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襤褸は着ててもロックンロール

ストフィク臨増『ダブリナーズ』の話の続きと自作「胡瓜の絞り方。」改め「サウナとサンドイッチ」の仮公開

https://anatataki.hatenablog.com/entry/2024/05/15/132620

の話の続きです。
文学フリマ東京で初売りとなったストレンジ・フィクションズ臨時増刊『ダブリナーズ 留年百合アンソロジー』はおかげさまで紙版が会場売り・通販ともに即完売となりました。
で、そのままではもったいないので、近く電子版を出すそうです。
詳しくは公式アカウントをご覧ください。
(正式アナウンスにともない、このブログ記事の文面も微調整する予定です。)

   *

私はそこに「パンケーキの重ね方。」という短篇を寄稿しました。
これは『夜になっても遊びつづけろ よふかし百合アンソロジー』に寄稿した「餃子の焼き方。」、『ストレンジ・フィクションズ』第四号に寄稿した「胡瓜の絞り方。」に続く自炊探偵シリーズ(仮称)の第三話です。

以下は弁明です。
私は今回、完全に判断を誤りました。
まず、書き下ろしの合同アンソロジーに続き物を送ってはいけません。
読まれた方の感想を見るなり、(一人だけ何やっとんねんこいつ)という戸惑いが痛いほど伝わり、後悔しかありません。
しかも、その前の話にあたる第二話を載せた『ストレンジ・フィクションズ』第四号は、突貫号なので、電子版の予定はありません。
なので、「お前の話はなんだかよくわからない」という指摘を複数いただいたにもかかわらず、現状ではご案内する手段がありません。

そこで今回、主宰にお断りをして、私のこのblogで仮公開することにしました。
「仮公開」というのは、この話は四日で2万4000字と自分史上最速で書き上げたので、いろいろと矛盾があり、そのうち直したいからです。
イラストも付けようかと思いましたが、それをするとまたズルズルと延びそうなので、とりあえずテキストだけです。

   *

今回アップする第二話には非常に思い入れがあります。
ガールズバンド物で料理物で歳上物で、というと、昨今の流行を無節操に取り入れたものと思われるはずですが(そういう面もなくはありませんが)、実際には、この設定を考えたのは十年ほど前でした。
その時の私は、安楽椅子探偵物を書いてみたかったのです。
しかし私に本格短篇を量産する能力はなく(それどころか、一篇の本格短篇を書く能力さえもなく)、歳月だけが虚しく過ぎました。
それがかたちになる最初の契機は、2021年に『夜になっても遊びつづけろ』にお誘いいただいたことです。
それからまた瞬く間に二年半が過ぎ、アラウンドサーリーからアラウンドフォーリーへと近づいた昨年末、私は思い切って、本格ミステリを諦め、この第二話を一気呵成に(後半分は一晩で)書きました。
すると、その体験が私の脳のバランスを変えたのでしょう。
それまで十年近くさっぱり動かなかった登場人物たちが、寝ている間も勝手に動き出して、やまなくなってしまいました。
したがって、合同誌なのに続き物を提出してしまった、というのも、正確には、この二人が私の頭を占拠して出て行ってくれなくなってしまった、といった方がいいかもしれません。
現在の私の頭には、全20話くらいの構想が浮かんでいます。
3シーズンくらいに分けて、その各シーズン毎の大オチも決まっています。
しかしいったい、いつそれを書き終えられるのでしょうか。
70歳くらいでしょうか。
その頃にまで私は、今のようにミステリに興味を持てているでしょうか。
そんなに時間をかけてまで、オマエはこんな他愛ない話を書くしか能がないのか、なかったのかといわれれば、そうです、それしかできなかったのです、と頭を下げるしかありません。
話が急に大きくなりました。
できうるならば第四話以降も、今度はウェブ上あたりで書いていきたいものです。(というか、すでに書き出しています)
長くなりましたが、よろしければご覧ください。そして『ダブリナーズ』電子版もよろしくお願いします。
(実は電子版にも2万5000字ほど関連エピソードを追加で書いてしまいました。紙版を購入いただいた方もダウンロードできるそうです。……しかし私の頭はいったいどうしてしまったのでしょうか)

サウナとサンドイッチ.pdf - Google ドライブ

いだ天ふにすけ先生へ/の「手紙」

以下はいだ天ふにすけ先生の短篇成人漫画「手紙」と次の二つの記事の内容を踏まえたものです。(十八歳以下の方および未読の方はご注意ください)

 

【エロ漫画自己解説】手紙|いだ天ふにすけ@skeb受付中|pixivFANBOX

 

マンガは叙述トリックをどう表現するのか?――いだ天ふにすけ「手紙」について - 村 村

 

   *

 

「最近漫画で叙述トリックが使われた作品を読んだんですよ。成人漫画ですけど……」

と茎ひとみさんから聞いたのは二週間ほど前のことでした。

私は「叙述トリックが使われた作品」と聞くといちおう確認することにしているので、読んでみました。

その上で記事も拝読しました。

正直なところ、ミステリの仕掛けとして読んだ場合、斬新というわけではないよなあというふうに一読、感じたのでした。(当り前ですよね。ミステリじゃないんですから。というか、最初からミステリとして読まれないほうが、読者の感情に刺さる)

もちろん作品としては、絵もストーリーもエモーショナルでいいなというふうに感じました。

ただ今日、上の茎ひとみさんの解説を読んで、それまで気づかなかったことにいろいろと気づくことになったので、自分の考えをまとめてみることにしたのです。

 

「手紙」におけるボイスオーバーの手法

短篇漫画「手紙」の仕掛けを可能にしているのは、映画でいう「ボイスオーバー」の手法です。

○黒枠内に表示される〈手紙〉の語り=現在

○ヴィジュアルおよび台詞として表現されるコマ=過去(から現在へ至る過程)

というふうに、作品内の語りには二つの次元が存在している。ダイナミックに展開する過去の次元と、それにコメントを入れるような(?)現在の次元、と、いわば紙芝居のようなあり方で進行する。

こういう物語構造は映画なんかでよくあるものですから、読者も「ああ、ああいう感じね」とスンナリと受け取るでしょう。漫画でも数多く描かれてきたし、小説でもじっくり探せば思い浮かびそうです。

ただそれが紙芝居と違うのは、〈現在〉のコメント語りが、〈過去〉の作中人物の一人によるものだということです。

三人称ではなく、作中当事者の一人称として、コメントが終始被さってゆく。

いま厳密なことを確認する余裕がありませんが、こうした物語構造が流行り始めたのは、20世紀前半の映画以降といっていいのではないでしょうか。

しかも、大抵の読者が無意識に重ねているのは、サイレント映画ではなくトーキー。けれど「手紙」の仕掛けは、漫画なのでトーキーよりむしろサイレント映画に近いといったほうがよい。

どういうことか。

「手紙」の仕掛けが可能なのは、黒枠内の〈手紙〉の語りが、文字であることによります。つまり、もし音声化(ボイスドラマなど)したら、この仕掛けは、一発で読者にバレてしまいかねない危険性もあるのです(詳しくは後述)。

よく「小説の叙述トリック作品は映像化不可能」などといわれますが、そこで忘れられがちなのは、小説の語りとはそもそも、音声を擬態したものだということです。すなわち、そこに〈仕掛け〉が施された場合、映像化よりもその手前、まず音声化の時点で、〈仕掛け〉はバレてしまうものもある(特に一人称の性別逆転トリックなどの場合)。

したがって、「小説の叙述トリック作品は映像化不可能」というようないい方は正確ではない。実際、〈映像化〉には、さまざまな語りのファクターがあり、その各ファクター間にはスキマがあり、そのスキマを突くようにして、いくつかの「叙述トリック作品」は「映像化」されてきた。

 

漫画におけるshowingとtelling

↓でも書いたのですが、かつて、小説技術として「showing」と「telling」の対立、というようないい方がされた時代がありました。

 

3-2 語ること(telling)」と「示すこと(showing)」ーーパーシー・ラボック『小説の技術』 - 新・叙述トリック試論(孔田多紀) - カクヨム

 

「信頼できない語り手」の概念を提唱することになったウェイン・C・ブースが反発したのは、まさにこのshowing(映像的な提示)対telling(音声的な説明)という図式、および、「小説の語りはあまり饒舌に説明しすぎないほうがよい」というような風潮に対してです。

しかし現在なら、showing対tellingについては、もっとうまく整理することができる。

それを証明するのは、まさに漫画というメディアです。

というのは、ボイスオーバー形式をともなった漫画においては、showing(映像的な提示)対telling(音声的な説明)がともに一作において共存すること、が自明だからです。そこでは〈絵〉vs〈言葉〉という対立自体がそもそも成り立たない。

本当にそうか? 漫画だって説明しすぎてるものはあるじゃないか……ざっくりまとめるとすれば、showing対tellingという図式でいわれようとしていたのは、「作者(を思わせる語り)が三人称で説明しすぎると、物語は下手に見える」ということになるのだと思います。伝達媒体として、語り/音声(オーディオ)それ自体が視覚(ヴィジュアル)に劣っているわけではなく、それらはそれぞれ、別個の役割を果たすことができるものである。

だとすると、「下手」の逆、「上手い語り方」の特長も明らかになります。

それは「作者の意図を物語内部において説明しすぎない」ということです。

結局、これが難しいんですよね。

「語り方の上手さ」が、「説明しすぎないテクニック」によるとするならば、それは、そのテクニックを理解できるだけの読者共同体全体の読解力の向上、にもかかってきます。たとえば、絵柄は別として、今回の「手紙」のような語り方の漫画が100年前に創作されたとして、当時の読者はそれをすんなりと理解できたでしょうか。

私はアヤシイと思います。

すなわち、「手紙」の語りは、映画や小説が培ったテクニックを用いている。そしてそのテクニックとは、「より少ない説明で読者にそういうものだと理解させる」技術である。作品内で表現されることと、読者が理解することの間には、どうしても差がある。「語り方の上手さ」とは、それを少ない手順(説明)で繋ぐものなわけですが、「表現されたもの」と「理解されるもの」との間には、どうしてもスキマがある。初読者ほどそのスキマにつまずき、慣れた人ほど勝手に補完してくれる。

「暗黙の了解」とは、こうした、「表現されたもの」と「理解されるもの」との間のスキマを指します。

それを埋めるのが、通常は、語りのテクニック、ということになる。

 

「暗黙の了解」はどこにあるのか?

絵と文字が共存する、サイレント映画に近い漫画のようなメディアの場合、小説および映像とは異なる〈語り方〉がなされるのは、誰でもよくおわかりだと思います。

たとえば「手紙」のような漫画を前にして、読者は、これまで接してきた漫画や映画を無意識に想起し、読解のモードを調節していく。つまり、「暗黙」という説明のない領域を、自ら「了解」して埋めていこうとする。

一般に、叙述トリック作品が露わにするのは、この領域です。「説明」というのはどうしたってかったるい。作者はテクニックによってそれを省略しようとし、技術を先鋭化させ、読者はそれについていこうと読解力を上げる。表現と理解とのスキマはこうしてどんどん、それこそ暗黙のうちに開いていく。

叙述トリック作品はこのスキマを利用します。

思うに、それは翻訳や異言語の習得に似ています。

説明を省略するテクニックが先鋭化すればするほど、その不自然さは、慣れ親しんだ人にとっては、母国語のように自明のものになっていく。

しかしそれは、馴染みのない人にとっては、依然として外国語のように不自然なものに映る。

往々にして、ジャンルの前提を覆そうとするラディカルさと未熟さが結びつきがちなのは、こうした理由によるのでしょう。

たとえばミステリにおいては、ジャンルの「お約束」(前提)を狙い撃ちしようとする作品は、数え切れないほど作られてきた。その大多数は失敗しています。私見では、失敗の理由は、「お約束」(前提)を明らかにして、それで終ってしまうからです。

逆に、叙述トリックのような、語りの技術の洗練を逆手にとった方法で成功するためには、「お約束」(前提)が何によって成立しているのかという根底にまで露悪的に遡るか(メタミステリ)、あるいはミステリから離れまったく別のテーマと結びつける、という行き方しかないのではないかと思っています。

そして「手紙」は後者です。

 

「手紙」の回想主体は誰か?

「手紙」の語りが実現しようとしているのは、「作中の二人は両片思いだったが世間体によって両思いになることができなかった」ということです。

回想される過去の二人の思いが同じだったことを、途中までは両者どちらにもあてはまるような語りで表現されています。

それが可能なのは、先にも述べたように、媒体としては絵/文字、時空間としては過去/現在、というふうに、二種類の次元の違いを操作することによってです。

絵と文字の間には実はスキマ(暗黙の了解)がある。そしてそのスキマを利用すること、つまり作中の男女の語りがある程度交換可能であるのを示すことが、単なる底の浅い引っ掛けではなく、より高いテーマの達成に貢献している。

では、「手紙」の回想主体、いわば真の語り手は誰なのでしょうか。

それは明らかに、兄ではなく妹の方です。

視覚的なレベルでの「手紙」の回想は、全編ほぼ妹のほうの記憶に基づいています。友人との会話は兄には知りえないものですし、ステージ前で佐伯を発見するシーンなども、兄ではなく妹の記憶です。これは単に「手紙」が成人漫画だからというわけではなく、成人漫画でなくとも、妹のほうの心情に寄り添ったものとして仕掛け自体は成立するようになっています。

漫画や映画は言葉と図像を同時に使用する。だから、一人称小説とは異なり、たとえ一人称的であろうとも、それは語り言葉がそうであるだけで、現実には見えない自分の顔もバンバン映ります。そのため、その表現方法全体を現すのに「語り」とか「叙述」とかいう用語は、言語中心でありすぎる言い方で、もしかすると不正確なのかもしれない。いろいろと提案している人はいますが、それはここでは置いておきます。

「手紙」で兄の視点によると唯一いえそうな場面は、ステージ上に立つ兄の視点から切り返されたと思わしき、妹の泣いた顔を捉えるカットです(ここは本当にすばらしい)。それ以外はすべて妹側の記憶に基づきます。

では、あの〈手紙〉のモノローグはどこに位置するのか?

合理的に解釈すれば、妹が兄の手紙を読み、その記述によって過去の記憶が刺激され、手紙の進行に沿って断片的な回想がまとめられる、というふうになるのでしょう。

先に、ボイスドラマ化すればこの仕掛けは一発でバレかねない危険性がある、と述べました。実は、それを回避するのは簡単です。視覚的次元での回想が妹の記憶に基づくものなので、兄の手紙を妹の声で読めばよい。兄の語りは、単なるモノローグではなく、作中においても書かれた言葉=手紙なので、妹はそれを(声に出してか、内言でかはともかく)読むことができる。兄のモノローグが〈手紙〉でなければ、つまり心内語であれば、こうはいかない。兄が結婚式に参加した際に花嫁を眺めながら感慨を漏らすというだけのものならば(そうした語りのいかに多いことか!)、この作品の語りと視覚とは、バラバラなままなのです。初読時、私はこのモノローグが〈手紙〉であることの意味を、そこまで理解していなかった。ふつうの内言と同じていどにしか捉えていなかった。今は考え直しました。いやむしろ、この手紙は妹の声で読まれることによってこそ、本当にその役割を果たすのではないか?

この点でも、「手紙」は考えぬかれた構造をもった、優れた作品だと私は思います。

 

語りの構造を裏切るもの

その上で、私が気にかかるのは、一つの記号の存在です。

いだ天先生の自作解説記事で引用された、兄の〈手紙〉全文の終盤の文章はこうなっています。

だけど…だけど俺は。

しかし、これは正確ではありません。実際の漫画を見ると、こうなっているのです。

だけど だけどは。

この〝 〟(ダブルミニュート)はなんなのでしょう。読んだ人にはわかります。

つまり、この部分で、〈手紙〉の執筆者=モノローグの語り手が、作中の妹ではなく兄であったことが確定する。

しかしよく考えると不思議です。

もしこの黒枠内の言葉が〈手紙〉のテクストの引用ならば、兄は

〝俺〟

と書く必要がない。単に、

と書いたはずです。先に提案したように、仮に妹がこの手紙を代読したと考えとしても、この引用符は不自然です。妹が「俺」という言葉に特に力を込める理由がないからです。

すなわちこの〝 〟は、この作品が叙述トリックを用いていることを、作者が読者に明らかにしようとして、兄の語りに介入して混入させたもの、なのではないでしょうか。

ミステリ小説においても、こうした介入はよく見受けられます。

たとえばその一つは傍点です。

見取り図や登場人物紹介といった、語りの外に配置されたパーツとは異なり、解決シーンにおいて傍点がやたら振られていたりすると、作者からの語りへの介入、といったことを感じさせます。作中人物にとっては、ほとんどの場合、わざわざ傍点を振る必要がないからです。

こうした〝 〟だとか傍点だとかいった記号は、どうしても、作中人物に向けられた必然的な語りに、作品の外に存在する読者への目配せを不必要に付したもの、つまり、先の言葉でいえば、「説明」的なもの、として感じさせます。

なので、個人的には、「こういうのはなるべく無い方が完成度が高いのではないかなあ」というふうに思います。

そしてその不自然さは、漫画としての「手紙」の語りを考える上で決定的に重要です。

漫画は絵と文字からできている。この両者はまったく異質の存在なのだが、なぜか同居しており、われわれ読者はそれをなんとなく自然なこととして受け入れている。

「手紙」の語りが優れているのは、まさにこの絵と文字の同居と別離を、それぞれのレベルで実現しているところにあります。

だからこそ、あの 〝 〟の存在は、それこそ棘のように気にかかる。

以下は、純愛主義者でハッピーエンド主義者である私の妄言です。

もしこの 〝 〟がなかったらどうなっていたでしょう。

かつて(江戸時代)の心中物が、現世での恋愛を諦めあの世での結ばれを願ったように、作中現実レベルでは二人は結ばれなくとも、言語レベルでは二人は結ばれている(二人の思いは同じだから)。そんな離れ業が達成されていたのではないでしょうか。

ここで面白いのが、成人漫画独特の「お約束」です。

絵と文字が同じ媒体に同居しながら実は異なるように、肉体と精神も、同じ一人の人間に属しながら、その向いている方角は違う。そして、「手紙」においては、肉体のほうはいとも簡単に結ばれるのに、精神の方が、その結ばれの困難度が高い(端的にいえば、そっちの方が、えっち)。

解説記事でいだ天先生は「バウムクーヘン失踪エンド」を意識した、と書かれていました。その意味でいえば、 〝 〟はやはりあるべきです。もし 〝 〟がなかったならば、叙述トリック作品として意識せずにそれまで読んできた読者は(え? どういうこと?)と混乱し、Yahoo!知恵袋あたりに質問掲示板が複数立てられることにもなりかねません。記号一つでそうした無用な混乱を避けられるならば、それにこしたことはないのではないか。

つまり、「俺」を囲む 〝 〟とは、兄が超えることのできなかった見栄を現すものであり、彼の精神が最後まで脱ぎ去ることのない衣であり、それを捨てることができない以上、やはり言語レベルにおいても二人は結ばれないほうが、この作品の真の姿なのか。

しかし、いだ天先生。私は思うのですが。

なぜ、いだ天先生は、兄の〈手紙〉を全文引用する際、 〝 〟を外していたのでしょうか。それは本当は、いだ天先生も、作中現実とは違うレベルでは、二人に結ばれて欲しかったということなのでしょうか。

以上、長くなりました。

一読者の妄言としてお聞き流しいただければ幸いです。

 

いだ天ふにすけ先生へ

 

   anatatakiより

ストレンジ・フィクションズ臨時増刊への寄稿

最近このブログではストレンジ・フィクションズへの寄稿の告知しかしていませんがまた寄稿したので告知します。

ストレンジ・フィクションズ臨時増刊『ダブリナーズ 留年百合アンソロジー

初売りは5月19日の東京文学フリマ38です。
詳細は以下のリンク先ご覧ください。

https://booth.pm/ja/items/5701387

https://note.com/strange_fics/n/nc3f0b54c88c2

 *

以下は収録作の紹介と感想です。

①笹幡みなみ「全然そうは見えません」
ストレンジ・フィクションズは同人メンバーでも落としてしまう人もいるのですが、笹幡さんはなんとゲストにもかかわらずこの臨増企画には皆勤賞。で、前二号ではどちらも飛び道具的な話だったのですが、今回はなんと正統派。テーマへの堂々たる取り組みぶりに驚きました。まさに巻頭を飾るにふさわしい一篇です。あと細かい点でいえば私も最近好きなテクニックなのですが視点人物のアクションを会話相手のリアクション台詞だけで表現する箇所があり、やっぱりいいなあと思いました(探してみてください)。

②紙月真魚「海へ棄てに」
臨増第一号『夜になっても遊びつづけろ よふかし百合アンソロジー』をお読みの方は一読、その巻頭の織戸久貴「綺麗なものを閉じ込めて、あの湖に沈めたの」を想起されることでしょう。つまり水辺に何かを捨てに行くロングウォーク系の話という意味で。すると水辺にたどり着いてからどうするか、というのが解決の仕方、というか、作者のフェティッシュの現れぶりになってくるわけですが、そのあたりをぜひ読み比べてみてください。

③鷲羽巧「still」
横書きの断章と対になるスケッチで構成された一篇です。見た瞬間、(これでも小説になるのか)という驚き。贅言を費やさずとも最小の字数で(小説になる)という有無をいわさぬ説得力。今回のアイデア賞ものではないでしょうか。前回の笹幡さんもそうでしたが一読生涯忘れえない鮮明なアイデアを発明できるというのはやっぱりすごいことですね。

④茎ひとみ「切断された言葉」
前回「スマホの読み上げアプリ」という卓抜なギミックで強烈な印象を残した茎さんがまたしてもやってくれました。今回は……です。地の文でもセリフでも文字でもない(作中世界では)ゴツゴツしたモノの異様な存在感たるや。茎さんはホラー志向の方なのでオチがだいたい似通ってきてしまうという憾みがこれまでありましたがギミックなどを用いることによってオチに至るまでのバリエーションの幅が出てきたのではないかという気がします。あと茎さんはネットでもっと何か創作が読めるようにすると読者が増えると思います。

⑤小野繙「ウニは育つのに五年かかる」
小野さんは初参加です。最初の「オホォ!」で(「オホォ!」かあ……)と一瞬思いましたが後でそれはオホーツク海のオホーだったことがわかり吃驚しました。それから「絶対東大ッ!」で(この話はいったいどこに行くんだ……)と早くも途方に暮れ(唐十郎の演劇『泥人魚』を見て同様のことを思ったことがあるのを思い出しました)、青春模様になると思ったらいきなりミステリになる。正直、アンソロジー中で一番しっかりミステリしているので、嫉妬で気が狂いそうです。実は場面分けに六本線アステリスクではなく五本線アステリスクを使ってはいかが(ただしそこだけフォントを変える必要がある)かと校正作業中に提案しようとしましたがなんとなくヒトデみたいに見えてきたので提案するのをやめたことを告白しておきます。

⑥murashit「不可侵条約」
まず、こういう書き方で読者に伝える・伝わる、という度胸がすごい。濃度を薄めるだけのゴチャゴチャした説明は不要だということ、読者を信頼するということ、その肝の据わり方が独特の世界感触を作り上げているので、不安の裏返しでペラペラと余分な贅肉を増やしがちな自分としてはこれはぜひ見習いたいなあと思いました。あと会話部分にしだいに横田創味が出てくるのはやっぱり演劇だからでしょうか。

⑦孔田多紀「パンケーキの重ね方。」
自作です。今回、強い後悔が二つあり、まず『夜になっても遊びつづけろ』以来の続き物にしてしまったということで、最初は自分は賑やかしくらいに思っていたので軽く考えていたのですが、積み重なる提出原稿に目を通すうち力作が多いのに焦りだし、やっぱり独立したものを出せばよかったと思った時には後の祭り。次こそ単独優勝を目指したいと思ったものでした(さらに続きを書くとしたらウェブ上にするはず)。もう一つ、終盤である一つのギミックを使ってみたかったので、それを組み込むために全体のバランスは致命的なまでに崩れました。(そんな奴おらんやろ)と思うと自分でも読み返すのがツライのであまり校正に目を通せなかったのですが(だから変な記述がちょくちょくある)でもやってみたかったのでやってしまいました。もっとうまいまとめ方はなかったのだろうか。

⑧織戸久貴「春にはぐれる」
以前織戸さんに新人賞に投稿する際はコメディベースよりシリアスベースの方が受けがいいと思いますよ(その方が出版社は読者にアプローチしやすいから)とヨコシマなアドバイス罪を犯したことがあるのですがそのことが私自身長らくそれでよかったのだろうかと頭の隅に引っかかっていて今回また色々と考えさせられました。たとえば今号に寄稿された話はいずれもほぼユーモアとエモーションが各人の塩梅で配分されているので、コメディともシリアスともいいがたい(しかしケア系の動因が根っこにあるとするとやっぱりシリアスベースかもしれない)、したがってコメディだから即受けにくいとはいえない、ただパロディネタといわゆる「お約束」ネタはなるべく避けた方がよいのではないか、その方が作者自身の精神衛生上もよいのではないだろうか(私もパロディネタを一箇所入れてしまったのがなんとなく心残りになっています)、云々。私は織戸さんの作風だとコメディ35:シリアス65くらいの割合の方が好きなので、今作はそれぐらいのジャストな感じを受けました(計算が間違ってたらすみません)。それはともかくこの短篇の特長はなんと作品世界全体にワンダーを持ち込むことで留年=遅れるという捉え方が無効化してしまう。これはさすがにトリの風格だなと思いました(空間としての狭い京都感もすごい出ている)。私もそろそろトリの風格を会得したいのですがどうすれば会得できるのでしょうか。

 *

以上八篇です。正直、今回が参加者として一番凹みました。読まれる方におかれてはそれだけ力作揃いということなのでご期待ください。

文章技術的な部分で自分の弱点だなあと感じたのは台詞と地の文がベターッとつきすぎることで、これはあんまりつきすぎてはいけない、想像力や情緒を受け入れられる行間を作ったまま持続的に記述を伸ばしていく、というのがたぶん、こういう小説における文章のうまさなのでしょう。今度からはそこを努力したいものです。(たとえばディスカッション部分における台詞と地の文の密着の度合いを収録作それぞれに読み比べてみると各人の特徴がわかるのではないかと思います)

あと締切後に間に合わなかった人のぶんの原稿も救済措置(追加パック)があるそうなので、まだまだ終わらないみたいです。どんどんメタボリック化していきますね。このままではストフィクは百合アンソロジーサークルになってしまう。それはともかく追加原稿にもご注目ください。
よろしくお願いします。

ストレンジ・フィクションズ第四号への執筆

 告知をボヤボヤしているうちに売り切れてしまったのですが、同人誌ストレンジ・フィクションズ第四号に短篇「胡瓜の絞り方。」を執筆しました。

 これは、2021年7月に電子リリースされたストレンジ・フィクションズ臨時増刊『夜になっても遊びつづけろ 夜ふかし百合アンソロジー』に執筆した「餃子の焼き方。」に続く、自炊探偵シリーズの第二話です。

 今年の前半に、また臨時増刊企画が予定されているので、そこに第三話を書こうと思っています。

 織戸久貴さん/千葉集さん主幹のストレンジ・フィクションズにはこの五年間でけっこうな分量を発表していることに気がつきました。

 その中で、結果的にメタフィクションとなった四作が合計400枚くらいあり、いずれ改稿して自分でまとめたいなあと思っています(内訳は「特別資料」特集・異色作家短篇集/「『田端心中』の謎」特集・日本探偵小説全集/「ゲームの規則」特集・ゲーム小説/「ポストカード」特集・声百合)。

 で、この自炊探偵シリーズも、5~6話くらい書いたら、自分でまとめたいなあと考えています。

 私は長年書きたいと思うものを書けずにフラストレーションが溜まりがちだったのですが、「ストフィクには絶対落とさないようにしよう!」と思ううち、最近は「この辺でもう諦めるか……」という妥協スキルが身についてきたのか、書けるペースが少し早まってきたような気がしています。同人の方々には感謝、感謝です。

 また何か告知できることが出てきましたら、ここで告知します。

 今後ともよろしくお願いします。

ストフィク臨増への寄稿

ストレンジ・フィクションズ臨時増刊号『まだ火のつかぬ言葉のように 声百合アンソロジー』がリリースされました。

臨時増刊号は二年ぶりです。
前回どうよう色々なバリエーションの短篇が入っています。

詳細はリンク先をご覧ください。(前回は電子版オンリーでしたが今回は紙版オンリー)

https://booth.pm/ja/items/5087793

私は「ポストカード」という作品で3万字ほど寄稿しています。
もうメタフィクションはやめよう、と毎回思いながら、またそんな感じの話になってしまいました。
いっそのこと、そのうちそれだけまとめて個人誌にしてみようかな、などとも考えています。

ストフィクのリリース時はいつも(またうまくいかなかったな……)という強い無力感に苛まれるのですが今回はいくつか書けてよかったなというシーンがありました。
それと今回は自分のセルフ没原稿が多かったので、それらもちゃちゃっと挙げておきたいなとも考えています。

よければご覧ください。

2022年に聴いた音楽で思い出すもの

reza8823.hatenablog.com

青サンのブログを読んだら(そういえば自分も今年もいろいろ音楽を聴いたはずだからそれについてメモしておきたいな)という思いがフト湧いたので、書くことにします(こういう話題を書くのはいつ以来でしょうか)。

とはいえ私は「新譜が出たらすぐに聴く」「体系的にdiggingする」というような能動的な聴き方はしておらず、「サブスクでサジェストされたらボタンを押す」というくらいの非常に受動的な聴き方しかしておりません。

そのためでしょうか、今年は「えっ、そうだったの???」というような驚き(おそらくその作家をマジメに聴いているリスナーならとうの昔に知っているであろうような事実を長年まったく知らず今更知って吃驚した、というようないわば驚天動地の驚き)がいくつかありました。

そうした私的オドロキを中心に、今年出会ってハマっていった曲(多くは去年以前のリリース)について印象を書いていきたいと思います。

BUCK-TICKシューゲイザーBUCK-TICK「夢見る宇宙」)

www.youtube.com

私は近年までメタル系ミュージックが苦手だったのですが、それは中学高校と熱心なHR/HMファンからよくわからないままに勧められ続けたのに一端があるのかもしれません。BUCK-TICKも勧められた一つで、アルバム毎にスタイルを変えるBUCK-TICKの当時のスタイルはサイバー系で、ハッキリいってダサいと思いました。

それが去年末に配信ライブを見て、(あれっ意外とかっこういいな)と思ったので、アルバムを何枚か聞いてみました。2012年発表の『夢見る宇宙』の特にタイトル曲には完全に吹き飛ばされました。バックがドリーム系シューゲイザー風で(リズムはちょっとポストロック風なところもある)、そこにシャンソン風というか宝塚風というか、とにかく櫻井敦司の独特の歌が乗っている。BUCK-TICKにしかできないであろう表現で、すごいと思いました。トラックリスト上ではその前の「MISS TAKE」もニューオーダー風なエレクトロ調を完全に自家薬籠中の物にしていて、アレンジ力の高さを初めて実感しました。

SQUAREPUSHERはベーシストだった(SQUAREPUSHERSQUAREPUSHER’S THEME」)

www.youtube.com

私がSQUAREPUSHERを初めて聴いたのは2002年の『DO YOU KNOW SQUAREPUSHER』で、そこから遡って二、三枚聴いたと思いますが、熱心に追っていたわけではないので、ドリルンベースを中心とした完全にデスクトップ・ミュージックの人だと思っていました。ところが去年再発されたインディー時代のファースト『FEED ME WIRED THINGS』の評判を見ると、「元々はジャズ出身のベーシストだった」などと書いてある。そこで冒頭のこの曲を聴いたところ、これにも相当に吹き飛ばされました。それまでジャズとドリルンベースというとまったく別系統の音楽ジャンルだと思っていたわけですが、そうではないということがこれを聴くとよくわかる。生物の進化上のミッシングリンクが見つかったような興奮を覚えました。SQUAREPUSHERの音楽上の特徴は元々手引きベースと電子音の融合であり、私が聴いた時期がたまたまベースを止めていただけで、順々に追っていた人からすると「それは話が逆だろう」ということになると思いますが、私は逆に辿ったことで不思議な新鮮さを感じたのです。

そこから何枚かSQUAREPUSHERを聴き、ベースがうまいことは非常によくわかった(「世界一ベースがうまい」などと評価する人もいる)。だとするとこういう超絶技巧の人がデスクトップ・ミュージックでなくバンド形態でやったらさぞすごいことになるのではないか、という空想が湧きますが、実際にそういうコンセプトもやっていた。それがSHOBALEADER ONEです。

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しかし……皆うまい人達が集まっているなあとは思うのですが(手塚るみ子原作の漫画にもなっている)、なんとなく期待を超えないというか、期待を裏切らないということが逆に物足りないような……。難しい心理です。

SQUAREPUSHERのバンド形態では初期のアシッドジャズ風の『MUSIC IS ROTTED ONE NOTE』もよかったんですが、電子音とバンド音を完璧に融合した『ULTRAVISITOR』(特に「CIRCLEWAVE」〜「TETRA SYNC」の流れ)は最高傑作に挙げる人も多いだけにさすがにすばらしかった。ところが「超絶技巧」をウリにした一人バンド『JUST A SOUVENIR』や、前述の『SHOBALEADER ONE : D'DEMONSTRATOR』になると、チープさのほうが際立ってしまう……(バンドってそういうものなのかなあ)というギモンが浮かぶのです。「超絶技巧」ということが逆に枷になっているのではないか。そんな気さえします。

③なぜジョン・フルシアンテのギターを聴くとすぐにジョンのギターだとわかるのか(RED HOT CHILI PEPPERS「EDDIE」)

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レッチリはギターとベースとドラムとボーカルだけという超シンプルな編成でよくあれだけオリジナリティあふるる音楽を長らく作り続けることができるな、と思いますが、ある朝、いつものようにヒゲを剃りながらなんとなくスマホで音楽を流していたら、この曲が始まって驚きました。特に終盤一分半に及ぶギターソロはすごい。ジョンにしか出せない音色であり、それが自分のスマホを通して早朝の洗面台をビリビリ震わせるのを見て、私は音楽とはデータではない、ヤッパリ振動だ、と思いました(そういうことを真に思ったのはクリスタル・キングの「大都会」以来です)。

何年か前、ジョンがバンドに復帰する以前、ソロ活動ももう辞めて余生は自分のためだけに演奏する、というような宣言をしたことがあった。その時は(本当にそんなことができるのかなあ)と思いましたが、実際に復活してその抑えようのないクリエイティビティの奔流(一人だけでなくバンド全体のエネルギーによる奔流)を耳にすると、何か震撼とするものを感じます。

そしてSQUAREPUSHERによるバンド活動との違いをアレコレと思い浮かべます。

ビリー・コーガンNEW ORDERファンだった(SMASHING PUMPKINS「THE COLOUR OF LOVE」)

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2000年に一度解散、2006年にボーカルとドラムで再始動し10年以上経過したスマッシング・パンプキンズにギターのジェームズ・イハが2018年に復帰していたのを知ったのは今年のことです。しかしオリジナル・メンバーの復帰で悩みの種になるのはその不在の間を支えてくれていたメンバーの処遇です。ジョン・フルシアンテの復帰にともないレッチリからジョシュ・クリングホッファーは辞めることになりましたが、スマパンからジェフ・シュローダーは解雇されずそのまま残り、つまりバンド内にギターが(ボーカルのビリー含め)三人いることになりました。これまであまり聴いていなかった再始動後のアルバムを聴いたところ、ギターが三人いるとは思えないどこか持て余しているような印象を受けましたが、イハ復活後のこのアルバムの冒頭曲は、NEW ORDER風な80年代な感じで、意外に思ったところ、元々ビリー・コーガンNEW ORDER好きで、アルバムに客演したりツアーにサポートメンバーとして参加したこともある……という、長年のリスナーには有名な事実を今更知ることになり、非常にショックを受けました。

私はスマッシング・パンプキンズで最も勢いにのった曲を選ぶと、「Jellybelly」だと思います。作曲といい演奏といい、グループ全体のフィーリングがうまく噛み合っていないと、こういう奇跡のような曲を生み出すことはできないのではないでしょうか。

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⑤リズムによる騙し絵の探求(MESHUGGAH「PHANTOMS」)

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メシュガーはメトリック・モジュレーションというワザ(一見複雑なリズムだがトータルではポピュラーな四拍に収まる)のパイオニア兼探求者として知られています。新譜が出るとリスナーは「今度はどういうリズムになっているんだろう」とソワソワする。つまり本格ミステリのように、「変拍子ではない」というフェアネスを前提としながらその複雑怪奇なリズムを聴き込んで解析しようとする(ピアニストのティグラン・ハマシアンの例)。

私もメシュガーを聴き込むことで、いろいろな音楽のリズムが取りやすくなったように思います。「クイーンや山沢晴雄麻耶雄嵩を読むとたいていのミステリのロジックは薄味に感じる」みたいなものでしょうか。たとえばCINEMA STAFFPEOPLE IN THE BOXには変拍子もありますがそうでないものもあり、一見複雑でも(あっこれは四拍だな)などと見抜けるようになりました(CINEMA STAFF「熱源」など)。

そのぶんメシュガーの曲を聴くというのはなかなかハードで、また近作はその複雑さに拍車がかかってもいたため一曲毎の聴取カロリーが高まっていたのですが、今回のアルバムはどこかスッと風通しがいいような感じがあり、特にこの四曲目は横ノリ?のような印象を醸し出していて、新鮮な印象を受けました。

グラインドコアは歌っていい(SWARRRM「ここは悩む場所じゃない」)

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本格ミステリがロジカルさを追求すると時に「小説としての味わいに乏しい」といわれることがあるように、メシュガーなどのテクニックを追求するメタルのグループを聴いていて唯一物足りないのは、グロウル(唸り声)中心でメロディが乏しいことです。これは仕方がないことだと長らく思っていました。以前DEAFHEAVENでブラックゲイズを知り、特にその「DREAM HOUSE」は暗雲にパーと陽光の刺すようなイメージで、(ブラックメタルが明るくてもいいんだ!!!)という衝撃を受けたのですが、SWARRRMはこの曲はそれと同じくらいの、つまり(ブラストビートのグラインドコアで歌ってもいいんだ!!!)というインパクトを受けました。

私に「ここは悩む場所じゃない」が「DREAM HOUSE」くらい新鮮だったのは、ある解放(音楽)と思われたものにも制約があり、それを可視化しながら軽々とクリアしていった(ように見える)ためだと思いますが、最後に空間的な広がりを持つブラックゲイズ特有のトレモロギターのジャラジャラとした鳴りととともに「夢をみてもいい そう 思わないか そう 思えないか」という呟きがくりかえされるのが痺れるほどかっこうイイナ、と思います。

ヴィジュアル系の音楽的源流はDEAD ENDだった(DEAD END「SERAFINE」)

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私が小学生だった1990年代はいわゆるヴィジュアル系が全盛で、周囲の人間もみなよく聴いていました。というか、普通に生活していたら特に意識せずとも自然と耳に入ってきました。私はその中でもL'Arc~en~Cielが好きだったのですが、ヴィジュアル系とひとくちにいっても本人たちはそうカテゴライズされたくない、とか、音楽的な評価(あんなのは歌謡曲であってロックじゃない、というような評価)、とか、いろいろ複雑な問題があることも次第にわかるようになりました。とはいえ熱心に聴いていたわけではないので、DEAD ENDという伝説的なグループがいることを知ったのはつい最近のことです。いわく、インディー時代のアルバムはXに超されるまで売上枚数一位だった。いわく、L'Arc~en~Cielも黒夢LUNA SEAJanne Da Arcも直接的な影響源はDEAD ENDであり、トリビュート・アルバムでは参加するメンバーの調整が難しかった。

そこで聴いてみて、驚きました。70〜80年代のハードロックと歌謡曲と、のちのヴィジュアル系的なものとが、渾然一体となっていたからです。たとえば「EMBRYO BURNING」の歌い方は、うまいけどわざとあまり丁寧じゃなくしている(特にフレーズの終わりを)というか、ブッキラボーな感じで、ひとことでいえば昭和っぽい(今こんな歌い方をする歌手はいないでしょう)。ところが「I WANT YOUR LOVE」を聴くと、これはのちにHYDEが発展させる歌い方で、ところどころはもう完全にラルクHYDEはどれだけ好きなんだよ、と思わされるわけですが、そこからラルクを(『DUNE』から)聴くと、(HYDEはこういう声でこういうメロディを歌いたかったんだなあ)というその研究ぶり、発展ぶりの凄さを思い知るのです。

たぶん私がDEAD ENDを知らなかったのは、ボーカルのMORRIEが90年代にNY生活をしていて日本での露出があまりなかったこともあると思うのですが、活動再開後の音楽の充実ぶりにはビックリします。たとえば「春狂え」などは、もともとDEAD END時代も初期と後期で歌い方が異なりましたが、ファルセットの使い方などはほとんど別人。3分50秒あたりからのフュージョン展開にも(こういう曲でこういう展開を入れるか!)と唸らされます。

MORRIEと清春との対談では清春MORRIE好きぶりが伺えるのですが(この対談は本当に面白い)、清春の「僕にとってはMORRIEさんですけど、誰かをずっと好きだって言えるのは、その人がずっとカッコいいからじゃないですか」というところを読むと、(尊敬できる人がリアルにいるということは羨ましいことだなあ)という気持ちになります。またMORRIEの「時間をかけて、色々なことを経験していくと、魂が熟していく。それがもう、楽しくてしょうがないんですよね」という言葉にも、名声も実力もすでにある人が50代を超えてさらに探究を重ねていこうとするポジティヴさがあって、(いいなあ)と勇気づけられました。

CALMはかなりSTEVE TIBBETTSのフレーズを取り込んでいた(STEVE TIBBETS「CLIMBING」)

CALMという人のアルバムを20年以上聴いています。なんというか、大雑把にいえばチルアウト・ミュージックなのかもしれませんが、リラクゼーション感が強く、家で聴いていると「何そのヒーリング・ミュージック」といわれますが、公式サイトをウォッチしているといろいろな音楽を教わることが多いのです。今年MARK ANDERSON『TIME FISH』というアルバムがCALMプロデュースで再発され、その関連でSTEVE TIBBETSという人を知ったのですが、聴いていると(初めて聴くのになんかどこかで聴いたことあるな)と思うことがちょくちょくありました。『SAFE JOURNEY』収録の「CLIMBING」でそれは決定的になり、つまりそれはCALMの曲でフレーズが引用されていたからなんですね。たとえば「CLIMBING」と「DREAMS OF SKELETON TREES」を聴き比べてみてください。「CLIMBING」の冒頭フレーズが素材として取り込まれていることが誰でもすぐわかります。私は長年「DREAMS〜」に慣れていたので、元曲を聴くとなんとなく物足りなさを覚えてしまう。それでもSTEVE TIBBETSの一種ストイックな多弦ギターの世界には非常に惹かれるものがあります(特に初期のエレキギターを使ったもの)。

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きりよく十番目まで挙げようかと思いましたが、だんだん体力が削られてきたのでこのへんまでにし、後は適当に挙げます。

しかしまとめてみて思うのは、まったく聴いたことのないものよりもミッシングリンク的なほうをずいぶん面白がっていたんだな、ということです。

以前はひたすら新しいものを探していたような気がしますが、20年ほど聴いているとそういうモードになることもある、ということなのでしょうか。

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WHATEVER THE WEATHER「25°C」:どんな天候にも対応するという意気込みで作られたすばらしいアルバムで、アルバムトータルで一番聴いていたのはこれだと思いますが、ビートが入っていない曲のほうが好きだった。

SWEET TRIP「ACTING」:早朝に仕事していたらいきなりこの曲が流れてきてビックリした。(なんだ???)と思って検索したらつい先日再解散(再結成後の解散)したという。

julie「LOCHNESS」:DRY CLEANING以上にもろにソニック・ユース。それを独特のアートワークで覆っている。

AL-KAMAR「shakunage no genei」:私はボーカロイドは通ってこなかったのですが初めていいと思いました。

FALL THERAPY「WHATEVER REMAINS YOUR COMFORT」:耳に残るピアノフレーズが延々くりかえされるような印象があり、皿洗い中にそればかり聴いていたような気がする。さっき聴き直したところ、実はそんなにフレーズはくりかえされていなかった。

GIGI「ABAY」:ボーカリストのアルバムなのにほとんど歌っていない不思議なアルバムだな、と思っていたら元盤をリミックスしたダブ・アルバムだった。

GONG GONG GONG「THE LAST NOTE」:ギターとベース二人組によるミニマルガレージ。

SCREAMING HEADLESS TORSOS「FREE MAN」:特にZAZEN BOYSのギターの引き方はこういうところから来ているのかと思った。

WORK DRUGS「SLOW FADE」:それなりにクオリティの高いシティポップを毎年作り続けているのに聴いていてほとんど記憶に残らない不思議な人達。

「新・叙述トリック試論」について

 去年の5月に、同人誌『立ち読み会会報誌』第三号「特集 新・叙述トリック試論」の予告を出しました。

『立ち読み会会報誌』第三号〈特集 新・叙述トリック試論〉に関するお知らせ - TBCN

 それから一年四ヶ月。

 当初は一気呵成に完成させるつもりでいたのですが、予想もしなかったことが身辺でいろいろあり、なかなか取り掛かることができませんでした。が、それもひとまず(部分的に)一段落したので、そろそろ再開しようと思っています。

 で、いきなりですが、カクヨムに載せていくことにしました。

kakuyomu.jp

 さすがに一年以上も経つと、わからなかった部分が判明したり、考えが変わった部分もあります。

 そこで、これまで書いたぶんを加筆修正する必要があり、一気に最後までやるより連載形式の方が自分でも緊張感(というか責任感)が生じるだろうな、だったらこのブログでもいいかなと当初は思っていたのですが、がんがんネタバレをしているので、個別の節の検索でのひっかかりにくさとか、あるいは目次形式の読みやすさなどを考慮し、とりあえずカクヨムにしました。

 角川歴彦会長の東京オリンピックパラリンピックスポンサー選定に絡んだ贈賄容疑での逮捕直後という歴史的に稀なタイミングではありますが、私も一方ではKADOKAWAひいてはわれわれの文化の再建を願って、載せてゆきたいとおもいます。