TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

宿野かほる『ルビンの壺が割れた』(キャンペーン版)を読んだ話

ひと様の思惑に乗せられるのはなんだかシャクではございますが……一応記録としてここにも書いておきます。

7月14日(金)に突如こういうキャンペーンが始まりました。

www.shinchosha.co.jp

「キャッチコピーが書けない」、などというカマトトを信じるピュアーで素直でヨゴレを知らない豊かな感性をお持ちの方はこのご時世、もちろんいらっしゃらないとは思うのですが、たとえばこの本の書籍情報が登録されたのは、7月12日のようです。

ルビンの壺が割れた/宿野 かほる 本・コミック : オンライン書店e-hon

一般読者は誰も知らなかったこの時点で既に本の内容紹介に「話題沸騰」と書けるところに、プロモーションへの自信が存分に現れていますね。

全文掲載の特設サイトのほかKindle、Digital e-honBOOK☆WALKER、 BookLive!、ブックパス、Reader Storeへの電子書籍配信を手配し、社内コメントをまとめるなどの、編集・営業チーム一体となった労力(それはもう単にコピーを書く何倍もの作業です)に、力の入れようを感じます。連休前というのもすばらしい。私は知った当初、(変わった試みだなあ)くらいにしか思っていなかったのですが、本文を読んで、考えれば考えるほど、本当に練られたプロモーションだなあ、と非常に勉強させていただきました。

ところで、特設サイトの宣伝文の中で、この小説について「言われていること」は、いくつかあります。

・著者が無名の覆面作家

・原稿がとつぜん送られてきた

・内容が「すごい」ので「ふさわしいコピー」が書けない

(以上、《担当編集者からのお願い》)

・騙される、驚かされる、衝撃体験

・読みやすく、面白い

・人に薦めたくなる

(以上、「社内でも驚嘆の声続々」)

さて、この小説テクストを読んだ後、読者の頭には――とりわけ、ミステリ小説を読みつけた人間であればあるほど――別種の謎が浮かんできます。

それは、「この、アイデアとしても取り立てて目新しくない、また、技巧的に優れているわけでもない、〈新人〉の小説、〈担当編集者〉と〈社内〉の言葉によれば、〈ものすごく面白く、そして、ものすごく奇怪な小説〉すなわち、〈ここ5年で最も驚かされた作品〉であり、〈“振り込め詐欺”とは違って、損をさせない〉し、〈他社本でも、間違いなくお薦め〉で〈この衝撃体験を共に語り合いたい〉ほどの気持ちにさせてくれ、〈なんの予備知識もなくこの物語を読めたのは、本当に幸せ〉だし、〈「話が違う!」という言葉が、いい意味で口をついて出たのは、50年生きてきて初めての体験〉と半世紀にわたるこれまでの全人生をつい振り返ってしまう、〈売れる予感しかしない!!〉〈自分史上MAXの興奮〉のまま〈一気に読み〉、〈小説を売る仕事の醍醐味〉まで味わわせてくれる、そんな〈「エライもん読んでしまった!」という読後感〉の〈心臓に悪い〉〈出版社の腕を試〉す小説を、〈よろしければ、この小説をお読みいただき、すごいコピーを書いていただけませんか〉と、不特定多数の見ず知らずの方よりお知恵を拝借して、〈この夏、新潮社が総力を挙げてお届けする〉にまで至ったのか?」という、謎です。

この謎には、二つの要素があります。すなわち、

・なぜ、新人の小説が刊行されることになったのか?

・なぜ、〈この夏、総力を挙げてお届けする〉ことになったのか?

そうした「小説の外」に謎を発見した読者は、その唯一の手がかり、すなわち、〈総力を挙げてお届けする〉特設サイトの文章を、じっくりと読んでしまいます。

すると、こうした覆面作家の常として、

「作者は小説家であるか否か」

「作者は他分野において著名であるか否か」

という二つを軸に、とりいそぎ四つの線が浮かびます。

 

1 作者は本当に無名かつ小説を刊行したことのない新人で、編集者は持ち込み原稿を読み、本当に感動した。

2 作者はあまり著名ではないが、小説家である。

3 作者は小説を刊行したことはないが、著名人である。

4 作者は小説家で、あえて変名を使った。

 

この後、「作者はミステリ作家であるか否か」といったより細かい軸もありますが、とりあえず大まかに四つの線で考えます。

1は、そのままではなかなか考えにくい。というのは、「小説新潮」や「新潮」の巻末には常に、投稿原稿はすべて新人賞への応募として扱うとあるように、投稿原稿というのはほとんど読まれない。少なくとも「◯◯編集部御中」で送ってもまず読まれないでしょう。紹介なり顔見知りなりといったルートで、編集者にダイレクトに届かないと読まれない。そして実際にそうだった場合は、そういうルートが〈ある日突然送られてきた〉という文言でスルーされていることになります。するとここで先の第二の謎に突き当たります。「なぜ、〈この夏、総力を挙げてお届けする〉ことになったのか?」という謎です。こうした手法は焼畑農法みたいなもので、自身のブランド力を糧にするわけですから、そう何度も何度も使えるものではありません。内容に伴わない形容を乱発してしまうと、「あなた方は自社の文学的遺産をどのように考えているのか?」と客側から疑念を呈されるリスクがあるためです。思えば、竹内雄紀『悠木まどかは神かもしれない』(2013年、新潮文庫)の売り方はもうちょっとマイルドだった。あるいは、まだプレ段階だった。

2も「なぜ、〈この夏、総力を挙げてお届けする〉ことになったのか?」を考えると、ちょっとよくわからない。他に何も含みのない、まっさらな状態で、ショーバイとリスクを天秤にかけて、この内容で釣り合うのだろうか、と、もし自分が仕掛人だったとしたら、たいていの人は、逡巡してしまうのではないでしょうか。

3はありえると思います。ただ、特設サイトの文章をまで「問題文」として、つまりミステリ的フェアネスを求めて読むと、〈ある日突然送られてきた、まったく名前の知られていない著者〉という書き方は、本当に〈(世間に)まったく知られていない者〉なのか、〈(著述家としては)まったく名前の知られていない著者〉なのか、どちらにも解釈ができ、逆に推測の根拠とするにはアヤフヤなので、あんまりエレガントではない。ただ、4よりは可能性が高い。

4は〈まったく名前の知られていない著者〉という書き方からすれば、けっこう無理な感じがする。変名だとしたら、〈まったく名前の知られていない著者〉で「実は有名な小説家の変名でした!」は、やっぱり苦しい。苦しいけど考えざるをえないのは、本文の言語感覚に照らして(アリかな……)とも思えるからです。この小説は後半三分の二あたりから、新事実が次々と明らかになるのですが、一度読み終わって、二週目に入ると、(うーん、この時点でこの人についてこういう書き方をするのはアンフェアだよなあ)という記述があまりにも多い。それが「アリ」なら、〈まったく名前の知られていない著者〉=著名作家の変名、という言語感覚も、アリかもしれない。

〈この夏、総力を挙げてお届けする〉キャンペーン告知のページは〈キャッチコピーを代わりに書いてください!〉という見出しですが、募集要項の、

〈優秀作品に選ばれた5名様に、5千円の図書カードと、あなたのキャッチコピーが帯になった特装本をプレゼントいたします〉

〈本キャンペーンのために投稿されたツイート、応募フォームから投稿されたキャッチコピーやご感想は、『ルビンの壺が割れた』プロモーションの一環として、公式サイト、TwitterFacebook、および宣伝媒体(雑誌・新聞・TV・WEBサイト)、店頭宣伝物に使用させていただく場合があります〉

が伝えていることを意訳すると、応募したコピーは、店頭に並ぶ帯(その少なくとも表面)には使わない可能性が高く(「前代未聞のキャンペーンでネット上、話題沸騰!」の方がまだありえそうです)、せいぜいネット上かポップで使うかも、くらいになるかと思います。

たぶん本屋大賞以降だと思うのですが、2000年代半ばくらいから、書き手ではない、書店員の方のコメントを帯に載せるケース(特に国内エンターテインメント小説において)が増えてきました。それ自体は私はかまわないと思うのですが、それがインフレ化した一時期(2007~08年頃)は、20~30名のコメントが、目を凝らさないとよく見えないくらいに、ギッシリ羅列されているような状態もあって、ちょっと可哀想だな、と思うこともありました(コメント提供はおそらく無償――あっても図書カード程度――で、ヒドイものになると、内容というよりは「ギッシリ」という密度、オブジェとしての文字、が優先されている感じのものもありましたので)。

今だとたとえば二、三年前に創元推理文庫北村薫『空飛ぶ馬』のキャンペーンでは採用されたコメントが実際に掲載されていましたし、他にも読書メーターのコメントから採用される、というような例は、いくらもあり、それ自体はとりたてて目新しいことではないわけです。

私のようなふつつか者が、こんなふうにアレコレと憶測をたくましくしてしまうのは、おそらく、そうした「著名人ではない読者のコメント募集」を、「推薦の言葉が浮かばないくらいすごい、分類不能、前代未聞」という価値へと転換した錬金術のためでしょう。

そんなふうに考えてくると、一方、〈キャッチコピーを代わりに書いてください!〉の見返りが、上記、というのは、自分の言語感覚に照らして、ウーン、魂をセルアウトしてるかな、という印象を抱きます。こういう博打打ちの感覚、そしてそれを実現させる手腕は、自分には乏しいものなので、やっぱり、すごい

作家の正体に関して、私はある一つの推測を抱いているのですが、〈この夏、総力を挙げてお届け〉の邪魔(私が投げかけることのできる波紋など、凪のようなものですが……)をしてしまうのは心苦しいので、いちおう伏せておきましょう。

果して8月22日以降、なんらかの情報が明らかになるのか、否か。もし覚えていたら、また思い出してみてくださいね。

このブログに長らくお付き合いいただいている方ならご存知の通り、やるやる詐欺の多いわたくしですが、そろそろ何か同人誌にでもまとめてみようかなとおもっていることがあります。そのためにはちょっとヘヴィーな関門があるのですが、たぶん宣言しないと腰が上がらないので、こちらでも宣言しておきます。

「僕の言う白をキミも白と言うかなあ」

チョー久しぶりにCONDOR 44のアルバムを聴いてたら「winter」という曲で「僕の言う白を キミも白と言うかなあ」という一節につきあたった。

自分と他者の感覚の差およびその不可知性について語る際、視覚とりわけ色を例にするのは小説やらエッセイやら歌詞やらで何度か見てきたような気がする。

多くの場合そこでは、たとえば人によって赤と青とが真逆になって認識されているとか、そういうドラスティックなイメージが述べられている。同じものを認識しているつもりでありながら実はまったく異なるかたちで捉えられているのではないか、そして他者とのそうしたズレは絶対に把握し得ないのではないか、というわけだ。

しかしよく考えれば、赤⇔青ほどではなくとも、同じものを前にしながら異なって感じるということはよくある。

視覚

・私は左右で視力が違うからか、左の方が明度が低い。だから片目をつぶって見ると、同じ色でも右のほうが明るく、左のほうが暗く見える。年をとって視力が落ちてくるとだんだん暗く見えると何かで読んだ気がする。私以上に左右で違って見える人もいるとおもう。

・これは拡張した話になるが。私の知人はかなり視力が良く、神保町だとか新宿だとかに行くとしょっちゅう有名人を見かけるらしい。だいたい三十メートルくらい先までなら一瞬で顔が認識できるという。私は目が悪いのでそんな賑やかな街にくりだしても誰も一度も見かけたことがない。

聴覚

・イギリスで真夜中の公園にたむろする若者を追い出すのにモスキート音が使用されているとして話題になったのは、私が二十歳になる前だったとおもう。当時、大学の先輩とその話になり、ノートPCからイヤフォンでモスキート音を聞かせてもらった。全然何も聞こえなかった。しかしその先輩はもう三十近いというのに、「うるさい、うるさい」という。数年後、あるミュージシャンがやっているバーでモスキート音の話になった(店内には四人くらいいた)。一人の男がスマホを操作すると、カウンターに立つそのミュージシャンは「やめて、やめて」と顔をしかめる。私は何も感じない。なぜ日頃から耳を酷使しているはずのバンドマンに聞こえて私に聞こえないのか、もうそれだけ耳が老化しているのか、と理不尽を感じた。

・この数年、SUNN O)))だとかEARTHだとかNADJAだとかの長尺のドローン、スラッジ系の音楽を好んでよく聴く。昔の自分だったら耐えられないとおもう。

触覚

・近所の銭湯に「電気風呂」がある。風呂の壁面から微弱な電気を流してマッサージ効果があるというもの。強のコーナーと弱のコーナーに分けられているが、強のコーナーは私には強すぎて入ることができない。ところがその強のコーナーに入って平気どころかまだ足りないかのごとく壁面にぐりぐりと腰を押しつけて余裕、というオジサンを見かける。いったいどういう腰になっているのか。

味覚

・初めて日本酒を飲んだのは、小学生のころの元日、年が明けたばかりでまだ暗い神社へ行って神酒を飲まされた時だが、「こんなマズイものが飲めるか!」とおもった。しかし今では日本酒というものは逆にスイスイと飲みやすすぎてその飲みやすさこそを警戒しなければならない。

嗅覚

・生活臭というのは家によって異なるが、他人の家のニオイにはすぐ気づいても、自分の家のニオイというのはよくわからない。私は一年くらい同じ枕を何も気にせず使っているが、その枕を使うよう他人に薦めることは絶対にできない。

俳句のようにわずか十七音の作品でも、鑑賞者によって受け取るものは異なる。旅先で同じ風景を眺めながら同行者がまったく異なる感慨を受け取っていたということに後から気づかされる短篇小説に竹西寛子五十鈴川の鴨」という名篇があるが(ちょっとBL風でもある?)、そういうふうにつらつらと考えてくると、ある二人が同じものから同じ感覚を受けるというのは、かなり限定された条件の下でないと難しいのではないか。

そういえば数年前にある読書会で、「エロ漫画でよくある二人が同時に絶頂するというようなフィクションをこの小説は撃っている」などと語っていた人がいたことをおもいだす。

固着からの解放

 読書猿『アイデア大全』(フォレスト出版、2017)という本を読んでいたら、次のような記述にぶつかった。この本は「発想法」についてのものなのだが、終盤の「ポアンカレのインキュベーション」という章にこうある。

 

 天啓は無意識からではなく、固着からの解放で生まれる。

 

「固着からの解放」とは何か。かいつまんで言えば、「Aでしかない」と思われていたことに、「Bでもありうる」という別の(あるいは複数の)回路が開かれることであろう。そして創造的な「発想」とは、一つの文脈に縛り付けられたモノをそこから解き放ち、別のモノと結びつけることで異なる文脈を新たに形成することだ。この本はこうした文脈組み替え手法を古今東西から42もの例を挙げるカタログになっているが、逆にいえばそれだけ人は一つの意識に縛られやすいために、発想的な問題解決の手法が古くから必要とされてきたのだろう。

 興味深いのは、ポアンカレに続く「夢見」という最終章で、人が睡眠中に夢を見る際、脳内で無意識的に行なっているランダムな文脈組み替え作業は、こうした「発想法」に似ている、という指摘である。「眠りと夢見は(ポアンカレの)インキュベーションの1つの方法と見なせる。問題と従来の解法についての固着を剥がし、ランダムな刺激を含む意味ネットワークの拡散活性化を使うことなどがインキュベーションの構成要素だが、夢見はそのすべてを含んでいる」。目が覚めている時、人はわざわざノートに書き出すなどして意識を拡散活性化させる必要があるが、寝ている時にはそうした状態が自然と起こりやすいということだ。しかし夢見の欠点として、時にあまりにも脈絡なく感じられ、しかも忘れやすい。どちらというと無意識の領域に近い方法である。だから、意識的な作業と無意識的なランダム刺激とは、どちらか一方ではなく、どちらもが重要なのだ。天啓(良いアイデア、インスピレーション)の本質とは、無意識的な偶然性ではなく、「固着からの解放」にあるという考えには勇気づけられる。
 たとえば、大江健三郎の『小説のたくらみ、知の楽しみ』(新潮社、1985)という本では小説の手法として「異化効果」がかなりフィーチャーされている。「異化効果」というとついシュルレアリスムを思い浮かべがちだった私は、この本を読んだ時、かなり啓発された。つまり、異化効果=シュルレアリスムという一つの回路が無意識的に固く形成されていたところに、大江の解説によって別の回路が開かれ、インパクトを受けた記憶がある。それはいわば、「異化効果」自体についての「異化効果」であったからであろう。
「固着からの解放」という語へのぶつかり方には同じくらいの実感を受ける。「Aでしかない」と思われていたことに「Bでもありうる」という別の回路が開かれるとき、人は何か、パーッと視界が開けるような解放感を覚えるらしい。たとえばミステリにおいて探偵役が行なっている推理はこうした思考法ではないだろうか。読者としての私は、解決編にいたり不可能犯罪と思われていた事象が可能であったと示されるときのあの感じをおもいだす。
 ここで注意が必要なのは、「解放のされ方」もまた一様であってはしだいに固着化されてくるので、「解放のされ方」自体が常に解放されてゆく必要があるということであろう。
 駄洒落のことを考えればわかりやすい。駄洒落というのはもっともミニマムな固着からの解放(音=意味という一元化からの意味の解放)であるが、同じ駄洒落を言い続けているとだんだんと固着化してきて、面白くもなんともなくなってゆく。そうした停滞を再び流動させるのが解放なのだ。
 しかし、解放というのは契機にすぎない。その後の別の回路における新たな固着がなければ、新たな解放もない。つまり解放とは固着に依存しており、いったんは固まってゆくものがなければ亀裂を走らせることもできないわけだ。固着=悪、解放=善と単純に分けられるものではなく、永続的な固着による貧血化こそが堕落をもたらす。ある一つの問題があったとして、その内部か外部のどちらか純然たる一方に立つのではなく、内部に分け入り行き詰まった地点において外部からの視線がうまく差し込まれてきた時、その交差する点において新たな回路、すなわち天啓は開かれるのではないか。

『時の娘』と歴史ミステリについて――ある余白への走り書き的覚え書

 少し以前から、ジョセフィン・テイ『時の娘』について、余白(マルジナリア)にメモしておこうと思いながらずるずると流してきたことがあり、そのことについて先日チラッとつぶやいたらnemanocさんに言及されたので、私の方も走り書き的覚え書きとして記しておこうと思います。
 ※
 ついこの前、ずいぶん久しぶりに後期クイーン的問題という語を見かけた。
 後期クイーン的問題というと、直接の関係はないのだが、私はどうも、歴史ミステリ(中でも、実際の過去の謎を資料によって解くタイプの)のことが思い浮かぶ。例えばジョセフィン・テイ『時の娘』という代表的な作品(しかし実は案外、こういう作例は少ないのだが)がある。イギリスでは悪人王として有名なリチャード三世という人物のその「悪評」をデマとして検証しようという、今風に言えば歴史修正主義に対する問題だが、主人公・グラント警部がリチャード三世王にまつわる世間の歴史認識に疑問を抱くきっかけになるのは、リチャードの肖像画を見て(こういう人相から察すると、この人物は、巷間いわれるような悪人じゃないんじゃないか)という刑事の勘である。これも今風に言えば反知性主義ということになるだろう。
 もちろん、勘という身体感覚から始めたグラント警部は資料を集め、そしてある結論にたどり着く。しかしあまりに古い出来事には、「これさえあればすべてが断定できる」というような、唯一絶対の証拠というものはない。ある証拠と他の証拠との関係がかたちづくる星座を見、そこから類推を働かせなければならない。だから、ある証拠(記号と呼んでもいい)が持つ意味は、別の証拠によってオセロのように変わりうる。名作と現在される『時の娘』(ミステリ小説のオールタイムベストでアンケートを取れば必ず挙がる常連だ)で示される解も100%確実なものではなく、今後、小説としての評価はともかく、「解決編」の評価に関しては、まったく変わることもありうる。たとえば、リチャード三世の遺骨が発見されたのも、つい数年前のことだ。

www.afpbb.com

 こういう基本的かつ重大な新事実が将来的にまた発見されることはない、とは、誰も言い切れないのではないか。
 作品の終盤、「トニイパンディ」という語が出てくる箇所がある。ここは現代人の歴史認識に対するリテラシーについて述べた、本作の勘所の一つである。かつ、読み方によっては、まったく真逆の結論を引き出しかねない、危うくスリリングな部分でもある。
 探偵役とその助手が、主眼となる「リチャード三世悪人説」に関して、資料を読み解き、あるていど片を付ける。つまり、世間一般に流布するのとは異なる論を構築し、「誰が何の目的でデマを流したのか」にまで見当をつける。考えてみれば、歴史の中にこうした、実際と異なる説が流通した例は多い……と、探偵と助手は感慨を漏らす。
 ――と、本文を引用したいところだが、そこだけを引っ張ってもあまり説得力がないというか、誤解を招く恐れもあるので(実際にそういう例をいくつか見ています)、ぜひ本文にあたっていただきたいが、少しだけ。ここではTonypandyという地名は歴史上のデマについての換喩(「永田町」とか「霞ヶ関」とか「桜田門」みたいなもんですね)なのだが、

「(……)問題の要点は、現場に居合わせた一人一人がみんな、この話は作り話だと知っていながら、しかも、それを否定していない、ということだ。今となってはもうとり返しがつかん。この話は嘘だと知っている連中が黙って見ているあいだに、そのまったくの嘘っぱちが伝説になるまでふくれ上がってしまったんだ」「そうですね。じつに面白い、じつに。歴史はこうして作られるんですね」「そうだ。歴史はね」(小泉喜美子訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1977)

 当時を知っている人はいる。でも、黙っている。「歴史はこうして作られる」。当事者の沈黙、失語というのは、それはそれで大きなテーマである。ある説を語る論者がそれを語ることの権利はどこにあるのか、という問題にも絡む。しかしその問題については、ここではとりあえず置いておく。
 江戸川乱歩はかつて『時の娘』について、こう書いた。

最後になって、この史実顛覆の着想が、作者の全くの創意ではなく、古くホレース・ウォルポール(ゴシック怪奇文学の先駆者「オトラント城」の作者)ほか二人の同じ論文があることが分つて、やや失望するが、これは世に隠れた異説であつて、イギリス人でも知つている人は少ないだろうから、この小説はやはり充分面白いのである。(HPB版解説、1954)

 初読時、私は乱歩のいう「失望」的気分だった。しかしその後、H・R・F・キーティングが次のように述べているのを知り、見解を変えた。説に先行者がいたという展開は、つまり「正しいと思われる学説でも、注目されなければ忘れられてしまう、ということを示しているのだ」(『海外ミステリ名作100選』長野きよみ訳、早川書房、1992)。もしも「説の再発見」に価値を置くならば、「新説」に対するこだわりは、甘っちょろい。なぜなら、それは、「正しい説を語れば誰もが耳を傾けてくれる」ということが期待されているから。しかし、読者の置かれたこの現実というものは、そうではない。論者が正しいと思うことを述べる。しかしそれを流通させるには、かなりのコストがかかる。「それは本当か?」という検討に始まり、無視、誤解、悪意ある曲解、……などなど、ビビッドなテーマであればあるほど、さまざまな困難が待ち受けている。
 たとえばこんな状況を想像してみよう。ある閉鎖状況で起きた事件について探偵役が、自分の推理を述べる。彼は何の権限も持たない素人探偵だが、説得力はじゅうぶんにあった。しかし、聞き手がそれを理解しない。「お前(探偵役)は何様なんだ」と憤慨する。「オレは昔、お前に誤った説明を受けたことがある。だから今だって信用できない」と関係ない過去を持ち出す。「あの人(犯人)は良い人。残虐なことなんてするわけない! そんなことを言って善良な他人を傷つけるお前の方こそ悪人だ!」と感情を訴えられる。「ポジショントークw で、それでいくらもらってるんすかwww」と無根拠なデマをはかれる。「え? 自分はそんなこと言ってませんよ。そんな誰も興味ない些細なことを証拠にされても……大丈夫ですか? ちょっと休んだほうがあなたのためなんじゃないですか?」と前言を翻される。「その証拠のどこが重要なんですか? 私には何度言われてもわからないなあ」と論拠を否認される……云々。
  現実に起こりうるこうした状況がスポイルされ、たいていのミステリの中で探偵役に権威が与えられているのは、もちろん小説作品としてミステリ的興味を追究するため、煩雑なコストを節約する必要があるからだ。 探偵が語る「解決」は途中にすぎず、殺人事件なら警察、検察、そして法廷へといった流通過程があるが、こと本格ミステリにおいては語り手―聞き手におけるノイズはたいした問題とはされない。
 そう考えてくると、「正しいと思われる学説でも、注目されなければ忘れられてしまう」という観点は、なかなか深い。過去を見れば、現代では信じられない捜査や裁判というのは、いくらでもある。魔女狩り(拷問による自白ほか)にせよ大岡裁き(赤子の手を引っ張るというアレね)にせよ、今の社会では通用しない。もちろん、ヒドイ冤罪事件は今もある。法的な場でなくとも、議論の場でとんでもないことがまかり通る(たとえば企業における会議など)ことは、多々ある。しかし、「議論の場では、説得力のある意見には従う」というのは、ほとんどの議論において、参加者が共有する暗黙のルールとして、意識にすらのぼらないほど内面化されたものだろう。このルールが破られる。「説得力があろうがなんだろうが、目的実現のためならどうでもいい。その責任? 知ったことか」という態度を取られる。これでは話が通じない。「説得力などどうでもいいではないか」という聞き手に対し、説得力の価値(ルールの共有)を解く困難さは、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対する答えの困難さにも似たものがある。ルールの共有は、そのルールを前提とした問い―答えという言語ゲームの中からは絶対的には根拠づけられない。ある言語Aしか知らない者と別の言語しか知らないBとで緻密な会話が成り立たないようなものだ。「対話」のためには、「対等な関係において同じルールの言葉で話す」として、ルールが対話の前に外部から共有されていなければならない。
ポスト・トゥルース」云々という昨今の情勢を考えれば、説の再発見と流通というテーマ(それはテイとキーティングから私が勝手に敷衍させた要素が大きいかもしれないが)は、現代的ではないだろうか。
 ※
 実際の歴史的謎を扱う型歴史ミステリの難しさの一つは、作中において絶対解が出せないということにある。安定した解を示せる題材ならば、既に読者には周知の可能性が高いし、またあまりにニッチな謎については、興味を惹きにくい。資料確度の高さ、およびキャッチーさ。それを小説家が、論文ではなく、あえて小説(フィクション)にする。なかなかハードルが高い。フィクションであれば、織田信長が女であろうと宇宙人であろうと自由に書けるわけだが、そうした自由さを作り手が自ら封印するのだから。
 推理小説として成功した『時の娘』は、数々のフォロワーを生んだ。例えばフォロワーを標榜する高木彬光『成吉思汗の秘密』(1958)は、源義経ジンギスカン説を扱うものだが、終盤、急に探偵役・神津恭介の恋愛問題の話になってしまう。そして語り手は、神津と女性の間がうまくいけば「義経、成吉思汗の一人二役なんか、どうなってもかまわない」と興味を横滑りさせ、読者を(オイオイ)とガッカリした気分にさせる。ラストもどっちつかずというか、神秘性に頼って誤魔化すたぐいのものであり、およそ論理的とは言えず、『時の娘』との差が目立つ(しかしにもかかわらず高木は、義経ジンギスカン説に本気であり、批判に対する長い反論、さらには同じ手法で別の歴史的謎を扱う続編まで書いた)。思うに、「リチャード三世悪人説」というのは、原因はある人物の死、場所はロンドン塔に限定される範囲の話であり、義経ジンギスカン説は正面から扱うにはスケールが大きすぎた(それこそ、歴史小説的フィクションでしか書けないレベルにまで)のだろう。
『時の娘』フォロワーとしてもうひとつ評価が高いのが、コリン・デクスター『オックスフォード運河の殺人』(原著1989/大庭忠男訳、HPB、1996)。これもシリーズ探偵・モース警部が文献によって過去の事件を解く物語だが、上記の二作と異なるのは、扱われる事件が史実ではなく、創作であるということだ(実際の歴史書をかなり参考にしているらしいとはいえ)。しかし、この小説の結論部も、『時の娘』に比べると、ズルさに気づかされる。最終的な決め手は資料ではなく、現場証拠なのだ。終盤、モースは安楽椅子探偵の立場(病室)を振り捨て現場へ出かける(そして都合よく、130年前の証拠を発見する)。
『成吉思汗の秘密』と『オックスフォード運河の殺人』の結論部に共通するのは、文献だけによっては謎を解決できないために、メタレベルに頼る、ということではないだろうか。『成吉思汗』の結末は、ある神秘的な出来事が起こり、「こんな神秘的な出来事が起こったんだから義経ジンギスカン説は正しいだろう」という、情緒的な訴えかけである。やはり論理性としては、弱い。『オックスフォード』では証拠を発見するが、百年以上前の物証をそんなに簡単に発見できるのか、という都合の良さはある。そしてなにより、これは架空の事件なのだ。フィクションによってフィクションを解く、というのは、あっても良いが、やはり論理性ということを重視するならば、どうも地に足が着かない感じを拭いきれない。モースに証拠を発見させるのも発見させないのも、作者の都合次第ではないかと疑えてしまう。
「神秘」にしろ「架空」にしろ、それは作中現実(オブジェクトレベル)の推理の妥当性を、メタレベルから保証する、というものである。この点が、いわゆる「後期クイーン的問題」とされる問題構成と重なる点があるのではないかと私は思うのだが、あまり整理はできていない。
 ※
 先に説の「流通」ということを書いた。歴史ミステリにおいては、殺人事件を扱う本格ミステリとは別の意味で、その「流通」は問題になりにくい。近代社会においては法に触れる事件の犯人の流通先は整備されているが、歴史ミステリ的な解釈の多くは趣味判断のレベルにとどまり、あまり膾炙しようがないからだ。『時の娘』において「解決」は、グラントの身近なところでひっそりと披露される。オーディエンスはほとんどいない。あえて言えば読者がオーディエンスで、たいていの人はグラントの意見に同意するのではないか。実際、エリザベス・ピーターズ(修道士カドフェルシリーズのエリス・ピーターズとは別人。為念)の『リチャード三世「殺人」事件』(原著1974/安野玲訳、扶桑社ミステリー、2003)は、リチャード三世のファン集会で殺人事件が起こるという、パロディー的な小説で、『時の娘』にオマージュが捧げられている。つまり、『時の娘』においては、小説の外部の読者へと流通先が開かれていた。
『時の娘』(1951)に先駆け、実際の歴史的謎を扱った作品にカー『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』(1936)、リリアン・デ・ラ・トーレ『消えたエリザベス』(1945)がある。この二つは舞台を当時においた、どちらかというとノンフィクション・ノベル的なタッチのものである。 テイは『時の娘』以前、『フランチャイズ事件』(1948)で、『消えたエリザベス』と同じエリザベス・カニング誘拐事件を扱っているが、『フランチャイズ』は『エリザベス』とは異なり、『オックスフォード運河の殺人』のように事件を創作的に翻案しつつ、舞台を当時においている。このデ・ラ・トーレとテイを比較するとなかなか面白い。 デ・ラ・トーレも歴史ミステリにおいては重要な作家であり、実在の人物サミュエル・ジョンソンを探偵役として実在の謎を解く『探偵サミュエル・ジョンソン博士』シリーズの短篇集の一冊目を1946年に刊行している(邦訳は日本オリジナル編集で論創社、2013刊にまとめられている)。そして同じ考証型でありながら、現在時の架空のキャラクターが謎を解くというタイプでは、『時の娘』の方が画期的である。『エドマンド・ゴドフリー』から『時の娘』にいたるまでに、こうしたバリエーションの開発がある。
  デ・ラ・トーレがサミュエル・ジョンソンを探偵役に据えたのはミステリ史的な理由がある。それは、彼と彼の伝記作者ボズウェルとの関係を、コナン・ドイルシャーロック・ホームズシリーズにおいて踏まえているからである(詳しくは同書解説および門井慶喜『マジカル・ヒストリー・ツアー』、丸谷才一湯川豊『文学のレッスン』の「伝記・自伝」の項参照)。さらに、探偵サミュエル・ジョンソンものにおいては、ホレス・ウォルポールを扱った一編がある(先の邦訳に収録)。ウォルポールはゴシック小説の元祖『オトラント城』の作者であり、ゴシック小説はミステリの源流の一つである。そして上記乱歩の解説にあるように、ウォルポールは『時の娘』にも直接的な影響を与えている。かつ、「セレンディピティ」というミステリ的に重要な概念の開発者でもある。たとえばウンベルト・エーコは『完全言語の探求』の補遺として『セレンディピティ』という論を書いているが、この「セレンディピティ」がどう重要なのかということは、パースのアブダクションがどうとか論理学がこうとかいう話になるので、今の私の手には余るため、よす。閑話休題。『探偵サミュエル・ジョンソン博士』においては伝記とゴシック小説というミステリの二つの源流が、歴史ミステリの文脈において流れ込んでいる。
 ミステリの源流といえばエドガー・アラン・ポーを外すわけにはいかない。上記の議論からすればオーギュスト・デュパンものの一編「マリー・ロジェの謎」のことは用意に目につく。これは題材こそ現代(当時の)だが、実際の事件を扱ったもので、しかもあの「モルグ街の殺人」の次作なのだ。

 上記のように考えてくれば、『時の娘』および歴史ミステリ(特に資料考証型の)が、ミステリ史において決して突然変異的なものでないことがわかる。ミステリ小説の外部と内部という問題も、古くから潜在してきたということが、整理すればより明確になると思う。

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 すでに長くなっていますが、書き残したことがあるので、まだ少しだけ続きます。一ヶ月後くらいになるかもしれませんが……。

走馬灯的効果についてのメモ

アニメ『昭和元禄落語心中』とドラマ『山田孝之のカンヌ映画祭』の最終回を立て続けに見た。それぞれに面白かったが、最終回特有のあの「走馬灯的効果」に関しての扱いがまったく対照的だったのも興味ふかかった(走馬灯的効果というのは私が勝手に呼んでいるだけなので、もっと適切な名称が既にある場合はぜひご教示ください)。


『落語心中』の最終回は、たった一日の出来事を追うものだが、前回からいきなり17年もの時間が経っている。人物は皆、子供は大人に、青年は中年にとそれぞれに年輪が刻まれており、視聴者はいちいち驚きとともに感慨ふかい情動に突き動かされる。この場合、そうした効果が可能なのはもちろん、それまでの回をずーっと追って見てきたからだ。それを抜かして、この回だけを見ても、何がなんだかよくわからないだろう。

この時、視聴者の頭のなかで何が起こっているのだろうか。同じ画面を眺めていても、これまでの流れを知っている者と知っていない者とは、立ち上がるイメージが異なる。知っている者は、この一日の時間のイメージに別の時間(作中で17年前の前回、あるいは2シーズン24回計12時間の視聴体験、作中で流れる80年近い時間、落語というジャンルそのものの時間)のイメージを重ね合わせて眺める。勝手知ったる慣れ親しんだ過去と現在とのギャップを想像力によって埋める時、しかもそのギャップが古いアルバムを眺めるように次々とやってくる時、人は何か強烈な情動に突き動かされてしまうらしい。
対照的なのは『カンヌ映画祭』で、ここでは山田孝之が故郷を訪れ、母校とかつての実家を歩き回る。母校でかつての思い出を語る山田は既にノスタルジーに浸っているのだが、やがてかつての実家が更地として売却されていることを知ると、涙腺崩壊してしまう。しかし視聴者にとっては、そこは単なる更地でしかない。上述の「いきなり最終回を見た視聴者」と同じ立場にあるので、山田が更地に見出しているであろうおびただしい懐古的イメージを共有することができない。

去年見た映像で、「これは単位時間あたりの走馬灯効果が最も高いな」と思ったのは、SUUMOのCM「最後の上映会」である。

youtu.be

引っ越し前日の夜、ひとり暮らしの部屋が急にこれまでの数年間の映像を映しはじめる。ここではこの効果を、音楽がより高からしめている。音楽の効果を具体的に述べると、
1「なごり雪」という曲。ある程度以上の年齢の日本に長年暮した視聴者ならば、「なごり雪」を聴いたことのない人は少ない。その、かつて聴いた過去の時間と現在のCMを眺めている時間とのギャップ。
2 曲の歌詞における「春」という季節、語感。春は出会いと別れが周期的にめぐってくる季節であるから、それだけで過去と現在とのギャップを想起させやすい。
3 湯川潮音によるカバー。「なごり雪」を知っているほとんどの人が想い出すであろう、かぐや姫のバージョンないしイルカのバージョンとも違う、過去と現在とのギャップ。
4 曲の転調。CMの終盤、サビの調子が一挙に物悲しいものに変わる。おなじみのフレーズが別の印象を与えることのギャップ。
 曲自体にこれだけのギャップが仕込まれ、しかもそれに併せられる映像はまさに走馬灯的イメージそのものなのだから、「泣ける」というよりも「死」を連想させるほど、強烈な情動のテクニックが駆使されている印象を受ける。

同じイメージに別のイメージを重ねるということ。もちろんこれ自体は最終回にかぎらず、さまざまに利用可能である。

いきなり最終回」について別のたとえをすれば、麻耶雄嵩に『さよなら神様』という連作短篇集がある。これは各話の冒頭で「犯人は○○だよ」といきなり犯人の名前が告げられるのだが、これがネタバレにならない、つまり読者のサプライズを引き起こさないのは、読者が犯人について何も知らない、「いきなり最終回」状態にあるからだ。犯人の名前を知った後、事件が回想的に語られ、そこで○○が犯人でありえないだろうことがわかる。にもかかわらず、やはり○○が犯人であったと理解するとき、結末部において○○という固有名は読者にとり、既に別の意味を持っている。だからこそ、驚くことができる。

懐古的イメージを怒濤のごとく急激にほとばしらせる技法は、物語においてそう何度も使えるものではない。最終回とか、ひねったかたちでは「エピソード・ゼロ」のような番外編などで利用される。

しかしこれは、パロディ、パスティーシュ、二次創作などにおいても利用可能である。最近読んだ中では、mikioという人の書いた「最初の事件」という短篇がまさにそうした技法を利用したものだったけれど、ここで感じ取ることのできるものは、おそらく、読み手がシャーロック・ホームズシリーズについて多少なりとも知らなければ、ピンとこないに違いない。「本編」を借景としているからこそ、つまり作品外で時間を滞留させているからこそ、パスティーシュとしての短い作品内でその時間的エッセンスを爆発させることができる。