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襤褸は着ててもロックンロール

【記録シリーズ8】続々・レゴブロック的走り書き

以前何かの文庫解説で、「推理小説はまず、〈推理〉小説である前に、推理〈小説〉であるべきだ」というフレーズが紹介されていた(懐かしい……)。うなずけるところもないではない。ただのパズルに留まるな、ということが言いたいのだろう。しかしそれに「人間が書けていない」というクリシェが付属するとなるとどうか。
いわゆる「本格ミステリ」の側はこの常套的批判に対して、お望み通り〈推理〉と〈小説〉を融合させて、あるいは「人間」とは何か、オマエの思い込みに過ぎんのではないか、そもそも「人間」が崩壊しているのが現代なのだ、あるいは「人間など書かなくていい」……というような様々な回答を示してきた。
しかし、私は元々、本格ミステリというジャンル自体に、「人間」を排除しようとする論理が働いているのではないかと思う。
つまり、個々人の「人間」――という言い方は曖昧なのでここでは仮に、登場人物の持つ「人格」と呼ぼう――を考慮しては、先入観や誤解などのために「真相」へ到達できない。登場人物から「人格」を捨象し、抽象的な「人形」として扱うことで「ロジック」は真価を発揮する。
ここで「人形」と化した登場人物たちは、少なくともあれこれと試行錯誤する思考のフィールド上では、交換可能性を持っている。つまり、「人格」など関係なしに、アリバイやら身体的特徴やら凶器やらの外面的条件さえマッチすれば、誰が犯人でも構わない。可能性の上では、「検討してはならないもの」などあってはならない。そしてその上で「ロジック」は「真相」へと至り、探偵役が計算式を人間界へ下ろしてやったところで「驚き」は発生する――「まさかあの人があんなことを」「そんな奇妙な目的のためにあんな大掛かりなことをするなんて」、云々。
この「驚き」をもたらすギャップは、「人間」を「パズル」にくぐらせ戻って来たところに由来する。「パズル」を経ないと発生しないのだ。それこそロジックによる手続きがなければ、単なるショックということになるだろう。そして本格ミステリは基本的に、ロジック抜きのショックでは成り立たない。
つまりロジックが中心にある。そしてロジックは「人間」を排除する傾向を持つ。ここで私が〈「人間」を排除する〉というのは、個別具体性を排除し、最低限の共通する要素のみを平等に扱う、とでもいったような意味だ。ロジックがロジックとして働くのは、安定した「Why?」―「Because......」の空間、つまり通路において入口と出口が安定した形式を持った場合だ。たとえば詰め将棋で次々と王手をかけられるのは「いつか詰めることができる」という確実性が保証しているのであって、人間対人間で争っているのとは異なる。だから、「Why?」あるいは「Because......」の底が抜けた時、……局面は違う貌を見せる。(続く)