読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

【記録シリーズ10】密室

「レゴブロック的走り書き」のシリーズは途中で飽きてきたので、やめにします。
 ※
ある男が評伝作者に問いかける。「あなたの書いた亡命作曲家についてのあの本をこの前読み返したんですが、一つ重大なことに気がつきました。肝心の、作曲家がどのようにして母国から逃れたのかについて、曖昧にしか書かれていませんね。これは何故なんでしょうか」。――そうだ、数年前に呼んだ時は、その点を見過ごしていたのだ。本文中では、作曲家の生涯に起った出来事と、創作に至る精神形成と作品分析が分かちがたく結びついており、行ったり来たりする記述にどうも誤魔化されてしまった気がする。いや、以前は気づきもしなかった。あまつさえそのまま、週刊誌に書評まで書いてしまった! これでミステリ作家を名乗れるものだろうか? 評伝のフレームはもちろん、第二次世界大戦に翻弄された芸術家……というおなじみのパターンだ。彼はその後、フランスのアカデミーで教鞭をとった。日本ではほとんど知られていないが、教え子の中には有名な連中が何人もいる。激動の20世紀を生き抜いた人間の肖像、というわけだ。評伝作者の所属する大学の研究室で二人は向かい合っていた。評伝作者は少し考えるふうにしていたが、やがて口を開いた。「実は、今でもあまり詳しいことはわかっていないみたいなんですよ、どのようにして国外脱出したのか……親族の方にも二、三人聞いてみましたが、本当に知らないようだった。向こうで出てる文献なんかにもはっきりしたことを書いているものはない。だから、書けなかったわけです」。「いや、でもあなたの本の中では、こういっては悪いですが、なんだか誤魔化すみたいに書いてあるわけでしょう。詳細が不明なら、そう書けばいいのではないですか。それとも何か、あまり触れたくない理由があったのですか」。と訊くと、「ええ、まあ……」と口を濁す。こういうのはままある。後ろ暗いことをやっているのだ、擁護できないほどの。すでに議論を重ねられた著名人なら強弁の余地もあるかもしれないが、「本邦初の本格的な紹介」という触れ込みの評伝には書きづらかったのだろう。すると、評伝作者は意外なことをいった。「いわゆる……ご存知でしょう、密室状態だったんですよ」「密室?」「その日、彼はオーケストラが練習をしている会場に行った、その楽屋から……次に記録があるのは、オーストラリアに向う途中の―島です。あとはご存知の通り、本で紹介した通りです。そのことについては、彼は亡くなるまで誰にも語らなかった。妻にも。……私に何か書けると思いますか?」。予想しなかった言葉に長い沈黙が横たわる。目の前の相手への疑いと同時に、でもそれは本当なのだろうという思いも起こる。とても厄介なことだ。しかし、事態を新しい地平へと転回させもするはずだ、という確信に、男はふいにうたれた。いったい、それはどんな密室状態だったのか? 話はこれからだ。