立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

矢部嵩は天才である。(2)

承前
その文体
私が矢部嵩botの抜き出した文章に眼を洗われる心地がしたのは、その言葉が磨きぬかれ、紋切り型を脱臼させる独特のユーモアを持っているように感じられたからだ。それは『紗央里ちゃんの家』で感じたのとは異なるものと思った。
ところで、矢部嵩の文章はよく「読みにくい」といわれる。
なぜ、読みにくいのだろうか。
そもそも、「読みにくい」とは、いったいどういうことなのか。

常識的に考えれば、「読みにくい」とは、書いてあることの意味内容が取りづらい、ということだろう。
その逆の「読みやすい」文章といえば、以前にも紹介した、殊能将之『美濃牛』の、次の一節を思い返す。

(……)子規は頭が論理的にできている。何を書きたいか、何を言いたいかを正確に把握しているから、平易な表現で書きあらわすことができる。要するに、頭がいい、ということだ。
世の中には、平易に書く天才というものが存在する。子規がそうだし、漱石がそうだ。時代を下って、大衆文学に目を向ければ、岡本綺堂や、江戸川乱歩や、横溝正史が、平易に書く天才である。
綺堂の小説はどれも昨日書かれたようにみずみずしい、という評をどこかで読んだことがある。乱歩の初期短編は、昭和初期に書かれたとは思えないほど、読みやすい。そして、横溝はわかりやすい散文で、探偵小説の傑作をいくつもものした。
彼らの著作が、いまでも新刊書店の書架を飾っているのは、内容のすばらしさもさることながら、平易な表現に徹した文章が古びていないおかげであろう。

ならば矢部嵩の文章が「読みにくい」のは、作者の頭が論理的でないからなのか。
いや、注意深く読めば、書いてあることは必ずしもわかりにくくない。むしろ、私はその文体に「意味内容が圧縮されている」という印象を受ける。
「意味内容が圧縮されている」とはどういうことか。
以前、人類学者・西江雅之の著書『新「ことば」の課外授業』(白水社、2013)を読んだ際、次のような一節に膝を打った。「日本語はあいまいな、非論理的な言語」であると主張する人間がいるが、そうではない、と西江はいう。

日本語というのは、表現のあり方として、その場の状況を全部読み込んだうえで会話をする傾向が強い言語であると同時に、日本語には、用件だけを率直に言わないことが美しいとされる、言いたいことをややぼかして言う伝え合いの文化があるということです。(……)言ってみれば「状況依存型」の言語です。それに、人間はことばだけで伝え合っているのではなくて、身振りや装い、相手の人物特徴や社会背景、その場の状況といった、いろいろな要素が同時に溶け合った形で伝え合いをしているという話を思い出してください。
よい例を挙げましょう。
会社の勤務日の水曜日、午前十時頃、とあるマンションから、お父さんが子どもたちを連れて出てきたとします。子どもたちはみんなリュックサックを背負っています。そしてマンションの入り口を出て少し行ったら、ゴミを捨てに来ていた隣のおばさんに会ってしまったとします。そうしたら、論理的に考えれば、ここでの会話は、
 隣のおばさん「おはようございます」
 お父さん「おはようございます」
 隣のおばさん「どちらにいらっしゃるんですか」
 お父さん「私たちはピクニックに行きます」
といったものになるでしょう。ところが日本語ではそうは言わない。言えないのではないんですよ。言わないのです。では、どう言うかというと、
 隣のおばさん「おはようございます」
 お父さん「おはようございます」
 隣のおばさん「あら、天気が良くて、ようございましたね」
 お父さん「(頭をかきながら)いやー、会社が休みなものですから」
日本語はこうした言い方をする言語なのです。これを言語のみを取り出して、額面通りそのままの意味で考えて、「会社が休みだと天気が良くなる」とか(笑)、そういうことを言っているわけではありません。
これは日本語が間違っているというのではないのです。「こんな天気の良い日にピクニックだなんて、本当にうらやましい」「私は会社をさぼって遊びに行くわけではないですよ」と、そこまでその場を読み取ってしまうんですね。
言語で額面通りに表現することは、どの言語でも可能です。でも実際の会話では、そうは言わない。

つまり日本語は「状況依存」型、コンテクストに依存するタイプの言語なので、上記の例のような会話の場合、表面だけを読み取れば非論理的に見えても、文脈を補えばじゅうぶん論理的に捉えうる。例文をさらに補えば、
 隣のおばさん「(家族の様子を見て、アウトドアにでも出かけるのかと推察し)あら、天気が良くて、ようございましたね(こんな天気の良い日にピクニックだなんて、本当にうらやましい)」
 お父さん「(頭をかきながら)いやー、会社が休みなものですから(前々から子どもたちに連れて行けと約束させられていたんです。会社をさぼって遊びに行くわけではないですよ)」
などとできるだろうか。
論理学の教科書とか、法律文とか、家電の取扱説明書もそれぞれに論理的な日本語だが、それら単線的(一次元的)な文章は、文章だけで独立したものとして、内容に言い落しがないようじゅうぶんに説明し尽くそうとする。しかし日常では上記のように文脈に応じて省略をはさみ(=状況に依存し)コミュニケーションを行なうほうがふつうだろう。そこから表面的な言葉だけを抜き出せば、しぜん飛躍が多いものになる。
『美濃牛』の引用部分をよく読めば、表面的に「論理的」な文章がイコール「平易」な文章であるとは書かれていない。「論理的」な考え方が「平易」な文章を生む、とされている。子規を始め例に挙げられている書き手による「平易」な文章とは、論理的な考え方によって周辺の文脈の整理も含めてじゅうぶんにコントロールされた文章(=一次元)ということなのではないか。
文章のみで成立する小説は一次元だが、表現されようとしている内容は一次元ではなく、トルソーのように言い落されたものを読者へ想起させることで初めて作品は完成する。矢部嵩の文体に「読みにくい」つまり「平易でない」ところがあるのは、内容が非論理的だからというわけではなく、西江が挙げているような、口語的な省略がその文体の根本に関わっているからではないか。先に「圧縮」と書いたのは、そのように言葉と言葉とのあいだに言い落された文脈から読者に推察させる部分が大きい、と見るからだ。未成年が多く視点人物に選ばれるのも、無関係ではないだろう。
逆に言えば、そうした「状況依存」という言語の特性を酷使し、読者へ負担をかけてまでして初めて表現されるのが、矢部嵩的世界なのだ。
ではそれはどのように「圧縮」されているのか。具体的に見ていこう。(続く)

矢部嵩は天才である(1)