立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

続・「遠いファンタシーランド」を偽物化する――『殊能将之読書日記』

承前
「偽物」論がピークに達するのは、次の一節ではないだろうか。

 ディクスン・カーの歴史ミステリをなんとなく読んでいる。わたしは西洋史にうとく、ずっと敬遠していたから、ほとんど初読である。
 まず『ビロードの悪魔』(吉田誠一訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)を読んだのだが、主人公ニック卿に仮託されたイギリス国王への強い敬意を感じとっ て、実に妙な気分になった。というのは、カーはアメリカ人だからだ。ヨーロッパに遊学したのが20歳前後、イギリスに移住したのが25歳ごろだから、それまではずっとアメリカ合衆国で暮らしていたわけで、これは完全にアメリカ人である。成人するまで生活していれば、気質も根本的にはアメリカ人のはず。
 それでふと思ったのは、カーにとって過去のイギリスとは一種のファンタシーランドだったのではないか、ということ。実際、『ビロードの悪魔』はほとんどヒロイック・ファンタシーである。主人公の行き先が火星ならバローズだし、古代バビロニアならエイブラム・メリットになる。話自体も、酒飲んで、チャンバラして、美女とロマンティックな恋愛をしたい、というみごとな願望充足小説である。
 そんなことを考えているうちに、ポール・アルテを思い出した。アルテはフランス人なのに、過去のイギリスを舞台に本格ミステリを書いている。「それはおかしい、偽物だ」という人がいるけれど、それならアメリカ人が過去のイギリスを舞台に本格ミステリを書くのもおかしいことになる。同じ英語圏で、本人が実際イギリスに移住したからいい、ということはないだろう。
 さらにいうなら、アルテが「カーの偽物」を書くにいたったのは、実はカーの作品自体にある種の「偽物性」があったからではないだろうか。「偽物」という言葉に抵抗があるなら、「遠いファンタシーランドにあこがれる気持ち」と言いかえてもよい。
 そう考えると、アルテのような作家がカーを対象にしか出現しないことも、なんとなく理解できる。たとえば、どんなにエラリー・クイーンを愛する作家でも、1920年代のニューヨークを舞台にした本格ミステリを書こうとは考えないだろう。(「reading」2003年2月20日)

整理すれば次のようになるだろう。なるほどポール・アルテは偽物である。しかし、カーにも偽物性はあった。そうした書き手の「偽物性」とは「遠いファンタシーランド」すなわち今ここではない何処かへ「あこがれる気持ち」という「願望」を「充足」させることである――。この論法はさらに敷衍できる。日本でいえば江戸川乱歩ペンネーム自体「偽物」である。海外ならエドガー・アラン・ポーだってアメリカという当時ド田舎に住みながらヨーロッパ流の文学を書いていたのだから「偽物」だといえる。すなわち、ミステリというジャンルの起源にはそもそもそうした「偽物」性があったのだ、云々。……ここまでいくと風呂敷を広げすぎだから、「偽物」の具体的な中身に戻ろう。
同じ「reading」にこういう発言がある。

 たとえば、最近のレジナルド・ヒルは、ディケンズのようなミステリを書こうとしているように見受けられる。しかし、イネスはそんなことを考えたことは一度もないだろう。「ディケンズみたいなミステリを読むくらいなら、ディケンズ読んだほうがいいじゃん」と思っていたに違いない。(「reading」2001年3月26日)

これはイネスを称揚するための発言である(その前に「イネスの最もすばらしいところは、文学趣味がかけらもないこと」とある)。ではなぜ、「〜のようなミステリを書こうとしている」という点においてヒルはダメ(とまでは言っていないが)でアルテはOKなのだろうか。
おそらくそれは「論理性」と関係がある。『Before mercy snow』という本の全体でTという青年が主張しているhttp://d.hatena.ne.jp/kkkbest/20140930/1412036061 ことを要約すれば、〈自分のやりたいことの論理を貫徹せよ。ヘンな色目は使うな〉ということだ。この「論理」の価値観においては、「やりたいこと」のスタート地点が「本物」であろうと「偽物」であろうと無関係だ。しかしいったん走り始めたら、その軌道を歪めてはならない。野球をしていたのにとつぜんサッカーのルールを持ち込んではならない、ということだ(これは『黒い仏』などを考えると一見矛盾に思われるかもしれないが、厳密にはそうではない)。
だが「論理性」の価値観からすれば「本物」と「偽物」に差異は無いことになる。するとアルテをことさら取り上げる主因はなんなのか。それが前回述べた「ズレ」である。自己に「偽物」の自覚があるからこそ、数多ある「偽物」群という他者の中から、その「論理」を貫徹して「本物」とズレた果てにオリジナリティを獲得した異様な何か、を察知する。
アルテの『赤い霧』についての記述で、「自覚していないからこそ書きうる傑作」という言葉が出てくる(「reading」2004年11月15日)。

 個人的な意見では、『赤い霧』の最大の美点は Roman policier authentique et/ou noir本格ミステリ/ロマン・ノワール)であることだと考えている。
 ただし、以前にも書いたとおり、アルテ自身はロマン・ノワールを徹底的に嫌悪している(ある作品中でそうはっきり表明している)。絶対に先に読んではいけないあとがき「“謎” と“血”と」から明らかなとおり、アルテはたんなる本格ミステリを書いたつもりなのだ。そうでなかったら(日本では出版順序が前後したが)『赤い霧』の直 後に『死が招く』を書いたりはしないはず。『赤い霧』は決定的なターニングポイントになってもおかしくない作品なのに、なにひとつ転回していないわけだ。
 つまり、『赤い霧』のユニークさは一種の勘ちがいの産物であり、古風な本格ミステリをこよなく愛するフランス人にしか書けない小説なのである。そういう意味では、アルテのオリジナリティが最大に発揮された作品であり、代表作にして傑作といえる。

『赤い霧』をユニークたらしめているもの、独特の読後感を与えてくれるものは、後半に噴出する「暴力とセックス」にほかならない。にもかかわらず、アルテ自身は「謎と驚異」の物語を書いたつもりなのだ。
『死が招く』の『赤い霧』宣伝場面から、同じく平岡氏の訳文で引用する。
「わたしと同様に真相を知ったうえで事件全体を見直してみると、よくわかるだろうよ。犯人が霧のなかに忽然と消えうせた謎こそが、恐るべき惨劇の中心であり、さらにはその源だったと。これはまさに密室の問題なんだ」(ハヤカワ・ミステリ、p.13)
 このツイスト博士の感想は、アルテ自身の判断でもある。彼は『赤い霧』の中心は「犯人が霧のなかに忽然と消えうせた謎」であり、「密室の問題」だと考えている。だからこそ、絶対に先に読んではいけないあとがきのなかで、この“謎”以外の事柄をすべてネタばらししてしまったわけだ。“謎”さえ伏せておけば、『赤い霧』の価値は失われない。“血”はいくらネタばらししてもかまわない、と……。
 さて、ここまで書けば、『赤い霧』がいかに唯一無比の作品であるか、わかっていただけたと思う。
 小林信彦はトマス・チャステイン『子供たちの夜』を書評で絶賛したあと、最後にこうつけ加えている(『地獄の読書録』ちくま文庫)。

 この作品の弱点をあげれば、ラストの一頁で、カビくさい〈奇妙な味〉風の落ちをつけてしまったことにある。訳者も指摘するように、チャステインは自分が何を提示したかに十分に自覚的ではないのだろうか。

『赤い霧』に関していえば、アルテが「自分が何を提示したかに十分に自覚的ではない」と断言できる。したがって、「弱点」もいくらでも指摘できる。
 だが、そんなものは瑕瑾にすぎない。世の中には「自覚していないからこそ書きうる傑作」が存在するのである。

確かに『赤い霧』にはどこか奇妙なところがある。なぜアルテはそれを自覚できなかったのだろう。それはおそらく、作品が要求する「論理」に忠実になるあまり盲点へと入り込んだ「ズレ」、外部からしか察知できない「ズレ」があったからなのだ。

「遠いファンタシーランドへあこがれる気持ち」とは、今ここのリアルが充実していないということだ。自分が自分であることに何の疑問もない人間は、「本物」かもしれないが、「遠いファンタシーランド」を必要としないだろう。自分とリアルとのあいだにズレを感じるからこそ、「遠いファンタシーランド」は希求される。しかし、それを呼び寄せてみても、小説という別種の「偽物」でしかない。それをポジティブへと転換すること。
作家が亡くなった際、小説家志望者らしき誰かが「殊能センセーは自分が欲しいものを全部持っていた」などとつぶやいているのを見た。それはおそらく外からその姿を見たからで、もし悪魔に魂を売り渡して本人に成り代わったとしたら、その人物は小説を書き得なかっただろう。「殊能将之の本物」に成り代わった時点で「願望」は「充足」してしまうからだ。もしカーが『ビロードの悪魔』の作品世界に住んでいたとしたら、『ビロードの悪魔』のような小説を書こうとは思わなかったはずだ。しかしそんな悪魔はいない。不在の作家本人を「遠いファンタシーランド」へと置いてその「あこがれ」の「論理」を、盲点へとズレてしまうまでに貫徹するとき、彼の「偽物」性はポジティブへと転換され、自覚を超えた彼方からのまなざしを受け取るんじゃないかな。

ポーについて先述したが、「memo」の中で、クリストファー・プリースト『奇術師』の感想に絡め次のように日記の書き手は述べている(2004年4月後半)。

『奇術師』の物語は、20世紀初頭に起きたアルフレッド・ボーデンとルパート・エンジャという「似たものどうしの二人の奇術師の確執」(若島正氏解説)に端を発している。だが、このふたりには決定的な相違点がある。

エンジャはもっぱら奇術のタネに関心を抱いていた。奇術師が「ネタ〔ギミック〕」 と呼んでいるものに。もしひとつのトリックの成否が奇術師のテーブルのうしろにある隠し棚にかかっているなら、そのことだけがエンジャの関心の焦点にな り、それをどのような創意に富むやりかたで見せるのかはどうでもよかった。われわれのあいだにほかにどんな反目の原因があったとしても、そこがエンジャの 根本的な欠点であり、奇術技術の理解に対する限界であり、われわれの争いの中心であった。奇術のすばらしさは専門的なタネにあるのではなく、それを実演する技能にあるのだ。(p.108)

 以上はボーデンの手記の一節である。エンジャも日記でこう書いている。

 ぼくの弱点は、説明されないかぎり、イリュージョンの仕組みを理解できないところにある。あるトリックを初めて目にするとき、ほかの観客同様、途方に暮れてしまうのだ。奇術に関する想像力が貧弱で、既知の一般的原理を適用して、望む効果をあげるのがぼくにはむずかしい。すぐれた実演を目にすると、見せられたものに目がくらみ、見られなかったものに困惑する。(p.258)

 ここでわたしは本格ミステリとSFという「似たものどうし」に思いをめぐらせた。このふたつのジャンルは、ともにエドガー・アラン・ポーを直接の起源としており、双子の兄弟といってもよい。
 最も単純化していえば、本格ミステリはAをBのように見せかけることを目的とする。このとき、Bがいかに怪奇的・超自然的な現象であったとしても、Aは日常的・常識的な行為に限定される。いいかえれば、Bは「舞台の上でくり広げられるすばらしい効果」であり、Aはその「あまりにも卑小でささいな」タネである(p.85)。
 一方、SFはBをBとして文字どおりに受けとることを要求する。「火星人が侵略してきた」と書いてあれば、そのとおりの事実が起きたと認めなければならない。「火星人なんかいるわけがないから、これはトリックに違いない」と疑う者は、SFの読者にはなれない。
 ボーデンとエンジャはどちらも瞬間移動を得意演目とする奇術師であり、そのタネはそれぞれ本格ミステリとSFに対応している。さらに、手記の書き方もそうで、ボーデンが欺瞞にみちた語りを駆使するのに対し、エンジャは日記の読まれたくない部分を破りとるという直接的な方法を使う。
 そして、この決定的な相違点を持つ「似たものどうし」を融合させているのが、ポストモダンな語りの技法である。これは叙述トリックとは似て非なるものだ。叙述トリックがあくまで「AをBのように見せかける」ことを目的とするのに対し、ポストモダンな語りは「AかBかわからなくする」ことを目的とするか らである。
 したがって、本格ミステリ読者もSF読者も、『奇術師』の語りにいらだつかもしれない。本格ミステリ読者はタネが明示されないことに、SF読者は文字どおりに受けとれないことに。
 だからこそ、どちらの読者にとっても読む価値はある小説だとわたしは思う。

本格ミステリ読者もSF読者も、『奇術師』の語りにいらだつかもしれない」という見方は、ミステリとSFのどちらか一方に立つのではなく、それらを往復する過程で、『奇術師』にミステリでもSFでもない「ズレ」を察知する見方である。「似たものどうし」に「決定的な相違点」を見出すのは、こうした往復による「ズレ」への感覚からなのだ。『読書日記』にはそうした感覚が横溢している。それは解説が「SF編」「ミステリ編」と銘打たれながら若島正法月綸太郎も両方に造詣の深い人物であることにも表れている。
何より、「わたしは本格ミステリとSFという「似たものどうし」に思いをめぐらせた。このふたつのジャンルは、ともにエドガー・アラン・ポーを直接の起源としており、双子の兄弟といってもよい」という一節には、ポーと生誕日が同じであると折につけ公言していたことの自負をも感じてしまう。
以上のような記述もあるからこそ、邦訳書についての考察が書かれた「memo」の記述も参照されなければ……と思っていたのだが、先に未発表短篇集の刊行が発表されたのは嬉しい限り。
https://twitter.com/kodansha_novels/status/689357058576113664
もし、ここから新たな書き手/読み手が出てくるものなら、こうした書くことの完走運動と読むことの往復運動からなのではないかと、私は思う。

そうか、今日は1月19日だったのか……。そう思い、急いで更新してみました。