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襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/「鏡の中は日曜日」(2)

殊能将之鏡の中は日曜日』の趣向に触れていますので、未読の方はご注意ください】

偶然の一致について
本書の惹句としてノベルス版と文庫版のカバー裏にはそれぞれこうある。
ノベルス版:隙なく完璧な本格ミステリ
文庫版:まさに完璧な本格ミステリ
そしてかつて作者公式サイトの作品紹介ページには「新本格15周年記念作品」とあり、また本格ミステリ大賞の最終候補作にもなった。つまりこの本は「本格ミステリ」ということになっている。
しかし、本当にそうだろうか? ということが、刊行直後から読者のあいだでは話題になっていた。作中作の『梵貝荘事件』について石動戯作は第二章【現在・10】でこういうふうに考える。

まあトリックはややありきたりだったけど、奇抜な動機の設定がそれを補っている。ペダントリーとウィットに富んだ会話の妙に感心しました。『紫光楼事件』ほどの大傑作ではないけれど、梵貝荘の雰囲気はなかなかいいし、水城優臣はあいかわらずかっっこいいし、充分堪能できたから、佳作といっていいんじゃないかな。少なくともシリーズの水準はクリアしていると思う……。
一読者として感想を訊かれたら、石動はおそらくそう答えただろう。

だが「本格ミステリ」として見た場合、『梵貝荘事件』のメイントリックは、今の観点では長篇を支えうるとはいいがたい。しかも文庫化の際の記述によれば、本書に掲載されている『梵貝荘事件』は抜粋版で200枚ほどでしかないらしい。もちろん、この『鏡の中は日曜日』自体は一種のメタミステリだから、作中作を扱う外枠に作品の主眼はある。ところがその外枠は論理性というよりも叙述トリックにサプライズの重点がかかっているので、ではいったいどのあたりに「本格ミステリ」を見出せばいいのかという疑念は、当然ありうる。
なかでも特に、第一章と第二章における「偶然の一致」は、「本格ミステリ」性をゆるがしかねない点――つまり「アンフェア」ではないかとされてきた。私も三年前に、

真相が告げるのは、鎌倉と金沢に「ジョウミョウジ」という寺があり、瑞門と水城の大邸宅があり、瑞門龍司郎とその息子・誠伸という二人のアルツハイマー病患者がおり、ちょうど同じ時期に石動と鮎井がその邸宅を訪問していた、ということだった。多少の違和感は仕込まれているとはいえ、あそこまで石動と鮎井の訪問風景がぴったり重なっているのは、やはり「アンフェア」の謗りを受けても仕方がない印象がある。(『鏡の中は日曜日』を10年後に読む

と書いた。初読時から「アンフェアじゃないかなあ」と思ってきた。確かに、『鏡の中は日曜日』を単独の「本格ミステリ」として読めば、そこがウィークポイントとされてもおかしくないだろう。
しかし。
このところ、シリーズを読んできて、私はこの「偶然の一致」を裏付ける筋が、少なくとも三つはあることに気づいた。それは以下のものである。
(1)新本格ミステリのパロディとして:新本格ミステリの作品群のうちには――とりわけ本書で主要な参照元とされている綾辻行人のたとえば『霧越邸殺人事件』(この作品は巻末の参考・引用文献にはとりあげられていない)などでは――ありえない偶然の一致によって幻想の領域に入り込んでいるものがある。論理をつきつめた果てに、理性の外からの働きが明らかになるというわけだ。それを参照したのではないか。
(2)超自然現象をとりこんだシリーズとして:石動戯作シリーズにはこの前に『美濃牛』と『黒い仏』があるが、両者とも最終的に、超自然現象が作品世界の根底で働いていることが判明するものだった。『鏡の中は日曜日』の舞台も当然、それと地続きになっている。もしも奇跡の泉や太古の神々が実在するならば、この程度の偶然の一致など、何ほどのものでもないのではないか。
(3)形式をめぐって:主要人物である瑞門龍司郎はステファヌ・マラルメを専門とする仏文学者だが、本書のタイトルおよび章題はパウル・ツェランの「コロナ」から採られている。作中作の重要なシーンである「火曜会」の場面では、詩の形式性をめぐって次のような会話が交わされる。

水城は腕組みして、首をひねると、
「(……)たとえば、パウル・ツェランの詩は韻律や脚韻を無視していますよね。いわば、瑞門さんのおっしゃった口語自由詩といっていい。ツェラン自身は、連なる二行の韻律や脚韻を合わせない理由について、『隣り合った二本の樹が同じ格好をしていることはめったにない』と語っています」
(……)龍司郎は唇の両端をつり上げて笑い、
ツェランはイマージュの詩人であり、自分に取り憑いたイマージュをそのまま言葉に定着させようとしました。一方、マラルメは形式の詩人でした。マラルメにとって、イマージュとは形式から生まれるものだったのです。形式によって生じる美や意味というものがあるんじゃないでしょうか。まったく自由奔放に書くことが、はたして想像力の発露といえるかどうか、わたしには疑問ですね」(第二章【過去・5】)

このあと、作中作の主人公・田嶋が「それは本格ミステリに似ていますね」と発してまた議論が続く。つまり、意図的に詩と本格ミステリとが「形式」をめぐって類比されている。ツェランは「隣り合った二本の樹が同じ格好をしていることはめったにない」と言ったらしい。しかし、上述の(2)のように、この作品世界では、二つの場所で同時にほぼ同じ出来事が起こるという「めったにない」ことが起こってもおかしくない。
   ※
【過去・5】の引用文中では、マラルメツェランが対立させられている。そこでマラルメが称揚されているように見えるが、しかし本書の総タイトルがツェランから採られているように、作品全体は定型詩/自由詩を対立させて定型詩に軍配を上げるというようなものではない。むしろ、作中作の外でマラルメの詩以外の仕事である『最新流行』をフィーチャーして『梵貝荘事件』時の瑞門龍司郎を相対化するなど、散文的なものにも重点を置いている。
「名探偵」を擁護したい鮎井郁介が、作中作でマラルメ定型詩を肯定的に描くのはうなずける。しかし、瑞門龍司郎も鮎井も、作品の外で、定型詩=名探偵という束縛を逃れた誠伸と水城を失う。
ここで、第一章の誠伸がふつうの散文というよりむしろ改行の多い詩に近い言葉で書かれていたことを思い起こしてみる。前回、本書について水城と誠伸の「ある二人の人間が向かい合い、お互いを過不足なく捉えてズレていない。(……)二人の関係をめぐるラヴ・ストーリイである」と書いたけれど、以上のように考えてくれば、この「向かい合い」とは、詩と散文の、そして定型と自由との、どちらか一方を選ぶのはではない、互いを排除しない「向かい合い」ではないのか。(続く)