【殊能将之『美濃牛』の展開について触れていますので、未読の方はご注意ください】
※
迷路の中/外へ
前回引用した、「平易な文章」を書く「頭がいい」作者の系譜は、一種の文学論といえるだろう。しかし他方で、「頭がいい」作者については後年、このようにも書かれる。前々回の最後に紹介したのと同じく、スタニスワフ・レム『ソラリス』について。
途方もなく頭のいい人は、あらゆる物事の本質を瞬時に理解し、究極的な姿がどうなるかをすぐに見いだすことができる。その究極的な姿を提示すると、物事は終わってしまう。SFは『天の声』でおしまい。ミステリは『枯草熱』でおしまい。ここから先はありません、というわけだ。
終わらせてしまったあと、小説は書けなくなる。するとレムは「もう書くことはないから書かない」と宣言して、小説家をやめてしまう。皮肉ややっかみではなく、心からの敬意をこめて「おみごとです」と言うほかない。(「memo」2006年7月)
「頭のいい人」は、究極的には、世界のランダムネスを見出してしまう。小説創作が何かの探求であれば、小説はそこで終わる。迷宮の奥の真理を得たあとには何も探求の余地がない、ということになるからだ。だとすると文学行為とは、「頭の悪い」人間が無駄なことをやっているだけなのか? しかし、……ここは『美濃牛』文庫版解説の池波志乃氏によるすばらしい一節を引用させていただこう。
多くの謎に、より多くの手がかりを添えて、「本格ミステリの迷宮とはこういうものなんだよ! 楽しいだろ? 小難しいことを殊更解かりにくく並べたって、迷宮からは出られるんだよ。どれだけ迷ったって、怖いものに出会ったって、出口を見つければいいんだから。出口は必ずあるんだから。
でもね、迷宮の外はそうはいかないよ。謎はもっと溢れていて、手がかりもあるけれど、それで出られるってわけじゃない。怖いものはずっとついてくる。そしてたぶん出口なんかないのだから」
殊能氏がぶつぶつ言うのが聞こえたのは、私の幻聴だろうか。
なんだか、殊能作品全体の要約にもなっている気もしてくる。迷宮を出たあと、何も探求の余地がない。それこそが究極の迷宮だ。このレベルでの視野においては、冒頭の虎と男の立場は等しい。彼が人であり、虎であるのは、“ランダムネス”による。つまり、前々回からの流れでいえば、“世界=ランダムネス”という迷宮の中においては、人/作者/メタレベルが、虎/作中人物/オブジェクトレベルに絶対的に優越しているわけではない。
レムについては同じく「memo」2006年7月に、次のような記述もある。
「あらゆる物事の本質を瞬時に理解し、究極的な姿がどうなるかをすぐに見いだす」とは 、たとえば「宇宙はまったくのランダムネスである」と認識することだ。これは正しい。レムはこの正しい認識に基づき、『枯草熱』を書いた。そしてミステリは「終わった」。なぜなら、すべてがランダムネスの産物であり、あらゆることが起こりうるのなら、そもそも「謎」が存在しないからである(不可能犯罪も意外な動機も悪魔のごとき巧緻な真犯人も存在しない)。
「終わった」あとは「ある程度コントロールすること」をちまちまやるしかない。途方もなく頭のいい人にとって、こういう作業はバカらしくつまらないことに見えるから、頭の悪い人が担当するしかないです。
少々誤解されやすい書き方だったような気がしてきたから追記するけど、「頭の悪い人」ってオレ自身のことだよ。家内制手工業だから、ちまちまやってるんすよ。
迷宮でも迷路でも檻でも、なんでもいいが、その出口を探る探求の本質は、この“ちまちま”という“時間”に潜んでいるような気もしてくる(この“再読”を始めてからでももう半年だ……)。たとえば横溝正史の“切断”によって、われわれは或る内部から外部=別の内部へと導き出された。そのさらに外部=さらに別の内部へと向かうにあたって、正史と全く同じ形式=剣は使えない。既に正史以後の時代に生きているにも関わらず、以前と同じ内部の中にいるかのようにふるまうことは、偽善的ですらありうるからだ。この形式=剣を新生させるにあたっては、さしあたり“論理”がヒントとなるはずだ。そして新たな剣によってテーセウスは、さらなる外へ――究極的には世界の“ランダムネス”へ――と向かうだろう。
理と情について
『ハサミ男』→『美濃牛』と続けて読むと、様々な点での対比に気づく。まずは窓音―天瀬の関係。これは『ハサミ男』での「わたし」―磯部の関係のように、男から眺めた女(の謎)という視線を持つ。そして窓音も「わたし」も強く美しい人物とされているが、その理由は全く反対だ。「わたし」は〈医師〉からこう告げられる。〈きみは強い。強すぎるくらいだ。なぜ少女たちを殺すのか考えたこともない。どうやって少女たちを殺すかしか考えない〉。「わたし」が「強い」のは、“この私”になんの執着もなく、否定してしまえるからだ。一方、窓音が「強い」のは反対に、“この私”の肯定に由来する。
窓音は赤いショートヘアをかき上げて、
「うちの高校、全寮制で、すごくきびしいんよ。茶髪禁止、ピアス禁止、化粧禁止、携帯電話禁止。ほら、あたし、赤毛でしょ? だから、茶髪は地毛という証明書が必要なの」
「で、いつも持ち歩いているわけ? すごいな」
「最初、生活指導の先生は、黒う髪染めてこい、と言うたんよ。髪染めるのは校則違反でしょう、と言い返したら、黒う染めるのはええんやって。なんで黒ならええの?」
窓音は天瀬の目を見てそう問いかけた。
天瀬は何も言えなかった。
「あたしはチョー真面目な高校生やから校則違反はできません、と言うたら、この証明書をくれたわけ。おかげで、学校のなか、ひとりだけ堂々と茶髪で歩けるんよ」
唇をきつく結んで、宙をにらみつけると、
「誰が黒く染めるか。あたし、この髪、気に入ってるんよ」
そう言って、窓音はほほえみかけてきた。
あなたはどう? この髪、好き?(第二章21節)
都市―田舎という関係に翻弄される『美濃牛』の登場人物の間にあって、窓音はほぼ唯一、“ここではないどこか”への憧れを持たない、つまり「今、ここ」の自分を肯定できる「強い」人間だ。
「わたし」が現実の認知を避ける動機は何か――その謎こそが最も巨大な闇として残った『ハサミ男』から一転、窓音にそうした闇はない。しかし、そうした健全なロジックで照らされたヒロインこそがむしろ、『美濃牛』の天瀬にとっては、より深い謎として映る。
いったいなぜだろう? 『ハサミ男』再読の第二回で私は、「明晰すぎることの悲しさ」と書いた。窓音という謎はおそらく、死という絶対不可解なものを、どう受け止めるかと関係がある。窓音は寡黙だが、周囲がこう語るシーンがある。「おまえは親父そっくりや。何聞いても、どんなことが起きても、平気なんや。おまえ、本当に赤い血が流れとるんか……」(第四章第2節)。しかし、窓音に情がないわけではない。〈(発見された死体が兄の羅堂哲史のものであると判明して)窓音は軽く唇を噛んだだけで、まったく表情を変えなかった。最近の若い子はこういうもんなんやろうか、と姫木はいぶかしんだ。/いや、あまりにも深い悲しみを感じると、人は泣くことも忘れてしまうのかもしれない。呆然として、悲しいという気持ちさせも起こらない。/だが、心は空白になっても、体は正直に反応する。/窓音の無表情な頬に、涙がひと筋流れ落ちた〉(第二章5節)。この、心中の悲しみとその表現とが比例しない少女については、『ハサミ男』で樽宮由紀子の葬儀のシーンにも登場した(第四章)。
また『黒い仏』以降の作品でユーモア色が強くなってゆく石動戯作の描かれ方を知っている読者からすれば意外にも感じられるほど、『ハサミ男』と『美濃牛』では、“死”という不可解なものをめぐる人々の昏い反応を描く箇所が、かなり突出して見られる。たとえば次のような箇所。
「思ったとおりだ。あんたは強いな」
和人は感心したような顔になって、
「自分が連続殺人の大本を持ち込んだと聞いても、顔色ひとつ変えない。あんたは強いよ。他人に何を言われても、何をされても動じない」
にやにや笑いながら、
「春泥(石動戯作)さん、あんた、誰が誰をどうやって殺したかってことはよくわかるみたいだが、どんな気持ちで殺したかは、わからないだろうな。そんなこと、どうでもいいと思ってるんだろ? 人殺しの気持ちなんて、わかりたくもないって面してるぜ。内心、馬鹿にしてるんだろ? こいつら、つまんねえことで死んだり殺したりしやがるな、と思ってるんじゃねえのか? あんたにはわからないだろうな。好きな男に見捨てられたと思い込んで首を吊る男の気持ちも、破産するのがいやで兄貴を殺す男の気持ちも、わかるわけがない。いい歳して、顔も知らねえ親父に会いに行きたくなる気持ちも、わからないだろうね」
和人の言葉に、石動が始めて狼狽した。両膝に置いた手の甲が、かすかに震えている。
「それは自覚してますよ」
石動はなんとか自分を抑えたらしく、硬い声で言った。(第四章14節)
ここには、何でも“理”で割りきってしまえる明晰な人物に対する、“情”の側からの痛烈な批判があるだろう。
もちろん、石動に“情”がないわけではない。たとえば『ハサミ男』と『美濃牛』では「わたし」―石動戯作―窓音は“理”の側におり、彼らにはしばしば、“情”の側から批判が向けられた――冷たすぎる、と。しかしラストで石動は天瀬に〈「人間にとって大事なことは、ふたつだけなんですよ(……)〈考えること〉と〈愛すること〉です。このふたつだけです。そのほかのことは、どうでもいい。ぼくはもっぱら、考えるほう専門だけど」〉とまでいう。つまり先の言葉でいえば〈考えること〉=理、〈愛すること〉=情に対応して把握できると思う。石動の台詞に、『鏡の中は日曜日』のラストにおける水城の言葉(「でも、人間はここだけじゃないよ……」)を思い出す人も多いのではないだろうか。
ところが、いや、そもそも、「人間にとって大事なことは、ふたつだけなんですよ。〈考えること〉と〈愛すること〉です。このふたつだけです」と、構造的に断言し、かつ「そのほかのことは、どうでもいい」と切り捨てられるそのこと自体が、典型的に“理”による明晰な世界理解といえるのではないか。鋤屋和人にしてみれば、そうした発言自体が、「頭のいい」、肯んじえない姿勢なのではないだろうか。
とはいえ殊能作品を読むと、むしろ“理”によって見出された“情”とでもいうべき部分を新鮮に感じる。『美濃牛』を初めて読んだ時(十代だった……)からだいぶ経ち、私もすっかり内容を忘れていた。しかし今回再読するうち、むしろ〈和人の言葉に、石動が始めて狼狽した。両膝に置いた手の甲が、かすかに震えている。/「それは自覚してますよ」〉というような箇所に、かつて気づかなかったような生々しさを覚えた。
“理”と“情”とが、「ふたつ」とも「大事」とされていることからも、両者が対立するものではなく(「IT'S DECONSTRUCTION」!)、複眼的に捉えられていることがわかる。それはたとえば、上記の“探求”とどのような関係にあるだろうか。(続く)