殊能将之は作中の博識や「ミステリ」ジャンルに対する批評的なスタンスおよびトリック、俗なユーモアなどでいわゆる「クセモノ作家」としてその読者には受けとられていると思うが、〈かつて子どもだったあなたと少年少女のための――〉と銘打たれるジュブナイルシリーズの一巻として書かれたこの『子どもの王様』(2003、講談社ミステリーランド)はファンの間でもとりわけ人気がないらしく、私は高くない評価を見るたびにこれまで悲しく思っていた。
理由はわかる。とにもかくにも「驚き」という読書体験を至上の目的に掲げる「新本格ミステリ」以後のミステリファンに、多発するドンデン返しによってそれなりの満足を与えていた作者が、らしい「ヒネリ」のないように見える、いかにもまっとうな「ジュブナイル」を投げてきたからだ。
手にしたのは6年ほど前のことだと思う。一読、ある感銘を受けた。それまでに読んだどの殊能作品よりも。それは、この作品が「団地」を舞台にしていて、私も団地出身だから、ということもあるかもしれない。けれど、それだけではない。と、信じている。講談社ノベルス版発売を機に、新版を再読してみたので以下、『子どもの王様』の魅力について少し書いてみたい。
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『子どもの王様』は、その長さからすればほとんど無駄のない完璧なドラマ性を持っている。簡単にいってみれば「子供から大人への成長」。ジュブナイルにはぴったりのテーマだろう。
私が読んだ〈講談社ミステリーランド〉の作品は10作にも満たないが、今作はとりわけシンプルだ。派手な事件もトリックもない、地味な日常。テクストの主眼は、実はここにあると私は見る。
「ミステリ」という小説いや物語ジャンルは、今や小学校に通う子供にとっても非常にポピュラーなものだ。テレビドラマや映画、漫画、小説などなど、親しみ深い作品は数多い。私もコナン・ドイルのホームズものや江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズを読破すべく図書館に足繁く通い始めたのは、一年生の頃だった。
しかし、その頃はたとえば現在のようにミステリを「ミステリ」として読んではいなかった。つまり、フェアプレイがどうの、先行作品の影響関係がどうの、シリーズとしての整合性がどうの、そんな面倒なことは気にしていなかった。面白ければなんでもよかった。「ミステリ」は、単に「面白いもの」、「楽しいもの」の一つに過ぎなかった。友人との遊びもテレビも漫画も同じくらい楽しいものだった。
主人公ショウタはどちらかといえば運動派で「本なんか読まない」タイプなのだが、彼もそうらしい。ヒーローもののテレビ番組「神聖騎士パルジファル」に夢中だけれど、良識派の大人が顔を顰める俗悪バラエティ「弾丸!コンデンスミルク」や、同じ団地に暮らすクラスメートとのゲームやスポーツにも同等に熱中する。今作の語りは三人称とはいえ、ほとんど完全にショウタに寄り添っている。だからショウタの興味関心に従って、彼らが日常の中で観る番組や、遊びの様子が熱心に詳しく描かれる。
この辺りの生活描写が、どうも不人気の理由の一つらしい。いわく「だらだらしていて、興味が持てない」「真相に全く関係がなく、無駄である」……。
それは違う、と私は思う。先にも書いたが、この小説の主眼の一点は、「少年」がいかに「大人」へと視点を変えるか、というシミュレートにある。たとえばこの小説を読んでいるほとんどの大人や子供は、派手な事件やトリックになど出会ったことはないだろう。そんなものに出会うのは、物語という「フィクション」の中だけだろう。
フィクション、つまり「約束事」といってもいい。この約束事を数多く身に着けることで、普通は「大人」になる。逆にいえば、子供にとって約束事はあまり馴染みのないものだ。
「約束事」は様々な形をとって現れる。「やっていいことと悪いこと」という倫理の場合もあるし、ショウタの友人トモヤの「つくり話」の中にも見える。トモヤはこう語る。自分たちの住んでいる団地の外には「なにもない」。自分たちが向かう時だけ、「おおあわてでつくってるんだ」……。
こんな話を聞くと、多くの人は「嘘だ」としか思わない。なぜか。「頭」と「身体」で、「世界はそんなものではない」と理解しているからだ。「頭」というのは知識のことで、それは幼少期に誰もが一度はとりつかれる妄想だ、と「常識」によって一蹴する。「身体」のほうは、日常的な実体験のこと。これまで何千日何万日と生きてきた反復の強度によって、「世界はそんな不安定なものではない」と感じている。
しかし、「常識」も「反復」も、単なる「リアリティ」でしかない。リアリティも約束事の一つだ。人間の理解など知れたもので、たかだか何千日何万日のくりかえしの反復で得られた「リアリティ」など、全宇宙的な規模からすれば微々たるものだろう。とはいえ、この「リアリティ」を持っていなければ、「大人」として社会生活は送れない。社会もまた約束事でできている。たとえば「世界はおおあわてで作られるものではない」というような。本当は全知全能の神でもないかぎり、この「世界急造説」を根本的に否定し切ることはできないはずだが、「大人」は先のような「常識」的なリアリティを「リアル」=「現実」と受け取ることで、つまり、ある約束事を真実と受け取ることで「大人」たりえている。
けれど子供には、「どの約束事が正しいのか」を弁別する能力が備わっていない。だから、「常識」でないことにも「リアリティ」を感じてしまう。怪談が代表的だろう。私は幼い頃ある一つの妄想にとりつかれていて、それは田舎の祖母の家のトイレの小便器で用を足していると背後の大便器(和式)から「ウルトラマン」に出てくるダダが登場してきて私を襲うのではないか、というものだった。小便の最中はふりかえることもできないうえに、途中でやめることもできない。いつも恐怖の数十秒だった。そんなことがあるわけがない、と恐ろしくなくなったのは、二つの便器が折衷され洋式に変わった、中学校に入ったくらいの頃だったろうか。
もちろん、「そんなことはあり得ない」と理解はしていた。だが身体は正直だ。そういった「妄説」は、反復する「日常」の強度によって克服される。「ダダなど出てこない」という「常識」を、つまりリアリティを獲得するには、「ダダが出てこない」日常を何度も何度もくりかえすしかない。ダダは一つの例だが、それ以外にも、たとえば幽霊や祟りだとかを心の底から否定しきれない人は多いのではないかと思う。
数多ある「物語」の中から、ある正しい「約束事」=常識を弁別し信じるためには、経験と時間が必要だ。子供に最も足りないものがその二つだ。そして、世界は時に平気でその「約束事」を打ち破る。トモヤの「つくり話」だったはずの「子どもの王様」がある時、ショウタの前に現れる……。
流通する「物語」と「日常」との関係。これは実は、殊能将之の作品における一貫したテーマだ。たとえば、世間に流通する「サイコキラー」という物語。「アリバイ崩し的リアリズム」という物語。「新本格ミステリ」という物語。「テーマパーク」という物語。放っておけば単なる紋切り型と化してしまうこうした「物語」と「日常」の関係を、所与のものとしてそのまま受け取るのではなく、疑い、批判的に捉え直し、硬直した関係に亀裂を走らせること。「世界はこうしたものだ」という約束事のお約束性を露にし、ひっくり返して「そうではない」可能性を夢想すること(『黒い仏』の結末を思い出していただきたい)。それがミステリの力であり、文学の力だろう。
子供には「常識」がない。われわれ「大人」とは違った視点を持っている。それは『子どもの王様』において重要なポイントの一つで、作品全体にこのトーンが通底している。たとえば序盤、団地の子供たちが朝、集団登校のために集合し、リーダー格の六年生のサクラからショウタが注意を受けるシーン。
「あーあ、リコーダー押しこんじゃって。教科書くしゃくしゃじゃない。ほら、直したげる」(……)「いいんだ」/ショウタはむっつりした顔で答える。サクラが手をのばしてきたとき、ブラウスのわきの下に線が浮きだしているのが見えた。ブラジャーしてるから偉そうなんだな、とショウタはふと思う。
女の子のおせっかいを拒否する。何気ない場面だが、あらためてこの箇所を読んだ時、感動した。ブラジャーについての言及はここだけだが、ショウタにとってブラジャーとは、年上=偉そう、ということの象徴であり、それだけのものでしかないのだ。ショウタの年齢が幾つなのかは今ちょっと確認できないのだが、たぶん小学校低学年〜中学年辺りだろう。マセガキなら性に目覚めてもいい頃で、もし目覚めていればどんなに気に入らない女子でも、親切を受けて身体が密着した状態でブラジャーが見えたら、いちおう少しはドキドキするだろう。つまり、ある程度の年齢までいくと、大人(の男性)にとってブラジャー=性の象徴になるだろう。そうして、凡庸な書き手ならショウタに「ブラジャーが見えて少しドキドキした」などという感想を言わせるかもしれない。しかし、作者はそうしない。そこが「リアル」だ。つまり、ブラジャー=性の象徴という図式は、「約束事」なのだ。そして、性に目覚める前の男子にとって、そうした約束事は自明のものではないのだ。何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、これは一つの例で、こうした一見ドライに物事を眺める視線が、「大人」になる以前の、未分化の状態をうまく描き出しているように感じられる。
たとえば、この小説の感想では「全体的に暗い」「ダウナーな日常」という意見が多かった。これも当たらないように思う。なぜなら、私も団地に住んでいた時分は、こうした「暗い」日常が本当に広がっていたし、「団地」という場所を離れても、作中に登場するさまざまな家庭は、今、どこにでもありふれたものだろう。作中の環境がとりわけ酷く「暗い」わけではない。つまり「現実」をドライに淡々と描いただけであって、ことさらペシミスティックに歪曲したものではない。
「子供の視点はもっと明るく描くべきだ」「物語はもっとドキドキワクワクしたものであるべきだ」「子供向けか大人向けか、ハッキリした作品を書くべきだ」「殊能作品はもっとミステリとしてヒネクレてあるべきだ」……こうした紋切り型=約束事への痛烈な一撃が、このジュブナイル・ミステリでは、一周して「作者には珍しい、ストレートな物語」の形をとって試みられているのではないか。
「約束事」に染まっていない、無数の可能性を含んだ「現実」を、そのままで捉え直すこと。元より不可能ではあるが、ではなぜそうした試みが必要なのか。人間は「約束事」がなければ生きていくことができない。しかし「約束事」をそのまま唯々諾々と受け入れるだけでは、「世界」と「私」との関係が柔軟性を失い、硬直する。たとえば、「ミステリ」を単なるミステリにすぎないものとして捉え、絶対安定不動の関係に安住していては不十分なのだ。あなたが「ミステリ」を「ミステリ」(という約束事)として理解する以前に立ち返り、分化する以前の未明の状態にさかのぼり、その関係のまるごとを新鮮な形で生まれ直すこと。ジュブナイルとしての可能性はそこにあった。
いや、こんなことは後付けで、理屈はどうだっていい。子供向けか大人向けか、そんな版元営業か書店員が販売の理屈でひねり出した方便を真に受けるような、自分で態度を決められない受動性100%の単なる読書ロボットのような偽悪ぶった問いかけ(これこそ最も反殊能将之的な態度だろう)もどうだっていい。「ショウタ」という少年の視点が経験した冒険のテクストをどう受けとめるかが問題なのだ。
ショウタが熱中するテレビ番組「神聖騎士パルジファル」はワーグナーの『パルジファル』が基になっているが、そこを踏まえなければ構図が汲み取れない、ということはないと思う。熱心に読めば、ショウタの行動の解釈へのヒントはあちこちに埋め込まれている。ネタバレは避けるが、終盤になって、ショウタはある行動をとる。それは友人であるトモヤを守るための、完全なる正義感から発した行動だ。しかし、それが基でショウタはトモヤから拒絶を受ける。ラスト、引っ越していくトモヤを、ショウタは双眼鏡でただ眺め続ける。和解のために謝りに行くなどということはしない。ショウタにも拒絶の理由が腑に落ちるからだ。とはいえ、自分は間違っていなかったとも思う。友人が自分に対する絶対的な他者として現れ、やがて車が走り去る。「団地」という巨大な、母親の胎内にも似た場所に守られた、未分化の幸福な少年時代は、ここで終りを告げる。それは少年という存在への罪と罰だ。
そしてラスト、ショウタはこれまで答えられなかった、母親サオリからの「大人になったら、なんになる気?」という質問に、初めて真正面から答えることができる。これは作者の公式サイト(もう消えてしまった……)から推測するに、ウィリアム・ギャディスの『JR』に出てくる“What did you want to be when you grew up?”“A little boy.”というやりとりが基になっているのだと思うが、ショウタは「大人になりたいな」と答える。これはもちろん、ただの同語反復ではない。ショウタの行動には、「子供」ゆえの未熟さも多々あった。「大人」だったらどうだったのか。答えはない。パルジファルのように、「番組が無事に終了したあとも、ずっと、ずっと、戦いつづける」しかない。
ミステリにしてジュブナイルという形式と、少年から大人へと物語の融合。傑作と信じる由縁です。
- 作者: 殊能将之
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/08/07
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