立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

「宇宙人問題(ミステリの推理が常識外の可能性を無視する問題)」にかんする雑感

本を読まない弟に「殺人事件で全部宇宙人の仕業でした、みたいな可能性を無視できるのは何で?」と言われた - Togetter

 話題になっていたので、読んでみた。が、まとめられていない呟きも多くあり(直接言及しない人も多かった)、そちらの方に面白いコメントが色々あった。以下は、それを読んでの雑感。

 いわゆる「宇宙人問題」みたいなことは、ミステリを読み始めたぐらいの頃なら、結構な数の人が考えたことがあるのではないか(私も高校生くらいの頃によく考えた)。これは確かに難問。が、今ではそのギモンを展開してゆくうえで、いくつかの取っ掛かりがあるので、それを書いてみる。

 

1.常識(「可能性の無視」は「常識」が決める)

 まず、逆に「なぜ(ミステリに馴染み始めた頃の私のような読者は))『宇宙人問題』のような疑問を持つのか?」という問いの立て方をしてみたい。

 思うにそれは、フィクションが、いわゆる「現実」よりも自由度が高いように感じられることへの、慄きのような感覚から生じるのではないか? つまり、「なぜAであってBではありえなかったのか?」「なぜBでありうる(ありえた)にもかかわらず、Aは平然とBを無視してAでいられるのか?」という、作品内現実の在り方に対する、無根拠さへのおそれ、疑い。

 この疑問への応答としてよく持ち出されるのは、「オッカムの剃刀」のような考え方ではないか(あるいは、実際の司法でいうなら、「合理的な疑い」のような考え方がある)。しかしそれにしても、推論を進める上での経済的な判断の立場であって、確かに、「それ以外の可能性」を完全には否定していない。とはいえ仮に、もし自分が現実に事件(刑事事件)に巻き込まれたとしたら、極端な可能性を合理的に絞り込む「常識」の観点から、たとえば世界五分前仮説のような考えは否定されるし、司法では通用しないだろう。

 こうした「常識」は、問題解決というある目的のために「絶対的ではないが、その方が合理的である」というような判断が社会的に積み重ねられ、また個人の内にも生成してゆく感覚をさす。個人と集団との間で「ジャンルらしさ(そのジャンルに固有の感触)」を決めるものとして共有される感覚でもある。だから、「常識」が共有されていない段階では、「これ、なんで???」ということになる。まったく自由な観点からすれば、「常識」とは一面、不自由で不自然きわまりないものだから。しかし一方で、「常識」の側からすれば、「完全な自由」とは、「なんでもありうるがゆえに、(未だ)なんでもない」というフニャフニャ状態に見える。たぶん、ミステリの書き手(の話には、ここまで風呂敷を広げると、限らなくなってきますが)にとっては、「絶対的ではないが、その方が美しい」「その方が面白い」という「可能性の切り捨て」を積み重ねて具体化しゆく際の拠り所となる感覚が、「常識」なので、いきなり「なんでAはBじゃないの?」と訊かれると、(ウーム……)と、それを説明しようとする理路の、案外なヤヤッコシサに、驚きたじろぎ、一瞬考え込む、ということも、あるのじゃないかしらん? そして実際、「そういうもの」という実感がまったくない相手に、「そういうもの」として腑に落とさせる、ということは、これは相当な難題なのだ。

 

2.メタゲーム(「可能性の無視」を支える「常識」は変わりうる)

 1.の「常識」はいわばミステリに限らず「ジャンルのジャンルらしさ」の規定に関わるものだが、ここでは次いでミステリの「ゲーム」性について述べる。

 仮に、ミステリを、推理を核としたゲーム性を持つジャンルのことだとする。この「ゲーム性」には二つの次元がある。一つは、作品内現実として語られるそれ(いわば探偵対犯人)であり、もう一つは、作品自体をかたちづくる「語り」としてのそれ(いわば読者対作者)だ。この二つの次元の間には、微妙な空隙がある。

 推理ゲームにおいて「極端な可能性」が否定できない(だから疑問が生じる)のは、推理の前提が「ゲームのルール」として明文化されていないからではないか? だから作者がいちいち出てきて「ルール」を保証すれば、障害はクリアできる……かに見える。

 たとえばミステリを将棋のようなゲームだとすれば、ルールとは「そういうもの」なので、いちいち「なぜ香車はこのように動くのか?」などと疑問を持っていては遊戯できない。ルールがどうしても腑に落ちないならばゲームをやめるか、別のゲームをするか、別のゲームを発明すればよい(そしてミステリは将棋ではない)。

 ミステリは明文化されたルールによって完全に縛られたゲームではないが(「ナントカの十戒」などはしょせん「自粛要請」のようなものだ)、「暗黙の了解」のような擬似ルール的な感覚の拠り所となる「常識」は(「探偵対犯人」の次元においても、「読者対作者」の次元においても)、ある。

 そしてさらに、ミステリの各作品は創作物である以上、そのジャンルの「常識」を書き換えるメタゲームの側面をも含み込んでいる。

 上述の「常識」は時代や場所などの環境によって(作品の内でも外でも)、変わりうる。たとえば地球の現代社会が舞台なら、我々が普段見慣れたルールが「暗黙の了解」かもしれないが、ジャック・ヴァンス『宇宙探偵マグナ・リドルフ』のような宇宙社会なら、容疑者は最初から宇宙人。あるいは『星を継ぐもの』のようなバランスの場合もある。

 私は一読者として、「フェアプレイ」に重きを置いていると思うが、その拠り所となる感覚も、ある程度は環境に依存している。たとえば「特殊設定」ものなら、ルールを適度に明文化した上で読者の盲点を突きルールをハックするような成り行きであれば、宇宙人だろうと幽霊だろうと「フェア」に感じると思うし、あるいは先鋭的な作品を読んで(ウームこれは……)と首を傾げながら、何年か経った後に読み返してその意外に緻密な組み立てぶりに、納得させられた、「常識」を書き換えられた(あるいは何年か経つうちに自分も周囲も変わっていた)、ということもある。

 

3.応答(「可能性の無視」を支える「常識」を変えるメタゲームは、「可能性の無視」への批判に応答して行なわれる)

 2.で創作物としてのメタゲーム性ということを書いた。もし創作されたミステリがゲームであるとすれば、そこには「勝ち負けをつける」とか、「先行作の課題を乗り越える」というような、何らかの目的があるのではないか。

 あらゆる小説が何らかの意味で、方法で、語られたものだとするなら、やはりその「語り」には、何らかの目的があるのではないか? 何の目的もない「語り」が小説として差し出されることがあるのか? あっても良いが、自分が小説としてそこに何らかの価値を見出すとしたら、やはり何らかの判断基準が必要になるだろうとおもう。

 小説の「語り」に何らかの目的があるとするならば、そこには巧拙(のようなもの)があり、「語りの経済性」を重視しないならしないなりの、別種の具体的な感覚があってくれないと困るのではないか。少なくとも「現実そのもの」と創作された「作品」には、それぐらいの違いはあるのではないか?

 「極端な可能性を否定できない」という批判を「常識」が完全には克服できないとする。正直にいえば、こうした身も蓋もない現実暴露には、私は折に触れ立ち返る必要があると思う。というのは「このルールはなんかヤダ」という身も蓋もない違和感に叱られるということがなければ、おそらくは、ゲームをやめることも、別のゲームを発明することもできず、最悪の場合はダラダラとした惰性が続くということも考えられる。

 しかし逆に、身も蓋もない批判の方も、「そういうものだから」という「常識」の息の根を止めるまでには至っていないのではないか? 作家の方はそうした批判を克服できないなりに織り込んで、あの手この手で書いてきたのではないか?

 つまり「宇宙人問題」は、批判内容(WHAT)としては良いが、批判方法(HOW)としては、そのままでは凡庸すぎて弱いのではないか? 少なくとも、今『陸橋殺人事件』のような作品が書かれたとして、私は心動かされないと思う。せめて『虚無への供物』ぐらいには手が込んだ批評でないと困るような気がする。

 先に「AがAであるのはそういうものだから」という判断を支えるのは、「その方が美しいから……」「その方が面白いから……」として可能性を切り捨ててゆく「常識」の感覚、ということを書いたが、とうぜん個人の内には、「美しくない方が良い」「面白くない方が良い」という判断もありうる。しかしその判断も、表現された途端に「その方がリアルだから……」「その方が高度に戦略的だから……」「美しくない方が美しいから……」というような理路となって、ジャッジされうるのではないか。

 

 

 ……というようなことを、昨日つぶやいたので、まとめてみたのですが、しかし読み返してみると、これらは1.2.3.とも、どういうジャンルにおいてもあてはまるようなことであり、特にミステリに限ったことではないかもしれない。私の文章に抽象的で地に足のつかないフワフワしたところがあるとすれば、それはミステリに特有の、というか、話の本丸のはずの、「推理」にまったく踏み込んでおらず、その外面をグルグルめぐって終始していることからくるのかもしれない。つまり、ジャンル論と推理論を混同して書いてしまったのかもしれない(冒頭のtogetterでジャンル論の話が多かったので、それに引きずられたのだろうか)。

 話の本丸の「推理」の方は、もっと色々参照して学びたいと思っています。

 以上です。