立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

「僕の言う白をキミも白と言うかなあ」

チョー久しぶりにCONDOR 44のアルバムを聴いてたら「winter」という曲で「僕の言う白を キミも白と言うかなあ」という一節につきあたった。

自分と他者の感覚の差およびその不可知性について語る際、視覚とりわけ色を例にするのは小説やらエッセイやら歌詞やらで何度か見てきたような気がする。

多くの場合そこでは、たとえば人によって赤と青とが真逆になって認識されているとか、そういうドラスティックなイメージが述べられている。同じものを認識しているつもりでありながら実はまったく異なるかたちで捉えられているのではないか、そして他者とのそうしたズレは絶対に把握し得ないのではないか、というわけだ。

しかしよく考えれば、赤⇔青ほどではなくとも、同じものを前にしながら異なって感じるということはよくある。

視覚

・私は左右で視力が違うからか、左の方が明度が低い。だから片目をつぶって見ると、同じ色でも右のほうが明るく、左のほうが暗く見える。年をとって視力が落ちてくるとだんだん暗く見えると何かで読んだ気がする。私以上に左右で違って見える人もいるとおもう。

・これは拡張した話になるが。私の知人はかなり視力が良く、神保町だとか新宿だとかに行くとしょっちゅう有名人を見かけるらしい。だいたい三十メートルくらい先までなら一瞬で顔が認識できるという。私は目が悪いのでそんな賑やかな街にくりだしても誰も一度も見かけたことがない。

聴覚

・イギリスで真夜中の公園にたむろする若者を追い出すのにモスキート音が使用されているとして話題になったのは、私が二十歳になる前だったとおもう。当時、大学の先輩とその話になり、ノートPCからイヤフォンでモスキート音を聞かせてもらった。全然何も聞こえなかった。しかしその先輩はもう三十近いというのに、「うるさい、うるさい」という。数年後、あるミュージシャンがやっているバーでモスキート音の話になった(店内には四人くらいいた)。一人の男がスマホを操作すると、カウンターに立つそのミュージシャンは「やめて、やめて」と顔をしかめる。私は何も感じない。なぜ日頃から耳を酷使しているはずのバンドマンに聞こえて私に聞こえないのか、もうそれだけ耳が老化しているのか、と理不尽を感じた。

・この数年、SUNN O)))だとかEARTHだとかNADJAだとかの長尺のドローン、スラッジ系の音楽を好んでよく聴く。昔の自分だったら耐えられないとおもう。

触覚

・近所の銭湯に「電気風呂」がある。風呂の壁面から微弱な電気を流してマッサージ効果があるというもの。強のコーナーと弱のコーナーに分けられているが、強のコーナーは私には強すぎて入ることができない。ところがその強のコーナーに入って平気どころかまだ足りないかのごとく壁面にぐりぐりと腰を押しつけて余裕、というオジサンを見かける。いったいどういう腰になっているのか。

味覚

・初めて日本酒を飲んだのは、小学生のころの元日、年が明けたばかりでまだ暗い神社へ行って神酒を飲まされた時だが、「こんなマズイものが飲めるか!」とおもった。しかし今では日本酒というものは逆にスイスイと飲みやすすぎてその飲みやすさこそを警戒しなければならない。

嗅覚

・生活臭というのは家によって異なるが、他人の家のニオイにはすぐ気づいても、自分の家のニオイというのはよくわからない。私は一年くらい同じ枕を何も気にせず使っているが、その枕を使うよう他人に薦めることは絶対にできない。

俳句のようにわずか十七音の作品でも、鑑賞者によって受け取るものは異なる。旅先で同じ風景を眺めながら同行者がまったく異なる感慨を受け取っていたということに後から気づかされる短篇小説に竹西寛子五十鈴川の鴨」という名篇があるが(ちょっとBL風でもある?)、そういうふうにつらつらと考えてくると、ある二人が同じものから同じ感覚を受けるというのは、かなり限定された条件の下でないと難しいのではないか。

そういえば数年前にある読書会で、「エロ漫画でよくある二人が同時に絶頂するというようなフィクションをこの小説は撃っている」などと語っていた人がいたことをおもいだす。