TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

俺はANATAだ

 文学フリマで買った『幻影復興』という清涼院流水特集をした同人誌のオマケ冊子を読んでいたら、とても懐かしい気持ちになった。

 東京流通センター――通称TRCの第2展示場、エスカレーターで2階に来たあなたは、チラシ置き場の脇を通り、数多くテーブルが並んだホール内を進んでいく。(……)コピー用紙に印刷されたものをホチキスで綴じただけの冊子で、全8ページのようだ。ページの下に目をやると、「ご自由にお取り下さい」とあるから、来場者に無料で配っているのだろう。その表紙には大きめのゴシック体でこう書かれていた。

文学フリマ東京来場者限定小冊子

「幻影絡繰-Mephistrick-」

  ああ、この感じ。まさに流水節。
 高校生のころ夢中になった(たぶん一万枚分は読んだ)、この文章の特質とはなんだろう。
 それはもちろん、「あなた」という読者への呼びかけだ。
 初めて読んだ時は新鮮だったけど、年を経るとだいぶんそのカラクリがわかってしまった気がする。

「あなた」という呼びかけは、自己啓発や宗教の分野でも多用されるテクニックである。「あなたが自身の人生の主人公なんですよ」とか、「神はあなたを見ていますよ」だとか。「あなた」という語の意味自体は普遍的であるが、その語が使用される文脈において発揮する効果は、この世界にただひとりの「聞き手」という一点を目がけた、何らかの意味での覚醒を促す矢印なのだ。人は、聞き手の立場で「あなた」というただ一人を意味する呼びかけを聞き取る時、何やら特別な感情を抱いてしまうらしい。この瞬間、聞き手のうちにいったい、何が起こっているのだろうか。

 しばらく前に加藤典洋『増補 日本人の自画像』(岩波現代文庫、2017)という本を読んでいたら、印象的なエピソードがあった。
 ポーの『アッシャー家の崩壊』の終盤、死んだと思われていた妹がやってくるシーンはなぜ怖いのだろうか。語り手がコワイ話を親友(兄)に向かって朗読するうち、周囲の様子がだんだんシンクロしてくる。兄は自分のおそれを話す。妹は、実は死んでいないのにわれわれは埋葬してしまっていたかもしれない。そして、妹についての話をしていたまさにその瞬間、当の妹自身が語り手と聞き手を襲撃する。
 この時、起こっていることはこうだ。死んだはずの妹についての話をしている時、それがいくら作中で実在のかつ地続きの人物であろうと、話の中の次元と、それについて話している語り手/聞き手の次元は切れている。

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 話の中の妹=オブジェクトレベル
 語り手/聞き手=メタレベル
 つまり、コワイ話=物語=オブジェクトレベルにとどまっていたはずのことが、それを食い破り、メタレベルの語り手/聞き手の次元にまで侵入してきてしまう、そのことがコワイ。

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 私はこの説を読んだとき、いろいろなことが腑に落ちた。
 オブジェクトとかメタとかいうのは、ジェラール・ジュネット(『物語のディスクール』)的にいって、物語世界内存在とか物語世界外存在と呼んでもいい。
 すなわち、エンターテインメントとしての物語は畢竟、聞き手を楽しませるためにある。しかし聞き手とはふつう、メタレベルの存在、すなわち物語世界外存在で、ストーリーにとっては傍観者にすぎないといってもいい。この存在を、いかに「物語世界内」に没入させるか、その錯覚を抱かせるかが、エンターテインメントのナラティヴの究極の要件だ。
 先に挙げた自己啓発や宗教勧誘のテクニックもここにかかっている。すなわち、傍観者=外の存在をいかに内に引き込み、カモるかということ。そのキーワードが、呼びかけとしての「あなた」なのだ。
 以前、勤め先にアヤシゲな宗教団体からの教義書が届いたことがある。造りの立派な本(パステル色のぶあつい文庫版ハードカバー全三巻のボックスセット)で、私はデザイン的興味から中を覗いてみた。すると冒頭第一行が確か、〈あなたがこの本を開くことは、すでにわかっていました〉などと書いてあったので、思わず吹き出してしまった。
 お前はイタロ・カルヴィーノか。
 しかしよく考えると、ここには笑って見過ごすことのできないテクニックがある。いわゆる二人称小説のエポックとなった、ミシェル・ビュトールの『心変わり』や倉橋由美子の『暗い旅』は、確かに「あなた」という呼びかけを全編で使用しているのだが、それはあくまでも作中人物に対しての呼びかけであり、どう考えても読者自身が「これは私のことかな」と思うということはない。それはあくまでも、物語世界が、外に対して閉じているからだ。
 ところが、自己啓発や宗教の言説においては、語り手に対する聞き手は直接の読者で、つまり「あなた」という呼びかけに応じるならば、その物語の当事者、物語世界内存在になってしまう。
 ここにフィクションとノンフィクションの違いがある。しかし、いわゆるフィクションにおいてもこうした技法は、開発されてきた。

『アッシャー家の崩壊』の「怖さ」が、オブジェクトレベルからメタレベルへの侵犯に由来するならば、これはたとえばフレドリック・ブラウン「うしろを見るな」や日本のホラー映画『リング』などが印象に残る原理と同じものだといえるだろう。
 そしてそれはホラーにとどまらない。吉本ばななの某作(タイトル失念。割と初期の作品で、語り手が最後に急に「◯◯してあげたい、あなたにも」と読者に呼びかける小説がありませんでしたっけ)やゲーム『Ever17』のラストにおける印象的なテクニックにも通じる。ものすごく日常的な喩えをとれば、誰かの悪口で盛り上がっていたら、当の本人がその場へ偶然やってきたのでギョッとした……だとか。
 これらに共通するのは、オブジェクトレベルからメタレベルへの侵犯である。

 私は以前から、心霊スポット巡りと文学散歩(いわゆる「聖地巡礼」も含む)には、何か共通する原理があるのではないかと思っていた。どちらも、場所自体には何も変わりはなくとも、訪問者が事前にエピソードを聞いているかどうかで、訪れる印象は異なる。すると事前の話=物語であり、そこへの訪問は、先の図式とは逆に、聞き手が疑似的に物語世界内存在へと没入すること(メタ→オブジェクト)、であるとは考えられないか。いずれにせよ、問題は、物語世界の内と外の階層移動だ(たとえそれが錯覚にすぎないとしても)。

 ジュネット的にいえば、一人称/二人称/三人称という区分は間違っている。より本質的なのは、語り手が物語世界内(オブジェクトレベル)にいるか、世界外(メタレベル)にいるかどうかだ。その場合、「あなた」という呼びかけが占める位置は、語り手と聞き手の関係によって異なることになる。
 レイモンド・チャンドラー『湖中の女』の映画化は、ほぼ全編が主観ショットによって撮られるが、この作品が観客に異様な印象を与えるのは、登場人物のカメラ目線が終始映っているからだ。このカメラ目線を「あなた」という呼びかけと捉えれば、映画『湖中の女』の手法は、実は「二人称」的な効果を観客に与えるのではないか。

www.youtube.com

 上記トレーラーを観ていただきたい。カメラへの目線を観客が受けとる時、その異様な効果にギョッとすると思う。しかし映画全編は、このトレーラーほど魅力的ではなく、100分も眺めると次第に飽きてしまう。そしてやはりこの主観ショットがもたらす最大の効果は、トレーラー中のキャッチコピーでいうところの、

Mysterious STARRING ROBERT MONTGOMERY and you!

 主演はあなた! という呼びかけではないか。

 観客=登場人物という侵犯は現在、TVないしPCのアドベンチャーゲームにおいては既におなじみのものだ。だから、侵犯それ自体に効果をもたせようとすれば、別のレベルでの使用が必要になる(映画『湖中の女』のような出ずっぱりの使い方では、冒頭が最も盛り上がる、「出落ち」になってしまう。ここぞという時に使わないといけない……そしてそれはたいていの作品においては、物語終盤だ)。
 叙述トリックというのもこの文脈で考えることができる。「叙述トリック」は一人称でも三人称でも用いることができる。しかし結局のところそれは、この物語の語り方(テクニック)は読者の「あなた」を騙すための……つまりふつうの物語ならば傍観者にすぎない「あなた」を騙すために工夫されて語られていたのだ。これが判明する時、侵犯が起こり、読者はまるで『アッシャー家の崩壊』における兄のような衝撃を受ける。

叙述トリック」という名称は巷間、誤解されている。つまりメタトリック(現実だと思ったら実は作中作でした!というやつ)とか夢オチとか信頼できない語り手と同一視される傾向にあるが、厳密にはその原理は異なるものだ。しかし小説の実作においてそれらは複雑に絡み合ったものなので、叙述トリックだけを取り出すのもなんだか難しいな、と私はこれまで思っていた。要するにこれら(1970年代以降に急速な技術的発達を経てきた)はすべて、オブジェクトレベルからメタレベルへの侵入という点が共通するのであって、叙述トリックというのはその下位ジャンルの一部にすぎない(つまり、下位ジャンルの一部に狭義の叙述トリックがあり、かつ、ナラティヴを利用したどんでん返しのテクニックを現すそうしたグループ全体を総称するようにしてなんとなく「叙述トリック」という語がふんわりと流通している)。

 こう考えてくれば、叙述トリックの飽和化という問題は、単に狭いジャンル上のテクニックに限らない。問題は、聞き手である「あなた」への侵犯を、いつどこでどのように起こすか、という普遍的な問題へと開かれうる。時に暴力的な力を発揮するそれを人類は、手を変え品を変えずいぶん長いこと使用してきた。すなわち、宗教的勧誘から「叙述トリック」へと(呼びかけとメタフィクションとの関係についてはたとえば佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる。 パラフィクションの誕生』慶應義塾大学出版会、2014などが詳しい)。

 中学生の頃毎週見ていたNHK番組「爆笑オンエアバトル」では毎回最後に司会が、
「新しい笑いを作るのは、挑戦者の皆さんと客席の皆さん、そして、テレビの前の、あ・な・た・た・ちです!」
 と呼びかけるのが印象的で、われわれはしょっちゅうモノマネをしていた(歴代アナウンサーごとに少しずつ特徴が異なるから)。だからそれをパクって自分のハンドルネームにした時、「誰かから連絡を受けるたびに〈アナタさんは……〉と呼びかけられたら、奇妙な気分になるだろうなー」と思ってo(´∀`)oワクワクしていたのだが、すっかり慣れてしまった。たまに「神ナントカ」という名前の人がいて(たとえば神慶太)、そういう人はメールを受ける時なんかは〈神様は……〉と呼びかけられるんだろうけど、いわれるほうはそのうち慣れてくるとおもう。

 そういえばこの前、国会図書館に行く機会があり、せっかくだから自分が寄贈したブツ(『立ち読み会会報誌』第一号)を借りてみようかと思って申請して届いたものをパラパラ開いていたら、インタビュー後の本編冒頭が

国会図書館で資料が届くのを待つ間にTwitterを覗いていたら、

 で始まるのをすっかり忘れていて、あまりのシンクロぶりに「ウワッ!」という気もちになってしまった。こんなことで驚くのはたぶん、世界で私一人だけだろう。自分で自分に仕掛けたワナというか、なんというか、……。


 バカですねー。

 

 

俺はNOSAKAだ: ほか傑作撰

俺はNOSAKAだ: ほか傑作撰

 

 

藍川陸里さんの『探偵はその手を汚さない』(アミラーゼ、2017。私家版)を読みました。

これは北大推理小説研究会所属の方(来年卒業だとか)が今年書かれた(そして11月23日の文学フリマで頒布された)、黒岩涙香以来現在までの日本のミステリの歴史をたどった22万字におよぶ通史・長篇評論とのことで、ジャンルの成立、本格・変格論争から「大衆文学」という用語の来歴、東日本大震災以降の最近の作品まで、話題は多岐にわたります。

最初にその構想をウェブ上で拝見した時、私は、

(凄いな!)

と感嘆しました。もちろんご存知のとおり、ミステリ読者の世界には、年季の入った、というか、一生を賭すほどに詳しい方々がたくさんいらっしゃって、臆病者で不勉強な私などは、そのような射程をもつ論の構想をもし自分ならと考えるだに、トテモtotemo……と尻込みしたくなってしまうからです。実際、ある方面では微に入り細を穿った著作をものし喝采を浴びたプロの文学研究者の方でも、いざご自身の専門を飛び出して幅広い歴史的視野でのミステリに関するものを手がけると、あちこちから矢が飛んできて火達磨となる……そうした情景を目にしてきました。

そこでこの本です。

いつの間にかつまらない先入観に凝り固まってしまっていた私は、

(若者がこんな本を書いていいんだ!)

と衝撃を受けました。それは私の常識を変え、ある一つの勇気を、確かに与えてくれたのです。こんなことは久しくありませんでした。

藍川さん、ありがとうございました。

さて、以上は大雑把な感想です。以下では、私見というほどのものではございませんが、本の作りについて誰でも気のつくような、瑣末なことを、行きがかり上、あえて多少申し述べたいと思います。

 

【編集面で】

◯まず、あまりにもテーマが多岐にわたるため、用語の使い方がところどころ甘くなってしまっているかと思います。こうした評論のばあい、ふだんわれわれが何気なく用いてしまっている用語の解像度を上げて、時間的空間的なスケールでもって再考を促す、ということが主眼の一つですから、キーとなるワードに関しては、

 起源(内容の元祖)

 語源(用語の元祖)

 定義(その普遍化・定式化)

 あてはまる作品群の空間的ボリューム(ある時点において多数派か少数派か、など)

 あてはまる作品群の時間的ボリューム(いつからいつまで通用するのか、すでに衰退したのか拡散したのか、など)

をいちいち注意深く設定していきます。この起点の設定は、評論文の生命ともいえるため、開巻から

〈(まえがき)ミステリを目にする機会が増えています。〉

〈(第一章のまとめ)ミステリは幻想文学作家のエドガー・アラン・ポーにより打ち立てられたジャンルであり〉

というような文章に出くわすと、

(いつに比べてミステリを目にする機会が増えているのだろう?)

だとか、

〈「幻想文学」というジャンルは何だろう?筆者はソフォクレスディケンズバルザックやユージェーヌ・シューやについてどう考えているのだろう?〉

といった疑問を感じる読者もいらっしゃるかもしれません。そのため、「いや、わかっちゃいるけれど、議論の煩雑さを縮減するためにあえてここではこのような立場をとっているんですよ」というエクスキューズのチラ見せがあると尚良いかと思いました。

◯第二章「本格から変格へ」は前半が乱歩の登場、後半が「大衆文学」というジャンル的区分における「時代小説」と「探偵小説」の変遷の話に分離している、というか、二つのテーマが一つの章になっているため、他の章より二倍の長さになってしまっています(他の章は10〜20ページで、ここだけ50ページ近くあります)。ここはテーマを区切ることができる以上、二つの章に区切った方がスッキリするかと思いました。*1

◯一冊としてのスペース上言及できない作家についても、いちおうエクスキューズを述べておく必要があるかと思いました。たとえば本書中盤で詳しく述べられる「大衆文学」という用語は、この本にとって最重要キーワードの一つです。この用語において、「時代小説」と「探偵小説」という当時における二大区分が問題にされますが、となると、たとえばその両ジャンルにまたがって活躍した、山田風太郎柴田錬三郎笹沢左保都筑道夫といった、当時のメジャー作家かつ今でも作品の入手可能な人物について、いっさいあるいはほとんど言及がないと、アンバランスに見えてしまいかねない危惧があります。

◯もう一つ、「文学」と「ミステリ」という対立軸も重要なものとして登場します。そこで横光利一「純粋小説論」(1935)が何度か紹介され、例の有名な〈もし文芸復興というべきことがあるものなら、純文学にして通俗小説、このこと以外に、文芸復興は絶対に有り得ない〉という冒頭の言葉が、ピュア・リテラチャーとエンターテインメントの融合を目指す宣言として引用されます(全文は青空文庫で読めます)。が、この「純粋小説論」は、少し複雑な組み立てになっています。というのは、この宣言文は、横光自身によるそうした〈純文学にして通俗小説=純粋小説〉の実践としての『家族会議』(1935)とほぼ同時期に出されたもの、つまりマニフェストかつ自作宣伝的性格を帯びている文章だからです。ではその『家族会議』(もちろん現在の話題と知名度の点では「純粋小説論」の方が断然上ですが)以後はどうだったのか、に触れずに、同じ流れで横光作中現在最も人気のある『機械』(1930)を出すとなると、年代的にいってもチト苦しくなってきます(実際、横光の考えでは来るべき「純粋小説」とは長篇の分量をもつものであり――〈短篇小説では、純粋小説は書けぬということだ(……)私は、自分の試みた作品、上海、寝園、紋章、時計、花花、盛装、天使、これらの長篇制作に関するノートを書きつけたような結果になったが〉という言葉も同文中にあります――が、『機械』は短篇です。さらに加えて欲をいえば「純粋小説論」の冒頭は、単にシリアス対エンターテインメントの図式を描いたものでなく、〈今の文学の種類には、純文学と、芸術文学と、純粋小説と大衆文学と、通俗小説と、およそ五つの概念が巴となって乱れている〉という状況に言及されていた点にも触れていただければ、本書でのちにいう「文学対ミステリ」という図式も今少しスッキリするかと思いました)。

あと、見立てとして乱歩から清張へという線が主軸となるのですが、となると、このあたりはオモシロイ逸話が沢山あるので(編集長乱歩が依頼して『宝石』に『ゼロの焦点』が連載された話だとか、中央公論社の全集「日本の文学」事件だとか)、これも欲を言えばそのあたりにもサラリと触れていただくと尚オモシロイかと思いました。

◯第九章「京極夏彦以後」のあと、第十章〜第十三章は、より現在に近い作品を扱っていく章ですが、少なくとも、あるていど予備知識のある読者でないと、ここはさすがに危ういかと思いました。というのは、同時代を説明する仮説として見立てられた比較的新しい用語が生煮えのまま記述されてしまっているからです。すなわち、それまでの章では、「本格・変格」とは何か、「大衆文学」とは何か、あるいは「アンチ・ミステリ」とは、「新本格」とは、といった解説が、複数の見方・複数の実作者の紹介を通じて描かれていったのですが、この最近に近い章では、たとえば「動物化」(東浩紀)、「フラット化」(トーマス・フリードマン)といった若い用語が、歴史的な相克の薄い状態で紹介されています。確かにそれらのキーワードはジャーナリズム的に話題になりましたが、

 こうしたキーワードによるアングルは妥当か?

 そしてこれらのキーワードはどのようにミステリ小説についてあてはまるのか?

といった論述の手続きが、他の章と比べると弱くなってしまっているように思います(より細かなことでいえば、それまでは自身の言葉で咀嚼し述べられていた作品紹介に、〈世界を容赦なく切り裂くメフィスト賞受賞作!〉(p178 佐藤裕也〔「裕也」ママ〕『フリッカー式』)といった宣伝文からのコピペが以降いくつか紛れこんでしまっています)。

 

【校正面で】

◯あるていどの誤字脱字は仕方ないと思うのですが、「カルロ・ギンズガルグ」「X橋附近」「佐藤裕也」などは何度か登場するので、気になってしまいました。

◯これが単なる誤字脱字でなく、事実認識にまでおよぶと、なかなか厄介です(これもあるていどは仕方ないのですが)。たとえば、

 島田荘司『斜め屋敷の犯罪』について〈p139 重要なのはこの作品が書かれた一九八二年という時代であり、(……)八〇年代当時はバブルの時代であり〉(→バブルは正確には1980年代後半~90年代初頭にあたるため、1982年はバブル前という感じがします)

 清涼院流水の作品について〈p181 読む順番を読者に選ばせ、その順番によって物語が変化する『Wドライヴ院』や、それをさらに複雑にした『19ボックス』が書かれました〉(→正確には、『Wドライヴ院』〔講談社文庫、2001〕は親本『19ボックス』〔講談社ノベルス、1997〕の四篇中二篇だけを再構成したものなので、時系列が逆になってしまっています)

 法月綸太郎「初期クイーン論」について〈p188 ゲーデルの不完全定理とは「①いかなる公理体系も、無矛盾である限りその中に決定不可能な命題を残さざるを得ない。②いかなる公理体系も、自己の無矛盾性をその内部で証明することはできない。」というものですが〉(→これも現状よくある誤解を招く書き方になってしまっています)

 中上健次について〈p198 中上健次はある種純文学の王道である被差別部落を扱った作品を描き〉(→こうした「王道」という単語の使い方は大変危険です)

などなどは、「あとがき」中の〈既に十分なミステリ愛をお持ちの方は「この解釈は間違っている」などと否定的に感じられた方もいらっしゃるかと思います。そして、そのご意見はある意味で正しいのだろうとも思います。しかし、その誤った解釈、若造の突飛な考えもまた楽しめるのもミステリのひとつの醍醐味なのではないでしょうか〉で仰られるところの、「楽しみ」「醍醐味」というよりも、気がついてしまうと、とりあえず我慢して読み進める、という感じになってしまうかと思います。

◯カッコで半角が使用されていますが、これは全角の方が読みやすくなります(日本語文の実際の商業印刷物では全角を用います)。たとえば、

 丸カッコ ( )→( )

 山谷カッコ < >→〈 〉

(詳しくはこちら)

◯ルビが丸カッコ内にそのままになっている箇所があります。これは付すかナシにするとより読みやすくなると思います。*2

◯データ制作環境は存じ上げないのですが、本文の左端がなぜか一行少ない箇所が多数あります。すなわち52字×25行が、24行になっている箇所があります。*3*4文章が抜け落ちているということはないので、内容的には問題ないのですが……。*5

◯全体的に、中見出しが太字になっているものとなっていないものがありました。具体的には……と途中まで数えましたが、中見出しと小見出しの区別がつけづらいため、止めました。見出しと本文の表記関係を整理されると、より読みやすくなるかと思います。

◯巻末参考文献は、著者名、タイトル(論文なら収録書も)、版元、刊行年を明記すると良いかと思います。 *6

◯引用箇所を区分する際、三字下げ+枠囲み+鍵カッコ囲みでわけられていますが、これは過剰な感じがあるため、どれか一つで良いのではないかと思います(フォントやサイズを変える方もいますが、オススメは字下げです)。*7

◯要点整理の記号で、◆(ダイヤ)や・(ナカグロ)が混在しています。ナカグロだと画像のように、カタカナ表記で「・オーギュスト・デュパン」などとなってしまうため、避けた方が無難かもしれません。*8*9

 

以上、たいへん簡単ではありますが、 瑣末な(しかし大事な)ことを申しました。

現在、下記のリンク先で販売されていらっしゃいます。

https://rikuriaikawa.booth.pm/items/615142
https://jp.surveymonkey.com/r/XZ99QWB

【目次】

日本のミステリを読み解くためのキーワード

第一章 イントロダクション――ミステリ前史と西洋探偵小説の誕生

第二章 本格から変格へ――江戸川乱歩と日本のミステリの特殊性・探偵小説と時代小説の交点

第三章 戦後の本格ミステリ――横溝正史坂口安吾らの本格ミステリの特質

第四章 戦後文学としてのミステリ――戦争と詩作と探偵小説との関係性

第五章 松本清張の登場――社会派ミステリの影響力

第六章 純文学とミステリ――横光利一「純粋小説論」と松本清張評価

第七章 アンチ・ミステリの系譜――ミステリの形式化とメタミステリへの志向性

第八章 新本格以降の展開――島田荘司以降の本格ミステリ

第九章 京極夏彦以後――京極・麻耶・メフィスト賞の特質

第十章 本格形式の臨界点――後期クイーン的問題とその周辺

第十一章 フラット化するミステリ――オタク文化・SF的設定・特殊ルール

第十二章 村上春樹とハードボイルド――日本のハードボイルド受容の特殊性

第十三章 総括――東日本大震災以降のミステリ

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個人的にいちばん気になったのは、文章や単語の重複で、おそらくうまく推敲すれば、文章のボリュームの20%は削減できるのではないかと思います。しかしそうしたことは、実際に長い文章を書いてみないとわかりません。だから、こうした本が執筆されたことは、やっぱり、良いことなのです。

たった一人でもこれだけの領域と資料博捜をオーケストレーションできるのだということがわかり、来年に向かって生きる気力をいただいたような気がしています。

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*3:f:id:kkkbest:20171226100507j:image

*4:f:id:kkkbest:20171226100554j:image

*5:具体的には、31-32, 37, 40, 46, 49-50, 52-55, 57-60, 62-64, 67, 69, 71, 75-78, 81-84, 91, 94-95, 97, 100, 102-106, 109, 114,-116, 122, 124-126, 130, 132, 140-147, 151, 153, 162, 165, 168-170, 178, 181, 185, 195, 204, 206, 208, 219, 221-222, 224, 226-227, 229-230, 237, 239ページの左端が欠けています。

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ジェルジ・リゲティの『グラン・マカーブル』

ジェルジ・リゲティのオペラ『グラン・マカーブル』は、『黒い仏』を再読する上では欠かせない作品であるが、日本語で読めるものとしてはたぶん以下の資料が詳しいのじゃないかと思う。

全編のテクスト(日英対訳)としては、巻末文献にも挙げられているとおり、ソニーから出ているCDの解説。リゲティ自身の文章も載っている。

 

 

このオペラにはリゲティ自身による改訂、あるいは翻訳や演出によっていくつかの異なるバージョンがある(上述のCDは1997年版)。日本初演は2009年http://www.schottjapan.com/news/2009/090127_150105.htmlリゲティ没後の2011年版は日本語字幕付きのソフトが出ている。

 

 

(このDVDをいま検索したら、個人誌を書いていた時は品切で入手不可だったのに入荷されていたから驚いた……)

作品のアカデミックな分析で最も詳細なのはおそらく次の論文だと思う。

 

ジェルジリゲティ論

ジェルジリゲティ論

 

この中に 『グラン・マカーブル』についての一章があり、成立過程や楽曲分析がくわしく記されている。私は楽曲分析はよくわからないが、たとえばリゲティのインタビュー集から引用しての、成立過程にまつわる次のような分析は面白い。

『グラン・マカーブル』はリゲティ唯一のオペラであるが、実はリゲティがオペラを構想した機会は1963年以来、四度あった(中にはオイディプスに材をとったものもある)。しかし実現したのは最後の『グラン・マカーブル』だけだった。この作品は1972年から構想され77年にいったん完成、初演は78年。以後、何度か手がくわわっている。この作品をリゲティはなぜ「アンチ・アンチ・オペラ」と呼んだのだろうか。

アンチ・オペラとは20世紀初頭までの伝統的なオペラを否定する概念であり、1960年代の音楽演劇の追求したテーマである。リゲティでは《キルヴィリア》と《オイディプス》がアンチ・オペラにあたる。これに対して、アンチ・アンチ・オペラはアンチ・オペラの否定、すなわち前衛の音楽演劇を否定し、しかも伝統的なオペラとも異なる「オペラ」の新しいあり方をめざすものである。それは「ジャンルや形式を懐疑的にとらえたり、それを破壊したりするものではない。むしろそれらを新たな形式で満たすもの」である。作曲者自身はこれに関して「《マカーブル》は《アヴァンチュール》や《ヌーヴェル・アヴァンチュール》よりも伝統的ではあるが、やはり実験的な音楽でもある。同時に古典的なオペラ、とりわけモンテヴェルディモーツァルトとも結びついている」と述べている。また、《マカーブル》と関連して行なわれた次のような前衛の伝統批判に対する批判も注目される。「このような批判的解体は、何ももたらさない流行現象である」。革新はむしろ伝統的な音楽の中にのみ見つけることができると考える彼にとって「伝統と革新は共存する。私自身はつねに革新者であり伝統主義者なのであって、そこには何ら矛盾がない」。

伝統(オペラ)があり、それに対する批判(アンチ・オペラ)がある。そしてそれに対する反批判(アンチ・アンチ・オペラ)は、伝統と結びつきながらそれと似ていない、また批判とも似ていない、そのどちらでもないものになる。

こうした分析は、次のような「結論」に結びつく。

最終的な基盤を失いながら、根拠となるものを別の形で求めようと試みること、それが今日の芸術にもっとも適した姿なのである。このことは、《ル・グラン・マカーブル》のテーマでもあった。(……)「結局われわれは、音楽を作る-聴く(生産-消費)というプロセスの1つの回路のみに支配権を委ねるような仕方で音楽を捉えることはできないであろう。あたりまえのことかもしれないが、生産と消費という2つの回路の双方に接触するように視点をとり、それらの連鎖の中で音楽を捉えていく必要があるのではなかろうか」

このような歴史的な文脈の中で、リゲティはどのような立場にあるのだろうか。作曲家としての彼の信条を探ってみると、いわばこの大文字のモダン、第2のモダン的思想ともいうべき独特の考え方がその根底にあることに気づく。彼と1970年代以降のいわゆるポストモダン音楽との関係を見ると、彼はこの種の音楽に対して批判的な見方をしている。われわれはそれを、前衛音楽やミニマル・ミュージックポストモダン音楽の批判的受容や、またそれらに対する批判的表明である一連の作品で確認してきた。その一方で、《ル・グラン・マカーブル》での引用技法は時代様式としてのポストモダンから影響を受けている。「1960年代であれば、私はこのようなオペラを書くことはできなかったでしょう。これは70年代の作品です」。この意味では、オペラはリゲティの創作とポストモダン音楽の並行関係をはっきりと示すといえる。ただし、それはコスタケヴァのいう「リゲティのメタオペラ構想、あるいは音楽のジグソーパズル。あらゆる世界像と価値が既視感覚をもつような、飽き飽きしたポストモダンの時代を批判的に反映したもの」に終わるのではなく、われわれの確認したように、両義的にもとづく複数の中心と有限な全体を示すものと理解しなければならない。

このような発想の背景には、彼の置かれた特殊な政治的・歴史的環境があると考えられる。彼は、伝統的な西洋の芸術音楽や東欧の民族音楽にもとづく教育は受けたが、ハンガリー社会主義的政策のために西側の前衛芸術にほとんど触れることができなかった。また、亡命後はセリー主義の成立に立ち会えず、いわば遅れてやってきた者として外側から距離を取りながらかかわるといういきさつもあった。さらに、コスモポリタンを標榜するハンガリーからの亡命ユダヤ人であることは、マーラーを彷彿とさせつつ、さらに多核的な実存を実践しているといえなくもない。リゲティはつねに、自己を含めたすべてに対して批判的な態度でのぞみ、意図的に個人主義者あるいはアウトサイダーとしてふるまう。単純な賛同や否定によって特定の立場に立ったり、事象の一端だけを見てそこにかかわったりするのではなく、多面的に考察しながら批判的に問題に取り組みその整理点を取捨選択する。そうすることで、さまざまな問題を統合した解決という、いわば両義的な策を見出してきたといえるだろう。彼が「私はどこにも属さない」というとき、このような立場をさす発言として理解しなければならない。

この姿勢が先に述べた大文字のモダンに通じることは明らかである。どこにも属さないということ、いかなる立場にも立たないということは、両義的な立場に立つということ、すなわち創造的なモダンとしての立場をはからずも表明するということにほかならない。それは、セリーのようにモダンでないのはもちろん、その全面的な否定や反動としてのポストモダンでもない。彼の創作の目的は、その特殊な状況や姿勢から導き出されながら、そうした二者択一を越えたところで要請される芸術を作り出すことではないだろうか。

「私はどこにも属さない」という言葉は、私の中ではどうしても、次のような言葉と結びつく。

イネスはもっと自由です。本格ミステリへの愛情も憎悪も持ち合わせていないがゆえに、本格でもミステリでもない作品を平気で書くことができる。(「reading」2001年12月30日)

この『ジェルジ・リゲティ論』、もし1990年代に出版されていたなら、必ずや『黒い仏』の参考文献に挙げられていたことだろう。

というのは、このようにして書かれた『グラン・マカーブル』はブラック・ユーモア全開のコメディだからだ(以下のような舞台写真を見ていただければ、雰囲気がおわかりになるだろうか)。

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リゲティ自身へのインタビューとしては、短いながら次の本も入手しやすい。

われらが時代のビッグ・アーティスト―高松宮殿下記念世界文化賞受賞者12人へのインタビュー

われらが時代のビッグ・アーティスト―高松宮殿下記念世界文化賞受賞者12人へのインタビュー

 

 


リゲティに関するこうした言及をふまえれば、ごくたまにいわれることのある、〈『黒い仏』は本格ミステリに対する批判である〉という意見は、そのままでは当たらないということがわかる。というのは、それはむしろ、本格ミステリの伝統と結びつきながらそれに似ておらず、かつ、本格ミステリへの批判に対する反批判でもあると読めるからだ。

 

そういえばピエール・ド・マンディアルグの短篇『満潮』は私はアルフォンス・イノウエの挿画が入っている奢灞都館の普及版(正方形くらいのかたちのうすい仮フランス装のもの)で読んだんですが、これは若い男が少女を騙くらかしてひと気のない海辺に連れていってフェラチオをさせるというだけの、口内射精文学(そんなものがあるとすれば)の中でもシンプルにそれのみに絞った究極みたいなハナシですが、語り手の性感の高まりと潮の満ち引きがシンクロするというところがミソになっています。

で、『インモラル物語』(原題はContes Immraux。すごいタイトルだ)というオムニバス映画の第一話として映像化されているんですが、なんとなくこの潮の高まりは小説を読んでいる時はジワジワと次第に上がってくる感じをイメージしていたんですが、映画ではけっこう波が最初からザブザブ激しくて(最後は二人とも汀でずぶ濡れになる)、(ウーン?)と首をひねったのを覚えています。

 

インモラル物語【ヘア無修正】HDリマスター版 [DVD]

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ジュリアン・グラック『アルゴールの城にて』

ジュリアン・グラック『アルゴールの城にて』(安藤元雄訳、白水uブックス、1989)。上京した夜に初めて買った本だから、九年近く前か。裏の見返しに「500円」というシールが貼ってあるが、この古書店ももうない。
グラック28歳のデビュー作で、1938年刊。はしがきで『ユードルフォの謎』『オトラントの城』『アッシャー家の崩壊』というゴシック小説の歴史的代表作を挙げて〈強力な奇蹟が動員されて、その鎖や、その亡霊や、その棺桶などが保持して来た呪いの力を、これらのかぼそい章句にいささかでも乗り移らせてくれるといい〉と願っているように、フランスの古い城(このアルベールというのは架空の地名だが)で起こるゴシック的雰囲気まんまんの幻想的な小説。特徴的なのは会話文がいっさい無いことで、城周辺でうごめく主に三人の様子の映像的な描写に賭けた感じは、ラヴクラフトロブ=グリエ(特に『嫉妬』)の間においてみると面白い。
冒頭、主人公の二十歳の大学生アルベールが長期休暇にこの城へやってくる。〈高貴で裕福な家柄の血を引く最後の一人〉で〈実に遅くまで、片田舎にある人里離れた塀の中に厳重に閉じこめられ〉、〈十五歳にして、あらゆる天与の才能と美とが彼のうちに花開くのが見られたが、パリでは誰もが類のない確信をこめて成功を約束してくれたのに、それへ背を向けてしまった〉。〈友人をほとんど作らなかったばかりか、とりわけ一貫して女性に目もくれ〉ず、〈ときたま、ことのほか貴重な材料をたっぷり盛りこんだエッセイだの、膨大な独自の資料に裏づけられた論文だの〉を書くこともある。彼はとりわけへーゲルに心酔している。〈弁証法こそはアルキメデスが嘲笑まじりに要求した、世界をすら持ち上げるあの梃子のようなものだと考えて、いまブルターニュの人里離れた屋敷に赴くにも、わびしい地方の、陰鬱で無味乾燥だろうとしか思えない日々をたっぷりと埋めるために、へーゲルの著書を運びこもうとしていたのである〉。
実際、文中にへーゲル『論理学』から引用される。

《(……)回復の原理は思考の中に、そしてただ思考の中にのみ、見出されるのだ。傷を負わせる手は、また傷をいやす手でもある》。喜ばしげな確信がこれらのページから飛び立つように見えた。
たしかに、アルベールがこれまでいつも敢然と殺しおおせて来た侮蔑的な自然の愛情ではなく、ただ認識だけが、彼を彼自身と永遠に和解させるのであり、彼が自分で間違いさえ犯さなければ必ずそうなる筈なのだ。《善と悪を知ることでおまえたちは神々のようになるだろう》というのが楽園追放の原因だったが、それがまた、あり得べき唯一の贖罪でもあったのだ。そして彼はさらに読み進んだ。《(……)子供の無邪気さは大いに甘美かつ魅力的であるには違いないが、その理由はひたすら、精神がそれ自体のために究極的に何を征服せねばならぬかを、われわれに思い出させてくれるところにある》。この堂々たる弁証法は、アルベールの不安に対する天からの答えのように思われた。つまりは認識だけが解放をもたらすのだ。本質的な、生きた認識だけが。アルベールは胸のうちで自分の引き籠もりがちな学究生活をふり返って、それを誇りとともに全面的に正当化した。だがいま彼がその生活を移した、この新しい荒涼たる場所が、すでに彼の心のロマンティックな琴線を強く揺さぶっていたからこそ、早くも自己正当化の必要が生じたのではなかろうか?

いやー、いけ好かないヤツですねー。田舎の屋敷で長期休暇(四ヶ月もある!)のあいだ、城の管理人の他は誰とも接触せずにへーゲルを読んで世界の真理を掴もうと一喜一憂する大学生アルベールくん(って、そりゃ幻想ぐらい見るよ!)。彼のもとに、予告どおり親友エルミニアンがやってくる。親友はもう一人誰か連れてくるということだったが、それは美人女子大生ハイデだった。もちろんこの後からは主に会話文の一切ない三角関係……陰鬱なキャッキャウフフ劇がくりひろげられるわけです。

先のへーゲルの引用箇所がおそらく象徴的になっていると思うのですが、このアルベールは騎士役です。エルミニアンは漁夫王役にあたるらしく、しかしこの二人は実は同一人物ではないかとも読める。「深淵の礼拝堂」でエルミニアンが深夜に弾くピアノを聴き、「森」でなぜか全裸のハイデを見つけエルミニアンが姿を消したあたりから、物語のトーンは一変します。男女二人でしばらく過ごしたあと、〈荘厳な死化粧をほどこされた瞼を見せて、エルミニアンがすぐ近くに横たわっていた〉のを見つける。エルミニアンが療養生活を送る中、記述はいよいよ幻想味を極め、聖拝伝説の図式へと接近します。そして今度はハイデが……。
と、こんなふうに、聖拝伝説にゴシック要素(しかも長くねちっこい映像的描写)とへーゲル要素を加えるというヒネリが、新味だったのでしょうか。この処女作をガリマール社にもちこんだところ断られたため、もっと小さい版元から自費で出したものの150部しか売れなかったといいます。中盤の三角関係自体は今の目ではチトこっぱずかしくもない感じで、ムズムズしてくるんですが、先述したように描写がキモとなっていて、プルースト以後ロブ=グリエ以前ということを考えるとなかなか面白い。たとえば冒頭、城に入る場面。

数えるほどしかない開口部の形状と配列も、負けず劣らず目を驚かせた。階という概念、今日ではおよそ調和のとれた構築物の概念からほとんど切り離せなくなっているこの概念が、ここではまったく締め出されてしまっているように見える。城壁にあいているわずかな窓は、上下の位置がほとんどどれもこれも不揃いで、内部の配置の奇妙さをうかがうに足りる。下の方の窓はいずれも低く平べったい長方形を見せているが、これは建築家が、昔の城塞で火縄銃の射撃に用いた狭間のデザインからヒントを得たものであることが見て取られる。これらの細長い割れ目は、その縁を色のついた石で飾るわけでもなく、まるで無気味な通気孔のようにむき出しの壁に口をあけている。

読み進めるに際し、こうした描写をうまく乗りこなすと、設定自体は実は、田舎の城での幻想的な三角関係、という、新本格的でもあるわけですから、割と楽しめると思います。いま、岩波文庫版が出ています。

 

 

 

このミステリ評論が読みたい!

今、こういうミステリ評論があったら読みたい。

◯社会派推理小説入門:「社会派」の定義、語源、発展と衰亡ないし拡散までの歴史とブックガイド。必然的に「本格冬の時代」についても扱う。

叙述トリック入門:「叙述トリック」の定義、語源、発展と衰亡ないし拡散までの歴史とブックガイド(映像作品を入れてもいい)。叙述トリックのテクニックに関するネタバレはもちろん全部する。90年代~00年代の密かな熱狂について未だ書かれざる不可視の年表を明らかにする、タブー破りの横断的パースペクティヴ。

私は1986年生まれで、物心ついた時は平成だったので、ミステリ的自我が形成された時は既に「新本格史観」の中にいた。音楽やファッションはよく20年周期といわれるが、小説の周期はもっと長いような気がする。私くらいの世代にとって、とりわけ「社会派」と「叙述トリック」という概念は、「妖怪」化した二大巨塔だと思うので、モヤモヤを晴らしてほしい(「後期クイーン的問題入門」はその後でも良いです)。

もし、既にこんなのがあるよ、というのをご存知の方がいらっしましたら、ご教示いただけますと幸いです。