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襤褸は着ててもロックンロール

続々々々・からだ、あったまりましたか――エリック・マコーマックの2長編

【※エリック・マコーマックの『パラダイス・モーテル』および『ミステリウム』の結末に触れていますので、未読の方はご注意ください】
『パラダイス・モーテル』の語り手エズラ・スティーブンソンの設定は、かなりエリック・マコーマック自身を思わせる。例によって具体的な地名は明記されていないが、自分のことについてほとんど語らないエズラが第一部でわずかに情報を明かす部分に、<(大学)卒業の二年後、わたしは何千人ものスコットランド人と同じように、新世界に旅立った。しばらく暮らしてから、こっちのほうが満足して生きられるような気がして、そのままとどまることにした。いまでは人生の半分をここですごしたことになる。わたしは旅を楽しみ、人々に出会う生活を送っている。ヘレンという恋人もできた>とあるから、この時点で40代半ばか50近いだろう。作品発表年は1989年だから、マコーマックとも近い(ちなみに文庫版の袖の著者紹介に「1940年、スコットランド生まれ」とあるが、解説には1938年生まれとある。どちらが正しいのだろうか)。また、「パラダイス・モーテル」について冒頭に、<地面にうずくまるような羽目板の建物は、浜辺のかなたの北大西洋に面して>いるとあり、また第六部で<荒々しい東海岸に建つ>とある。「東海岸」から「北大西洋」を眺めることができるとするとカナダかアメリカだが、マコーマックの経歴からしてこの「新世界」はやはりカナダではないか、と言ってもそう飛躍していないと思う。
さらに第二部でドクター・ヤーデリの施設を訪ねる際、<そのころ取り組んでいた伝記(この地域で何年も過ごした、いまは亡き有名な博愛主義者の生涯)の役に立つかもしれないと思って、わたしは数か月前に面会を申しこんだのである>とあり、「旅を楽しみ、人々に出会う生活を送」って伝記を書くとなると、エズラは実は作家(小説家か、でないにしても何らかの著述業)なのではないかとも推測できる。
   ※
さて、ここでようやく以前のエントリで紹介した『ミステリウム』の記述、つまり、

「きみはモーテル・パラディーゾ事件が見出しを飾ったときのことを憶えているか、ジェイムズ? 学校の先生たちはあの大失敗の裏と表について何時間も議論して過ごしたものだ――彼らはあの件について私に一連の講義をさせたがった。だれもがあれはエズラ・スティーブンソンという偽名の男の発明だということを知っていた」/もちろん、私はモーテル・パラディーゾ事件なんて聞いたこともなかったが、彼にその話をはじめさせたくなかった。だから私がうなずいただけだった。

に戻る。先のエントリで私は『パラダイス・モーテル』をまだ再読しておらず、「事件」や「あの大失敗」について、再読によって何かわかるかと期待したのだが、けっきょくわからなかった。元々、二つの長篇の作品世界が地続きというわけではないから、このほのめかしを根拠に『パラダイス・モーテル』について何かを即断できるとは思っていないが、私が勝手に考えたことをとりあえず書いてみたい。
ブレア行政官の台詞はよく意味がとれないが、「エズラ・スティーブンソン」という男がある事件の犯人であった、ということはわかる。そしてブレアが「講義」をするということは、いかにも「現代的」な、犯行が猟奇的だったり、動機が不明な事件だったりするのだろう。
つまり、理解困難な事件。『パラダイス・モーテル』で理解困難な「事件」というと私はまず、起源としての殺人事件、そう、ザカリー・マッケンジーが語ったあの、医者の妻殺しが思い浮かぶ。
あの事件は非常に謎が多い。なぜ医師は妻を殺したのか? なぜバラバラにしたうえ、四人の子供の体内に埋め込んだのか? なぜ彼は「妻が行方不明になった」と警察に自ら訴えたのか? そしていかにもバレやすい、中途半端な隠蔽工作を行ったのか? それらが作中で解き明かされることはない。
医者の行動は理解困難だ。私はこう思う。彼自身、自分の行動について、明確にはわかっていなかったのではないか。説明できなかったのではないか。警察が家に踏み込んだ時、彼は涙を流す。<医師である父親は、立ちつくして一部始終をみつめていましたが、声もなくすすり泣いていました。こどもたちが手術を受けたわけを巡査部長がたずねても、彼は答えようとしませんでした>。
この涙は、私は、たとえばラストのこのような箇所とも響き合っているように思える。<彼女(ヘレン)がけっして散歩からもどってこないことはわかっていた。だから、わたしにできることといえば、グラスにウイスキーを満たし、愛のはかなさにちょっぴり涙を流すことだけだった(これほど多くの苦しみを生みだした男が涙を流すとしての話だが)。>
エズラの恋人ヘレンは、散歩にでかけて、そのまま戻って来なかった。医者の妻も(医者が警察にした話によれば)そうだった。<前日、いつものように散歩に出かけて、もどってこないというのです>。
妻と夫。愛と涙。私の連想は続く。たとえば、エスター・マッケンジーについて語るパブロ・リノウスキーの次の言葉。<自分を愛するものの手が、同時に自分を殺すものの手でもあると知ることは、もしかすると慰めではないだろうか?>。この「慰め」という言葉は、実は『パラダイス・モーテル』全編を通じてのキーワードだ。
医者は自分の行動について、明確には説明できなかったのではないか、と私は書いた。それはたぶん、エズラについても同じように言えるだろう。『パラダイス・モーテル』の作品世界のなかで、実際に何が起こっているのかは不明だが、結末まで読むかぎり、作中で起こるすべての出来事の「犯人」は何らかの意味でエズラであり、また、すべての登場人物はエズラ自身である、とも言える。ダニエルはエズラであり、医者はエズラであり、またヘレンはエズラであり、四人の子供たちもエズラであり、……以下略。事実とフィクションが混在したこのような状況は、いかにも『ミステリウム』でブレア行政官が解説したような「ポストモダン」的な状況ではないだろうか。
『パラダイス・モーテル』での語り手の行動を無理やり合理的に解釈することはできる。つまり、全ては語り手の夢だったというものだ。おあつらえ向きに、プロローグとエピローグにおいて、語り手は椅子に座りながら、海へ向かって「うつらうつらとうたたね」している。彼は何か事件(たとえば妻殺し)を起こし、パラダイス・モーテルへと一人で避難してきた。そこで数日を過ごした(たとえばその最中にこの『パラダイス・モーテル』という手記を書き上げた)。彼は眠りながら夢を見る。彼が眺める「灰色の海とわずかに淡い灰色の空とが出会う、何マイルもかなたの水平線」は、夢と現実の、虚構と事実の境界線でもある。彼は自分の行動理由が説明できない。だからそれを裏付ける「物語」を必要とする。そして彼は打ち寄せる波に「ことば」を読み取ろうとしては失敗する。「なにが書かれていたとしても、そのことばは浜辺の白い泡と消えてしまう」。浜辺に消えた「白い泡」としての「ことば」。それは『パラダイス・モーテル』というこの物語自身のことでもある。やがて、「パラダイス・モーテル事件」として新聞の見出しを飾り、語り継がれる――。
   ※
と、このようなことを思い浮かべた。しかしそれで割りきっておしまい、という話ではないことは、読まれた方にはおわかりだと思う。
最後に、ザカリー・マッケンジー=アーチー・マクゴウについて触れたい。このエントリの最初の方で私は、エズラ・スティーブンソンは作家なのではないか、と書いた。マクゴウも作家だ。だからマクゴウについて書かれた第五部は、人と物語についての関係が描かれている部分でもある。
ザカリーの執筆した作品は明らかに『隠し部屋を査察して』収録の短篇を思わせるものだが、現実離れしたファンタジー的作風は時代(おそらく第二次大戦前)に適合していなかった。出版社社長のイザベルはザカリーにこう言う。「ザカリー、正直いって、これは小説ではありません。ゆるやかに結びつけられた短篇の集まりにすぎません」。それに対しザカリーはこう返す。「それが人生というものだ。小説のふりをしたひと握りの短篇というやつが」。
よく読むと、ザカリーの返答は答えになっていない。「これは小説(長篇)ではない」という主張に、「それが人生というものだ」では。しかし何か真実を言い当てている感じがする。ザカリーは作品を通して、単なる「小説」に留まらず、「人生」について語ろうとしていた。だからこれらの「物語」(私は一連のエントリで「物語」と「小説」を区別しているつもりだ)を必要とした。書かずにはいられないものだった。
民族主義者たちがアーチー・マクゴウの本を買い集め谷間で盛大に燃やす場面は、作品中で最も印象深いシーンの一つだ。言葉が、物語が燃やされ、作家の体を焼き尽くす。ここで私は、以前紹介した辻原登の「谷間」を連想する。「谷間」においても、川の流れるまさに谷間で、刈り取られた草=物語が燃やされる。「谷間」の事件の犯人は、「美しい言葉はありません」という言葉を遺す。真実を求めて物語が要請され、しかし人にとって「完璧な真実」が存在しないように、「完璧な物語」もまた存在しない。だから彼らは物語を語り続け、「浜辺に消える白い泡」のように言葉を失い続ける。そしてまたせめてもの「慰め」に、からだを温めるように、いくつもの物語が再び必要とされる。泡と炎。谷間を流れる水とゆらめく火。決して手につかまえることのできないもの。私はマコーマックの長篇小説を再読して、現れては消えてゆく「物語」の行方に、その楽しみを見出してしまった。
それは私の物語だろうか。(おしまい)