「健全なユーモア精神と幼稚な駄洒落とを区別せよ」
あるエッセイでこんな一節を読んで、ふと疑問を覚えたんだ。なぜなら、ぼくの考える駄洒落はそういうものじゃなかったから。ぼくは駄洒落が好きだ。自分でもよく言う。ネットにも書くし、周りの人びとにだって――まあ、さすがにそんなに頻繁じゃないけどね。
でも、よく考えると、「好き」っていう言い方は正しいのだろうか? 自分のことをふり返ってみると、たとえば趣味としてウンウン考えてる時間が楽しい、というわけ全然じゃなくて、なんだかとつぜんその言葉に捕らわれて、ついつい外に出しちゃうという感じ――。
駄洒落をいわゆるオヤジギャグと混同してはならない。すべてのオヤジギャグは、「どうこんなにくだらないこと言っちゃうよでも僕ちゃんだから許せちゃうでしょ」というナルシシズムに基づくものだと思う。そうじゃない。そうじゃないんだよ。
きっとあなたが思っているよりも、沢山の形式がある。「蒲団がふっとんだ」……たとえば子供の頃、そんなことを友達と言い合ったりしたでしょう。類似した言葉をくり返して文章にするパターン。でも、いまTwitterで流行ってるみたいな、文章ですらない、元の単語のもじりみたいな、替え歌とかパロディみたいな、ああいうのも駄洒落っていうんだよ。幅が広いんだ。
うーん、何と言ったらいいか……。えーと、オヤジギャグっていうのはさ、――またまた悪者にして申し訳ないけど――なんというか、聞き手に媚びてる感じがするんだよね。たとえば、無人島に一人きりになったとして、ぼくはオヤジギャグは言わないと思う。それどころじゃないからね。でも、駄洒落は言うんじゃないかなあ。他に誰も聞いている人がなくても。
だから、「健全なユーモア精神と幼稚な駄洒落とを区別せよ」という言説はあたらない。なぜなら、それの持つ可能性とはそもそも、「健全なユーモア精神」なぞという猫額大の領域を軽く超えているから。そう、駄洒落はユーモアですらない。言ってみれば――それは、意味を脱臼することであり、死体化した言葉へのテロであり、革命であり、リズムであり、音楽であり、産婆であり、精神の本来的な戯れであり、隔絶した恋人達を連絡することであり、聖俗の交わる始原へと遡行する衝動であり、不可視の共通項の創造、言語それ自体の咆吼、音節の労働、地下を絶え間なく前進する坑道、裂け目から覗いた次元の構造、雷光に照らされた世界の肖像、来たるべきプログラムの草稿、新たなる宇宙の暁光、つまりあらゆるものの総合である。
――そうやって「総合」という言葉が閃いた時、急に激しい咳き込みに襲われた。ゴホゴホ、ゴホゴホ、ゴホゴホ、ゴホゴホ、ゴホゴホ、……よろよろと四、五歩ふらつきながら、呼吸がうまくできなくて、苦しくて、お腹がしめつけられて、涙が出てきて、酸素が足りなくて頭が朦朧としてきて、とうとう座り込んで――そして直観がぼくを貫いた。不意に発された咳、痙攣……そのようなものとして、ある言葉があなたやぼくにとりつき、この世に放たれる。その時、ぼくたちが駄洒落を言っているのではない。宇宙そのものが、ぼくたちの身体を通じて顕現しているのだと。