『双孔堂の殺人』は、メフィスト賞を受賞したデビュー作『眼球堂の殺人』に続く第二作。発売(2013年8月)から割とすぐに読んだものの、期待と異なり、じっさい評判も前作よりいくらか良くないようなので、特に何も感想を書かなかった。しかしあまり具体的な指摘を見かけない。このままでは惜しいと思うので、ちょっと自分が気になった点をいくつか書いてみる。以下、展開に触れることがあるので、未読の方はご注意ください。
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前作も早いうちに読んだ。それなりに楽しんだものの、自分が過去の受賞作(森博嗣、蘇部健一、浦賀和宏、……)で受けたほどの衝撃は覚えなかったので、次が出てもし気になったら手にとってみようかなあというくらいの感じだった(実際には、刊行されてすぐに買った)。本書を読み終えて思ったのは、前作ではまだかろうじて保たれていたバランスが、今回はかなりチグハグになってしまっているのではないか?ということだった。
どういうことか。このシリーズは、天才的(かつ世界的)数学者である探偵役が、数学的発想を武器に謎を解く数学+館ものという要素を売りにしている。とすれば、かつての同賞第一回受賞作を始めとする森博嗣の〈S&Mシリーズ〉を思い浮かべる読者は多いだろう。一方をウンヌンするためにもう一方を持ち上げるやり口は、私は好きくないのだけど、そういった比較は作者も版元も織り込み済みだろうし(前作の帯推薦文はその森氏)、説明しやすいので、簡単に述べてみる。
国立N大建築学科助教授・犀川創平とその学生・西之園萌絵を主役とするS&Mシリーズに比べると、この堂シリーズ(と仮に称する)では、人物がリアリズムではなく、類型的なキャラクターとして書かれる度合いが強い。もちろん、S&Mシリーズでも、あのいかにも漫画チックな萌絵や真賀田四季の設定はどうなんだとかそういう指摘はできるわけだが、少なくとも大学をめぐる部分は、あるていど現実に近いかたちで書かれているといって差し支えないと思う。
そう。大学。犀川の勤務先が、「N大」と一貫してイニシャルで記されたとしても誰もが、ああこれは名古屋大学がモデルなんだなとピンとくる。そしてその辺りを現実との接点として、作中で展開される教育についての思索や理系的な思考についてを、自分の身に引きつけて考えることができる。
僕がそうだった。僕は高校生の時、数学がニガテだったけど、本格ファンだった理系のクラスメートとはよく森博嗣トークをした。そいつはあまりにもファンすぎて、N大のモデルとなった大学まであわや進学するかというほどだった(結局はやめたけど)。なぜ文系の僕が彼と何時間も(何十時間も)森博嗣トークをしていたのかというと、作品によって学問への尊敬の念を抱かしめられたからだと思う。
ちょうど受験を控えた不安な高校生が、大学を舞台にした小説を読んでピンポイントにアテられたのだともいえるだろうけど、それより、◯◯とは何か?という根源的な問いの立て方が理系・文系のへだてなく僕らを惹きつけたのだと思う。少なくとも僕は、卑近なことをいえば、「学問なんていったい何の役に立つのか?」というような疑問はもう口にできなくなった。地味で、単調な毎日の反復で、傍からは何をやってるんだか判らない、注目を浴びることも滅多にない――しかしそんな研究生活も人類の歴史全体とどこかで繋がっていて、強固な世界にある瞬間ふいに亀裂が走るような瞬間がやってくる……そうした当時の僕の見方はいま振り返ると恥ずかしいほどロマンチックすぎるし、じっさい、作品に対しては批判もあるわけだけれど、ともあれ、学問というのはなんだか凄いんだなあ、と植えつけれた感覚はいまも自分の中に残響していると思う。
堂シリーズの登場人物にもモデルや名前の基となった実在の人物たちがいる。その参考にした数学者たち――たとえばポール・エルデシュという「敬愛する人物」を「物語の中で生き生きと動かしてみたい」という「願望」がデビュー作の「着想のきっかけ」になったと書くのだが(「一問一答」)、作中での書き方と噛み合っていないのでは?と思った。たとえば『双孔堂』の前半に、建物にやってきた、犬猿の仲の数学者たちが偶然出くわすコミカルなシーンがある。(p39)
ここを読んで私はズッコケてしまった。そして次の瞬間、前作から感じていた疑問が氷解して膝を打った。それまで、S&Mシリーズを読む要領でこの堂シリーズに接してきたのだけど、この描写はどうも、筒井康隆『文学部唯野教授』の書き方に近いのではないか。つまり、出てくる学者たちが皆コッケイなのだ。
『眼球堂の殺人』もそうだった。世界的建築家とされる人物が、各分野のスペシャリストたちを招くのだが、その招待状の文面にしろ、館に集っての挨拶にしろ、建築の優位性(綜合芸術性)をめぐる議論にしろ、主張がいちいち幼稚に見えて仕方がない。つまり、建築というのはもっと凄いものでありうるはずなのに、その凄さが小説の中で妙にギャグっぽく書かれている。建築家が腹話術人形になっている。そんな人物が創った館でこれから次々と事件が起こってゆくシリーズなのだ。こういった主張に触れて、読者が彼らおよび彼らの信奉する学問をリスペクトするかというと、そうではないのではないか?と感じてしまう。
私が重要だと思うのは、作者と読者が作品世界を眺める視線にある。読者が、こんなバカな建築家は、現実世界で尊敬を集めるようなことはないだろうし、相手にしたくもない、と感じるとする。この時、両者のあいだには(尊大な自意識と客観的な視線のあいだには)ズレがあり、読者は建築家をコッケイな人物として眺める視線を持つ。もし他の登場人物も、読者と同じように建築家をコッケイな人物として眺めるならば、読者はその作品世界を自分に近いものとして感じるだろう。しかし、もし他の登場人物が、建築家をコッケイに眺めないならば、読者と作品世界それ自体とのあいだにズレがあり、読者は作品世界それ自体をコッケイに思う。そして今度は、作者と読者の視線の差が問われうる。もし作者が、作品世界をコッケイに眺めるならば、読者は作者を近いと感じる(たとえば『文学部唯野教授』)。筒井康隆が森博嗣の『工学部水柿助教授の日常』幻冬舎文庫版の解説で指摘した、『唯野教授』と『水柿助教授』に共通しながら正反対に働いている要素としての「ユーモア」とは、おそらくはこうしたズレへの感受性から生じてくるのだろう(そして森と筒井は、『双孔堂』の作者がどちらもファンを公言する作家だ)。
しかし、もし作者が、そのズレを捉えないならば……。私が先に、〈前作ではまだかろうじて保たれていたバランスが、今回はかなりチグハグになってしまっている〉と思ったと述べたのは、この点を指す。作者も、まさか建築家(沼四郎)がコッケイでないとは思っていないはずだ。じっさい、『眼球堂』のラストには、善知鳥神が父親をバカにする台詞もある。
『眼球堂』ではこの神の視点が、作品をまとめる担保になっていた。事件部分全体が、善知鳥神によってまとめられたノンフィクションという体裁だった。しかし『双孔堂』では、作品全体を統御する視点が失われてしまう。神ならぬ神の視点(駄洒落……)が、十和田を、神を記述する。
語り手である警察官の妹は、作中作『眼球堂の殺人』を読んで十和田のファンになったのだった。そして兄に十和田のサインをもらってくるよう頼んだ。いわば『ドン・キホーテ』のような構造を持っているのだが、善知鳥神という記述者を失って、第一作と第二作での十和田の描かれ方はかなり違う。直截的にいえば、『双孔堂』での十和田は、支離滅裂なキャラクターになってしまう。
十和田はよく、自分が興味を持った著名な学者に「共同研究」を持ちかけて押しかけるらしい。この「共同研究」の実体は不明だが、いきなりやってきて建物の外から大声で呼びかけるというようなことからすれば、かなり牧歌的なものだと感じさせる。ところが序盤、館主の殺害が判明した直後に十和田は、「自分が犯人だ」と自首する。のみならず、館主の死亡(しかも自分が手にかけたかもしれない?)になんらの感情も見せないまま数学に没頭して、語り手を混乱させる。私も混乱してしまう。人が二人、死んだばかりなのだ。こんなに、自分の快楽のみを追求する血も涙もない非人情な人間だったかなあ。非人情なら非人情で、メルカトル鮎のような変人に徹してくれれば良いのだが、本編の終わりでは微妙に人間観察ぶりを見せるのだから、困ってしまう。犯人の犯行時、うしろから気絶させられたのを都合よく忘れていきなり「自分が犯人だ」といいだすあたりも不自然だ(これは犯人と十和田のあいだに何かあるのかなと思っていたら何もないのだから、トリックとして強引すぎる)。いくら理解を超えた放浪の変人にしても、ここまでキャラクターが分裂してしまっては……共感するわけにはいかない。
さらに解決編では、犯人による動機吐露がベタに展開される。もちろんそこからドンデン返しがあるのだが、容疑者の皆さんが突っ立ったままのごくアッサリした十数分の説明で覆されるような動機(勘違い)を長年抱き続け、壮大な準備ののち殺人を犯す人物というのは、哀れというよりやっぱりコッケイだし、それをコッケイに思わない周りの登場人物たちもコッケイに感じられてしまう。何よりヘンなのは、自分の妻をレイプした男に、自分の捨てた子供(犯人)を拾われて父親(被害者)は「ホッとしていた」とその娘(犯人の妹)が犯人に説明する箇所で、そんな父親はいないだろうと思う(じっさい、そのレイプ男が犯人に悪意ある誤解を吹き込んだのが悲劇の大元なのだ!)。
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一方に「敬愛する人物」を「物語の中で生き生きと動かしてみたい」という「願望」があり、一方に『文学部唯野教授』的描写がある。作者が作品外の現実の数学者に向ける視線と、作品内の数学者に向ける視線のズレ。ズレ自体はある意味では、ユーモアの技法として欠かせないものだが、しかしそういうズレとはこの場合、違うのではないか。
トリックに既視感があっても、ウンチクがわかりづらいものであっても、かまわないと私は思う。しかしこの視線のズレは気になる。なぜなら、このシリーズは「数学」を売りにしてるのだから、少なくとも「数学って本当にいいものですねえ」と読者に感じさせなければならないのではないだろうか。ところが作品全体が伝えるメッセージはそうなっていない。このズレに作者も編集者も気づかないはずがないと思う。エンターテインメント小説を成立させるためには仕方がないのだろうか。しかし、自分の敬愛する分野およびそれに貢献した偉大な人物たちの大きさを、都合よく縮減せざるをえないとすれば、シリーズ全体を貫く“THE BOOK”というテーマすらも思わせぶりな子供だましとして結局のところ、矮小化されてしまうのではないか?
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以上の文章を書いたのは『双孔堂』の発売してちょっと後だから、もう一年近くも前になるか。「自分の妻をレイプした男に、自分の捨てた子供が拾われて安心する父親」という人物設定に、つい非現実性を感じてしまったのだけど、書き終えて、「ウーン、でもこれって公開するようなことかなあ」と思い直し、そのままにしていた(『双孔堂』に対する批判の数がしだいに増えていったので止めた、ということもある)。その間に刊行された第三作『五覚堂の殺人』を最近読んだ。さすがに、「自分の妻をレイプした男に、自分の捨てた子供が拾われて安心する父親」ほどの非現実的な人物は出てこず(ただし、養子はまた登場する)、モードを変えて読めばなかなか面白かった。それに、『双孔堂の殺人』は、元々シリーズ化する気がなかったデビュー作を無理矢理シリーズ化したもの(「あとがきのあとがき」)ということで、「ウーンそれは大変だっただろうなあ」と思い、少し書き換えて公開することにしたものです。