立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

矢部嵩は天才である。(3)――『保健室登校』

冒頭の描写から
矢部嵩的世界においては、殺人や人体損壊などの残虐かつグロテスクな行為が登場人物にアッサリ受け入れられる場面が少なくない。それを記述する場合、われわれの「日常」において「平易な文章」として通じるものとは異なる書き方が必要なのは明らかだ。『保健室登校』や『魔女の子供はやってこない』で起こるような内容をたとえばリアリズムで説明的に書けば、どうにも重たくて仕方ないだろう。つまり内容が文体を、文体が内容を互いに呼び合う過程で、主語や目的語や接続詞や、会話における句読点や、時間や空間を指示する言葉が振り落とされ、文脈は「圧縮」される。それによって、「残虐かつグロテスクな行為」は普通そうあるべき深刻さに陥ることなく軽さを獲得し、特異な表現として達成された……以上を一つの仮説とし、第二作『保健室登校』の第一話「クラス旅行」の冒頭を見てみよう。

「今日転校した敏上です」よろしくお願いしますといい専子は頭を下げた。机の下の古冊子が見えた。引き出しに貼って剝がしたシールの跡もあった。広い部屋の窓際で 、外からの日が暖かかった。よく来たねといい、校長先生は椅子から立ち上がった。椅子の革が遅れて浮かんだ。
「連絡あった?」 「まだで」校長の問いに近くの教員が伏目で答えた。朝の職員室は忙しそうだった。しょうがないなと校長は呟き、それから瞬いて専子を見た。 「早速だけれど行こっか教室」窓からは細った川が見えた。長い廊下を校長と歩いた。慣れない分だけ広い気がした。
チャイムの犬種が違うのも心細く、通り過ぎる教室の中に生徒らの姿も見えた。目が合いそうなので視線を落とし 、見下ろす新しい制服には馴染んでなさを感じた。

転校生が新しい学校へやってきたばかりのシーンで、即物的な短い一文が並ぶ。光景が短い描写でざっくりと切り取られて並べられている、という印象を受けないだろうか。ところで長い文章を書いたことのある方ならおわかりになるように、一つの文章は、読み手にとっては一本のライン(一次元)ながら、書き手にとっては、三次元にも四次元にもバラバラに四散しようとするものを、ムリヤリ一次元に押し込めて書く、というような感じである。しぜん、言葉と言葉とのあいだには断面ができるため、書き手はあまりガタついて見えないよう、さもスムーズにつながっているかのように加工しようと苦心する。しかし矢部嵩の短い描写には、文頭の接続詞(そして、だから、ところで、ちなみに、つまり、たとえば、しかし、などの言葉)が極端に少なく、文章と文章の切断面を露わにし、言葉というものの人工性つまりそれによって記述される世界のマガイモノ性を明らかにする。たとえばセンター試験の現国で「評論文は接続詞にマーク!」といったような書き方=読み方とは無縁であり、それで「読みにくい」と感じる読み手もいるのかもしれないが、そうした親切な文章では表現しえないものがあるのも確かだ。再び冒頭の場面でいえば、新しい学校へやってきた主人公が言葉少なにあたりを観察する様子から、緊張している内面、さらにそうした自分の内面を外に表現するのが苦手なパーソナリティーが暗に示されている、ということでもある。
風景描写は文章表現における難所の一つである。なぜなら風景という三次元を文章という一次元にするには、物事を述べたててゆくなんらかの順序が必要だが、風景自体には論理的な順序などないからだ。そこで上記引用部では、タッチを短く置いてゆくような点描と省略された心情により、作中の時間と記述が一体となって進行するのだが、こうした手法は矢部文体の一つの特徴である。回想などによって前後することなく、時間はひたすら前へと進む。……

ボケとツッコミ
前回「圧縮」と書いたが、作者自身がそれをパロディー化しているらしき場面が第二話「血まみれ運動会」にある。体育大会の全員リレーをめぐって、足の遅い生徒を出走させないための人体損傷合戦がクラス内でエスカレート。主人公・駅子がその狂気を問い質すと、首謀者らしき大会実行委員・小樽は「既に他のクラスも偽装代走を行っているわ 」と各クラスへのインタビュー動画を駅子に見せる。

五組(青 )の委員 5藤 「担任の先生が不治の病なんだ明日死んでもおかしくなくてみな先生が大好きなんだ。先週倒れた時に決めたんだ僕ら勝つから先生がんば、負けられないんだだから」
六組(ムラサキ)は足切りをしていなかった。実行委員の 6村に話を聞いた。 「(私たちは)全員で走る。それが全員リレー。 (他のクラス)おかしいとしか思えない。負けたいわけではなく負けるつもりもない。全員で走るのが最速だという考え」
「判ったでしょう」インタビュ ー映像を見せて小樽さんはいった。宜野さんが部屋の電気を点けた。 「どこが最初とかじゃなく、もう止まらないだけだよ」スクリ ーンが巻き上げられ取り巻く女子たちがプロジェクタ ーを片付けた。視聴覚室は空気がこもっていた。テ ープはまだ回っているらしく明るい部屋の壁にエンドロールが薄く光って企画制作テレビ小樽の文字が見えた。何て判りやすく学年全体の状況が映像にまとめられているんだと思い駅子は動揺を隠せなかった。少し走りたくもなっていた。

諧謔と残酷が入り混じったこの場面の、六組の言葉に注意していただきたい。
「(私たちは)全員で走る。それが全員リレー。 (他のクラスは)おかしいとしか思えない。負けたいわけではなく負けるつもりもない。全員で走るのが最速だという考え」
(私たちは)(他のクラスは)と主語が補われているが、これがテレビでよくあるスポーツニュースのインタビュー形式のパロディーであることは明らかだ。スポーツインタビューでは、語り手(アスリート)と聞き手(インタビュアー)の質疑応答においてしばしば、編集段階で聞き手の質問が省かれる。そのため実際の報道においては、アスリートの言葉に省略された文言を補われる、ということが、一つの文法となっている。
同級生にインタビューを行いそれを動画にまとめる、という小樽の行為は異様だが、それに輪をかけて異様なのは、動画の最後に「企画制作テレビ小樽」の文字が入っていたという箇所。私は感嘆した。優れたギャグであり、それを他人に説明するのは野暮以外の何物でもないが、しかし私のこの一連の文章自体、圧縮された意味を解凍、つまりボケを拾ってツッコミとして外に開いていくことを目的としているので、どうかお許しいただきたい。
たとえば『紗央里ちゃんの家』に、ひそかに家探しをしていた主人公・僕が叔父さんに見つかり、

「何もしてなかったよ」(……)
「本当に?」
「本当にあった怖い話くらい本当」
「どうせ嘘でしょ」
「うん」僕は頷いた。「チューリップくらい真っ赤な嘘」
「誅戮?」
「チューリップ」

と問答をする箇所がある。嘘とチューリップとが赤というイメージを通して繋がれ、さらに「誅戮」へと進展するが、しかしそれ以上広がっていかない。
ひるがえって「企画制作テレビ小樽」という文字からは、小樽の転倒した論理の一端、「全員リレーのために動画制作してしかもわざわざクレジット表記まで入れるのかよ!」という、生真面目さが酷薄さへ転じる一瞬、サブリミナル効果のように細部が主題へ繋がる作者のテクニックがうかがえる。「チューリップ」と比べると、より緊密なイメージ連合を形成しているといえないか。

通じ合わないことによって通じる
保健室登校』にはこうしたボケや伏線がツッコミ無しの状態で随所に埋め込まれている。先の文体との関連でいえば、『保健室登校』の文章は、作者も短篇「中耳炎」の作中で「読みにくいが面白い」と自虐的に宣伝しているように、読者の自発的な読解に頼るところがある。しかし、仮に……語りがうまく、自信に溢れ、なんでも出来て(書けて)、クラス内(小説界)でも人気者。そうした文体で作中の彼女たちが描けるだろうか。何かが変質してしまうのではないか。
そう考えた時、私は前回の引用部分を思い出した。ひどい怪我を負わされた自分を見て何も感じないのか、と主人公が父親を難詰すると、父親が逆ギレする終盤のシーン。

「おれさあ」父さんが口を開いた。僕に向かって、自分のことをおれといった。びくっ、とした。普段は「父さん」と、そう自分のことを呼んでいるのに。
「おれさあ・・・・・・凄いさあ・・・・・・どおおおおおおおおおでもいいんだよね・・・・・・そういうの・・・・・・本当さあ」

この場面では、主人公とその父親とのディスコミュニケーションが露わになっている。そして『紗央里ちゃんの家』の終盤で露わになるこうしたディスコミュニケーションは、おそらく矢部嵩的世界全体に通底するものであり、『保健室登校』以降はむしろ、それが前提となって物語は伸展していく。
保健室登校』の各連作を強引に整理すれば、おおよそ次のような形式をとっていると考えられる。
 起・主人公が登場人物との間で何か困った、奇矯な問題に巻き込まれる(ディスコミュニケーション)。
 承・主人公が状況を受け入れ、互いの思いを確認し合い、ちょっとイイ話ふうの展開になる(コミュニケーション)。
 転・しかしそれは錯覚に過ぎなかったことが明らかになり、不吉な兆候を見せる(ディスコミュニケーション)。
 結・惨禍(大団円)。
さらに、各作品の大きなテーマに、倫理がある。登場人物たちは皆、自らの倫理と他者との関係の折り合いに迷っている。それを小説的に充分に表現する手段として、なんらかの虚構つまりシチュエーションが一つ設定され、それを前提に、人物たちは各々の倫理観すなわち論理を展開してゆき、読者からすれば狂気と思える閾値をやがて踏み超える、という結構が、作品の核心に据えられている。秘められた心情が長広舌として吐露される時、奇怪な論理は宝石のような煌めきを見せる。そして彼らがディスコミュニケーションを超えてなおコミュニケーションを図ろうとする時、惨禍が引き起こされ、その後に、矢部嵩的としか言いようのない、独特の叙情が残る。
保健室登校』の「読みにくさ」は、つまり文体という外面は、こうした内面と共振している。「クラス旅行」の反転する一瞬、「血まみれ運動会」の派手なスプラッター、「期末試験」の二人の切ないほどの引力と斥力、「平日」の本格ミステリに擬態した後味の悪い結末、「殺人合唱コン(練習)」のどこまでも進展するギャグとグロテスクの混合物。ラストの保健室の風景には、各主人公たちの、通じ合わないことによって通じる何かが現れている。
この生徒は人見知りで独特の喋り方をするようなのだが、律儀に話を聞けばどうやら、激しい何かを持っているらしいことがわかるのだ。