TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

第28回文学フリマ東京に申し込みました。

 2019年5月6日開催予定の第28回文学フリマ東京に申し込みました。
https://bunfree.net/event/tokyo28/
 新刊『立ち読み会会報誌第二号』を出す予定です。
 内容は当初の構想を変えて、前号の補遺、というか、『ハサミ男』『美濃牛』『黒い仏』の「参考・引用文献」解題特集の予定です。具体的には、しばしば「どこが参考にされているのかわからない」と称されがちな殊能作品の巻末リストの本を実際に読んでみよう、というもの。前回よりも更にニッチな内容ですが、はたして読んでくださる方がいらっしゃるかどうか……というか、あと三ヶ月で完成できるのかどうか(まあ目星はついているから大丈夫かしらん?)。詳細が決まったらまたお知らせします。何卒よろしくお願いします。

ストレンジ・フィクションズpresents『異色作家短篇集リミックス』の詳細情報

 が、nemanocさんのブログに掲載されたので、いちおうこちらでも紹介しておきます。

proxia.hateblo.jp

 私が担当したのは、スタンリイ・エリン「特別料理」の二次創作(「特別資料」)と、「参考文献解題」という文章です。

「特別資料」の方は、元が超有名短篇なので、反則技でなんとかしのぎました(しのげてないかもしれませんが)。

「参考文献解題」というのは、「『奇妙な味』と『異色作家』という語はいつ頃結びついたのだろう?」というギモンをテーマに、いくつかの文章を紹介したものです。元々自分自身、「現代版『奇妙な味』!」というようなハナシになるとこれまでどうもフワフワした感じが否めず、ノリきれなかったんですが、これでなんとなく糸口が掴めたかな……という感じがしました。

 通販はしないそうなので、すでにして入手困難ぽいですが、お近くの方はよろしくお願いします。

[追記]

残部は通販するそうです。

 

 

同人誌「ストレンジ・フィクションズ」に参加しました

 久し振りの更新ですが。

 大学サークルの後輩主体の同人誌に参加しました。

c.bunfree.net

中心人物はnemanoc a.k.a浦久さん織戸久貴さんです(多分)。

以下、掲載されている情報です。

ストレンジ・フィクションズ

  •  
     出店履歴 |   
     
     すとれんじ ふぃくしょんず
  •  
     小説|SF
 
 う-43

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2019年1月20日(日)に開催される第三回文学フリマ京都で頒布されるソーです。

 最初に話を聞いたのは夏くらいで、「異色作家短篇集特集」をやる、と聞いた時には、ウーン、なぜ今? という感じで、あまりそそられない気分だったのですが、もともとこのブログを作ったのも十年前に「異色作家短篇集特集」の同人誌を作ったからなので、時期がまわったということで、ヨッシャ参加してみようかな、と思ったのでした。私はガイド文と二次創作短篇を寄稿していますが、この十年で多少は利くようになった小手先の一方、いつもながら壁に突き当たってすぐ力尽きる、という感じでした……。

 それはともかく、岩城裕明さんインタビュー、伊吹亜門さんインタビュー、矢部嵩さんの寄稿、織戸久貴さんの創元SF短編賞特別賞受賞第一作もありますから、じゅうぶんもとはとれるでしょう(特に矢部さんはやっぱり天才だとおもいました)。他の方もけっこうレベル高いとおもいます。主宰たちは弱気なのであまり部数を刷らず、レア化するかもしれませんので、事前予約が開始された際には皆様何卒よろしくお願いいたします。

 それでは。

「推理」小説か、推理「小説」か?

 以下はいつものように思いついたことを試論というか一晩で走り書きしたものです。
 *
〈「推理」小説か推理「小説」か〉という評言を初めて見たのは学生時代、おそらく何かの文庫解説(1980年代のミステリ小説だったはず)で、以来、似たようなフレーズを見かけるたび、これはいったいどういうことなのだろうか、と考えずにはいられない。もちろんその表面的な意味はわからなくはない。その基本的な発想は「推理小説」という語を「推理」と「小説」に擬似的に分割するというもので、そうした構えをとる際、穏当な意見は往々にして、「推理小説も小説であるから、パズルである前にまず最低限売り物になる小説であるべきで、……」云々と、作家は(特に新人作家は)後者の技術に熟達すべきであるというふうな結論に落ち着きがちである。前者(「推理」)に理解のある人でさえ、結局は後者が伸びなければ職業作家としてサバイブすることは難しい、と心のどこかで思ってはいないだろうか(前述の解説者はもしかすると、新人賞の下読みとして日々そうしたどちらを採るかという選択を迫られている人だったのかもしれない)。「小説」に熟達しなければ、……というのは一面の真実で、20年、30年と書き続けている人はどうしたって「うまさ」を次第に身につけざるをえない。
 しかし素朴な疑問は、「推理小説」という語は本当に「推理」と「小説」に分割できるのだろうか、というところにある。「推理小説」はそもそも「小説」なのだから、そのオモシロサは「推理」だろうとなんだろうとすべて「小説」のオモシロサに包含されるんじゃないかしら。「推理」抜きの「小説」とは、いったい何なのか?
 ……こうした疑問を長年抱えていたところ、以前、松井和翠さん編の『推理小説批評大全 総解説』で紹介されている諸論考を通読して、その一端が掴めたような気がした。
 ジャンル論として「推理小説とそれ以外の小説」を分けて考える際、「それ以外の小説」はしばしば、
「(普通)小説」
「(一般)小説」
「(主流)文学」
 などと称されてきた。呼び方がマチマチなのは、それらには確定した名称がないからである。なぜ確定した名称がないかといえば、それはそれらが「~でないもの」という消極的な定義でしか存在しえない概念だからだ。どういう意味か。「普通」「一般」「主流」という語には、全体の中で多数を占めている、という含意がある。たとえばよりわかりやすい呼称として「非推理小説」という語もあり、私はこの「非~」という方が意味としても正確ではないかと思うが、「非(ノン)」ではなく「多数(メジャー)」という言い方にも確かに捨てがたいところがないではない(似たような言い方に「スリップストリーム文学」と「メインストリーム文学」という区別がある)しかし「普通」にしろ「一般」にしろ「主流」にしろ、それらは「ジャンル小説とは何か」と考えた時に、「ジャンル小説ではないもの」として初めて割り出される概念であって、それ単体としては存在しえない。「推理小説の本質とは何か」とか「自分は推理小説の書き手である」などと考えることはできるが、「普通・一般・主流・非推理小説の本質とは何か」とか「自分は普通・一般・主流・非推理小説の書き手である」などと考えることは(不可能ではないとしても)ほとんどないのではないか。つまりここでいう「メジャー」なものとは、「自分はメジャーではない」と自認する「マイナー」の側、疎外された(と感じている)者の立場から「あいつらはメジャーだ」と名指されるものである。それは実体としては確かに存在する。なんというか、世間的に「メジャーなもの」としか言いようのないものが確かにあるのだ(実際の数の多寡は問題ではない)。しかしなぜそうなったのかを説明しようとなると、そこには歴史的経緯やイデオロギーや構造的な段差などが複雑に絡み合っていて、すっきりとは説明しがたい。一言でいえば、「メジャーなもの」とは、ある構造の内部において「マイナーなもの」を気にしなくてもいい立場にあるもののことだ。しかし「マイナーなもの」の側は常に「メジャーなもの」を意識して「自分はマイナーである」と自任せずにはいられないほど不安定な立場にある。逆に「メジャーなもの」は自分が「メジャーなもの」という自任すら不要なほどその立場は安定している(と「マイナーなもの」の側からは見えている)。この両者の間には認識の断絶がある。
 *
 話がややズレた。
 先に「(普通)小説」「(一般)小説」「(主流)文学」という評言を紹介した。このカッコは原文そのママだが(いま時間がないのですが後で出典元を明記します)、このカッコの使い方には、その中の語が省略可能であるような意識がうかがえる。しかし、「一般小説」と「小説」とは、まったく異なる概念だ。
 これは図にするとわかりやすい。

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「一般小説」を部分A、「非一般=特殊ジャンル小説」を部分Bとすれば、論理的にいって「小説」全体はA+B=Cである(A≠C)。つまり「一般小説」(多数)は「小説」(全体)ではない。
 しかし時に、この「(一般)小説」のカッコ内が欠落して、すなわち多数が全体にとって代わって語られることがある。この時、最初に挙げたような、「推理小説はそもそも小説なのだから、そのオモシロサはすべて小説のオモシロサに包含されるんじゃないか?」というような齟齬=疑問が産まれる。よくよく見れば、「推理」「小説」という時の「小説」とは、「(一般)小説」のカッコ内を欠落させた語の用法であるようにも見える。この欠落には、これまで述べてきたような思考過程がおそらく働いている。たとえば「純文学」といわれて今、小説以外のものを思い浮かべる人はいない。しかしそれは男manという単語で人類manを表すようなものではないのだろうか。
 多数を全体として捉える(少数を全体から切り捨てる)、という錯誤は誰しも日々ありがちなことだ。たとえば私は「文学とは何か」といえば「小説」が真っ先に思い浮かぶ。しかし実際には「文学」には詩歌や演劇や随筆など膨大な他の領域がある。たとえば「小説とは何か」といえば「物語」というものが思い浮かぶ。しかし実際には「物語」は映像やコミックや戯曲などその他の媒体でも扱えるものだから、「小説」の必要条件ではない(物語がない小説もある)。……このように注意して考えれば自明なことが、ともすれば文学=小説=物語という式があたかも真理であるかのような不可視の公式として働いている場面に出くわすことがしばしばある。
 たとえば数年前、「ライトノベルは文学か」という座談会が「炎上」したことがあった。
 これは図書の分類法(日本十進分類表・NDC)でいえば、すべての「小説」は「文学」なのだから、当然、ライトノベルはすべて文学である。現実に図書館に行けばライトノベルはすべて文学コーナーに置かれてあるので、「ライトノベルは書店ではコミックと一緒に並べられることも多いのだから726.1(漫画.劇画.諷刺画)に置け!」などとクレームを言ってみても始まらない。実際、先の座談会でいう「文学」とは一貫して「純文学」のことなのだ。つまり「(純)文学」=「文学」という、部分の全体化が不可視の公式として「ライトノベルは文学か」という疑問文には働いており(文中に「文学(純文学)」という表現がある)、そこに齟齬がある訳で、これを最初から「ライトノベルは純文学か」と言い換えていれば答えはまた違ったものになっただろう。
 *
 では「小説」の必要条件、言い換えれば、これを抜くと小説でなくなってしまう、というような条件とは何なのか。そう考えると、その要件は答えに窮するほど少ない。辛うじて思いつくのは、フィクションを扱う文字記号の直列的な集積……というようなことでしかない。もちろんフィクションを扱わない「小説」も、直列的でない「小説」もあるが、ここでは仮にそうだとしておく。すると「小説」の面白さ、言い換えれば、「小説」にしかない面白さ、とは「文章や語りのうまさ」だとかにしか求められなくなってしまう。もう一点、表現しづらいものとして、媒体的特性が挙げられる。小説では魅力的に映った会話などのやりとりが、実写化されると途端に薄っぺらいものに見えてしまう、ということがある。逆に、魅力的な映像がノベライズ化されると(どうも違う……)と思われることがある。そうした、媒体自体の持つ固有性。
 たとえてみれば、「小説固有の面白さ」とは、汁物における「出汁」のようなものなのだろうか。「出汁」は「出汁」だけ味見してみても確かに旨い。しかしそれだけでは完成品としての「料理」にはなりえず、「出汁以外」のものと組み合わさることによって「料理」になりうる。「出汁以外」は「出汁以外」で、それだけで調理できないことはない。しかし、やはり何かが足りない。「出汁」と「出汁以外」が組み合わさることで「出汁料理」になる。ここで「出汁以外」とはたとえば「物語」にあたる。「出汁(小説の固有性)」を欠いた「物語」は、それだけで成立しなくもないが、しかし「小説の面白さ」と呼ぶには何かが足りない。というか、下手をすると、同じ物語を扱った「映像」の方が面白い、ということにもなりかねない(映像>小説というヒエラルキー)。しかしいくら上モノだけで旨いからといって、ベースの鰹出汁をマギーブイヨンに置き換えてしまっては台無しになってしまうものが、「小説」には、あるのだ。
 先の図を流用すれば、「小説の面白さ」(全体C)とは、「小説にしかない固有の面白さ」(B)と「小説以外でも扱える面白さ」(A)が組み合わさって成立するものなのだろう。しかしそうすると、「推理」は「物語」同様、「小説」にとっては「小説以外でも扱える面白さ」(A)にあたる、ということになる(映像やコミック、場合によっては評論でもそれは表現可能だから)。ならば、「推理」「小説」というあの分類は正しいのだろうか(「推理」=上モノ/「小説」=ベース)。

 だが、〈「推理」小説か推理「小説」か〉という評言においては、より事情がこみいっている。このときいう「小説」とは、「(一般・非推理)小説」のことであり、「小説にしかない固有の面白さ」(B)と「小説以外でも扱える面白さ」(A)の双方を含み、その上で、Aから「推理」(D)を排除したものを「小説」と呼んでいるのだ。

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 なおかつ、そのような場合に「小説の面白さ」というとき、「小説にしかない固有の面白さ」(B)が前述したように厳密な意味で意識されていることはおそらくほとんどない。その「面白さ」とは、「物語性」とか「読者の目を意識しているか」とか、「小説以外でも扱える面白さ」(A')にあたるものを指してそういっているのではないか(「小説」よりも「読み物」の方に力点がある、というぐあい)。
 もちろん他方で「推理の面白さ」といってもそれは一筋縄にはいかない。ここでは「推理」をとりあえずカッコに入れて「小説」の方をごく簡単に「小説の固有性」と「それ以外」に腑分けしてみた。上のように考えてくれば、「推理小説の面白さ」とは、「推理」と「小説の固有性」と「小説以外でも扱える面白さ」から成り立っている。しかも、その「面白さ」全体は、おそらく加算(+)ではなく乗算(×)のような関係にあって、ある一作品のどこをどう簡単に取り外すというふうにはいいづらい。というか、ここまで書いてきたものの、そもそもやはりそんな簡単に「推理」と「小説」が分離できるのだろうかという疑いが拭いきれない(これが「探偵小説」とか「ミステリ」とかなら、これほどスッキリとは分割できそうにない)。もともと「推理」も「小説」も別個に独自発展してきたのではなく、よくよく俯瞰してみればゴチャゴチャと絡まり合ってまったくワケガワカラナイのだから、私としてはまだまだその中でウダウダと行き泥んでいるしかないのだろうけれども。

青山文平『半席』

 青山文平『半席』(新潮社、2016)。私はふだんあまり時代小説は読まなくて、この著者も初めてです。この本は出た当初から「ワイダニットの秀作」の呼び声高く、そのうちいずれと思ううちもう文庫化されてしまったので、それを契機に読んでみました。
 時代は江戸の文化年間というから1800年代初頭。主人公の片岡直人は30歳手前。目付(武士の監察役)の配下の徒目付という役職。これはエリートとノンエリートでいうとエリート側の下っ端にあたるらしい。つまり江戸時代の武士の身分は御目見(将軍に直接謁見できるか否か)で分かれていて、御目見以上を「旗本」と呼び、御目見以下を「御家人」と呼んだ。この差がめちゃくちゃデカイ。主人公の父親はもともと御家人だったが、旗本の一番下っ端に出世した。しかし二代続けて旗本を出さなければその家は旗本(御目見以上)とは認められないというルールがあるらしく、主人公の直人はそのキャリアをまたノンエリートの御家人から出発しなければならなかった。自分も頑張って出世すれば子供以降は最初から旗本として認められる(この状態が「半席」)。だから父親に続くべくなりふりかまわず出世してエリート枠に入り込まなければならない……。しかし今いるこの徒目付という職は「やることを挙げるよりも、やらぬことを挙げるほうは早い」といわれるほど職務範囲が広く、また才覚があればなかなか儲けることもできる。そこへ半年に一度ほどの割で、自分の上司にあたる徒目付組頭の内藤雅之が正規の職務以外の裏仕事を持ちかけてくる。それは、ある武士が罪を犯した。しかし決して理由をいわない。その「なぜ」を解き明かしてくれ、というもの。この「なぜ」を問う裏仕事が毎回のキモで、そこにワイダニット連作の短編集とされる所以がある。
 タイトルや設定にもあるように、作中世界はシステムがすべてを支配する世界だ。かつ、中途半端さが停滞感として全体を覆っている。主人公の直人はエリートとノンエリートの宙ぶらりん状態にあり、上司・雅之が放つ「出世なんかしなくてもいいジャン」という雰囲気は強力だ。時代は江戸の文化年間というから、1800年代初頭。激動というには遠く(維新の頃にはちょうど彼らは皆死んでいるだろう)、武士は軍人というより役人となりつつあり、ビンボー武家は食うにはかつかつ。傘張りの内職をしてさえ生きていかれなかったりする。平時の酷薄な身分社会という、ダイナミックさに全く欠けるシステムの浸透しきった日常が彼らの生きる世界であって、これは確かに二百年後の現代日本に似ていなくもない。
 わたしが「システムの世界」と書いた理由はもう一つある。本連作の趣向は、なぜその人物が罪を犯したのか、その理由を読み解け、というものだが、その基本原理はおおよそ、武家社会のシステムから導かれるものだからだ。上司・雅之が解決済みの事件(しかし動機だけが不明)を持ちかける。直人は関係者何人かに聞き取りを行い、ある「仮説」を持って犯人を訪ねる。そして犯人から心情を聞いて答え合わせをする、という流れだが、これはミステリとして見るとかなりあっさりしている。推理の試行錯誤とか、どんでん返しとかはまったくないから、そこに物足りなさを覚える人もいるだろう(一編がだいたい40頁、事件から解決まではいずれもだいたい20頁程度)。この時代、この空間の武家社会というローカル世界に生じたシステムエラー。その解明は、「こういう立場の人がこういう状況に置かれたら、確かにこういう行動をとってもおかしくないな」というものだ。状況から行動が導かれる、という経験は誰しもある。そのとき導かれる行動は、個人の意志を超えている。たとえば会社の部下が上司から「奢るよ」といわれたら「いや払いますよ」と断りつつ結局は「いいっていいって」と奢られる。この、奢るよ→いや払いますよ→いいっていいって、という二者間の行動は、状況が強いるもので、個人の意志には左右されない。確かに人によっては、部下も「いや払いますよ」とは断らないかもしれないし、上司も「あっそうじゃ割り勘ね」と受け流すかもしれない。しかしたいていの場合、そうした個人差を超えたローカルルールがコモンセンスとしてできあがるもので、いったんできあがってしまえば、そうした仕草がないと物足りなささえ覚えてしまう。
 ワイダニットとしての『半席』の強みは、犯行理由に対する共感性の高さだといわれてきた。しかしその共感性の高さとは実際は上記のように、システムが個人の内面を規定する様相を描いたものなのではないか。犯人が導かれる行動は個人の意志を超えたもので、だから本当のところ、各犯人の登場人物としての影はうすい。「まあ、こういう立場の人がこういう状況に追い込まれたらこうなるんだろうなあ」という「なぜ」に、個人の性格が入り込む余地は少ないからだ。つまり「共感性の高さ」は、登場人物の交換可能性ということを想起させる。それは主人公の立ち位置にさえ及んでいる。正直なところ、「探偵役」としての主人公は、「もしかして犯人たちは、主人公じゃなくても、これくらいの若い青年であれば、ゲロったんじゃ……」と思われるフシがあるからだ。
【ここから結末の趣向に触れますので未読の方はご注意ください】
 連作全六編はこうした出世物語のパターンを踏まえていて、すなわち、第四話までは探偵役としてひたすら「見る側」だった直人は、やがて「見られる側」としての自身の存在を意識するようになる。そして最終話において、出世の道を諦めることを受け入れる。最終頁まで読んできて、その苦甘いようなラストにたどり着くと、上司・雅之はズルい人だなあ悪人だなあ、と思える。それはたぶん、わたしが直人と同世代で、出世欲とか名誉心とかを捨て切れていないからなのだろう。ひたすら出世を目指してきた人間が、その望みを絶たれた場合、どうするべきなのか。本連作の裏テーマを一言でいえば、コレである。ここでいう「出世」とは、システムのルールに乗っかることを意味する。しかしシステムからあぶれてくる人間は必ずいる。というか、システムからあぶれた時、人は事件を起こすのだ。するとラストでの主人公の「出世を諦める」という行為は、システム批判という意味を帯びてくる。武家社会という身分制度=ルールが働く内部でなければ、犯人たちは事件を起こさなかっただろうからだ(一部そうともいいきれないかもしれませんが)。そもそも、直人の「自分の家は半席だから子孫のために出世しなければ!」という若者らしい欲望自体、個人の意志とは無関係に、システムに強いられたものだった。だから、「出世を諦める」という行為は、どれほどこうした出世→転向物語のパターンに則り、かつ、雅之の描いた筋書きに乗せられているように見えようと、システムの内部で「個人」という主体性を発揮できる、リアリティのある行為に感じられたはずである。
 上で「中途半端さという停滞感」と書いた。タイトルにも顕著なこれは、ネガティブな意味ではない。というのは、本作は意図的にこうした宙ぶらりん感を描いているからだ。そしてワイダニットミステリとして事前に期待を持って本作を読んだ場合、読者は中途半端な感じを覚えるはずである。また時代小説として読んだ場合でも、確かに文章や筋立てはうまい、けれども、どこか中途半端な、閉息的な感じを覚えるのではないかと思う。しかしこの中途半端で閉息的な感じは、時間も空間も限られた江戸という作中世界のシステム自体が持つものなのだ。私は読みながら、カバーに描かれた白地に黒い版画が踊る様子を、アニメーションのようにして脳裡に想い描いていた。英雄話でも人情話でもない、どこか個性を抹消された人々が、のっぺりとした白い空間で繰り広げる、影のドラマ。それは、時代小説なのか、推理小説なのか、というこの小説自体が体現する中途半端さを象徴しているかのようだ。そう考えると、連作としてはやや冗長に感じられる、毎回挿入される世界観の説明(主人公は半席だから出世しなければならないのだ、というような)もどこか、ドラマやアニメで毎回OPやEDが律儀に再生されるような感じで、作り物としてのこの世界の存在を、主張しているかのように見えてくる。やがて、永遠に思われたシステムにもじりじりと、その閉塞空間を成立させていた経済的な底が見えてくる、……。
 だが。時代小説としても、推理小説としても、これくらいじゃあピンとこない、オレはもっとうまく書いてやる、出世してやるゾ、という、ギラギラした書き手が『半席』の子孫として出てきていい。そんな夢想が、どうにも掻き立てられてやまない。

ハサ医師アンソロの宣伝

 笹木志咲紫さん主宰のハサ医師アンソロジーに参加しました。

 これは何かというと、要は『ハサミ男』の「ハサミ男」と「医師」をメインにした二次創作アンソロジーです。他の方がどういうものを書かれているのか、全く存じ上げないのですが、私は5000字くらいのショートショートで参加しました。タイトルは「辺鄙な土地(OUTSIDE WORLD)」です。

 三ヶ月くらい前に書いたんで、いま読み返してみると、小ネタと自分の解釈を勢いに任せてぎゅうぎゅうに詰め込んだ感じで、わかりにくいところもあるかと思います。それを全部説明しようとすると、たぶん三倍の1万5000字くらいになってしまうと思うので、今回タイトルについてだけ触れます。

 *

ハサミ男』の本文中、「辺鄙な土地」という語は一度だけ登場します。それは語り手の「わたし」が喫茶店「おふらんど」の店主と会話する部分です(この言葉の意味については以前、詳しく書きました)

 「ひとつだけ質問していいですか」
「なんでしょうか」
「〈おふらんど 〉って、どういう意味なんですか 。辺鄙な土地、かな」
「なるほど、〈オフ・ランド〉ですか。そういう解釈は初めて聞いたな。はやらない店には、そのほうがふさわしいかもしれない」
 店主は感心したように笑って、
「じつはフランス語なんですよ。〈捧げ物〉という意味です」
 わたしにとって、店主から得た情報は、欲しくもない捧げ物だった。(第「17」節)

 つまり「辺鄙な土地」というのは(自分で言ってしまうと)「捧げ物」という意味です。tributeです。

 では副題というか英題の「OUTSIDE WORLD」は何かというと、これはもちろん、XTCの『Drums and Wires』の10曲目のタイトルです。11曲目が「Scissor Man」なので、(これも自分で言ってしまうと)「Scissor Man」の前日譚というつもりです。

 以下、寄稿の冒頭部分です。

――She can't hear what's going on In the outside world(XTC「OUTSIDE WORLD」)


   1

 高校生だった当時、わたしはまだ鷹番を「たかつがい」と呼ぶのだと思っていた。
 その日、わたしは学校からの帰り道を歩いていた。鞄には、頼まれて図書館から借りた大きな本が二冊も入っているので、重たいことこの上ない。
 一冊は小説で、トレーシングペーパーのカバーにうっすらと下の地が透けている。女性の顔の上に「L'offrande au néant」という文字が浮かび、金で箔押しされた文字が夕暮の日射しを浴びてきらきらと光を返す。もう一冊は詩集で、岩肌のような箱にオレンジ色の表紙の固い一冊が納まっている。
 この二冊の内容はどういうものか? それぞれの帯に書いてある言葉をここに引用してみよう。(……)

  以上、宣伝です。

 よろしくお願いします。

 

[追記]

 現在、BOOTHで通販もされているようです。

booth.pm

 急に早川書房の「異色作家短篇集」を読み直すことになったので、こちらに備忘録を書いておくことにする。

 以下は初刊時の作家17人の生没年月日をコピペして年長順に並べ直したもの。

ジェイムズ・サーバー(James Thurber 1894年12月8日 - 1961年11月2日)
ジョン・コリア(John Collier 1901年5月3日 - 1980年4月6日)
マルセル・エイメ(Marcel Aymé 1902年3月29日 - 1967年10月14日)
フレドリック・ブラウン(Fredric William Brown 1906年10月29日 - 1972年3月11日)
ダフネ・デュ・モーリア (Dame Daphne du Maurier 1907年5月13日 - 1989年4月19日)
ジョルジュ・ランジュラン(George Langelaan 1908年1月19日 - 1972年2月9日)
ジャック・フィニイ(Jack Finney 1911年10月2日 - 1995年11月16日)
ロアルド・ダール(Roald Dahl 1916年9月13日 - 1990年11月23日)
スタンリイ・エリン(Stanley Ellin 1916年10月6日 - 1986年7月31日)
シャーリイ・ジャクスン(Shirley Hardie Jackson 1916年12月14日 - 1965年8月8日)
バート・ブロック(Robert Albert Bloch 1917年4月5日 - 1994年9月23日)
シオドア・スタージョン(Theodore Sturgeon 1918年2月26日 - 1985年5月8日)
レイ・ブラッドベリ(Ray Douglas Bradbury 1920年8月22日 - 2012年6月5日)
レイ・ラッセル(Ray Russell 1924年9月4日 - 1999年3月15日)
リチャード・マシスン(Richard Burton Matheson 1926年2月20日 - 2013年6月23日)
ロバート・シェクリイ(Robert Sheckley 1928年7月16日 - 2005年12月9日)
チャールズ・ボーモント(Charles Beaumont 1929年1月2日 - 1967年2月21日)

うーん、一番離れているサーバーとボーモントは34歳も違うのね。知らなかった。