立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

【記録シリーズ9】続々々・レゴブロック的走り書き

また話がズレた。今回いいたいのは結局、「交換可能性」に関してだ。ある要素や素材の歴史性や個別具体性を捨象していくと、ツルツルしたレゴブロックのようなものとして扱えるようになり、それを確固たる形式に代入すれば何かがガラガラポンと出てくる。そのような「作品」生成のイメージ(がかつて私の中にあった)。しかもそこではしばしば、「捨象された」ということが意識されない。――以上のことを念頭に書き進めてきた。
捨象=抽象化してゆくロジックとは論理の合理性のことだが、ミステリの場合、これは作品内のみならず、作者および読者、作品についても働いているのではないか。
どういうことか。論理の合理性は普遍性を持つ。論理の合理性つまりパズルに訴えるだけでミステリは最低限成り立つ。そして最も初歩的なパズルは、詰め将棋のような安定した空間で要素や条件を試していき、合致した鍵が扉を開くことができる。
この初歩的なパズルは「人間」を成立の条件としない。誰が犯人であってもいい。とすれば、誰が作者であってもいい、ということにならないか。
本格ミステリという形式はおそらく、非常にグローバルなものだ。歴史的に獲得されてきた共通言語を基に、作者と読者は地域を問わず、同じゲームに参加することができる。ゲームとは、成功あるいは失敗の基準があるということだ。
そうした基準=ゲーム性があるからこそ、通常ならそう易々と比較できないはずの個々の小説を、「ミステリ」という基準によって抽象化し、計量できるかのように装った上で、ランキングという均質な空間に置くことができる。
このミステリーがすごい!」はどちらかといえば、後続の「このライトノベルがすごい!」や「このマンガがすごい!」のような人気投票に近い。しかし、「本格ミステリ・ベスト10」になると、よりテクニカルな領域へふみこんでいる。学生時代から、ミステリにだけどうしてこのようなランキングが成り立っているのかということが不思議だった。それは以上のような、合理性による抽象化というジャンル自体の持つロジックが、作者および読者、そして作品に至るまで働いているからではないだろうか。(続く)