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襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/『美濃牛』(1)

殊能将之『美濃牛』の展開について触れていますので、未読の方はご注意ください】
第二作『美濃牛』をどう受け止めていいのか、迷う人も多いようだ。かくいう私もその一人で、横溝正史へのオマージュにしてシリーズ探偵石動戯作の初登場作品である、作者の中で最も長い(原稿用紙換算950枚)ものである、などなどの理由でフェイバリットに挙げる読者もいて、それぞれ頷けるところはある一方、どうも最後までピンとこないのは、大きくいって次の二点による。
(1)内容に比して長すぎるのではないか。最初の死体発見が文庫版で200ページ辺り、第二の死体発見が400ページ辺りで、裏表紙にある「高賀童子伝説」がきちんと出てくるのが全体の三分の二過ぎというのは、バランスを欠いているのではないか
(2)文庫版解説の池波志乃によれば引用文献が104ということだが、多すぎるのではないか

 ※

(1)は作者も自覚していた。刊行時のインタビューでは〈最初は500枚で終わるつもりでいたのですが、400枚書いてもまだ2人しか人が死んでおらず、かなり困りました。横溝先生ならもう5人は殺していて、金田一は村を去っているころだ、まだまだ修行が足りん、と〉(「ミステリー作家新刊インタビュー」ダ・ヴィンチ2000年5月号。取材・文=杉江松恋)と答えている。今回、『八つ墓村』と読み比べてみたところ、確かに『八つ墓村』で最初の殺人が起きるのが47ページ(角川文庫版)だから、物語の展開は圧倒的にスピーディーだ(といっても『八つ墓村』もおそらく600〜700枚はあり、中盤の鍾乳洞のシーンはいま読むとゆったりして感じられたけれど)。しかし同じインタビューの〈まず章のナンバーを打って、ここではこの伏線を書く、ということを章ごとに決めるんです。(……)書いていくそばからスラスラと物語が進んだり、人物が勝手に動いていってくれるような才能は私にはないですから、最後まで考えて決めないと書けないんですよ。最後まで決めると辻褄もあわせやすいでしょう〉という言葉を読むと、『美濃牛』の展開は最初から計算されたものだと考えられる。ではいったい何が、『美濃牛』に(それこそ牛のように)巨大な分量を要しているのか?
上記や、以前紹介した「ユリイカ」のインタビュー(1999年12月号)でも横溝について答えているから、横溝正史への現代版オマージュなのだろう、とよくいわれる。しかしそれならなぜ、いま(ノベルス刊行は2000年)横溝オマージュか、という疑問は残る。オマージュにはふつう、二つの行き方がある。作品舞台をその下敷きと同時代の過去に設定するか、現代に特殊な環境を作るか(たとえば『キマイラの新しい城』は、この二つのパートによって進行する)。『美濃牛』は一見後者のようだが、どうも通常のそれとはズレているように感じられる。あえていえば、横溝の衣を借りつつ、ここで語られようとしているのは、もっと別の何かなのではないか。
形式について
ピンと来ない原因の第一は、独立刊行された全七作中で唯一、三人称多視点が採られているためではないかと思う。
ミステリにおいて、三人称多視点による記述は難しい。なぜなら、一人称・三人称によらず、多視点で記述すると内心が語られる人物がしぜん増えるからで、真相を解決まで伏せる必要があるミステリの場合はとりわけ、その不自然さおよび困難さは強まる。事件の渦中で、犯人の内心は犯行およびその隠蔽のことでいっぱいになっているはずだ。だから群像劇的に何人もの人物に焦点をあてれば、焦点のあたらない人物が読者に怪しく思われてくるし、逆に犯人であるにも関わらずその内心でまったく犯行に思いを致さないのであれば、作品は「アンフェア」の謗りをまぬかれない(もちろん、この問題を自覚的に逆手に取った作例はいくつか存在する)。
三人称多視点について最近、次のような発言を読んだ。少し長くなるが、引用する(渡部直己×奥泉光「『日本小説技術史』を読む」・「新潮」2013年1月号)。

奥泉 近代以前から続く三人称多元は現代作家にとっても大きな問題としてあります。三人称多元の基本は、要は作者が神の位置に立って人物たちを自在に操る。それと同時に、実は読者も操られる。読者が奴隷にならなければならない。逆にいうと、奴隷になってもいいと思えるほどの魅力が必要とされる。三人称多元は、いかにうまくても、人をして奴隷化せしめる、つまり権力関係がそこにあるんだと思います。/ぼくは三人称多元をあまり書いてこなかったんですが、数年前に書いた『神器』はそれに挑戦した作品です。〔……〕具体例をあげると、ぼくが〔三人称多元に〕違和感を覚えるのは次のような瞬間です。無人称で始まる小説で、たとえば「カーテンを開けた。公園は雨に濡れそぼっていた。ベンチの脇に、だれかが忘れていった三輪車が一台、寂しそうに置かれている」。それに続けて、「真知子は……」と急に三人称の主人公が出てくる。この瞬間の違和感が非常に大きくて、誰だ、そいつは? とついつっこみたくなる。そのせいで読めないし書けないという感じがあって、それはなぜかと考えつづけてきました。実をいうと、この違和感を軽減する方法はいくつかあって、多くの現代作家が実際にやっていることですが、たとえば「真知子」であれば「真知子さんは……」と「さん」を付けるんです。そうすると、いきなり大丈夫になる。
渡部 それはなぜですか?
奥泉 「さん」が付くと、語り手と人物との距離が示されるわけで、つまり語り手が、その人物を「さん」付けする人物として、テクストの中に、当の小説世界の中に登場する状態になるからだと思います。語り手が必ずしもパフォーマティヴにふるまわなくとも、透明であることをやめて気配として登場することになる。/三人称の違和感を消す方法はもうひとつあって、先ほどの例でいうと、置かれているのが三輪車ではなく、タイムマシンだと、違和感がたちまち解消する。つまり、現実に似たものを読まされるときにのみ違和感が生じる、ということに気がついたんですね。で、簡単にいってしまうと、なぜ三人称に違和感があるのかといえば、世界の完全な外側にいて、出来事を三人称で叙述する存在というのは、現実世界にはいないからなんですよね(笑)。
渡部 小説にしか場を持っていない=生起しない存在なんですよね。
奥泉 そうです。逆に、小説にしか場を持っていない荒唐無稽な話なら違和感がないんです。だからタイムマシンが出てくる話なら何の問題もない。あるいは、一人称で自分や世界について書いたり語ったりすることは、現実世界でも、手記なり日記なりというかたちで、ごく当たり前に起こっていますから、一人称には違和感はありません。ところが、小説が現実や人生に似たものになろうとすると、完全に世界の外にいて世界を書くという行為自体が現実世界には存在しない。そういう存在は現実にはいない。だから三人称にはものすごく違和感が生じる。(……)しかし私小説は必ずしも「私」の人称ではないものも多いですよね。
渡部 ええ、主流はむしろ、三人称一元ですね。「謙作はこの頃だいぶ参ってきた」とか(笑)。正しくは、一人称であれ三人称であれ、一元か多元かの違い。
奥泉 そこで非常に大きなポイントになるのは、三人称多元でありながら、作者が神の位置にいない書き方ができるのか、ということです。技術的にはひとつあります。それは、多元なんだけど、視点人物たちが相互にあまり関係をもたない、という書き方で、実際に多くの作品に見られます。章ごとに視点人物が入れ替わるとか。/ただ、本格的な多元というのは、たとえば一段落のなかに複数の視点が出てくるもの。これは非常に難しくて、成功した作品がほとんどありません。唯一といってもいい成功例がドストエフスキーなんじゃないかと。

つまり、三人称多視点というのは、現在からだいぶ過去(SFなら未来でも)の事柄を記述するのに向いているわけだ。記述している時点(作品の生成)と記述されている時点(作品の持つ時間幅)が近い場合、その中でも記述が受け取られている時点(読者が作品を読んでいる時点)と近い場合はなおさら、三人称多視点という形式への読者の違和感は強まるはずだ。なぜなら、三人称多視点というのは「神の視点」とも呼ばれる通り、あらゆることを記述しうる形式であり、「今・ここ」についてあらゆることを自由に記述するのは、人間の能力を超えているからだ。
ただし、時間の経過は三人称多視点への違和感を減少させる。「現在」の読者は、「過去」の人物が知りえなかった幅広い事柄を知りえる。対談中の「権力関係」という言葉に注目すれば、優位に立っている、といってもいい。登場人物への敬称も、そのことに関わってくる。現代人はふだん、特殊な状況でもないかぎり人前で織田信長を「信長様」などと呼びはしない。しかし信長存命時の一般民衆なら、口に出すのも恐れ多かったのではないか。
権力関係について
ある存在や事柄に対し、どういう距離をとるかによって、その意味や位置付けが変わってくる。たとえば前回取り上げた、〈仮に〔現代の〕英米ミステリ作家が「1930・40年代のロンドンを舞台にして、ツイスト博士なる名探偵が怪奇趣味あふれる密室殺人の謎を解く小説」を書くとしたら、それはパロディあるいはパスティーシュという別のサブジャンルの作品となる。(「reading」2002年5月18日)〉という認識は、以上のようなことと密接な関係にある。
ポール・アルテが「ツイスト博士」シリーズを書きえたのは、彼がフランス人作家だったからだ。翻って、現在の日本人作家は、「金田一耕助ものそのまま」の作品は書きえない。どれほど模倣に長けていようと、横溝正史がリアルタイムで発表した金田一耕助ものと同じ意味、同じ位置は持ちえないし、アルテのようにも書きえない。それは、横溝正史及びその作品と現在の作者及び読者を、時間が隔てているからだ。
『美濃牛』においては、節ごとに視点人物が切り替わる(だから、上記引用でのドストエフスキーのような「多元」というわけではない)が、もちろん相互の関係は深い。こうした認識を知悉していた作者(それはのちの作品でも明らかになってくる)が、三人称多視点という形式を採用したのは、いったいなぜなのか?
横溝正史の場合を見てみよう。金田一耕助シリーズにおいては、一人の探偵小説作家の存在が、全体的に記述をまとめる者として示唆されている。つまり、事件が終わったあとで記述が行われている。いっぽう、石動戯作シリーズではそうした記述者の存在は不明だ。『美濃牛』の「プロローグ」で男(天瀬)と少女(窓音)が動物園を訪ねるのは、事件後しばらくしてからで、男(天瀬)の回想とともに本編が始まる。
人称の問題というのは、小説について考えるうえでのとっかりとなりやすい、逆にいえば手垢のついた解釈ともなりやすいが、以前『ハサミ男』を再読した時も述べたように、人称や視点についての議論は、殊能作品全体で重要な意味を持つと思う。引き続き書いていこう。
『美濃牛』において、語っている時点と語られている時点とは非常に近い。その近さに対する、三人称多視点という形式、及び広範な引用の配列という操作が持つ周到さは、人間の能力を超えているのではないかと思わせる。つまり、『美濃牛』の形式が示唆しているのは、人間を超えた、あるいは「登場人物に対して優位に立つ者」の存在なのではないか。(→削除部分については第二回冒頭をご参照ください)
ミステリの人称及び視点について語る場合、フェア/アンフェアは盛んに論じられても、この「権力関係」(奥泉光)についてはあまり言及されない。しかし小説の形式に自覚的な作家であればあるほど、この「権力関係」は無視できないのではないかと思う。
だいたい殺人など、現実に起こったら嫌なものでしかない。そんな面倒なものを楽しむことができるのは、作品世界と読者とが、ある距離によって隔てられているからだ。しかし、作品世界の登場人物と、その外側にいる作者の関係については、こんな言葉もある。

〔スタニスワフ・〕レムは執筆中の作品について長期間考えこみ、あるときなにかを思いつく。凡人なら天啓(天の声?)とか、霊感とか、無意識の産物とか、自らの天才の発露 と思いこむところだが、レムはその発想がランダムネスの所産であることを知っている。その発想がよりよいものであると判断する根拠が存在しないことも知っ ている。
しかし、レムはその発想を捨てない。ランダムに選ばれたものだからこそ採用し、徹底的に思索を重ねる。だが、そうした思索はすべて不完全であり、「なぜほかならぬこれが思い浮かんだのか」という問いの答えは決して得られないことも知っている。
なんのことはない、これはソラリスの海を前にした人類の態度そのものではないか。
レムはまるで自作の登場人物のような立場で小説を書いていた、というのがわたしの想像である。これはおそらく、レムが数学者でもチェスプレイヤーでもなく、小説家になった理由でもあるだろう。(「memo」2007年2月後半)

作者は、しばしばフィクションと現実が混同されることを非常に厳しく批判していたが(〈わたしが幼い頃は、何か謎めいた事件が起こると、ミステリ作家がワイドショーに出演して名推理を開陳していたものだが、最近はもっぱら、元警視庁捜査一課長の田宮榮一という方が代行してくださっているようだ。/「現実と虚構は違う」というあたりまえのことがやっとテレビ業界に浸透したようで、まことに喜ばしい。「実際上の出来事にかつて興味を覚えたることなし。そこにはただ痛ましき現実の苦悩を見るのみ」(乱歩「幻影の城主」)〔「memo」2003年7月後半〕)、レムが「登場人物のような立場で小説を書」いたのではないかという推測が、「小説家になった理由」と結び付けられている点に注意していただきたい。「登場人物のような立場で小説を書」くということはつまり、先述の「権力関係」をなるべく発生させない、ということなのではないか。
もちろん、メタレベル(作者や読者の世界)とオブジェクトレベル(登場人物たちのいる作品世界)の違いは、確かにある。しかし、我々がメタレベルにいるからといって、オブジェクトレベルの存在を完全に自由に(「権力関係」でもって)操ることは不自然である。そうした認識には何か、あるルールや倫理のような感触がある。レムについての上記の言葉は『美濃牛』(2000年4月刊行)より後に書かれたものだが、こうした認識は、目新しいものというわけではない。作品(オブジェクトレベル)は現実(メタレベル)から切れているという姿勢と、作者(メタレベル)が自作の登場人物のような立場(オブジェクトレベル)で小説を書くという姿勢とは、一人の作者の中で両立しうる。そしてそうした作品に対する姿勢(困難、といってもいい)は、作品における形式を規定するはずだ。
横溝正史の話に再び戻ろう。〈仮に〔現代の〕英米ミステリ作家が「1930・40年代のロンドンを舞台にして、ツイスト博士なる名探偵が怪奇趣味あふれる密室殺人の謎を解く小説」を書くとしたら、それはパロディあるいはパスティーシュという別のサブジャンルの作品となる。〉という先の言葉は、たとえば“名探偵”という存在にも関わってくる。横溝の時代にも、金田一耕助という“名探偵”のキャラクター像は、それなりに胡散臭いものだったのではないかと思う。しかし現代においては、“名探偵”という職業として金田一耕助のように存在することは不可能だ。メルカトル鮎麻耶雄嵩)の如くデフォルメ化されたり、湯川学(東野圭吾)の如く違う職を持っていたりなど、何か仕掛けが必要になる。
その、“名探偵”を成立させるための仕掛けが、あの形式だった、ということになるのだろうか。(続く)