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襤褸は着ててもロックンロール

既視感の二つの段階――知念実希人『硝子の塔の殺人』

 まず先にお断りしておくと、本作は「ミステリマニアミステリ」です。ミステリマニアの館主が、ミステリマニアたち(それは必ずしも客全員ではありません)をヘンな建物に招いて、ミステリ談義をするうち、事件が起こる。

本格ミステリ小説の舞台になりそうな建物ですよね。いかにも殺人事件が起きそう」

 作中舞台に関する描写に続き、それをめぐって交される登場人物のこうした台詞を目にする時、読者の脳裡に浮かぶイメージは、おそらく三つの層を成しています。

  • イメージA 「作中現実そのもの」としての、純然たる視覚的イメージ
  • イメージB 「イメージA」は「いかにも」「本格ミステリ小説の舞台になりそう」だ、そうしたミステリを過去に何例も見てきた、という既視感1
  • イメージC 「イメージB」それ自体が「いかにも」「本格ミステリ小説」の登場人物らしい台詞だ、そうしたミステリを過去に何例も見てきた、という既視感2

 たとえば、ガラスでできた塔がある。ミステリ読者でなければ、それを前にしても「変った(あるいはヤバイ)建物だな」ぐらいに思って、特に感じ入るということはないはず(イメージA)。

 ところが同じ風景を前にしても、ミステリ読者(それは必ずしもマニアだけとは限りません)は「これはいかにもミステリの舞台っぽい建物だな」と思う。ミステリを読まなければこういうドン・キホーテ的な、あるいは聖地巡礼的な感想は生まれなかったわけで、これがイメージB=既視感1です。

 のみならず、「作中人物としてのミステリ読者」は、既視感1のような評価を作中で下してしまう。そしてそれを読んだ現実の読者は、この既視感1自体が「いかにも」ミステリらしいな、と思う。これがイメージC=既視感2です。

 つまり、作中舞台を前にして、「いかにも」という二つの既視感が読者に浮かぶわけですが、この二つの既視感の間には、微妙な空隙があります。この空隙こそが、本作の成立と評価の核心部に関わると思うので、以下、説明します。

 二つの既視感は、「ミステリ読者」が対象に視線を向けた時、対象から返される感覚です。この二つの成立はおそらく段階的で、まず「ミステリ」が数多書かれなければ「既視感1」は生じず、次いで「ミステリ読者が作中人物として登場するミステリ」が数多書かれなければ、「既視感2」は生じなかったのではないか。

 現実のミステリ読者
  ↓ 既視感2 ↑
 作中人物としてのミステリ読者
  ↓ 既視感1 ↑
 作中現実(イメージA)

 いわゆる「新本格史観」成立以後の視野においては、この既視感1/既視感2の間にある空隙が見分けがたいものとなっているのではないか、というのが私の考えです。どういうことか。それを説明するにはまず、両者の質の違いについて見ていきましょう。

 既視感1を支える感覚は、実は「驚き」です。虚構の中で何度も見たような光景が、眼の前に、唯一無二の現実として広がる。まるで虚構の中に自分が取り込まれてしまったような、内部/外部を打ち破る感覚としての、驚き。

「魅力的な事件が起こったので、昨日からついテンションが上がってしまって。寝たあとも事件についての夢ばかり見ていました。とても楽しい夢でした」

 といったポジティブな反応にせよ、あるいは、

「いい加減にしろ!(……)これはミステリ小説じゃないって言っているだろ。現実なんだよ」

 といったネガティブな反応にせよ、(一応、と本作については言っておきますが)その起点となるのは、上述の、n度くりかえされた虚構が1度の現実として顕れる、という階層侵犯に対する驚きです。 

 既視感2も、最初はそうした、階層侵犯の「驚き」を伴っていたのかもしれません。現実のミステリ読者が作中世界へと出張って、散文的なミステリ論をえんえんと繰り広げるうち、唯一無二の現実としての事件に巻き込まれる。ただ、『十角館の殺人』以降はとりわけそうだと思いますが、同じような設定のミステリが増えると、それは単に「そういう設定」の小説として、階層侵犯への驚きは逓減していきます。

 しかし、幾度くりかえされようと、作中人物にとって、既視感1の根底をなす「驚き」は減りません。シリーズ探偵(およびその仲間たち)ならいざしらず、たいていの人間にとって、ヘンな場所でヘンな事件に出会う、というのは、一度きりの冒険であり、その慄きが消えることはない。こうして、1度の「驚き」が、n度の「月並」として、読者には受け取られる。新作を書こうとすれば不可避に増殖する二重の「既視感」に、どのように新風を吹き込むか。メタジャンル小説が必然的に抱え込むそのハードルこそがおそらくは、新本格成立以後の、「館もの」をはじめとするクローズド・サークル小説が、主に乗り越えようと格闘してきたものでした。

 跋文で島田荘司が「新本格の終わり」を強調するのも、そこに関わるのでしょう。「綾辻行人」という作家はこれまでにも、いくつもの小説に登場してきた。でもたぶん、こういうふうな使われ方をすることは、これまでなかった。『十角館の殺人』で「エラリイ」だの「カー」だの「アガサ」だのといったカタカナ名を振り廻し、しかし決して作中に「綾辻行人」という名前だけは書くことのなかった20代の青年が、今や60を過ぎた大家として、虚構の中で語られているわけです。「ああびっくりした、」(綾辻行人――本書帯文)という「驚き」は、こうした文脈で受け取る必要があるでしょう。

 ところが、作中人物にとってはエバーグリーンな階層侵犯感覚(既視感1)であっても、それを受け取る現実の読者、それもすれからしのミステリ読者にとって、今やその「驚き」はうすい(既視感2)。それはおそらく「現実の読者」を超える外部がないからで、メタミステリとか、なんだとか、色々な試みがなされてきましたが、結局のところ、それらの試みは一作一作において辛うじて成立するものにすぎず、たとえば「既視感3」とでもいった新たな感覚を形成できるフィールドというのは、この方向性ではもうきっと存在しない、大体このあたりが限界かな、といった破線が、誰にとってももう長いこと見えてきている、ということではないでしょうか。

 そもそも新作ミステリについて「新本格」が謳われるのを見るのもずいぶん久しぶりのことで、〈まだあった「新本格推理小説(ミステリ)!〉というキャッチコピーが使われた時点(2013年)で、もはやそれをまともに受け取る人はいなかったでしょうし、むしろ誰もが忘れかけていたような今、ここで島田のいう「新本格」は、あえて名指しして終わらせるもの、として持ち出された気配があります。つまり、思いきりパラフレーズしていうならば、「作中人物」「テーマ」としての「ミステリマニア」は、「新本格」以後の日本の本格ミステリ復興において、大いに役立った、しかしそれはもはや歴史的使命を終えた、虚構世界の中の彼らをロケットブースターのように切り離さなければ、この先はない――とでもいったような。

 その意味では、「ミステリマニア」という存在がここまで悲愴感を以て語られるのを見るのは初めてです。その、「閉じた存在」としてのクローズド・サークル/ミステリマニアに向けられた「終わり」の眼差しは、『霧越邸事件』(1990年)や『どんどん橋、落ちた』(1999年)の時などとは、ずいぶん違う気がする。だとすると、一見豪華な帯文の錚々たる面々による言葉の列なりも、また別種の会合として見えて来もする――まあ、そうした「終わり」がホントかどうかはともかく、私が気になるのは、もっと別のことです。

 

【以下、本作の核心部分に言及するので、未読の方はご注意ください】

 

 ミステリマニアによるミステリマニアのためのクローズド・サークル。2000年代後半以降、そうした設定の作品にとって、「ある傾向」がなぜかよく伴われることを、このブログでも何度か紹介してきました。その「傾向」とは、

 ①トリックがショボい

 ②ミステリマニア(作者/読者)が、ミステリが好きすぎて殺人を犯す、という展開になる

 です。

 ①の意味では、この小説は、かなり充実しています。さすがに、というべきか、ダミー推理も、真の解決も、じゅうぶんクオリティが高い。不思議なのは、しかし、にもかかわらず、なぜか自作を貶めるような記述が散見されることです。それが意図なのだから仕方ないじゃないか、といわれればそうなのかもしれませんが、私としては、「同人誌まがいの劣化版」とまで書く必要はない(それくらいには面白い)と思うし、本当に「劣化版」ならばもっと全然違う方向性でもっとグレードの高いものを書いた方が良いのではないかと思うし、そこまでいわれると最後まで読んでもその後のフォローにも「言い訳」感を払拭することができず、貶められれば貶められるほど虚しさが募ってきて、本作自体を「傑作」として他人に勧めづらい、という気分になってきます。

 ②は上述の、内部/外部の問題と関わります。ミステリの歴史は表現規制と無関係ではなく、大方の創作者にとって、たとえどれほど残虐な内容であろうとも、虚構と現実は別、というのが(線引が難しい領域もありますが)、基本的な立場ではなかったでしょうか。ところが、こうした傾向の作品群においては、しばしば、「ミステリを読みすぎたために殺人を犯すようになった」人物がでてきます。「名探偵に会いたいから事件を起した」ならまだかわいいもの。「ミステリの読み過ぎで自分でも殺人行為に魅了されるようになった」とか、「ミステリ作家がスランプのあまり現実に事件を起してそれを作品化しようとした」とか、作者たちはそれなりに「驚き」を求めているのだと思うのですが、あれほどまでに多くの人が死守してきた内部(虚構)/外部(現実)の線引が、なんというか、ぐずぐずに崩されて、自分がこれまでミステリを好きで読んできて、今も好きでホラこういうふうに読んでいて、でもそれがこう、あれでしょ? オレもこのまま読んでたらフトしたことで殺人に魅了されたりしちゃうということ? とでもいったような、それこそ「踏みにじられた」ような悲しい気分になってきます。いや、そういうオマエこそが虚構と現実の区別がついていない浅い読み方だ、という指摘は正しいはずですが、私としては、「虚構と現実の区別がつかないミステリマニア」自体は、『陸橋殺人事件』(1925)やら『グリーン家殺人事件』(1928)やら『虚無への供物』(1964)やらの昔から批判的に描かれてあるのだから(『十角館』もそこに含まれるでしょう)、何も今更それを「大ネタ」として持ち出さなくとも、というか、島田荘司の言説に乗ればそれをいったん「卒業」して、忘れたほうが、新しい領域が切り拓けるんじゃないかな、という感じを抱いています。いや、もし「マニア」的にいうならば、本作に登場する「マニア」は、まだそれほどマニア度が高くないのかもしれません。それは、陽光を嫌うだろう稀覯書を展望室に集めるといった初歩的な行為もさることながら、「マニア」が普通、ミステリならなんでも一様に好き、というようなことはあんまりなくて、あれは欠点だけどでも次作に至るまでに必要な経過点だった、とか、あの人のダメなところも含めて全部丸ごと好きだ、とか、いやむしろ「好き」よりも「嫌い」で語るほうに大いに力が入る、とか、世間で評価されている誰某の面白さがオレには全然ワカラナイどれだけ売れてもいけすかなさしか感じない、といった各人が持っているはずの凸凹した感覚が、のっぺりとした「好き」に全体的に覆われているような感じがあって、ウーム、「マニア」って、そういうものかしら、と思わなくもないのです(私は自分がマニアだとは思っていませんが――みたいな面倒な自意識をマニアの人たちは懐きがちです)。

 ともあれ、内部/外部について、もう一つ、島田の言を引いてみましょう。

『硝子の塔の殺人』は、「新本格」と呼ばれたこの特殊な時代を令和の上空から俯瞰し、丹念に総括し、ジャンルの作法を完璧に使いこなして、ブーム終幕に、誰も予想しなかった最高作を産み落として見せた(……)この力作の設計図は、おそらくは知的操作で、方程式を組むようにして机上で考案されたと推察する。

 重要なのは、「上空から俯瞰」と「設計図を机上で考案」です。この二つは対象(新本格全体/『硝子の塔の殺人』全体)を外部から眺めるということで、いわば建物に対する見取り図、です。作中、この「見取り図的なもの」が、何度かモチーフとして登場します。冒頭におかれた建物全体の「見取り図」はもちろんのこと、「トライデン」の「模型」、そして貴重なミステリを集めた「書架」です。特に書架というのはこの手の小説にとって欠かせないもので、作者自身のミステリセンスが問われるコワイ部分でもある。ところで「バベルの図書館」的な発想でいえば、「あらゆる傑作ミステリを網羅した書架が作中に登場する小説」があるとして、その小説自体は、入れ子構造のようにその書架に含まれるのでしょうか。たぶん、その小説、というか、作者の既刊自体含まれないことが多いのではないでしょうか(チャッカリ登場させて宣伝する方もいらっしゃいますが)。だとすると、この書架にはたぶん、「知念実希人」という名前は(少なくともあからさまには)含まれていない。硝子の塔の館主が「館シリーズ」既刊全作を含む書架を構成できたのは、「知念実希人」が「新本格」の外部に(時代的に)いたからで、20代の「綾辻行人」には、こんな書架は書けなかった。だとすれば、もしこれからこうした「書架ミステリ」(いま名付けました)が十年後か二十年後かに書かれるとして、そこに「知念実希人」の名前が含まれるためには、おそらく、「書架」とはまるで異なる外部へと遠く離れた、まったく異なる「本格」が書かれる必要があるのだろう、……。

 大小様々な声が犇めく賑やかな本書から、わたしが最終的に聞き取ったのはそうした、レクイエムならざるレクイエムとでもいうべき、静かな調べなのですけれども。