深水黎一郎『最後のトリック』(河出文庫。メフィスト賞受賞作『ウルチモ・トルッコ』の改稿版)巻末の島田荘司による解説を読んでいたら、単なる解説というより推理小説という運動をめぐる小史となっていたので驚いた。こうした解説になじんだ向きにはいささか冗長にうつるかもしれないが、「読者が犯人」というアイディアへ書き手たちを駆り立てたものを、ポーとヴァン・ダインを軸に整理して見通しよくしている。以下に書くのは、それを読みながら浮かんだこと。
ポーが広い地平を用意した。それはあまりに広い地平で、最初はどう利用してよいのかよくわからなかった。くだってヴァン・ダインが、推理小説のゲーム化という普遍的な道具を提供した。これはかなり便利な道具で、小説的才能に富んでいない者にも「作者」となりうる可能性をもたらした。
以降、ポーよりは小規模ながら土地が開けてはそのたびに収奪が続く。新しい土地には新しい作品が場所を占める。こうして、個別の作品を分析・応用することで未知の土地を次々と埋めていく秩序化(ヴァン・ダイン)と、絶えず未知の土地を開こうとする非秩序化(ポー)を軸の両輪として、「推理小説」が発展していく。
読者=犯人というアイディアが「最後のトリック」=フロンティアの消滅であるとは、それがヴァン・ダインが用意した「推理小説のゲーム化」という「本格」路線の終着駅であることを意味する。当然ながら、「最後」とは既存の秩序をもとにそう判断しているにすぎないのだから、「それが最後であるはずはない」という疑いをはさみうる。
仮に、過去のジャンル全体の蓄積を俯瞰し整備する普遍的な秩序化を「文化」と呼び、そうした蓄積から影響を受けて個人的な衝動として起源へと遡ろうとする非秩序化を「芸術」と呼ぶとすれば、その両輪が発展を推し進めることは、何も推理小説にはかぎらない。個人を単位として見れば確かに、器用にフィードバックしてゆく「文化」よりも、巨大な新しさを発明する「芸術」のほうが後世の目からすればエライ。しかし、そんな「芸術」を用意するのが、「文化」であるのも確かだと思う。ポーという川にも無数の無名の「作者」たちが源流として流れこんでいるし、「芸術」の役割も別の視点からすれば、「文化」に貢献している。
『最後のトリック』の解説者は最後に、ヴァン・ダイン的路線の果てにポー的な混沌が現れることを示唆する。そして『ヴァン・ダイン伝』の著者は、ヴァン・ダイン自身が実は「文化」のあとで「芸術」に向かおうとしていたと書く。
こうした見取り図もまた「文化」の一端だろうけども、その果てに未知なる混沌が現れることを、誰しも望ますにはいられないのではないか。