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襤褸は着ててもロックンロール

メタミステリの怪作、連城三紀彦『ため息の時間』を読む

 連城三紀彦『ため息の時間』を読んだ。
 これは「すばる」に1990~1991年の約一年間連載されていたもので、連城流心理恋愛ミステリとモデル小説とメタフィクションを合体させたような作風である。著者の作品の中でも一、二位を争う怪作との評判高く、実際その通りだった。
 主要登場人物は四人いる。語り手の「僕」=31歳の画家と、センセイ=41歳のイラストレーター、センセイの奥さん、僕の元恋人=康子で、センセイに「ホモセクシュアル」な恋愛感情を抱いた「僕」が周囲を巻き込みながら物語は進んでいく。構造としては、その「恋愛事件」の顛末を小説化しようとしている「僕」が、小説家である「連城三紀彦」の手を借りながら語っていく、というものに(一応)なっている。
 読み始めてすぐ、これが一年間の「連載」という時間を作中にも取り込んだものだということに気づく。たとえば第二章の冒頭で語り手の「僕」はこのように述べる。

 既に僕は、先月発表した連載の第一回目で致命的な三つのミスを犯してしまった。
 その一つは、ほとんど訂正がきかないので無視してしまいたいのだが、無名で発表すべきだったこの小説をある既成作家の名で発表してしまったことだ。

 以下、「語り手」は語り損じるたびにその旨を断り、場面を前後させ、読者へ向けてついた嘘を訂正し、言い淀み、連載中に外野から聞こえてきた言葉などを織り込んでいく。いわゆる文芸誌に連載するのが初だったこともあってか、作者の経歴の中ではかなり実験的な度合いが強いといってよく、ある程度メタフィクションに触れた経験がないと、このノリにはなかなか戸惑うのではないかと思う。
 思うに、この元ネタの一つには、もしかすると同じく「すばる」に五年近く連載(1981~1985)した小島信夫の『菅野満子の手紙』があるのではないか。『菅野満子~』も説明が難しい小説だが、まとめると、かつて小島が現実に書いた『女流』という小説(小島の兄が自分の絵画の師匠の妻である小説家・由起しげ子と不倫関係にあった際のことを後年モデル化したもの)があり、その発表から十五年を経てかつての事件を知る編集者から手紙が届けられる……というもので、連載という外部の時間を作品内部に取り込んだメタフィクション構造、不倫を中心にした四者関係(『女流』)、実際の事件をモデルにしたという題材、更に同じ掲載媒体(すばる)……という骨組みを踏まえているあたり、連城と小島信夫との結びつきがあるとすれば意外だが、『ため息の時間』の発想源の一つとなった可能性があるのではないか、という考えを私は捨てきれない(おそらくそうではないだろうとは承知しつつも)。
 といっても、連城三紀彦じしんに何か恋愛事件が実際にあったのかということは巷間知られていない。文庫版の解説や『ミステリ読者のための連城三紀彦全作品ガイド 増補改訂版』の論考によればある程度の推測も可能なようだが、私にはその「真実」を明らかにする力も意志もない。単に『ため息の時間』を面白く読み、著者の他の作品ほどはあまり親しまれていないようだから、本書の“戦略”の一端を、未読の方に紹介してみたいというだけのことだ。
 先述のように、メタフィクションというのは読むのにコツが要るし、更にモデル小説というのも普通、作者に興味がなければ食指を動かされる人は少ないだろう。小島の『菅野満子の手紙』はかなり読み手を選ぶタイプの内容であり、『ため息の時間』にもそういう傾向はある。部数がどれくらいかは知らないけれど、発表からこれまで、最初から最後まで通読した人物の数を大雑把に推測すると、『手紙』が二千人、『ため息』が一万人いるかいないか(少なすぎるかな……)くらいではなかろうか。
 この“読者の少なさ”もまた、作者の計略の一部だったのではないかと私は思う。『ため息の時間』を最後まで読めば、“連城三紀彦”という作家が身近な男性と“恋愛事件”を起こしたのではないかという疑いを誰もが抱かずにはいない。にもかかわらず、そうした事実は作者も周囲もこれまでオープンにしていないし、また作者は刊行時、本書に関する取材をシャットアウトしたと「解説」にはある。
 とすれば普通の読者は、作品に対する判断として、「このような事件は実際にあったのかもしれないし、なかったのかもしれない」という、随分広いグレーゾーンを受け入れざるを得ない。しかし二極を揺れるこのような宙吊り感こそが、語り手が述べるこの小説の“意図”なのだ。そしてそれはかなりの程度、成功しているといってよいと思う。
 この宙吊り感について、再び第二章から。

 この小説を実際に書いているのは「連城三紀彦」という人だが、僕はその人とは別人なのだ。これは俳優や作家がもつ二面性という問題とは違う。連城氏が私的な“僕”として現実に体験したドラマを物書きとして小説化しているというのではない。連城さんと僕とは具体的に別人なのだ。(……)結局、僕たちはそのミスを何とか修正することに決め、連載第二回目をこんな風に書き始めることにしたのだ。
「それでも連載の宿命でね、こんな風に書けば読者の中には逆に、連城三紀彦が自分が主人公ではないと弁解するために嘘を書いているのだと誤解する人が出てくるよ」

 ここで、語り手の「僕」は「僕たち」として複数化している。しかし「僕たち」が力を合わせ「僕」個人として語るのが、この小説なのだ。そして詳述は避けるが、終盤において、二つの視野が一つになり、一つの視野が二つになるとでもいうべき事態が発生する。これは当時流行っていたいわゆるポストモダン文学的な語り(あまり使いたくない言葉だが、語り=騙りとかいうやつね)に近いように見えるかもしれないが、その記述を支えるものはより一層、手が込んでいる。
 二から一へと、一から二へ。これを、二つが一つになるエロスの経路と、再び一つが二つに分かたれる理性の経路と捉え、その他の連城作品につながるものとして見てみよう。たとえば次のようなシーンが思い浮かぶ。

何をしているのか、と絹川は声をかけた。
「先生、そのままじっとしていて」
(……)驚くと共に、やっと絹川には鴇子が何をしているのかわかった。(……)月光を逆光にして縁に立っている絹川の顔を、鏡に月の光ごとはねかえして自分の胸へと注ぎこんでいるのである。絹川の目に顔は鴇子の左胸を映しているのだから、鴇子の左胸はその絹川の顔を受けとめているのである。(……)
「もう大丈夫です。先生が私の胸の中に入りこんでくれましたもの」(『宵待草夜情』より「花虐の賦」)

 連城作品における主体は、対象(たとえば愛情を注ぐ人物)と一体化しようとして、しかし決してそれは果たされない……というパターンが多い。『ため息の時間』においても、「僕」と「センセイ」との性交の時間は「敗戦」と呼ばれるようななんともミジメなものであり、「僕」はその「奥さん」の体を「センセイ」を求めて抱く。これに限らず、AがBを求めるためにCに働きかける、というパターンは他の作品にても頻出する。主体(A)と対象(B)とは、なんらかの媒介(C)を通してでなければ十全につながることができないのだ。
 連城作品におけるこのCという媒介の経由に、ある種のかったるさ、まわりくどさを覚える人は多いのではないか。私がそうだった。人間(A)が世界(B)を求めるためにアイテム(C)を用いる、となれば、これは呪術である。読者の側からすれば、外野から雨乞いの儀式を見るようなもので、「そんなことして何の意味があるの」「もっと直接役立つことをしたらどうなの」という気持ちを掻き立てられるが、しかしこのパターンを、人間(A)が世界(B)を求めるために言葉(C)を用いる、とすれば、これは言語による作品の本質そのものだ。ここにおいて、人物(A)が人物(B)を求めるために人物(C)を用いる、という連城ミステリ的三角関係の構図は、人間と世界と言葉との関係に重なり合う。
『ため息の時間』の語り手は、自分や相手の心理をくどいほど、ほとんど妄想的なほど饒舌に語り、記述を膨らませる。これはおそらく、対象から言葉を導き出すのではなく、むしろ言葉を紡ぐことによって対象をつなぎとめ、言葉=虚構の領域において対象と一体化を図ろうとする行為なのだ。
 最後に、もう一つだけ。

僕は読者に現実のドラマを知られることなどちっとも構わなかった。僕とは無関係な読者だけが相手なら、僕は現実のドラマをそのまま書いたね……ただ僕が怖れていたのは僕の身近な連中に“えっ、あの二人にはそんな事件が起こっていたの”と気づかれることだった。

「小説」の内部で「事実」を書いた、と述べる時、パラドックスが発生する。作品の内容は「事実」そのままとは受け取られず、しかし全てが「虚構」であるとも受け取られない。この二重の姿を二重のままさしだすことが、語り手「僕」の考えるこの小説の成功である(先ほど「メタフィクションを読むにはコツが要る」と書いたのはこのような意味においてだ……語り手が「この小説は失敗作だ」と述べたからといってそれをマジメに受け取り、「作者は本当に失敗作と思っていたのか?」などと悩んでも意味がない。語り手と作者とを、にもかかわらずあえて一度切り離して考えるべきなのだ)。

 こうした告白型失恋型純文学の源流としてはもちろん、田山花袋の『蒲団』も遠いエコーとして踏まえられているだろう。しかしその昔ならいざ知らず、平成の世にこんな話がベストセラーになるとはとうてい思えない。そんなふうに、数少ない読者へ向けて、両義的な真実を、何やら迂遠なかたちで伝えること。本書の戦略は、そういうところに潜んでいそうだ。

 無いものねだりをすれば、もし本作が『菅野満子の手紙』のようにかつての実作をも取り込んで書かれたならば、記述は更に取り留めもないほど肥大化し、混迷を極め、日本ミステリ史上稀有な複雑怪奇なる様相を呈していたかもしれない。当然それは最初から眼目ではなかったはずだが、しかし仮にそうした作品が書かれていたならば……というわずかな夢想が、脳裏から去らない。