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襤褸は着ててもロックンロール

柾木政宗『ネタバレ厳禁症候群 ~So signs can’t be missed!~』

 柾木政宗『ネタバレ厳禁症候群』(講談社タイガ、2019)は「ユウ&アイ」シリーズの第二作。前作『NO推理、NO探偵?』と同じく、メタフィクションを志向している。
 この『ネタバレ厳禁症候群』には、日本のミステリ史上でも珍しいと思われるある特異な記述が見られる。それがどう「特異」であるのかを以下、趣向に少々ふみこんだ【1】と、核心部分に言及した【2】に切り分けた上で書く。(なので、未読の方はご注意ください)

 

【1】
 このシリーズはいわば、メタフィクション×◯◯(コンセプト)の掛け合わせに主眼がある。前作では
  メタフィクション×NO推理×サブジャンル
 という三つを盛り込んだ趣向で、それについて以前私は、このうち「メタフィクション」が他の二つを邪魔しているのではないか、「NO推理×サブジャンル」でもじゅうぶん一作を成し得る(というか、その方が面白い)のではないか、と書いた。本作では
  メタフィクション×叙述トリック×特殊設定トリック
 という趣向で(「叙述トリック」への言及は序盤の第二章から出ずっぱりになるので、ここで書いても大丈夫だろう。「特殊設定」については後述)、「メタフィクション」という技法それ自体がトリックの中心に組み込まれた書かれ方になっている。以下は初めて「叙述トリック」について自覚的に言及するシーンの会話。

 アイちゃんはきょろきょろ辺りを見やった。
「仕込まれてるぞ? おなじみのアレが。そう、これはミステリでおなじみの叙──」
「ダメだぁああああ!」
 咄嗟に私はアイちゃんに突撃し、その勢いでビンタをかました。「ぐへっ」ってだらしない声を漏らしながら、アイちゃんの首がグリンと横を向く。
「いってー! 何すんのよ!」
「それは言っちゃダメなやつ! 自ら明け透けにするとか愚かかテメー!」
「だってこんなのバレバレじゃん! 黙ってられないわよ!」
「まだ始まったばかりなのにネタバレとかバカすぎるよ! 説明しちゃった時点ですでにやらかしてるのに!」
「だったらもっとちゃんと隠せよ!」
「そんなのこっちに言わないでよ!」
「それはそうなんだけど! マジこれ、どこのどいつが悪いーんだ?」
 アイちゃんもわかってはいるようだな。私にしているのはやつあたりだって。
 そうなのだ。もちろん私も薄々は感付いていた。
 でも言及するなんてミステリの登場人物にあるまじき失態だ。しかも別に私が仕組んだわけじゃないし! ま、私にやつあたりしてアイちゃんの気が済むならいいけど。

 以下、こうした会話が作中に頻出するのだが、どうもフシギな感じがしないだろうか。
 実はこの小説にはもう一人、語り手がいる。それはアイの兄で刑事のレイジ。ユウとレイジのパートが交代交代で進むのだが、プロローグでレイジは刑事としての自身の矜持を次のように語る。

 救ってやるだなんて、たいそうなことは決してできない。
 だが掬ってやるくらいなら、こんな俺でも少しはできるだろう。
 救ってやる。掬ってやる。
 …………。
 おっ、同音異義語だ。俺の独白が文字で表現されているからこそ、できた芸当だ。
 ──うぉい、ちょっと待った! そんなことするなよ俺!
 調子に乗って、妹のアイとその友達のユウちゃんみたいなことをやってしまった。
 アイとユウちゃんは、すぐメタいことを言う。
 今第○章だからとか、残りページがどうとか、平気でそういうことを言いまくるのだ。
 ふたりとも楽しそうだし、それはそれでかまわない。だが俺は、少しスタンスがちがう。
 いつも思うのだ。あのふたりがよく言う『私たちは小説の登場人物だから』って言い方、ちょっとダイレクトすぎやしないか?
『小説の登場人物だから』
 それ、こう言い換えた方がかっこいいぞ。
 ――俺たちは誰もが、物語の中を生きている。

 この二つの箇所をめぐって以下、少々迂回をする。
 探偵小説における「語り」の歴史には、「伝記」という形式の強い影響が存在する(あるいは、してきた)。かいつまんでいえば、「作品」とは「名探偵」の活躍(事件解決)を後から記録したもの、ということで、「~事件簿」というような言い方にその痕跡が見られる。つまり、伝記作者(助手と語り手を兼務している場合も多い)が、「名探偵」という「英雄」を記録=伝記化するに値すると見なして、事後にその活躍をまとめたものこそが、いま読者の目の前に提供された「作品」である――という体裁を、少なくない探偵小説が初期からとってきた。ホームズとワトソンの関係でいえば、ホームズは自身の活躍をワトソンが記録にまとめていることを作中で知っている。
 もちろんほとんどの場合、読者のいる「現実」には彼らのような「名探偵」など存在しない。しかし、「彼らのような人間が本当にいる(いた)、それを同時代ないし後世に語り継ぎたいのだ」という意志=体裁こそが、「虚構」と「現実」の間をつなぐ蝶番の役割をずいぶん長く果たしてきた。
「伝記」という形式の特徴は、その事後性にある。つまり、書かれたことのすべては、「後から書かれたもの」ということになっている。
 次に「メタフィクション」に話を進める。
メタフィクション」には大きくいって、二つの方向性がある。それは、(1)作中に虚構作品(作中作)を出す方式と、(2)作中から作品の外へと視線を向ける方式、つまり、内か外か、という方向だとしてみよう。この小説は後者にあたるが、しかし、先の「伝記」形式と後者を接続しようとする場合、作者にはある「段差」、乗り越えるべきハードルがある。すなわち、「作中から作品の外へと視線を向ける方式」の場合、作品がいま創られつつある課程にある、という「実況中継」式の体裁をとりがちだ。「伝記」(=事後)と、(2)の方式の「メタフィクション」(=実況中継)は、物語生成の時間がそのままでは繋がらないのだ。
 むろん、「事後」にしろ「実況中継」にしろ、全部ウソだ。しかし「ウソ」にどうにかしてリアリティをもたせることこそが、「作者」の仕事にほかならない。
 この点、『ネタバレ厳禁症候群』は、「事後」か「実況中継」か、という次元で齟齬が見られる。ユウとレイジの意識は「実況中継」のはずだ。伝記から探偵小説へ、という現実と虚構の関係の歴史を完全に捨て去った上で、自分たちは100%「虚構」の登場人物である、という側に軸足を置くスタンス。しかし、「伝記」の伝統はそう簡単に彼らを手離してはくれない。私が気づいた箇所では、たとえば次の二つに「伝記=事後」の痕跡が見られる。
 一つは登場人物紹介の場面。

「お母さん! 大丈夫なのか?」
 陽介さんが心配そうに呼びかけた。後で聞いたけど、この人が前当主の清助さんの妻、晴美さんだそうだ。

 もう一つは捜査シーン。

 のちのち事件解決後に思い返すと、結局この倉庫に手がかりはなかった。

 二つとも助手兼語り手=ユウの語りだが、どちらをとっても、その語りが「実況中継」ではなく「事後」であることは明白だ。特に「事件解決後に思い返すと」という一節は、あの伝統的なジョン・H・ワトソン式の「伝記=事件簿」を彷彿させる。
 しかしそうすると矛盾が出てくる。
 この小説のメインコンセプトは「叙述トリック」だ。「叙述トリック」とはある重要な事実を言い落すことでなんらかの錯覚を読者に引き起こすという技法だが、この「言い落し」がなぜ起こるのか、その理由に自然なリアリティを与えることに作家たちは腐心してきた。
 ところがこの「言い落し」を理由で支えるという根拠付けも、「叙述トリックってこんなもんだよね」という感じで簡単にスルーされてしまう。すると、「自身の不自然な記述=語りに気づいていながら、なぜかそれを名言することは禁止されている語り手」という、奇妙な語り手が誕生する。私が冒頭で「特異な記述」と紹介したのはこの事態を指す。この時、語り手ユウにとって自身の「語り」はいったい、どのようなものなのだろうか。
「実況中継式メタフィクション」にせよ、「言い落しの理由なき叙述トリック」にせよ、それらが両方とも可能なのは、虚構に現実を接続させようという手続きを完全に(あえて)欠落させているからだ。つまり「ミステリってこんなもんだよね」というイメージだけを相手どっているからこそ、地(ジャンルの歴史性および読者のいる現実)に足をつけない作品空間が可能になる。したがって語り手たちにとって、そこで起こる「事件」とは「なぜかわからないが“そういうもの”として起こるもの」であり、それが終わるまでは「役割」を演じていなければならない。『私たちは小説の登場人物だから』とはいくらでも発言できるが、「言っちゃダメ」な禁止事項はなぜか存在する。そしてそこでの「語り」における「叙述トリック」とは、自然なリアリティ(なんらかの理由で「信頼できない語り手」になってしまっている、という根拠付け)を持たず、「語り」の自由を「作者」に制御されているがゆえに可能であるもの、なのだろう。「やりたい放題ミステリ」とはおそらく、語の意味に反して、「自由」ではなく禁止(厳禁)を課した上でのこうした演劇性のことをいうのだ。

 

【2】
 小説の冒頭、作者からの「挑戦状」がある。しかしその「真相」は誰も見抜けないはずだ(私も挑戦しようとしたが、無理だった)。
 この小説の基本アイディアは二つある。
1.「ユウ」と「レイジ」という二つの視点パートそれぞれに誤認の「叙述トリック」(らしきもの)を設ける。
2.「叙述トリック」(らしきもの)が仕掛けられた人物が近づいた時、「叙述トリック」の「相殺」が起こり、任意の人物の「属性」に影響する。それを作中の記述から犯人当ての前提条件として推理する。つまり、「叙述トリック」が「特殊設定」を引き起こす。
 2は通常の物理法則を超えているため、「こんなのわかるか!」と読者が「激怒」するとすればそこだろう。実際、こうした「特殊設定」トリックを犯人当ての前提条件とするなら、読者にもそのトレースが可能になるよう、捜査シーンのディスカッションにおいてもう二、三の段階的なプロセスを踏むべきではなかっただろうか(現状は「特殊設定」のルール説明=可視化に飛躍がありすぎる。このハードルをクリアしていれば、おそらく読者の「絶賛」は10倍くらい増えていたのではないか)。
 1にも瑕疵がある。私は当初、「特定の人物にバレバレの誤認トリックを仕掛けることで、別の人物の誤認を紛らわせているのではないか?」というリアリズムの線で考えていた。しかし実際は2だった。ここにおいてフシギなのは、語り手も読者も、誰もトリックに引っかかっていない――「誤認」などしていない、ということだ。しかし、それが作中現実における登場人物の「属性」に物理的な変化をもたらす……。

 

 えーと、「叙述トリック」ってそういうものじゃないですよね(笑)!

 

叙述トリック」とは、ふつう、読者の脳内イメージになんらかの錯誤を引き起こすものだ。しかしここではなんの錯誤も起きていない。にもかかわらず、それが作中現実の物理法則をゆるがしてしまう。これは読者理論の点からいっても、そうとうに無理があると思う。1の段階でなんらかの真の「叙述トリック」を仕掛けておけば、2への接続もよりスムーズで、読者に対しても説得的だったのではないか(叙述トリックは読者の先入観を利用することで読者を「共犯者」に引き摺り込みうるポテンシャルを持っているのに、「バレバレ」がそれを「無効化」してしまう)。つまり、現状は「叙述トリック」とはいえず、「叙述トリックらしきもの」が引き起こしたとされる「特殊設定トリック」というべきで、そこに「メタフィクション」のロジックの観点からして無理があると感じられるのではないのか。


 作中何度か、このシリーズは存続するのか、というようなことが書かれている。私はもしこのシリーズが存続&発展するとしたら、「作者」と「読者」と「登場人物」の関係をきちっと考えぬくところにこそ鍵があると思う。
 この三者を「経営者」と「労働者」と「顧客」にたとえてみよう。
 本格ミステリの顧客ニーズ(ないしメリット)は、
 1.自分も推理に参加できる
 2.なおかつ、その推理を超えた「驚き」がある
 だとおもう。
 また「労働者」に対しては、現状、「別に私が仕組んだわけじゃないし!」と、「責任(作者の都合)」を「経営者」が「そういうもの」として無理に押し付けている部分がある。思うに、「メタフィクション」が読者に許容されるには、「われわれは推理小説の中にいる人物であり、そうでないふりをして読者たちをバカにするわけにはいかない」という登場人物たちの「真摯さ」を賭け金としていた(たとえそれが方便であったとしても)。この「登場人物として読者をバカにするわけにはいかない」という「真摯さ」の賭け金を抜きにしては、「(登場人物と作者の)やりたい放題」とはいえず、「(作者の都合を)やりたい放題」でしかないのではないか。登場人物と作者が疑いもなく「真摯」であり、しかし、にもかかわらず騙されてしまうということ。それこそ、ワガママな読者が本当に望むことなのだから(最後に付け加えれば、こうした「特殊設定」……それこそ20年以上も前から西澤保彦もパイオニアの一人としてその領域を切り拓いてきた……自体には、私はまだ可能性を感じる)。

 こうしたハードルをスルーしてしまえば、「顧客保護や労基法など守れば会社は成り立たない」と言いのけるブラック企業の経営者のようになってしまう。そうではなく、「作者」が「登場人物」とともにそうしたハードルを一つずつ乗り越えてゆくことにこそ、彼らの活躍を追わんとする「読者」の期待はあるように思うのだけれども。

 

ネタバレ厳禁症候群 ~So signs can’t be missed!~ (講談社タイガ)
 

 

名古屋SFシンポジウム2019

 名古屋SFシンポジウム2019が9月28日(土)、椙山女学園大学で開催されます。

www.ne.jp

 その第3パネル「SFが生んだミステリ作家・殊能将之」に登壇者の一人としてお招きいただきました。登壇されるのは翻訳者の中村融さん、司会として渡辺英樹さんです。
 基本的には、『ハサミ男』から今年で20周年なので、いろいろ読み直そう、というのが主旨のようです。
今年はその前に幻想文学パネル、アメコミパネルもあり、非常に興味ふかい話が伺えそうです。

 ご都合の良い方はぜひお越しください。

メフィスト評論賞について。

 フトした事情から違う名前(「古川欧州」名義)で応募したんですが、このたび「蘇部健一は何を隠しているのか?」でメフィスト評論賞円堂賞をいただきました。

http://kodansha-novels.jp/mephisto/criticism/

 法月綸太郎さんと円堂都司昭さんの選考対談は「メフィスト」2019vol.2で読めます。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000324032

 本賞は琳@quantumspinさん。詳しくは存じ上げないのですが、以前、膨大なtogetter推協賞コンクール当選作を読んで、(ああ、この方には敵わない)と思ったことがありました。で、今回も、(法月さんが選考されるなら当然応募されるだろうし、そしたら当然受賞されるだろう、となると私に勝ち目はない)と思い、そしてその通りになったのでした。百枚の力作とのことで、大変楽しみです。

 法月賞は坂嶋竜さん。この方の文章は私は「論理の心臓」時代からすると15年以上読んでいると思いますが(昔「ケムリズム」という舞城王太郎ファンサイトを見ていたらリンク集に殊能センセーのサイトとこの方のサイトが並んでいたのでした)、それから紆余曲折を経ながらもメフィスト賞にこだわられ続け、今回めでたく受賞。ルビに注目した論とのことで、こちらも楽しみです。

 私は蘇部健一作品を全部読む(未収録短編除く)という内容です。なぜ書いたのかといえば、それは蘇部さんへのエールと、個人的に『木乃伊男2』が読みたいから、に他なりません。

 当時は『立ち読み会会報誌』第二号(250枚)が改元&GWの前倒し進行でスケジュールがほぼ重なっていて、リミット100枚のところ締め切り五分前に65枚の尻すぼみ状態で慌てて出したので(だから選考順は一番最後)、こりゃー候補には残らんだろー、と諦めてました……が、蓋を開けて見れば、応募数10編(!)のうち三人が受賞というものすごい打率(あの人もこの人も「応募しようかな」とか呟いていたからビビっていたのに! 全然名前ないやんけ!)。次回があったらみんな応募しよう。

 ともあれ評価いただけたのはうれしく受け止めています。12月発売の「メフィスト」2019vol.3に三作同時掲載されるそうです。よろしければよろしくお願いします。

 *

 受賞記念として、既刊同人誌『立ち読み会会報誌(特集・殊能将之)』の第一号、第二号のキャンペーン・セールを9月末まで行ないます(こういうの、一度やってみたかったんです)。こちらもよろしければご覧ください。

https://anatataki.booth.pm/

『立ち読み会会報誌』第一号・改訂再版の電子版をリリースしました。

お知らせばかりアレではありますが……。

『立ち読み会会報誌』第一号・改訂再版の電子版を磯達雄様よりご許諾いただいたため、PDF版をリリースしました。

https://anatataki.booth.pm/items/1393832

電子化にあたり、引用体裁の第二号との統一や、図版のカラー化等、紙版から微調整を行ないました。

またそれに伴い、というか、これを見ている最中に

(そういえば、PDFだったらカラー画像でもいいんじゃん!)

ということに気づき、第二号の方も図版をカラー化しました(すでに電子版をお求めいただいた方は、再度ダウンロードしていただけます)。

紙版の方は、ごく少部数でも重版して手元にもっておきたいので、電子版の売上をプールして将来的に紙版を重版したいと思っています。

「電子版はおそろしく需要少ないよ!」

と聞いていた通り、ぼちぼちという感じではございますが……引き続きよろしくお願いいたします。

澤村伊智『恐怖小説キリカ』講談社文庫版に寄せたレビューが公開されました。

澤村伊智氏の『恐怖小説キリカ』の講談社文庫版に寄せた(というか、「鮎井郁介」を騙って投稿した)レビューが公開されました。詳細は下記を御覧ください。

http://kodanshabunko.com/kirika/

これは小説の内容と連動した企画なので、実際に読んでみないと未読の人にはいったい何が起こっているのかよくわからないとは思うんですが……。私自身の投稿については、(ちょっと趣旨とはズレるよなあ)とか(こんなに安易に他人のキャラクターを使っていいのか!)などとは思いながら、せっかくの機会なので、つい送ってみたという次第です。

ところで「担当編集者T」という方が

故・鮎井氏の言うキリカの元ネタ(?)を書いた作家ってまさかあの? 鮎井さん、殊能さんに聞きたくてもああ叶わない……澤村さんは判りますか、きっとあの人ですよね……僕も呪われそうだ。

と書かれていて、何を想定されているのかよくわからないのですが(『ミザリー』かしらん?)、私が「元ネタ」と想定したのは、『ハサミ男』と「ハサミ男の秘密の日記」です(「秘密の日記」の方は実際に巻末の参考文献リストにも載っている)。まあ私の書き方もわかりづらかったとは思うのですが、『ハサミ男』と「ハサミ男の秘密の日記」を読まれた方は、ぜひ、『恐怖小説キリカ』を読んでみてください。この小説はほとんど「邪悪なカヴァーヴァージョン」です。

良質のカヴァーヴァージョンを聴いていると私は時に自然と涙が出てくることがある。その時それは単に「下敷き」とか「模倣」とかいうことを超えて、ある生き物がまったく別の生を自由に生きているという感じを私に与えてくる。(ああ、あのあれが、まさか、こんなふうに! 蘇るなんて!)という感じ……これ以上のことはいえないが、私はこの感動を誰かと共有したいと思い、その文章を送りつけた。

『立ち読み会会報誌』第二号電子版と訂正箇所

『立ち読み会会報誌』第二号(特集・殊能将之 その二)の電子版をリリースしたので、新たな記事として書いておきます。

https://anatataki.booth.pm/items/1384738

 *

以下、電子版作成にあたり紙版の記述を修正した部分の訂正一覧です(細かな誤字脱字などは除く)。

52頁下段1行目 北村透谷「我牢獄」:断想的随筆→断想的小説

60頁下段11行目 トマス・ド・クインシー『深き淵よりの嘆息』:「原著一八四五年」がヌケ

93頁下段2行目 Michael Moorcock The Final Programme:the,¥m→them

96頁下段7行目 サミュエル・R・ディレイニーアインシュタイン交点』:作者の日記をはじめジョイスやをはじめ引用がたくさん出てくる。→作者の日記をはじめジョイスなどの引用がたくさん出てくる。

108頁上段 『岐阜県の地名』:未確認→事典風の分厚い本で、「洞戸村」の項をめくると四頁ほど詳しい記述が書いてある。

同 長倉三朗、早船ちよ『美濃・飛驒の伝説』:未確認→各地域の伝承をまとめたシリーズの一冊。冒頭に長良川流域の項があり、そこに藤原高光の伝説が紹介されている。後半は昔ばなしふうの口調で伝承を多数採録したコーナーで、高光伝説は「矢納めの滝」として高光に寄り添った三人称で書かれてある。この伝承によれば、高光は二度、化物退治をしたことになっており、七〇〇年代と九〇〇年代といった時間差は曖昧化されている。

114頁下段9行目 土屋隆夫推理小説作法』:「参照箇所わからず」ヌケ

163頁上段 頁の都合で割愛していた「トランプによるあらすじ」を追加。

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165頁下段14行目 私はこのあたりで筆を置くことにした。→私はこのあたりで手を止めることにした。(実際にはキーボードで書いているので……)

 *

もしその他、何か気づかれた方がいらっしゃいましたら、ぜひお教えください。

『立ち読み会会報誌』第二号のBOOTH通販情報

ご要望をいただいたので、予定より早めに本日、開始しました。

https://booth.pm/ja/items/1382001

よろしくお願いします。

 [追記]

ありがたいことに、BOOTHの方も即日完売してしまいました(今までは月一冊とかだったんですが……やっぱりタイミングということでしょうか)。

増刷は今のところ予定しておりませんので、ひとまず電子版をリリースすることにしました。

https://anatataki.booth.pm/items/1384738

紙版からは誤字脱字など、気づいたところを微調整しています(調整箇所については、紙版をお求めいただいた方にもわかるよう後日、こちらに掲載します)。

電子版は初めてなので、何か不備があるかもしれません。もし「ここは変だぞ」などとお気づきの方がいらっしゃいましたら、お知らせください。

どうか引き続き、よろしくお願いいたします。