立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

『集英社世界文学大事典』『あしながおじさん』

集英社世界文学大事典』(集英社
→全六巻。一九九六‐九八年刊。一~四巻が人名、五巻が事項、六巻が索引、という大冊。これも本文中に指標がないので、『フィネガンズ・ウェイク』と並ぶ特定難易度かも。さすがに全部読み通すのは無理なので、まず世界文学的な話題に見当をつけようと思いました。しかしフト思い浮かんだのが……例のビルマシャーロック・ホームズ、『探偵マウン・サンシャー』です。

「知ってますか? 現ミャンマー、昔のビルマにシュエダウンという作家がいたそうでしてね。(……)二十世紀初頭に、シャーロック・ホームズビルマ語に翻案したんですよ。登場人物はビルマ人、舞台もビルマに置き換えてね。『探偵マウン・サンシャー』というタイトルです。(……)マウン・サンシャーを無理やり日本語に訳せば、『サンシャー大兄』かな」
「そのサンシャー大兄がホームズなんですね」
「そうです。この翻案は読者に熱狂的に受け入れられ、大反響を呼んだらしい。今でも読まれているというから、たいしたものです。よほど面白いんでしょうね。(……)誰か翻訳してくれとは言いませんが、どういうふうに翻案されているのか、是非知りたいですね。ドクター・ワトスンはなんていう名前なんだろう」

 作者はおそらく、この直前に邦訳がなされていたことをご存知なかったのではないかと思いますが、ではどこでそれを知ったのだろう。もしかすると例の事典に載っているのではないか。するとありました(第二巻)。必要なところを抜き出せば。

シュエウダァゥン Shwe U Daung/1889.10.24‐1973.8.10/ミャンマービルマ)の小説家。マンダレー出身。少年時代イギリス植民地化のビルマで仏教寺院学校、ミッションスクールに学び、仏教、キリスト教両思想の影響を受ける。(……)当時1900年代初期のビルマでは、ジェムス・フラヂョーが『モンテ=クリスト伯』の翻案小説を著すなど、西洋近代小説を模倣したビルマ近代小説の萌芽期であったが、〔シュエウダァゥンの〕『ヤンヂーアゥン』も、イギリスのジョージ・W.M.レノルズ原作『ロンドンの秘密』『ロンドン宮廷の秘密』を素材にした翻案に近い作品である。21年、アーサー・コナン・ドイル原作『シャーロック・ホームズの冒険』の翻案小説『探偵マァゥン・サンシャー』Son daouk Maung San Shâを著し、原作の舞台背景をすべてビルマ風に換骨奪胎、熱狂的な読者を得、小説が大衆化する契機となった。(……)

 でもこの項目、あまり他と繫がっていないんです。索引巻に『シャーロック・ホームズの冒険』の項目はあるんですが、この頁番号は載っていない。だから、索引からこのシュエウダァゥンには辿り着けない。だとすると(もし『世界文学大事典』が先のシーンで参照されたという推理が正しいとすると)、まずどこか別の場所で『マウン・サンシャー』を知り、その後にこの事典を引いた、ということになるのではないでしょうか(会話文ではまず作者名の表記が違うし、「今でも読まれている」など事典にない情報も盛り込まれているので)。
 二十年前(執筆時の一九九八年)だと今よりも格段にウェブ検索で得られる情報は限られていたはずなので、その名残りをとどめている……という感じもしますね。今だとウェブの方が情報が多い場合もあるから、そうすると【参考・引用文献】の書き方自体に変容を迫られていたかも(じっさい、法月綸太郎先生は近著でよくネット上の情報も参考にしたけど巻末で挙げるのは省略した、と書かれています)。

 

ジーン・ウェブスターあしながおじさん』(谷川俊太郎訳、世界文学の玉手箱①、河出書房新社
→原著は一九一二年刊。孤児院育ちのジルーシャ・アボットは、ある人物に見初められて大学の学費援助を受けることになるが、それには条件があった。毎月一度、その支援者に生活の様子を報告する手紙を送ること(支援者からの返信はない)。その学生生活+卒業後の手紙を集成した書簡体小説ですが……引用部は「ハイネ」に続くシーン。

「あたし、モナ・リザの絵も見たことないし、シャーロック・ホームズって名前も聞いたことなかったんです」
「なんのことだ」
 わたしは、医師のニューハーフのような話し方に、背筋が寒くなった。
「きみはウェブスターの『あしながおじさん』を読んだことがないのかね。あれを読むと、昔のアメリカの女子大生のガリ勉ぶりと読書熱がよくわかるわかるよ。なにしろ、主人公はベンヴェヌート・チェリーニの自伝まで読んでるんだから」
 ベンヴェヌート・チェリーニとは誰か、と訊くのはやめた。

 原文は二箇所にわかれていて、

わたしは〈マザー・グース〉も、〈デヴィッド・コパフィールド〉も、〈アイヴァンホー〉も、〈シンデレラ〉も、〈青ひげ〉も、〈ロビンソン・クルーソー〉も、〈ジェイン・エア〉も、〈不思議の国のアリス〉も、ラドヤード・キプリングも読まずにそだった。わたしはヘンリー八世が何回も結婚したこと、シェリーが詩人だということを知らなかった。人類がかつてはサルだったということも、エデンの園が美しい神話だということも知らなかった。R・L・Sっていうのはロバート・ルイス・スティヴンスンの略で、ジョージ・エリオットは女だということも知らなかった。わたしは〈モナ・リザ〉の絵を見たこともなければ、シャーロック・ホームズという名まえさえも聞いたことがなかったんです(ほんとにほんとの話)。

 もう一箇所。

小説を十七さつと、詩をあびるほど読みました――〈虚栄の市〉や〈リチャード・フィーヴァレル〉や〈不思議の国のアリス〉は読んどかなきゃいけない作品だし、ほかにもエマスンの〈エッセイ集〉、ロックハートの〈スコット伝〉、それにギボンの〈ローマ帝国史〉第一巻、ベンヴェヌート・チェリーニの〈自伝〉――チェリーニってけっさくな人ね。ぶらっと散歩にでて、ちょっと人殺しをするなんてのが朝飯前なんですって。

 桃尻語というのかなんというのか、語り手のジルーシャ(愛称ジュディ)の女子大学生とは思えないくらいきらっきらとした語りがまぶしすぎて、なかなか平静な気持ちでは読み進められません(しかもジュディは作家志望者で在学中に商業出版する)。で、フト思ったんですが……【以下『あしながおじさん』の趣向に触れます。】『あしながおじさん』には一種の叙述トリックが仕掛けられています。それは、ジュディの支援者は実際には「おじさん」ではないというところです。トリックは冒頭から示唆されています。「おじさん」が孤児院にやって来た時、ジュディは彼を眼にするのだが、ちょうど逆光になっていて顔は見えず、光を背に長く伸びた脚の影だけが印象に残る。ジュディはその後、手紙の中でさんざん「あなたは禿げてますか?」とかなんとかいってからかいます。多くの読者も彼は「おじさん」だと思う(タイトルにもそう書いてある!)。だから、「おじさん」の正体が実は身近にいた青年だったというラストは「どんでん返し」として機能する……(そういえば時期的にはちょうど映画『ユー・ガット・メール』が同じことをやっていた頃ですが)。

 私が何を思ったかというと、こういう読者にとって嬉しいどんでん返しというのは、作者のトクになるんじゃないでしょうか。ぜひ蘇部健一先生にパスティーシュしていただきたい。