TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之短篇集が来月2月に出るという噂があるそうです。
https://twitter.com/flow2005yob/status/678865519299063808
「キラキラコウモリ」と「ハサミ男の秘密の日記」を併せるとたぶん100枚は超える(単行本で60頁くらい?)と思うのですが、他に長いコンテンツというと、なんだろう……公開されているので思いつくのは、
・鮎井郁介著作あらすじ
・取材日記
夢日記
・各種インタビュー(特にユリイカアニマ・ソラリス
くらいですが、でもそれだとどう見ても「短篇集」とは呼びがたいわけですから、詳細に期待したいですね。「秘密の日記」も発掘ものでしたし。
もし2月末の発売(御命日の2月11日には間に合わないけれど)とすると、1月中旬にはアナウンスが出るでしょう。

「再読する……」などとわざわざダラダラ引き伸ばさなくても後がつかえてきたので、私ももっとちゃんとしなければ。

nemanocさんの新ブログが爆誕。
http://proxia.hateblo.jp/
私もそのうちはてなブログに変えようかしら。

講談社文芸文庫金井美恵子自選短篇集が三冊揃った。
『砂の粒 孤独な場所で』
『恋人たち 降誕祭の夜』
『エオンタ 自然の子供』
あと10月刊の磯崎憲一郎『往古来今』の文春文庫版の解説も書かれていらっします。

現物は未確認なんですが、発売中のジェイノベル2016年1月号に伊吹亜門氏が「薄暗い町の片隅で」というコラムを寄稿しているそうです。
http://www.j-n.co.jp/books/?goods_code=05103-0100-16
http://www.neowing.co.jp/product/NEOBK-1895252

 先日のこと、ある人が、ぼくにこうささやいた。作家Bさんは、やはり、すごい人だと思う。「あの人、ほら。決して、えらくならないでしょう」と。
 そういえば、ある傾向のものを書かせたら右に出る人がいないと思われる存在である。名前も通っている。でもBさんは、結果としてえらくなっていないのである。えらくなるというのは賞をいっぱいもらうとか、国際交流でパリに行くとか、文壇のなになに委員になるとか、そういうことをとりあえずはさしているのだ。条件はそろっているのだから、本人の気持ちひとつで、えらくなれるのに、その人はえらくならない人なのである。その「えらくならない人」という語感に、その人の生き方は、たしかにぴたりと重なるのである。
 そういえばBさんは最近あまり本を出さないなと思った。
 Bさんは一一年前、一九八六年四月五日深夜、酒を飲んでテレビのナマ番組に出てきた。べろんべろん。アルコールが入ると、どうにも正体のなくなる人なのだ。首もふにゃふにゃ。
 大の作家が、こんなことでは困るよなあと、はらはらしながら見ていた。すると、そこにいた「とんねるず」の二人に、完全にばかにされているのである。なんと、こづかれたりしているではないか。会場のわかものは、ここぞとばかりに笑った。その作家のものなどまず読んだことがない人たちだ。ただの酔客にしか見えなかったはずだから無理もないが、Bさんの作品を知る人には、悲惨な光景であった。
 それから九年後(一九九五)、Bさんが、昼のナマ番組に出た。衛星放送だ。もちろん、しらふだった。
 鳥取の砂丘の見えるところで、ベンチにすわり、童謡について一人で静かに話をした。「月の砂漠」(大正一二年)などの話が出たと思う。そのときの言葉は澄んでいた。話すときの表情も秋空にふさわしい、すがすがしいものだった。作家その人に返ったBさんは、まばゆかった。すてきだった。
 それがBさんの姿である。でもあの日、べろんべろんになって出演者にけんかを売り、逆に打ち負かされて笑われたなさけない人もBさんだ。どちらもその人なのだ。そこにBさんという人がいるのだ、と思うと、涙が出た。こういう人はいない。いなくなった。えらくならないための生き方をこの人は身につけているな、とぼくは思った。
 えらくならないということはどんな宝にもまさる才能なのかもしれない。しかしこの時世にてらすと、影のうすい人なのである。静かに一人「月の砂漠」を行くようなものだ。
荒川洋治「月の砂漠」より。初出:「大航海」1997年4月/所収:『本を読む前に』新書館、1999年)


野坂昭如先生が2015年12月9日に亡くなられたという。
物心ついた時、私は先にテレビの印象があり、次いで映画『火垂るの墓』、小説という順だった(世代的にはほとんどがこのコースか)。上の言葉はテレビに映った姿を語ってもっとも印象ふかく残った一文なので、ご紹介させていただきました。
合掌。

「遠いファンタシーランド」を偽物化する――『殊能将之読書日記』

殊能将之読書日記』が発売されて5カ月近く、版元のアナウンスでは少なくとも一度は重版されたそうだから、第二弾の可能性はありうるでしょう。
以前にも書いたように、この本は旧公式サイトの「reading」という原書を読んだ感想ページだけをまとめたものなので、邦訳書に関するリアルタイムの記述(そちらは「memo」に書かれていた)は、まるまる省かれている。ところが、それらはもちろんこの「reading」の内容とも大きく通底するのだから、この本だけでは全容が見えない。
そのことに関連して、いくつかの記述を紹介してみたいと思います。

「reading」の記述が当時未訳だったポール・アルテの日本への紹介に大きく影響したであろうことは疑いないが、その評価にはややわかりにくいところがある。私も数冊読んで「ああ、ポール・アルテね」くらいの感じだったのだけど、『読書日記』を読み返してみると、そのわかりづらさについて本人が解説している箇所があるので、長くなるがまずそこを引用しよう。2003年6月2日の記述から。

『第四の扉』が 邦訳されたとき、「ディクスン・カーに似ている」「いや、カーの域には達していない」「よく読めば、実はちゃんとフランスミステリだ」といった評言がいくつか見られた。これらの指摘の正否はとりあえず問わない。というのは、わたし自身はこういったとらえ方にまったく興味がわかないから。ここでは「なぜ興味がわかないのか」について、少し考えてみたい。
 わたしがアルテにハマった最大の理由は、異様だからである。今月刊行予定の『死が招く』をお読みになった方は、ぜひ、この話がフランス語で書いてあるさまを想像してみてほしい。舞台はロンドン、登場人物は全員イギリス人、話はディクスン・カーばりの本格ミステリ。これをフランス語で読むのは、きわめて奇妙な体験である。一例をあげれば、「ツイスト博士」は「Le Docteur Twist」なのだ。この字面を見るだけで、違和感を感じる。
 翻訳でアルテ作品を読むとき、読者はそれをカー作品や他のフランスミステリ作品と同一平面上でとらえることができる。なぜなら、翻訳ではアルテ作品もカー作品も他のフランスミステリ作品もすべて日本語だからだ。しかし、フランス語で読むと、内容はカー作品なのに表現はフランス語というズレが生じる。
 このズレがわたしのアルテ評価のすべてといってよい。その結果、初読時の違和感から出発して、「カー作品、黄金期本格ミステリ、フランスミステリのどれともよく似ていながら、あるときは微妙に、あるときはあきれるほど大幅にずれてしまう。それこそがアルテの独創性なのである」という読み方にいたったわけ。
 以上は「フランス語で読まないとアルテはわからない」などといったイヤミな話ではないので、念のため。アルテ作品のズレを感じとったのは、わたしがフランス語ができるからではなく、フランス語ができないからです。
 フランス人、あるいはフランス人並にフランス語に堪能な人がアルテ作品を読む場合、やはりこのズレには気づきにくい。なぜなら、この場合、アルテ作品は「カーや黄金期本格ミステリのフランス語訳」のように読めるはずだからである。したがって、やはり「カーに似ているか似ていないか」「黄金期本格ミステリに似ているか似ていないか」が評価軸となるであろう。
 アルテ作品のズレを最も敏感に感じとれるのは、わたしのようにフランス語がろくにできない外国人がフランス語でむりやり読んだ場合である。
 したがって、わたしのアルテ評価がきわめて偏っていることは自覚している。アルテ作品の邦訳を心待ちにしているのは、この偏見が正当なものかどうかを確認したいからだ。フランス語で読むときの違和感を消去したうえで、同じ読み方ができるかどうか、これからじっくり確かめていきたいと思っている(のでちゃんと邦訳してください)。
 余談ですが、「オレは外国語ができる」なんて思い込んでる人はあんまり信用できないねえ。わたしは「外国語なんかわかるわけがない。わからないからこそ一所懸命読むんだ」と思ってます。わたしが語学堪能だってのは美しき誤解なので、そこんとこヨロシク。

「わたしがアルテにハマった最大の理由は、異様だからである」「このズレがわたしのアルテ評価のすべてといってよい」という断言を覚えておいてください。
フランス語と日本語の組み合わせでいえば、アルテの読み方としては基本的に次の四種類が考えられる。 
 1 フランス人(ないしフランス語の得意な人)がフランス語で読む
 2 フランス人(ないしフランス語の得意な人)が日本語で読む
 3 日本人(ないし日本語の得意な人)がフランス語で読む
 4 日本人(ないし日本語の得意な人)が日本語で読む
『読書日記』での読み方は3だ。しかし大部分の日本人読者は4だろう。読者数の順位としては、1→4→3と2が同じくらいということになるか。そして引用箇所からは、これらの間では見えてくる風景が違う、つまりなんらかの「視差」があるという主張が読み取れる。
これはどういうことなのだろうか。

『第四の扉』をフランス語で書くことは、非常に異端的な営為である。しかし、『第四の扉』はフランス語でしか書くことはできない。なぜなら、新本格ミステリとは非英語圏の産物だからだ。
 現代の英米ミステリ作家にも、ディクスン・カーが好きで、カーのようなミステリを書きたいと思っている人はいるだろう。だが、その場合は「現代ミステリの文脈でカーのテイストを出すにはどうしたらいいか」を考えるはずだ。1930・40年代のロンドンを舞台にして、ツイスト博士なる名探偵が怪奇趣味あふれる密室殺人の謎を解く小説を書こうとは、まず考えないに違いない。
 仮に書いたとしても、出版の見込みはゼロに近い。出版社に持ち込んでも、
「きみ、いまどきなんでこんな小説書くの? この手のミステリは50年前に死ぬほど書かれたじゃない」
 と言われるのが落ちである。
 仮に英米ミステリ作家が「1930・40年代のロンドンを舞台にして、ツイスト博士なる名探偵が怪奇趣味あふれる密室殺人の謎を解く小説」を書くとしたら、それはパロディあるいはパスティーシュという別のサブジャンルの作品となる。
 くだんの某氏の誤解の遠因もここにある。アルテは外国人作家だから、「怪奇趣味あふれる密室殺人」をマジで書くわけがない(そんな愚かなことをするのは野暮な日本人作家だけだ)。だから、これはなんらかの意図があってわざと使っているに違いない――おそらくはそう考えたのではないだろうか。
 英米ミステリ作家なら、確かにそうかもしれない。だが、アルテはフランス人である。この点を見落としては、アルテという作家の特異性が理解できないのだ。
 要するに、アルテもディクスン・カー翻訳で読んでいるということだ。翻訳は時代性をある程度消去する。まず、翻訳はすべて現代語訳である(100年前に書かれた小説だからといって100年前の言葉づかいで訳す翻訳家はまずいない)。さらに、翻訳は新刊書として流通する(現代日本ではバークリーもアリンガムもすべて新刊である)。すなわち、翻訳でカーを読む人間は、カーを半世紀以上前の作家としてではなく、より身近に感じることができる。
 その結果、「ディクスン・カーみたいな小説が書きたい」という欲望が生まれる。言いかえれば、「怪奇趣味あふれる密室殺人」をマジで書くことが可能になるのである。
 したがって、「新本格ミステリ15周年」の日本では、アルテは広汎な読者を獲得できるに違いない(<あくまで希望)。むしろ日本の読者こそアルテを正当に評価できるはずだ。逆に言えば、英米人読者にはアルテの価値がわからない。だから、おそらくアルテ作品が英訳されることはないだろう。
 アルテ作品は新本格ミステリの国、伝統のしがらみがない国、英米黄金期本格ミステリがあくまで輸入文化であった国の幸福な読者のためだけに書かれた特別料理なのである。(2002年5月18日)

ここでは、アルテが「他の作家に比べ際立ってすごい」とか「ここにミステリの未来がある」などと、誰が見ても傑出した存在として賞賛されているわけではない。眼目は、「怪奇趣味あふれる密室殺人」を「マジで書く」という「異様」さにある。それがやがて前述の、「カー作品、黄金期本格ミステリ、フランスミステリのどれともよく似ていながら、あるときは微妙に、あるときはあきれるほど大幅にずれてしまう。それこそがアルテの独創性なのである」という認識へと至る。
そうした種類の「異様」さは、アルテのテクストそのものに備わっているのだろうか。「わたしは頑固なまでの作者の話は聞かない主義者であるわけだが、その理由は作品の最も本質的な部分は作者もわかっていないと考えるからだ」(memo2008年10月前半)と主張する以上、『読書日記』の著者は、「最も本質的な部分」は、読者が感受するものと考えていたように思われる。
「フランス人がフランス語で読む」のとも、「日本人が日本語で読む」のとも違う、「異様」さ。とはいえ、そんなのはニッチ過ぎるのではないか。なるほど、今時懐かしい本格らしい本格が、しかもフランスから出てきたとなれば、珍しいし、日本の市場で一定の広がりも見込めるだろう。だが、日本語に訳されば先述のような差異など大多数の読者は意識しないであろうし、しょせん「よくできた作品」程度の評価に留まるのではないか。いったい、何をそんなに騒いでいるのか。
“フランス人がフランス語でイギリスを舞台に古い英米流の小説を書いている”という指摘を取り出してみよう。ここには「異国」の「過去」を舞台にした「本格ミステリ」である、という三つの要素がある。たとえば日本人作家が西洋を舞台にした小説を日本語で書けば、猿真似だとかイミテーションだとかコスプレだとか西洋崇拝主義だとか、そうした非難は今でも投げかけられうる。また歴史ものや時代ものの手法も絶え間なくアップデートされているし、古めかしいトリックだけを中心に据えた本格ミステリの新作というのは、もはや商品として成り立ちづらい。「今、ここ」とは別の時空を見るならば、あえてそうすることでこちら側へ切り返してくるような、そうした何かが必要ではないのか……と、誰もが感じるはずだ。すると上の認識はブーメランのようにわれわれにも跳ね返ってくる。そもそも本格ミステリとは英米で完成した小説ジャンルだった、その差異について極東の島国内でガラパゴス的にあーだこーだ議論している状況も「外」からすればじゅうぶんに、あるいはポール・アルテ並に「異様」ではないのか、云々。
つまり日本の新本格ミステリの「最も本質的な部分」にも、ある種の偽物性がある。もちろん、そんなことは新本格を通過した多くの読者もわかっている。しかし、その「異様」さまでは実感できない(おそらく、2002年時点においては)。自分はホンモノだと自覚する人間がニセモノを見ても、単に胡散臭いものにしか思えないだろう。しかし自分はニセモノだと自覚する人間が別のニセモノを見る、その時にだけ感受できる「何か」が、ここでは一貫して問題にされている。

ジャーロ〉9号のチェックリストをなんとなく読んだ。
 いやー、評判悪いっすねえ、『第四の扉』。ただ、わたしは、何をおもしろいと思うかが人によって違うのは当然だし、本をどう読もうがその人の自由だと考えているから、反発や反論をする気はまったくありません。
 クォータリーベスト3座談会で、佐神慧氏曰く、

これって結局、日本とかフランスとか、そういうところで特殊な遺伝子の操作でカーが好きな人が生まれてしまうと、こういうものが書かれちゃうのであって、イギリスでは絶対生まれない小説ですね。

 また、佐神氏はフレッド・ヴァルガス『死者を起こせ』(藤田真利子訳、創元推理文庫)の書評で、

アルテやオベールのような模造品とは一線を画す、フランス流本格の傑作。

 とも書いておられる。
 これらの意見はまったく正論で、卓見といってもよい。まさにおっしゃるとおりです。
『第四の扉』は「イギリスでは絶対生まれない小説」であり、「フランス流本格」「とは一線を画す」「模造品」である。ということは、本来、イギリスでもフランスでも書かれるはずのない小説なのだ。イギリスミステリから見れば「まがいもの」、フランスミステリから見れば「異端」。この点にこそアルテのオリジナリティが存在するのである。
 まあ、「そんなもん、そもそも書かれんでもえーわい」と言われたら、返す言葉もありません。ただ、いろんな小説があっていいんじゃないですかね。
 実を言うと、『第四の扉』は真面目な海外ミステリファンには悪評紛々だろうな、とは思っていた。
「古くさい」「まがいものである」「カーの域に達していない」
 ああ、ご説ごもっとも。まったくそのとおりです。でも、そこが(少なくともわたしにとっては)アルテの最大の魅力なのです。
 どうしてみんな本物ばかり尊ぶんだろう?
 本物の「古い」ミステリを読みたいのなら、英米黄金期ミステリを読めばいい。本物の「フランス」ミステリを読みたいのなら、いまはフレッド・ヴァルガスが最適だろう(けっこうおもしろい。ただ、ちょっと地味)。本物の「カー作品」を読みたいのなら、ディクスン・カーを読めばいい。
 この三つのどれとも似ていながら、あるときは微妙に、あるときはあきれるほど大幅にずれてしまう。それがポール・アルテだ。
 これはアルテが下手だからではない。通時的に読んでいくとわかるが、小説技術はどんどん向上している(それでも下手と言われるかもしれない、というのはまた別の話)。それでもなお、ずれてしまうのだ。繰り返すが、この点がアルテのオリジナリティなのである。偽物を書くことによって独自性を獲得しているのだ。
 追記。佐神慧氏はクォータリーベスト3座談会で、アルテとヴァルガスの違いをこう説明しておられる。

 フレンチの本格って、さっきのポール・アルテとか、最近話題のジャン=クリストフ・グランジェと か、彼らはイギリス、アメリカ文明に、フランス人的な変なツボの突き方をして、同じものを書いたつもりなのに、できあがったものはまったく違うものだった というところがあった。この作家〔ヴァルガス〕はそれとは、一味違います。彼女は一応ちゃんと自分のオリジナリティがある。

 この発言をわたし流に翻訳すると、「アルテは偽物だが、ヴァルガスは本物である」となる。ご指摘のとおりだと思いますよ。(2002年9月20日)


多くの日本人にとって、日本語とはふだん空気のように無意識に扱うものだろう。意識する機会といえば、就職して敬語に気をつけるとか、何かに入門して専門用語を学ぶとか、それくらいか。言語のそうした不透明性がもっとも露わになるのは、外国語を学ぶ際ではなかろうか。
地球上の全ての人間が同じ文化の中にいて、同じ言語を扱うなら、翻訳の問題などないに違いない。しかしそれは現に、不可避のものとしてそこにある。「本物」「偽物」という意識もその差異から生まれる。「本物」とはアイデンティティを脅かされずに一箇所に安住していられる存在のことだから、往々にしてその差異に鈍感である。しかし「偽物」の方は絶えず「本物」を意識せずにいられないから、不安定な状況にある。これはフランスやイギリスや日本のどちらかが「本物」もしくは「偽物」であるという話ではなく、誰であろうと母国(語)を離れ、領域の間に立てば、必然的に「ズレ」が生じる、その「ズレ」への感覚の問題だ。
この「reading」が書かれた時期も重要だろう。
私は1986年生まれで、『十角館の殺人』はその翌年の刊行だから、物心ついた時にはもう新本格ブームはあった。2000年代半ばに入った大学ミス研では新本格が最大の影響力を持ち、自分でそういう作品を書こうという人間も多かった。つまり、新本格母国語化していた。
他方、『読書日記』の作者は1964年生まれ。いわゆる「本格冬の時代」も経ているし、『十角館』には〈いまでは信じられないかもしれないけれど、「若者が本格ミステリを書いていいんだ!」という衝撃があった〉〈来るべき時代の胎動を感じた、と予言者を気取りたいところだが、それも感じず、この作者も一種の突然変異なのであろう、と思っていた〉(「初めて衝撃を受けた講談社ノベルス――『十角館の殺人綾辻行人著」「メフィスト」2012年4月)と述べている。新本格の中心となったのはほぼ同年代の1960年前後生まれの作家たちだったが、その十年後、『ハサミ男』でデビューする直前に「あと二、三年でミステリ・ブームも終わりか」(「ハサミ男の秘密の日記」「メフィスト」2013 Vol.3)と洩らしていることからは、「遅れて来た」書き手であるという自己認識が見える。
ポール・アルテあるいは新本格の「ズレ」は、こうした状況の中で取り上げられているのである。
すると、「reading」と「memo」とで批評文の書かれる場所が、小説ジャンルではなく言語で決然と区別されていた理由も見えてくる。これは『ハサミ男』もしくは「ユリイカ」(1999年12月号)インタビューでいう「火星人」というキーワードにもつながる。あるいは「作者の話は聞かない」こと、「田波正」と「殊能将之」を使い分けることなどとも。
地球にいながらにして「火星人」の目でこの地上を眺めるように、SF研出身の遅れてきたミステリ作家としてSFやミステリを読む。「reading」の記述に流れるのは、そうしたストレンジャー感覚から生まれたものではないか。

長くなるので、もう一回だけ続けます。

媒体に掲載された殊能将之情報【暫定版】

ご本人のインタビューやコラムについては「生活は質素で、作品は冗談好き」さんが詳しくまとめられていますが、私も以前、他の人物によるセンセー紹介情報を集めてみようかなと思ったことがありました。
以下、その時つくったリストが出てきたので、載せておきます(今年の『読書日記』の情報を後から加えました)。甚だ不完全なので、もっとまとめてからと思っていたのですが、そのうち気づいたら更新するということで。未確認のものもあり、情報は不正確である可能性もあることをご承知おきください。また、もし他に「こういうのもある」という方は、ぜひお教えください。

【雑誌】
週刊朝日 (不明)
ハサミ男』(池波志乃
◯鳩よ! 2000年3月号
ハサミ男』(笠井潔
ダ・ヴィンチ 2001年1月号
「隠し玉」コーナーで紹介
◯女性セブン 2001年1月11日号
「2000年度ミステリー」コーナーで紹介
小説すばる 2001年4月号
黒い仏』(大森望
◯SIGHT 2001年夏
黒い仏』(大森望北上次郎
◯週刊ディアス 2002年1月31日号
鏡の中は日曜日』(真中耕平)
◯鳩よ! 2002年4月号
鏡の中は日曜日』(笠井潔
中央公論 2002年8月号
『樒/榁』(若島正
◯りりばーす 第2号(2002年10月)
「行方不明になる真実――殊能将之黒い仏』論」(諸岡卓真)
ミステリーズ! 2004年10月
『キマイラの新しい城』(臼田惣介)
メフィスト 2013 vol.1(2013年4月)
追悼記事(大森望法月綸太郎
◯CRITICA 第9号(2014年8月)
「『ハサミ男』小論――ハサミ男と男と女」(佳多山大地
週刊新潮 2015年7月16日号
殊能将之読書日記』(大森望
週刊文春 2015年8月6日号
殊能将之読書日記』(柳下毅一郎

【新聞】
毎日新聞 2015年12月20日
殊能将之読書日記』(若島正)年間アンケートで紹介

【書籍】
探偵小説研究会本格ミステリこれがベストだ!〈2002〉』(創元推理文庫、2002年4月)
並木士郎「殊能将之のスタイル」
◯村上貴史編『名探偵ベスト101』(新書館、2003年12月)
石動戯作(古山裕樹)
巽昌章『論理の蜘蛛の巣の中で』(講談社、2006年10月)
ハサミ男』『黒い仏
◯諸岡卓真『現代本格ミステリの研究  「後期クイーン的問題」をめぐって』(北海道大学出版会 、2010年4月)
黒い仏
◯『本格ミステリ大賞全選評 2001〜2010』(光文社、2010年9月)
『美濃牛』『鏡の中は日曜日
◯限界研『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』(南雲堂、2013年7月)
飯城勇三エラリー・クイーンの騎士たち 横溝正史から新本格作家まで』(論創社、2013年9月)
◯安藤白悧『暁の女王と塵の勇者』(講談社ラノベ文庫、2015年10月)
殊能将之読書日記』
◯古田雄介『故人サイト』(社会評論社、2015年12月)
「mercy snow official homepage」

【ムック】

新聞記事では『ハサミ男』が東京のご当地小説として紹介されるものや、丸善丸の内本店の新書週間ランキングでベストテン内に入っているものなどあったはずですが、これもそのうち。
あとはどういうガイドブックにまとめられているかといった書籍・ムック情報でしょうか……。

梶龍雄ルネッサンスのために――『龍神池の小さな死体』

梶龍雄『龍神池の小さな死体』(講談社、1979)
乱歩賞受賞の『透明な季節』(1977)から数えると六冊目。いわゆるスリーピング・マーダーもの。時は大学紛争の季節。主人公の大学教授・仲城は、死に際の母から「戦時中に疎開先で溺死したお前の弟は実は殺された」と言い遺される。工学部での実験が一段落つくと主人公は真相を確かめるべく、23年前に溺死事件が起こった疎開先の村ほか、当時を知る人物をハードボイルド探偵よろしく訪ねる。やがて事件の詳細を誰もほとんど知らないといった不審な点に気づいてゆくが、ついに村の滞在先で何者かに襲われる。
ここまでで半分くらい。私が読んだ単行本は250ページほどだが二段組で、文庫本並に小さい活字だから長さは700〜800枚くらいあると思う。気になるのは、「あとがき(に代えた架空対談)」で著者がこう述べているところ。

梶 状況設定とか、人物設定とかがプロット作りの最初に出てきて、それからトリックを考えるアト型発想と、トリックが先に来て、状況や人物設定があとからできるサキ型発想との二つのタイプが、推理作家にはあるのではないかというのが、ぼくの考えです。
批 梶さんはアト型?
梶 完全にそうだというのではありませんが、その傾向が強いほうです。
批 しかしそれだと、トリックが弱くなるのでは?
梶 必ずしもそうではありません。初めに状況や人物設定がくるので、それがトリック成立上困難かどうかを考えません。だから問題提示がひどくトリッキーになったり、不可能興味が出てきたりすることがあります。
批 つまり先に生まれたトリックのために、問題提示に改変を加えたりする妥協がないというのですね?
梶 サスガ批評家! むずかしいいいまわしでもっともらしくいってくれました。アト型は状況や人物設定を優先させますから、やはりそのへんがしっかりしていて、しかもそこにうまくトリックが溶け込むと、推理小説にある好みを持っている人には、何か推理味が薄いように感じるのかも知れません。
批 梶さんの作品も、そういうトリック溶け込み型だと……?
梶 へへへ……。だったらいいと思いますけどね。

これは大雑把にいえば、書くにあたって物語が先かトリックが先か、あるいは古い例の推理「小説」か「推理」小説かというふうな議論にも重なるかもしれない。なるほど、これほどの錯綜した仕掛けを何もかも考えてから書き出す、というのは難しいというか不可能ではないかと感じられる。そして作者の言を素直に考えれば、推理よりも「小説」を優先(「アト型」)したのだろうかとも受け取れるだろう。ところが実際の作品を読んでみると、容疑者のアリバイの検めや情報提示の締め切り(終章直前までで推理に必要な材料は提示したという、実質的な「読者への挑戦」)他、しっかりと本格ミステリの手順を踏んでいるため、行き当たりばったりに書いたとも思われない(「サキ型」)。しかしさらに重要なのは、にも関わらず、最後に至って人物とトリックとが怒涛のごとく、不可分のものとして迫ってくることだ。これはなぜなのか。
よくいわれることだが、シリーズ探偵ものは、ビルドゥングス・ロマンと異なり、探偵が成長してゆくことは比較的少ない。探偵役が不動であることで、世界が変わってゆく。シリーズものでなく単発作品である『龍神池』では、主人公もだんだんに変化を被る。流動する世界の只中で自身も動いてゆく。他方、梶龍雄が伏線を張るその巧みさを誰もが指摘する。印象に残る小さなエピソードが、ラストに生々と甦る。なぜ読者は気づかなかったのだろう? それは、たいていの捜査シーンが物語の停滞(=不動)を招きがちなのに比べ、動いてゆく物語の中に伏線がそっと投げ込まれるからではないか。放流した稚魚がやがて回帰するように、人物を造形するエピソードが、策略の伏線として新たな意味を持って次々と帰ってくる。つまり設定づくりのいちいちをトリックに活かしているため、その一つをネタバレするだけでは全体像を説明しがたいほどに「小説」と「推理」とが緊密に結びついている。こうしたどちらが「サキ」とも見分けをつけさせない手腕の見事さは、カジタツ・マジックとでも呼びたくなるものだ。勿論『龍神池』にしても、二人で推理を重ねる部分が説明的でディベートじみているとか、探偵役の少女が情報を手に入れる都合の良さだとかはある。が、読み終えた大抵の者にとって、そうした瑕疵はこの作者のヴィジョンの前で影を薄くするのではないか。『透明な季節』の解説で氷川瓏は、先の『龍神池』あとがきの同じ箇所を引き、仕掛けの複雑さがリアリティを損なうという点で本書より『透明な季節』に軍配を上げているが、現在の推理小説読者なら、リアリティの感覚において違った受け止め方をすると思われる。
私も著者の小説はこれで初めて読んだが(その後いくつか読んだ)、推理小説としてのテクニックが古びているどころか今なお新鮮かつ先駆的なのは当然、若い時分から相当の研鑽を積まれたであろう風俗描写は、作中人物たちの生きた時代を語って魅力が尽きない。作家の全体像がこれまで掴み難かったのは、版元と形態がバラバラで、まとめて読むことができなかったためではないか。どこか文庫で傑作選ないしコレクションを編めば、それなりの読者から再評価を受けるのではないかと思う。作者のあとがきからは『龍神池』の時点で思うような評価が得られていないことを嘆く節が見られるが、要するに、早すぎたのだろう。今や時は満ちた。インターネット上でひっそりと語り継がれるに留まらない梶龍雄ルネッサンスは、おそらくこれからやってくる。

梶龍雄とは無関係ですが、伏線の考え方についてはこちらの記事もオモシロイです。
http://d.hatena.ne.jp/saito_naname/20150809/1439136155

 よく意味がわからない言葉の一つに、「呼んだだけ」というのがある。名前を口にして相手が振り向いたら、「呼んだだけ」と返して終わる、アレである。一度くらい見聞きした経験があるでしょう。
 あの一連のやりとりにいったいどういう意味があるのか。十年ほど考えてみたが、未だにわからない。その以前には肩を叩いたり呼びかけたりして反応した相手の頬に人差し指を突き刺すという、人間を人間とも思わぬ極悪非道としかいいようがない所業が流行ったような気もするが、最近はすっかり見なくなった。あれの後釜なのだろうか。
 先天的な真面目人間である私は無意味だとしか思えない行為にはこれまで毫も縁がなく、したがってその意図はまったく追跡不能だが、それが人間(じんかん)に跳梁跋扈してやなまい理由を想像力の限りを尽くし、いくつか考えてみた。
1 何か用件があったが度忘れした。
2 何か言おうとしたがやっぱり止めた。
3 特に用件はなかったが暇で構って欲しいため相手の気持ちを考えずからかうことで自分のちっぽけな快楽を優先した。
4 何者かに言わされた。言葉が不意に降りてきた。
5 本当は何者かに吹き矢で狙われていた相手を助けてあげた。
6 呼びかけた後で相手が我が友李徴であることに気づいた。
7 呼びかけた後で相手が既に死者であることに気づき、彷徨える魂をそっとしておきたくなった。
8 本当は、自分は貴方の家族なんだ――ずっと押し殺していた感情が爆発しそうになったが、今日も寸前で告白できなかった。そうして日常は続いていく。
9 えっ、そんな呼んだりしたっけ? ウッ、頭が……。
10 別に何をどう言おうが自分の勝手である。言いたいことも言えないこんな世の中じゃ、p(以下省略することにする)。
 過日、脳内アンケートを取ってみたところ、大多数の人間が1か2か9だと答えた。取った後で気づいたが、5と6と7と8と10は実質2に含まれると思われるから当然かもしれない。
 余談だが、ミハイール・バフチンはあるところで、「良い天気ですね」「良い天気ですね」という会話には革命的な可能性が秘められていると述べているそうだ。