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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

続々・からだ、あったまりましたか――エリック・マコーマックの2長編

エリック・マコーマックの話題の続きです】

読書会から一か月以上が経ったのでいい加減さっさと更新し終えたかったのだが、『隠し部屋を査察して』(東京創元社2000)に思いの外時間がかかってしまった。しかし、素晴らしい短篇集だった。2長篇を差し置いてフェイバリットに挙げる人がいるのも納得する。全部で20編(うち二つはつながりを持っているので19編?)を収録していて、どれも5ページから30ページほどの短さだが、語りの構成や描写、イメージがとても凝縮されていて、一編毎に鮮烈な印象を受ける。
解説やウェブ上の感想では「猟奇的な内容も多いけれど、サイコ的だったり病的な印象はない」という意見が多い。私もそう思った。奇を衒おうとか、読み手を怖がらせようというよりは、書き手の内側から自然に湧き上がってきたイメージを定着させたという感じ。最近たまたまジェデダイア・ベリー『探偵術マニュアル』を読んで、「夢」について考えていたのだが、まさに「夢」のような印象を残す短篇集だった。
どういうことかというと、『隠し部屋を査察して』の諸篇ではたとえば人体改造や切断といったグロテスクな行為が描かれるが、それが作品世界の中である論理やリアリティを持っているように感じられるため、とりたてて奇異に思われない。さらに言えば、作中で描かれる奇妙な行為は、ほとんど全てが、主人公が誰かから聞いた又聞きか、回想として語られる。そしてそのような「物語」を登場人物たちは、割とすんなりと受け入れる。嫌悪したり、蔑んだり、狂人扱いしたりしない。つまりこれが現実であれば確実に拒絶されるだろう話を、受け入れる。
それが夢のような印象を残す。夢の中ではどんなに奇想天外なことが起ころうと、見ている人はそれを疑わない(はずだ)。自分の性別や年齢や人種や身体能力が変わろうが、現にそうである以上ある確かなリアリティで以って受け入れる。そして現実に目覚め、夢は常に回想されるものとして捉えられる。それは現実から隔たっている。隔たっているゆえに確かだ。夢の物語に作者はいない。何か強烈なイメージの痕跡だけが残る。
たとえば作品中の一編「祭り」では、ある町の祭りに出かけた男女のことが描かれる。語り手は男の方で、二人は祭りのために町長から招待を受けた。どういう祭りかまったく判然としないが、町中の人たちが出し物の見物のため、学校の体育館に集まる。それが三日続く。一日目は妊婦による舞台上での出産。二日目は大量の虫と鳥による捕食。
そして三日目。町長が会場の見物客にこう告げる。<親愛なる町民とこどもたちのみなさん、今夜は一連の祭りの最後の夜なので、これまでになく胸がわくわくするような出し物を用意しました。この出し物には多くの準備と多くの人々の協力が必要でした。ですから、関係者の方々に、わたしといっしょに大きな拍手をお願いします>。ここで語り手の男の出番となる。彼が今夜の出し物の主役なのだ。拳銃を持った彼を、覆面をした六人の人物が取り囲む。その各人の手にも拳銃がある。ルールはロシアン・ルーレットのようなものだ。六人は語り手に向けて一度だけ引き金を引いていくが、その内一人だけが、実弾を撃てるようになっている。しかしそれが誰なのか、知る者はいない。語り手も一発だけ、相手を撃てる(これは確実に実弾)。毎回、彼は「射ちたいですか?」と聞かれ、自分が撃つ場合は、相手には撃たせない。なぜなら、撃たれた相手は即死するからだ。つまり全部で六つのターンがあり、その間に語り手は五度の射撃を受け、一度は向こうを撃つ。その撃った相手が実弾を持っていた場合のみ、語り手は助かることが出来る。
どうやらこれは語り手の持つ芸らしい(だから町長から招待されたのだ)。しかし、この短篇で語られるのは、最後を除いてこの三日間のことのみだ。彼がこれまでに何をやってきたのか、なぜこれが「胸がわくわくするような出し物」なのか、そもそもこの祭りはいったいどういう祭りなのか、といったことは、一切説明されない。説明はされないが、何か異様な緊張感がみなぎって感じられる。それは夢のようだ(「ジョー船長」や「老人に安住の地はない」のように、夢が重要なモチーフとして現れる作品もある。それはどこかボルヘス的だ)。
このパターンは短篇集の作品全体にほぼ共通している。短篇一つにつき現実離れした一連のイメージがあり、それはある世界から一断片として切り取られてきた、といったふうなのだ。こういったやり方で長篇を書くのは難しい。一つのイメージだけで長篇を持たせることは出来ないし、中篇だって難しいだろう(『隠し部屋を査察して』の諸篇が短いのはそのためだと思う)。作品集の短篇はそれぞれ独立しており、それが長篇となると、イメージとイメージの間には何か、統合的な意味が立ち上がってしまう。それは不可解なイメージを「説明」する気配だ。
この短篇集を読んだ後で、『パラダイス・モーテル』のことを振り返ると、やはり初読時とは違った興味深さがある。何せ、『パラダイス・モーテル』の作中で描かれるエピソードとあからさまな共通性を持つ短篇もあるからだ。
原著刊行年としては、『隠し部屋を査察して』が1987年、『パラダイス・モーテル』が1989年となっている。短篇から長篇へ。その時、マコーマックにはどのような試行錯誤があったのだろう。『パラダイス〜』も枠物語のような趣きを持つ作品だが、私はこの二つを読むと、短篇集に収められたバラバラなイメージたちが、やがて長篇という一つの身体へと埋めこまれた、という印象を受ける。
   ※
本当は今回、『パラダイス・モーテル』についても書く予定だったのですが、長くなったので、この辺で。(この項続く)