TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

nemanocさんの「今週のトップ5」という形式はいっすね。なんか懐かしい感じで。
http://proxia.hateblo.jp/entry/2016/02/15/080644

年が明けてからもなんとなく梶龍雄作品を立て続けに読んでるんですが、さすがに驚き慣れしてきた感じ。個人的ベストは今のところ、最初に読んだ『龍神池の小さな死体』。

そろそろ『殊能将之未発表短篇集』を読まれた方も多いと思います。いかがでしたか。いろいろな見方があると思いますが、私のほうは来週くらいに感想をまとめてアップしようかなと。

その他、叙述トリックについても引き続き、見たり読んだりしています。

そういえば昨年秋、Earth, Wind & the FireのSeptemberを久しぶりに聴いたら、イントロから印象的なギターフレーズが流れてきて驚いた。

というのは、このフレーズがDon CaballeroPalm Trees in the Fecking Bahamaに引用されていることに気づいたから。(1分53秒くらいから↓)
両方とも馴染み深い曲なのに、これまでまったく気がつかなかった……まさかドンキャバにEW&Fが紛れ込んでいたとは!と愕然とした次第。

「これは推理小説ではない」

これまで何度か触れたことのある話題ですが、今回はもう少し詳しくまとめておきます。

解決編で登場人物が「これは推理小説ではなく現実なのだから……」といって、平々凡々な真相を示す作品の系譜というものがあります。そのセリフによって、トリックがショボクレているとか、そもそも無いとか……そういうのを免罪しようとするものです。しかし、その大方はどうも、「開き直りでは?」と感じられるように思います。他の読者からもあまり良い評判を聞いたことがない。にも関わらず、いまだにそうした作品は書かれ続けている――。

思うに、その源流には、推理小説とリアリティの相剋をパロディ的に扱った作品があるのでは。私が読んだことのある中で、最も古い代表例というと、ノックスの『陸橋殺人事件』が浮かびます(もっと古い例をご存知の方は、ご教示いただければ幸いです)。
1925年発表のこの長編は、当時の推理小説を巧みに皮肉ったものとして大いに評判を得た。けれど今読むと、その意味での新鮮さはもはや薄れています。似たようなのを何度も読んできたからね。
そうした流れにおける最大のエポックは中井英夫の『虚無への供物』でしょう。周知の通り、この小説は前半部分までで江戸川乱歩賞に投稿され、最終選考段階で受賞を逃すも、後半部分の加筆を経て刊行された。
前半部分の結末は、前述のノックスに近い。乱歩自身から選評で「冗談小説」と評されたのもそのためでしょう(もしこの段階で受賞が決まったならば、後世はいったいどうなっていたのでしょうか)。
しかし主眼は後半にあります。前半が「事件を複雑に読み解く探偵が単純な現実に敗北する」という構図であったとすれば、後半で明らかになるのは、「現実」と「虚構」の相克関係としての「事件」となります。
竹本健治はかつてこう分析しています。やや長くなりますが、印象的な一文だったので、引用させていただきます。
中井さんが一貫してミステリに対する屈折したスタンスを保っていたことは改めて言いたてるまでもないが、そのスタンスが完成されるには様ざまな後天的要因が働いたにせよ、その出発点となったものがミステリをめぐる危機意識だったことはほぼ間違いないだろう。
その危機意識は『虚無への供物』のなかでもこういうふうに表明されている。すなわち、これだけ新形式の殺人方法が次々と案出され、現実の事件が小説に描かれる事件を軽がると超えてしまう現代という時代において、ミステリというジャンルはその存在意義を維持しうるのだろうかとーー。
この問いかけが多くの読者にインパクトを与えたのは、その種の自覚的な設問が当時のミステリをめぐる言説空間では目新しく、それを作品のなかで展開させるという手法もきわめて斬新で、もちろん問いかけの内容自体が相応の説得力を具えていたためでもあっただろう。けれども改めて振り返ってみて、この問いかけはこれまであまりにも額面通りに受け取られてきたのではないかと思う。(……)
そこにはひとつのねじれがあって、中井さんの問いかけ方自体に微妙な詐術がはいりこんでいるのではないかと思う。つまり、その問いかけのもともとのかたちは「このまま漫然と再生産を続けるだけではミステリに未来はない。では、どういう道筋に未来を見いだせばいいのだろうか」という、あくまで書き手としての発想だったはずで、この「現代に可能なミステリは何か」という問いを「現代においてミステリは可能か」というかたちに裏返し、その際、作品のテーマに引き寄せるために「これだけ新形式の殺人方法がーー」云々の条文を加えたというのが実情ではないだろうか。(……)
そもそも根っから江戸っ子の中井さんには、見えすいた口上をだらだらと述べる類いの解決編は、途轍もない野暮として映ったに違いないのだ。けれどもあくまでミステリを書くことを大前提としていた中井さんは、その問題と真っ向から格闘せざるを得なかった。その結果生み出されたものが、中盤の長大な推理較べであり、謎を完全に割り切らないスタイルであり、読み手をあちらこちらにひきずりまわし、問題の本質を思いもよらない方向にずらしていく様ざまな騙しうちの手法であり、何よりも言葉の呪力で作品全体を濃密な魔術空間に変ずる試みだったのだろう。(「問題の所在」/『とらんぷ譚 中井英夫全集3』創元ライブラリ、1996)
「これは推理小説ではない」という言葉には、何かドン・キホーテ的に虚実のねじれる響きがあります。もしそれをまともに受け取るならば、作品いやジャンル自体が爆発四散しかねないほどの可能性を秘めている。しかし多くの「これは推理小説ではない」タイプの推理小説は、この潜勢力を微温的に覆い隠してしまう。このとき、作品は鳥でも獣でもないコウモリの裏切りとして堕してゆくのではないか。とりわけ、「現実にこのような複雑な事件が起こるわけがない」と単純な敗北宣言をしてしまっては。……そんなことは、言われずとも誰もが元より承知しているからです。そうした告発には、裸の王様を指し示すつもりの当の自身が裸の王様になっているのを見るような、悲惨すら感じられないでしょうか。
しめくくりに言葉遊びをしてみましょう。
仮に、通常の推理小説をミステリ=反現実であるとします。すると、『陸橋殺人事件』は反ミステリ=現実としてみせた。『虚無への供物』は、さらに反ミステリ=反現実とひっくり返した。『陸橋』は「推理小説ファンが最後にゆきつく作品」と評されましたが、『虚無への供物』も東京創元社から出た塔晶夫版の紹介に「1841年、エドガー・アラン・ポオの「モルグ街の殺人」により幕を上げた近代ミステリーの歴史は、1964年、わが国の一冊の書物によって本質的にその終焉を告げた」とある。すると、次の時代の「終わり」はどこにあるのでしょう。
「これは推理小説ではない」とはおそらく、その地点において発せられる言葉ではないでしょうか。

続・「遠いファンタシーランド」を偽物化する――『殊能将之読書日記』

承前
「偽物」論がピークに達するのは、次の一節ではないだろうか。

 ディクスン・カーの歴史ミステリをなんとなく読んでいる。わたしは西洋史にうとく、ずっと敬遠していたから、ほとんど初読である。
 まず『ビロードの悪魔』(吉田誠一訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)を読んだのだが、主人公ニック卿に仮託されたイギリス国王への強い敬意を感じとっ て、実に妙な気分になった。というのは、カーはアメリカ人だからだ。ヨーロッパに遊学したのが20歳前後、イギリスに移住したのが25歳ごろだから、それまではずっとアメリカ合衆国で暮らしていたわけで、これは完全にアメリカ人である。成人するまで生活していれば、気質も根本的にはアメリカ人のはず。
 それでふと思ったのは、カーにとって過去のイギリスとは一種のファンタシーランドだったのではないか、ということ。実際、『ビロードの悪魔』はほとんどヒロイック・ファンタシーである。主人公の行き先が火星ならバローズだし、古代バビロニアならエイブラム・メリットになる。話自体も、酒飲んで、チャンバラして、美女とロマンティックな恋愛をしたい、というみごとな願望充足小説である。
 そんなことを考えているうちに、ポール・アルテを思い出した。アルテはフランス人なのに、過去のイギリスを舞台に本格ミステリを書いている。「それはおかしい、偽物だ」という人がいるけれど、それならアメリカ人が過去のイギリスを舞台に本格ミステリを書くのもおかしいことになる。同じ英語圏で、本人が実際イギリスに移住したからいい、ということはないだろう。
 さらにいうなら、アルテが「カーの偽物」を書くにいたったのは、実はカーの作品自体にある種の「偽物性」があったからではないだろうか。「偽物」という言葉に抵抗があるなら、「遠いファンタシーランドにあこがれる気持ち」と言いかえてもよい。
 そう考えると、アルテのような作家がカーを対象にしか出現しないことも、なんとなく理解できる。たとえば、どんなにエラリー・クイーンを愛する作家でも、1920年代のニューヨークを舞台にした本格ミステリを書こうとは考えないだろう。(「reading」2003年2月20日)

整理すれば次のようになるだろう。なるほどポール・アルテは偽物である。しかし、カーにも偽物性はあった。そうした書き手の「偽物性」とは「遠いファンタシーランド」すなわち今ここではない何処かへ「あこがれる気持ち」という「願望」を「充足」させることである――。この論法はさらに敷衍できる。日本でいえば江戸川乱歩ペンネーム自体「偽物」である。海外ならエドガー・アラン・ポーだってアメリカという当時ド田舎に住みながらヨーロッパ流の文学を書いていたのだから「偽物」だといえる。すなわち、ミステリというジャンルの起源にはそもそもそうした「偽物」性があったのだ、云々。……ここまでいくと風呂敷を広げすぎだから、「偽物」の具体的な中身に戻ろう。
同じ「reading」にこういう発言がある。

 たとえば、最近のレジナルド・ヒルは、ディケンズのようなミステリを書こうとしているように見受けられる。しかし、イネスはそんなことを考えたことは一度もないだろう。「ディケンズみたいなミステリを読むくらいなら、ディケンズ読んだほうがいいじゃん」と思っていたに違いない。(「reading」2001年3月26日)

これはイネスを称揚するための発言である(その前に「イネスの最もすばらしいところは、文学趣味がかけらもないこと」とある)。ではなぜ、「〜のようなミステリを書こうとしている」という点においてヒルはダメ(とまでは言っていないが)でアルテはOKなのだろうか。
おそらくそれは「論理性」と関係がある。『Before mercy snow』という本の全体でTという青年が主張しているhttp://d.hatena.ne.jp/kkkbest/20140930/1412036061 ことを要約すれば、〈自分のやりたいことの論理を貫徹せよ。ヘンな色目は使うな〉ということだ。この「論理」の価値観においては、「やりたいこと」のスタート地点が「本物」であろうと「偽物」であろうと無関係だ。しかしいったん走り始めたら、その軌道を歪めてはならない。野球をしていたのにとつぜんサッカーのルールを持ち込んではならない、ということだ(これは『黒い仏』などを考えると一見矛盾に思われるかもしれないが、厳密にはそうではない)。
だが「論理性」の価値観からすれば「本物」と「偽物」に差異は無いことになる。するとアルテをことさら取り上げる主因はなんなのか。それが前回述べた「ズレ」である。自己に「偽物」の自覚があるからこそ、数多ある「偽物」群という他者の中から、その「論理」を貫徹して「本物」とズレた果てにオリジナリティを獲得した異様な何か、を察知する。
アルテの『赤い霧』についての記述で、「自覚していないからこそ書きうる傑作」という言葉が出てくる(「reading」2004年11月15日)。

 個人的な意見では、『赤い霧』の最大の美点は Roman policier authentique et/ou noir本格ミステリ/ロマン・ノワール)であることだと考えている。
 ただし、以前にも書いたとおり、アルテ自身はロマン・ノワールを徹底的に嫌悪している(ある作品中でそうはっきり表明している)。絶対に先に読んではいけないあとがき「“謎” と“血”と」から明らかなとおり、アルテはたんなる本格ミステリを書いたつもりなのだ。そうでなかったら(日本では出版順序が前後したが)『赤い霧』の直 後に『死が招く』を書いたりはしないはず。『赤い霧』は決定的なターニングポイントになってもおかしくない作品なのに、なにひとつ転回していないわけだ。
 つまり、『赤い霧』のユニークさは一種の勘ちがいの産物であり、古風な本格ミステリをこよなく愛するフランス人にしか書けない小説なのである。そういう意味では、アルテのオリジナリティが最大に発揮された作品であり、代表作にして傑作といえる。

『赤い霧』をユニークたらしめているもの、独特の読後感を与えてくれるものは、後半に噴出する「暴力とセックス」にほかならない。にもかかわらず、アルテ自身は「謎と驚異」の物語を書いたつもりなのだ。
『死が招く』の『赤い霧』宣伝場面から、同じく平岡氏の訳文で引用する。
「わたしと同様に真相を知ったうえで事件全体を見直してみると、よくわかるだろうよ。犯人が霧のなかに忽然と消えうせた謎こそが、恐るべき惨劇の中心であり、さらにはその源だったと。これはまさに密室の問題なんだ」(ハヤカワ・ミステリ、p.13)
 このツイスト博士の感想は、アルテ自身の判断でもある。彼は『赤い霧』の中心は「犯人が霧のなかに忽然と消えうせた謎」であり、「密室の問題」だと考えている。だからこそ、絶対に先に読んではいけないあとがきのなかで、この“謎”以外の事柄をすべてネタばらししてしまったわけだ。“謎”さえ伏せておけば、『赤い霧』の価値は失われない。“血”はいくらネタばらししてもかまわない、と……。
 さて、ここまで書けば、『赤い霧』がいかに唯一無比の作品であるか、わかっていただけたと思う。
 小林信彦はトマス・チャステイン『子供たちの夜』を書評で絶賛したあと、最後にこうつけ加えている(『地獄の読書録』ちくま文庫)。

 この作品の弱点をあげれば、ラストの一頁で、カビくさい〈奇妙な味〉風の落ちをつけてしまったことにある。訳者も指摘するように、チャステインは自分が何を提示したかに十分に自覚的ではないのだろうか。

『赤い霧』に関していえば、アルテが「自分が何を提示したかに十分に自覚的ではない」と断言できる。したがって、「弱点」もいくらでも指摘できる。
 だが、そんなものは瑕瑾にすぎない。世の中には「自覚していないからこそ書きうる傑作」が存在するのである。

確かに『赤い霧』にはどこか奇妙なところがある。なぜアルテはそれを自覚できなかったのだろう。それはおそらく、作品が要求する「論理」に忠実になるあまり盲点へと入り込んだ「ズレ」、外部からしか察知できない「ズレ」があったからなのだ。

「遠いファンタシーランドへあこがれる気持ち」とは、今ここのリアルが充実していないということだ。自分が自分であることに何の疑問もない人間は、「本物」かもしれないが、「遠いファンタシーランド」を必要としないだろう。自分とリアルとのあいだにズレを感じるからこそ、「遠いファンタシーランド」は希求される。しかし、それを呼び寄せてみても、小説という別種の「偽物」でしかない。それをポジティブへと転換すること。
作家が亡くなった際、小説家志望者らしき誰かが「殊能センセーは自分が欲しいものを全部持っていた」などとつぶやいているのを見た。それはおそらく外からその姿を見たからで、もし悪魔に魂を売り渡して本人に成り代わったとしたら、その人物は小説を書き得なかっただろう。「殊能将之の本物」に成り代わった時点で「願望」は「充足」してしまうからだ。もしカーが『ビロードの悪魔』の作品世界に住んでいたとしたら、『ビロードの悪魔』のような小説を書こうとは思わなかったはずだ。しかしそんな悪魔はいない。不在の作家本人を「遠いファンタシーランド」へと置いてその「あこがれ」の「論理」を、盲点へとズレてしまうまでに貫徹するとき、彼の「偽物」性はポジティブへと転換され、自覚を超えた彼方からのまなざしを受け取るんじゃないかな。

ポーについて先述したが、「memo」の中で、クリストファー・プリースト『奇術師』の感想に絡め次のように日記の書き手は述べている(2004年4月後半)。

『奇術師』の物語は、20世紀初頭に起きたアルフレッド・ボーデンとルパート・エンジャという「似たものどうしの二人の奇術師の確執」(若島正氏解説)に端を発している。だが、このふたりには決定的な相違点がある。

エンジャはもっぱら奇術のタネに関心を抱いていた。奇術師が「ネタ〔ギミック〕」 と呼んでいるものに。もしひとつのトリックの成否が奇術師のテーブルのうしろにある隠し棚にかかっているなら、そのことだけがエンジャの関心の焦点にな り、それをどのような創意に富むやりかたで見せるのかはどうでもよかった。われわれのあいだにほかにどんな反目の原因があったとしても、そこがエンジャの 根本的な欠点であり、奇術技術の理解に対する限界であり、われわれの争いの中心であった。奇術のすばらしさは専門的なタネにあるのではなく、それを実演する技能にあるのだ。(p.108)

 以上はボーデンの手記の一節である。エンジャも日記でこう書いている。

 ぼくの弱点は、説明されないかぎり、イリュージョンの仕組みを理解できないところにある。あるトリックを初めて目にするとき、ほかの観客同様、途方に暮れてしまうのだ。奇術に関する想像力が貧弱で、既知の一般的原理を適用して、望む効果をあげるのがぼくにはむずかしい。すぐれた実演を目にすると、見せられたものに目がくらみ、見られなかったものに困惑する。(p.258)

 ここでわたしは本格ミステリとSFという「似たものどうし」に思いをめぐらせた。このふたつのジャンルは、ともにエドガー・アラン・ポーを直接の起源としており、双子の兄弟といってもよい。
 最も単純化していえば、本格ミステリはAをBのように見せかけることを目的とする。このとき、Bがいかに怪奇的・超自然的な現象であったとしても、Aは日常的・常識的な行為に限定される。いいかえれば、Bは「舞台の上でくり広げられるすばらしい効果」であり、Aはその「あまりにも卑小でささいな」タネである(p.85)。
 一方、SFはBをBとして文字どおりに受けとることを要求する。「火星人が侵略してきた」と書いてあれば、そのとおりの事実が起きたと認めなければならない。「火星人なんかいるわけがないから、これはトリックに違いない」と疑う者は、SFの読者にはなれない。
 ボーデンとエンジャはどちらも瞬間移動を得意演目とする奇術師であり、そのタネはそれぞれ本格ミステリとSFに対応している。さらに、手記の書き方もそうで、ボーデンが欺瞞にみちた語りを駆使するのに対し、エンジャは日記の読まれたくない部分を破りとるという直接的な方法を使う。
 そして、この決定的な相違点を持つ「似たものどうし」を融合させているのが、ポストモダンな語りの技法である。これは叙述トリックとは似て非なるものだ。叙述トリックがあくまで「AをBのように見せかける」ことを目的とするのに対し、ポストモダンな語りは「AかBかわからなくする」ことを目的とするか らである。
 したがって、本格ミステリ読者もSF読者も、『奇術師』の語りにいらだつかもしれない。本格ミステリ読者はタネが明示されないことに、SF読者は文字どおりに受けとれないことに。
 だからこそ、どちらの読者にとっても読む価値はある小説だとわたしは思う。

本格ミステリ読者もSF読者も、『奇術師』の語りにいらだつかもしれない」という見方は、ミステリとSFのどちらか一方に立つのではなく、それらを往復する過程で、『奇術師』にミステリでもSFでもない「ズレ」を察知する見方である。「似たものどうし」に「決定的な相違点」を見出すのは、こうした往復による「ズレ」への感覚からなのだ。『読書日記』にはそうした感覚が横溢している。それは解説が「SF編」「ミステリ編」と銘打たれながら若島正法月綸太郎も両方に造詣の深い人物であることにも表れている。
何より、「わたしは本格ミステリとSFという「似たものどうし」に思いをめぐらせた。このふたつのジャンルは、ともにエドガー・アラン・ポーを直接の起源としており、双子の兄弟といってもよい」という一節には、ポーと生誕日が同じであると折につけ公言していたことの自負をも感じてしまう。
以上のような記述もあるからこそ、邦訳書についての考察が書かれた「memo」の記述も参照されなければ……と思っていたのだが、先に未発表短篇集の刊行が発表されたのは嬉しい限り。
https://twitter.com/kodansha_novels/status/689357058576113664
もし、ここから新たな書き手/読み手が出てくるものなら、こうした書くことの完走運動と読むことの往復運動からなのではないかと、私は思う。

そうか、今日は1月19日だったのか……。そう思い、急いで更新してみました。

殊能将之短篇集の情報が公式でも発表されました。
http://kodansha-novels.jp/
https://twitter.com/admiralgoto/status/684577660991754241

2月11日発売
殊能将之 未発表短篇集』
著者:殊能将之
──デビューのころ書かれた未発表の短篇三作と「ハサミ男の秘密の日記」(単行本未収録)収録。

2月11日発売だとすると、そろそろネット書店での予約も始まるはず(ノベルスでなく単行本なのはチト意外)。しかし、タイトルこれで行くんですかね!?

あけましておめでとうございます今年もよろしくお願いします。

『美濃牛』に関する以下の話題をこちらには載せてなかったので、リンクを張っておきます。
◯もし洞戸村の人が殊能将之の『美濃牛』を読んだら。
http://www.horado.com/modules/d3forum/index.php?topic_id=89
◯作中にも言及のある坪内稔典氏が俳句e船団の連載「日刊 今日の一句」(2001年5月31日)で『美濃牛』を紹介。
http://sendan.kaisya.co.jp/ikkubak_0503.html

ドラマ「赤めだか」を見ていたら、その数日前にやっていた「黒蜥蜴」に比べるとさすがに面白かった。

そういえばもう十年以上前、「爆笑オンエアバトル」に時々、落語家が出ていた。たいていは予選落ちになってしまうのだが、たまにオンエアされることもあった。ピン、コンビ、グループなどの芸人が入り混じり、演し物も漫才、コント、ショートコント、紙芝居など様々な形態がフラットに評価される異種格闘技戦のような番組である。といって落語家がそこで何か特別に珍しいことをやるわけではなく、フツーに座ってフツーに噺をしていた。
他の芸人たちが、演じる内容だけでなく衣服や証明や音楽に至るまで自由に(時には飛び道具と思えるものさえ)駆使するのに比べると、昔ながらの語り一本で勝負する落語はだいぶ不利に見えた。
「赤めだか」で主人公の立川談春を演じる二宮和也が、修行のため入った築地の魚屋で、行き交う客相手に宣伝文句をまくし立てるシーンがある。
そこでふと、後藤明生の連作短編集『しんとく問答』に入っている「『芋粥』問答」のことを思いだした。
生前に刊行された小説として最後になる『しんとく問答』は、私が初めて読んだ後藤作品で、当時はだいぶ面食らった記憶がある。その二編目の「『芋粥』問答」は、

「明治大正文学を読み直す会」の皆さん、こんにちは。本日は皆さんの全国大会にお招きいただきまして、まことに光栄至極です。今日は芥川の『芋粥』について何か話をせよ、とのことであります。

という書き出しで始まる、『芋粥』についての評論ふうの講演録形式による短篇。最初は本当の講演録だと思っていたので、(どうしてそんなのをそのまま短篇集に載せるんだろう?)と不思議に思った。この講演が架空のもので、「明治大正文学を読み直す会」というのが一種のギャグだと知ったのはしばらく経ってからである。しかし架空だと知るとますます疑問は深まる。小説というのは時間も空間も人物も手法も自由に扱うことのできる形式である、現に様々に壮大なスケールの小説が様々に書かれている、であれば小説家本人に近しいと思しき語り手を出しての講演録ふうなり私小説ふうなりの小説というのは、だいぶん不自由な縛りがあるのではないか、それでは書ける内容にも制限があるのではないか、云々。
このときたぶん私は、「爆笑オンエアバトル」で落語家の演者を見た時に感じたような不自由さを感じていたのではないかと思う。
いま「『芋粥』問答」から引用するため久しぶりに『しんとく問答』を書棚から引っ張り出してパラパラめくってみると、もうその語り口だけで参ってしまう。「様々に壮大なスケールの小説」がブロックバスター的というか大作映画的だと仮にしてみれば、こういう語り口の小説というのは規模からいっても落語的であるのかしらん……となんとなく思った次第。