立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/『美濃牛』(6)

 Since I Left You
 殊能氏はボルヘスが引用に際して行なった操作について、ある発見をしたことがあるという。

 ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「タデオ・イシドーロ・クルスの生涯」という短編には、イェイツの詩がエピグラフに使われている。記憶で書くので不正確だろうが、

私は探し求めている
創世前につくられた自分の顔を

 という詩行で、実にかっこいい。「すばらしいエピグラフだ」という評言をどこかで読んだような覚えもある。
 ところが、昔、集中してイェイツの詩を読んでいたとき(もちろん翻訳で、ですが)、ボルヘスの奸計に気がついた。
 この引用はイェイツの「女――若い時と年老いた時」という、化粧をしている女性の詩からのものである。なぜ化粧をするかというと、「べつに見栄をはってるんじゃないんです。あたしは世界ができあがる前の自分の顔を探してるだけ」というわけ。

If I make the lashes dark
And the eyes more bright
And the lips more scarlet,
Or ask if all be right
From mirror after mirror,
No vanity's displayed:
I'm looking for the face I had
Before the world was made.

 ちなみに、これはハムレットがオフェーリアに言う台詞「神が与えた顔になぜ化粧をするのか」をふまえていると思う。
 というわけで、原詩はどちらかというとユーモラスなもので、ボルヘスによる引用を読んだときのような形而上的な雰囲気はかけらもないのだ。
 これは意図的なものだと思う。ボルヘスは、わざと意味をずらして引用したに違いない。というのは、エピグラフの出典名を詩の題名ではなく、『螺旋 階段』という詩集名にしているからだ。つまり、「女――若い時と年老いた時」ではバレてしまうと考えたのだろう。どう考えても、確信犯である。
 わたしは、これはDJの発想に近いと思うが、どうか。かっこいいブレイクビーツの元ネタがジョージ・ベンソンだった、という発見と同じような驚きを感じたのだが……。

 引用は元ネタの良いところを凝縮する。俳句にも近いところがある。その際、「操作」が行われることがあるのは、句会の古賀先輩が実践している(後藤明生によれば、メルヴィルも『白鯨』で同じようなことをしているという)。『美濃牛』の場合は元ネタのタイトルを書いているので、ボルヘスほどの「奸計」とは思わないが、それなりの「操作」は感じる。また「モナドの方へ」で書かれているように俳句や、登場人物の名前などにも、直接の種明かしは作中にはないが、(ああ、これはあれだろうか)と思わせるようなものがある。
 ※
 ところで、「引用」のほかに「サンプリング」というものがある。二つはどこが違うのだろうか。ファビュラス・バーカー・ボーイズ(町山智浩柳下毅一郎)によるタランティーノキル・ビル』の元ネタ鑑賞イベントを観覧して。

 たいへんおもしろく、勉強になった。あとの予定がひかえていたので、途中で抜けなければならず、「They Call Her One Eye」という映画を見られなかったのは非常に残念。
 その一方で、あらためて「『キル・ビル』を見て楽しむうえでは元ネタがわからなくてもさしつかえない」と思った。だって、あんなの誰にもわかんないも ん。わかるのはこの世でタランティーノひとりだけだよ。ということは、「べつにわからなくてもいい」ということではないか。(「memo」2003年11月前半)

 引用は受け手が引用元を知らなければ意味がない。送り手と受け手のあいだに「これはシェイクスピアの引用である」という共通認識があってはじめて成立する。
 これと正反対なのがパクリで、パクリは受け手に気づかれてはならない。受け手が「これはビーチ・ボーイズのパクリである」と認識していない場合にのみ成立する。パクリであることがばれると、たちまち評価が下がる。
 では、サンプリングはどうか。
 サンプリングは受け手がサンプリング元を知っていても、知らなくても、どちらでもかまわない。サンプリング元がわかったからといって、その作品に対する理解が深まるわけでもない。
 なぜなら、サンプリングはあくまで素材にすぎないからだ。たとえていえば、「このサンプリング元はジェイムズ・ブラウンだ」とわかることは、「このギターはストラトキャスターだ」とわかることと同等である。もちろんギターの音色から製品名がわかることに意義があると考える人もいるだろうが、音楽を聴く とき、普通はそんなことは気にしない。
 町山氏によると、タランティーノは「おまえ『キングボクサー/大逆転』見てねえのかよぉ」などと語る人らしいので、自分の手法を引用と考えているかもしれない。しかし、引用元があまりに特殊すぎ、タランティーノ本人しか理解できない域に達しているため、ほとんどサンプリングと化している。わたしにとっては、その点が非常に興味深い。
 DJのサンプリング元を気にするのは、自分でもサンプリングで曲をつくっている他のDJだけである。客はサンプリング元を知るためではなく、気持ちいい曲で踊りたいからクラブにやってくる。
キル・ビル」も同じで、元ネタを知ることよりも、タランティーノがサンプリングをつなぎ合わせてつくりだしたエモーションを感じるほうがずっと重要だとわたしは思う。(「memo」2003年11月前半)

「引用元があまりに特殊すぎ、タランティーノ本人しか理解できない域に達している」――殊能作品もそうじゃないか?と多くの人が思っている(「わたしは小心者なので、サンプリングソースはすべて明記することにしてます(「memo」2000年11月)」とも書いている)。どのように引用/サンプリングするか?という問題は根深い。講談社文庫版の解説でも、多くの論者が「引用」について述べている。
 ※
 なぜ、他人の表現を、自分の表現に摂り入れるか。好きだから、というのが一つ。自分の内面が他人の表現でできていて、それを無視すればウソになるから、というのもあるだろう。たとえば「鰐か鯨か」の後藤明生は、「小説は自分の才能で書くもの」という潮流に抗って引用だらけの小説を書いた。人間は日常的に、「自分の表現」を書くより、「他人の表現」を読む時間の方が圧倒的に多い。それを無視して、つまり他人の表現を読んだことがないかのようにして自分の表現を書けば、ウソになる。と同時に、自分は他人ではない。自分は自分であることから逃れられない。そうした自分と他人との差異も無視できない。その考えを敷衍すれば、“オマージュでありながら元ネタとは別物”である小説を書くことも自然に考えられる。
『美濃牛』が書かれたのはサンプリングミュージック全盛の時代だった。クラブミュージックにそれまで興味のなかった人間がターンテーブルやレコードを買うような時代だった(サンプリングミュージックの嗜好については「memo」にたびたび書かれている)。その象徴として有名な作品が、同じ年(2000年)の11月に出たアヴァランチーズのファーストアルバム『Since I Left You』で、アルバム一枚がまるごとサンプリングで出来た音楽として称賛を浴びた(二枚目はすでにできあがっているが、サンプリングソースの許可取りに時間がかかっていると、もう何年ももっぱらの噂)。
『Since I Left You』を聴くと、その自然なハーモニーに「すべて他人の表現である」ということが信じられない。だから元ネタ探しも盛んだが、元ネタと完成形とは、やっぱり違う。(どうしてこのネタからこんな音楽が?)と感じる。タランティーノのように「サンプリング元がわかったからといって、その作品に対する理解が深まるわけでもない」のは確かだと思う(が、元ネタ探しは楽しいだろう)。
 Cowboy Overflow Of The Heart

「秘宝裏ファンタ総決起集会」で断片的に見た元ネタ映画は、どれもみごとにクズばかりだった(こういう映画を愛するのはいいけれど、だからといって過大評 価するのは不健全だと思う)。つまり、「ベスターはガラクタから芸術品をつくりあげた」(デーモン・ナイト)というわけだ。

ベスターの真骨頂は、唖然とするようなクズ小説なのか壮大な傑作なのか見分けがつかないところにあり〔……〕

 という若島正氏のベスター評(『乱視読者の英米短篇講義』研究社)は、そっくりそのまま「キル・ビル」にあてはまる。ただし、わたしはベスター信者なので、「見分けがつかないからこそベスターは偉大なのだ」と信じております。(「memo」2003年11月前半)

 以前たまに、「殊能将之はまだ本気を出していない」「いつまで余裕がある態度を続けるのか」という評言を見かけた。私はそれがよくわからなかった。「本気」というのはどういうものだろうか。表現の限界にまで達していない、もし作家としての自分が語りうるギリギリの地点まで行けば、優雅に「引用」などしていられない、ということだろうか。
 それと『キマイラの新しい城』以降の「沈黙」とが、関係あるかどうかはわからないが、引用/サンプリングについては、もう一つ面白い言葉がある。当時未訳だったマイクル・イネス『アプルビイズ・エンド』について。

 一応死体は出てくるので、たぶんミステリなんだろうと思いますが、本格ミステリのようなものを期待するとがっかりしますよ(もちろん、謎解きはありますけど)。
 これは奇妙な田舎町のエキセントリックな人々がまきおこすばかばかしい出来事の数々を楽しむ小説で、爆笑しつづけたあげく、読んだあとにはみごとなくらい何も残らない。イネスはこういう小説を生涯書きつづけた作家で、わたしはものすごく偉い人だと思う。
 イネスの最もすばらしいところは、文学趣味がかけらもないこと。なぜ文学趣味がないかというと、マイクル・イネスことJ・I・M・スチュアート氏は正真正銘の文学者だからだ。小説家ではなく、アカデミシャンのほうですが(本業は大学教授だった)。
 たとえば、最近のレジナルド・ヒルは、ディケンズのようなミステリを書こうとしているように見受けられる。しかし、イネスはそんなことを考えたことは一度もないだろう。「ディケンズみたいなミステリを読むくらいなら、ディケンズ読んだほうがいいじゃん」と思っていたに違いない。
 もちろん、イネスは大変な名文家だし、作中には文学的アリュージョンが頻出する。しかし、これは文学趣味ではないし、ペダントリーですらない。たぶん「このくらい常識でしょ?」という気持ちで書いていたんだと思う。
 ひと言でいうと、嫌味なインテリ英国人の完成形。名文と文学的アリュージョンを駆使して、世にもばかばかしい小説を書く。しかも、自作の文学的価値などははなから求めていない。嫌味もここまでくると無敵だから、よけいなことは考えず、ひたすら笑いながら読めばいいだけ。(「reading」2001年3月26日)

 殊能作品では、他のミステリ小説ではあまり見かけないくらい、「文学的」な参考・引用文献がいっぱい出て来るが、「このくらい常識でしょ?」といわれては、返す言葉がない。
 イネスについては、他にも面白い言葉がいろいろある。

 わたしはアントニイ・バークリーが好きですが、マイクル・イネスはもっと好きです。(ただし、どちらもそれほど数多く読んでいるわけではありません)
 バークリーとイネスはどこが違うかをひと言でいえば、バークリーは不幸だが、イネスは幸福である、ということでしょう。
 バークリーには本格ミステリへの深い愛憎があります。だから、彼は本格ミステリを批判し、からかい、ぶち壊そうとしながらも、本格ミステリに執着しつづけました。
 一方、イネスはもっと自由です。本格ミステリへの愛情も憎悪も持ち合わせていないがゆえに、本格でもミステリでもない作品を平気で書くことができる。というのは、J・I・M・スチュアート氏にとって、ミステリ執筆は完全に余技だったからです。
 おそらくスチュアート氏が限りなく執着し、野心をいだいていた対象は、文学であったと思われます。しかし、その分身たるマイクル・イネスは、いっさいの 執着心から逃れ、完璧な自由を手にしています。イネス作品の飄々とした雰囲気、天馬空を行くかのごときかろやかさ、すばらしい幸福感は、ここに由来しています。
 J・I・M・スチュアート氏は本名で普通小説も書いているそうですが、わたしはいっさい読む気がありません。そんなものはつまらないに決まってい る。また、アカデミシャンとしての著作も読もうとは思わない。スチュアート氏はごくごく平凡な学者さんであろうと想像しているからです。
 わたしが尊敬しているマイクル・イネスは、現し身のJ・I・M・スチュアート氏とはまったく無縁で、会うことも話すこともサインをもらうこともできない架空の人物なのです。イネスを知るには作品を読むのがいちばんで、スチュアート氏のことをいくら調べてもむだですよ。(「reading」2001年12月30日)

(『ストップ・プレス』の中で)イネスは、誕生パーティに集まった業界人たちを徹底的にからかっている。「売れない大衆作家」ギブ・オーヴァオールの扱いにいたっては、サディスティッ クにすら思えるほどだ。現実の専業大衆作家(あるいは専業大衆作家に共感する読者)は不快に感じ、イネスの分身である大学教授J・I・M・スチュアートに 怒りすら覚えるかもしれない。おまえは余技でミステリを書いているから、こんないい気なことが書けるんだ! これだから文学のほうが偉いと思っている大学 教授はいやなんだ、と……。
 しかし、イネスは返す刀で、オックスフォード大学教授たちの俗物ぶり、いやらしい人間関係、大学内での権力闘争をもからかっている。さらには、「文学は 芸術なのだから金銭などは度外視している」という、むしろ専業大衆作家のほうがおちいりがちなナイーヴな見解にも与さない。「シェイクスピアだって自分の 劇場を建てる資金稼ぎに戯曲を書いていた」という英文学の史実が例示され、大富豪ジャスパー・シューンの英文学コレクションのあるセクションは、作家の借 金の手紙で占められている。
 では、イネス自身の立場はどこにあるのだろうか。
 大学教授J・I・M・スチュアートと大衆娯楽作家マイクル・イネスというふたつの顔を持っていたから、こんな奇妙な小説が書けたのだと、とり あえずはいえるだろう。だが、そういう作家はほかにもおり、たいていはふたつの顔をできるだけ引き離そうとする。たとえば、桂冠詩人セシル・デイ・ルイス ことニコラス・ブレイクは(出来映えはともかく)ごく普通のミステリしか書かなかった。ミステリのゲームの規則を遵守し、嘲弄や逸脱をおこなうことはな かったし、もちろん詩人を揶揄することもなかった。イネスのように、ふたつの顔が融合し、なおかつどちらに対しても批判的にからかうという立場は、きわめ て独特である。
 わたしの考えでは、イネスはどこにもない場所に立っている。マイクル・イネスは現し身のJ・I・M・スチュアートとはまったく無関係の架空の人物なのだ。イネスは大学で教鞭をふるうスチュアート氏とは無関係であり、同時に、ゴランツ社から印税収入を得ているスチュアート氏とも無関係だ。
 そして、この架空であるがゆえに自由な作家、マイクル・イネスが誕生したのは、『ストップ・プレス』が書かれたときにちがいない。その意味では、『ス トップ・プレス』はいわば悪魔祓いの書であり、ここから1940年代の自由で、軽快で、荒唐無稽な小説世界が始まったといってよい。
 リチャード・エリオットが創造した架空の人物〈スパイダー〉が本の中から抜けだしたように、J・I・M・スチュアートが創造した架空の作家マイクル・イ ネスは現実のものとなった。実際、彼はこのあと、ジョン・アプルビイというシリーズキャラクターが活躍するエンタテインメント小説を40冊近く書くことに なるのである。(……)
 ぼくがここで言いたかったのは、『ある詩人への挽歌』がぼくのイネス開眼の1冊だったってこと。「こういう話ならもっともっと読みたい」と本気で思った ね。「高尚で文学的なミステリ」なんて読みたくもないからさ。で、イネスをちまちま読むようになって、そのくだらなさ、でたらめさ、むちゃくちゃさにしび れまくってるわけ。もっと多くの人がイネスを好きになってくれるとうれしいな。 (「reading」2003年10月12日)

『ストップ・プレス』はほんとうにおもしろいんだけど、肩肘張って読むと肩すかしを食らわされるから、ぜひとも肩の力を抜いて読んでいただきたいと思う。
 わたしは「イネスの小説は暇つぶしに読むもの」だと思っている。さらにいえば、「小説を読むのに暇つぶし以外の目的があるわけねーだろっ」というのが、架空の作家マイクル・イネスの生涯の主張である。(現し身のJ・I・M・スチュアート氏はいささか異なる見解をお持ちだったかもしれない。なんたって文学部教授ですから)(「reading」2005年3月22日)

 殊能センセーの作品について話すのはあんまり好きじゃないんだけど、一応『2005本格ミステリ・ベスト10』p.24の訂正だけしておく と、『キマイラの新しい城』の献辞にある「ふたりのマイクル」とは、マイクル・イネスとマイクル・ムアコックのことです。理由は発想源がThe Daffodil Affairだから(ロンドンの幽霊屋敷が盗まれて南米に再建される話)。まあ、あいまいな書き方をするほうが悪いんだから、べつにこんなことわからなくてもかまわない。
 イネスのように書きたい、と思っていたから、「軽い」「荒唐無稽」「バカミス」という評価はうれしかったなあ。バカミスBEST10に選んでいただけなかったのが残念。(「reading」2004年12月9日)

 こうした評言を前にしては、「殊能将之はまだ本気を出していない」「いつまで余裕がある態度を続けるのか」という言葉は、そのままでは力を持たないだろう。しかし、そういうイネス観、ミステリ観についても、また違う角度から読むことができるのではないかと、私は思う。
 というわけで、次回から引き続き、『黒い仏』を読んで行こう。(終わり)