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襤褸は着ててもロックンロール

矢部嵩は天才である。(1)

はじめに
矢部嵩は現代における真の天才であり、その小説は世界文学である。
以上。

とだけ書いて皆様がフムフムもっとも僕も私もそう思うと大賛同の輪が世界中に広がれば万々歳なのだが、残念ながらまだまだ御納得いただけない方もおそらく多いことと思料せられるため、やむなく上記の命題を以下とくとくとご説明申し上げるしだいです。

なぜ矢部嵩は現代における真の天才なのだろうか。
手っ取り早い例として『魔女の子供はやってこない』(角川ホラー文庫、2013)の未収録断片「中耳炎」https://drive.google.com/file/d/0B4WktLkDU47wMzRicWNONUxYSFE/edit をお読み頂きたいが、しかし私が断言するのは、そこにおけるアルフレッド・ベスターばりの華麗なタイポグラフィを駆使するからというような、そんな単純な理由ではない(ちなみに『魔女の子供はやってこない』には上にあるようなレイアウト面での実験はほとんどない)。
矢部嵩の長篇小説は、たとえば42.195キロを走ってその速さを競うマラソンランナーではない。マラソンランナーのスコアには競技中の身体の動作の美しさなどは一切問われない。矢部の長篇はいわば、フィギュアスケートのように身体を面白く動かしていたらいつの間にか42.195キロ走れるようになっていたのでとりあえずエントリーしてみた、というような代物に近い。確認すれば、ここで私のいうマラソンとはエンターテインメント小説のフォーマットもしくはカテゴリーとしての「ホラー小説」であり、身体の動作とは文章のことである。矢部の作品はフォーマットとは無縁だ。いや、夢のように定まらず絶えず四散しようとするイメージの巨大な断片群を現世に繋ぎ止め、辛うじてカタチを与える方法として、エンターテインメントの外見が仮の姿に採用されている、といった方がいいかもしれない。
つまりいわゆる「ホラー」らしいホラー小説、ホラーらしさを狙って書くホラー小説、とは本質的に関係がない。もっといえば、人間の原始の感情を掻き立てる技術という意味での「ホラー」なら、その伝統のど真ん中に連なる。単に市場的価値としてのフォーマットを重視していないというだけのことだ。心ある読者なら、必ずやそのような俗世の檻に囚われることなく、曇りなき眼で作品とプライベートな対話を試みて下さることと信じる。その上で私のいっていることが間違っている当たっているなどと判断してくれればありがたい。いや私の言葉など本当はどうでもいい。重要なのは、貴方が矢部嵩の小説を読んで下さることだ。
以上述べてきたことは余談にすぎない。これから、その前人未到の作品群を少し詳しく見ていこう。
デビュー作『紗央里ちゃんの家』
矢部嵩は2006年、『紗央里ちゃんの家』でホラー小説大賞長編賞を受賞しデビューした。武蔵野大学在学中の十九歳だった。私も当時大学生で、新人の登竜門としては難関として名高いあのホラー大賞の受賞者が同い年の人間から出てきたという事実にまず驚いた。だからいざ読むにあたりそこに嫉妬が混じってしまったことは否めず、つまり意地悪い読者として読んだ。
『紗央里ちゃんの家』は小学五年生の主人公が、とある「家」に入り戻ってくるという話だが、感覚としては読者自身もまさにこの小説という「家」=構造物へ入り、地獄をめぐって戻ってくる、という印象を与える。この「家」の中は時間も空間も論理も奇怪に歪んでおり、飲み込みやすい説明はまったくない。
私は当時こんな「ホラー小説」は読んだことがなかった。そのため、どう形容したらいいのかわからなかった。作者の意図もよく見えなかった。それで、読後にはこんなふうな感情が渦巻いた。(いかにもシュールな感じを狙った作風……ネットにもこれくらいの文章を書き散らす書き手はいるんじゃないか?……いやそれにしてもここまで長いものを形にするのはそれはそれで凄い……ただ何がいいたいのかピンとこない……「紗央里ちゃん」について見え見えなのに思わせぶりな感じがどこかイヤラシイ……この作風で二作目はツライだろう……)云々。
決定的だったのは、次の箇所である。
〈「おれさあ」父さんが口を開いた。僕に向かって、自分のことをおれといった。びくっ、とした。普段は「父さん」と、そう自分のことを呼んでいるのに。
「おれさあ・・・・・・凄いさあ・・・・・・どおおおおおおおおおでもいいんだよね・・・・・・そういうの・・・・・・本当さあ」〉
ここでだいぶ冷めてしまった。
(あー、自分でシュール風なことをやっておいて、登場人物に「どうでもいい」といわせてしまうのか。でもそれをやってしまうと、読者もこの小説自体に対して「どうでもいい」と思っちゃうよな。そしてそれを作品は拒否できないよな)
と、思った。
いま読み返しても、『紗央里ちゃんの家』の語りには端々に説明的というか作者のテレというか、中途半端にセルフツッコミを入れて書き手自身が作品世界に完全にノリきれていないような感じを受ける。真に矢部嵩的空間が立ち上がるのは、このセルフツッコミを消去してゆくところから始まったのではないか。

『紗央里ちゃんの家』から数年の時間が流れた。
そのあと『保健室登校』が出ていたことは知っていたが、前述のように同い年の書き手に対して嫉妬心の方が勝ったため、手に取ることはなかった。
そして昨年。Twitterで「矢部嵩bot」というアカウントがあることを知り(しかしこれは本人とは関係があるのだろうか)、懐かしくなってフォローしてみた。すると作中の言葉が140字以内の短い断片となって日々やってきた。それをなんとなく読むうち、私はしだいに眼を洗われる心地だった。(続く)