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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

発言紹介いくつか

殊能将之作品のひとり再読企画でいまいろいろと読んでいるんだけど、第二作『美濃牛』は実は一番ピンと来ない作品なので、どう読んだらいいんだろう、と迷っているところ。最も根本的な部分である「なぜ、いま(刊行は2000年)横溝正史なのか?」というところで逡巡しているんですね(同じような読者は多いと思う)。
これがポール・アルテだったら、そんなことは考えなくていいはず――もう数年は読み返していないので、断定はできないが――だ。ディクスン・カー愛が高じるあまり、自分でもカーのような作品を書きたいと思う。ゆえに、カーに近い土地や時代を舞台に、カーのような本格ミステリを書く。殊能氏も横溝好きを何度も公言していた。だから横溝のような長編を書こうとした? しかし『美濃牛』の場合、それだと割り切れないものが多く残る。なにしろアルテと違って舞台が現代だし、書かれている内容も横溝とかなり異なる。
かつて、アルテについて氏はこんなことを述べていた。

ポール・アルテ作品の日本初翻訳となった)『第四の扉』をフランス語で書くことは、非常に異端的な営為である。しかし、『第四の扉』はフランス語でしか書くことはできない。なぜなら、新本格ミステリとは非英語圏の産物だからだ。
現代の英米ミステリ作家にも、ディクスン・カーが好きで、カーのようなミステリを書きたいと思っている人はいるだろう。だが、その場合は「現代ミ ステリの文脈でカーのテイストを出すにはどうしたらいいか」を考えるはずだ。1930・40年代のロンドンを舞台にして、ツイスト博士なる名探偵が怪奇趣 味あふれる密室殺人の謎を解く小説を書こうとは、まず考えないに違いない。
仮に書いたとしても、出版の見込みはゼロに近い。出版社に持ち込んでも、
「きみ、いまどきなんでこんな小説書くの? この手のミステリは50年前に死ぬほど書かれたじゃない」
と言われるのが落ちである。
仮に英米ミステリ作家が「1930・40年代のロンドンを舞台にして、ツイスト博士なる名探偵が怪奇趣味あふれる密室殺人の謎を解く小説」を書くとしたら、それはパロディあるいはパスティーシュという別のサブジャンルの作品となる。(「reading」2002年5月18日

現代日本のミステリにとって、横溝正史とはどのような存在か。戦前から戦後にかけて多数の本格ミステリを著し、人気を博した。しかしその怪奇趣味あふれる「土俗」的な内容も古びたと思われかけたところへ、70年代〜80年代に角川映画・文庫によるリバイバル・ヒット。さらに、80年代後半からの新本格ムーヴメントによる本格ミステリ復権の中で、再度のリバイバル。結果、現在でも新刊文庫でほとんどの作品を読むことができ、昨年刊行された週刊文春による古今東西のミステリ・ランキングでも1位を得るなど、絶大な人気を誇る。
これだけ大きな存在だと、確かに「まんま横溝」はやりづらい。それは「パロディあるいはパスティーシュという別のサブジャンルの作品」にならざるをえない。だから、『美濃牛』も横溝的内容を持ちつつ、違う方向へずれていく。しかしどこへ?
そのあたりがなんとなく、腑に落ちない。私も小ネタは少し思いついているんだけど……。
 ※
そんなこと考えずに、気ままに読めばいいのでは?
自分でもそう思うし、実際に気ままに読んで『美濃牛』の読後感についてあまり考えることもなかった。しかし今は、どうもこの「ピンとこなさ」が気になる。それはたぶん、私があまり横溝正史を読んで来なかったからかもしれない。
作品と「読み」の関係については、こんな発言も過去にある。

作者がおちいりやすい錯覚は「読者はオレの小説を綿密に読んでくれる」というもの。作者はひーひー言いながら苦心惨憺して執筆し、プリントアウト、初校、再校と最低でも3回は細かく読み直さなければならないから、読者も同じくらい緻密に読んでくれるはずだと思いがち。
だが、読者とは、多かれ少なかれ、斜め読みするものである。自分が他人の小説を読むときのことを考えれば、すぐわかる。つねに執筆時と同様に集中して精読する人は、まずいないだろう。誰でもわが子のほうが可愛いからね。
ところが、「どうせ斜め読みされるんだから」と開き直って手を抜いたり、いいかげんなことを書くと、てきめんにバレる。なぜなら、読者は複数存在するか らだ。個々の読者はそれぞれ斜め読みするにしても、複数の読者に読まれると、結果として綿密に読まれることになり、ときには作者が気づかなかった点まで読 み込まれてしまう。これはこわい。作者はこういう読者を畏れなければならない。

それはあたかも、かの理想的不眠症を患う理想的読者に、そのおつむが沈むか泳ぐかのるかそるかするまでの永劫一夜、たっぷり百万兆回以上も鼻づら寄せて添い寝されることを宣告されているかのようである。(ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイク柳瀬尚紀訳、河出文庫

この「理想的不眠症を患う理想的読者」とは、マスとしての読者、複数形の読者たちのことだとわたしは考えている。実際、ジョイスの作品は、マスとしての読者によっておそろしく緻密に精読され、論文も研究書も山ほどあるではないか。
作者は複数形の読者たちを畏れなければならない。しかし、個々の読者について「この読みは深い」「これは読み間違い」などと選別しようとするのは、傲慢だし愚かしいと思う。
読みに優劣はない。優劣はあなたの読みを書いたときに発生する。評論なり書評なりwebの感想文なりを公表した瞬間、あなたは書き手の側に移り、書いたものがおもしろいかどうか、有益かどうかをあなたの読者に判断される。以下同様に、連鎖がつづく。

海外文学の世界は、翻訳家主導型である。翻訳家が評論家、批評家、書評者を兼務しているケースがあまりにも多いため、どうしても翻訳家主導型になる。その結果、真面目な海外文学読者ほど、海外文学読者の理想型は翻訳家だと考えがちである。
翻訳家はなによりもまず作品を理解することを第一目的とする。理解できなければ翻訳できないのだから、これは当然だ。また、翻訳家は「理想的不眠症を患 う理想的作者」を想定する。作者は全能であり、自らの作品のすべてを完璧にコントロールしているという前提に立たなければ、細かく読み解こうという気には なれない。
しかし、翻訳家ではないし、将来翻訳家になろうとも思ってもいない人間は、べつに理解する必要はない。どうも、特に海外文学読者のあいだでは、翻訳家で ないのにもかかわらず翻訳家めいた考え方をする人が多そうなのが不思議である。もっと好きなように読めばいいんじゃないですか。
こういう翻訳系の評論や批評に関して、もっとも疑問に思うことは「これだと絶対に作者には勝てない」ということだ。
わたしは翻訳系の殊能将之センセー論なら、どんなにすぐれた論客のものでも、必ず勝てる。なぜなら「オレはそんなことは意図していないし、書いた覚えもない。あんたの言うことは最初から最後まで作者の意図に反した謬論だ」と主張するだけでいいからである。どうして批評家の多くがこうした必敗の戦術をとるのか、理解に苦しむ。
「おまえら作者はたかが芸術家じゃねえか。オレたちが読み解いてやらなくちゃ、自分がなに書いてるかさえわかんねえくせして」
という批評家がもっと大勢あらわれれば、世の中おもしろくなると思うのだが、どうか。かつて柄谷行人はどこかで「批評家は頭よくなくちゃいけない。頭いい以外にどうやって作者に勝てるんだ」と語っていたが、これはそういう意味だろう。
わたしは翻訳系の人たちは、ひそかに「早く作者に死んでもらいたい」と思ってるんじゃないかと疑っている。死んじゃったら、野蛮な反論を受けることはないからね。「オレはこれだけ精読したんだから、これは作者の意図に忠実な読みだ」と主張できるわけ。(「memo」2004年8月前半

翻訳者の場合、訳文には「作者の意図」を反映させなければならない。しかし、(批評家を含む)読者の場合はそうではない。自由に読んでいい。作品の前では、作者も読者の一人でしかない。「作者の意図」など、無視して構わない。これはいわゆる「テクスト論」の考え方とも近い。
しかし、「綿密に読」もうとするとたいていの場合、作品の第一の読者はやはり作者となるだろう。ゆえに「深い読み」≒「作者の意図」ということで、「作者の意図」を探る試みは、多かれ少なかれ有効でありうる。ましてや、「頭いい作者」なら尚更だ。
読者の自由な読みを保つためか、氏が異様に思われるほど自作について語らず、また同時代の作者の作品に対する言葉を退けたことは、記憶にある方も多いと思う。覆面作家であることもその強い意志の現われだったかもしれない。が、「作者」像を全て排除したかといえば、そうでもない。たとえば、次のような発言。

ポール・アルテがどういう顔してるのか知りたくなったので、調べてみた。古そうな写真はこことここ。近影(2001年5月付)はこちら。(「reading」2001年9月18日

アルフレッド・ベスターの)『ゴーレム100』はもう出てるのかなあ。明日にでもリアル書店に行ってみるか。
この本はベスター信者であるわたしの青春の1冊なので、つまらないなどという意見はいっさい受けつけない。
ベスターがアル中のヨイヨイ状態になり、老人ホームで非業の死をとげたと知ったとき、わたしはベスターに会いに行く夢を見た。ベスターは髪もひげも白髪 になり、納屋のような殺風景な場所で椅子に坐っていた。確か、SF作家のポートレートを集めた本に載っていた姿そのままである。わたしは一所懸命『ゴーレ ム100』の話をしたが、なにしろ相手はしょせん写真なので、返事はもらえなかった。
その後、うっかりこの話をして、友人に心底あきれられたこともある。ああ恥ずかしい。これぞ青春といわずしてなんというのか!(「memo」2007年6月後半

なーんだ、バリバリ生身の「作者」に興味あるんじゃん、と思いつつ(実際、そういうゴシップ的なネタは作品や公式サイトの記述にもあふれていた)、でも「作者の意図」には興味はないんだろうな、という感じはする。ベスターのくだりなんて、非常に良い話なんじゃないでしょーか。
「読み」といえば、もうひとつ。

「素人さんが好き嫌いだけで判断するのは全然かまわないんですけど、批評となるとやはり客観的な基準が必要ですから」
とお考えになられる批評家の方がもしもおられたときのための引用。

冷静な姿勢で客観を装う中庸な批評は、単に退屈であるだけでなく、自ら意識しないうちに、その客観的イメージから齎される価値の権威付けによっ て、音楽産業の市場操作を援けるだけである。主観に傾くことを恐れずに、自らが信じる音楽(それが、特定の曲であろうと、演奏家であろうと、作曲家であろ うと、様式や音楽伝統であろうと、あるいは、美学的立場であろうと)の意義と素晴らしさを、情熱をもって伝えること。私が、評論に第一に期待するのは、い つもそれである。それによって、音楽についての、そして、箇々の音楽の価値と意義についての、真の議論が始まる。
――近藤譲「音楽批評の役割」
(『音を投げる』春秋社、p.210)

「memo」2008年4月後半

上の発言で言われようとしているのは、「まあ、人それぞれだよね」で終わるというようなことではない。むしろ逆で、「人それぞれ」というある種の諦念から、「真の議論が始まる」ということだろう。「議論」とは何かといえば、互いの「読み」に他ならない。斜めに読んでもいい。綿密に読んでもいい。しかしそれを言葉にした瞬間、「読み」のあいだに「優劣」は発生する。
ここで気づかされるのは、「好きなように読」み解くのが、どれだけ難しいかということ。「作者の意図」を忖度するのは、たいていの場合「作者の意図」の方が「深い」からだ。しかし、絶対的な「作者の意図」などない。と同時に、ある創作物に対して絶対唯一の「客観的な基準」などありえない。たとえば特定のジャンル文法による評価は「客観的な基準」でありうるものの、しかし基準一つの外部に広がる荒野は広い。優れた作品であればあるほど、「客観的な基準」は複数存在しうる。そして読み手がそのうちのいくつを受け入れ、あるいは受け入れないかは、究極的には「好き嫌い」に帰着する。ある基準がそのフレーム内部でどれだけ客観的かつ合理的だろうと、受け入れる/受け入れないのあいだには大きな隔たり、飛躍がある(たとえば、「本格ミステリとしては傑作」なんだけど、「そもそも本格ミステリ自体がイヤ」とかね。そういう人に「本格ミステリという“客観的な基準”を受け入れられないオマエはバカだ」と単純に蔑んでもまったく意味はない)。批評の根本には結局のところ、個人の「好き嫌い」という曖昧さがあり、しかしその究極的な無根拠性をふまえた上でどれだけ相手に対し説得的に尽くせるかが、「読み」の深さになるのだろう。
――というわけで合間つなぎにいくつか発言を紹介してみました。