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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/『黒い仏』(2)

 21世紀初頭の評価について
黒い仏』は現在、一種の“奇書”として知られているが、2001年1月に刊行されたこの本を私はリアルタイムで読んではいないので(2003年頃だった)、当時どのように評価されたのか正確なところがよくわからない。そこで、年末ランキング本で触れられている箇所をざっと確認してみた。
このミステリーがすごい! 2002年版」(12位・21点)
大森望(3位)、豊崎由美(5位)、米満亘(2位)、尾川健(5位)、関口晴生(4位)、池波志乃(3位)
 ちなみに当時、「このミスねっと」という会員制新刊紹介サイトがあったようで、そこでランキング予想を担当していた茶木則雄氏による事前予想(2002年版に掲載されている)では国内篇10位となっている。
本格ミステリ・ベスト10 2002」(14位・55点)
岩松正洋(2位)、大森望(3位)、倉阪鬼一郎(2位)、巽正章(5位)、橋詰久子(1位)、村上貴史(4位)
 同書に掲載されている、「ネット経由でランクへGO! 「本格」読者によるMY BEST RANKING」(一般読者が1票だけ投じるネット投票)では、1位(全83票中5票)となっている。
「SFが読みたい! 2002年版」(8位・21点)
巽孝之(4位)、中村融(3位)、難波弘之(1位)、浜田玲(順不同)、東雅夫(順不同)、古沢嘉通(4位)、柳下毅一郎(3位)
   ※
このミステリーがすごい! 2002年版」巻末のブックリストに、一年間に発行されたミステリの新刊として418冊が掲載されていることを考えれば、なかなかの高評価に感じられるが、当時のミステリ・シーンの空気を知る方によれば、嵐のような賛否両論で、否のほうが強かったという印象らしい。ランキングのコメントを見ても、世評が分かれていることを知りつつ、あえて入れたという方が多い。
 上記「本格ミステリ・ベスト10」の座談会(円堂都司昭、鷹城宏、濤岡寿子)では、次のように述べられている。

円堂 『黒い仏』も評価が分かれるんではないでしょうか?
鷹城 私は大好きだけど。
濤岡 私も好きだけど、いいのかな。困っちゃうな。
鷹城 OKっしょ、あれは(笑)。
濤岡 パンクなお坊さんとかかっこよかったからいいわ(笑)。あと解決の仕方をこうしたら、『美濃牛』で宙ぶらりんになった幻想的な現象や、石動の名探偵ぶりに説明がついてしまうんですよね。厚くなるけれど『美濃牛』と『黒い仏』で合本にしたら、また違う様相が見えてくると思います。
円堂 じゃ、あえて私が批判的なことをいっておこうかな。本格ミステリ的なロジックで解決するだけでは収まらない、余剰部分がある作品は過去にも、『夏と冬の奏鳴曲』『霧越邸殺人事件』などいろいろ登場して賛否両論がありました。私も余剰含みの作品が好きで、『黒い仏』も作者がやろうとしたことは否定しないし、アリだと思う。でも、『美濃牛』と比べると、あれはペダントリーが溢れてて牛について些末な書き込みが多かったりしたんだけど、その些末さがおもしろかったり、作品の豊かさになっていた。でも『黒い仏』は、書き込みのおもしろさが後退した印象がある。素っ頓狂な展開をやらかす時にこそ、書き込まないとネタの豪快さがいきないんじゃないかって気がしました。
鷹城 本の薄さが裏目に出たと?
円堂 そうですね。

 しかし『黒い仏』に関しておそらく最も有名なのは、北上次郎氏と大森望氏の対談だろう(『読むのが怖い! 2000年代のエンタメ本200冊徹底ガイド』ロッキン・オン、2005。該当箇所の初出は「SIGHT」2001年夏)。

北上 (……)冒険小説好きな人間にとってはね、いろんなアクシデントを知力と体力で乗り越えて生還するっていうのが、すごい血湧き肉躍るわけですよ。こういう風に、ジャンルの文法っていうのがあると思う。で、『黒い仏』で聞きたいのは、これ何が面白いのかさっぱりわからない。だから、その文法を説明してほしいんだよね。例えばこれ、ジャンルでいうと何なの? 新本格なの?
大森 (笑)。僕の定義だと、これも新本格。というか、これぞ新本格ですね。(……)最初から伝奇小説的な要素も入ってる。でもその一方で、福岡県警の刑事たちの地道な捜査活動も描かれるから、それこそクロフツ鮎川哲也のアリバイものみたいな、ふつうの現代ミステリとして読める。ところが、名探偵の解決が示された瞬間、突然まったく別のものが入ってきて世界が根本からひっくりかえる。ひとつには、その意外性を楽しむ小説なんです。
北上 はは〜。じゃあ君はさ、後半のネタばらしがあったときに、「バカヤロー」って思うんじゃなくて、「わっ、すげえ!」って思うの?
大森 そう。あっと驚いて感動する。いかに変わったことをするかが勝負。
北上 しかし、変わったことをやるにしてもさ、ある種のルールがあると思うんだよ。
大森 本格ミステリは、そのルールをいかに逸脱するかって勝負もしてきたわけですよ。クリスティの『アクロイド殺し』だって、(……)『黒い仏』だって、なんでもありに見えるかもしれないけど、ルールの存在は明らかに意識してる。本格ミステリのお約束を踏まえたうえで、意図的に逸脱してるんです。
北上 いや、それはね、ちょっと強引な論理だと思うんだけど。『アクロイド殺し』の場合は確かにフェアかアンフェアかって論争はあったけど、あれは、ルール内だと思うんだ。
大森 うん、だからそのルールの考え方も、時代によって、作品によって変わってくる。(……)まあ、その発想が面白いと思えなければ全然面白くないでしょうが(笑)。
北上 だから、それが面白いならば、旧来のミステリじゃないよね。
大森 うん。小説の中の現実がひとつしかないミステリを“旧来のミステリ”と呼ぶなら、そうかもしれない。(……)ただ、作者が恣意的に好き勝手やってる小説とは明らかに違う。ミステリに関して言えば、アリバイ・トリックをちゃんと合理的に説明したうえで、それを別の論理体系で崩してる。(……)全部元ネタがある。最初に出てくるお坊さんは実在する人物だし。そんなことは全然知らなくてもかまわないんだけど、そういう部分にものすごいエネルギーを注いできっちり作ってあって、めちゃめちゃ感動しますよ。まあね、そんなのどうでもいいんじゃんと思う人にはどうでもいい話だから、これをすごく面白がる人は、本格ミステリ読者の中でも少数派かもしれない。
北上 あっ、極北なわけ? これは。
大森 うん、極北(笑)。(……)
北上 あっそう、わからんっすねえ、私には。こういうの面白がる人がいるの?
大森 びっくりしないですか? (……)
北上 だからびっくりっていうのがね、君はたぶんあれでしょ? びっくりしてぞくぞくするわけでしょ? つまりうれしくてびっくりするんでしょ?
大森 うんうん。
北上 俺はびっくりしてバカヤローだよ。そんなバカな!と。何それ? それがありだったら何でもありだろうって。
大森 だから、何でもありの小説じゃなくて、ちゃんと作ってから壊してるんですってば。(……)
北上 なるほどねぇ。いや俺、『ハサミ男』って読んだよ、デビュー作の。
大森 今どきのサイコサスペンスに叙述トリックのひねりを入れたやつ。
北上 あれはけっこう面白かった印象があるんだけど……でも、ここまでいくともうね、僕は正直ついていけません。
――(渋谷陽一) こういうパターンに対する支持というか、市場性はそれなりにあるんですか。
大森 うん、あるある。
北上 うーん、理解しがたいですね。

 あくまで“ルール内”を求める北上氏の姿勢は、いま読むとかなり強硬に感じられるが、しかしもし読む以前から「この作者は何をやるかわからないヤツだ」という構えだったならば、また違っただろう(対談は刊行から半年後のものだから、現在とはパースペクティブが異なる)。デビュー時からの読者による、『ハサミ男』→『美濃牛』ときて、まさかこうした方向へ行くとは思わなかった、それ自体がヒッカケだった、という意見はよく見る(あるいは、前々から怪しいと思っていたのが、いよいよ本性を見せた、という意見も『SFが読みたい!』にあるが、やはり前者のほうが多かっただろう)。上記のランキング本を読み返すと、いろいろと興味深い。当時はどのような時代だったか? まず「2002年版」とはいえ、2001年の作品を対象にした、21世紀最初の総括だった。『黒い仏』刊行(2001年1月)からそれらアンケート集計までのあいだに起こったこといえば何よりも、9.11同時多発テロ事件だったろう。さらにメフィスト賞関連でいえば、清涼院流水の大作『カーニバル』(1997―1999)、舞城王太郎煙か土か食い物』(2001)、佐藤友哉フリッカー式』(2001)などがあった。こうした状況下では、「殊能将之もまた“そちら側”へ行くのか」と思われたとしてもおかしくはない……はずだ。
 なにしろ、「本格ミステリ・ベスト10」2000年版における『ハサミ男』の評価(国内篇2位)はかなり高い。とりわけ笠井潔氏の高評価は意外に感じた。座談会「原点回帰と新ステージの予感」(笠井潔、末國善巳、濤岡寿子)から。

末國 新人は殊能将之さんの『ハサミ男』に尽きる気がします。『ハサミ男』は現代的な社会問題と本格の融合をやっていますが、その社会性をペダントリを積み重ねるのではなく、さりげなく深読みを誘発することでクローズアップしている。だから過剰な読みを読者や評論家がしてしまいがちなんです。それがいやらしいけど、うまい。例えば、なぜ人を殺してはいけないのかとか、ジェンダー・ロールの問題でもティプトリーJr.の名前がさりげなく出ていたりする。そういうのを拾いながら読んでいくと、いかなる欲望も作品に投影できる。そういう巧さですね。(……)
濤岡 やはり新人といえば『ハサミ男』です。(……)
笠井 (……)オーソドックスな本格への回帰という点に話をもどすと、『QED』が真中にあるとすれば一方のサイドが『ドッペルゲンガー宮』で、これは本格回帰というよりも新本格回帰です。この本を読んでいてNHKの懐メロ番組を見ているような印象がありました。懐メロ本格も、書かれてもいいとは思いますが、この先があるとは思えません。/他方のサイドが『ハサミ男』です。これは単なる本格回帰や新本格回帰ではなく、新しい質を持った本格復活の試みですね。『ハサミ男』が出たことで、本格ミステリの新たな方向性が、漠然とながら見えてきたように感じます。(……)
笠井 『ハサミ男』は『盤上の敵』とは違って、意識的に安っぽく作られているところがいいですね。『盤上の敵』は'99年度のミステリでも小説全体でもベストワンかもしれない傑作だけど、まだ「文学」なんです。「文学」自体は疑われていない。『ハサミ男』は、文字通りハサミでボールを切りぬいて作ったような世界。このいい加減さ、奥行きのなさ、手応えのなさという点で、『ハサミ男』の方が時代の核心を掴んでいると思います。(……)
笠井 殊能将之は、ひさびさの大型新人です。読者の期待も大きいわけですが、プレッシャーに負けないで、早く第二作を出してほしい。

 笠井氏は、座談会中で北村薫『盤上の敵』を褒めつつも、〈いい加減さ、奥行きのなさ、手応えのなさという点で、『ハサミ男』の方が時代の核心を掴んでいると思います〉として、『ハサミ男』のほうに軍配を上げる。〈ハサミ男』が出たことで、本格ミステリの新たな方向性が、漠然とながら見えてきた〉とまで評価するのだ。
“文学”について
 ここでは、「文学」への信頼という点が軸の中心となっている。
 この座談会とは直接関係ないが、後年「memo」では、「文学」をめぐる北村氏と笠井氏の違いについて次のように触れられる。

 ある小説作品を絶賛したり酷評したあと、とってつけたように「これは本格ミステリとしての評価であって、小説としての評価はまた別である」と書く 人をたまに見かける。わたしなどは、「この作品は小説としてはすぐれているが、文学としては陳腐であり、本格ミステリとしてはいまいちだけど、SFとして はなかなか見どころがある」などといったガスクロマトグラフィのような読み方ができるのか、という疑問を感じる。
「小説としての評価と本格ミステリとしての評価は異なる」という言い方のオリジネイターは、たぶん北村薫氏で、笠井潔氏もときおり同様の言いまわしをされ ることがある。だが、ここで重要なのは、北村氏がディープな文学愛好家であり、笠井氏が真摯な文学批判者であることだ。北村氏はエラリー・クイーンへの愛を表現するためにこのように語り、笠井氏は文学的なるものへの徹底的な批判を強調するためにこのように語る。しかし、こうした愛や批判を共有しない者が同じような言い方をしても、たんに言いわけがましく聞こえるだけだし、ひどいときには文学コンプレックスを感じることさえある。
 傑作だと思えばたんに「傑作だ」と書けばいいし、駄作だと思えばたんに「駄作だ」と書けばいい。そう書くとさしさわりがあると思うなら、口をつぐんでいればいい。言いわけするくらいなら、批評めいたことはいっさい書かないほうがいいと思う。(2003年8月後半)

 いわゆるブンガクに寄りかかるスタンスへの批判は、かつて公式サイトで散見された(〈たとえば、最近のレジナルド・ヒルは、ディケンズのようなミステリを書こうとしているように見受けられる。しかし、イネスはそんなことを考えたことは一度もないだろう。「ディケンズみたいなミステリを読むくらいなら、ディケンズ読んだほうがいいじゃん」と思っていたに違いない。〉「reading」2001年3月26日など)。しかしあまり語られないが、殊能作品を去年再読して感じたのは、詩歌に対するさりげない言及の多さだ。『美濃牛』の俳句や、『鏡の中は日曜日』のマラルメはかなり前景化しているため、印象に残るが、丹念に読んでいけば、他にもビックリするほどの数の詩歌が引用され、または触れられる(とりわけ『ハサミ男』第21節の、首吊りに失敗した「わたし」の上に初雪が降りかかり、The Three Wise Menの「Thanks For Christmas」からジェイムズ・ジョイス『死者たち』につなげられるシーンの美しさ!)。現代のエンターテインメント小説で、これだけ詩歌(=文学)が溶けこんだ作風はなかなか無いのではないか。
ハサミ男』をいま読むと、〈意識的に安っぽく作られているところがいいですね〉〈文字通りハサミでボールを切りぬいて作ったような世界〉という言葉とは対照的に、触れれば切られてしまうある危うさに全編が満ちているように感じる。去年の春頃読んだ時が、特にそうだった。メフィスト賞座談会での〈 F 今を生きている人間の病巣をきちんと書いている。芥川賞候補だ!/I (笑)全然違うと思うよ。/F まあいいんだけど(笑)。〉というやりとりも、その意味では、決して見当違いのものではなかっただろう。
 中村融氏は、追悼文の中で次のように述べられている。

 Tさんがまだ小説を書いてなかったころ、奇想の作家バリントン・J・ベイリーをSFの理想として高く評価していた。念のために説明しておくと、SFならではの疑似科学理論を武器に、時空の性質に関する複雑な議論をくり広げ、高邁な哲学的思弁にふけるいっぽうで、通俗的な冒険SFのストーリーをなぞる作風である。そしてポロリともらしたのだ――「だれも書かないなら、自分で書くしかないなあ」と。
 そのときは聞き流したが、Tさんが作家デビューを果たしたあとは、いつかそういう小説を書いてくれると思っていた。いや、そういう小説を書く前段階として、まずミステリ作家として世に出たのだとさえ思っていた。
 エッセイや対談といった仕事の以来を片っ端から断っていたTさんが、〈SFマガジン〉の以来に応じてバリントン・J・ベイリー追悼の原稿を寄せたとき、その思いはますます強まった。だから、待っていたのだ。殊能将之の書くメタフィジカルスペース・オペラを。(「Tさんのこと――追悼・殊能将之」/「かわくらメルマガ」vol.8・「Before mercy snow」2013年10月)

 つまり、「文学」に寄りかかるのでも、「文学」を一方的に批判するのでもない。ある作品の中でエンターテインメントも、「文学」も、「複雑な議論」も、「高邁な哲学的思弁」も同列に並べられる、そのような志向があったのではないか。
   ※
 寄り道が長くなってしまった。
 以前にも書いたが、『ハサミ男』と『美濃牛』を続けて読むと、ある共通した雰囲気――特に“死”をめぐる――を感じる。ところが、『黒い仏』以降、作品はどんどんユーモア色を強め、“軽さ”を獲得してゆく。(続く)