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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

佐々木中の講演集『仝』を読んでいたら、ウィトゲンシュタインは即興で講義をしていたという話が紹介されていた。

彼の講義って完全なアドリブだったんだそうです。いきなり講義室にやってきて、「前回どこまで行ったっけ?ああ、そうか。判った。では続きを考えよう」って言って、うーん、と言って、何とその場でリアルタイムで考え出してしまう。無茶でしょう。何の準備もしてこない。下手をすると一時間ぐらい、ずっと黙って思考している。想像してみて下さい。ウィトゲンシュタインが目の前にいるんだよ。それで、時には殆ど苦悶の表情を浮かべて、歯を食いしばって考えているんです。(……)やる方も途方もなく苦しいだろうけど、これ聞くほうもかなり身をすり減らすでしょう。だから一人いなくなり、二人いなくなり、毎学期五人ぐらいしか残らなかったらしい。でもそこからさまざまな思索の結晶が生まれてきた訳でね。(「歓び、われわれがいない世界の」)

ここを読むと、森敦が小島信夫との対談本『対談・文学と人生』で、「阿頼耶(アラヤ)識」ということを語っていたのを連想する。というのは、小島信夫も『別れる理由』でまさに同じようなアドリブ的執筆法をしたらしい。

(森)人間がせっぱ詰って、とにかく断末魔で書くと。絶体絶命で書くというようなことになるというと、これはもう申し上げたかもわからんけれども、そこで動いてくるのが阿頼耶識というんですね。だから人間が、これは問答しておってもなんでもいいんですけれども、窮地に陥ってきて、ある本能的な行動をしなければならぬ。判断をしなければならぬ。待ったなしだということになると、いわゆる阿頼耶識というものが出て来る。(……)禅も阿頼耶識から出ているんです。そうすると彼らは端然と座っておるだけで、なんでもないようだけれども、これはやっぱり阿頼耶識というものに到達して、非常に低い言葉でいうと、実力以上の自分を発揮する方法、自分以上の自分を発揮する方法、それが考えられねばならぬとしているんです。

つまりアドリブ的方法というのは、自分を窮地に追い込んで自分を超えるものを絞り出す、禅的な行き方らしい。もちろん型を極めた人間がそれに飽き足らなくなった時のある種究極の方法なので、凡人がヘタに真似するのは危険だろうけれども。
このアドリブということについて小島は別のところで、ロラン・バルトを引き合いに違う言い方をしている。

彼は私が読んだもののなかで、快楽と悦楽という二つの言葉を用いている。ある作品を読んで快楽をかんじることができる。快楽のみが、ただ一つの、自分をドレイ化せず、他人をドレイにしないものだ、というつもりだったと思う。あまりにも思いきったいい方のように見えるけれども、私たちが本を読むときには、快楽を感じる自由を望んでいるともいえる。
ところが、何かしら危険をかんじ、自分を白紙にかえしてしまうようなときには、悦楽をおぼえる。私はこれは追いつめられ断崖に立ったとき、どうしたら道が開けるか、と思うようなものと似ているのではないか、と勝手に考える。
バルトはまたいっている。理解されたとたんに、とりこまれてしまう。そのとき、積極的に移らねばならないと。くりかえすが、彼は流れのなかでいっているから、こんなふうに抜き出すべきではない。(……)
追いこまれないとき私はいったい何者であろうか。私はもっともらしいことを考えているかもしれないが、ひとりよがりになっているだけではないか。私が信じていいのは、このときの自分だけではないのか。(小説ふうの小説論)

自分を安定した立場に置かずに、不安定な窮地にふと道が開ける(「非常に低い言葉でいうと、実力以上の自分を発揮する」)時の「悦楽」のみが信じられるものである……というのはしかし、現在的ではないかと思う。
ウィトゲンシュタインの講義録が最近文庫で出ているみたいだから、読んでみようかな。