TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

いわゆるPPAP動画を見たのは二週間前で、それでようやく私は、一連の話題がどういうものであるかを知った。

それからいろいろなアレンジバージョンを見たりすると、やはり元がダンス調だからか、EDMふうのものがピッタリくるように思った。

http://fatherlog.com/ppap-arrange/

しかし一番印象ふかいのはこのWHITE JAMというクリスマスソング風の人たちである。

https://youtu.be/yl_rfoI313c

音楽版文体練習と化した素材としてのPPAPはそれ自体ほとんど無内容である。だから各人のアイデアと技術力の差が浮き彫りになるが、レベルが高ければ高いほど「◯◯風」という形式自体がもつ力も感じられてくる。

上記クリスマスソングの映像は物語仕立てになっている。歌詞自体に物語性は皆無なのにもかかわらず、どういう内容のストーリーであるかは一見すればわかる。それは「クリスマスソング」という形式自体にまつわるいわば紋切り型のストーリー(「一足す一は二だよ」式の)を採用したことが大きそうだ。

興味ふかいのは、ストーリーが作られることによって、無内容に思われた歌詞が何やら意味をもって感じられてくることだ。

クリスマスソング風では、「I have a pen tonight」と、「tonight」の語が新たに付加されている。これを「俺は今夜、突起物を持っている(そしてそれを果実に突き刺そう)」などと解釈すれば、単にヒワイである。しかしそこから更に踏み込んで、「一足す一からさらに新たな一を生み出そう」などと捉えることもできる。いやそうではなく、ペンという筆記具に林檎という知恵の実が合わさることで新たな未知の領域が開かれるのだ……たとえば意図不明な歌詞にエモーショナルな力を持つ形式が合わされることで、こうした寓意的な解釈が可能となるように……というようなことも考えられるのではないか。

そういう実例を目の当たりにしたようにおもった。

本人のCDも来月初旬に発売されるそうで、人のいい私は、自分になんの関係もないにもかかわらず、(せめてそれまではブームよ持ってあげてくれ〜)などとつい願ってしまいますが(ボキャ天世代だから)、たぶん忘年会でやる人も多いだろうから、年末くらいまでは続きそうですね。

最近特にここに書くことがないというか、腰を据えて読んだり書いたりしていないのですが、以下雑感です。

室井光広『わらしべ集』(深夜叢書社、2016)という本が出ています。
http://shinyasosho.com/home/book1610-01/
論考中心の【乾の巻】と書評中心の【坤の巻】という二巻本で、今は【乾の巻】を読んでいるんですが、これがすごい。圧倒されっぱなし。おそろしいくらいに本当のことしか書かれていない。
室井光広といえば現代日本でも最重要作家の一人でありながら、独特の文体ゆえか読者が少ない気がするのですが、その名著の数々には学ぶところ激甚(とりわけ「模倣」だとか「引用」だとかの奥義については)。目次を見て気になる方は手にした方がいいです。

浦賀和宏『緋い猫』(祥伝社文庫、2016)
珍しく1950年代を舞台にした、220頁くらいの中編。しかし読後感、重い……ある時点から登場人物が失明してしまうんですが、ジーン・ウルフ「眼閃の奇蹟」のような盲目小説の系譜でもあるかもしれない。
浦賀和宏の小説には奇妙な不安定さがある。たいていのミステリはもっと足場がしっかりしていて、探偵は事件を慎重に検討することができる。けれど浦賀作品では信用ならない人間があまりにも多すぎる。主人公含め誰も信用できない場合もあり、世界全体に対するこの根本的な不信感に私は、ディックや連城三紀彦に通じるものを感じる。
それくらい信用できない人間だらけだから読者は常に作中人物の会話には眉唾なのだが、若い主人公だと、眉唾感アリアリの話に即「怒った」とか「悲しんだ」とか直情的に反応してしまうので、「もっと慎重になった方がいいのでは?」と当惑させられる。つまり読者は主人公もそれ以外も何も信用できない不安感にさらされる。
この不安感が語りのレベルにまで及ぶ作品がいくつかある。『頭蓋骨の中の楽園』を頂点に、『こわれもの』『眠りの牢獄』最近だと『ふたりの果て/ハーフウェイ・ハウスの殺人』などだろうか。もちろんそういう作品は量産できるものではないから、最近は語りの操作を禁止して、あるていど底のレベルが見える作品を書かれている印象を受ける。
(主人公は今こんなふうに考えているが、こいつは必ずこのあと滅茶苦茶ヒドイ目に遭う)とあらかじめ知っているにもかかわらず、その詳細がわからないサスペンス感覚と、自分が読んでいるものがなんなのか、最後まで半ば推理を禁じられた不安感……浦賀作品のエッセンスとして、本書でその二点を想起しました。

最近、Ulverという人たちをよくきいています。ブラック・メタルとして出発しながらアルバム毎にスタイルを変えていき、オーケストラと共演したりウィリアム・ブレイクの「天国と地獄の結婚」をアルバム化したりしている。特に『shadows of the sun』https://ulver.bandcamp.com/album/shadows-of-the-sunというアルバムは、ドラムもギターもない重苦しいアンビエントみたいな感じですごい。リプレイしています。

サンプリング・アルバムは走馬灯の夢を見るか?――法月綸太郎『挑戦者たち』

法月綸太郎の『挑戦者たち』を読んで、僕はずいぶん懐かしい気持ちになった。十代の頃、むさぼるように読みふけった本格ミステリで接した「読者への挑戦」という文章から受けた、あの不思議な感じを思い出したからだ。
この本の形式をどう呼ぶかは難しい問題だが、レーモン・クノーの『文体練習』をモチーフにした99の言語遊戯あるいは掌編集と、ひとまずはいうべきだろうか。本格ミステリというジャンルに固有の「読者への挑戦」という文章を、『文体練習』よろしく99通りの文体で書き分けた……とまでいえないのは、実際には、「読者への挑戦」をテーマとするエッセイやショートショートの類いも含まれているからだ。
法月綸太郎という作家のキャリアの中では余技(とはいえ恐ろしく手間のかかった)に入るのだろうし、「賢明すぎる読者諸君に告ぐ――これは伝説のミステリ奇書である」「さて、この本の面白さが諸君にわかるかな――」というアオリ文はなんだかいかにも「博覧強記」ぶりをイヤミにアピールする売り方に感じられて、(そう急いで読む必要はあるのかなあ……)などと思っていたら、おそらく三時間もあれば一読できるだろうこの本の途中で、僕はうっかり泣き出しそうになってしまった。

本編の内容に触れる前に、一つの音楽アルバムを紹介しよう。それは、The Avalanchesのこの七月に出たセカンド・アルバム『Wildflower』だ。以前にもこのブログで言及したことがあるが、2000年にリリースされた『Since I left you』はボーカルも含め全てのサウンドがサンプリングだけで出来ている驚異のアルバムとして話題になった。それから実に十六年ぶりの新作である。デビュー作の印象が強すぎ、リリース以来なかなか聞き出せなかったのだが、つい先日再生してみた。なかなか良かった。前作とほとんど変わらないサウンドの感触に安堵し、そして僕はやっぱり懐かしい気持ちとともに、ふいに泣き出しそうになった。
これは僕だけではなく、たとえばロッキング・オンのサイトでは小池宏和という人が、こう書いている。

『ワイルドフラワー』にあるのは、まさにいつの世も路傍の花のように咲く、音楽バカの思いである。リスナーの世代が交代しようが、新しいスタイルが生まれようが、これを求めている人はいるはずだ、という確信だけが鳴っている。で、「ああ、俺は本当にこれを聴きたかったんだ」と阿呆のように気づかされて、泣きそうになる。(……)テクノロジーやアイデアの新しさだけでは零れ落ちてしまいそうな、言葉通りの意味でのタイムレスな価値が、ここには詰まっている。http://ro69.jp/blog/ro69plus/145798

なぜ、「タイムレス」な不変性が「泣きそう」な気持ちを誘うのだろうか。『Wildflower』を聞いて僕が感じたのは、「これはまるで夢というよりか、走馬灯のようだな」ということだった。たとえばある曲では映画『サウンド・オブ・ミュージック』から「私のお気に入り」があからさまに引用される。またある曲ではThe Beatlesの「come together」のボーカルがピッチを上げられ、子供のコーラスのように改変されて現在のラッパーがフロウするバックトラックに配置される。そのように時代も場所もジャンルも異なる様々なサウンドが、一堂に会して曲を作り上げる。「私のお気に入り」や「come together」は超有名曲だが、60年代ソウルや80年代ヒップホップの聞いたことのないマイナー曲などであっても、(この時代のこういうジャンルってこういうサウンドだよな)くらいのイメージは誰でも持っているだろう。つまり、あらゆる時代・場所・ジャンルの音源が絶え間なく入れ替わり組み合わされることによって、聞き手がこれまで生きてきた全時間を貫く聴覚の記憶が、意識的/無意識的な濃淡に拘わらず、再生しているあいだ常に刺激され続けるのだ。それは夢の作用に似ている。いや、聞き手の全時間が素早く現れては過ぎ去っていく様は、死に際に活発化した脳が見せるという回想のようだ。
「泣きそう」な感覚とはおそらく、そこからくるものなのだ。録音された情景は、現実の時間から切り離され、死者のように何も変わらないまま聞き手の鼓膜に届く。彼らが住み、作り上げる世界は、まるであの世のようにハッピーだ。

『挑戦者たち』の狙いも、おそらくはそこにある。法月綸太郎によるサンプリング・アルバムともいうべき本書は、単なる『文体練習』のパクリないし変奏ではない。「読者への挑戦」というものの存在意義を「探究」し続けてきたからこそ、書くことができたものである。「読者への挑戦」とは何か。それはそれなりに広い幅をもつ「本格ミステリ」というジャンルを貫く、巨大な共通項である。ある時から広がり始めたこの流儀に対し、ある作家は真面目に自作へ採り入れた。ある作家は単なる飾りとして挿入した。ある作家は古典復興を目論んで挑戦した。ある作家は古臭い遺風として笑いのめした。
そうした作例の集積として、「読者への挑戦」という歴史的装置はある。それが様々な文体と掛け合わされた時、読者(とりわけ、本格ミステリをよく読んできた)はこれまでの全時間における様々な記憶を刺激されるだろう。初めて本格ミステリを手にした時。つまらない授業中に机の下にコッソリ隠しながら読んだ時。自分でも何かトリックを考案しようと頭を悩ませた時。寡作家の復活作に歓喜した時。高騰した古書をやっと入手したら復刊されることを知った時。もうこんなものを読む子供でもないだろうと思った時。……それだけではない。『古畑任三郎』のドラマを毎週追いかけた時。震災後の不安な時間につい覗いたTwitterでおバカな改変ネタに吹き出してしまった時。つまらないジョークを聞かされて内心ムッとした時。ある問題の解決法を検索して「Yahoo知恵袋には自分が辿り着く前に既にあらゆる悩みが相談されているんだな」と感じた時。あまりにも疲れ果てて、もう何も文字が目に入らなくなった時。……
一編一編だけなら、インターネット上で誰でも発表できそうな「あるあるネタ」から本書が脱しているのは、集積によってこうした時空間のスケールを獲得しているからである。この点に関し、スタニスワフ・レム『完全なる真空』の書評形式を下敷きにした「不完全な真空」で、作者はこう自註している。

クノーの対戦スタイルから多くを学びながら、その拳をピンポイントに連打して伝統的な本格ミステリ形式をノックアウトしようと目論んでいる。「読者への挑戦」という針穴を通して、謎解き小説の全体像をあべこべに映し出す「カメラ・オブスクラ」的なメタフィクションと呼んでもいい。

つまり、クノーの『文体練習』は素材をありふれた日常のスケッチに採ったが、本書ではそこにレムの「架空の書物」というスタイルをもまた接ぎ木することで、「架空の本格ミステリの読者への挑戦」という針穴=断片から逆照射しジャンルの記憶まるごとを読者の脳裏に召喚しようとしているのだ。
ユーモアに紛らわせて、随所に鋭い考察がある。瀬戸川猛資ふうの「挑戦状アレルギーの弁」などはエッセイとしてもすぐれた批評で、

あえて極論をいえば「読者への挑戦」というのは、物語の作者が読者に対して、
「俺の考えた謎を、俺が引いた図面通りに推理して、俺と同じ答えを導いてみろ」
と頭ごなしに命じるようなものだ。しかし、読者にしてみれば、そこまで律儀に作者のわがままに付き合う義理などありませぬ。挑戦状がなかったら「なるほど」で済んだかもしれないのに、なまじ作者が俺様仕様のルールをごり押ししたせいで、「そりゃそうだろうけど」という醒めた感想を引きだしてしまうわけである。

という指摘には示唆を受けたし、そこからクリスピン『お楽しみの埋葬』へと広がって「選挙というのは、複数の候補者から代表一名を選びだすイベントだから、本格ミステリの犯人当てとイメージが重なるのはいうまでもない」と読むのは面目躍如というところ。文学理論ふうの「分類マニア」に書かれた、

「作者説」=「挑戦状」はもともと二つに分裂しており、その片割れどうしが「問題編」と「解決編」双方に属しているという立場。(……)要するに「読者への挑戦」と称されるものは、「問題編」の「あとがき」(以上ですべての手がかりが示された)と、「解決編」の「まえがき」(これから論理的な手続きによって新しい物語の幕が開く)が、あたかもひと続きの文章のように混ぜ合わされているにすぎない、というのがこのユニークな新説の骨子である。

という見方など、思いつきもしなかった。

「読者への挑戦」とは何か。それは作者から読者への呼びかけである。それは生身の書き手が死んだ後も、不死身の「作者」による声の痕跡を残し、誰とも知らない未知なる「あなた」へと語りかける。既に事件は起こった後だ。探偵は相も変わらず頭を悩ませ、ようやく一つの真相に辿り着いた。……そう告げる声の背後では、幾度も繰り返された無数のドラマが影絵として踊っている。そうした記憶の集積のみでできた『挑戦者たち』という本には、だから、まるであの世のように物哀しいハッピーな気分が漂っている。これを時代遅れのレトロな感傷だと切って捨てる人もいるだろう。確かにここには目新しいものはない。しかし一見マニア向けで排他的に見えかねないこの本いやジャンル自体が、常に読者を必要とし、外部へ向けて門を開いていることが、最後まで読むとわかる。たとえ「あなた」が「本格ミステリ」を見捨てようとも、いつだって作者は、作品は、readerに、playerに、challengerに、読み解かれるのを待っている――そんな具合にね。

すぐれた料理人がたったひとつの食材からさまざまな味の料理をつぎつぎと作りだしてみせるように、限られた材料を使って九九通りの異なった「書き方」を実践してみせたのがこの書物というわけである。(……)しかしそのとき読者が感じるものは、おそらく快い楽しさだけではなく、何やら不気味な居心地の悪さでもあるだろう。なぜなら、ことばの可能性を極限まで追求しようとするクノーの試みは、同時にわれわれが日頃使っていることばがどれほど空虚なものであり得るかということを暴き出す試みでもあるからだ。表現やコミュニケーションの機能から解放されたことばは、文学が夢見るユートピアの彼方から、われわれが口にすることばに向かって皮肉であたたかい眼差しを投げかけている。 ――朝比奈弘治「訳者あとがき」/レーモン・クノー『文体練習』 

「珍味」…考えてみると不思議な言葉である。「珍しい味」…けして美味しいとは言っていない。
珍味と呼ばれる食べ物の多くは、万人にとってのご馳走とは言いがたく、実際、くさや、鮒寿司など、嫌う人も多い。
また、雲丹、このわた、からすみの日本三大珍味にしても、あるいはキャビア、フォアグラ、トリュフの世界三大珍味にしても、いずれもレアで高価なものではあるが、モリモリ食べて喜びを感じるようなものではない。 ――ラズウェル細木酒のほそ道』39巻

「くそっ、くそっ、くそっ!」
すると、応答が帰ってきた。「こんどはキノコ料理ですか、悪くない考えです。ちょっぴり炒めてから、生クリームをからませればね。これもいつだかカンブロンヌが言っていたことではありますが……」こう言うと、サックドレスではらりと身を包んで、相方は不機嫌を足であらわした。
小生としては返す言葉がなかった!べろをどっかに置き忘れてきたみたいだった!あの野郎のせいで、小生は口も利けなくなるはめに。自分の言葉が自分のものではない。自分の言葉を横取りされた!――ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『トランス・アトランティック』西成彦

同じ言語をもつことは、同じ生活形態をもつことをも意味する。だが、もしそうだとすれば、つまるところ、われわれはいっさい本音の感情をもつことはできないのか ―― そんなふうに思い込むのは、言ってみれば、もう何百万もの人々が「アイ・ラヴ・ユー」を口にしているからには、私はもう決して心底からこの言葉を発することなどできないと考えるのと、同じことだ。―― テリー・イーグルトン『詩をどう読むか』川本皓嗣

最初の場面はきわめて迅速に展開される。それはすでに何度も繰り返されたものであることが感じられる。誰もが自分の役割をそらんじているからである。言葉や動作がいまではしなやかに、連続的に継起し、油の十分利いた機械仕掛の必要不可欠な部品みたいに、なんのひっかかりもなく相互に連繋する。――アラン・ロブ=グリエ『ニューヨーク革命計画』平岡篤頼

「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロスも、獣人も」
「ほんと?」
「ほんとうだとも」彼は立ち上がり、きみの髪をもみくちゃにする。「きみだってそうなんだ、タッキー。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ」――ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」伊藤典夫

絶対の二つの面の間、二つの死の間、内部の死あるいは過去と、外部の死あるいは未来との間で、記憶のもろもろの内的な広がりと現実のもろもろの層は、攪拌され、延長され、短絡され、一つの流動的な生の全体を形成するが、それは同時に、宇宙の生であり、頭脳の生であって、一つの極からもう一つの極に稲妻を走らせる。こうしてゾンビたちが歌を歌うのだが、それは生の歌なのである。 ――ジル・ドゥルーズ『シネマ2』宇野邦一ほか訳

 

挑戦者たち

挑戦者たち

 

 

 

市川哲也『蜜柑花子の栄光 名探偵の証明』(東京創元社、2016)を読みました。鮎川賞受賞作から続くシリーズ三作目にして完結編。前二作以上に凄まじく、圧倒された……というのは、あんまりポジティブな意味ではないんですけども。

私は基本的に、この著者を応援したいと思っています。というのは単に歳が近いからというだけではなく、「読んだから書いた」という初発の志へのシンパシーがあるからですが、シリーズが終わった以上、このままではたぶん同社から次作を出すハードルは高いだろうし、他社からも厳しいと考えられるので、作風を変化させない限り作家活動を続けるのは難しいはずだという危機感をも持っています。だから多少なりとも作者のゆくえが気になる方がいらっしゃれば、ぜひそのあたり、自分の思うところをネット上でもなんでもいいからバンバン書いて、話題にしてほしい。

さて作品自体について。版元の公式サイトにある「あとがき」http://www.webmysteries.jp/afterword/ichikawa1608.htmlでは、作者はこう書いている。

 私が当初、この三部作トータルでなにがしたかったのかというと『もしも名探偵が現実にいたら?』ということをなるべくリアルに考えてみることでした。
 名探偵って頭良すぎない? 現実に大掛かりなトリック殺人なんてやれる? なんで名探偵はやたらめったら事件に巻きこまれるの? 等々、世間からツッコまれそうな疑問に自分なりになるべくリアルな解答をしてきたつもりです。

しかしたいていの読者は、三部作を読んでも、いったいどこが「なるべくリアル」に書かれているのか、まったくわからないのではないだろうか。私はそう思い、なぜ作者の意図と作品とがすれ違っているのか考え、自分なりに有益な答えを引き出そうとしました。

まったく関係ない話題ですが、アザラシさんという方が先日、次のように書いていました。

「魔法は一つだけ」というのは、作品のリアリティのレベルがどのあたりにあるか、ということに関わります。作品世界が現実に近い場合、ある虚構の設定を一つ放り込む、するとAがA'になれば隣接するBもB'になり……というふうに、さざ波がどこまでも広がるように世界そのものもそれにふさわしいものに変わってゆく。それを支えるのがいわゆる「論理」であり、この改変がうまくいっている時、読者は「リアリティ」を感じる。逆にいえば、虚構だからといって作者はなんでも好き勝手に操っていいわけではなく、あくまでもこの「リアリティ」に沿わなければ、読者は混乱してしまうんじゃないでしょうか。
『蜜柑花子の栄光』の場合、たとえば第一の事件の「動機」について、納得する人はいるのだろうか。誰もが、「作者の都合で登場人物の心理が捻じ曲げられている」と感じるのではないか。つまりこの作中世界では、ワイダニットが成り立たなくなってしまう。

ふりかえってみれば……三部作を通じて、人物心理に関するリアリティは、かなりいいかげんというか、しっちゃかめっちゃかに書かれてきた(評価されることもある第一作の犯人の「動機」にしても、私は釈然としないものを感じています)。しかし「なるべくリアル」を目指すなら、心理のリアルさの追求は、かなり重要なものなのではないでしょうか。

 『蜜柑花子の栄光』を読んだ後、私はこの本がどういうストーリーであるかを、未読の人に伝えようと試みました。ところが「彼らはなぜそんなしち面倒くさいことを?」という人物心理の不自然さにいちいち引っかかり、うまく説明することができませんでした。つまり本作のあらすじというのは、かなり吞み込みがたいものを抱え込んでいる。そして……最後まで読んで明かされる真相は、そうした、万歩ゆずって不自然さを吞み込んだ読者の梯子を、「これは推理小説ではない」というあの伝家の宝刀で外してしまうていのものでしょう。いったい、なぜそんなことになってしまうのか?

考えるに、「これは推理小説ではない」と言わせてしまう書き手たちは、「現実」という刀を、自分が好きに抜くことのできるものだと捉えているのではないか(自分が「現実」に属する存在だから)。しかしフィクションにとって「現実」というものは、そうではないと思います。作品が始まった時点で、「魔法」は大なり小なりかけられている。後になって「現実」を持ち出すなら、それはフィクションの中でもう一つの「魔法」となるから、それなりの必然性(リアリティ)に支えられなければならない、必然性(リアリティ)にうまく支えられていない現実(リアル)というのは、最悪の場合、最も不自然(アンリアル)なものになりうる。現実(リアル)はフィクションの中で、無条件に必然性(リアリティ)を持つわけではない。そしてフィクションにとって重要なのは、現実(リアル)よりも必然性(リアリティ)のほうではないか。

小説とはふつう、始まりと終わりとを明確に持つ一本の線、つまり一次元のものです。「魔法」のリアリティとはこの中で、さざ波のように静かに、しかし確実に広がってゆく。後になって急に持ち出される別の「魔法」とは、一本の線からとつぜんもう一本の別の線に移るようなものでしょう。この、後の「魔法」がリアリティに支えられないなら、それは前の「魔法」を打ち消すような効果を持ってしまう……これが「梯子を外す」ということであり、つまり読者に「これまで読んでいたのはいったい何だったのか……」という徒労感をもたらす。それはフィクションの快楽とは違うのではないでしょうか。

以前admiralgotoさんという方が『密室館殺人事件』について、「持たざる者の戦い方」ということを書いていましたhttp://www.twitlonger.com/show/n_1sm5ros。物理トリック(HOW)での戦い方は厳しく、険しくなってゆく。けれどそれがどれだけ陳腐なものであっても、心理(WHY)による料理しだいで、作品に対する印象は変わってきます。たとえば殊能将之『鏡の中の日曜日』。あの小説において、作中の館における物理トリックは陳腐だし、全体の展開も「名探偵に推理ミスがあったと思ったらやっぱりなかった」という打ち消し系のものです。でも徒労感はない。その差異はおそらく、心理のリアリティの充実によるものなのでしょう。

『蜜柑花子の栄光』を読むと、どうしても、行動における人物心理に不自然さを感じてしまう。HOWの解明が重視される一方、WHYがおざなりに駆け足で消化されイビツさが累積してゆくさまを感じてしまう(このへん、たとえば邦画におけるストーリーのツッコミ所を主に突いていく時評『皆殺し映画通信』を読むと勉強になるところ)。

フィクションにとって重要なのは現実(リアル)よりも必然性(リアリティ)であり、そして必然性(リアリティ)にとって重要なのは、HOWよりもWHYなのではないか。三部作が終わった今、作者においては、フィクションと「魔法」との関係、人物心理の「リアリティ」を、真剣に考察して、再デビューするような心持ちで次作を執筆していただきたいと(勝手ながら)思っています。もし今後、「市川哲也の栄光」ということがあるべきものなら、必ずやそこから始まるはずだから。

 

 

名探偵の証明 蜜柑花子の栄光

名探偵の証明 蜜柑花子の栄光

 

 

 

ぼさのば

外出から帰って部屋の窓から遠い山の稜線に陽が沈むのを眺めていると、ふとジョアン・ジルベルトが聴きたくなって、それで久しぶりに、たぶん一年ぶりに、(ジョアンってまだ存命だよね……)と不安に駆られ、慌てて検索してしまった。

このところ、わたしが思春期のころすでにレジェンドとされていた人たちがぽつぽつと世を去りだしている。でもジョアンについては特に聞いた覚えがないしな……と思っていたら、やっぱり生きていた。でも1981年生まれで今年85歳だから、高齢ではある。

2003年に初来日したとき、一時間遅刻したとか、会場のエアコンが彼の希望でオフにされたとか、アンコールの際ステージ上で20分も固まって急死を疑われた、という噂を雑誌で読んだ。

翌年にその初日の模様を収めたコンサート盤が出た。田舎の高校生だったわたしはお金もなく、視聴コーナーでいっしょうけんめい(あんまり占拠すると迷惑だから何回かに分けて)聴いたとおもう。あのころは早くおかねが自由に使える大人になりたいとかそういうことしか考えていなかった。アホーだった。

そんなことをつらつら思い出していたら、壁掛けの小さなスピーカーから「三月の水」が響いてきた。

メタミステリの怪作、連城三紀彦『ため息の時間』を読む

 連城三紀彦『ため息の時間』を読んだ。
 これは「すばる」に1990~1991年の約一年間連載されていたもので、連城流心理恋愛ミステリとモデル小説とメタフィクションを合体させたような作風である。著者の作品の中でも一、二位を争う怪作との評判高く、実際その通りだった。
 主要登場人物は四人いる。語り手の「僕」=31歳の画家と、センセイ=41歳のイラストレーター、センセイの奥さん、僕の元恋人=康子で、センセイに「ホモセクシュアル」な恋愛感情を抱いた「僕」が周囲を巻き込みながら物語は進んでいく。構造としては、その「恋愛事件」の顛末を小説化しようとしている「僕」が、小説家である「連城三紀彦」の手を借りながら語っていく、というものに(一応)なっている。
 読み始めてすぐ、これが一年間の「連載」という時間を作中にも取り込んだものだということに気づく。たとえば第二章の冒頭で語り手の「僕」はこのように述べる。

 既に僕は、先月発表した連載の第一回目で致命的な三つのミスを犯してしまった。
 その一つは、ほとんど訂正がきかないので無視してしまいたいのだが、無名で発表すべきだったこの小説をある既成作家の名で発表してしまったことだ。

 以下、「語り手」は語り損じるたびにその旨を断り、場面を前後させ、読者へ向けてついた嘘を訂正し、言い淀み、連載中に外野から聞こえてきた言葉などを織り込んでいく。いわゆる文芸誌に連載するのが初だったこともあってか、作者の経歴の中ではかなり実験的な度合いが強いといってよく、ある程度メタフィクションに触れた経験がないと、このノリにはなかなか戸惑うのではないかと思う。
 思うに、この元ネタの一つには、もしかすると同じく「すばる」に五年近く連載(1981~1985)した小島信夫の『菅野満子の手紙』があるのではないか。『菅野満子~』も説明が難しい小説だが、まとめると、かつて小島が現実に書いた『女流』という小説(小島の兄が自分の絵画の師匠の妻である小説家・由起しげ子と不倫関係にあった際のことを後年モデル化したもの)があり、その発表から十五年を経てかつての事件を知る編集者から手紙が届けられる……というもので、連載という外部の時間を作品内部に取り込んだメタフィクション構造、不倫を中心にした四者関係(『女流』)、実際の事件をモデルにしたという題材、更に同じ掲載媒体(すばる)……という骨組みを踏まえているあたり、連城と小島信夫との結びつきがあるとすれば意外だが、『ため息の時間』の発想源の一つとなった可能性があるのではないか、という考えを私は捨てきれない(おそらくそうではないだろうとは承知しつつも)。
 といっても、連城三紀彦じしんに何か恋愛事件が実際にあったのかということは巷間知られていない。文庫版の解説や『ミステリ読者のための連城三紀彦全作品ガイド 増補改訂版』の論考によればある程度の推測も可能なようだが、私にはその「真実」を明らかにする力も意志もない。単に『ため息の時間』を面白く読み、著者の他の作品ほどはあまり親しまれていないようだから、本書の“戦略”の一端を、未読の方に紹介してみたいというだけのことだ。
 先述のように、メタフィクションというのは読むのにコツが要るし、更にモデル小説というのも普通、作者に興味がなければ食指を動かされる人は少ないだろう。小島の『菅野満子の手紙』はかなり読み手を選ぶタイプの内容であり、『ため息の時間』にもそういう傾向はある。部数がどれくらいかは知らないけれど、発表からこれまで、最初から最後まで通読した人物の数を大雑把に推測すると、『手紙』が二千人、『ため息』が一万人いるかいないか(少なすぎるかな……)くらいではなかろうか。
 この“読者の少なさ”もまた、作者の計略の一部だったのではないかと私は思う。『ため息の時間』を最後まで読めば、“連城三紀彦”という作家が身近な男性と“恋愛事件”を起こしたのではないかという疑いを誰もが抱かずにはいない。にもかかわらず、そうした事実は作者も周囲もこれまでオープンにしていないし、また作者は刊行時、本書に関する取材をシャットアウトしたと「解説」にはある。
 とすれば普通の読者は、作品に対する判断として、「このような事件は実際にあったのかもしれないし、なかったのかもしれない」という、随分広いグレーゾーンを受け入れざるを得ない。しかし二極を揺れるこのような宙吊り感こそが、語り手が述べるこの小説の“意図”なのだ。そしてそれはかなりの程度、成功しているといってよいと思う。
 この宙吊り感について、再び第二章から。

 この小説を実際に書いているのは「連城三紀彦」という人だが、僕はその人とは別人なのだ。これは俳優や作家がもつ二面性という問題とは違う。連城氏が私的な“僕”として現実に体験したドラマを物書きとして小説化しているというのではない。連城さんと僕とは具体的に別人なのだ。(……)結局、僕たちはそのミスを何とか修正することに決め、連載第二回目をこんな風に書き始めることにしたのだ。
「それでも連載の宿命でね、こんな風に書けば読者の中には逆に、連城三紀彦が自分が主人公ではないと弁解するために嘘を書いているのだと誤解する人が出てくるよ」

 ここで、語り手の「僕」は「僕たち」として複数化している。しかし「僕たち」が力を合わせ「僕」個人として語るのが、この小説なのだ。そして詳述は避けるが、終盤において、二つの視野が一つになり、一つの視野が二つになるとでもいうべき事態が発生する。これは当時流行っていたいわゆるポストモダン文学的な語り(あまり使いたくない言葉だが、語り=騙りとかいうやつね)に近いように見えるかもしれないが、その記述を支えるものはより一層、手が込んでいる。
 二から一へと、一から二へ。これを、二つが一つになるエロスの経路と、再び一つが二つに分かたれる理性の経路と捉え、その他の連城作品につながるものとして見てみよう。たとえば次のようなシーンが思い浮かぶ。

何をしているのか、と絹川は声をかけた。
「先生、そのままじっとしていて」
(……)驚くと共に、やっと絹川には鴇子が何をしているのかわかった。(……)月光を逆光にして縁に立っている絹川の顔を、鏡に月の光ごとはねかえして自分の胸へと注ぎこんでいるのである。絹川の目に顔は鴇子の左胸を映しているのだから、鴇子の左胸はその絹川の顔を受けとめているのである。(……)
「もう大丈夫です。先生が私の胸の中に入りこんでくれましたもの」(『宵待草夜情』より「花虐の賦」)

 連城作品における主体は、対象(たとえば愛情を注ぐ人物)と一体化しようとして、しかし決してそれは果たされない……というパターンが多い。『ため息の時間』においても、「僕」と「センセイ」との性交の時間は「敗戦」と呼ばれるようななんともミジメなものであり、「僕」はその「奥さん」の体を「センセイ」を求めて抱く。これに限らず、AがBを求めるためにCに働きかける、というパターンは他の作品にても頻出する。主体(A)と対象(B)とは、なんらかの媒介(C)を通してでなければ十全につながることができないのだ。
 連城作品におけるこのCという媒介の経由に、ある種のかったるさ、まわりくどさを覚える人は多いのではないか。私がそうだった。人間(A)が世界(B)を求めるためにアイテム(C)を用いる、となれば、これは呪術である。読者の側からすれば、外野から雨乞いの儀式を見るようなもので、「そんなことして何の意味があるの」「もっと直接役立つことをしたらどうなの」という気持ちを掻き立てられるが、しかしこのパターンを、人間(A)が世界(B)を求めるために言葉(C)を用いる、とすれば、これは言語による作品の本質そのものだ。ここにおいて、人物(A)が人物(B)を求めるために人物(C)を用いる、という連城ミステリ的三角関係の構図は、人間と世界と言葉との関係に重なり合う。
『ため息の時間』の語り手は、自分や相手の心理をくどいほど、ほとんど妄想的なほど饒舌に語り、記述を膨らませる。これはおそらく、対象から言葉を導き出すのではなく、むしろ言葉を紡ぐことによって対象をつなぎとめ、言葉=虚構の領域において対象と一体化を図ろうとする行為なのだ。
 最後に、もう一つだけ。

僕は読者に現実のドラマを知られることなどちっとも構わなかった。僕とは無関係な読者だけが相手なら、僕は現実のドラマをそのまま書いたね……ただ僕が怖れていたのは僕の身近な連中に“えっ、あの二人にはそんな事件が起こっていたの”と気づかれることだった。

「小説」の内部で「事実」を書いた、と述べる時、パラドックスが発生する。作品の内容は「事実」そのままとは受け取られず、しかし全てが「虚構」であるとも受け取られない。この二重の姿を二重のままさしだすことが、語り手「僕」の考えるこの小説の成功である(先ほど「メタフィクションを読むにはコツが要る」と書いたのはこのような意味においてだ……語り手が「この小説は失敗作だ」と述べたからといってそれをマジメに受け取り、「作者は本当に失敗作と思っていたのか?」などと悩んでも意味がない。語り手と作者とを、にもかかわらずあえて一度切り離して考えるべきなのだ)。

 こうした告白型失恋型純文学の源流としてはもちろん、田山花袋の『蒲団』も遠いエコーとして踏まえられているだろう。しかしその昔ならいざ知らず、平成の世にこんな話がベストセラーになるとはとうてい思えない。そんなふうに、数少ない読者へ向けて、両義的な真実を、何やら迂遠なかたちで伝えること。本書の戦略は、そういうところに潜んでいそうだ。

 無いものねだりをすれば、もし本作が『菅野満子の手紙』のようにかつての実作をも取り込んで書かれたならば、記述は更に取り留めもないほど肥大化し、混迷を極め、日本ミステリ史上稀有な複雑怪奇なる様相を呈していたかもしれない。当然それは最初から眼目ではなかったはずだが、しかし仮にそうした作品が書かれていたならば……というわずかな夢想が、脳裏から去らない。