TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

ストレンジ・フィクションズ臨時増刊『夜になっても遊びつづけろ よふかし百合アンソロジー』に寄稿しました。

 織戸久貴さん完全プロデュースによるチャリティ同人誌『(ストレンジ・フィクションズ臨時増刊)夜になっても遊びつづけろ よふかし百合アンソロジー』がリリースされました。

 詳しくは以下を御覧ください。

note.com

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 私は短篇「餃子の焼き方。」本文と挿絵を寄稿しました。

 よろしければよろしくお願いします。

 

 

「殊能将之」と『楚辞』

 以下に掲出するのは、第28回東京文学フリマで頒布した有料ペーパー「T B C N海賊版v o l.2 特集・殊能将之(その二)余滴」に載せた記事です。『立ち読み会会報誌』第二号の責了後に、

「そういえば〈殊能将之〉って〈特殊な才能で軍勢を率いる〉という意味だといわれているけど、ホントかな?」

 という疑問がフト浮かんで、それについてアレコレ読みながら書いたものです。なにしろ数時間の勢いで書いたものなので、もっとちゃんと『楚辞』の訳文を読み比べるなど色々した後でこのブログにも載せたいな、と思っていたのですが(特に、中国語および中国古典文学に詳しい方にしてみれば、ツッコミどころがあるはずなので)、特に進展しないまま二年が経ってしまいました。ある種のヨタ話というか、眉唾というお気持ちで、御覧いただければ幸いです(そして、耳寄り情報があったら、ぜひ教えてください!!)。

 

***

 

【『楚辞』について】
○第二号を責了したあとで、私はある一つの重大な点を見落としていることに気がついた。それは、「殊能将之」というペンネームの典拠とされる『楚辞』をまだ見ていないということだ。
殊能将之」の元ネタは『楚辞』だよ、ということは、いつ頃からいわれだしたのだろう。いま初出を確認する余裕がないが、『美濃牛』文庫版(2003)の池波志乃解説にはすでに〈『楚辞』から引いたと思われる筆名〉とあるから、たぶんそれ以前なのだろう。『黒い仏』文庫版(2004)の豊崎由美解説ではさらに踏み込んで、〈『楚辞』中の一編、屈原「天問」の〈殊能将レ之 (しゅのうもてこれをひきいたる(特殊な才能でこれ“軍勢”を率いる)という言の引用である〉とある(2019年5月5日現在、日本版ウィキペディアにも豊崎解説を根拠にそう書いてある)。
 ところが、『楚辞』の日本語訳をいくつか見てみると、この「殊能将之」という語句には、どうも異なる解釈が存在し、必ずしも「特殊な才能でこれ“軍勢”を率いる」という意味では定まっていないようなのだ。ここでは、そうした複数の解釈について記すことにする。
 そのために、まず『楚辞』と屈原について紹介しよう。
『楚辞』は中国南部の楚地方で作られた韻文17篇を集めたアンソロジーで、中心を成すのは屈原(前343-前278)によるものとされている。屈原は博覧強記の文人でかつ政治家でもあったが、ある時、対立する同僚の策略によって失脚し、楚を追い出されてしまう。滅亡しゆく祖国への愛と憤懣を元に作られたのが『楚辞』所収の諸編だが、さすがに大昔のことだけに、(ホントに屈原が書いたのか?)という見方も強くあって、後世の人々の手が入っているんではないかという点、ホメロスと似たような事情かもしれません(最期は汨羅江に身を投げて死んだ、その旧暦5月5日・端午の節句にチマキを作って食べる風習はもともと、屈原を鎮魂するための行事からだった――と書いていて気づいたが、今日はたまたま5月5日ではないか)。屈原による原文は残っておらず、後世に書かれたおびただしい註釈本を総合して、現在流布しているバージョンは成り立っている。
「天問」は『楚辞』の中でも、いっぷう変わった一篇。成立事情としては――祖国を追放され彷徨していた屈原がある時、楚の先王の廟にたどりついた。その建物には森羅万象の伝説を描いた図画があった。それ見た屈原の胸中から、古今の伝説に関する疑問が一挙に噴出し、それを壁に書きつけた……というもの。なので、全体は詩というか、190弱の疑問文、というよりも疑問文の形をした説明(屈原は別に「答え」を必要としているわけではない)の集積によって書かれている。思い切っていえば、「中国の伝説あるある」をテツandトモの「なんでだろう~」の形式で書いた、といえば想像しやすいかもしれない。
 該当箇所は第九段(この「段」という区切り方も便宜的なものなので、ものによっては第●行、などとも書かれています)。天地開闢への疑問(この世の始まりをいったい誰が語り伝え得たのか?)から始まって時間を前後しながら、だいたい周王朝(前1050頃‐前256年)の成立あたりまでたどりついた箇所。そこにこうある。

 

稷維元子 帝何竺之
投之於冰上 鳥何燠之
何馮弓挾矢 殊能將之
既驚帝切激 何逢長之

 

 まず、最初の「稷」=后稷について紹介しよう。
 后稷(こうしょく)は中国の古代神話に出てくる人物で、その十五代後の武王が周王朝を建てた(つまり実在が疑わしい人物だが、いちおう武王の系図をたどれば后稷に行き着く、とされている)。后稷には出生の時から奇怪なエピソードがまつわりついていた。帝・嚳(こく)の妃であった母・姜嫄がある時、巨人の足跡を踏んで妊娠した。怪しく思い、生まれた赤子を何度か捨ててようとするのだが、そのたびに動物たちが彼を守ったので、赤子を育てることにした。すると彼は、幼少期から不思議と植物を育てることが得意で、長じて帝・舜に仕えて農師を務めたことから、のちに「農業神」として称えられることになった――すなわち后稷=農事に強い人、というパブリックイメージが、「天問」のこの部分の前提としてある。だから、「稷維元子 帝何竺之 投之於冰上 鳥何燠之」とは、「稷は元子、帝何ぞ之を竺(毒)する。之を氷上に投ずれば、鳥何ぞ之を燠(あたため)る」で、「稷は帝の子なのに、帝が彼を憎んだのなんでだろう~? 稷を氷の上に投げ捨てたら、鳥が彼を温めたのなんでだろう~?」という意味であり、ここには解釈の余地は少ない。
 ところが、次が問題になる。というのは、后稷といえば農事、というパブリックイメージであるにもかかわらず、テクストはなぜか弓矢すなわち武芸の才能の話題に移るからだ。「殊能将之」の語句に関していえば、
  ①「殊能」とは何か?
  ②「之」とは何か?
  ③これは誰について述べているのか?
 について、解釈が分かれることになる。『楚辞』に関する最も早く基礎的な註釈者・王逸(2世紀前半頃)は「殊能」の持ち主は后稷という見方。後世の有力な註釈者・洪興祖(12世紀前半頃)は武王(后稷の子孫で周王朝の建国者)という見方だという。
 私は中国語はよくわからないので、『楚辞』の邦訳を何バージョンか見ただけだが、日本語訳の場合は現在、だいたい武王説が多いようだ。すなわち、このブロックだけを見ると「武王」という名は出てこないので、「なんで后稷の話からいきなり武王の話になるの?」とも思うが、この「天問」ではそれまでの流れで武王の話をしているので、話題が后稷から急に弓矢の才能の持ち主=武王に移行しても無理がない、という見方。星川清孝訳(明治書院、1970)によれば、「何馮弓挾矢 殊能將之 既驚帝切激 何逢長之」とは、「どうして弓をひきしぼり、矢をたばさんで、周の武王はすぐれた才能を以て衆をひきいたのであろうか。すでに帝紂を驚かすことがはげしかったのに、どうして子孫長く王位に居るという幸運に逢ったのであろうか」という、周王朝の建国にまつわる解釈になる。つまり、
  ①殊能=武芸
  ②之=衆(軍勢)
  ③才能の持ち主=武王
 という見方だ(先の豊崎解説もこうした説によるものだろう)。
 一方、橋本循の訳注(岩波文庫、1935)では后稷説を採っている。

 

后稷は長じて後、堯に事(つか)へて司馬たりしことあり。(司馬は兵馬を統率する役なり。)其時稷は弓を引くに満を持し矢を挟み、衆に秀でたる絶藝あり、以て衆を率いたるが、如何なれば、かゝる殊能を有せしや。其の生るるや帝嚳の驚き憎むこと激切にして、之を陋巷に、平林に、氷上に棄てたるに如何なれば子孫長く国を享くるに至りしや。

 

 しかし、武王と「弓矢」とはすんなり結びつくが、后稷がスゴイ武芸の持ち主だったという話はいまいちピンとこない(后稷伝説について言及のある『史記』や『詩経』にもそんなエピソードはない)。橋本は后稷と武芸の結びつきについて、劉永濟の註釈書『天問通箋』を根拠にこう説明する。

 

此章は后稷が司馬たりし時のことを言ふなり。古経籍には后稷が農官たりしことを言へども其の弓矢を将ゆるを言ふ者なし。たゞ詩疏に尚書刑徳放を引いて稷の司馬たりしことを云ひ、「詩の魯頌閟宮篇」の鄭箋にも后稷の司馬たりしことを云ふ。按ずるに屈原は多く古史異説に本づき儒書と異る所あり。

 

 すなわち、后稷がスゴイ武芸の持ち主だったという根拠はないが、司馬=兵馬を統率する役職にいたことがあるというエピソードはいくつかの文献にある。たぶん屈原はこうした異説に基づいて、后稷と武芸の関係について書いたのだろう……云々。これだと以下になる。
  ①殊能=武芸
  ②之=衆
  ③才能の持ち主=后稷
 ところが、中国の古詩とその解釈を掲載したサイト「古詩文網」の「天問」およびその日本語訳を掲載しているブログ「プロメテウス」の記事「屈原の天問を読もう!この疑問が解ればあなたも中国神話上級者!!」を見て私は驚いた。そこでは次のように解釈されている。

 

 为何长大仗弓持箭,善治农业怀有奇能?(「古詩文網」)
(后稷は)なぜ弓矢と共に育ったのに、農業を善く行い特別な才能を持ったのか?(「プロメテウス」)

 

 くりかえしになるが私は中国語がわからないので、「古詩文網」のこの部分の注釈部分にある、

 

何冯弓挟矢:冯,通“秉”,持。将,资。闻一多说:“言天何以秉弓挟矢之殊能资后稷也。传说盖为后稷初生,有殊异之质,能秉弓挟矢,其事神异,故举而问之。”

 

 がどういうニュアンスなのか、またどういう根拠に基づいた解釈なのか理解できないのが残念だが(そこで五冊くらい挙げられている注釈書をキチッと読み込めばわかるのかもしれませんが……)、さしあたり上記の見方によれば、
  ①殊能=農事その他
  ②之=衆
  ③才能の持ち主=后稷
 で、原文の配列における「后稷=農官、農業神」と「武芸の才能」という対立するイメージの矛盾を含みこんで、「后稷が武芸と農事どっちも得意だったのなんでだろう~?」という疑問を屈原は書いたんだ、という説にならないだろうか?
 さて、『楚辞』に関する長い紹介だったが、ようやく今回の言いたいことに辿り着いた。
 私は以上の解釈のうち、どれが有力なのかも判断できないし、またセンセーがペンネームをつけるにあたりどの訳本を御覧になったのかも知らないが、面白いのは最後のものだと思う。すなわち――

 

(何馮弓挾矢)殊能将之?=(なぜ弓矢と共に育ったのに、)農業を善く行い特別な才能を持ったのか?

 

 という疑問文を思いっ切り意訳すれば、このペンネームは、

 

(なぜSF研出身なのに)本格ミステリを書いてデビューしたのか?

 

 という自嘲が込められている、とパラフレーズできなくもないだろうからだ。そして、あれほどエドガー・アラン・ポーと誕生日が同じ1月19日であることを公言していたセンセーのことであるから、クリストファー・プリースト『奇術師』への感想で

 

わたしは本格ミステリとSFという「似たものどうし」に思いをめぐらせた。このふたつのジャンルは、ともにエドガー・アラン・ポーを直接の起源としており、双子の兄弟といってもよい。(「memo」2004年4月後半)

 

 と書かれていたことも考え併せると、そうした「問い」に対する「答え」がありうるとすれば、その二つは通底しているからだ、ということになるのではないかと思う。
 なにぶん門外漢の浅知恵なので、詳しい方からすれば、それは無理筋でしょ、と言われるかもしれないですが、しかし、一門外漢としては、〈それこそ「サンプリング」の精神だと啖呵を切〉りたい気持もないではない。

 

(以下は慶長年間発行の『歴代君臣図像』国会図書館デジタルコレクションより。上図が后稷、下図が武王。「殊能」の持ち主は一体、どっちだ!)

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『立ち読み会会報誌』第三号〈特集 新・叙述トリック試論〉に関するお知らせ

 twitterではすでにお知らせしていましたが、現在、『立ち読み会会報誌』第三号という新刊を準備しています。

 内容は標題のとおり、叙述トリックに関する特集です。

 第一号(2017年11月)の時に「第三号まで殊能将之作品特集をします」といい、第二号(2019年5月)の時に「前号の内容を延長して書いてしまいました」といい、浦賀和宏先生逝去(2020年2月)の時に「第三号は急遽、浦賀和宏作品特集にします」といい、それで今回の叙述トリック特集なので、もはや誰も信用などしてくれないと思いますが(いま書いてきて、エッ前回からもう二年も経ってるの!と思いましたが)、自分としてはここに至る流れには、それなりに理由がありました。

 というのも、殊能作品にせよ、浦賀作品にせよ、「叙述トリック」がやはり重要なキーワードなので、まずそれをきちっと押さえておかないといけないのではないか、と思ったのが一つ。特に殊能センセーに関しては、去年、ある資料を見せていただいて、

(この方はこれほどまでに叙述トリックにこだわっていたんだなあ……)

 と思ったことがありました。なので、やはりこちらの方を先に片づけておきたくなった。

 で、元々は第32回文学フリマ東京に合わせて作る予定で、エントリもしていたのですが、いわゆる緊急事態宣言の延長で、おそらく開催されないだろうと入稿締め切りを延ばしたら、開催されるというので慌ててしまいました。新刊はないので既刊だけでも並べるという案もありましたが、結局出店はキャンセルし、上述の新刊のほうをなるべく進める、ということにしました。

 予定としては、5月の終わり~6月の始めくらいから、通販を始めるつもりです。【一番下の追記を御覧ください。】詳細がかたまりしだい、こちらで改めてお知らせします。今回はサンプルとして「はじめに」を公開するので、それを見ていただくと、どういう意識で書いているのか、大体わかると思います。(いちおう先に警告しておくと、今回の新刊では「この小説には叙述トリックが使われている」という程度の言及は、特に断りなく行なうのでご了承ください。もっと内容に踏み込む箇所では、先に断ります)

【目次】
はじめに
第1章 叙述トリックはどのように語られてきたか
第2章 本稿で参照するモデル
第3章 一人称・手記・信頼できない語り手
第4章 三人称・映画・モンタージュ
第5章 メタフィクション・作中作・パラテクスト
第6章 サプライズ・ネタバレ・インターネット
結語
主な参考・引用文献

【判型】新書判サイズ(二段組)

【価格】1500円

 よろしくお願いします。

 

【追記 2021.07.01】

 上のように予告を書いてから、予想を超えて鬼のような多忙状態に陥ってしまったため(現在もその渦中)、なかなか完成の目処がたちません。また見通しができましたら、こちらでご報告します。予告した時に、10人くらいの方から、「出たら買う」と仰っていただいたのを、励みにしております。

 これまではこのブログに断片というかメモ書きをバーっと書いていって、それを総合する、という書き方をしていたのですが(たとえばこういうの)、今回、ネタバレ全開なので、なかなかそれはやりにくい。ただ、多少なりとも作業を進めながら自分のモチベーションを保つのと、後は「出す出す詐欺じゃなくて本当に進めてますよ!」というアピールないし証明のために、何かしらのかたちで内容の虫干しはそろそろやっておきたいところです。

『日本探偵小説全集リミックス(ストレンジ・フィクションズ第二号)』クイズの正解

 承前

 予告通り、ストレンジ・フィクションズ第二号『日本探偵小説全集リミックス』リリースに際し私が個人的に実施したクイズの正解を発表します。

 番号と作品の結びつきは以下のとおりです。

【ナンバー = 収録作品】

 No.1 = 九鬼ひとみ「発狂する壁」

 No.2 = 千葉集「風博士vs.フェラーリ

 No.3 = 紙月真魚「その魔都の今は」

 No.4 = 孔田多紀「『田端心中』の謎」

 No.5 = 犬飼ねこそぎ「雀魂殺人事件」

 No.6 = 織戸久貴「リゾーム街の落とし子たち」

 *

 以下、推測の根拠となる要素、および参考にした画像と手順です。

No.1 = 九鬼ひとみ「発狂する壁」

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タッパー(〈「色々と作り過ぎたんで食べてくれませんか」亜沙子は腕の中にタッパーを何個か抱えていた。(……)箸を動かしていると、小松菜の間からシメジとは違う黒い物体が顔をのぞかせた。蠅の死体だった。〉)

隣人・亜沙子(〈「あの女と親しげに話していたようだったけれど信用しない方がいいよ。あんたの下の部屋に住んでいた男もあの女と親しくなった後に様子がおかしくなったんだよ」……〉)

【概説】九鬼さんは作為を察知させない不安感バリバリの文章が毎回すばらしくて、今作もハナシとしては別にどうということはないんですが、それをこんなふうに書けるのがすごい。で、一番印象に残ったのが「隣人女性からおすそ分けされたらタッパーの料理に虫が入っていた」という場面なので、それを描きたい。タッパーは別にジップロック型とは作中に記述はないものの「半透明の物体は恐い」という黒沢清メソッドに基づいてみました。あと隣人のビジュアルは元々オマージュ元の角田喜久雄のカバー風にしようと思っていたところ、描いている時にtwitterで「今やってる『ワンルーム』というアニメが面白い」と呟いている人がいたので、なんとなくカントク要素(後述)を入れてみようと思ったら気づいたら言い逃れができないくらい寄せてしまっていました。申し訳ありません(もっとアレンジメントすべきでした……)。

No.2 = 千葉集「風博士vs.フェラーリ

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ヘンリー・フォード

エンツォ・フェラーリ

源義経

静御前

坂口安吾「風博士」より「十七歳の花嫁」

チンギス・ハン

初代フォードT型

サビノ・アラナ

蛸博士

坂口安吾

初代フォード125S

バスク地方

【概説】未収録短篇です。良い出来だと思ったので「収録しましょう!」と本人にいったら「ボツです」と意志は固かったので、せめて雰囲気だけでも世間にお伝えしようと思ってビジュアル化したら、要素を入れすぎてこれだけで一ヶ月くらいかかって描いてしまいました。どうせ誰も本文は読めないでしょうから以下気にせずネタバレします。本編は坂口安吾「風博士」と映画『フォード vs.フェラーリ』をマッシュアップしたもので、その基本アイデアは「風博士は失踪ののち晩年のヘンリー・フォードと入れ替わり、一方、蛸博士と風博士の元妻の間に誕生した息子がエンツォ・フェラーリとなった」というものです(これだけだとどういう話かわからないと思いますが、でも実際にこういう話なのです)。なので『フォード vs.フェラーリ』のポスターの構図を元にしましたが、もちろん最初期の自動車とスポーツカーが競走できるわけはありませんから、あくまでもファンタジーですが……。あと成吉思汗といえば高木彬光ですから、フォードに乗った高木彬光フェラーリに乗った坂口安吾が競走してたら面白いな、と思いましたが、高木彬光は時間切れで描けませんでした。

No.3 = 紙月真魚「その魔都の今は」

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伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』

鶴の噴水(日比谷公園)

東京タワー

④ヴァーチャル・ライヴァー

スマホでユーチューブを見る眦警部

⑥次郎亜子(「すらっと鼻筋の通る美人であるはずだが、画像合成ツールで痛恨のミスを犯したかのような、忘れようもないほど異様に長い顎が、……」)

【概説】全体の構図は最初『魔都』つながりで矢作俊彦『魔都に天使のハンマーを』にしようと思ったらあまり要素を入れ込みにくい構図だったので、同じく矢作著『フィルム・ノワール/黒色影片』を借りました(すると本当は画面下半分の背景も街の様子を描き込まないといけないはずですが気力不足で描けませんでした)。作者本人には確認してませんが冒頭に『オーデュボンの祈り』を思わせる記述があったので、日比谷公園の鶴がカカシみたいな恰好をしていたら面白いかな、と思って、そういうイメージにしてみました。あとラストにVtuber的な人が出てくるんですがその方面を全然知らないのでなんとなく結月ゆかり風にしました。

No.4 = 孔田多紀「『田端心中』の謎」

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連城三紀彦『戻り川心中』

芥川龍之介

小栗虫太郎『黒死館殺人事件』

【概説】自分の短編なのであまり説明したくないのですが、これは自分が作者でなかったらアウトであろうギリギリの挿絵だと思います(読んでいただければすぐわかります)。せっかくの機会なのでそういう普通だったら絶対できないことをやってみたいなと思ってやってみました。あと「半世紀以上前の単行本所収の一編をアンソロジーに入れるか入れないか」という話なので「メチャクチャ日焼けして褪色した挿絵」風にしたいなと思って、その狙いはある程度成功したかもしれません。

No.5 = 犬飼ねこそぎ「雀魂殺人事件」

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YMO『SOLID STATE SURVIVOR』

帆村荘六

一姫

二階堂美樹

雀魂のスタート画面

【概説】麻雀の素養がないので、「麻雀といえばYMO」という安直な発想で、雀魂meets YMOをテーマにしました。実は最初に「こういう挿絵を描いてみたいナア」と思ったのはこの「雀魂 meets YMO」が浮かんだ時で、でも他人の挿絵を一枚だけ描くというのもヘンなので、仕方ないからもう六枚分かいちゃうか、と考えたのがこのクイズ企画の発端でした。

No.6 = 織戸久貴「リゾーム街の落とし子たち」

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ツクヨミ(リンク先R-18注意)

京都タワー

ジョージ・アレック・エフィンジャー『重力が衰える時』

We Lost The Sea"Triumph & Disaster"

We Lost The Sea"Departure Songs"

We Lost The Sea"The Quietest Place On Earth"

We Lost The Sea"A Beautiful Collapse"

【概説】最後に並べてみましたが、描いた順ではこれが最初に完成させたものです。織戸久貴さんといえばミステリとSFの両刀遣いで執筆される方でもありますがななめのさんという絵師でもあります(私はこれまで「絵師」という言い方はあまり好きじゃなかったんですが「イラストレーター」というと語弊がありそうなのでその点「絵師」という言い方は確かにすごく便利だなと思って使ってみました)。そしてななめのさんといえばその最もフェイバリットなイラストレーターは(私が知る限り)カントクです。なのでカントク要素を入れたいと思いながら、人様のフェイバリットをガサツにマネしてしまうと宗教戦争に発展してしまいかねない危険性があります。しかし私自身かなり悪ノリしがちな性格でもあるので、気づかれることなくカントク要素を入れ込むことでこの同人誌の主宰者の一人であるななめのさんをビジュアル面で騙したい、欺きたい、呆れさせたい、とも思いました。そこで考えたのが、カントク原画のゲーム(織戸小説「リゾーム街~」と同じく近未来が舞台)のキャラクターを輪郭だけ借りて「リゾーム街~」の参照元の一つである『重力の衰える時』のポーズをとってもらう、という案でした(この接合がうまくいっていなくて全体としてなんだかよくわかりにくいビジュアルになってしまった憾みがあります)。あと下半分はななめのさんの絵師としての主宰サークル名が「あたらしい海」なので「海」つながりでオーストラリアのバンドWe Lost The Seaのアートワークを参考にしました(正直なところこのWe Lost The Seaのアートワークを担当しているMatt Harveyの作品がすばらしくて、こういう絵が自分でも描けたらいいな、と思って、練習してみたのです)。

 以上です。

 このクイズを出題する直前の2021年2月7日に、アメリカの文学研究者ジョセフ・ヒリス・ミラーが亡くなりました。

 私は以前「蘇部健一は何を隠しているのか?」という蘇部健一論を書いたときに、「蘇部健一の小説はなんであんなに挿絵が多いんだろうか?」とフト疑問を抱き、そこからヒリス・ミラーの『イラストレーション』を読んで、「小説のナラティヴにとって挿絵とはなんなのか?」という謎にとりつかれ(この関心はいま準備している叙述トリック論にも続いています)、それが昂じて画力ゼロ状態からペイントソフトを使い始めました。ヒリス・ミラーがいなければこういうクイズを出題することもなかったでしょう。R.I.P.

 *

 一年遅れでようやくリリースできたストレンジ・フィクションズですが、すでに次の号(臨時増刊号)がスタートしているそうです。そしてそこでは豪華ゲスト陣の他、ななめのさんのイラストレーションも存分に発揮されるそうです。御期待ください。

『日本探偵小説全集リミックス(ストレンジ・フィクションズ第二号)』発刊およびクイズ&プレゼントのお知らせ

 参加しているサークル「ストレンジ・フィクションズ」の第二号『日本探偵小説全集リミックス』がリリースされました。

https://booth.pm/ja/items/2643010

 すでに紙版は完売してしまっているのですが、電子版(boothのpdf、アマゾンkindle)は発売中です。
 この号には、参加メンバーによる、東京創元社刊『日本探偵小説全集』周辺作家へのトリビュート短篇と、近年大注目の新鋭・阿津川辰海さんへのディープな(商業誌では載せられないくらいディープすぎる)超ロングインタビューが収録されてます。
✳︎
 この号の刊行は元々、2020年1月予定だったのですが、私を筆頭に脱稿がボロボロになってしまい、当初の予定を一年もオーバーしてしまいました。
 私は前回の第一号(2019年1月刊)では、短篇と評論で参加して、今回もそうしたいと思ったんですが、発刊までのスケジュールだと短篇を書くのが精一杯で、評論は書けずじまいになり、そのことが責了以来、心残りになっていました。
 そこで、二か月ほどの間、各メンバーに無断で、各短篇の挿絵を描いてみました。
 そして、この『日本探偵小説全集リミックス』を読まれた方に向けて、以下の挿絵が、どの短篇に対応するものか、クイズを出したいと思います。
✳︎
 六枚の絵に対し、実際の収録短篇は五作です。その理由は以下のリンク先をお読みください。
https://note.com/strange_fics/n/n89df517227d1
 つまり、ボツ1篇に対応する挿絵も含まれています。
 以下にナンバリングされた六枚の絵と、上のnoteに紹介されている六つの短篇、どれがどれに対応するのか? ――というクイズです。
 【終了しました】
 期限は2021年3月31日まで。
 正解者には、次回ストレンジ・フィクションズ第三号の紙版を、正解者の中から厳正な抽選で一名に、私からプレゼントいたします(その前に「臨時増刊号」を企画しているメンバーもいるのですが、それは対象ではありません。2021年秋以降刊行予定の、正式な「第三号」を、私から、お送りします)。
 回答は、

 No.◯=××「□□」
 No.△=……

 というかたちで六通り、お答えください。
 スゴく勘の良い人は、上記noteのあらすじだけで当ててしまうでしょう。でも、そうでない方も、実物を読めばだいたい当てられると思います。
✳︎
 以下、挿絵です。よろしくお願いします。

No.1

No.2

No.3

No.4

No.5

No.6

「宇宙人問題(ミステリの推理が常識外の可能性を無視する問題)」にかんする雑感

本を読まない弟に「殺人事件で全部宇宙人の仕業でした、みたいな可能性を無視できるのは何で?」と言われた - Togetter

 話題になっていたので、読んでみた。が、まとめられていない呟きも多くあり(直接言及しない人も多かった)、そちらの方に面白いコメントが色々あった。以下は、それを読んでの雑感。

 いわゆる「宇宙人問題」みたいなことは、ミステリを読み始めたぐらいの頃なら、結構な数の人が考えたことがあるのではないか(私も高校生くらいの頃によく考えた)。これは確かに難問。が、今ではそのギモンを展開してゆくうえで、いくつかの取っ掛かりがあるので、それを書いてみる。

 

1.常識(「可能性の無視」は「常識」が決める)

 まず、逆に「なぜ(ミステリに馴染み始めた頃の私のような読者は))『宇宙人問題』のような疑問を持つのか?」という問いの立て方をしてみたい。

 思うにそれは、フィクションが、いわゆる「現実」よりも自由度が高いように感じられることへの、慄きのような感覚から生じるのではないか? つまり、「なぜAであってBではありえなかったのか?」「なぜBでありうる(ありえた)にもかかわらず、Aは平然とBを無視してAでいられるのか?」という、作品内現実の在り方に対する、無根拠さへのおそれ、疑い。

 この疑問への応答としてよく持ち出されるのは、「オッカムの剃刀」のような考え方ではないか(あるいは、実際の司法でいうなら、「合理的な疑い」のような考え方がある)。しかしそれにしても、推論を進める上での経済的な判断の立場であって、確かに、「それ以外の可能性」を完全には否定していない。とはいえ仮に、もし自分が現実に事件(刑事事件)に巻き込まれたとしたら、極端な可能性を合理的に絞り込む「常識」の観点から、たとえば世界五分前仮説のような考えは否定されるし、司法では通用しないだろう。

 こうした「常識」は、問題解決というある目的のために「絶対的ではないが、その方が合理的である」というような判断が社会的に積み重ねられ、また個人の内にも生成してゆく感覚をさす。個人と集団との間で「ジャンルらしさ(そのジャンルに固有の感触)」を決めるものとして共有される感覚でもある。だから、「常識」が共有されていない段階では、「これ、なんで???」ということになる。まったく自由な観点からすれば、「常識」とは一面、不自由で不自然きわまりないものだから。しかし一方で、「常識」の側からすれば、「完全な自由」とは、「なんでもありうるがゆえに、(未だ)なんでもない」というフニャフニャ状態に見える。たぶん、ミステリの書き手(の話には、ここまで風呂敷を広げると、限らなくなってきますが)にとっては、「絶対的ではないが、その方が美しい」「その方が面白い」という「可能性の切り捨て」を積み重ねて具体化しゆく際の拠り所となる感覚が、「常識」なので、いきなり「なんでAはBじゃないの?」と訊かれると、(ウーム……)と、それを説明しようとする理路の、案外なヤヤッコシサに、驚きたじろぎ、一瞬考え込む、ということも、あるのじゃないかしらん? そして実際、「そういうもの」という実感がまったくない相手に、「そういうもの」として腑に落とさせる、ということは、これは相当な難題なのだ。

 

2.メタゲーム(「可能性の無視」を支える「常識」は変わりうる)

 1.の「常識」はいわばミステリに限らず「ジャンルのジャンルらしさ」の規定に関わるものだが、ここでは次いでミステリの「ゲーム」性について述べる。

 仮に、ミステリを、推理を核としたゲーム性を持つジャンルのことだとする。この「ゲーム性」には二つの次元がある。一つは、作品内現実として語られるそれ(いわば探偵対犯人)であり、もう一つは、作品自体をかたちづくる「語り」としてのそれ(いわば読者対作者)だ。この二つの次元の間には、微妙な空隙がある。

 推理ゲームにおいて「極端な可能性」が否定できない(だから疑問が生じる)のは、推理の前提が「ゲームのルール」として明文化されていないからではないか? だから作者がいちいち出てきて「ルール」を保証すれば、障害はクリアできる……かに見える。

 たとえばミステリを将棋のようなゲームだとすれば、ルールとは「そういうもの」なので、いちいち「なぜ香車はこのように動くのか?」などと疑問を持っていては遊戯できない。ルールがどうしても腑に落ちないならばゲームをやめるか、別のゲームをするか、別のゲームを発明すればよい(そしてミステリは将棋ではない)。

 ミステリは明文化されたルールによって完全に縛られたゲームではないが(「ナントカの十戒」などはしょせん「自粛要請」のようなものだ)、「暗黙の了解」のような擬似ルール的な感覚の拠り所となる「常識」は(「探偵対犯人」の次元においても、「読者対作者」の次元においても)、ある。

 そしてさらに、ミステリの各作品は創作物である以上、そのジャンルの「常識」を書き換えるメタゲームの側面をも含み込んでいる。

 上述の「常識」は時代や場所などの環境によって(作品の内でも外でも)、変わりうる。たとえば地球の現代社会が舞台なら、我々が普段見慣れたルールが「暗黙の了解」かもしれないが、ジャック・ヴァンス『宇宙探偵マグナ・リドルフ』のような宇宙社会なら、容疑者は最初から宇宙人。あるいは『星を継ぐもの』のようなバランスの場合もある。

 私は一読者として、「フェアプレイ」に重きを置いていると思うが、その拠り所となる感覚も、ある程度は環境に依存している。たとえば「特殊設定」ものなら、ルールを適度に明文化した上で読者の盲点を突きルールをハックするような成り行きであれば、宇宙人だろうと幽霊だろうと「フェア」に感じると思うし、あるいは先鋭的な作品を読んで(ウームこれは……)と首を傾げながら、何年か経った後に読み返してその意外に緻密な組み立てぶりに、納得させられた、「常識」を書き換えられた(あるいは何年か経つうちに自分も周囲も変わっていた)、ということもある。

 

3.応答(「可能性の無視」を支える「常識」を変えるメタゲームは、「可能性の無視」への批判に応答して行なわれる)

 2.で創作物としてのメタゲーム性ということを書いた。もし創作されたミステリがゲームであるとすれば、そこには「勝ち負けをつける」とか、「先行作の課題を乗り越える」というような、何らかの目的があるのではないか。

 あらゆる小説が何らかの意味で、方法で、語られたものだとするなら、やはりその「語り」には、何らかの目的があるのではないか? 何の目的もない「語り」が小説として差し出されることがあるのか? あっても良いが、自分が小説としてそこに何らかの価値を見出すとしたら、やはり何らかの判断基準が必要になるだろうとおもう。

 小説の「語り」に何らかの目的があるとするならば、そこには巧拙(のようなもの)があり、「語りの経済性」を重視しないならしないなりの、別種の具体的な感覚があってくれないと困るのではないか。少なくとも「現実そのもの」と創作された「作品」には、それぐらいの違いはあるのではないか?

 「極端な可能性を否定できない」という批判を「常識」が完全には克服できないとする。正直にいえば、こうした身も蓋もない現実暴露には、私は折に触れ立ち返る必要があると思う。というのは「このルールはなんかヤダ」という身も蓋もない違和感に叱られるということがなければ、おそらくは、ゲームをやめることも、別のゲームを発明することもできず、最悪の場合はダラダラとした惰性が続くということも考えられる。

 しかし逆に、身も蓋もない批判の方も、「そういうものだから」という「常識」の息の根を止めるまでには至っていないのではないか? 作家の方はそうした批判を克服できないなりに織り込んで、あの手この手で書いてきたのではないか?

 つまり「宇宙人問題」は、批判内容(WHAT)としては良いが、批判方法(HOW)としては、そのままでは凡庸すぎて弱いのではないか? 少なくとも、今『陸橋殺人事件』のような作品が書かれたとして、私は心動かされないと思う。せめて『虚無への供物』ぐらいには手が込んだ批評でないと困るような気がする。

 先に「AがAであるのはそういうものだから」という判断を支えるのは、「その方が美しいから……」「その方が面白いから……」として可能性を切り捨ててゆく「常識」の感覚、ということを書いたが、とうぜん個人の内には、「美しくない方が良い」「面白くない方が良い」という判断もありうる。しかしその判断も、表現された途端に「その方がリアルだから……」「その方が高度に戦略的だから……」「美しくない方が美しいから……」というような理路となって、ジャッジされうるのではないか。

 

 

 ……というようなことを、昨日つぶやいたので、まとめてみたのですが、しかし読み返してみると、これらは1.2.3.とも、どういうジャンルにおいてもあてはまるようなことであり、特にミステリに限ったことではないかもしれない。私の文章に抽象的で地に足のつかないフワフワしたところがあるとすれば、それはミステリに特有の、というか、話の本丸のはずの、「推理」にまったく踏み込んでおらず、その外面をグルグルめぐって終始していることからくるのかもしれない。つまり、ジャンル論と推理論を混同して書いてしまったのかもしれない(冒頭のtogetterでジャンル論の話が多かったので、それに引きずられたのだろうか)。

 話の本丸の「推理」の方は、もっと色々参照して学びたいと思っています。

 以上です。

加藤典洋『完本 太宰と井伏』

 

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1

 この著は文芸評論だが、太宰治の死の謎をめぐる一種の文学ミステリといってよく、興味ふかく読んだ。
 本の存在自体はずいぶん前から知っていたが、題材自体はありふれているように感じられ(タイトルも地味だ)、しかしそんな先入観は読み始めてすぐ、木っ端微塵に吹き飛んだ。「こんな本であると知っていたなら、もっと以前に読みたかった……」とも思うが、しかし今でよかったのかもしれない。これはいわばミステリの「解決編」であり、「問題編」である太宰治井伏鱒二の関係について色々知らなければ、腑に落ちる具合はもっと浅いものになっていただろう。加えて、その他の加藤本を読んでいなければ、ボリュームに比しての奥行きを感じることはたぶん、なかった。

 

2

 冒頭は『人間失格』再読。著者(加藤)はそれまで、太宰の死に関して、世間的な通念、つまり、「太宰は本当はそれほど死ぬつもりはなかったが、たまたま心中が成功し、死んでしまった」くらいにしか思わず、深く考えずにすませてきた。しかし『人間失格』を読むと、いかにも「最後の書」というにふさわしく、こんなものを書いた人間がそう長生きして作品を量産できるはずがない。また人物設定に関する違和感、猪瀬直樹ピカレスク』(および川崎和啓「師弟の訣れ」)に教えられたことなどからも合わせ考え、太宰の生涯の検討が始まる。
 太宰の作家としてのキャリアは、四度目の心中未遂(1937年)と五度目の心中(1948年)のあいだで、切れている。その間、作家として「復活」し、安定し、1947年半ばくらいまで充実期にあった。ところがそこから「暴走」が始まり、半年ほどで死に至る。作家としてのキャリアが短いぶん、太宰は常に奔放な生活を送っていたものだと(私も)思い込んでいたが、よくよく見ると「断絶」がある。「復活」の原因はなんであり、また再び「暴走」する原因はなんだったのか。……これが主な「謎」ということになる。
 太宰の生涯と作品を検討する鍵として、「後ろめたさ」が召喚される。太宰は金持ちの家に生まれたことが後ろめかった。これが若年期の「暴走」を読み解く鍵となる。そして生家が没落することでようやくその「後ろめたさ」は消える。しかし若年期の「暴走」はすでに、また別の「後ろめたさ」(一緒になった女性の死など)を引き起こしていた。この「後ろめたさ」につきまとわれることが、一方では創作の、一方では「暴走」の動因となる。
 このように、本書の主役は太宰であり、井伏はいわば脇役。しかも論点は「太宰の死」の一点に集約されるから、二人の作品をじっくり読み比べる、というようなものではない。しかし実はこの「謎」の設定にこそ、著者の他の文芸評論に、戦後論に、通じる核がある(だからこそ、類書が多いと思われるテーマについてあえて書いたはずだ)。

 

3

 私が加藤本を初めて読んだのはこの十年ほどのことなので、デビュー以来の評価については詳しく知らないし、他の読者がどう考えているのかよくわからないのだが(悪評のほうは多少知っているが)、「後ろめたさ」は太宰にかぎらず、文学にせよ、思想にせよ、「戦後」を論じるうえで、加藤が核とした概念だと、私はおもう。この「後ろめたさ」には幅があって、そこがおそらく加藤の論のわかりにくいところでもある。「後ろめたさ」を含むより広い意味のキーワードとして、「弱さ」がある。自分の〈弱さ〉を認め、〈肯定〉すること。ものすごく大雑把にいえば、この倫理にすべてが賭けられている。しかし単に「自分の〈弱さ〉を認め、〈肯定〉すること」とえいえば、実に他愛なく、ギマン的にも映るかもしれないが、そう簡単ではない。「自分の〈弱さ〉を認め、〈肯定〉すること」は、ふつうの人間には不可能、というか、日常生活をぶち壊すほど激烈な感情をもたらす行為であるから。
「後ろめたさ」とは、かいつまんでいえば、ある「悪い行ない」のおかげで自分は生きている、という「罪」の意識のことだとしてみよう。その「罪」の上に自分の生活がある。ふだんはそれを忘れて生きていられる。「忘れて生きていられる」というのは、「弱さ」である。だから他者からその「弱さ」を指摘されるとツラい。「暴走」してしまうほどにツラい。
 これは数年前、講演だったかで聞いた話だと思うが、そこで加藤はいわゆる「トロッコ問題」ブームを批判していた(うろ覚えなので話半分でお聞きください)。「トロッコ問題」は思考実験だから、「正解」はない。こうすればオールOK、なんの後腐れもない、という選択肢はない(もちろん、実際には「正解」がありうる、つまり問題が「ニセのトロッコ問題」である場合もあり、それについては解決の努力が極限までなされるべきであろう)。そして人間は時に「トロッコ問題」的な状況に巻き込まれることがある。その時、行動の主体となった人間は、事件から生き延びたあと、「後ろめたさ」に苛まれるだろう。それは他人からいかに倫理的に「その行為は許される」と判断されようと、本人にその「後ろめたさ」はどうしようもない。これを「許される」=「後ろめたさを抱えなくともよい」とする学があるとすれば、それはウソだ。どうしようもない「後ろめたさ」を抱え続けたまま、どうすれば生きてゆくことができるのか。それを考えるのは文学の仕事だろう、云々(つまり文学に「正解」=「後ろめたさを抱えなくともよい」という選択肢はない)。
 先に「罪」と書いたが、これは個人が主体として感じるもので、客観的には「悪い行ない」と判断されない場合もある。たとえば極限状況から生還した人(客観的に見れば被害者)が、死者に対し、「なぜあの人は死んだのに、自分は生き延びたのか……」という罪責感を覚えるということがある。これに対し「それは脳のエラーだ」とか「あなたは悪くない」などと単純に言っても、本人の「後ろめたさ」はどうしようもない。しかし「どうしようもない」とばかり言ってもいられない。この「後ろめたさ」をポジティヴに転換するには、もっと入り組んだ理路が必要になるだろう。
 私は十年ほど前、さしたる理由はないが「後ろめたさ」というものに捉えられ、これを解消する術がわからず、坂口安吾の「文学のふるさと」を読んで、あれこれと考え、ひとまず得心したことがあった。「モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります」という文言は、今でもよくわからないが、私はこれを次のように読み替えた。つまり、「救いがない」。だから苦しい。だから「救い」を求める。しかし結局「救い」はない。しかし「『救いがない』から『救い』を求めるものの『救いはない』から『救い』を求め続ける」ということ自体が「救い」になる、ということがある。「後ろめたさ」についていえば、「後ろめたくて苦しい」という考えから出発して、その苦しさを解消しようとする行為が何か多少なりともプラス(たとえば「文学」)になりうる、ということがある。もちろんそのプラスは「苦しさの解消」という理想の残骸でしかないのだが、しかし「理想の達成」は時に個別的なものである一方で、「理想の残骸」のほうがより普遍的に他人に届きうる、ということがある(そして時に、「理想の残骸」を求めて「悪い行ない」を為す、という転倒した考えを持つ人物もいる)。「解消しよう」と行為しているあいだは、おそらく「後ろめたさ」を本質的には忘れているかもしれない。それは「弱さ」である。しかしそういう「弱さ」があっても良い、というか、あったほうが良いのではないか。
 こういう考えは全然論理的ではないし、人を納得させもしないだろう。だから私はもっと丁寧に説明するべきだと思うが、今はとりあえず置いておく。

 

4

 この「後ろめたさ」というのは、同じ体験をして誰もが全員感じるというものではない。たとえば太宰(津島修治)と同じような環境に生まれたものの、太宰のようには感じなかった、という人物のほうがほとんどだろう。しかし加藤の考えによれば、太宰はこの「後ろめたさ」が呼びかける「声」に敏感だった(本書によれば三島由紀夫も)。「後ろめたさ」に敏感だからこそ、「暴走」し、さらに「悪い行ない」を重ねてしまう。そして「後ろめたさ」の底で、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」(「ヴィヨンの妻」)という一種の「開き直り」にぶつかると、復活する。この「後ろめたさ」と「開き直り」のバランスが取れると、作家として充実期に入る。単純に、「後ろめたさ」だけでも、「開き直り」だけでも、ダメ。両方を抱えていなければ、ダメなのだ(特に最初から「開き直り」一辺倒だと最悪だ)。「後ろめたさ」から出発し、「開き直り」にぶつかり、その両方を抱え続けるということ、おそらくそれが、加藤にとっての文学の条件なのではないかとおもう。
 これは、翻っていえば、加藤じしんも「後ろめたさ」に敏感、ないし、敏感であろうとした、ということではないかとおもう。
 たとえば、今年出た『村上春樹の世界』(講談社文芸文庫、2020)という文庫オリジナルの論集に、村上春樹の短篇「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の読解がある(『村上春樹は、むずかしい』岩波新書、2016という本でも同様の主旨の記述を読んだ)。一見つながりのない三つの断片でできたその短篇に、加藤は、同じく全共闘世代の村上の、若くして死んだ者たちへの哀悼の念を読み取る。村上も、加藤も、ストレートには、その「哀悼の念」を、いわない。しかし『太宰と井伏』や『村上春樹の世界』といった講談社文芸文庫の巻末に付されている年譜を見ると、何か学生時代に大きく考えを変更させられる体験があり、鬱屈した時代を経て、表現者として表舞台に出た、としか思えない。浅薄な推察を重ねれば、それは、「同じような体験をして、死んだ同級生もいたが、自分は生き残った」という「後ろめたさ」だったかもしれない。そしてその「後ろめたさ」が、「戦後論」につながったかもしれない。「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の読解から、私はどうも、そういう感じを持つ。
 村上春樹についていえば、私は、ある事情もあって、その作品がよくわからない。「村上春樹の作品の背景には〈後ろめたさ〉がある」と整理しても(これはどちらかというと私の整理ですが)、グッと腑に落ちる感じがしない。「そうはいっても、なんかこう、肝心なところでいけすかないんだよな……」という感じがする。
 余談を重ねれば、2009年に「群像」で戦後文学回顧の対談(奥泉光高橋源一郎)があった。それは「戦後文学がいま、太宰から村上春樹ぐらいまでゴソッと忘れられている」という編集部からの指摘を出発点とするもので、その後同企画からは十年近くかかって佐藤友哉『1000年後に生き残るための青春小説講座』(2013)、奥泉光講談社文芸文庫編『戦後文学を読む』(2016)、高橋源一郎『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』(2018)という三冊が生まれた。私はこのことについて、2009年に座談会を読んで以来、これまで考え続けてきたのだが、いま乱暴に考えると、「戦後文学」の動因の一つに、「後ろめたさ」の共有(作者と読者の間の、意識的・無意識的な)があり、それが消えてしまったから、「戦後文学がいま、ゴソッと忘れられている」ということになったのではないかと思う。「後ろめたさ」とは、いわば「戦前から1970年代くらいまでの世代的な暴力の(振るった・受けた)記憶」であり、高橋源一郎奥泉光には(特に初期の作中にそれがあらわれているように)、共有されている感覚があるのだが、二人と佐藤友哉との間には、質的な違いというか、断絶を感じる。このように考えてくれば、加藤の「戦後(文学)論」とは、是非はどうあれ、「戦後日本」を「追悼の時空間」と捉え、「『後ろめたさ』が消えようとしている中で、それをどのように抱えた続けたままプラスに転じることができるのか」という問題意識だったのではないかとおもうが、そこからさらに四半世紀を経た現在、「後ろめたさ」は、ほぼ、消えた。今の純文学を「戦後文学」とは呼べないだろう。
 閑話休題。加藤は太宰と三島を「後ろめたさ」の声に敏感な作家だったと捉えている。この「後ろめたさ」(太宰の場合は棄てた・見殺した女性、特攻で死んだ若い友人など)に素裸で向き合うなら、とてもマトモな日常生活など送れない。だから、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」という「開き直り」にぶつかり、バランスが取れているうちはいいのだが、「後ろめたさ」に傾くと暴走し、自死へと至ってしまう。その対象的な生き方として代表されるのが、タイトルにも表れている井伏鱒二で、有名な「井伏さんは悪人です」という太宰の遺言の読解を要約すれば、「井伏は『開き直り』に傾いている」ということになるとおもうが、加藤は太宰(後ろめたさ)と井伏(開き直り)、どちらの態度も否定しない。もちろん長生きしたぶん、最終的には井伏的な態度のほうをとるのだが、それは、井伏の中にも、太宰的なものがあったからだ(「後ろめたさ」抜きの「開き直り」だけで「文学」はできない)。「後ろめたさ」の声を聞くとは、「オレは死者を忘れないゾ」という追悼に代表される行為であるが、それは一面、デモーニッシュな行為に傾く危険性にも開かれていなければならない。つまり、それは単に安全な立場から「追悼してまーす」と口に出せば済むようなものではない。「仮にいま、死者が本当に蘇ったとしたら、オマエはその死者を本気で迎え入れることができるか」という、どちらかといえばドストエフスキー的な、かなりヤバイ「危険」のことであり、その「危険」を殺せば、「文学」もまた、死ぬ。『太宰と井伏』が考えようとしたのは、おそらくそのギリギリの地点であり、だから「ふたつの戦後」なのだろう。こういう話は、何も感じない人にとっては、本当に何も感じない、というか胡散臭い話だろうと思う(そして実は、私もその立場・感覚についてわからなくはない)。それがおそらく、著者の「わかりにくい」といわれる一方で、熱心な読者がいる部分ではないかとおもう。

 

5

 本書のいわば「文学的推理」は、太宰と井伏に直接証言がないぶん、年譜的事実と他のテクストから推測した「状況証拠」によるものであり、(ウーン、ホントかな)(ちょっとここは端折ってるな)と感じる部分もないではない。あくまでも加藤の関心に引き付けた読みではあるのだが、しかし私は動かされた。
 それはたぶん、本書が生前最後の著(文庫だが)となったことも関係しているだろう。『人間失格』は太宰の最後の作品の一つだが、『完本 太宰と井伏』はそのあとがきと年譜で、著者がかなり重い病の状態であると明らかにしたことでも目を引いた(実際、刊行から一週間もしないうちに亡くなった)。『人間失格』は主人公・大庭葉蔵の手記について、年上の小説家の「私」がコメントをつけるというかたちになっているが、『完本 太宰と井伏』は年下の評論家の與那覇潤の長い解説が付されている(つまり、「本文」と「解説」の書き手の関係が逆になっている。ついでにいえば、『人間失格』の脱稿日と本書の公式発行日が同じ5月12日で、ボリュームがともに同じく約200枚というのも、なんだか狙ったように暗示的だ)。その與那覇の「解説」に気になる記述がある。この文庫版には2013年の講演草稿「太宰治、底板にふれる――『太宰と井伏』再説」が増補されているのだが、それは本文とほぼ同じことを言っている、というのだ。実際、読んでみると、私も同じ感想をもった。
 その講演で加藤は、「太宰と井伏」の繰り返しになる部分があるが、として、太宰「姥捨」の読解に力点を置こうとしている。「底板にふれる」によれば、「太宰と井伏」初出時(「群像」2006年11月号)にはこの「姥捨」についての読解はなく、単行本で加えた。「太宰と井伏」を読むと、この「姥捨」についての読解は、ほとんど欠かせないものではないかと、感じる。ところが、単行本時点でも、加藤は「姥捨」読解をそれほど重視していなかったという。それが2013年、息子を亡くし、失意の中でも太宰についての講演を断れず、旧著を読み直すなかで、「姥捨」の読解がやはり重要だと思い、講演のなかでくりかえすことにした。「太宰と井伏」とは同じ素材を用いながら、違う調理の仕方をし、自分の太宰論について別の領域をひらくものかもしれない。とまでいう。しかし、にもかかわらず、やはり私には、この講演草稿は「太宰と井伏」と同じことをくりかえしている、としかおもえない。それくらい、「太宰と井伏」の論旨からいって、「姥捨」は重要な存在として登場する。だが、本人の見え方は、おそらく異なっていたのだろう。それがフシギだ。が、私はそのフシギさを大事にしたい。とおもった。

完本 太宰と井伏 ふたつの戦後 (講談社文芸文庫)

完本 太宰と井伏 ふたつの戦後 (講談社文芸文庫)

  • 作者:加藤 典洋
  • 発売日: 2019/05/12
  • メディア: 文庫