立ち読み師たちの街

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「殊能将之」と『楚辞』

 以下に掲出するのは、第28回東京文学フリマで頒布した有料ペーパー「T B C N海賊版v o l.2 特集・殊能将之(その二)余滴」に載せた記事です。『立ち読み会会報誌』第二号の責了後に、

「そういえば〈殊能将之〉って〈特殊な才能で軍勢を率いる〉という意味だといわれているけど、ホントかな?」

 という疑問がフト浮かんで、それについてアレコレ読みながら書いたものです。なにしろ数時間の勢いで書いたものなので、もっとちゃんと『楚辞』の訳文を読み比べるなど色々した後でこのブログにも載せたいな、と思っていたのですが(特に、中国語および中国古典文学に詳しい方にしてみれば、ツッコミどころがあるはずなので)、特に進展しないまま二年が経ってしまいました。ある種のヨタ話というか、眉唾というお気持ちで、御覧いただければ幸いです(そして、耳寄り情報があったら、ぜひ教えてください!!)。

 

***

 

【『楚辞』について】
○第二号を責了したあとで、私はある一つの重大な点を見落としていることに気がついた。それは、「殊能将之」というペンネームの典拠とされる『楚辞』をまだ見ていないということだ。
殊能将之」の元ネタは『楚辞』だよ、ということは、いつ頃からいわれだしたのだろう。いま初出を確認する余裕がないが、『美濃牛』文庫版(2003)の池波志乃解説にはすでに〈『楚辞』から引いたと思われる筆名〉とあるから、たぶんそれ以前なのだろう。『黒い仏』文庫版(2004)の豊崎由美解説ではさらに踏み込んで、〈『楚辞』中の一編、屈原「天問」の〈殊能将レ之 (しゅのうもてこれをひきいたる(特殊な才能でこれ“軍勢”を率いる)という言の引用である〉とある(2019年5月5日現在、日本版ウィキペディアにも豊崎解説を根拠にそう書いてある)。
 ところが、『楚辞』の日本語訳をいくつか見てみると、この「殊能将之」という語句には、どうも異なる解釈が存在し、必ずしも「特殊な才能でこれ“軍勢”を率いる」という意味では定まっていないようなのだ。ここでは、そうした複数の解釈について記すことにする。
 そのために、まず『楚辞』と屈原について紹介しよう。
『楚辞』は中国南部の楚地方で作られた韻文17篇を集めたアンソロジーで、中心を成すのは屈原(前343-前278)によるものとされている。屈原は博覧強記の文人でかつ政治家でもあったが、ある時、対立する同僚の策略によって失脚し、楚を追い出されてしまう。滅亡しゆく祖国への愛と憤懣を元に作られたのが『楚辞』所収の諸編だが、さすがに大昔のことだけに、(ホントに屈原が書いたのか?)という見方も強くあって、後世の人々の手が入っているんではないかという点、ホメロスと似たような事情かもしれません(最期は汨羅江に身を投げて死んだ、その旧暦5月5日・端午の節句にチマキを作って食べる風習はもともと、屈原を鎮魂するための行事からだった――と書いていて気づいたが、今日はたまたま5月5日ではないか)。屈原による原文は残っておらず、後世に書かれたおびただしい註釈本を総合して、現在流布しているバージョンは成り立っている。
「天問」は『楚辞』の中でも、いっぷう変わった一篇。成立事情としては――祖国を追放され彷徨していた屈原がある時、楚の先王の廟にたどりついた。その建物には森羅万象の伝説を描いた図画があった。それ見た屈原の胸中から、古今の伝説に関する疑問が一挙に噴出し、それを壁に書きつけた……というもの。なので、全体は詩というか、190弱の疑問文、というよりも疑問文の形をした説明(屈原は別に「答え」を必要としているわけではない)の集積によって書かれている。思い切っていえば、「中国の伝説あるある」をテツandトモの「なんでだろう~」の形式で書いた、といえば想像しやすいかもしれない。
 該当箇所は第九段(この「段」という区切り方も便宜的なものなので、ものによっては第●行、などとも書かれています)。天地開闢への疑問(この世の始まりをいったい誰が語り伝え得たのか?)から始まって時間を前後しながら、だいたい周王朝(前1050頃‐前256年)の成立あたりまでたどりついた箇所。そこにこうある。

 

稷維元子 帝何竺之
投之於冰上 鳥何燠之
何馮弓挾矢 殊能將之
既驚帝切激 何逢長之

 

 まず、最初の「稷」=后稷について紹介しよう。
 后稷(こうしょく)は中国の古代神話に出てくる人物で、その十五代後の武王が周王朝を建てた(つまり実在が疑わしい人物だが、いちおう武王の系図をたどれば后稷に行き着く、とされている)。后稷には出生の時から奇怪なエピソードがまつわりついていた。帝・嚳(こく)の妃であった母・姜嫄がある時、巨人の足跡を踏んで妊娠した。怪しく思い、生まれた赤子を何度か捨ててようとするのだが、そのたびに動物たちが彼を守ったので、赤子を育てることにした。すると彼は、幼少期から不思議と植物を育てることが得意で、長じて帝・舜に仕えて農師を務めたことから、のちに「農業神」として称えられることになった――すなわち后稷=農事に強い人、というパブリックイメージが、「天問」のこの部分の前提としてある。だから、「稷維元子 帝何竺之 投之於冰上 鳥何燠之」とは、「稷は元子、帝何ぞ之を竺(毒)する。之を氷上に投ずれば、鳥何ぞ之を燠(あたため)る」で、「稷は帝の子なのに、帝が彼を憎んだのなんでだろう~? 稷を氷の上に投げ捨てたら、鳥が彼を温めたのなんでだろう~?」という意味であり、ここには解釈の余地は少ない。
 ところが、次が問題になる。というのは、后稷といえば農事、というパブリックイメージであるにもかかわらず、テクストはなぜか弓矢すなわち武芸の才能の話題に移るからだ。「殊能将之」の語句に関していえば、
  ①「殊能」とは何か?
  ②「之」とは何か?
  ③これは誰について述べているのか?
 について、解釈が分かれることになる。『楚辞』に関する最も早く基礎的な註釈者・王逸(2世紀前半頃)は「殊能」の持ち主は后稷という見方。後世の有力な註釈者・洪興祖(12世紀前半頃)は武王(后稷の子孫で周王朝の建国者)という見方だという。
 私は中国語はよくわからないので、『楚辞』の邦訳を何バージョンか見ただけだが、日本語訳の場合は現在、だいたい武王説が多いようだ。すなわち、このブロックだけを見ると「武王」という名は出てこないので、「なんで后稷の話からいきなり武王の話になるの?」とも思うが、この「天問」ではそれまでの流れで武王の話をしているので、話題が后稷から急に弓矢の才能の持ち主=武王に移行しても無理がない、という見方。星川清孝訳(明治書院、1970)によれば、「何馮弓挾矢 殊能將之 既驚帝切激 何逢長之」とは、「どうして弓をひきしぼり、矢をたばさんで、周の武王はすぐれた才能を以て衆をひきいたのであろうか。すでに帝紂を驚かすことがはげしかったのに、どうして子孫長く王位に居るという幸運に逢ったのであろうか」という、周王朝の建国にまつわる解釈になる。つまり、
  ①殊能=武芸
  ②之=衆(軍勢)
  ③才能の持ち主=武王
 という見方だ(先の豊崎解説もこうした説によるものだろう)。
 一方、橋本循の訳注(岩波文庫、1935)では后稷説を採っている。

 

后稷は長じて後、堯に事(つか)へて司馬たりしことあり。(司馬は兵馬を統率する役なり。)其時稷は弓を引くに満を持し矢を挟み、衆に秀でたる絶藝あり、以て衆を率いたるが、如何なれば、かゝる殊能を有せしや。其の生るるや帝嚳の驚き憎むこと激切にして、之を陋巷に、平林に、氷上に棄てたるに如何なれば子孫長く国を享くるに至りしや。

 

 しかし、武王と「弓矢」とはすんなり結びつくが、后稷がスゴイ武芸の持ち主だったという話はいまいちピンとこない(后稷伝説について言及のある『史記』や『詩経』にもそんなエピソードはない)。橋本は后稷と武芸の結びつきについて、劉永濟の註釈書『天問通箋』を根拠にこう説明する。

 

此章は后稷が司馬たりし時のことを言ふなり。古経籍には后稷が農官たりしことを言へども其の弓矢を将ゆるを言ふ者なし。たゞ詩疏に尚書刑徳放を引いて稷の司馬たりしことを云ひ、「詩の魯頌閟宮篇」の鄭箋にも后稷の司馬たりしことを云ふ。按ずるに屈原は多く古史異説に本づき儒書と異る所あり。

 

 すなわち、后稷がスゴイ武芸の持ち主だったという根拠はないが、司馬=兵馬を統率する役職にいたことがあるというエピソードはいくつかの文献にある。たぶん屈原はこうした異説に基づいて、后稷と武芸の関係について書いたのだろう……云々。これだと以下になる。
  ①殊能=武芸
  ②之=衆
  ③才能の持ち主=后稷
 ところが、中国の古詩とその解釈を掲載したサイト「古詩文網」の「天問」およびその日本語訳を掲載しているブログ「プロメテウス」の記事「屈原の天問を読もう!この疑問が解ればあなたも中国神話上級者!!」を見て私は驚いた。そこでは次のように解釈されている。

 

 为何长大仗弓持箭,善治农业怀有奇能?(「古詩文網」)
(后稷は)なぜ弓矢と共に育ったのに、農業を善く行い特別な才能を持ったのか?(「プロメテウス」)

 

 くりかえしになるが私は中国語がわからないので、「古詩文網」のこの部分の注釈部分にある、

 

何冯弓挟矢:冯,通“秉”,持。将,资。闻一多说:“言天何以秉弓挟矢之殊能资后稷也。传说盖为后稷初生,有殊异之质,能秉弓挟矢,其事神异,故举而问之。”

 

 がどういうニュアンスなのか、またどういう根拠に基づいた解釈なのか理解できないのが残念だが(そこで五冊くらい挙げられている注釈書をキチッと読み込めばわかるのかもしれませんが……)、さしあたり上記の見方によれば、
  ①殊能=農事その他
  ②之=衆
  ③才能の持ち主=后稷
 で、原文の配列における「后稷=農官、農業神」と「武芸の才能」という対立するイメージの矛盾を含みこんで、「后稷が武芸と農事どっちも得意だったのなんでだろう~?」という疑問を屈原は書いたんだ、という説にならないだろうか?
 さて、『楚辞』に関する長い紹介だったが、ようやく今回の言いたいことに辿り着いた。
 私は以上の解釈のうち、どれが有力なのかも判断できないし、またセンセーがペンネームをつけるにあたりどの訳本を御覧になったのかも知らないが、面白いのは最後のものだと思う。すなわち――

 

(何馮弓挾矢)殊能将之?=(なぜ弓矢と共に育ったのに、)農業を善く行い特別な才能を持ったのか?

 

 という疑問文を思いっ切り意訳すれば、このペンネームは、

 

(なぜSF研出身なのに)本格ミステリを書いてデビューしたのか?

 

 という自嘲が込められている、とパラフレーズできなくもないだろうからだ。そして、あれほどエドガー・アラン・ポーと誕生日が同じ1月19日であることを公言していたセンセーのことであるから、クリストファー・プリースト『奇術師』への感想で

 

わたしは本格ミステリとSFという「似たものどうし」に思いをめぐらせた。このふたつのジャンルは、ともにエドガー・アラン・ポーを直接の起源としており、双子の兄弟といってもよい。(「memo」2004年4月後半)

 

 と書かれていたことも考え併せると、そうした「問い」に対する「答え」がありうるとすれば、その二つは通底しているからだ、ということになるのではないかと思う。
 なにぶん門外漢の浅知恵なので、詳しい方からすれば、それは無理筋でしょ、と言われるかもしれないですが、しかし、一門外漢としては、〈それこそ「サンプリング」の精神だと啖呵を切〉りたい気持もないではない。

 

(以下は慶長年間発行の『歴代君臣図像』国会図書館デジタルコレクションより。上図が后稷、下図が武王。「殊能」の持ち主は一体、どっちだ!)

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