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襤褸は着ててもロックンロール

ドラマ「赤めだか」を見ていたら、その数日前にやっていた「黒蜥蜴」に比べるとさすがに面白かった。

そういえばもう十年以上前、「爆笑オンエアバトル」に時々、落語家が出ていた。たいていは予選落ちになってしまうのだが、たまにオンエアされることもあった。ピン、コンビ、グループなどの芸人が入り混じり、演し物も漫才、コント、ショートコント、紙芝居など様々な形態がフラットに評価される異種格闘技戦のような番組である。といって落語家がそこで何か特別に珍しいことをやるわけではなく、フツーに座ってフツーに噺をしていた。
他の芸人たちが、演じる内容だけでなく衣服や証明や音楽に至るまで自由に(時には飛び道具と思えるものさえ)駆使するのに比べると、昔ながらの語り一本で勝負する落語はだいぶ不利に見えた。
「赤めだか」で主人公の立川談春を演じる二宮和也が、修行のため入った築地の魚屋で、行き交う客相手に宣伝文句をまくし立てるシーンがある。
そこでふと、後藤明生の連作短編集『しんとく問答』に入っている「『芋粥』問答」のことを思いだした。
生前に刊行された小説として最後になる『しんとく問答』は、私が初めて読んだ後藤作品で、当時はだいぶ面食らった記憶がある。その二編目の「『芋粥』問答」は、

「明治大正文学を読み直す会」の皆さん、こんにちは。本日は皆さんの全国大会にお招きいただきまして、まことに光栄至極です。今日は芥川の『芋粥』について何か話をせよ、とのことであります。

という書き出しで始まる、『芋粥』についての評論ふうの講演録形式による短篇。最初は本当の講演録だと思っていたので、(どうしてそんなのをそのまま短篇集に載せるんだろう?)と不思議に思った。この講演が架空のもので、「明治大正文学を読み直す会」というのが一種のギャグだと知ったのはしばらく経ってからである。しかし架空だと知るとますます疑問は深まる。小説というのは時間も空間も人物も手法も自由に扱うことのできる形式である、現に様々に壮大なスケールの小説が様々に書かれている、であれば小説家本人に近しいと思しき語り手を出しての講演録ふうなり私小説ふうなりの小説というのは、だいぶん不自由な縛りがあるのではないか、それでは書ける内容にも制限があるのではないか、云々。
このときたぶん私は、「爆笑オンエアバトル」で落語家の演者を見た時に感じたような不自由さを感じていたのではないかと思う。
いま「『芋粥』問答」から引用するため久しぶりに『しんとく問答』を書棚から引っ張り出してパラパラめくってみると、もうその語り口だけで参ってしまう。「様々に壮大なスケールの小説」がブロックバスター的というか大作映画的だと仮にしてみれば、こういう語り口の小説というのは規模からいっても落語的であるのかしらん……となんとなく思った次第。