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襤褸は着ててもロックンロール

いだ天ふにすけ先生へ/の「手紙」

以下はいだ天ふにすけ先生の短篇成人漫画「手紙」と次の二つの記事の内容を踏まえたものです。(十八歳以下の方および未読の方はご注意ください)

 

【エロ漫画自己解説】手紙|いだ天ふにすけ@skeb受付中|pixivFANBOX

 

マンガは叙述トリックをどう表現するのか?――いだ天ふにすけ「手紙」について - 村 村

 

   *

 

「最近漫画で叙述トリックが使われた作品を読んだんですよ。成人漫画ですけど……」

と茎ひとみさんから聞いたのは二週間ほど前のことでした。

私は「叙述トリックが使われた作品」と聞くといちおう確認することにしているので、読んでみました。

その上で記事も拝読しました。

正直なところ、ミステリの仕掛けとして読んだ場合、斬新というわけではないよなあというふうに一読、感じたのでした。(当り前ですよね。ミステリじゃないんですから。というか、最初からミステリとして読まれないほうが、読者の感情に刺さる)

もちろん作品としては、絵もストーリーもエモーショナルでいいなというふうに感じました。

ただ今日、上の茎ひとみさんの解説を読んで、それまで気づかなかったことにいろいろと気づくことになったので、自分の考えをまとめてみることにしたのです。

 

「手紙」におけるボイスオーバーの手法

短篇漫画「手紙」の仕掛けを可能にしているのは、映画でいう「ボイスオーバー」の手法です。

○黒枠内に表示される〈手紙〉の語り=現在

○ヴィジュアルおよび台詞として表現されるコマ=過去(から現在へ至る過程)

というふうに、作品内の語りには二つの次元が存在している。ダイナミックに展開する過去の次元と、それにコメントを入れるような(?)現在の次元、と、いわば紙芝居のようなあり方で進行する。

こういう物語構造は映画なんかでよくあるものですから、読者も「ああ、ああいう感じね」とスンナリと受け取るでしょう。漫画でも数多く描かれてきたし、小説でもじっくり探せば思い浮かびそうです。

ただそれが紙芝居と違うのは、〈現在〉のコメント語りが、〈過去〉の作中人物の一人によるものだということです。

三人称ではなく、作中当事者の一人称として、コメントが終始被さってゆく。

いま厳密なことを確認する余裕がありませんが、こうした物語構造が流行り始めたのは、20世紀前半の映画以降といっていいのではないでしょうか。

しかも、大抵の読者が無意識に重ねているのは、サイレント映画ではなくトーキー。けれど「手紙」の仕掛けは、漫画なのでトーキーよりむしろサイレント映画に近いといったほうがよい。

どういうことか。

「手紙」の仕掛けが可能なのは、黒枠内の〈手紙〉の語りが、文字であることによります。つまり、もし音声化(ボイスドラマなど)したら、この仕掛けは、一発で読者にバレてしまいかねない危険性もあるのです(詳しくは後述)。

よく「小説の叙述トリック作品は映像化不可能」などといわれますが、そこで忘れられがちなのは、小説の語りとはそもそも、音声を擬態したものだということです。すなわち、そこに〈仕掛け〉が施された場合、映像化よりもその手前、まず音声化の時点で、〈仕掛け〉はバレてしまうものもある(特に一人称の性別逆転トリックなどの場合)。

したがって、「小説の叙述トリック作品は映像化不可能」というようないい方は正確ではない。実際、〈映像化〉には、さまざまな語りのファクターがあり、その各ファクター間にはスキマがあり、そのスキマを突くようにして、いくつかの「叙述トリック作品」は「映像化」されてきた。

 

漫画におけるshowingとtelling

↓でも書いたのですが、かつて、小説技術として「showing」と「telling」の対立、というようないい方がされた時代がありました。

 

3-2 語ること(telling)」と「示すこと(showing)」ーーパーシー・ラボック『小説の技術』 - 新・叙述トリック試論(孔田多紀) - カクヨム

 

「信頼できない語り手」の概念を提唱することになったウェイン・C・ブースが反発したのは、まさにこのshowing(映像的な提示)対telling(音声的な説明)という図式、および、「小説の語りはあまり饒舌に説明しすぎないほうがよい」というような風潮に対してです。

しかし現在なら、showing対tellingについては、もっとうまく整理することができる。

それを証明するのは、まさに漫画というメディアです。

というのは、ボイスオーバー形式をともなった漫画においては、showing(映像的な提示)対telling(音声的な説明)がともに一作において共存すること、が自明だからです。そこでは〈絵〉vs〈言葉〉という対立自体が、小説固有の問題意識としてのそれとは、まったく別種のものになってしまう。つまり、映像対音声、という問題意識は小説という形式固有のものなので、漫画においてそれは成り立たない。

本当にそうか? 漫画だって説明しすぎてるものはあるじゃないか……ざっくりまとめるとすれば、showing対tellingという図式でいわれようとしていたのは、「作者(を思わせる語り)が三人称で説明しすぎると、物語は下手に見える」ということになるのだと思います。伝達媒体として、語り/音声(オーディオ)それ自体が視覚(ヴィジュアル)に劣っているわけではなく、それらはそれぞれ、別個の役割を果たすことができるものである。

だとすると、「下手」の逆、「上手い語り方」の特長も明らかになります。

それは「作者の意図を物語内部において説明しすぎない」ということです。

結局、これが難しいんですよね。

「語り方の上手さ」が、「説明しすぎないテクニック」によるとするならば、それは、そのテクニックを理解できるだけの読者共同体全体の読解力の向上、にもかかってきます。たとえば、絵柄は別として、今回の「手紙」のような語り方の漫画が100年前に創作されたとして、当時の読者はそれをすんなりと理解できたでしょうか。

私はアヤシイと思います。

すなわち、「手紙」の語りは、映画や小説が培ったテクニックを用いている。そしてそのテクニックとは、「より少ない説明で読者にそういうものだと理解させる」技術である。作品内で表現されることと、読者が理解することの間には、どうしても差がある。「語り方の上手さ」とは、それを少ない手順(説明)で繋ぐものなわけですが、「表現されたもの」と「理解されるもの」との間には、どうしてもスキマがある。初読者ほどそのスキマにつまずき、慣れた人ほど勝手に補完してくれる。

「暗黙の了解」とは、こうした、「表現されたもの」と「理解されるもの」との間のスキマを指します。

それを埋めるのが、通常は、語りのテクニック、ということになる。

 

「暗黙の了解」はどこにあるのか?

絵と文字が共存する、サイレント映画に近い漫画のようなメディアの場合、小説および映像とは異なる〈語り方〉がなされるのは、誰でもよくおわかりだと思います。

たとえば「手紙」のような漫画を前にして、読者は、これまで接してきた漫画や映画を無意識に想起し、読解のモードを調節していく。つまり、「暗黙」という説明のない領域を、自ら「了解」して埋めていこうとする。

一般に、叙述トリック作品が露わにするのは、この領域です。「説明」というのはどうしたってかったるい。作者はテクニックによってそれを省略しようとし、技術を先鋭化させ、読者はそれについていこうと読解力を上げる。表現と理解とのスキマはこうしてどんどん、それこそ暗黙のうちに開いていく。

叙述トリック作品はこのスキマを利用します。

思うに、それは翻訳や異言語の習得に似ています。

説明を省略するテクニックが先鋭化すればするほど、その不自然さは、慣れ親しんだ人にとっては、母国語のように自明のものになっていく。

しかしそれは、馴染みのない人にとっては、依然として外国語のように不自然なものに映る。

往々にして、ジャンルの前提を覆そうとするラディカルさと未熟さが結びつきがちなのは、こうした理由によるのでしょう。

たとえばミステリにおいては、ジャンルの「お約束」(前提)を狙い撃ちしようとする作品は、数え切れないほど作られてきた。その大多数は失敗しています。私見では、失敗の理由は、「お約束」(前提)を明らかにして、それで終ってしまうからです。

逆に、叙述トリックのような、語りの技術の洗練を逆手にとった方法で成功するためには、「お約束」(前提)が何によって成立しているのかという根底にまで露悪的に遡るか(メタミステリ)、あるいはミステリから離れまったく別のテーマと結びつける、という行き方しかないのではないかと思っています。

そして「手紙」は後者です。

 

「手紙」の回想主体は誰か?

「手紙」の語りが実現しようとしているのは、「作中の二人は両片思いだったが世間体によって両思いになることができなかった」ということです。

回想される過去の二人の思いが同じだったことを、途中までは両者どちらにもあてはまるような語りで表現されています。

それが可能なのは、先にも述べたように、媒体としては絵/文字、時空間としては過去/現在、というふうに、二種類の次元の違いを操作することによってです。

絵と文字の間には実はスキマ(暗黙の了解)がある。そしてそのスキマを利用すること、つまり作中の男女の語りがある程度交換可能であるのを示すことが、単なる底の浅い引っ掛けではなく、より高いテーマの達成に貢献している。

では、「手紙」の回想主体、いわば真の語り手は誰なのでしょうか。

それは明らかに、兄ではなく妹の方です。

視覚的なレベルでの「手紙」の回想は、全編ほぼ妹のほうの記憶に基づいています。友人との会話は兄には知りえないものですし、ステージ前で佐伯を発見するシーンなども、兄ではなく妹の記憶です。これは単に「手紙」が成人漫画だからというわけではなく、成人漫画でなくとも、妹のほうの心情に寄り添ったものとして仕掛け自体は成立するようになっています。

漫画や映画は言葉と図像を同時に使用する。だから、一人称小説とは異なり、たとえ一人称的であろうとも、それは語り言葉がそうであるだけで、現実には見えない自分の顔もバンバン映ります。そのため、その表現方法全体を現すのに「語り」とか「叙述」とかいう用語は、言語中心でありすぎる言い方で、もしかすると不正確なのかもしれない。いろいろと提案している人はいますが、それはここでは置いておきます。

「手紙」で兄の視点によると唯一いえそうな場面は、ステージ上に立つ兄の視点から切り返されたと思わしき、妹の泣いた顔を捉えるカットです(ここは本当にすばらしい)。それ以外はすべて妹側の記憶に基づきます。

では、あの〈手紙〉のモノローグはどこに位置するのか?

合理的に解釈すれば、妹が兄の手紙を読み、その記述によって過去の記憶が刺激され、手紙の進行に沿って断片的な回想がまとめられる、というふうになるのでしょう。

先に、ボイスドラマ化すればこの仕掛けは一発でバレかねない危険性がある、と述べました。実は、それを回避するのは簡単です。視覚的次元での回想が妹の記憶に基づくものなので、兄の手紙を妹の声で読めばよい。兄の語りは、単なるモノローグではなく、作中においても書かれた言葉=手紙なので、妹はそれを(声に出してか、内言でかはともかく)読むことができる。兄のモノローグが〈手紙〉でなければ、つまり心内語であれば、こうはいかない。兄が結婚式に参加した際に花嫁を眺めながら感慨を漏らすというだけのものならば(そうした語りのいかに多いことか!)、この作品の語りと視覚とは、バラバラなままなのです。初読時、私はこのモノローグが〈手紙〉であることの意味を、そこまで理解していなかった。ふつうの内言と同じていどにしか捉えていなかった。今は考え直しました。いやむしろ、この手紙は妹の声で読まれることによってこそ、本当にその役割を果たすのではないか?

この点でも、「手紙」は考えぬかれた構造をもった、優れた作品だと私は思います。

 

語りの構造を裏切るもの

その上で、私が気にかかるのは、一つの記号の存在です。

いだ天先生の自作解説記事で引用された、兄の〈手紙〉全文の終盤の文章はこうなっています。

だけど…だけど俺は。

しかし、これは正確ではありません。実際の漫画を見ると、こうなっているのです。

だけど だけどは。

この〝 〟(ダブルミニュート)はなんなのでしょう。読んだ人にはわかります。

つまり、この部分で、〈手紙〉の執筆者=モノローグの語り手が、作中の妹ではなく兄であったことが確定する。

しかしよく考えると不思議です。

もしこの黒枠内の言葉が〈手紙〉のテクストの引用ならば、兄は

〝俺〟

と書く必要がない。単に、

と書いたはずです。先に提案したように、仮に妹がこの手紙を代読したと考えとしても、この引用符は不自然です。妹が「俺」という言葉に特に力を込める理由がないからです。

すなわちこの〝 〟は、この作品が叙述トリックを用いていることを、作者が読者に明らかにしようとして、兄の語りに介入して混入させたもの、なのではないでしょうか。

ミステリ小説においても、こうした介入はよく見受けられます。

たとえばその一つは傍点です。

見取り図や登場人物紹介といった、語りの外に配置されたパーツとは異なり、解決シーンにおいて傍点がやたら振られていたりすると、作者からの語りへの介入、といったことを感じさせます。作中人物にとっては、ほとんどの場合、わざわざ傍点を振る必要がないからです。

こうした〝 〟だとか傍点だとかいった記号は、どうしても、作中人物に向けられた必然的な語りに、作品の外に存在する読者への目配せを不必要に付したもの、つまり、先の言葉でいえば、「説明」的なもの、として感じさせます。

なので、個人的には、「こういうのはなるべく無い方が完成度が高いのではないかなあ」というふうに思います。

そしてその不自然さは、漫画としての「手紙」の語りを考える上で決定的に重要です。

漫画は絵と文字からできている。この両者はまったく異質の存在なのだが、なぜか同居しており、われわれ読者はそれをなんとなく自然なこととして受け入れている。

「手紙」の語りが優れているのは、まさにこの絵と文字の同居と別離を、それぞれのレベルで実現しているところにあります。

だからこそ、あの 〝 〟の存在は、それこそ棘のように気にかかる。

以下は、純愛主義者でハッピーエンド主義者である私の妄言です。

もしこの 〝 〟がなかったらどうなっていたでしょう。

かつて(江戸時代)の心中物が、現世での恋愛を諦めあの世での結ばれを願ったように、作中現実レベルでは二人は結ばれなくとも、言語レベルでは二人は結ばれている(二人の思いは同じだから)。そんな離れ業が達成されていたのではないでしょうか。

ここで面白いのが、成人漫画独特の「お約束」です。

絵と文字が同じ媒体に同居しながら実は異なるように、肉体と精神も、同じ一人の人間に属しながら、その向いている方角は違う。そして、「手紙」においては、肉体のほうはいとも簡単に結ばれるのに、精神の方が、その結ばれの困難度が高い(端的にいえば、そっちの方が、えっち)。

解説記事でいだ天先生は「バウムクーヘン失踪エンド」を意識した、と書かれていました。その意味でいえば、 〝 〟はやはりあるべきです。もし 〝 〟がなかったならば、叙述トリック作品として意識せずにそれまで読んできた読者は(え? どういうこと?)と混乱し、Yahoo!知恵袋あたりに質問掲示板が複数立てられることにもなりかねません。記号一つでそうした無用な混乱を避けられるならば、それにこしたことはないのではないか。

つまり、「俺」を囲む 〝 〟とは、兄が超えることのできなかった見栄を現すものであり、彼の精神が最後まで脱ぎ去ることのない衣であり、それを捨てることができない以上、やはり言語レベルにおいても二人は結ばれないほうが、この作品の真の姿なのか。

しかし、いだ天先生。私は思うのですが。

なぜ、いだ天先生は、兄の〈手紙〉を全文引用する際、 〝 〟を外していたのでしょうか。それは本当は、いだ天先生も、作中現実とは違うレベルでは、二人に結ばれて欲しかったということなのでしょうか。

以上、長くなりました。

一読者の妄言としてお聞き流しいただければ幸いです。

 

いだ天ふにすけ先生へ

 

   anatatakiより