立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

八月に読んだもの

にわかに忙しくなってきたので少しだけ。
倉阪鬼一郎『波上館の犯罪』(講談社ノベルス、2014)
発売から十日ぐらいして購入したものの、それまでに先行の読者から本作の仕掛けにはだいぶ賛否両論ある様子が伝わってきた(「お疲れさまです」派と「これまでの延長線上では」派)。以前、『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』について長い感想を書いた。今となっては自分の拙い部分が気にかかるものの、「暗号」への関心は未だ薄らいでいない。(以下、少しネタバレ気味になるけど)作者のことばにいう「究極」「ここから先」「危険領域」という限界=波打ち際とは、日本語小説による造本=「暗号」の限界でもあった。振り返ってみれば、これまでの一連のシリーズに登場する「館」は、「水」に関連するものが多くはなかったか。言葉のような水、あるいは水のような言葉の戯れ。人間が「言葉」によってできているのだとすれば、あの館たちにおいては、「言葉」が「水」を引き寄せているのであるはずだ。いや、それどころか、声、光、粒子。この世の全ては波かもしれない。つまり、言葉による「波」とは、文字通り「究極」を指している……などと幾らでも鍵を見出すことはできるはずだが、個人的にはなかなか、作中の「美」観にはうなずけない。……とはいえ、「日本(語)」という島国の「波打ち際」から引き返すとはつまり、このような主題を書きつけてしまった作者は、必ずやいつかまたあらたにここへ繰り返し引き戻ってくるということなのではないか。岸辺のない海へと向かって。
長江俊和『出版禁止』(新潮社、2014)
今月号の「波」に小説家・長江俊和インタビュー(聞き手は映像作家・長江俊和とありつまりセルフインタビュー)が見開きで載っていて、小説『出版禁止』の執筆事情について語られている。「心中」がテーマなんだけど、連城三紀彦『戻り川心中』についても触れられていて、驚く。執筆には三年かかったとか。読み終わって思ったのは、自分はやっぱり陰謀論系よりオカルト系のほうが好きなんだなあということで(TVシリーズ『放送禁止』でも一番ナゾが多い第一作が好きなので)、フェイク・ドキュメンタリーという手法は今やブームも去ったけれど、メタフィクションとかノンフィクションとか私小説とかエッセイとかの関連する領域とウソの混じり方(つまり虚実皮膜)については、今後も関心を持ち続けると思う。

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