TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

『立ち読み会会報誌』第一号の訂正

以下、気づいた個所を順次掲載していきます。もしご存知の方がいらっしましたら、ご教示いただけますと幸いです。

【巻頭インタビュー 磯達雄氏に聞く】
p22 〈孔 そういえばついこの前、『黒い仏』が出てすぐの頃の新聞に、この下にある丸善丸の内本店の週間ベストセラーランキングが載っているのを見まして、その新書部門に『黒い仏』が並み居る新書の中で十位以内に入っていました。〉→これはもしかしたら、私の勘違いかもしれない。後日、新聞データベースを検索してみたが、丸善丸の内でのそういう情報は見つけられなかった。代わりに見つけたのは次の二店。リブロ池袋店週間ベスト10より(東京新聞夕刊2001年1月18日掲載)1位:スペンサー・ジョンソンチーズはどこへ消えた?』2位:森博嗣今夜はパラシュート博物館へ』3位:ロバート・キヨサキ『金持ち父さん貧乏父さん』4位『黒い仏』5位:池田大作『新たなる世紀を拓く』。ジュンク堂書店大阪本店週間ベスト10より(毎日新聞大阪版夕刊2001年1月20日掲載)1位:『チーズ』2位:『金持ち父さん』3位:『今夜はパラシュート』4位:高森顕徹『光に向かって100の花束』5位:『黒い仏』。新書部門どころか全ジャンルのベスト10だった。

【第一部 『ハサミ男』を読む】

p26 ×(表記無し)→○装丁 北見隆

【第二部 『美濃牛』を読む】

p76 ×装丁 北見隆→○装丁 辰巳四郎

海賊版

表面 ×「アジアミステリーリーグ」さん→○「アジアミステリリーグ」の松川良宏さん

裏面 ×(大橋健三郎)→○(加島祥造

御礼

昨日の東京文学フリマへの出店、無事終了しました。来てくださった皆様、ありがとーございました。

 

印刷所に頼んだブツは開場前に初めて見たんですが、パラパラめくって不備は少なかったものの、理想と現実の大きなギャップにウウウと頭を抱えていました。それは主に内容面に関することで、ここに書いたことをベースに時間ギリギリまで改稿していたら(改稿や追加情報を含めると、六割くらいブログ版とは違うとおもいます)行き届かない点がけっこう目について、(こんなグダグダな書き散らしでお代を頂戴していいんかいな……)という感じでボー然としていました。(誤って評論コーナーではなく創作コーナーに出店してしまったことにも当日気づいてボー然としていました)

そしたら、開場後コピー誌一種が30秒で売り切れたり、「ブログ読んできました」と言ってくだしった方がいらして、正直メチャメチャ助かりました。殊能将之センセー人気はやっぱりすごいな、と思いました。

 

通販方法はまだ模索中なので、決まりましたらまたこちらでお知らせします。今後ともよろしくお願いします。

 

 

 

 

(↓見返すとあまりにも素っ気なさすぎたブース状態)

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続・文学フリマについて

先日の予告の内容が固まってきたので、再度書いておきます。

【日時】

2017年11月23日 11時~17時

【場所】

東京流通センター 第二展示場 2F ウ‐40

【サークル名】

立ち読み会

【頒布物】

『立ち読み会会報誌』第一号(特集・殊能将之〔その一〕)

【内容】

序 立ち読み宣言

巻頭インタビュー 磯達雄氏に聞く

第〇部 二〇一三年三月三十日~四月三日

第一部 『ハサミ男』を読む

第二部 『美濃牛』を読む

第三部 『黒い仏』を読む

追記

編集後記

【判型】

ノベルス版二段組

【ページ数】

160ページ

【価格】

千円

【部数】

50部程度

【表紙デザイン】

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他にコピー誌も二つほど持って行きます。

c.bunfree.net

文学フリマについて

そういえば↓で予告したように今度、2017年11月23日東京開催の文学フリマに出ます。

主な内容は、このブログで書いてきた、『ハサミ男』『美濃牛』『黒い仏』についての感想文です。他にも殊能センセーの作品については思うところを書き散らかしてしまっていますが、数えてみたらけっこう膨大になってしまったので、三分冊くらいにすることにしました。

といっても単に転載したのではなくて、いま読み返したらけっこうズレているというか恥ずかしい部分も多いので、大幅に改稿してます。あとまだ秘密のテクストも掲載予定です。

ここに書いたことは特にブツにするつもりはなかったのですが(オソレオオサのほうが強いので……)、『読書日記』(2015年)、『未発表短編集』(2016年)と続いたセンセー関連物が今年は何もないのと、来年2月で没5年にあたられるのと、個人的な事情等などで、ちょっとまとめてみることにしました(第二弾以降は完全に未定ですが)。なにぶん個人サークルは初めてなので、右も左も分からないため、ご支援いただけましたら幸いです(残部はどこかで通販もする予定です)。

詳しい内容、価格、デザインなどはまた直前になったらお知らせします。

よろしくお願いします。

c.bunfree.net

ネタバレについて2017

【はじめに】
 このブログでは二、三年に一度ほど、いわゆる「ネタバレ」という問題について、自分の思うところを述べてきました。というのは、「ネタバレ」への批判、およびその過剰な批判への反批判について、巷間、コンフリクト(摩擦)が起こっているのをたびたび目にするからです。
「ネタバレ」批判は主に、ミステリ作品(ざっくりいえば)を語るに際して起こっているように、見受けます。対して、「ネタバレ」批判批判は、主にミステリでない作品について語られることが多い。
 私自身は、ミステリの分野にホームグラウンドがあると感じています。だから、基本的に、ミステリについてのネタバレは、避けます。でも、敬愛する多くの作家ないし論者の方(主に純文学系の方ですが)が、「ネタバレ」批判の過剰さへの批判をされているの目にし、理解できる気持ちも、あります。「ネタバレ」回避には確かに、深いコミュニケーションを阻害する弊というべきものがある。だから、両者のあいだで摩擦が起きているのを見るたび、もどかしい思いを抱いてきました。
 なぜ「ネタバレ」を語ってヒトはすれ違うのでしょうか。それは、ひとくちに「ネタバレ」といっても、実はさまざまなバリエーションがあり、その内実は論者の文脈によって異なるからだ、というのが、二〇一七年時点での私の考えです。

 

【ネタバレとは何か】
 ここで私のいう「ネタバレ」の基本的な意味を、まず始めに書いておくことにします。
 それは、

「演劇・小説・映画・漫画などの物語芸術作品(フィクション)について、既読者が、作品の重要な転換点ないし結末を、未読者に対し明かす(特に、事前の注意喚起ぬきに)こと」

だと、仮にしておきます。

 

【「ネタ」が重要となる作品とそうでない作品】
 あまりにも当たり前のことですが、フィクションにおいては、「ネタ」=物語の展開が読者に対し重要な役割を果たす作品とそうでない作品があります。
 そしてミステリ(これもその内実は複雑なのですが、詳しく説明するのは煩雑なので、なんとなく「推理もの」「探偵もの」と呼ばれる作品群だとしておきましょう)、中でも「本格ミステリ」と呼ばれるジャンルにおいては、その「ネタ」が、作品の生命とも呼ぶべきほど重要です。
 なぜなら、ミステリにおける読者の読書行為とは、作者対読者の「ゲーム」だからです。この「ゲーム」においては、作者が作品に仕掛けた「ネタ」を、作中において解き明かされる前に、読者が推理する、というのが、対決の形式です。読者が解決よりも先に「ネタ」にたどり着くことができれば、読者の勝ち・作者の負け。逆に、読者の想像を超える「ネタ」を仕込むことができれば、作者の勝ち・読者の負け。
 それは将棋やチェスや囲碁のような一対一の一回勝負のゲームに似ています。相手の手の内が先にわかってしまっては、ゲームになりません。相手の出方がわからないという緊張感があるからこそ、このゲームは成り立ちます。ものすごく大ざっぱにいえば、ミステリというジャンルにおけるあの手この手の技法は、この作者対読者の緊張感を掛け金に開発されてきました。そして往々にしてそこでは(とりわけ、アイデアに重きをおくみじかい短篇などでは)、作品の構造において、ある一点(ネタ)をひねることによって読者の風景をまるきり違うものに変えてしまうというテコの一点性、スマート性が、エレガントなものとして評価されてきました。すなわち、些細な一点の錯誤によって、全体を大きく塗り替えてしまう、という、エコノミクスです。こうした評価軸をもつ作品において、錯誤という仕掛け=「ネタ」の事前暴露は、致命的です。
 もちろんこの「ゲーム」という関係は、フィクションをめぐる環境の一領域にすぎません。狭義のミステリにおいては、「ネタバレ」が問題となる可能性が比較的「高い」、ということは、いえるでしょう。しかし、「ネタ」に重きが置かれていない作品の場合は、どうなるでしょうか。たとえばプルースト。たとえばジョイス。たとえばベケット。彼らの作品は、あるたった一点の暴露によって作品全体の意味が変わる、ゆえに作者もそれを隠す、というふうにはなっていない。むしろ何度も読まないとわからない。とはいえ、だからたった一点の「ネタバレ」によって読者へ与える感動を減じてしまう作品など文学的価値の低いものであり、むしろ何度も読んでようやく理解できる作品こそ価値が高いのだ、とも一慨にはいえない。そうではなく、「ネタ」が鑑賞において重要な役割を果たす作品とそうでない作品があり、その両極は幅を持つ、という話です。このグラデーションがないかのようにして「ネタバレ」を語ってしまうと、摩擦の問題をうまく言い当てることはできません。
 たとえば先の「緊張感」がなければ、ミステリというジャンルがこれほどまでに発展することはなかったでしょう。逆に、たとえミステリを鑑賞するのであっても、「ネタバレ」など全然気にならない、という鑑賞者も、いくらでもいるでしょう。作品にも鑑賞者にも、たくさんのグラデーションがあるので、「ネタバレ」が重要だとかそうでないとかいうことは、場合によって異なります。

 

【四つのファクター】
 ではその「場合」とは、どのように異なるのか。そこで「ネタバレ」に注意するに際して、どのようなファクターに着目していけばよいのか。私がいま思いつくのは、次の四つです。
1作品
2読者
3鑑賞
4論評
 このそれぞれが、「ネタ」の重要度において高から低への二つの極を尺度として持っているのではないか。
1作品。ここでの「高」は、先に挙げたようなミステリ、中でも「ネタ」こそが作品の命、というような見せ物小屋的なものが挙げられます。逆に「低」は、一度読んでもわからないような、難解なもの。
2読者。ミステリでないフィクションであっても、どんな些細な「ネタバレ」でも気になるというヒトが「高」。どんな作品であっても気にしない、というヒトが「低」にあたります。
3鑑賞。「ネタ」の重要度が「高」いのは、なんといっても初読時です。再読時は、忘れている場合をのぞき、「ネタ」というものはすでに知っているわけですから、「低」です。
4論評。たとえば紙誌での短い書評はふつう、未読者を多くの対象にしていますから、「高」といえそうです。反対に、作品全体をガッツリ論じた長い論文などでは、「ネタバレ」など気にしていては論じ切れません。

「ネタバレ」が問題になるのは、1〜3を受けた4の論評においてです。そこで「ネタバレ」に気をつけるにあたっては、このあたりの尺度への留意が必要になるかと思います。これを一緒くたに論じていても、摩擦はおきるばかりでしょう。

 

【私史上最大のネタバレ】
 私が知る限り、フィクションにおける「悲劇」としての史上最大のネタバレは、島田荘司占星術殺人事件』に関するものです。冗談ではなく、このケースは数万人単位で人生を狂わされた「犠牲者」を生み出しています。
【以下、有名なケースですが一応、ご存じでない方のために、ある漫画作品について言及することをお断りしておきます】
 一九九〇年代、講談社の大ヒット漫画『金田一少年の事件簿』のある作品において、『占星術殺人事件』のトリック=「ネタ」が二つまでも流用されました。その『金田一少年』を読んだ多くの青少年は、独自の物語として面白く思い、やがて小説を読むようになり、ある日、ミステリというジャンルにおける有名作『占星術殺人事件』を手にして、(あれっ、このトリックは見たことあるぞ……)という疑問を抱いたのです。
 この「ネタ」が真に独創的なものであったために、その経路を辿った若者は、というか私は、「自分は何かを奪われた」という感覚に強く捕らわれました。同じトリックが流用された(これはオマージュといえるのかどうか、問題にもなりました)別のフィクションにたまたま先に出会っていたために、自分は、この小説に正当に出会い驚くことのできる権利を失ってしまったのではないか。もし、別の出会い方をしていたら、たぶん、違う人生になっていたのかもしれない、云々。
 これは、「たった一つのネタによって読者へ与えるエモーションを減じるような作品は、フィクションとして価値が低い」というような話ではありません。読者と作品との出会い方の問題です。
「驚異」の念は、何か未知なるものと出会った時、個人の内側に生じます。それは時に、その個人の内側をかたちづくり、その後に左右します。そしてそのような大きな出会いは、若い時のほうが多い。
「ネタバレ」など些細な問題にすぎない、と述べることのできるほどの余裕を持つヒトは、けっこう、「読み巧者」と呼ばれる方に見受けられます。たいていの作品には動じないくらい、経験を重ね、スキルを積み、むしろ個々の作品よりもシーン全体を眺めわたしたいという野心に駆られるほど、読者としての自分がすでにほぼほぼできあがっているからだと思います。でも、まだまだできあがっていないヒトにとっては、作品との「出会い方」は、なかなか重要です。場合によっては、「ネタバレなど気にするな」というアドバイスは、年長者からの「押しつけ」として、反発をも招きかねません。
 もちろん、フィクションを愛好する誰もが、そうした紆余曲折を経て、やがて読者としての身体を、それぞれに作り上げてゆくわけですけれども。

 

【事前/事後の視野】
 前節で述べたのは、「読者」というファクターにおける「ネタバレ」の重要性の高低です。
 続いて「鑑賞」について述べてみましょう。
 前述のように、「ネタバレ」が問題になるのは初読においてで、再読では問題になりません。再読というのは確かに重要です。理解度においては、再読と初読では比べものにならない。しかしここでいう「理解」とは何でしょうか。それは作者が執筆における難点をどのようにクリアしたかという、「答え合わせ」の、リバース・エンジニアリング的観点に限られることなのでしょうか。
 物語を扱ったフィクションは、ふつう、始点と終点を持つ一本の線、一次元的存在です。鑑賞者は多くの場合、それを順序通りに潜ってゆく。もちろんそれは一つの正当な読み方に過ぎません。実際はためつすがめつ、どのように自由に扱ってもよい。
 ミステリなど「狭義」の「ネタ」を離れて、もっと広い意味で「ネタバレ」という時の「ネタ」とは、たいてい、物語の展開をさしています。たとえば、登場人物の運命だとか。
歴史小説は最初からネタバレ」などといいます。特に死に方の有名人物……織田信長なんかを扱う際は、その最期を鑑賞者の誰もが知っている、その前提で作品は作られる。その時、鑑賞者は、物語時間の外部から登場人物を眺めます。作中人物の最期が悲劇的であることを知っていればいるほど、自身の最期を知らない登場人物の泣き笑い、一挙手一投足と、それを眺める鑑賞者の視線のあいだに、いいようのないアイロニーが生じる。
 同時に他方で、鑑賞者の内側にはサスペンス=宙吊り感覚も生じます。自分は結末を知っている。それと作中の物語展開は、どうにもかけ離れている。作者はどうやってあの結末まで持って行くのだろうか。……そういう謎、宙吊りの感覚です。
 この宙吊り感覚は、演出の一種です。歴史物で有名な人物・事象を扱うなら必然的に生じますが、そうでない場合、作者は、ナシにしたり、逆にこしらえたりすることもできる。
 たとえばナボコフの『ロリータ』。たとえば太宰の『人間失格』。この二つはそれぞれ、著名な書き出しをもっています。しかし実はそれは、真の冒頭ではない。この二つは手記を囲む枠、すなわち主な語り手とは異なる人物による序文を持っていて、そこでは作品の核をなす手記の書き手の運命がほのめかされます。つまり読者は作中人物の運命をチラ見させられた上で、宙吊り状態に置かれます。このチラ見→宙吊りは、一種の演出です。この時、「ネタバレ」と原理を同じくする効果が生じています。この効果をもたらすのが、手記の書き手とは異なる人物による「序文」であることには、注意が必要です。それは例えてみれば、作中人物の運命をあらかじめチラ見せする、セルフネタバレを作品に組み入れての利用=演出です。作者は、作品にその効果が必要だから書いたのです。必要でなければ、最初から書かないでしょう。
 作中人物と鑑賞者のあいだに生じるアイロニー。鑑賞者は彼らの未来を知っているからこそ、そこに至る「過去」の彼らの行動に馬鹿だなあと思ったり、かえって勇気を受けたりする。この原理はフィクションに限らず、作品の外の現実においてもいえます。
 つまりふつう、ヒトにとって、未来とは確実なものではない。確実でない未来を前にして、何かしら行動している。ゆえにそこには、賭けとしての倫理性が宿ります。もし、未来を熟知した「事後」の視野から「事前」を眺めるならば、ヒトの行動はずいぶん安全で安心な、「緊張感」のないものになっているでしょう。自分が何をすればいいのか、すでに「理解」しているからです。しかしヒトは未来を熟知などできない。
 古くからの有名作に対しては、作者が「チラ見」をこしらえなくとも、先の歴史物と似たような効果が生じます。『吾輩は猫である』の猫はビールを飲んで酔っぱらって溺死する。『失われた時を求めて』の語り手は小説を書き始める。これは作者が執筆時には意図していなかったであろう、作品をめぐる環境です。
 現在において発表される新作は、もっと違う環境にあります。

 

【古典と新作】
 物語の展開を知った上で作品を鑑賞することは、安全で、安心です。作中人物のメタレベ
ルに立った上で、不確定性にふりまわされるということがない。
 同じように、クオリティの保証された有名な古典だけを鑑賞するのも、安全で、安心です。何より、クズを掴まされるという無駄が縮減されます。
 しかし、「現在」生み出され続ける新作については、安全で安心な立場はまだ確定していません。その立場は、鑑賞者個人々々の鑑賞体験の賭けを基礎にして作られてゆくものです。
 たとえば「現在」の実作者は、安全安心とは違うレベルに立たされています。ナボコフ、太宰、といえば、今や、揺るぎない人気を誇る小説家に見えます。しかし、作品を生成しているその時点においては、なんの保証もありません。作者は不安にさらされていたでしょう。いま書いている作品は果たして傑作となるのかどうか。自身のキャリアにおいてどういう位置付けを持つのか。読者に受け入れられるかどうか。売れるかどうか。後世に残り文学史に記録されるのかどうか。自分の運命について「ネタバレ」されてメタレベルに立つことなどできません。
 それらすべてをのりこえてきたようにいま見える過去の古典も、五十年後、百年後、どうなるかわかりません。それを左右するのは、鑑賞者たちです。その時々において、「現在」の「私」たちの読み一つ一つまでもが、実は、未来から問われているのです。
「ネタバレ」という問題が常に私に投げかけるのは、こうした、時間の内すなわち不確定性にさらされた丸腰の存在者としての倫理性です。

 

【論評における語り口の選択】

 話が大きくズレてしまいました。
 しかしここまでの話で、「ネタバレ」とは、その時々において、論評の語り口のバリエーションを要求するという、しごく当然のことが、はっきりしてくるのではないしょうか。作品は有名なのか無名なのか。一度読めばわかるのか、何度読んでも難解なのか。読者は何を気にしているのか。鑑賞について何を重視しているのか。論評は単なるオススメなのか、論者の全身を投じたテクストなのか。これらは「ネタバレ」を全否定すべきか全肯定すべきかというような、単純な話ではありません。
 しかしどうもこの話になると、感情的になってしまっていけません。
 ちなみに、私が大学二年生で、ミステリ研究会のサークル勧誘をオリエンテーションでしていた時、ある新入の男子学生が、「面白いミステリとはネタバレされても面白い作品を指す」理論を唱える論者で(当時は)、アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』という有名作の真相について、勧誘ブースで大声で論評するという行為に及んだことがありました。さすがにその時は、複数人で注意して、別所に移っていただきました(彼はその後、入会し、サークルの会長になりました)。

「ネタバレ」を肯定する際、もし効率性をのみ重視するならば、それは極論にまで敷衍すれば、現在作られる新作、そして鑑賞者としての「私」という個人そのものの否定にも、通じていきかねません(作品に対する最大にして最悪の「ネタバレ」とは何かと想定すると、「……とまあ、以上のような次第で、あれは誰が見ても古典になりえない、いま世間で重視されているどのような評価軸にもひっかかりえないクズだから、君が読んでも意味ないよ」というような、丁寧な解説ではないでしょうか)。逆に、一切の「ネタバレ」を禁ずるならば、それはそれで、鑑賞者に膨大なコストを要求し、個人の獲得できるスキルはずいぶん貧しいものになってしまうでしょう。
 先の四つのファクターの組み合わせによるバリエーションは、この両極のあいだにあります。その時々において必要とされる論評の語り口の選択をどうするかが、鑑賞する「私」の個人性と、作品の評価、そしてフィクションをめぐる環境そのものを、やがてかたちづくってゆくことになるのではないでしょうか。

LUSTMORDの夜

昨晩、文庫版『ラヴクラフト全集』をパラパラめくりながら、気分を高めるためにスマホでLUSTMORDという人の音楽を聴いていたら、急にすべてのアプリが画面から消えて使えなくなってしまった。それだけでも怖いのだが、なんと再起動さえできない。ただ音楽がバックグラウンド再生できるのみだ。こんな事態は初めてだ。

(⬇︎試しにスクショしたら撮れていた。画面が常にこんな状態)

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だからスマホをバッテリー切れにしてむりやり再起動させるために、LUSTMORDの『OTHER』というアルバムを一晩中、何度も何度も再生しなければならなかった。

で、聴いた方はすぐおわかりになると思うのだけど、このLUSTMORDという人の曲は、(いったい何が楽しくてこんな音楽作り続けてるんだろう……)と思うぐらいの(褒めてます)100%ピュア・ダーク・アンビエントなのだ。

これを何時間も聴き続けるのは正直ツラくて仕方がなく、最後の方はもう聴こえないよう単にイヤホンをぶっ挿して放置していたのだが、朝方になってようやく、パワーを使い尽くし、再起動して元に戻すことができた。

この疲労した気分を共有したく、ここにLUSTMORDのbandcampを紹介する次第です。たいていのアルバムが全曲試聴できます。

[ O T H E R ] | Lustmord

ちなみに、『OTHER』のジャケットはこんな感じです。

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「memo」におけるロス・マクドナルド関連記述

11月23日の東京開催の文学フリマに出展する予定で、殊能将之センセー関連のあれこれをいま、読み返しています。

するとそのうち、自分がかつてここ

読書日記ページ「reading」は原書の紹介がメインで、邦訳された本の感想については、通常の日記ページ「memo」に記されることが多かった。そうすると、600枚に収まりきるような分量ではない……。

 と書いたことをフト思い出し、「memo」から小説・映画・音楽関連の記述だけを抜粋していったら、2000枚くらいあった(古川日出男『聖家族』くらいですね)。

ボリュームとしては『殊能将之読書日記』の三倍強。関連する内容も多いから、講談社様におかれてはぜひ続篇として出していただきたい。『読書日記』は少なくとも一度は重版したそうだから、いけるんじゃないかなあ(読んでいるとまあ、面白いとはいえ、個人的にはどうも心の中にむなしい風が吹き過ぎてしまうことは否めないのですが、……)。

ところで『読書日記』といえば、本文最終部のロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』に関する分析がリンク切れして入手できないということがありました。私も記憶がおぼろげなので、もし保存していらっしゃる方がいたらぜひ拝見したいなあと思います。

↓の個所ですね。

 ジャック・ヴァンスのThe Anome(1971)冒頭に、The Chilitesというソウルグループみたいな名前の宗教集団が登場する。

 これは女性嫌悪の宗教で、メンバーは男性のみ。いずれも10代の頃に母親から引き離され、全身消毒されたあと、生涯女性と接触せずに暮らしている。
 さて、The Chilitesはどうやってコミュニティを維持するのか? 生涯女性と接触しないのでは、The Chilitesの子供は産まれないはずだ。
 答え。街道沿いに女性たちが店を開いていて、通りかかる旅人とセックス(要するに売春)して子供をつくる。男の子の場合はThe Chilitesに加入する。女の子の場合は店を引き継ぐ。
 確かに女性嫌悪の宗教コミュニティを維持するには、これしか方法はない。エレガントな解答である。
 こうしたエレガントな解答を小説化すると(つまり生身の人間によって演じさせると)、異常な設定に見えたり、どろどろした人間関係が生まれたり、イヤな話になったりする。わたし流の形容をすると、これがロスマク理論である。

 ロス・マクドナルドは主に性愛関係とそれに基づく親子関係をもとに人物どうしを関係づける。その際の方針は完全性(関係づけられるところはすべて関係づける)と対称性である。
 こうしてできあがった人物関係グラフを小説化すると、家庭の悲劇が生まれる。なぜなら、性愛関係とそれに基づく親子関係によって結びついた集団を親族というからである。
 以下、最高傑作『ウィチャリー家の女』(小笠原豊樹訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)のネタバレを含む分析([リンク切れ→http://www001.upp.so-net.ne.jp/mercysnow/Reading/wycherly2.html])。(「reading」2009年6月27日)

ロス・マクドナルドについての記述は、memoにもいくつかあります。たぶん、下記のような親族構造に関することが書かれていたんじゃないかなあと思います(時期も近いし)。

こうしたネタバレ分析のことごとくリンク切れなのが残念なので、何かご存知の方はご教示いただけましたら幸いです。

 人間どうしを関係づける方法はいくつも考えられるが、ロス・マクドナルドは主に性愛関係とそこから生じる親子関係を用いた。彼の作風がしばしば「家庭の悲劇」と呼ばれる理由はそこにある。
 ロス・マク作品の登場人物たちは、時には「ここまでやらなくてもいいだろうに」と感じられるほど、複雑に結びつけられている。おそらく最も複雑なのは『別れの顔』(菊池光訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)だろう。人物相関図を描いてみればわかるが、その入り組み方たるや、パラノイアックにすら感じられるほどだ。
 ところで、現在ではロス・マクが思いつかなかった(あるいは思いついても時代の制約から採用できなかった)関係づけが許されている。
 この関係づけには、いくつかの利点がある。
 第一に、「接着剤」(佐野洋)を用いなくてもいいため、何人かの登場人物を省くことができ、人物相関図をいわば「縮約」できる。
 第二に、「奇偶性」が消えるため、関係づけの自由度が増す。たとえば、従来の三角関係にはふたつの結びつきしかなかったが、現在は三つの結びつきを与えることができる。
 かつては、第三の利点「新たな関係づけが一般的ではないため、読者に意外性を与えることができる」があったのだが、これはいまやさほど利点ではなさそうだ。新たな関係づけがごく一般的、日常的なものとなったからである。(「memo」2006年1月後半)

 

 瀬戸川猛資氏の「ロス・マクドナルド本格ミステリ作家である」(『夜明けの睡魔』創元ライブラリ)という宣言は、いまやほぼ定説と化している。次はそろそろ「ロス・マク横溝正史説」が定着するんじゃないか。
 わたしの知るかぎり、この説を唱えた人がふたりいる。
 ひとりは瀬戸川猛資氏だ。確かなにかの座談会での発言で、もちろん「ロス・マク横溝正史のようにおもしろい」という趣旨。
 もうひとりは矢作俊彦氏で、こちらは「ロス・マク横溝正史のようにつまらない」という趣旨なのだ。記憶をもとに大意を書けば、「ロス・マクは田舎を舞台にどろどろした家族関係を描いていて、あんなの横溝正史と変わらない。だからつまらないんだ」という発言だったと思う。
 このように立場が正反対ともいえるおふた方が同じことを言うのだから、この説はたぶん正しいんじゃないかと思う。(「memo」同)

 

ロス・マク横溝正史説」が正しいとすれば、『ウィチャリー家の女』(小笠原豊樹訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)は実は『ウィチャリー家の一族』なのか。
 しかしながら、この小説のタイトルは『ウィチャリー家の女』でなければならない。ネタバレありの理由はこちら[リンク切れ→http://www001.upp.so-net.ne.jp/mercysnow/LinkDiary/wychery.html]。

「人間を殺す方法はいくつもあるが、人間をつくる方法はひとつしかない」とは、いったい誰の名言なのか。

 殺人と子づくりには、もうひとつちがいがある。すなわち、
「人間はひとりで殺せるが、人間をつくるにはふたり必要である」
 では、ひとりで子供をつくれるが、ふたりでないと殺人を犯せない宇宙人がいたとしたら、どうか。宇宙人のロス・マクドナルドは、いったいどんなミステリを書くんだろう?
 ……ということを思いついたことがあるんだが、こんなのネタにならないから、すぐに考えるのをやめた。フランク・ハーバートが書けば、おもしろくも難解な小説に仕上がるかもしれない。
 ひとつ言えるのは、「この宇宙人は自殺できない」ということですね。(「memo」同)

 

 わたしが「スルース」をそれなりに楽しめたのは、一時期、ロス・マクドナルド作品における人間関係の分析に熱中していたからかもしれない。
 わりといろいろなことがわかり、おもしろかったんだが、残念ながら新たな発想源にはならなかった。基礎研究はできたが、応用には至らなかったわけ。残念。
 せっかくの機会だから、ごく簡単にまとめておくか。(「スルース」をごらんになり、ロス・マク諸作をお読みになった方限定です[リンク切れ→http://www001.upp.so-net.ne.jp/mercysnow/LinkDiary/rossmac.html])。(「memo」2008年5月後半)

 

 英ニューカッスル大学のカリム・ナヤーニア(Karim Nayernia)教授がES細胞から人工精子をつくりだしたと発表。
 理論的には男女どちらのiPS細胞からでも精子卵子をつくりだすことが可能なはずで、ロスマク ver.3への道筋は着々とつけられつつあるようです。

「ふたりのあいだにできた子供」を「ふたりの遺伝子を共有する子供」と解釈するならば、同性間で子供をつくる方法は現段階でも存在する。
 男Aと男Bのあいだで子供をつくるには、男Aが女Cと性愛関係を結んで女Dを出産し、男Bが女Dと性愛関係を結んで子供Eを出産すればよい。子供Eにとって、男Aは祖父、男Bは父にあたるため、両者の遺伝子が受け継がれている。
 このネタは3、4年ほど前に思いついたが、相当いやな話になるから廃案にした。
 たとえば、こんな話。男Aと男Bは同性愛関係にあったが、別れてしまい、男Aは女Cと結婚して女Dを出産する。男Bは男Aのことを忘れられず、男Aとのあいだの子供が欲しくなり、女Dを拉致監禁して……(以下略)。
 いやな話になるにも関わらず、人間の心の闇とかとはいっさい関係ないパズル的な発想だから、読者は誰もこの動機に納得してくれないでしょう。(「memo」2009年7月前半)

 

 細田守は各種インタヴューで、デジタルネットワークと親族の類縁性を語っている(たとえばここ[→http://www.cyzo.com/2009/07/post_2341.html])。
 しかし、わたしの考えでは、親族は家族ではないし、ましてやデジタルネットワークではない。
 なぜなら、親族であることはやめられないからだ。
 夫婦は家族であっても親族ではないため、離婚することができる。デジタルネットワークは非公開に設定したり、アカウントを取りなおすことができるし、いっそのことケータイとパソコンを捨ててしまえば、完全に縁を切ることができる。しかし、親子の縁を切ることは(比喩的にしか)できない。

 実は「サマーウォーズ」にはある工夫がなされている。(以下、公式サイトの家系図を参照してください[→http://s-wars.jp/characters/images/chart01.jpg])
 篠原夏希の母雪子は陣内家の長男の娘だが、この長男夫婦(夏希から見れば祖父母)は登場も言及もされないどころか、名前と容貌すらわからない。つまり、設定上はつながっていても、物語上はここでネットワークが断絶している。
 逆の工夫もある。三男万作家の嫁である典子、奈々、由美は、栄の誕生会のため実家でかいがいしく働いている。指揮をとる栄の長女万里子は、まるで母親のようだ。しかし、世間一般ではこういう人を小姑と呼ぶ。
 なぜこういう展開が成立するかというと、典子、奈々、由美が万作の性格を反映しているからだ(一方、次男万助の娘である直美と聖美は万助の性格を反映しており、万助/万作が陣内家女性グループの大分類となっている)。三人は家族であっても親族ではない(離婚しようと思えばできる)はずなのに、あたかも親族であるかのような緊密なネットワークで結ばれている。
 篠原家の家族に対する親族の圧力は祖父母の不在により弱められる。一方、篠原家以外の親族は緊密に結びつき、ひとまとまりの「親戚のおじさんおばさんたち」を形づくる。この結果、夏希は親戚と戯れつつ、自由に行動できる。
 さらにいえば、夏希の両親(和雄、雪子)は他のキャラクターに比べるとかなり影が薄い。こうして恋人たち(健二と夏希)に対する家族の圧力も弱められる。
 本作では、こうした工夫があってこそ、恋愛=家族=親族を破綻することなくつなげられたのだと思う。(「memo」2009年8月前半)

 

 クロード・レヴィ=ストロース死去。
 あまり読んではいないんだけど、結局、最も斬新で間違いなく構造主義だったのは『親族の基本構造』のような気がする。

 わたしはレヴィ=ストロース「料理の三角形」の影響を受けた玉村豊男『料理の四面体』の影響を受けたから、いわば孫弟子にあたるのではないか。ちがうか。(「memo」2009年11月前半)

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