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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

「叙述トリック」についてのメモ(6)

ミステリ

今更ではあるが、以下の議論に一度、目を通していただきたい。

ここで「叙述トリック」という言葉が何を指すのかについては、その言葉について、じっくりと考えたことのある者でなければ、かなり混乱してしまうのではないだろうか(私がそうだった)。
ここで我孫子武丸が述べていることは、実にシンプルだ。世間では、「どんでん返し」というテクニックそのものを「叙述トリック」と同一視してしまう傾向があるが、実際に「叙述トリック」という概念が含む範囲はもっと限定的だ、ということだ。しかし様々な人物が様々な論点を持ち込んで別個に私見を述べているため、まとめでは議論が錯綜して見える。少なくとも私の見る限りでは、映像/小説、三人称/一人称、故意/過失、現実/幻想、という要素がゴッチャに入り混じって整理が共有されていない。それを個人的な参考のためにもほぐしてみたい。
映像・小説・一人称
先のまとめで議論の始まりは「映画における叙述トリック」とは何か、である。人称において、映像と小説の最大の差は一人称にある。映像では純粋な一人称=主観ショットのみで出来た作品はほとんどなく、小説に比べれば圧倒的に少ない。一人の主人公を持つ映画はたいてい、出来事における主人公の顔を映す。しかし人間は鏡などを用いなければ自分の顔を見ることは出来ないから、主人公の顔を映す映像は主人公自身の主観ではない。ゆえに映像で多く用いられているのは、三人称の視線である。主人公による一人称的性格を強めるために、モノローグが音声として入ることがあるが、それは音声という言葉を副次的に用いているのであって、映像そのものが一人称であるということではない。
叙述トリックはよく「映像化不可能」といわれる。叙述トリックは何かを「言い落とす」ことによって効力を発揮するのだが、情報量の少ない言葉においては比較的たやすい「言い落とし」の余地が、雄弁な映像においては乏しいからだ。しかしもちろん映像においても、叙述トリックというものは存在する。
どんでん返しと言い落とし
上で、〈世間では、「どんでん返し」というテクニックそのものを「叙述トリック」と同一視してしまう傾向があるが、実際に「叙述トリック」という概念が含む範囲はもっと限定的だ〉と述べた。どんでん返しというのは物語における技法の一つだ。なぜ「どんでん返し」と「叙述トリック」が同一視されがちなのというと、あらゆる「どんでん返し」は「言い落とし」を原理とするからだ。叙述トリックも夢オチもメタトリック(実は作中作だった、とわかるようなもの……これはいま仮に名付けた)も、「言い落とし」が基本にあることにおいて共通する(どんでん返しの例はそれだけに限らないが、特に混同されがちなこの三つをここでは取り上げる)。いずれもある事実を伏せておき、後になってそれをひっくり返しことには変わりない。
ではそうした夢オチやメタトリックと「言い落とし」を共有する叙述トリックは、どこに差異を持つのか。それは、「作中現実の次元において虚偽の叙述をしない」という点にある。
夢オチ(ここでは幻覚や幻想も含む)やメタトリックとは要するに、「作中現実だと思わせて実は次元が異なった」と後でわかる「どんでん返し」に力点がある。叙述トリックはそうではない。作中現実の次元は変わらないまま、ある事象をまったく別の事象であるかのように、嘘をつかずに混同させるのが叙述トリックだ。
私が整理するところでは、叙述トリックには二つの原理がある。それを仮に、叙法型と構成型と名付けよう。
「消防署のほうからやってきました」といって消防署員だと思わせるとか、女性に「僕」と自称させて男性だと思わせるというのが叙法型。
ひるがえって、複数のパートの構成によってある事象を錯覚させるのが構成型。
叙述トリック」をここで、「言い落とし」を基本としつつ、作中現実のある事象を叙法ないし構成によって別の事象に混同させるテクニックである、と定義してみよう。
むろん実際には作中作と組み合わせた叙述トリック、更には夢オチと組み合わせた作中作と組み合わせた叙述トリック、というような複雑なものもあるのだが、その場合もやはり、それぞれの仕掛けが効力を発揮する点は異なる。
叙述トリックの歴史的意義について最も詳しく書かれた本は、笠井潔『探偵小説と叙述トリック』(東京創元社、2011)だと思われる。次回からは、その中で取り上げられている作品をいくつか見ながら、考えていきたい。