TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

一年の計

この前の正月にボルヘスの本をいくつか読んでいたら、様々な想念が去来した。以下はその雑多な念を覚え書きとして書き付けるものである。

 幼い子供に「こんな勉強、して何の意味があるの? 大人になっても使わないでしょ?」と聞かれたらどう答えるか。今の私の実感としては、「それは筋トレだから、やっといた方が良いのだ」という答えが最も腑に落ちる(そう返された子供の方がどう思うのかはわからない)。
 目の前の現実というのは可能的な世界の一面にすぎないのであって、その一面の処理のみに最適化した生存モデルをとると、不測の事態が起こった時(現実の別の一面の顕在化)に対応できない。だから備えとしては、最低限対応できるくらいの広さの筋肉を開発しておいた方が良いとおもう。

 しかしこうした感覚というのは、幼い頃はなかなか腑に落ちない。それはおそらく、幼い頃には、作業量の全体を把握するという経験に乏しいからだと思う。長じれば誰でも、大なり小なり作業に追われている。まず締め切りが設定される。そこから作業量の全体推測があり、作業日程の逆算が始まり、必要なペース配分が割り出される。こうした全体把握(上位階層/マネジメント)ののち、実務(下位階層)にとりかかり、以下、変更の必要に応じて階層移動がくりかえされ、作業は達成される。この時、「目的」は上位階層であり、「手段」は下位階層である。効率的な目的達成のためには、手段は交換可能である。また目的/手段という関係自体も、階層の位置関係によって決定される相対的なものであって、より上位の「目的」にとって、下位の「目的」は「手段」にほかならないから、下位の「目的」もまた必要に応じて交換可能になる。
 誰もが日々、こうした階層移動を意識的無意識的に行うことで何らかの作業を達成しているのだが、上位から下位を眺めた際の全体把握ということはそれを何度か経験しないとなかなかわからない。子供には目の前の現実現在が全てであって、上位も下位もない。なんとなく快いことを続けていたら、いつの間にか作業が終わっていた……そんな砂山のトンネル掘りの贅沢だけでは、資本主義社会においては全員が生きてはゆけないのである。

 大人になったからといっていつでも必要な全体把握(上位移動)が行えるとはかぎらない。大人は時にある一面のみを全体だととりちがえ、それが変更できないことに苦しんでしまう。一般人向けの禅のトレーニングではまず、目の前の現実現在に意識を集中せよ、という。そのことによって雑念・妄執という、「今、ここ」には存在しない、頭の中だけの「ニセの現実」を断ちきるのだ。

 現実現在への集中ということは、そもそも子供の時に誰もががやっていたことだ。なぜそれができなくなるのだろう。それは作業に追われ、仮の全体把握をくりかえすうちに、そうした下位の全体の総量を世界=全体そのものと取り違えてしまう、つまり、ニセの現実にとりつかれてしまうからではないか。

「一年の計は元旦にあり」などという。この時、年頭に立つ人は、年中の自分に対し上位階層、マネジメント的視点に立っている。
  年頭の自分=上位階層
  年中の自分=下位階層
「さー今年は年中の自分(下位階層の自分)を思うさま使役してあんなことやこんなことをやるゾ」などという期待にワクワクと胸をふくらませるが、年中になるとそうした期待はしぼみがちである。それはおそらく、(自分は今、下位階層にいて、ツマラナイことをしている=させられている)と感じるからではないか(もちろん、やってみないとわからない様々な予期しない障害もまた次々とやってくる。それで結局脱線してしまい年末にマネジメント的視点に立った時には「今年の自分は……」などと「後悔」してしまう)。こうした「期待」を持続させるには、「目的」の側から眺めることでそれ自体には意味のうすい「手段」のもつ意味を充填させること、すなわち階層移動が必要になるのではないかとおもう。

 人はなぜフィクションを体験するのだろう。それは体験する時間を現実現在のものとして、つまり目の前の作品内部において起こっていることに意識を集中させて、その体験を楽しむこと自体を第一の目的として楽しみたいからだ。ここには作品の内/外という階層移動があるのだが、体験を二義的なものとして、すなわちこなすべきタスクという手段(下位)として扱うとき、人はその体験から引き出せる楽しみを減じさせてしまう。締め切りがあり、ある小説の書評を書かなければならない。この時、書評執筆は目的(上位)であり、読書は手段(下位)である。さらに、執筆はより上位階層にある「収入」に対する下位手段なのかもしれない。フィクション体験が目的ではなくこうした手段として扱われる時、結局のところそれは下位のもの、交換可能なものでしかないのだから、何らかの「雑念」が入りこんできてもそうおかしくはない。(こうした経験をくぐり抜けた人は「好きなことを仕事にしてはいけない」「初恋の人とは幸せになれない」「他者を手段ではなく目的として扱え」「◯◯ちゃんとは仕事を抜きにしてプライベートで仲良くなりたい」などと口にする)

 いわゆる学習法の本なんかに時々、ドストエフスキーシベリア体験が出てくる。人間にとってもっとも辛いことは無意味な作業をこなすことだ、ゆえに自分で掘った穴を自分で埋める、という労働はもっともつらく、シベリアアウシュヴィッツの収容所ではこうした刑罰が行われた、しかしドストエフスキーはここから出ていつかこのことを書くという目的(上位)のためにこうした作業をこなす自分を下位にあえて引き下げることで過酷な刑罰をのりこえることができた、だから目標をもつことは大切なのだ、……云々。
 穴掘り&穴埋めが楽しくて仕方ないという子供(作業=目的)なら、こうした作業も苦ではない。逆に作業が苦であるなら、何らかの目的の位置から手段に意味が充填されなければツラくて仕方がない。
 すると目の前の苦を乗り越えるには二つのルートがあることになる。一つはそれそのものを目的=楽しみとすること。もう一つはそれを目的のための手段とすること。ただし、この二つの乗り越え方はその苦が避けられ得ない場合に限るのであって、避けられる苦を避けられない苦(現実)と捉えた時、人は逆に「ニセの現実」に捉えられている。

 目的/手段という階層化は、目の前の現実を何らかのかたちで乗り越えるそれ自体仮の手段であって、こうした階層移動(世界内にいながらにして世界外に視点を仮に位置づけ世界全体の総量を測量し、目的と手段を結びつけてゆく技術)を必要とする感覚は、実際にその技術をこなしてみないとわからないということがある。願い(目的)のイメージの仕方にも上手下手があり、それはそうした経験をくぐり抜ける……過去の自分に対して上から目線で批評的距離をとることで、つまり自分を上位と下位に分離する経験によって実感される。で、わかると、現在という将来(上位)の時点から過去(下位)をふりかえって、「もっと時間がある時にあのへんのことを勉強(筋トレ)しておけばよかった……しかし今ではもう、そんな時間は自分には残されていない(だから、同じ轍を踏ませないよう、若いモンには勉強=筋トレせよ、と説教するゾ~)」などと後悔するのだが、しかしこの後悔自体もまたニセの現実である可能性がある。現在もまた過去になれば下位化するからだ。過去の自分は本当に単にボケッとしていたのだろうか。あるいは、現在の自分は本当に余裕などないのだろうか。……そういう疑いは拭いきれない。しかしこれは雑念だろうか。

 ……月初めに考えたことを月末にメモっている時点でいろいろ思うところあるのですが、まあメモらないよりはマシだろうと思い書いてみました。長くなってしまったので、ボルヘスについてはまたいずれ。(ちなみにこれは去年買おうと思っていたポメラ用にflashairを先週買ったので、ポメラで書いて→evernoteに保存→evernoteからはてなアプリで投稿してみたものです。)

『立ち読み会会報誌』第一号(改訂再版)についての情報

『立ち読み会会報誌』第一号の改訂再版についての詳細が固まったので、お知らせします。

表紙は以下の通りです。

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配色は前回の新訳版『ナイン・ストーリーズ』イメージからガラッと変えて、邪神イメージにしてみました。

また今回は、誤字脱字の修正の他、初版よりも12頁分、情報を追加しています(全160頁→全172頁)。目次は以下の通りです。

【目次】
序 立ち読み宣言
巻頭インタビュー 磯達雄氏に聞く
第〇部 二〇一三年三月三十日~四月三日
第一部 『ハサミ男』を読む
第二部 『美濃牛』を読む
第三部 『黒い仏』を読む
追記 ポー・ラヴクラフト殊能将之
改訂再版のためのボーナストラック
編集後記

初版をすでにご購入いただいた方のために、追加部分の内容をこちらで紹介しようと当初考えていたのですが、チト懸念材料が出てきたため、別の方法を検討しております。スミマセン。(また追って記します)

通販は前回に引き続き、盛林堂さんにお願いしました。

http://seirindousyobou.cart.fc2.com/ca4/365/p-r-s/

この改訂再版は今後、文フリなどでも頒布していくかもしれません(次回の出店は私の余裕的に無理そうなのですが)。

引き続きよろしくお願いします。

 横田創による七年ぶりの新刊は短篇集『落しもの』(書肆汽水域、2018)

『落としもの』横田創 – 書肆汽水域

『埋葬』(2010)以降いくつか書かれていた短篇も「丘の上の動物園」(「すばる」2013年12月号)以来発表がなかったので気になっていたのですが、収録作はいずれも2007~2009年つまり約10年前のものです。

 雑誌に発表されたきりの短篇というのはもちろん2002年以降、それ以外にもかなりあるので、

横田創 - Wikipedia

 収録時期が固まっているのは何か理由があるのかなあ、というのが、興味ふかいところです。(あと近況情報)

 

落としもの

落としもの

 

 

 

狭義の叙述トリックとその他の分類――「叙述トリック」についてのメモ(8)

(6)で書いたことを、より詳しめに整理してみよう。

 以下でとりあげる概念は巷間、「どんでん返し」だとか「叙述トリック」だとかと呼ばれて色々混同されているが、それらは実は各々異なると示すことで、議論をスッキリさせたいというのが私の目的である。「叙述トリック」の内容面での分類はおそらく羊毛亭氏の区分が本邦で最も詳しいと思われるが、私の場合はそれをナラティヴの形式面で分類してみたい、ということになる。かなり独断に頼る部分があり、誤りや見落としも多いだろうから、批判的に捉えていただければ幸いです。

1.狭義の叙述トリック

「言い落し」を基本原理として読者を騙すもの。地の文で作中現実と異なることを書かずに、「言い落し」およびそこから誘発される意味の多義性・曖昧性を利用して読者を誤読に導く。特徴は、一人称でも三人称でもOK、ということである。
叙法型:ある一つの視点で語られるパートにおいて、重要事実を伏せていたことが終盤で明らかになるパターン。一人称においてこのトリックを用いる場合、いわゆる「信頼できない語り手」(ウェイン・C・ブース)の概念と重なる部分が多い。
構成型:複数の視点間のつながりにトリックがあるパターン。長篇に多い。

 注意点として、ネタは一作品につき一つとは限らない。単一視点による作品の場合、利用できるネタは必然的に「叙法型」となるが、複数視点を持つ作品の場合、ある一つのパートで「叙法型」のネタを用い、パート間で「構成型」のネタを用いる、というような“合わせ技”も存在する。

2.妄想・幻覚・夢オチ

 作中現実と見せかけて、実は語り手の現実認識に著しい誤りがあったことが判明する、ということに力点があるパターン(したがって、基本は一人称である)。上記「叙法型」との違いは、地の文で作中現実と異なることを書けるかどうかにある。つまり、
一人称・叙法型(≒信頼できない語り手):何らかの理由で現実認識が正確ではないが、事実と違うことは語らないパターン。=叙述トリック

 しかし地の文に虚偽が混じると、狭義の「叙述トリック」からは外れ、以下の概念にあてはまる(ただし、語り手は故意にウソをついていないものとする)。

妄想:語りに事実と異なることが混じるパターン。ただし、誤りは現実判断のレベルに留まり、身体的認識にまでは及んでいない。
幻覚:視覚や聴覚といった身体的認識における誤りが作中現実とまだらに混じり合って記述されているパターン。
夢オチ:語り手の身体的認識の全てが基本的に作中現実と異なっている――つまり作中現実と独白の階層が異なっていることが判明するパターン。

 現実認識の誤りの度合いにおいて並べるなら、
  一人称・叙法型<妄想<幻覚<夢オチ
 の順に、地の文に混じる虚偽が占める割合は強くなる。

3.階層トリック

 作中現実と見せかけて実は、というサプライズに力点があるパターン。「言い落し」による隠蔽を利用しているということでは上記叙述トリック」と変わらないではないか、と思われるかもしれないが、ナラティヴの階層差に主眼があることから立項した。さらに、語りが「創作物」であるか否かを目印にして、仮に下位区分を作ってみよう。

作中作トリック:読者が読んでいたものが創作物であることが後になってサプライズとして判明するパターン。作中作であることがあらかじめ明記されている場合は、これにあてはまらない(その場合は前記「構成型」に該当する)。いわゆる「夢オチ」との違いは、作中作の場合、それが意図的に作られたものである、という点に特徴がある。手記であれ小説であれ映像であれ、それは物語の登場人物も触れることのできる創作物である。「夢オチ」の場合、一人称内的独白の記述は、作中現実には存在しない。
人称トリック:三人称と見せかけて一人称、一人称と見せかけて三人称、というようなパターン。
語り手・聞き手トリック:呼び方をどう表現して良いのかわからないのだが、とりあえず仮に名付けて立項してみた。物語が特定の語り手を持つことが明らかで、かつ、終盤に至って初めて、語り手あるいは聞き手が物語の内容に深く関わっていたという「正体」が判明するという、階層侵犯がサプライズになっているパターン。我孫子武丸『探偵映画』で紹介されている某映画がわかりやすい(私の拙い文章で恐縮ですが、その映画からインスパイアされてショートショートを書いたことがあります……。ああこんな感じね、と印象が伝わるかもしれません)。

✳︎

 以上では、小説におけるナラティヴの階層(物語の階層と語りの階層)差の操作をなんらかの効果をもたらすものとして実際に使用されているものを挙げてみた。ざっくりとした区分なので、抜け落ちているものもある(たとえば一人称語り手が故意に嘘をついている場合だとか、作中作に故意に虚偽がまぎれこませてある場合だとか、……)。

叙述トリック」といえば通常、本格ミステリにおけるものを意味するが、以上のように、それをナラティヴの階層操作の一環と捉えれば、それは本格ミステリに限らず、サスペンスに由来するより広いエンターテインメントの文脈、さらに、純文学的分野においても、20世紀の後半以降、多く利用されてきた。

 我孫子武丸は1990年代初頭の段階において、「叙述トリック」が今後流行するとは思っていないと述べた(「叙述トリック試論」)。しかしそれから四半世紀が経ち、われわれはその後の「叙述トリック」の隆盛を知っている。なぜ「叙述トリック」は流行したのだろう。それは、本格ミステリの枠を超えた広い小説領域でナラティヴの操作がこの半世紀ほど行われたということが一つある。付け加えられるのは、「試論」において「叙述トリック」という語で呼ばれたテクニックは、今回真っ先に挙げた「狭義」のもの(および、「階層トリック」で挙げたものの内の一部)がおそらく想定されていた一方、実作の発展では、作中作だとか、妄想・幻覚・夢オチまでをも含む、作中の現実レベルや視点の構成においてより複雑な組み合わせが開発されてきた……すなわち、(日本型)本格ミステリの文脈に留まらない「広義の叙述トリック」が使用されてきた……という、「ズレ」があったからではないだろうか。

 ここからは、議論の整理のために便宜上、我孫子叙述トリック試論」における用法からも離れて(さらに一般的なイメージからも離れて)、「叙述トリック」という用語の狭義と広義を作業仮説として次のように区別してみる。

 狭義の「叙述トリック」=上記1のみを指す。

 広義の「叙述トリック」=上記1、2、3すべてを含めたもの。(以下、狭義と区別するため、「語りのトリック」と仮に呼ぶことにする)

 先述したように、一つの作品は一つのネタ(トリック)のみをもっているとは限らない。たとえば三部構成になっていて、第一部は信頼できない語り手の一人称、第二部は幻想的な三人称の作中作、第三部は三人称で、かつ全体のつながりに構成型トリックが用いられている、……というような場合も考えられる。

 加えて、誤解されがちではあるが、こうした語りのトリックが用いられている作品が即本格ミステリであるかというと、そうではない。「本格ミステリ」というジャンルの要件は「謎と論理的な謎解き」であって、「叙述トリック」の使用はあくまでも副次的なものに留まるからだ。たとえば上記の「語り手・聞き手トリック」を用いた作品がそれだけで本格ミステリかというと、そうではない、ということは誰でもわかるとおもう。語りのトリック自体は単なるテクニックだから、純文学だろうとSFだろうとファンタジーだろうとホラーだろうと何にでも利用することができる(実際に作例もある)。「謎と論理的な謎解き」があり、読者の誤導をサポートするテクニックとしてこうした語りのトリックが使用される時、その作品は本格ミステリというジャンルに分類される。つまりある小説にジャンル的分類を適用しようとする場合、語りのトリックが使用されているか否かは無関係なのだ。

 よく、「叙述トリックは使っていることが分かるだけでネタバレ」などといわれる。それはなぜか。

「〇〇は密室トリックを使った長編で……」と言及しても、それだけではネタバレではない。それは「密室トリック」という言い方は、「謎」に対する呼称だからだ。一歩進んで、「〇〇で密室トリックを構成するのは一人二役トリックで……」などといえば、それは「ネタバレ」である。すなわち、同じく「〜トリック」と呼称するにしても、「トリック」という用語で呼ばれる意味内容にはズレがある。「密室トリック」「アリバイトリック」というような言い方は、作中の不可能現象=「謎」に対する呼称であるが、「叙述トリック」「一人二役トリック」などは作中の謎解き=「ネタ」を指すからだ。とりわけ「叙述トリック」は、謎を謎と悟られないことで成立する類いのネタ=サプライズである(それはおそらく先述の階層差にも由来する)。

叙述トリック」に関する議論は、現状、思春期男子の性知識のようなものだ……それは、確実にそこにあり、喧伝されている。集める興味も大きい。にもかかわらず、その内実を大っぴらに語ることはタブーであり、誰もが「ネタバレ」を避けてひそひそ声で囁きあう。そのことによって、歴史的伝言ゲームが不明瞭なものになっているのではないかと、私は思う。「目的から手段へ」(我孫子武丸「手段としての叙述トリック」/日本推理作家協会編『ミステリーの書き方』幻冬舎、2010 )という表現はつまりこうしたテクニックが実験室での技術開発競争から一般応用化へと拡散してゆくタームに既に入って久しいということで、私としてはその転換点をキチッと抑えておきたいと思っているのだが、……。

 以上書いてきたことはすべて、未だ思いつきの域を出ず、自前の用語をいくつも捏造したために、お読みになる方の理解に負担を強いている部分も大きいかと思う。今後、細部をより見ていきたいと考えております。

小沼丹『更紗の絵』

読み初めは小沼丹『更紗の絵』(講談社文芸文庫、2012)。1972年あすなろ社刊の長篇の文庫化。自伝的小説で、戦後直後からだいたい十年間ぐらいの教師生活を基にしたもの。文庫版あらすじには「青春学園ドラマ」とあるが、別に生徒との熱い交流が描かれているわけではない。むしろ、主人公教師はモデルとなった盈進学園(現・東野高等学校)と早稲田の先生をかけもちしながらしだいに学園からフェードアウトして早稲田に軸足を移していくという感じで、(戦後の住宅難は大変だったんだなあ)といった部分の方が印象に残る。終盤に一年間病気をわずらうことを除けば、作中場面で主人公が苦心する描写はあまりなく、希望が常にすんなり通る様子はどこかトントン拍子、というか、調子が良いのだが、解説で清水良典は、このトボけた味の下に実は底流している“暗さ”を指摘する。すなわち学園が新設された土地はもともと軍事工場で戦中、大規模空襲で焼き払われたのであって、作中の端々には昭和20年代に東京の人々が置かれた状況が見え隠れする。本編(作中時間からだいたい20年後)は“明”の筆致によってその“暗さ”を塗り変えた(最終部でタイトルの意味が明らかになる)。そして親本刊行から40年後、今や当時の空気も薄れた“暗”を解説が再び指摘することで、本編の読み方に重層的なものを促しているとおもった。

 

更紗の絵 (講談社文芸文庫)

更紗の絵 (講談社文芸文庫)

 

今年読んで印象に残ったもの

印象に残ったものをだいたい読んだ順に。

山城むつみベンヤミン再読」
室井光広『零の力』
さそうあきら『バリ島物語』1
加藤典洋『増補 日本人の自画像』岩波現代文庫
多島斗志之『黒百合』創元推理文庫
國分功一郎『中動態の世界』
金井美恵子カストロの尻』
岡本太郎の沖縄』
読書猿『アイデア大全』
阿津川辰海『名探偵は嘘をつかない』
岡和田晃『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷』
アーサー・シモンズ『完訳 象徴主義の文学運動』
ラヴクラフト全集』1~7巻、創元推理文庫
リン・カーター『クトゥルー神話全書』
エリオット『荒地』岩波文庫
中村光夫『藝術の幻』

数が少ない不勉強ぶりがバレますね。それになんだか年々、ミステリを読まなくなっているような……。
今年はなんといっても「ベンヤミン再読」で、年のどアタマに読むことができたのは僥倖でした。翻訳論編も待ち遠しいなあ。
一年が終わってみて、まあーいつものようにあまり変わりばえもせず……と思ってよく考えたら、某書に本名名義で原稿も書いたし、個人誌も発行したし、他いろいろと、例年よりは充実したといえなくもない感じで、学生時代にはよくわからなかったラヴクラフトに開眼できたのもよかった。
来年はもっとがんばります、がんばりましょう。

俺はANATAだ

 文学フリマで買った『幻影復興』という清涼院流水特集をした同人誌のオマケ冊子を読んでいたら、とても懐かしい気持ちになった。

 東京流通センター――通称TRCの第2展示場、エスカレーターで2階に来たあなたは、チラシ置き場の脇を通り、数多くテーブルが並んだホール内を進んでいく。(……)コピー用紙に印刷されたものをホチキスで綴じただけの冊子で、全8ページのようだ。ページの下に目をやると、「ご自由にお取り下さい」とあるから、来場者に無料で配っているのだろう。その表紙には大きめのゴシック体でこう書かれていた。

文学フリマ東京来場者限定小冊子

「幻影絡繰-Mephistrick-」

  ああ、この感じ。まさに流水節。
 高校生のころ夢中になった(たぶん一万枚分は読んだ)、この文章の特質とはなんだろう。
 それはもちろん、「あなた」という読者への呼びかけだ。
 初めて読んだ時は新鮮だったけど、年を経るとだいぶんそのカラクリがわかってしまった気がする。

「あなた」という呼びかけは、自己啓発や宗教の分野でも多用されるテクニックである。「あなたが自身の人生の主人公なんですよ」とか、「神はあなたを見ていますよ」だとか。「あなた」という語の意味自体は普遍的であるが、その語が使用される文脈において発揮する効果は、この世界にただひとりの「聞き手」という一点を目がけた、何らかの意味での覚醒を促す矢印なのだ。人は、聞き手の立場で「あなた」というただ一人を意味する呼びかけを聞き取る時、何やら特別な感情を抱いてしまうらしい。この瞬間、聞き手のうちにいったい、何が起こっているのだろうか。

 しばらく前に加藤典洋『増補 日本人の自画像』(岩波現代文庫、2017)という本を読んでいたら、印象的なエピソードがあった。
 ポーの『アッシャー家の崩壊』の終盤、死んだと思われていた妹がやってくるシーンはなぜ怖いのだろうか。語り手がコワイ話を親友(兄)に向かって朗読するうち、周囲の様子がだんだんシンクロしてくる。兄は自分のおそれを話す。妹は、実は死んでいないのにわれわれは埋葬してしまっていたかもしれない。そして、妹についての話をしていたまさにその瞬間、当の妹自身が語り手と聞き手を襲撃する。
 この時、起こっていることはこうだ。死んだはずの妹についての話をしている時、それがいくら作中で実在のかつ地続きの人物であろうと、話の中の次元と、それについて話している語り手/聞き手の次元は切れている。

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 話の中の妹=オブジェクトレベル
 語り手/聞き手=メタレベル
 つまり、コワイ話=物語=オブジェクトレベルにとどまっていたはずのことが、それを食い破り、メタレベルの語り手/聞き手の次元にまで侵入してきてしまう、そのことがコワイ。

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 私はこの説を読んだとき、いろいろなことが腑に落ちた。
 オブジェクトとかメタとかいうのは、ジェラール・ジュネット(『物語のディスクール』)的にいって、物語世界内存在とか物語世界外存在と呼んでもいい。
 すなわち、エンターテインメントとしての物語は畢竟、聞き手を楽しませるためにある。しかし聞き手とはふつう、メタレベルの存在、すなわち物語世界外存在で、ストーリーにとっては傍観者にすぎないといってもいい。この存在を、いかに「物語世界内」に没入させるか、その錯覚を抱かせるかが、エンターテインメントのナラティヴの究極の要件だ。
 先に挙げた自己啓発や宗教勧誘のテクニックもここにかかっている。すなわち、傍観者=外の存在をいかに内に引き込み、カモるかということ。そのキーワードが、呼びかけとしての「あなた」なのだ。
 以前、勤め先にアヤシゲな宗教団体からの教義書が届いたことがある。造りの立派な本(パステル色のぶあつい文庫版ハードカバー全三巻のボックスセット)で、私はデザイン的興味から中を覗いてみた。すると冒頭第一行が確か、〈あなたがこの本を開くことは、すでにわかっていました〉などと書いてあったので、思わず吹き出してしまった。
 お前はイタロ・カルヴィーノか。
 しかしよく考えると、ここには笑って見過ごすことのできないテクニックがある。いわゆる二人称小説のエポックとなった、ミシェル・ビュトールの『心変わり』や倉橋由美子の『暗い旅』は、確かに「あなた」という呼びかけを全編で使用しているのだが、それはあくまでも作中人物に対しての呼びかけであり、どう考えても読者自身が「これは私のことかな」と思うということはない。それはあくまでも、物語世界が、外に対して閉じているからだ。
 ところが、自己啓発や宗教の言説においては、語り手に対する聞き手は直接の読者で、つまり「あなた」という呼びかけに応じるならば、その物語の当事者、物語世界内存在になってしまう。
 ここにフィクションとノンフィクションの違いがある。しかし、いわゆるフィクションにおいてもこうした技法は、開発されてきた。

『アッシャー家の崩壊』の「怖さ」が、オブジェクトレベルからメタレベルへの侵犯に由来するならば、これはたとえばフレドリック・ブラウン「うしろを見るな」や日本のホラー映画『リング』などが印象に残る原理と同じものだといえるだろう。
 そしてそれはホラーにとどまらない。吉本ばななの某作(タイトル失念。割と初期の作品で、語り手が最後に急に「◯◯してあげたい、あなたにも」と読者に呼びかける小説がありませんでしたっけ)やゲーム『Ever17』のラストにおける印象的なテクニックにも通じる。ものすごく日常的な喩えをとれば、誰かの悪口で盛り上がっていたら、当の本人がその場へ偶然やってきたのでギョッとした……だとか。
 これらに共通するのは、オブジェクトレベルからメタレベルへの侵犯である。

 私は以前から、心霊スポット巡りと文学散歩(いわゆる「聖地巡礼」も含む)には、何か共通する原理があるのではないかと思っていた。どちらも、場所自体には何も変わりはなくとも、訪問者が事前にエピソードを聞いているかどうかで、訪れる印象は異なる。すると事前の話=物語であり、そこへの訪問は、先の図式とは逆に、聞き手が疑似的に物語世界内存在へと没入すること(メタ→オブジェクト)、であるとは考えられないか。いずれにせよ、問題は、物語世界の内と外の階層移動だ(たとえそれが錯覚にすぎないとしても)。

 ジュネット的にいえば、一人称/二人称/三人称という区分は間違っている。より本質的なのは、語り手が物語世界内(オブジェクトレベル)にいるか、世界外(メタレベル)にいるかどうかだ。その場合、「あなた」という呼びかけが占める位置は、語り手と聞き手の関係によって異なることになる。
 レイモンド・チャンドラー『湖中の女』の映画化は、ほぼ全編が主観ショットによって撮られるが、この作品が観客に異様な印象を与えるのは、登場人物のカメラ目線が終始映っているからだ。このカメラ目線を「あなた」という呼びかけと捉えれば、映画『湖中の女』の手法は、実は「二人称」的な効果を観客に与えるのではないか。

www.youtube.com

 上記トレーラーを観ていただきたい。カメラへの目線を観客が受けとる時、その異様な効果にギョッとすると思う。しかし映画全編は、このトレーラーほど魅力的ではなく、100分も眺めると次第に飽きてしまう。そしてやはりこの主観ショットがもたらす最大の効果は、トレーラー中のキャッチコピーでいうところの、

Mysterious STARRING ROBERT MONTGOMERY and you!

 主演はあなた! という呼びかけではないか。

 観客=登場人物という侵犯は現在、TVないしPCのアドベンチャーゲームにおいては既におなじみのものだ。だから、侵犯それ自体に効果をもたせようとすれば、別のレベルでの使用が必要になる(映画『湖中の女』のような出ずっぱりの使い方では、冒頭が最も盛り上がる、「出落ち」になってしまう。ここぞという時に使わないといけない……そしてそれはたいていの作品においては、物語終盤だ)。
 叙述トリックというのもこの文脈で考えることができる。「叙述トリック」は一人称でも三人称でも用いることができる。しかし結局のところそれは、この物語の語り方(テクニック)は読者の「あなた」を騙すための……つまりふつうの物語ならば傍観者にすぎない「あなた」を騙すために工夫されて語られていたのだ。これが判明する時、侵犯が起こり、読者はまるで『アッシャー家の崩壊』における兄のような衝撃を受ける。

叙述トリック」という名称は巷間、誤解されている。つまりメタトリック(現実だと思ったら実は作中作でした!というやつ)とか夢オチとか信頼できない語り手と同一視される傾向にあるが、厳密にはその原理は異なるものだ。しかし小説の実作においてそれらは複雑に絡み合ったものなので、叙述トリックだけを取り出すのもなんだか難しいな、と私はこれまで思っていた。要するにこれら(1970年代以降に急速な技術的発達を経てきた)はすべて、オブジェクトレベルからメタレベルへの侵入という点が共通するのであって、叙述トリックというのはその下位ジャンルの一部にすぎない(つまり、下位ジャンルの一部に狭義の叙述トリックがあり、かつ、ナラティヴを利用したどんでん返しのテクニックを現すそうしたグループ全体を総称するようにしてなんとなく「叙述トリック」という語がふんわりと流通している)。

 こう考えてくれば、叙述トリックの飽和化という問題は、単に狭いジャンル上のテクニックに限らない。問題は、聞き手である「あなた」への侵犯を、いつどこでどのように起こすか、という普遍的な問題へと開かれうる。時に暴力的な力を発揮するそれを人類は、手を変え品を変えずいぶん長いこと使用してきた。すなわち、宗教的勧誘から「叙述トリック」へと(呼びかけとメタフィクションとの関係についてはたとえば佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる。 パラフィクションの誕生』慶應義塾大学出版会、2014などが詳しい)。

 中学生の頃毎週見ていたNHK番組「爆笑オンエアバトル」では毎回最後に司会が、
「新しい笑いを作るのは、挑戦者の皆さんと客席の皆さん、そして、テレビの前の、あ・な・た・た・ちです!」
 と呼びかけるのが印象的で、われわれはしょっちゅうモノマネをしていた(歴代アナウンサーごとに少しずつ特徴が異なるから)。だからそれをパクって自分のハンドルネームにした時、「誰かから連絡を受けるたびに〈アナタさんは……〉と呼びかけられたら、奇妙な気分になるだろうなー」と思ってo(´∀`)oワクワクしていたのだが、すっかり慣れてしまった。たまに「神ナントカ」という名前の人がいて(たとえば神慶太)、そういう人はメールを受ける時なんかは〈神様は……〉と呼びかけられるんだろうけど、いわれるほうはそのうち慣れてくるとおもう。

 そういえばこの前、国会図書館に行く機会があり、せっかくだから自分が寄贈したブツ(『立ち読み会会報誌』第一号)を借りてみようかと思って申請して届いたものをパラパラ開いていたら、インタビュー後の本編冒頭が

国会図書館で資料が届くのを待つ間にTwitterを覗いていたら、

 で始まるのをすっかり忘れていて、あまりのシンクロぶりに「ウワッ!」という気もちになってしまった。こんなことで驚くのはたぶん、世界で私一人だけだろう。自分で自分に仕掛けたワナというか、なんというか、……。


 バカですねー。

 

 

俺はNOSAKAだ: ほか傑作撰

俺はNOSAKAだ: ほか傑作撰