台となる時間(過去/現在)
  •  対象の舞台となる時間(過去/現在)
  •  対象の実在性(虚構/実在)
  •  結末における対象の扱い(解決/放棄)

 もっと細かくすることもできると思いますが、今はだいたいこのくらいにしておきましょう。
 先に「境界侵犯」と書きましたが、では何が何に対して侵犯するのか。さしあたり、この「/」で遮られた二つの領域だと思ってください。「過去」が「現在」に、ということもあれば(語り手のアイデンティティへの侵犯)、「虚構」が「現実」に(現実性の侵犯)、「随筆」や「伝記」が「小説」に(ジャンル上の侵犯)、ということなどがあります。

 続いて、「探求型小説」でよく採用される小説ジャンルを見ていきましょう。

考証随筆/私小説歴史小説

 これはまず、主人公が小説家である場合が多い。作者自身を思わせる語り手の一人称で、その最も完成されたパターンとしては、小説を書こうとして調査をする過程そのものが小説になる、というものになります。この方法に早くからわりあい自覚的に日本で書かれたのは、やはり谷崎潤一郎吉野葛(1931)でしょうか。後南朝に関する歴史小説を書こうと思い、取材旅行をするものの、案内人の母恋の話のほうに気をとられ、そちらが着地したところで、「私の計画した歴史小説は、やや材料負けの形でとうとう書けずにしまった」として、終わる。額面通り「失敗作」として読むと、「なんでこんなん読まされなあかんねん」と思うかもしれませんが、考え方を変えて「探求型小説」として読めば、これほど面白いものはない。サブテクストとして、花田清輝の短篇「『吉野葛』注」(1970/『室町小説集』所収)も併せて読むとさらに面白い。谷崎はなんでわざわざ「失敗作」を書いたのか? それは執筆当時、「南北朝正閠問題」がタブーだったからだ……。

 というふうに、このパターンは一見、小説っぽくなくて、「随筆風小説」ともいわれる。読み方の勘所がわからないと、けっこうツライんですよね。でも、ハマるとかなり影響を受けてしまう。江戸川乱歩にもあります。「もくづ塚」(1936)。「今の人はもくづ塚なんて知らないだろうが、私が知ったのは……」という導入から始まって、本をあれこれ引っ張り出してき、ようやく見すぼらしい塚にたどり着くその筆法は、執筆時の意識としては随筆だったかもしれませんが、今の眼で見るともう完全にボルヘス風のそれそのもの(逆か?)。

「探求型」からはやや外れるかもしれませんが、歴史小説取材型の安部公房榎本武揚(1965)、江戸時代の俳人の話題に冒頭割かれる中村真一郎『雲のゆき来』(1966)なども面白い書き方をしています。短篇では井上靖「ある偽作家の生涯」(1951)、松本清張「或る『小倉日記』伝」(1952)、黒井千次たまらん坂(1988)などを含めてもいいでしょう。
 もちろん、後藤明生『挟み撃ち』(1973)も外せない。というかおそらく、現在もっともこのパターンで読まれ(実際には随筆とも私小説とも歴史小説ともいいにくいのですが)、直接的影響を与えた読者を多く持つのは、『挟み撃ち』でしょう(私もその一人です)。ある一日、20年以上前に無くした外套を求めて男がさまよい、結局、発見できずに終わる。後藤はこの手のタイプをいくつか書いていますが、『挟み撃ち』はのちの作風とはどうも受ける感覚の質に差があって、それはやっぱり探求の「対象」が元々、語り手と関係が深いからかもしれません。「針目城」(1979)以降の『吉野大夫』(1981)、首塚の上のアドバルーン(1989)、『しんとく問答』(1995)なんかは、「対象」が歴史的事象なので、もっとハードルが高い感じがする。つまり、『挟み撃ち』のほうがエモい。後藤というとよく小島信夫古井由吉と比べられますが、同じように「(メタ)私小説を書いた」といっても、小島・古井は、あまり探求型ではない。小島も「プロセスがそのまま小説になる」ものを書いてますが、後藤よりも疑問=「?」の牽引力が弱い。流れに身を任せる感じ。そこに後藤と小島の違いがあって、ある場面で小島は後藤について、「ある時期から、ある書き方(インタビュー型)にしてしまった」と、批判的に言及してます。このあたりに、小説作法上の両者の好みを読み取ることができるでしょう。

 丸谷才一「横しぐれ」(1974)は、小説家ではない「私」(国文学の大学助教授)が、自分の父がかつて種田山頭火に逢っていたのではないか、という疑問を探索しているうちに、別の謎にぶつかる話。この、終盤の切り込み方。うまいですね。「探求型小説」の理想といってもいい。のちの「樹影譚」(1987)は随筆風にはじまって途中から短篇小説が始まる。でもやっぱり、ある意味では「探求型」なんですね。
「横しぐれ」について「日本語を、あるいは日本の文芸史そのものをミステリーの題材にする、こんな手法があったのか、と小説というジャンルの奥深さに陶然となったものだ。自分もいつか、と闘志をかきたてた」と評した辻原登も、この手のものをいくつか書いてます。「日本の文芸史そのものをミステリーの題材にする」という意気込みで書かれたのは、おそらく「黒髪」(1996)。実際の殺人事件を題材にして始まりながら、なぜか途中で「黒髪」というモチーフをテーマにした日本文学に関する長い長い講義録が挟まる。何とも異常な読後感。最後に思わず「私は事実だ」と呟きたくなる。小泉八雲の話から始まる片瀬江ノ島(1992)、和歌山の心中事件を扱う「マノンの肉体」(1994)と「谷間」(同)、冒頭と末尾で作者が物語を包み込む「枯葉の中の青い炎」(2004)、一人称作家ものの「夏の帽子」(2011)、「天気」(同)、「いかなる因果にて」(2017)。辻原登で「私」が出てくる小説はみんな好きです。特に『闇の奥』(2010)! 自分が今まで読んできた中で最愛の小説。
「文芸史そのものをミステリーの題材にする」というのはいわば、資料考証型です。そのあたりを北村薫はデビュー時から作中に組み込んできましたが、近作ではフィクションの中にその手法を大々的に取り入れると『中野のお父さん』シリーズ、「私」を出すと『雪月花 謎解き私小説(2020)などとして書き分けているのかもしれませんが、「探求型」として珍しいのは、たぶん徒労感がうすいから。「私」がしっかりしていて、アイデンティティが揺さぶられる、ということはないんですね。どちらかと言うと『盤上の敵』(1999)などの普通のフィクションのほうが主人公は揺さぶられる。

読書日誌/文芸評論

  最初に、境界侵犯というターニングポイントに着目する、と書きました。なぜ着目するかというと、一般的に、作中でそれがもっともドラマティックな効果を持つ部分だからです。それがなくて、普通に調べるだけのテクスト(調査内容と、それを調査し執筆する過程や日常のあれこれやが一緒に盛り込まれたテクスト)もたくさんあります。「〇〇制作日誌」とか「○○読書ノート」「○○を読む」みたいな感じ。たぶんこの分野で最も長大なテクストを書いた小島信夫は、ふつう評論と呼ばれる『私の作家遍歴』(1980〜81)を「小説」と呼び、のちに同様の試みがとられた保坂和志「小説論」三部作(2005〜2008)や坪内祐三『「別れる理由」が気になって』(2005)をも小島は「小説」と呼んだわけですが、それらを「小説」と呼ぶその呼び方には、いわゆる「小説」的な作法に対する批判(私のいうターニングポイントがドラマティックに作り込まれたフィクションに対する批判)も含まれている。だから、わざと着地しない、あるいは、偶然を呼び込むのを待つという「誘い受け」みたいな書き方をする。私自身は上に挙げた小島・保坂・坪内のテクストは好んで読んできましたが、こういう書き方は見方を変えればイージーでもある。つまり、年齢がいって集中力がなくなって、読書ノートだかノンフィクションだかわからないものをズルズルダラダラ書こうと思えば書けてしまう、という部分もなくはない(そして私は実はそういうのも嫌いではない)。草森紳一荷風永代橋(2004)や岡井隆『木下杢太郎を読む日』(2013)なんかにはそういう気配がなくはない。

「探求」をあえてやらないのか、それともできないのか。つまり、「謎とその解決」との距離の取り方、という意味では、のちに述べるアンチミステリとも関わりますが、きちっと考えないでフォロワーが真似しようとすると、ヤケドしがちな書き方です。小島の「小説」という言い方には、おそらく後藤の「小説=超ジャンル」(小説は後発のジャンルゆえに先行ジャンルを自在に取り込むことができる)と共有するものがある(『小説は何処から来たか』1995)。あるいは、古井由吉の「エッセイズム」(『ロベルト・ムージル』『私のエッセイズム』)、赤瀬川原平尾辻克彦の「超私小説」(『超私小説の冒険』)などとも。彼らの作風が従来の私小説と異なって感じられるのはおそらくそのあたりに由来があるのではないか。そしてそれは、小説家だとは見なされていない草森紳一の「雑文」(小説だって雑文だ、という考え方)にも通じると思うのです(『旅ぎらい』1982)。ただ、「小説は何でもあり」だからこそ、最初から「何でもあり」な作風を目指すと、途端につまらないものになってしまう。そこにはあるていど文の芸としての腕だとか、無限定な自由を制約するエンターテインメントの形式が要請されて、のちに触れるポストモダン文学においてミステリがよく採用されたのも、そうした利便性があっただろうと思います。

評伝

 随筆や評論に重なるものとして、評伝型があります。その特徴は、対象を調べる目的が、「評伝を書く」と決まっていることです。ナボコフ『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』(1941)が代表的ですが、ナボコフはその前に、芸術家小説(実在の作家の伝記を書こうとする芸術家の小説)の『賜物』(1937)も書いてますが、「探求」性はやっぱり、『セバスチャン・ナイト』の方が高いでしょう。
 もちろん伝記小説、芸術家小説、何かを書こうとして書けない(あるいは最終的に書くことに辿り着いてループをなす)小説は、それまでにも色々あった。海外ならリルケ『マルテの手記』(1910)、ジョイス『若き芸術家の肖像』(1916)、ジッド『贋金つかい』(1925)、プルースト失われた時を求めて』(1913-1927)……日本なら岩野泡鳴「耽溺」(1909)、菊池寛「無名作家の日記」(1918)……でも『セバスチャン・ナイト』は、何かが明確に違う。いわゆる「ポストモダン文学」っぽい(ナントカの不可能性、みたいな)感じがする。

ポストモダン文学」は後回しにして、評伝型について続けると。「歴史ミステリ」についてでも述べたように、ミステリと評伝形式とは、もともと深い関係があった。そもそも、この2000年間くらいの物語形式を考えると、何の説明もなしに「小説=フィクション」とスッと受け入れられる作者―読者関係のほうが新しい。ジャンルとそれを伝えるメディアの発達とは深い関係がある。むしろ、作者の側が「これは本当にあった話なんです」と言わないと読者に関心をもってもらえない時代さえあったのだし、そうした物語内容/物語行為、作者/読者、の距離操作の感覚は、たとえば『今昔物語』の「今は昔……」といった物語の外と内をつなぐ経路、もしそれが現代作品ならば「いちいちそんなこと言わなくていい、早く本題に入ってくれよ、かったるいなあ……」といった記述に残っていて、指標として感じとることができます。ポー「モルグ街の殺人」(1841)の冒頭。ドイル『緋色の研究』(1887)の第一部から第二部へのブリッジ部分。今なら不必要にさえ見える、こういう部分が、実は、現代的な読者の感性を育むロケットブースター的(やがて捨てられる)役割を担っていた。ウィキペディアSNSもないから作者の素性がわからない、文庫本のあらすじ紹介もネット書店の商品説明もないから内容がわからない、そんな時代には必要とされただろう物語の内と外をつなぐ蝶番、やがてはテクストの周辺として本文の外へ追放される、現代のわれわれにしてみれば時に思わず「これはまるでメタフィクションのような前衛的な書法ではないか」と倒錯的に受け取れてしまいかねない、そうした部分の来歴や限界や可能性を探ってみることも、また何かの参考になるのではないでしょうか。

 19世紀の作家たちは、今より不分明なかたちで、こうした技法を開発していたと見ると、「かったるい」部分にこそ興味が湧いてきます。たとえばネルヴァル『火の娘たち』に入っている新聞連載小説「アンジェリック」(1850)はどうでしょう。まるで後藤明生歴史小説みたいではありませんか。あるいはウンベルト・エーコ殊能将之絶賛の「シルヴィ」(1853)。これはもう幻想小説そのもの。でも、これらは現代小説とは導入や処理の仕方が違う。その違いは何か――現代作家は、たぶん、そういう違いを考えてあの手この手を開発してきたし、そうやって変遷する技法に読者も慣らされてきたと思うんですね。

 時代も技術も飛ばして、評伝型に戻ると。このタイプの書き方として、「対象」に託して自分を隠す、という技法があります。「横しぐれ」がまさにそうですが、あれは小説。たとえば山本夏彦『無想庵物語』(1989)は、武林無想庵という実在の小説家の評伝、と巷間受け取られています。芥川龍之介谷崎潤一郎を凌ぐ学識を持ちながらも、文学史の狭間に埋もれてしまったマイナー作家の評伝。作者はかつて幼い頃、フランスで無想庵と一緒に暮らしていた。だから、評伝を書く資格がある。しかし、本文にはところどころ、作者=山本夏彦自身について見過ごせない記述もある。たとえば作者は、武林無想庵と親しく付き合っていた若い時分、二度、自殺未遂をした、と書いてある。ところが、自殺未遂という作者自身にとって大事件であるはずの記述は、「これは武林無想庵の伝記だから、それを書いている作者の内面には立ち入らない」ということで、深く入り込まないんですね。いわば対象に深くコミットしているからこその「評伝=自伝」関係を逆手にとった「見せ消ち」の技法で、そこに読者は「こんなことを書く作者はいったいどういう人なんだ?」とモンモンとさせられてしまう。コワイくらいニヒルな文体です。

 あるいは、村松友視『鎌倉のおばさん』(1997)。祖父で文学者の村松梢風が放蕩三昧の人物だったことから、作者はチョット複雑な家庭に育った。とうとう亡くなったあの「おばさん」はいったいどういう人物だったのか――そこから自らのアイデンティティに絡まる探求が始まる。これは私小説ですが、「私」と「対象」との距離の取り方という意味では、『無想庵物語』と読み比べると、けっこう面白いんじゃないかな、と思っています。

 ミステリータッチなドキュメンタリーというと、私が知らないだけで沢山あるのだろうなと感じてます。推理作家協会賞の受賞作・候補作にもノンフィクションがたびたび入っていて、私のような感度の鈍いアンテナにも(オッ)と思わせる。あるいは、先の私小説との関係でいうと、その本道はやはり過去探求ということになる。山口瞳『血族』(1979)もかなり推理味が濃厚。最後の二行の余韻よ。その文春文庫版で書評を載せている野坂昭如も、山口瞳以上にミステリふうな過去探求話を書いていますが、それはのちほど。

 そういえば以前、福田和也が『作家の値うち』(2000)で丸谷才一の『横しぐれ』か『樹影譚』をとりあげて、「連城三紀彦が書いたら面白くなっただろう」みたいな評し方をしていて、首を傾げたことがありました。「白蓮の寺」(1979)とか「戻り川心中」(1980)みたいなイメージなのかしらん? 「戻り川心中」も評伝型といえば評伝型だけど、実は連城三紀彦も『横しぐれ』と『樹影譚』をもっとプリミティヴにして細かく切り刻んで並べたような怪作を書いています。日本人男性がとつぜん韓国へ向かう小説と、著者の父親にまつわるエッセイを交互に配置した『悲体』(2004)。「樹影譚」ののちに三浦雅士がマルト・ロベールを経由して『出生の秘密』(2005)で論じたように、その核となるのはまさに「出生の秘密」。ふつうに読むと「なんだこれは……」と困惑するはずですが、「こういうことがやりたかったんだな」という線で眺めてみるとどうでしょう。その出来栄えが福田のいう通りになっているかどうかも含めて……。またポストモダン的なメタフィクションの技法を本格的に取り入れた『ため息の時間』(1991)も、個人的にぜひ一度は読んでいただきたい奇妙な小説。

 最近の日本文学でいえば、ふと手にした絵葉書から架空の詩人を追いかけることになる堀江敏幸『その姿の消し方』(2016)でしょうか。『子午線を求めて』(2000)の表題作にも探求的要素はありましたが、ここではそれが全開になっている。これが面白ければ平出隆の書簡エッセイ葉書でドナルド・エヴァンズに(2001)もいけるかも。

 架空の作家といえば高原英理歌人紫宮透の短くはるかな生涯』(2018)や倉数茂『名もなき王国』(同)では作家自身の人生をたどりながら、その実作として短歌や短篇が作中に挿入されます。

ニュー・ジャーナリズム/ポスト・モダン/メタフィクション

「評伝」についで外せないのが、ニュー・ジャーナリズム。ノーマン・メイラーゲイ・タリーズトム・ウルフ……。「事実の客観性」を大上段から述べるのではなく、「調べ、書く=探求する私」という地べたの視線が出てきた。「対象」だけを一方的に書くのではなく、「対象」と「私」の緊張関係こそが問題になってきた。カポーティのノンフィクション・ノベル『冷血』(1966)も、「私」が作中にほぼいないからこそ、逆に「私」のあり方が問題になってくる。

 このニュー・ジャーナリズムとほぼ同時代に隆盛していたのが、ポスト・モダン文学。また、先述した後藤・古井などの登場・活躍したのは1960~70年代です。このへんから小説が、あるいは小説を成立させる基盤が変質してきた(というのは坪内祐三説の受け売り)。「不可能性」は一方で、幻想性や曖昧さにも通じる。ジョン・ファウルズトマス・ピンチョンヌーヴォー・ロマンビュトール『時間割』(1956)、ロブ=グリエ『去年マリエンバードで』(1961)などなど。
 murasihtさんのいう「三段階」的な感性が作者―読者のあいだにハッキリ確立されてきたのは、たぶんこれ以後では。探求型メタフィクション小説としては、ポール・オースターニューヨーク三部作(1985-86)、エリック・マコーマック『パラダイス・モーテル』(1989)や『ミステリウム』(1993)、スティーブン・ミルハウザーエドウィン・マルハウス』(1990)などが集中しています。クリストファー・プリースト『魔法』(1985)はどうだろう。ローラン・ビネ『HHhH』(2010)もこの流れで捉えられる。

 あまり多くは言及できませんが、横田創『埋葬』(2010)と中村文則『去年の冬、君と別れ』(2013)は、ノンフィクションを書くために獄中の死刑囚にインタビューする、ほぼ同じ構造を持った小説。でも売り上げは全然違う。不思議ですね。

アンチミステリ

 先に「ポスト・モダン文学」と書きましたが、実はその範囲は明確ではない。結局、こういう括り方は、先行世代に対する反抗、くらいの意味合いで、地域的ムーブメントとしてはヌーヴォー・ロマンやラテン・アメリカ文学、などと重なります。パトリシア・ウォーメタフィクション1984)でいうように、形式としてはエンターテインメントを流用したパロディの手法がよく採用される。もちろんミステリもパロディの対象となり、前項で挙げたオースターやマコーマックの作品などは、積極的にミステリのパロディ、すなわち解決の曖昧な、よくいえば幻想的で難解で曖昧なかたちを取っている。ラテン・アメリカの作家では、もっと解決のハッキリしたミステリを書いている作家もいます(ビオイ=カサーレスバルガス・リョサなど)。殺人事件が対象になることが多いので、最初に挙げた「探究型小説の特徴③」=地味な謎、からは外れますが、今回の話の流れ上重要なので、いちおう触れます。

 解決の収まりの悪さ。このあたりの流れは、ステファーノ・ターニ『やぶれさる探偵』1984)で詳細に論じています。俗な言葉遣いをあえてすれば、二度の大戦を経ての近代的合理精神に対する疑いです(などという言い方はかなりツマラナイのですがでも一般的にはそんな感じで受容されてきたような気がします)。ターニの本国イタリアにはすでにカルロ・エミーリオ・ガッダ『メルラーナ街の混沌たる殺人事件』(1946−47)があった。あるいは同時代でいえばウンベルト・エーコフーコーの振り子(1988)。前項で挙げたフランスのヌーヴォー・ロマン、ラテン・アメリカ、SFでもポーランドスタニスワフ・レム『捜査』(1959)、『枯草熱』(1979)、『大失敗』(1989)、イギリスのJ・G・バラード後期の現代もの『殺す』(1988)、『コカイン・ナイト』(1996)、『スーパー・カンヌ』(2000)、『ミレニアム・ピープル』(2003)といった、ジャンル専門作家ではない書き手によって20世紀後半にものされた探偵小説/犯罪小説はそれはそれで一大潮流といってよく枚挙に遑がありませんが、このあたりはもうこの文章をお読みの方はすでにご存知ではないかと思います。

「アンチミステリ」とは元々、中井英夫『虚無への供物』(1964)を評する言葉でしたが、よくいう「日本三大奇書」云々というよりも、こうした流れで見たほうが捉えやすくはないでしょうか。すなわち、中井をむりやり虫太郎・久作に押し込めるより、海外文学との同時性や、その後の竹本健治匣の中の失楽(1978)、山口雅也『奇偶』(2002)などに続くメタフィクショナルな幻想性の流れで掴んでみるわけです。

 この項でとりあげるのが適切かはわかりませんが、稲生平太郎『アムネジア』(2006)は、前作のアクアリウムの夜』(1990)も含め(内容のつながりはないものの)、探求の果てに出会う解けることのない謎がかなり印象深く刻まれています。第三作を書いていただけないかなあ。

裁判記録

 曖昧な結末ということで最も有名なのは芥川龍之介「藪の中」(1922)でしょう。あの構成に影響を与えたんではないかといわれる先行作にロバート・ブラウニングの長篇詩『指輪と本(邦題:指輪と書物)』(1868−69)があります。ブラウニングはある時、古物商の屋台で「古い黄色い本」を手に入れた。それは200年近く前に起こった老伯爵による妻殺し(実際に起こった事件)の裁判記録やパンフレットを一緒に綴じ併せたもので、10名の人物がそれぞれの主観から、事件について思うところを述べる。ナルホド、これがあの「藪の中」のハシリだったのか。そう聞くと興味を惹かれますよね。ところが……。実際に本を開いてみると、これがめちゃくちゃ長い。ゲーテの『ファウスト』が1万2000行のところ、『指輪と本』は2万1000行ですから、だいたい二倍近い。「長篇詩」といってもシェイクスピアのように演劇的な台詞の連なりですが、ミステリ的な興味だけで挑むと挫折します。翻訳は二巻本で出てますが図書館にはあまり置いていない。しかも訳者自身、長すぎると思ったのか、第八章と第九章は抄訳です。つまり完訳でない。読破しようとすると相当ハードルが高いわけですが(私も概略しか知りません)、チェスタトンは評伝『ロバート・ブラウニング』(1910)で、「ブラウニングの作品を一部でも不要だとするのは危険だ」「ブラウニングはつまらないモノを輝かせる達人だった」としています。あのチェスタトンが、ですよ。ウーム……いつか全部読んでみたいな、と思っています(概略は全体像を紹介した黒羽茂子『ブラウニング『指輪と本』を読み解く』2010で掴むことができます)。

 それくらい長いものをあの短さにまとめてしまった芥川は、やはり頭が良かったというべきか。しかし今、『指輪と本』と並んで私の頭に浮かんでいるのは違う一冊。ミシェル・フーコー編『ピエール・リヴィエール』(1974)です。偶然見つけた、150年前に起こった少年による家族殺しの裁判記録。ある医師は少年が狂気だといい、別の医師はいや違うといい、そして少年自身による手記が挟まる。そのあと、過去の記録をめぐってフーコーら現代の学者による論考が連なり、「狂気とは何か」が考察される。

 日本でいうと徳岡孝夫のノンフィクション『横浜・山手の出来事』(1990)が過去の審理を考察するタイプ。明治29年に起こった夫殺しの謎を追って、著者は犯人と目された女性の跡をたずねイギリスへ飛ぶ。こういう、100年くらい昔の事件についての考察というのは、同時代を扱った山本禾太郎のノンフィクション小説『小笛事件』(1932)だとか、あるいは裁判小説というと普通挙げられる高木彬光『破戒裁判』(1961)や大岡昇平『事件』(1977)といったフィクションとも違って、独特の距離感があると思うんですね。

埋もれた謎

 過去の謎を扱うミステリは一般に、クリスティの小説のタイトルから「スリーピング・マーダー(回想の殺人)」と呼ばれますが、でも、事件は必ずしも「殺人」とは限らないんですよね。「埋もれた謎」とでもいったほうが正確か。
「埋もれた謎」に関する作例はたぶん、数え切れないくらいあります。だから、ここでは境界侵犯タイプに絞って考えたい。歴史的スケールを大きくすると、トマス・H・クックロバート・ゴダードが好んで書くタイプになりそうです。
 実は百田尚樹永遠の0(2006)と『影法師』(2010)もそう。インタビュー小説。「強かったアイツが醜態を晒したのはなぜ?」というワイダニットで引っ張るという意味では、二つの小説は完全に同じパターンです。
「埋もれた謎」型のエンターテインメントが私小説型やポストモダン型と違うのは、やっぱり曖昧さが退けられて、ハッキリ書かないといけない、というところ。で、謎が解けると、主人公は成長していたり、「知らなきゃよかった……」とそれまでの自身の存在基盤を揺るがされたりする。

 そうした過去から現在への境界侵犯が最も純粋に現れたタイプとして、山川方夫「夏の葬列」(1962)を読み直してみるとどうでしょう。敗戦から十数年後、青年がかつての疎開先に出張で訪れる。彼はかつてその町で空襲に遭遇した際、仲の良かった一人の少女を見殺しにしたのではないか、という疑問を抱えている。するとそこへ葬列の一行が通りかかり、彼は事情を知るらしい傍らの少年に話しかける。衝撃的なツイストが印象的ですが、よくよく考えてみるとこの話、作中現在において起こっていることは、単に青年が少年と会話しているだけ。会話から勝手に青年がショックを受けているだけ。だから、少年は何も気づかない。

 ここで「だってさ、あの小母さん、なにしろ戦争でね、……」以下の少年の台詞がもたらす効果を、冒頭に掲げたアッシャー兄の台詞+妹の出現がもたらすそれと比較してみてください(平石貴樹『だれもがポオを愛していた』をすでに読んでしまった人は、いったんそれを忘れて、アッシャー(兄)の台詞+妹出現によって語り手も「早すぎた埋葬」に加担してしまったことがほぼ確定する、というふうに読んでください)。もちろん、「アッシャー家」のように女は蘇らない。ただ、台詞のみによって語られる過去の事実が、現在の青年の生の基盤自体を脅かす。たまたま赴いた出張先で、たまたま事情を知る少年に遭遇するわけですから、かなり都合が良いといえば都合が良く、「探求」のコストは低く抑えられていますが、ゆえにこそ、侵犯の威力がもっともシンプルに露わになっている。

 この観点から、「埋もれた謎」を扱う米澤穂信の諸作を読み返してみるとどうでしょう。「夏の葬列」的にいえばボトルネック(2006)が特にそうかもしれませんが、氷菓(2001)や追想五断章』(2009)、あるいはさよなら妖精(2004)なんかも、主役と対象(謎)とが取る時間的・空間的距離のそれぞれの違いを読み比べると、興味深いのではないかな、と考えています。

ホラー

 最初にホラーの話をしたので、いちおう。ホラーこそは境界侵犯の原理がもっとも如実に現れるジャンルで、特に怪談は、「物語内容と読者の次元は地続きである」と思わせなければ話になりません。逆に「侵犯は作中のどこかで必ず起きる」ということが前提になっているからこそ、「侵犯があるのかどうかよくわからない」と多少ヒネったほうが「むしろ怖い」などとその洗練さの手つきを試されることになります。実話怪談ものの場合、作者はコレクター(ないしはハンター)として活動しているわけですから、しぜん作者=(全体の)話者となり、作者名がテクスト上に出てくることもあります。その作者=話者の効果を、これまで述べてきたような、随筆風小説や、ドキュメンタリーにおけるそれと比較してみるとどうでしょう。

 とはいえ、長篇に比べるとやっぱり短篇が多い。疑似ドキュメンタリーホラー長篇で現在もっとも有名なのはおそらく小野不由美残穢(2012)ですが、私は他には三津田信三『忌館 ホラー作家の棲む家』(2001)に始まるシリーズくらいしか読んだことがないので、もしご存知の方がいらっしましたら、お教えください。

改めて、探究型小説について

 かなり駆け足で、多くの作品に触れてきました。中には当初の目的とはかなりかけ離れたような作風に触れている部分もあるかと思いますが、「網を広くとって複数の角度から眺めてみる」というのが今回の主眼なので、自分の関心のコアを示すことができたかな、と思います。

 私が「探究型小説」と述べたのは要するに、登場人物を「探求者」というアクターと見立て、その探求行動が何らかの状態変化(境界侵犯)を引き起こす、という形式を指していました。また物語行為の主体(端的にいえば一人称か三人称か)、物語行為主体による探求行動への介入の度合い(又聞きから直接体験まで)テクスト生成と物語時間との距離(その探求行為についていつの時点から物語られているのか。実況中継か回想か)、などのバリエーション次第で、アクターの探求行動が、読書という探求行動とシンクロすることで読者自身に対し境界侵犯を引き起こす(メタフィクションの基本的な戦略)こともある(だから、それが作中で「この探求は失敗だった」などと宣言されるとまるで自らの読書行為までもが否定されたかのように憤ろしく感じられることがある、しかし……)というふうなことを述べたかったのでした。

 私じしんは元々、いわゆるポストモダン的なミステリを読みすぎて食傷して、何も言い澱んだり解決を放棄したりすることだけが21世紀において誠実というわけでもないのだし、ファウルズ『フランス軍中尉の女』(1982)のように語り手が時空を飛び越えて物語世界へと入り込む、そんな自由闊達さも時には望ましいのではないか、という気持です。

 当初は「宝探し」の説話論的構造という観点から80年代の一連の日本文学をまとめて批判した蓮實重彦『小説から遠く離れて』(1989)との関連(主に違和感)などについても述べてみたかったのですが、力尽きたのでこのへんで。

(その関連でいうと、「探求型」と呼んだのは元々、こうした物語類型のアーキタイプであるはずの聖杯探求伝説など、またそれに親しいハードボイルドなどが念頭にあったのですが、今回の記事では(SFも含めて)ゴッソリ抜けています。一般的なミステリ論やメタフィクション論がしないような把握の仕方をしたいと思ったからですが、そのあたりについても見通しを掴むことができたら、いずれまとめてみたいと思います。)

最後に、オススメの一作

 最後に、おそらくほとんど誰も知らないであろう探究型小説の傑作を一つ、ご紹介します。
 それは、野坂昭如『火系譜』(1976-77)です。
 野坂昭如は、小説を書くために生まれたかと思うほど複雑な家系で生まれ育った。とても一作では書き切れないので、自伝的私小説を何作か書いています。『火系譜』はその一つで、養父に関するもの。野坂は『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫(1987)という探求型小説も書いてますが(謎の人物からの「三島由紀夫の未発表日記が欲しくないか」という電話から始まるのに、日記はとうぜん見つからない)、『火系譜』は輪をかけてすごい。自分のルーツを尋ねるうち、怪しい人物に出会ったり、国粋主義と宗教が合体したような謎の団体に辿り着いてしまう。つまり、「謎」が最終的には日本の国体がどうだとか、そういう話にまで行ってしまう。もちろんそんな、あまりにも大きすぎる謎は小説で扱えるはずがないので、曖昧に終わります。この最後がかっこいい。幻想小説と自伝とハードボイルドを融合したような、すばらしい作品なので、ぜひ読んでいただきたい――と数年前から主張しているのですが、シリーズものの一冊にしか入っていないためでしょう、読んだ人に遭遇したことがありません。この長い長い拙文に最後まで眼を通していただいた方でどなたかが「『火系譜』読んだよ」と一言仰ってくださることがいつかあるなら、私はたぶん、驚くでしょう。つまり、私じしんが探求の果てに、何らかの状態変化を引き起こしたということで。

『立ち読み会会報誌』第三号〈特集 新・叙述トリック試論〉に関するお知らせ

 twitterではすでにお知らせしていましたが、現在、『立ち読み会会報誌』第三号という新刊を準備しています。

 内容は標題のとおり、叙述トリックに関する特集です。

 第一号(2017年11月)の時に「第三号まで殊能将之作品特集をします」といい、第二号(2019年5月)の時に「前号の内容を延長して書いてしまいました」といい、浦賀和宏先生逝去(2020年2月)の時に「第三号は急遽、浦賀和宏作品特集にします」といい、それで今回の叙述トリック特集なので、もはや誰も信用などしてくれないと思いますが(いま書いてきて、エッ前回からもう二年も経ってるの!と思いましたが)、自分としてはここに至る流れには、それなりに理由がありました。

 というのも、殊能作品にせよ、浦賀作品にせよ、「叙述トリック」がやはり重要なキーワードなので、まずそれをきちっと押さえておかないといけないのではないか、と思ったのが一つ。特に殊能センセーに関しては、去年、ある資料を見せていただいて、

(この方はこれほどまでに叙述トリックにこだわっていたんだなあ……)

 と思ったことがありました。なので、やはりこちらの方を先に片づけておきたくなった。

 で、元々は第32回文学フリマ東京に合わせて作る予定で、エントリもしていたのですが、いわゆる緊急事態宣言の延長で、おそらく開催されないだろうと入稿締め切りを延ばしたら、開催されるというので慌ててしまいました。新刊はないので既刊だけでも並べるという案もありましたが、結局出店はキャンセルし、上述の新刊のほうをなるべく進める、ということにしました。

 予定としては、5月の終わり~6月の始めくらいから、通販を始めるつもりです。【一番下の追記を御覧ください。】詳細がかたまりしだい、こちらで改めてお知らせします。今回はサンプルとして「はじめに」を公開するので、それを見ていただくと、どういう意識で書いているのか、大体わかると思います。(いちおう先に警告しておくと、今回の新刊では「この小説には叙述トリックが使われている」という程度の言及は、特に断りなく行なうのでご了承ください。もっと内容に踏み込む箇所では、先に断ります)

【目次】
はじめに
第1章 叙述トリックはどのように語られてきたか
第2章 本稿で参照するモデル
第3章 一人称・手記・信頼できない語り手
第4章 三人称・映画・モンタージュ
第5章 メタフィクション・作中作・パラテクスト
第6章 サプライズ・ネタバレ・インターネット
結語
主な参考・引用文献

【判型】新書判サイズ(二段組)

【価格】1500円

 よろしくお願いします。

 

【追記 2021.07.01】

 上のように予告を書いてから、予想を超えて鬼のような多忙状態に陥ってしまったため(現在もその渦中)、なかなか完成の目処がたちません。また見通しができましたら、こちらでご報告します。予告した時に、10人くらいの方から、「出たら買う」と仰っていただいたのを、励みにしております。

 これまではこのブログに断片というかメモ書きをバーっと書いていって、それを総合する、という書き方をしていたのですが(たとえばこういうの)、今回、ネタバレ全開なので、なかなかそれはやりにくい。ただ、多少なりとも作業を進めながら自分のモチベーションを保つのと、後は「出す出す詐欺じゃなくて本当に進めてますよ!」というアピールないし証明のために、何かしらのかたちで内容の虫干しはそろそろやっておきたいところです。

ヒロイン視点として読むGRAPEVINE「超える」

 ななめのa.k.a織戸久貴さんの「負けヒロインについて語るときに僕の語ること」を読んだら、思い浮かんだことがあったので、書きます。

「負けヒロイン」というのはいわゆるハーレム物ラブコメなどで、最終的に男性主人公と結ばれることのなかったキャラクターを指す言葉のようです。

 こうした漫画やライトノベルなどで、「真のヒロイン」がいったい誰になるのか、読者のあいだで連載中に考察がなされ、あたかもミステリにおけるフーダニット(犯人当て)のように、作中の数々の伏線を踏まえてヒロイン当てがなされる、そういう風習があるということは、なんとなく知っていました。 

 織戸久貴さんが「負けヒロイン」について並々ならぬ思いを抱いているらしいということも、たとえば「負けヒロイン俳句集」などで知っていました。しかしここまで重要な概念となっていることは知りませんでした(ちなみに「負けヒロイン句集」は四季かキャラクターのタイプごとに30×4=120句くらいで一冊にまとまると結構な数――100部くらい――は文フリや通販等で需要があるのではないかと思います。ぜひやっていただきたいです)。

 で、上の記事ではアジカン「エントランス」が最初に、fish in water project「セツナブルー」が最後に挙げられているのですが、最後まで読んで私の脳内に不意に思い浮かんだのが、GRAPEVINE「超える」という曲です。(以下、織戸さんの記事の内容からは離れます)

「超える」は2007年発表のシングル。当時は「なんだか地味だな」と思ったのですが、去年聞き直すと、(けっこういいなあ)と思って、聞いたり歌ったりしてきました。が、歌詞の意味がよくわからない(GRAPEVINEの歌詞は全般的にそうなのですが)。これまでは、歌い手同様に男性視点で、「30歳くらいのチャラい男が遊びで付き合った女性に意外に本気になっちゃった話」なのかな、くらいのイメージで受け取っていました。

 ところが……。

 先の「負けヒロイン」概念の文脈の中に置き直すと、つまりヒロイン視点として受け取り直すと、この歌詞がパーフェクトに理解できることに気づき、私は戦慄したのです。

 以下、たぶん他に誰もこのような解釈をしている人はいない、あるいは作詞者でもそのようには考えていないかもしれませんが、一度そうだと考えるともう、そうだとしか思えなくなってしまったので、他のリスナーにも問いたいと思い、私の解釈を記します。

www.youtube.com

 * * *

 先に説明しておくと、私がいわんとしている解釈は、これが「負ける」瞬間、つまりヒロインによる告白シーンを扱っている、ということです。

 まずは一番。

うすくちの恋 こうやって夏が終わる

先へ急ぐのが精一杯

 最初の「うすくちの恋」は、それまでに積み重ねられてきた恋愛未満のエピソードのことです。夏祭りやら海やらプールやらも終わった。次の季節が始まる。ライバルとなる登場人物も多くて、自分の気持ちを整理する余裕がない。そうして日々が次第に過ぎてゆく。

だけど降ってきた偶然

こりゃもう思し召しと信じて

 ところがそんな中、僥倖ともいうべきイベントが起こり、二人きりになる。この機会を逃してはいけない。「こりゃもう」という言葉遣いからは、ヒロインの、上品ぶるというよりはくだけたパーソナリティが垣間見える。次からサビ。

今 限界を超える そのくらい言わないと

描きだすもの

愛も欲望も全部絡まっていて

 タイトルフレーズが出てきました。「限界を超える」というのは、これまでのヌルい関係を壊す、キャラクターの分を超える、自分の感情を正直に言い表す、すなわち、理性や世間体をなりふりかまわずぶっちぎる、ということです。

 二番。

きみと出会う幸運が 殊の外

つまらぬ感情を連れてきた

「これまでのヌルい関係を壊す、キャラクターの分を超える、自分の感情を正直に言い表す」というのは、ふだんは決して見せることのない自分の無様で弱い部分をさらけ出す、その熱によって相手を圧倒しようとする、ということです。それは同時に、常なら「つまらぬ感情」として切り捨ててきたものに、向き合う必要に迫られる、ということでもある。ヒロインは、はたしてそれに耐えることができるのか。

きみが察知した運命

ねえ

それは聞きたくもない

 相手がこちらの意図に気づきました。同時に、いわゆる「負けフラグ」が立ち始めます。「先へ急ぐのが精一杯」だった日常的時間が止まり、「運命」全体を見渡す走馬灯的時間が現れる。一瞬、「聞きたくもない」とたじろいでしまいます。

ばかでかい音で砕け散ったっていいんだ

その答えなど

いつもひとつじゃないのはわかってた

「ばかでかい音」というのは、たぶん自分の心臓音です。「その答え」はもちろん、「で、あなたは結局だれが好きなの?」という問いに対するもの。相手は優柔不断で移り気な人間なので、とうぜん答えは「いつもひとつじゃない」。でもどうやら、最近はそうでもないらしい。「ひとつ」になり始めてきたらしい。ヒロインは「砕け散ったっていい」と覚悟を決める。

 二番目のサビが終わり、ここで間奏に移るんですが、歌詞カードには載っていないものの、「わかってた」の直後、「(わかってんぜ)」という男言葉が入ります。これをどう捉えるか。これまでの「超える」=男性視点説なら問題はありませんが、ヒロイン視点説ではちょっとハードルになります。先の「こりゃもう」と合わせて考えると、ヒロインは性根は江戸っ子的な言葉遣いの感性を持っている人物なのかもしれません。

ばかでかい音量で 曝け出すつもりだ

その答えだって いっそひとつだと思えばいいね

 なぜヒロインはこれまで、このような機会を持つことを恐れてきたのでしょうか。それは相手が、答えの「いつもひとつじゃない」優柔不断な人物で、交友関係もわりあい重なっている、そういう人間関係を更新するのはかなり負担が大きいからではないでしょうか。でもその答えは「ひとつ」になってきたようだ。だとすれば、それはYESかNOに違いない。ヒロインは自身の「つまらぬ感情」に打ち克つことができるならば、相手の「その答え」がどうであれ、停滞する「うすくちの恋」を超えられるであろう。

今 限界をも超える そのくらい言っていいか

描き出す世界

 既存の関係は完全に更新され、新しい世界が描き出されます。ヒロインは「負け」る。そういう予感がある。いや、結果はもうわかっている。でも、それは単に悲しいだけじゃない、これまで過ごしてきた時間が無駄だったわけでもない、そしてこれからの時間すべてが灰色に塗りつぶされるわけでもない。個人と個人がぶつかりあい、自分の思う通りにいかない事態が生じた、そのことをそのまま受け止め、相手をむしろ勇気づける。痛みを引き受けたそういう強さは、それまでの自分を超えている。

愛も欲望もさっきから図々しい

騒々しい

 とはいえ、頭では上記のようにわかっていても、この瞬間、色んな感情や欲望がぐっちゃんぐっちゃんに入り混じっています。相手が振られるかもしれないし、付き合ってもすぐ別れるかもしれない。人生は長いのだから、この先「あわよくば……」ということだってないとはいえない。そんな打算、醜さ、弱さ、したたかさも、いまこの瞬間自分の内に存在する。それは単なる「確認作業」どころではなくて、己のすべてを賭けることです。「超える」とは賭けることです。

 たとえ負けようとも、己のすべてを賭けずにはいられない。そんな人物を、悲しむでも蔑むでもなく、力強く肯定する。ヒロインを「見る私」にできることは、それくらいしかない。

 どうでしょうか。だんだん、そんな歌に聞こえてきませんか。

 たぶん、女性ボーカルがカバーすると解釈としては一番強くなるのではと思うのですが……ミドルテンポだから派手さに欠けて難しいかな。もし『負けヒロインが多すぎる』がアニメ化するようなことがあれば、ぜひカバー曲を起用していただきたく、企画を探しているプロデューサーの方には希望いたします。

既視感の二つの段階――知念実希人『硝子の塔の殺人』

 まず先にお断りしておくと、本作は「ミステリマニアミステリ」です。ミステリマニアの館主が、ミステリマニアたち(それは必ずしも客全員ではありません)をヘンな建物に招いて、ミステリ談義をするうち、事件が起こる。

本格ミステリ小説の舞台になりそうな建物ですよね。いかにも殺人事件が起きそう」

 作中舞台に関する描写に続き、それをめぐって交される登場人物のこうした台詞を目にする時、読者の脳裡に浮かぶイメージは、おそらく三つの層を成しています。

  • イメージA 「作中現実そのもの」としての、純然たる視覚的イメージ
  • イメージB 「イメージA」は「いかにも」「本格ミステリ小説の舞台になりそう」だ、そうしたミステリを過去に何例も見てきた、という既視感1
  • イメージC 「イメージB」それ自体が「いかにも」「本格ミステリ小説」の登場人物らしい台詞だ、そうしたミステリを過去に何例も見てきた、という既視感2

 たとえば、ガラスでできた塔がある。ミステリ読者でなければ、それを前にしても「変った(あるいはヤバイ)建物だな」ぐらいに思って、特に感じ入るということはないはず(イメージA)。

 ところが同じ風景を前にしても、ミステリ読者(それは必ずしもマニアだけとは限りません)は「これはいかにもミステリの舞台っぽい建物だな」と思う。ミステリを読まなければこういうドン・キホーテ的な、あるいは聖地巡礼的な感想は生まれなかったわけで、これがイメージB=既視感1です。

 のみならず、「作中人物としてのミステリ読者」は、既視感1のような評価を作中で下してしまう。そしてそれを読んだ現実の読者は、この既視感1自体が「いかにも」ミステリらしいな、と思う。これがイメージC=既視感2です。

 つまり、作中舞台を前にして、「いかにも」という二つの既視感が読者に浮かぶわけですが、この二つの既視感の間には、微妙な空隙があります。この空隙こそが、本作の成立と評価の核心部に関わると思うので、以下、説明します。

 二つの既視感は、「ミステリ読者」が対象に視線を向けた時、対象から返される感覚です。この二つの成立はおそらく段階的で、まず「ミステリ」が数多書かれなければ「既視感1」は生じず、次いで「ミステリ読者が作中人物として登場するミステリ」が数多書かれなければ、「既視感2」は生じなかったのではないか。

 現実のミステリ読者
  ↓ 既視感2 ↑
 作中人物としてのミステリ読者
  ↓ 既視感1 ↑
 作中現実(イメージA)

 いわゆる「新本格史観」成立以後の視野においては、この既視感1/既視感2の間にある空隙が見分けがたいものとなっているのではないか、というのが私の考えです。どういうことか。それを説明するにはまず、両者の質の違いについて見ていきましょう。

 既視感1を支える感覚は、実は「驚き」です。虚構の中で何度も見たような光景が、眼の前に、唯一無二の現実として広がる。まるで虚構の中に自分が取り込まれてしまったような、内部/外部を打ち破る感覚としての、驚き。

「魅力的な事件が起こったので、昨日からついテンションが上がってしまって。寝たあとも事件についての夢ばかり見ていました。とても楽しい夢でした」

 といったポジティブな反応にせよ、あるいは、

「いい加減にしろ!(……)これはミステリ小説じゃないって言っているだろ。現実なんだよ」

 といったネガティブな反応にせよ、(一応、と本作については言っておきますが)その起点となるのは、上述の、n度くりかえされた虚構が1度の現実として顕れる、という階層侵犯に対する驚きです。 

 既視感2も、最初はそうした、階層侵犯の「驚き」を伴っていたのかもしれません。現実のミステリ読者が作中世界へと出張って、散文的なミステリ論をえんえんと繰り広げるうち、唯一無二の現実としての事件に巻き込まれる。ただ、『十角館の殺人』以降はとりわけそうだと思いますが、同じような設定のミステリが増えると、それは単に「そういう設定」の小説として、階層侵犯への驚きは逓減していきます。

 しかし、幾度くりかえされようと、作中人物にとって、既視感1の根底をなす「驚き」は減りません。シリーズ探偵(およびその仲間たち)ならいざしらず、たいていの人間にとって、ヘンな場所でヘンな事件に出会う、というのは、一度きりの冒険であり、その慄きが消えることはない。こうして、1度の「驚き」が、n度の「月並」として、読者には受け取られる。新作を書こうとすれば不可避に増殖する二重の「既視感」に、どのように新風を吹き込むか。メタジャンル小説が必然的に抱え込むそのハードルこそがおそらくは、新本格成立以後の、「館もの」をはじめとするクローズド・サークル小説が、主に乗り越えようと格闘してきたものでした。

 跋文で島田荘司が「新本格の終わり」を強調するのも、そこに関わるのでしょう。「綾辻行人」という作家はこれまでにも、いくつもの小説に登場してきた。でもたぶん、こういうふうな使われ方をすることは、これまでなかった。『十角館の殺人』で「エラリイ」だの「カー」だの「アガサ」だのといったカタカナ名を振り廻し、しかし決して作中に「綾辻行人」という名前だけは書くことのなかった20代の青年が、今や60を過ぎた大家として、虚構の中で語られているわけです。「ああびっくりした、」(綾辻行人――本書帯文)という「驚き」は、こうした文脈で受け取る必要があるでしょう。

 ところが、作中人物にとってはエバーグリーンな階層侵犯感覚(既視感1)であっても、それを受け取る現実の読者、それもすれからしのミステリ読者にとって、今やその「驚き」はうすい(既視感2)。それはおそらく「現実の読者」を超える外部がないからで、メタミステリとか、なんだとか、色々な試みがなされてきましたが、結局のところ、それらの試みは一作一作において辛うじて成立するものにすぎず、たとえば「既視感3」とでもいった新たな感覚を形成できるフィールドというのは、この方向性ではもうきっと存在しない、大体このあたりが限界かな、といった破線が、誰にとってももう長いこと見えてきている、ということではないでしょうか。

 そもそも新作ミステリについて「新本格」が謳われるのを見るのもずいぶん久しぶりのことで、〈まだあった「新本格推理小説(ミステリ)!〉というキャッチコピーが使われた時点(2013年)で、もはやそれをまともに受け取る人はいなかったでしょうし、むしろ誰もが忘れかけていたような今、ここで島田のいう「新本格」は、あえて名指しして終わらせるもの、として持ち出された気配があります。つまり、思いきりパラフレーズしていうならば、「作中人物」「テーマ」としての「ミステリマニア」は、「新本格」以後の日本の本格ミステリ復興において、大いに役立った、しかしそれはもはや歴史的使命を終えた、虚構世界の中の彼らをロケットブースターのように切り離さなければ、この先はない――とでもいったような。

 その意味では、「ミステリマニア」という存在がここまで悲愴感を以て語られるのを見るのは初めてです。その、「閉じた存在」としてのクローズド・サークル/ミステリマニアに向けられた「終わり」の眼差しは、『霧越邸事件』(1990年)や『どんどん橋、落ちた』(1999年)の時などとは、ずいぶん違う気がする。だとすると、一見豪華な帯文の錚々たる面々による言葉の列なりも、また別種の会合として見えて来もする――まあ、そうした「終わり」がホントかどうかはともかく、私が気になるのは、もっと別のことです。

 

【以下、本作の核心部分に言及するので、未読の方はご注意ください】

 

 ミステリマニアによるミステリマニアのためのクローズド・サークル。2000年代後半以降、そうした設定の作品にとって、「ある傾向」がなぜかよく伴われることを、このブログでも何度か紹介してきました。その「傾向」とは、

 ①トリックがショボい

 ②ミステリマニア(作者/読者)が、ミステリが好きすぎて殺人を犯す、という展開になる

 です。

 ①の意味では、この小説は、かなり充実しています。さすがに、というべきか、ダミー推理も、真の解決も、じゅうぶんクオリティが高い。不思議なのは、しかし、にもかかわらず、なぜか自作を貶めるような記述が散見されることです。それが意図なのだから仕方ないじゃないか、といわれればそうなのかもしれませんが、私としては、「同人誌まがいの劣化版」とまで書く必要はない(それくらいには面白い)と思うし、本当に「劣化版」ならばもっと全然違う方向性でもっとグレードの高いものを書いた方が良いのではないかと思うし、そこまでいわれると最後まで読んでもその後のフォローにも「言い訳」感を払拭することができず、貶められれば貶められるほど虚しさが募ってきて、本作自体を「傑作」として他人に勧めづらい、という気分になってきます。

 ②は上述の、内部/外部の問題と関わります。ミステリの歴史は表現規制と無関係ではなく、大方の創作者にとって、たとえどれほど残虐な内容であろうとも、虚構と現実は別、というのが(線引が難しい領域もありますが)、基本的な立場ではなかったでしょうか。ところが、こうした傾向の作品群においては、しばしば、「ミステリを読みすぎたために殺人を犯すようになった」人物がでてきます。「名探偵に会いたいから事件を起した」ならまだかわいいもの。「ミステリの読み過ぎで自分でも殺人行為に魅了されるようになった」とか、「ミステリ作家がスランプのあまり現実に事件を起してそれを作品化しようとした」とか、作者たちはそれなりに「驚き」を求めているのだと思うのですが、あれほどまでに多くの人が死守してきた内部(虚構)/外部(現実)の線引が、なんというか、ぐずぐずに崩されて、自分がこれまでミステリを好きで読んできて、今も好きでホラこういうふうに読んでいて、でもそれがこう、あれでしょ? オレもこのまま読んでたらフトしたことで殺人に魅了されたりしちゃうということ? とでもいったような、それこそ「踏みにじられた」ような悲しい気分になってきます。いや、そういうオマエこそが虚構と現実の区別がついていない浅い読み方だ、という指摘は正しいはずですが、私としては、「虚構と現実の区別がつかないミステリマニア」自体は、『陸橋殺人事件』(1925)やら『グリーン家殺人事件』(1928)やら『虚無への供物』(1964)やらの昔から批判的に描かれてあるのだから(『十角館』もそこに含まれるでしょう)、何も今更それを「大ネタ」として持ち出さなくとも、というか、島田荘司の言説に乗ればそれをいったん「卒業」して、忘れたほうが、新しい領域が切り拓けるんじゃないかな、という感じを抱いています。いや、もし「マニア」的にいうならば、本作に登場する「マニア」は、まだそれほどマニア度が高くないのかもしれません。それは、陽光を嫌うだろう稀覯書を展望室に集めるといった初歩的な行為もさることながら、「マニア」が普通、ミステリならなんでも一様に好き、というようなことはあんまりなくて、あれは欠点だけどでも次作に至るまでに必要な経過点だった、とか、あの人のダメなところも含めて全部丸ごと好きだ、とか、いやむしろ「好き」よりも「嫌い」で語るほうに大いに力瘤が入る、とか、世間で評価されている誰某の面白さがオレには全然ワカラナイどれだけ売れてもいけすかなさしか感じない、といった各人が持っているはずの凸凹した感覚が、のっぺりとした「好き」に全体的に覆われているような感じがあって、ウーム、「マニア」って、そういうものかしら、と思わなくもないのです(私は自分がマニアだとは思っていませんが――みたいな面倒な自意識をマニアの人たちは懐きがちです)。

 ともあれ、内部/外部について、もう一つ、島田の言を引いてみましょう。

『硝子の塔の殺人』は、「新本格」と呼ばれたこの特殊な時代を令和の上空から俯瞰し、丹念に総括し、ジャンルの作法を完璧に使いこなして、ブーム終幕に、誰も予想しなかった最高作を産み落として見せた(……)この力作の設計図は、おそらくは知的操作で、方程式を組むようにして机上で考案されたと推察する。

 重要なのは、「上空から俯瞰」と「設計図を机上で考案」です。この二つは対象(新本格全体/『硝子の塔の殺人』全体)を外部から眺めるということで、いわば建物に対する見取り図、です。作中、この「見取り図的なもの」が、何度かモチーフとして登場します。冒頭におかれた建物全体の「見取り図」はもちろんのこと、「トライデン」の「模型」、そして貴重なミステリを集めた「書架」です。特に書架というのはこの手の小説にとって欠かせないもので、作者自身のミステリセンスが問われるコワイ部分でもある。ところで「バベルの図書館」的な発想でいえば、「あらゆる傑作ミステリを網羅した書架が作中に登場する小説」があるとして、その小説自体は、入れ子構造のようにその書架に含まれるのでしょうか。たぶん、その小説、というか、作者の既刊自体含まれないことが多いのではないでしょうか(チャッカリ登場させて宣伝する方もいらっしゃいますが)。だとすると、この書架にはたぶん、「知念実希人」という名前は(少なくともあからさまには)含まれていない。硝子の塔の館主が「館シリーズ」既刊全作を含む書架を構成できたのは、「知念実希人」が「新本格」の外部に(時代的に)いたからで、20代の「綾辻行人」には、こんな書架は書けなかった。だとすれば、もしこれからこうした「書架ミステリ」(いま名付けました)が十年後か二十年後かに書かれるとして、そこに「知念実希人」の名前が含まれるためには、おそらく、「書架」とはまるで異なる外部へと遠く離れた、まったく異なる「本格」が書かれる必要があるのだろう、……。

 大小様々な声が犇めく賑やかな本書から、わたしが最終的に聞き取ったのはそうした、レクイエムならざるレクイエムとでもいうべき、静かな調べなのですけれども。

 

 

ストレンジ・フィクションズ臨時増刊『夜になってと遊びつづけろ よふかし百合アンソロジー』の感想

 承前


 申し訳ない話ですが参加したにもかかわらずリリース前までに通読できていなかった『夜になっても遊びつづけろ』全作をようやく通読できたので、以下若干の裏話的なハナシを交えながらまた多少の内容にも踏み込みながら紹介していきたいと思います。

 

織戸久貴「綺麗なものを閉じ込めて、あの湖に沈めたの」

 もともと夜が好きなわけじゃなかった、といつも思っている。孤独でいることがことさら楽しいというわけでもない。けれど夜には、あの場所には自分の求めているなにかがあるんじゃないか、という淡い期待をおさえきれず、何度も誘われるようにさまよっている。

 この企画は元々、織戸さんの発案で、〈これは妄言なんですが、ストフィク百合文芸やるっつったら来る人いますか〉という発言があったのは今見ると2月1日のことで、その時にはまだ全然テーマも決まっていなくて、プランにはいくつかの案とリリース予定は3月末脱稿の4月中発売、とだけ書かれてある。私は正直馴染のうすいテーマ、というか、ウカツには手を出し難いなあという外面向けの警戒心が働いて(娘がいて家族バレしているこのアカウントでこのテーマで書くことのできる技量と見識と覚悟と胆力が自分にある気がしなかった)、まあ、今回は見送ろうかな、と思っていたら、千葉さんが〈タイトル『夜になっても遊びつづけろ』でどうですか〉と言い出したので、金井美恵子読者としては退くに退けなくなってしまい(特に『小春日和』に入っている「花物語」は最愛の短篇の一つなので)、馴染みがうすいならうすいでこの未知の領域の只中であるいは傍らでしばらくゴロゴロと向き合ってみようかな、ということで、エイヤッと清水の舞台から薄氷を踏む思いで腹を括ったのでした。で、「やります」とは手を挙げたものの特に勝算もないまま、織戸さんが次第次第に(自身で出した募集要項の上限文字数を二倍以上超えて)完成させてゆくのを青い顔をしながら眺めていたこの春先、でした。
 織戸さんの文章を読んでもう十年近くになると思いますが、一時期傾きかけたやや気取って見えなくもない古井由吉的な読み手に負荷を多量にかける文体にはある危うさがあって(古井由吉の場合は作者も高齢でそれこそがテーマで連作短篇でその道のオーソリティだからいいかもしれないけどそういう語りかけで大体がアドレッセンスな年頃の語り手が300枚も400枚も500枚も語ろうとすると無理が出てしまう)、最近はそういう美的なコンクリートな隙のない文体に読み手をもてなそうという独自のバランスないし余裕が出て来たように思います。
 で、本作のワーキングタイトルは「猫を捨てる」で、私はそっちの方がいいような気がしたのですが(「~たの」というやや幼い語りかけが最終部では大学生となる語り手の意識にマッチしていないような気がして)、結局はこの長いタイトルが採用されたのですが、数々の試行錯誤を経て得られた結末は(「前にも再会エンド書いとったやんけ!」といわれればそうなのかもしれませんが)、ことに最後の、作中の時間が、黄金色の光が斜めに射して無数の瞬きのように照り返しやがて燃え上がりゆく川面を渡る風とともにゆっくりと経過しようとしながら一方で語り手の言葉を裏切って次第にスローモーションとなって別の時間として結晶化するつまり二重の時間として分裂・結合する一文に辿り着いた時、私のように不案内な人間にも、なるほど、これか。これが百合なのか。と思わしめたのでした。

 

鷲羽巧「夜になっても走りつづけろ」

要するに、言葉があれば、言葉以外は、前に進むんだよ。なあ、そうだろ。だから喋らなきゃいけない。そう云うもんだろ。そう云うもんなんだよ。そうじゃなきゃいけない。

 鷲羽さんは初めて読んだのですがそれまでtwiiterアカウントだけ拝見しているとフェイバリットが『論理の蜘蛛の巣の中で』と『小説のタクティクス』、そして本作のテーマはやっぱり、というべきか、アメリカ。となると私自身とも関心のありかが近いような気がして参ります(京大SF研OBの呉衣さんにはいつか『ミスティック・アメリカ』を完成させていただきたい)。原稿を提出したのがまず織戸さん、私、九鬼さん、と先に用意をしていた人達で、鷲羽さんは四番目でしたが、この時はまだ誰も全体を把握できていないわけで、どーもよふかし百合アンソロジーです、と宣言しておいて私みたいに中高生が学校でどーたらこーたらヒャッヒャウフフみたいな話がズラズラズラズラズラズラズラズラズラズラズラと並ぶと平々凡々で世に山とあるライバル連中の中で埋もれちゃうだろうな、アイツらには勝ちたいよな(とここで「○○百合合同」「××百合アンソロジー」などと書かれてある仮想敵サークルの既刊の表紙画像をサーバーに貼って)、どうかな、という一抹の不安もないこともなかったのですが、さすがというべきかいや当然というべきか、かなり異なるものが出てきて、大体このあたりから、どうも振れ幅が大きいアンソロジーになるらしいぞ、ということがハッキリしてきたように思います。
 この小説はロードノベル、というか、語り手が車を運転しながら同乗している聞き手に語りかける、という問わず語り式ないし劇的独白型の体裁になっているのですが、大きな参照元としてシモン・ストーレンバーグ『エレクトリック・ステイト』があるらしく、たしかにこれはリリース時に私もすばらしいと思ったのですが、鷲羽作は横組ならば右へ右へとなるところ、翻訳小説のていを装って、日本語縦組で左へ左へ、つまり西へ西へと電子書籍のページを繰らせていく意匠が秀逸で、その行動はやがて来たる長い夜の終わりを求めて疾駆する傷だらけのテロリスト(たち)の道行への加担を容易に連想させ、何気ない日常会話においてさえ、「爆弾作りたいよな」「一揆起こしたいよな」「国会前で◯◯のass holeに××ぶち込んでやりたいよな」などという穏やかならぬやりとりさえ漏れ聞こえかねない昨今、なんともその空気にマッチした忘れ難い感情を一読、想起させてくれます。

 

笹帽子「終夜活動」

「君はいま、耳を澄まして、この世界を見ているんだ」

「ASMRって何だろう?」と思って検索したら「Autonomous Sensory Meridian Response(自律感覚絶頂反応)」の略で、なんらかの心地よい感覚を引き起こす音響作品のことらしい。で、「10年くらい前に流行ったバイノーラル録音みたいなものか?」と思ったら、バイノーラルは手段に過ぎない一方、ASMRは感覚の方に重点がある概念なので、ASMRの方が懐が広くて混沌としているそうな。じゃあそれが小説とどう関係してくるのかというと、形式的にはASMRシナリオ風の表記(レーゼドラマのような台詞とト書き)のパートがあって、それが地の文に侵入してくる、というのが一つの読みどころになっています(部分的なレーゼドラマ風表記は過去の近現代文学たとえば金井美恵子でいえば『文章教室』などにも多数ありましたがこういうふうにスパダリ鬼畜系叙述トリック?な内容とマッチした「侵入」のかたちでの表現は初めて見たようにおもいます)。この方は合同アンソロジーに何度も参加経験があるからか書き方が慣れている感じで、今回のテーマに一番マッチしているのはこの短篇ではないでしょうか。三題噺ふうにいえば「百合」にカップリングされた「夜」から太陽が引き出されて、そこに異質な「ASMR」がぶつかってくる、という、さながら俳諧的な飛躍に、謎をちょくちょく残しながら進めていく書き方も、最近周囲で「小説がうまい」という言い回しが若干話題になりましたが、その意味で、うまい。

(完全に偶然ですが笹帽子さんの直前の私の担当篇のラストで出したEARTHのドローン・ミュージックというのは重低音を聞いたらリラックスできた――神経性頭痛がなくなった――ということなので、ASMRと繋がってんじゃん! と思いましたが誰も気づいてくれないと思うのでこの機会に書いておきます)

 

鈴木りつ「夜はさらなり」

「でもあれらしいよ 曜変天目が再現できたら、国から賞とかもらえるって」

「そうなんだ それで再現できそうなの?」

 実は、千葉さんと鈴木さんは落ちたかな(ションボリ)……と思った時があった(あったのです)。で、ある朝起きたら8頁くらいのPDFがアップされていて、6時くらいに読んだ。一日で仕上げた、という御本人の言はもちろん、ゼロから作り上げたわけではなく、事前にあるていど準備をしておいて一気呵成に描いた、ということだと思いますが、正直、「これが本当のクリエイティビティーというものか!」と衝撃に打たれた。すぐさまPDFを拡大して隅から隅まで眺めたんですが、全部の描線(あとスミの表現と映像的なモンタージュ感覚)がピチピチ生きて跳ね回っている、という感じで、自分が載せてもらった挿絵とは(当然ながら)較べるべくもなく、いやむしろ自分が同じ号に載っているのが烏滸がましいほどで、私も人間として三生ぐらい善行を積んでこんな線がかけたらいいな、と切に思い、その時、ああそうか、オレは人間なのか、と思って、それまで「百合が俺を人間にしてくれた」という物言いに(ホンマかいな)と大いに疑いを差し挟む心の持ち主だったのですが、もしかするとそういうこともこの世には本当にないこともないのかもしれないな、という心性の一抹の傾きを感じたのでした。

 ところで最後に主人公がうっすらと望みをかける「曜変天目が再現できたら、国から賞とかもらえる」ですがこれは金井サンとも若干関係があるので、紹介しておきます。国の賞(章)はふつう憲法14条の「栄典の禁止」のために紫綬褒章でも文化勲章でも賞金はなく(受章式のための交通費も自腹)、その意味では受章者向けに裏ワザ的に編み出された毎年年金が支給される文化功労者芸術院会員や人間国宝(それぞれ年間350万、250万、200万支給)がターゲットになるかもしれませんが、これは作家活動のオマケみたいなものなのでたぶん早くとも50代後半からで、また定員があるので欠員(端的にいえば死亡)がない限り入れない。賞金が出るのは芸術院賞(100万円)か芸術選奨(70歳までは30万円、50歳までは20万円)ですが反体制的、とまではいわないまでもいちおう非体制的な作家にとってはこれを受けるか否かが微妙な問題となるらしく、芸術選奨まではギリOKかな?ということで『カストロの尻』で芸術選奨を受けた際のことが「50年、30年、70歳、30万円」(「新潮」2018年5月号)で書かれているのですが、そういえばかつて第三の新人たち、つまり安岡章太郎阿川弘之遠藤周作小島信夫小沼丹やが次々と芸術院会員になった際、島尾敏雄は会員になるべきかどうかでだいぶ苦しんだらしく(その後会長)、そういうのをだいたい断った瀧口修造武田泰淳大岡昇平なんかもエライとは思うのですが、あんまり人が苦しむのも私はなんだなと思って、それぞれの方の判断についてとやかく言うべきではないのかなと思い直したことがあった(絓秀実があるトークイベントで秋山駿の芸術院入会について語るのを聴いた時)。iPS細胞研究の山中教授でさえあれだけ研究資金獲得に奔走されているのを見れば(ノーベル賞の賞金は一億円弱)、曜変天目の再現(というとまるで錬金術師のようですが)で国が支援してくれるかとなると……と思うと、その茨の道が推し測られて、二人の会話のその続きがますます見守りたくなるものとなるのです。

 

九鬼ひとみ「新井さん、散歩をする」

「見えないの?」新井さんはつぶやいた。

「誰が? ここには誰もいないよ」私が答えた。

 新井さんの瞳は、私ではなく別の誰かをとらえていた。

「聞こえないの?」

「だから、何も聞こえないよ!」

 この人はすごい書き手なんだな、と思ったのは、三年前に長篇『カップラーメンの呪い』を読んだ時でした。それまでは(失礼ながら)あまり文章がうまくない方なのかな、と思っていたら、そんなセコセコした文体観をぶち壊すぐらいの世界像こそを問題にしているのだ、ということが、ようやく腹に落ちました(その前の長篇がメフィスト賞の座談会で取り上げられて、今度はもっといくんじゃないかな、と思っていたら、一行コメント欄でさえスルーされていたのは無念の極みでしたが、何らかのかたちで広く読まれるといいな、と思うのですが。たぶん、九鬼ファンが増えると思います――と二年ぐらい前に御本人にお伝えしたのですが、実現の気配がないので、ここに書いておきます。『カップラーメンの呪い』が読みたい方は、下のアカウントの九鬼ひとみさんにコンタクトしてみてください)。

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「新井さん」は「姉妹団」が出てくる話で、そういうと、わかる方には「ああ、アレね」と伝わると思いますが、初稿ではもっと違う結末で、さすがに「これはテーマからギリギリ外れてるんじゃないでしょうか」などという話が出て、今のバージョンになったのですが、それが好評だと聞くともう我が事のようにうれしくて、このまま「何を書いても九鬼節になる」という路線を確立していただきたい。あと、矢部嵩さんの挿画。そういえば「殺人野球小説」を読んだ時に、結末まで読んで、器用な方だな、と唸ったのを思い出した。

紙月真魚「君の手に花火が透ける」

けれど、永遠に続く時間を今だなんて呼べはしないのだ。

 集中では織戸さんに続く長さ(100枚弱)の一篇。末尾の参考文献一覧を見るとわかりますがこれはたださえ困難な合同テーマに輪をかけて困難なテーマに挑戦した一篇で、読むまで(どうなるかな……大丈夫かな……)と勝手ながらハラハラしました。執筆前の梗概を読んだ段階では、架空の病気にしようか、どうか、という悩みもあったような気がしますが、そうしなくて本当によかった。というのはその話を聞いた時に、私は「これは絶対に架空の病気にしない方が良い」とお話して、でもそれはそれでハードルが高くて、なぜならこれまでこれこれこういう文学史ができていて、こういう地雷原があるからで、どうですか、挑戦できると思いますか、などと深夜のボイス会議で長時間お伝えする、という客観的に見ればなかなかにパワハラ気味な行為に及んだりもしたのですが、でも紙月さんはそこに挑むだけの資格も意欲も持っていた。
 考えてみれば、伊吹亜門さんも阿津川辰海さんもデビュー前の短篇はけっこう出来にバラツキがあって、でもそれは全部チャレンジングだった。こじんまりとこぎれいにまとまることなど問題ではなかった。そういう柄の大きさを見せつけられたような気がして、また進行管理に多大な労をとっていた織戸プロデューサーのゲキヅメ(誇張表現です)を乗り越えて〈百合小説アンソロジーに参加するのはギャングに入団するのと同じぐらい硬い覚悟がなければいけないよ、と死んだお婆ちゃんは言っていました。覚悟、それはわからん。〉と韜晦的に語られた努力の跡は、さなきだに男性だらけ(多分)の執筆陣について抱かれるであろうテーマ自体の持つ社会的構造的搾取感を二重に引き受けた上でそれを内破するという試み、つまり世界変革への意志に賭けられ、それが主人公の軌跡とシンクロして、読みながら電車の中でボロボロ泣いてしまいました(実際には整合性がよくわからない部分はあり、とりわけ最後にウルフカットの人物が現れるくだりは個人的にはやりすぎに思うのですが)。手記の最終盤、作者が台詞をキーで叩いているというよりは、人物の喉から声が迸っているように感じて、その強度は私もやろうと思ってできなかったことで、この人は色々アンバランスだけど、もう物語作者なんだな、とおもった。

 

murashit「できるかな」

人みな、さまざまな通信手段を介して、情報や感情をやりとりしています。情報や感情は複雑にエンコードされ、特定の誰か、あるいは不特定の誰かのもとに届けられています。届けずにはいられないからです。ですから、ひとけのない草むらにおもむくよりも、あなたの手元にあるスマートフォン、情報をやりとりするために作られた小さな機械(これも電気で動いています)をいじって、あの日あったことを誰かにぶつけてやればよいのです。みんなそうしています。あなたもそうしたのでしょうか。それともやっぱり、誰にも言えなかったのでしょうか。

 これは二人称小説ですが「夜になっても走りつづけろ」と大きく異なるのは、語り手の立っているシチュエーションが見えにくい点で、迂回的な噛んで含めるような語り口で、どうやら深夜に酔っぱらって帰り道についているらしい聞き手の状況を実況中継式に説明して作品世界を建て上げながら、しだいしだいにストーカー的というのか催眠的というのかナラティブセラピー的というのか、「あなた」と「わたし」の関係が見えてきて、そうか、そう終わるのか。というところで、終わる。

 ところが――最後まで読んだ方は、ここのあらすじ(いわばテクスト外)をよーく読んで下さい。エッと思うはず。そういえば冒頭に戻ると「はじめに」と書いてあった。「はじめに」とは何か。これはほんとうにメークビリーブなのか。だったらこのテクストはいったいどうやって出力されたのか。大いなる「???」の渦に巻き込まれることでしょう。ボルヘス的なようでいてそうでないような、正直一番「やられたな」と思ったフィニッシュだからとやかく言わずに「とにかく読んで」としか言いようがないのですが、こうなるともう「あとがき」が偶然?存在しないのさえ飢餓感を煽り立てられますね。

 

谷林守「彼女の身体はとても冷たい」

夏が近づいてくると、雨上がりの空気感が変わってくる。パーカーがじめっとする感触は不快だけど、雨上がりのにおいがアスファルトから立ち上がるときは、からっとした空がもうすぐやってくるという夏の予感が胸を満たしてくれる。そのにおいをかぐと、心がわくわくした。

 谷林さんは文書捏造能力(良い意味で)がほとんど辻原登的方向に進まんとされていますがこれは純粋に非SFで、学校ミステリ系です。たぶん、アンソロジーのテーマに対しては一番ストレートな、というか、手にした読者は事前にはおおよそこういう話を想像していたんじゃないしょうか(他が変化球だらけなので)。これは書いたら谷林さんに怒られるかもしれませんが、しかし他に書く機会がなくて私は良い話だと思うので紹介してしまいますが(なので先に謝罪したいと思います、申し訳ありません)、7~8年ぐらい前に谷林さん(その頃はまだおそらく谷林さんではなかった)が「小説に無関係な事象は世界に一つもない」(大意)とドストエフスキー直系的な発言をtwitterでしたら、どなたかが「じゃあ谷林さん(繰り返しますがその頃はまだ谷林さんではなかった)もいつかファッションを語れるようになるんですか」と絡んでいたのを目撃したのですが、私はこれは谷林さんが絶対正しいと思った。
 で、そういう、今を生きている人間(この作品でいえば地方から東京に引っ越してきた人物)が全身をセンサーにして全世界を感覚するという文章の「肌ざわり」(by尾辻克彦)が端々に現れていて、そのディティールの密度は同じく学校を舞台にした私とは比較にならないリッチさで、絶えず変化する人間関係の距離感、東京の昼と夜、賭けに用いられる食い物の個数とスイーツ系飲み物の数ヶ月差タッチの流行り廃り、プールの後の体感温度、吐瀉物の滲み広がりぐあい、幼い頃の記憶の仕方、などなど、いちいち(この人はここまで観察しているのか)と思わせられる。あと一つ挙げるとすると、本作では収録作中、ディスコミュニケーションが最も明確なかたちで露わになる。これはどちらかといえば「友愛」のほうに傾きがちだったこのアンソロジーの中では珍しく、だから「あの人は救われないままその後どうなったんだろう」というのが最も気になるわけですが、この「断絶」の身振りはやはりあえて取られたものと考えるべきでしょう(またモチーフとしてもちょうど織戸作の裏ヴァージョンのようなかたちになっており、「母親との関係がうまくいっていない」という私含め被りがちな設定を各人がどのように料理しているか、も比べどころ)。のみならず、アンソロジーを最初から順番に読んだ読者は、murashit→谷林守→千葉集と、作中のモチーフが不思議に奇跡的にミラクルにマジカルに連鎖してゆくことに気づくでしょう。これは純然たる偶然なのかそれとも多少なりとも執筆者が意識したかどうかはわかりませんが(原稿提出は参加者全員が見られるサーバー上で行われたので)、もしかすると多人数参加アンソロジー独自の面白味なのかもしれません。

 

千葉集「芋よりほかにふかすものもなし」

 食を通じて無知な大衆に知恵をさずけ、よりよき生を提案する。啓蒙かくあるべきと言わざるをえない。
「〝へえ~……あっ、でもビタミンCは熱に弱いんでしょ。焼き芋にしたらダメなんじゃないんですか?〟」
 あっ、痛いところだぞ。山岡さんもこれまでか……?
「〝それが違うんだな!〟」
 さっすが~~~。

 企画が動き出した頃に伊吹亜門『雨と短銃』が出て、千葉さんが〈あれからもう五年か……みなさんはどうですか。成長しましたか。本格ミステリ大賞は獲れましたか。〉といったので、〈少なくとも同人誌出したり特別賞もらったり連載したりしてるから漸進してるのでは〉〈😭〉というやりとりがあった。この前の『日本探偵小説全集リミックス』で千葉さんの「風博士vs.フェラーリ」が自主ボツになった時に、千葉さんも書き手としてそれなりに自己内ハードルが高くなってきているのかな、と勘ぐったりしたものでした。
 さて最終篇。アンソロジーのトリで総括的というか象徴的というか、ジャンル全体を俯瞰するようなメタジャンル的な話でオチをつけて読者の印象に残ってオイシイところを持って行く、というのはズルい人が使いがちな手で、私は『異色作家短篇集リミックス』『日本探偵小説全集リミックス』で二回ともトリでそういう反則技を使ってしまったので、今回はなるべく姿勢低くピースの一片になろうと思って、ではトリ役は誰かな、と思っていたら、千葉さんがそういう話を書いてくれたので、これを最後にしましょう、と提案したらそれが通ったのでした(「どこがメタジャンルやねん」と思われるかもしれませんが)。つまり織戸~谷林で本編が一周して千葉作でエピローグ的に終る、という感じになっているのですが、最初はもっと全然違う話で、学園ものとかアイドルものとか、話の根本から二転三転したはずですが、結果としては的の真ん中をハズシしているようでいてそうでないような、「よふかし百合とはいったい何だったのか」と読み手の心中をざわざわと搔き乱して即断を許さずいつまでも余韻の尾を引かせてまた新たな次の夜へと向かわしめるような、一番いいかたちになったのではないでしょうか。

***

 何千言かを費やして書いてきましたがちょうど書き終りつつある頃に上の評をお見かけして、ああそうか結局そういうことだったのか 、とその一言でようやく自分(たち)が何をやっていたのかが腑に落ちた。

 金井美恵子の第一エッセイ集『夜になっても遊びつづけろ』のタイトルの元となった堀川正美「経験」が最初に引かれている冒頭の一篇「若者たちは無言のノンを言う」は1967年11月に発表されたフーテン族に関するもので、本の全体としてはいわゆる68年ムーヴメントというかカウンターカルチャーの色が強い。それから半世紀以上経って当時の人もだいぶ死んだり生き残ったり成功したり失敗したりしたはずですが、私は十何年か前に京都の古本屋で文庫本(1050円)を買って、あと東京に出て来た時に単行本(315円)も買って、エッセイ・コレクション(2376円)が出た時にも買って、何度かパラパラめくってきたように思う。

なぜこれであれほどまでに焦げ付くのかがわからないんだけど、こういうのはもしかすると自転車に乗れる人が「自転車に乗れない人の感覚がわからない」というみたいなものなのかもしれない。

 2020年の春頃から自分でもよくわからない(本当はわかっている)実存的不安なのか夜泣き対応の後遺症なのか何なのか、22時ぐらいに子供と寝落ちして夜中の1~2時ぐらいに眼が覚めることが多くて、こんな生活してたら身体に悪いんだろうなあそのうち頭の血管破裂したり心臓発作起こしたりでもしたらヤダなと思いながら、企画が決まってからは起きる度に最近ようやく入手したPCに向かって、ああこんなんじゃ駄目だみんなが俺を笑ってるいや失笑さえ洩れない絶対零度だシチュエーションを逆手に取って読者全体をズンドコに突き落とすような小賢しい真似なんてできないし元々ない人望をさらに失うだけいやそれより一年待たせる方がひどい完成度より完成だ二番手になって勢いをつけるのが大事なんだ誰だってクソくだらないものの十や二十は書いてる駄作を発表する勇気!やっぱ没!妖異金瓶梅のオマージュなんかできないよ!山村正夫の忍者物ひでえな!もう昔のネタで凌ぐしかないのか!ラストはマシに書けたかもな!などと去り来たる思いをこう圧縮して書いてみるとヤバい人のようですが、別にそういうことではなくて、大体一か月ほど一夜一夜を呻吟して過ごしていくうちに春の夜明けはだんだんと早まっていったのですが、グロテスクで汚辱に塗れた世界の只中で、「日々の暮らしを豊かにしていく」(by織戸久貴)こととはいったい何なのか、ということを多少は実感できたように思います。もしかすると、ここまで読んできてくださった方にとっても、それが同じようであったら良いのですが。

 結果的に、いつものストレンジ・フィクションズメンバーから不参加となったのは犬飼ねこそぎさんだけでしたが、その代り(?)、カッパ・ツーを受賞したデビュー長篇『密室は御手の中』がついに完成して、7月28日に出るそうです。

www.hanmoto.com
 こちらもよろしくお願いします。

 ところで、レヴィ・ストロースの言う、思春期のインディアンが手に入れようとする守護霊、そのために試練の旅に出るところの守護霊に見合うものは、わたしたちにとってどのような形をもつのだろうか。わたしは文学少女だからさしあたって、守護霊は言霊だというくらいの破廉恥さは持ちあわせているが、他人のことは知らない。

 さてさて、いよいよこの原稿も終わりに近づいて来て実際嬉しさを隠しきれないところだ。今夜も、ジョージやサディやジミーや、ダダちゃんやキダくんは新宿のサテンでボンヤリしていることだろう。あるいはお芝居ごっこをしているかもしれない。とにかく、夜になっても遊びつづけろ! わたしは彼らの将来を心配する老婆心は起さないし、今年の夏彼らが社会に与えた衝撃を買い被りもしない。

ストレンジ・フィクションズ臨時増刊『夜になっても遊びつづけろ よふかし百合アンソロジー』に寄稿しました。

 織戸久貴さん完全プロデュースによるチャリティ同人誌『(ストレンジ・フィクションズ臨時増刊)夜になっても遊びつづけろ よふかし百合アンソロジー』がリリースされました。

 詳しくは以下を御覧ください。

note.com

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 私は短篇「餃子の焼き方。」本文と挿絵を寄稿しました。

 よろしければよろしくお願いします。

 

 

「殊能将之」と『楚辞』

 以下に掲出するのは、第28回東京文学フリマで頒布した有料ペーパー「T B C N海賊版v o l.2 特集・殊能将之(その二)余滴」に載せた記事です。『立ち読み会会報誌』第二号の責了後に、

「そういえば〈殊能将之〉って〈特殊な才能で軍勢を率いる〉という意味だといわれているけど、ホントかな?」

 という疑問がフト浮かんで、それについてアレコレ読みながら書いたものです。なにしろ数時間の勢いで書いたものなので、もっとちゃんと『楚辞』の訳文を読み比べるなど色々した後でこのブログにも載せたいな、と思っていたのですが(特に、中国語および中国古典文学に詳しい方にしてみれば、ツッコミどころがあるはずなので)、特に進展しないまま二年が経ってしまいました。ある種のヨタ話というか、眉唾というお気持ちで、御覧いただければ幸いです(そして、耳寄り情報があったら、ぜひ教えてください!!)。

 

***

 

【『楚辞』について】
○第二号を責了したあとで、私はある一つの重大な点を見落としていることに気がついた。それは、「殊能将之」というペンネームの典拠とされる『楚辞』をまだ見ていないということだ。
殊能将之」の元ネタは『楚辞』だよ、ということは、いつ頃からいわれだしたのだろう。いま初出を確認する余裕がないが、『美濃牛』文庫版(2003)の池波志乃解説にはすでに〈『楚辞』から引いたと思われる筆名〉とあるから、たぶんそれ以前なのだろう。『黒い仏』文庫版(2004)の豊崎由美解説ではさらに踏み込んで、〈『楚辞』中の一編、屈原「天問」の〈殊能将レ之 (しゅのうもてこれをひきいたる(特殊な才能でこれ“軍勢”を率いる)という言の引用である〉とある(2019年5月5日現在、日本版ウィキペディアにも豊崎解説を根拠にそう書いてある)。
 ところが、『楚辞』の日本語訳をいくつか見てみると、この「殊能将之」という語句には、どうも異なる解釈が存在し、必ずしも「特殊な才能でこれ“軍勢”を率いる」という意味では定まっていないようなのだ。ここでは、そうした複数の解釈について記すことにする。
 そのために、まず『楚辞』と屈原について紹介しよう。
『楚辞』は中国南部の楚地方で作られた韻文17篇を集めたアンソロジーで、中心を成すのは屈原(前343-前278)によるものとされている。屈原は博覧強記の文人でかつ政治家でもあったが、ある時、対立する同僚の策略によって失脚し、楚を追い出されてしまう。滅亡しゆく祖国への愛と憤懣を元に作られたのが『楚辞』所収の諸編だが、さすがに大昔のことだけに、(ホントに屈原が書いたのか?)という見方も強くあって、後世の人々の手が入っているんではないかという点、ホメロスと似たような事情かもしれません(最期は汨羅江に身を投げて死んだ、その旧暦5月5日・端午の節句にチマキを作って食べる風習はもともと、屈原を鎮魂するための行事からだった――と書いていて気づいたが、今日はたまたま5月5日ではないか)。屈原による原文は残っておらず、後世に書かれたおびただしい註釈本を総合して、現在流布しているバージョンは成り立っている。
「天問」は『楚辞』の中でも、いっぷう変わった一篇。成立事情としては――祖国を追放され彷徨していた屈原がある時、楚の先王の廟にたどりついた。その建物には森羅万象の伝説を描いた図画があった。それ見た屈原の胸中から、古今の伝説に関する疑問が一挙に噴出し、それを壁に書きつけた……というもの。なので、全体は詩というか、190弱の疑問文、というよりも疑問文の形をした説明(屈原は別に「答え」を必要としているわけではない)の集積によって書かれている。思い切っていえば、「中国の伝説あるある」をテツandトモの「なんでだろう~」の形式で書いた、といえば想像しやすいかもしれない。
 該当箇所は第九段(この「段」という区切り方も便宜的なものなので、ものによっては第●行、などとも書かれています)。天地開闢への疑問(この世の始まりをいったい誰が語り伝え得たのか?)から始まって時間を前後しながら、だいたい周王朝(前1050頃‐前256年)の成立あたりまでたどりついた箇所。そこにこうある。

 

稷維元子 帝何竺之
投之於冰上 鳥何燠之
何馮弓挾矢 殊能將之
既驚帝切激 何逢長之

 

 まず、最初の「稷」=后稷について紹介しよう。
 后稷(こうしょく)は中国の古代神話に出てくる人物で、その十五代後の武王が周王朝を建てた(つまり実在が疑わしい人物だが、いちおう武王の系図をたどれば后稷に行き着く、とされている)。后稷には出生の時から奇怪なエピソードがまつわりついていた。帝・嚳(こく)の妃であった母・姜嫄がある時、巨人の足跡を踏んで妊娠した。怪しく思い、生まれた赤子を何度か捨ててようとするのだが、そのたびに動物たちが彼を守ったので、赤子を育てることにした。すると彼は、幼少期から不思議と植物を育てることが得意で、長じて帝・舜に仕えて農師を務めたことから、のちに「農業神」として称えられることになった――すなわち后稷=農事に強い人、というパブリックイメージが、「天問」のこの部分の前提としてある。だから、「稷維元子 帝何竺之 投之於冰上 鳥何燠之」とは、「稷は元子、帝何ぞ之を竺(毒)する。之を氷上に投ずれば、鳥何ぞ之を燠(あたため)る」で、「稷は帝の子なのに、帝が彼を憎んだのなんでだろう~? 稷を氷の上に投げ捨てたら、鳥が彼を温めたのなんでだろう~?」という意味であり、ここには解釈の余地は少ない。
 ところが、次が問題になる。というのは、后稷といえば農事、というパブリックイメージであるにもかかわらず、テクストはなぜか弓矢すなわち武芸の才能の話題に移るからだ。「殊能将之」の語句に関していえば、
  ①「殊能」とは何か?
  ②「之」とは何か?
  ③これは誰について述べているのか?
 について、解釈が分かれることになる。『楚辞』に関する最も早く基礎的な註釈者・王逸(2世紀前半頃)は「殊能」の持ち主は后稷という見方。後世の有力な註釈者・洪興祖(12世紀前半頃)は武王(后稷の子孫で周王朝の建国者)という見方だという。
 私は中国語はよくわからないので、『楚辞』の邦訳を何バージョンか見ただけだが、日本語訳の場合は現在、だいたい武王説が多いようだ。すなわち、このブロックだけを見ると「武王」という名は出てこないので、「なんで后稷の話からいきなり武王の話になるの?」とも思うが、この「天問」ではそれまでの流れで武王の話をしているので、話題が后稷から急に弓矢の才能の持ち主=武王に移行しても無理がない、という見方。星川清孝訳(明治書院、1970)によれば、「何馮弓挾矢 殊能將之 既驚帝切激 何逢長之」とは、「どうして弓をひきしぼり、矢をたばさんで、周の武王はすぐれた才能を以て衆をひきいたのであろうか。すでに帝紂を驚かすことがはげしかったのに、どうして子孫長く王位に居るという幸運に逢ったのであろうか」という、周王朝の建国にまつわる解釈になる。つまり、
  ①殊能=武芸
  ②之=衆(軍勢)
  ③才能の持ち主=武王
 という見方だ(先の豊崎解説もこうした説によるものだろう)。
 一方、橋本循の訳注(岩波文庫、1935)では后稷説を採っている。

 

后稷は長じて後、堯に事(つか)へて司馬たりしことあり。(司馬は兵馬を統率する役なり。)其時稷は弓を引くに満を持し矢を挟み、衆に秀でたる絶藝あり、以て衆を率いたるが、如何なれば、かゝる殊能を有せしや。其の生るるや帝嚳の驚き憎むこと激切にして、之を陋巷に、平林に、氷上に棄てたるに如何なれば子孫長く国を享くるに至りしや。

 

 しかし、武王と「弓矢」とはすんなり結びつくが、后稷がスゴイ武芸の持ち主だったという話はいまいちピンとこない(后稷伝説について言及のある『史記』や『詩経』にもそんなエピソードはない)。橋本は后稷と武芸の結びつきについて、劉永濟の註釈書『天問通箋』を根拠にこう説明する。

 

此章は后稷が司馬たりし時のことを言ふなり。古経籍には后稷が農官たりしことを言へども其の弓矢を将ゆるを言ふ者なし。たゞ詩疏に尚書刑徳放を引いて稷の司馬たりしことを云ひ、「詩の魯頌閟宮篇」の鄭箋にも后稷の司馬たりしことを云ふ。按ずるに屈原は多く古史異説に本づき儒書と異る所あり。

 

 すなわち、后稷がスゴイ武芸の持ち主だったという根拠はないが、司馬=兵馬を統率する役職にいたことがあるというエピソードはいくつかの文献にある。たぶん屈原はこうした異説に基づいて、后稷と武芸の関係について書いたのだろう……云々。これだと以下になる。
  ①殊能=武芸
  ②之=衆
  ③才能の持ち主=后稷
 ところが、中国の古詩とその解釈を掲載したサイト「古詩文網」の「天問」およびその日本語訳を掲載しているブログ「プロメテウス」の記事「屈原の天問を読もう!この疑問が解ればあなたも中国神話上級者!!」を見て私は驚いた。そこでは次のように解釈されている。

 

 为何长大仗弓持箭,善治农业怀有奇能?(「古詩文網」)
(后稷は)なぜ弓矢と共に育ったのに、農業を善く行い特別な才能を持ったのか?(「プロメテウス」)

 

 くりかえしになるが私は中国語がわからないので、「古詩文網」のこの部分の注釈部分にある、

 

何冯弓挟矢:冯,通“秉”,持。将,资。闻一多说:“言天何以秉弓挟矢之殊能资后稷也。传说盖为后稷初生,有殊异之质,能秉弓挟矢,其事神异,故举而问之。”

 

 がどういうニュアンスなのか、またどういう根拠に基づいた解釈なのか理解できないのが残念だが(そこで五冊くらい挙げられている注釈書をキチッと読み込めばわかるのかもしれませんが……)、さしあたり上記の見方によれば、
  ①殊能=農事その他
  ②之=衆
  ③才能の持ち主=后稷
 で、原文の配列における「后稷=農官、農業神」と「武芸の才能」という対立するイメージの矛盾を含みこんで、「后稷が武芸と農事どっちも得意だったのなんでだろう~?」という疑問を屈原は書いたんだ、という説にならないだろうか?
 さて、『楚辞』に関する長い紹介だったが、ようやく今回の言いたいことに辿り着いた。
 私は以上の解釈のうち、どれが有力なのかも判断できないし、またセンセーがペンネームをつけるにあたりどの訳本を御覧になったのかも知らないが、面白いのは最後のものだと思う。すなわち――

 

(何馮弓挾矢)殊能将之?=(なぜ弓矢と共に育ったのに、)農業を善く行い特別な才能を持ったのか?

 

 という疑問文を思いっ切り意訳すれば、このペンネームは、

 

(なぜSF研出身なのに)本格ミステリを書いてデビューしたのか?

 

 という自嘲が込められている、とパラフレーズできなくもないだろうからだ。そして、あれほどエドガー・アラン・ポーと誕生日が同じ1月19日であることを公言していたセンセーのことであるから、クリストファー・プリースト『奇術師』への感想で

 

わたしは本格ミステリとSFという「似たものどうし」に思いをめぐらせた。このふたつのジャンルは、ともにエドガー・アラン・ポーを直接の起源としており、双子の兄弟といってもよい。(「memo」2004年4月後半)

 

 と書かれていたことも考え併せると、そうした「問い」に対する「答え」がありうるとすれば、その二つは通底しているからだ、ということになるのではないかと思う。
 なにぶん門外漢の浅知恵なので、詳しい方からすれば、それは無理筋でしょ、と言われるかもしれないですが、しかし、一門外漢としては、〈それこそ「サンプリング」の精神だと啖呵を切〉りたい気持もないではない。

 

(以下は慶長年間発行の『歴代君臣図像』国会図書館デジタルコレクションより。上図が后稷、下図が武王。「殊能」の持ち主は一体、どっちだ!)

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