TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

 横田創による七年ぶりの新刊は短篇集『落しもの』(書肆汽水域、2018)

『落としもの』横田創 – 書肆汽水域

『埋葬』(2010)以降いくつか書かれていた短篇も「丘の上の動物園」(「すばる」2013年12月号)以来発表がなかったので気になっていたのですが、収録作はいずれも2007~2009年つまり約10年前のものです。

 雑誌に発表されたきりの短篇というのはもちろん2002年以降、それ以外にもかなりあるので、

横田創 - Wikipedia

 収録時期が固まっているのは何か理由があるのかなあ、というのが、興味ふかいところです。(あと近況情報)

 

落としもの

落としもの

 

 

 

狭義の叙述トリックとその他の分類――「叙述トリック」についてのメモ(8)

(6)で書いたことを、より詳しめに整理してみよう。

 以下でとりあげる概念は巷間、「どんでん返し」だとか「叙述トリック」だとかと呼ばれて色々混同されているが、それらは実は各々異なると示すことで、議論をスッキリさせたいというのが私の目的である。「叙述トリック」の内容面での分類はおそらく羊毛亭氏の区分が本邦で最も詳しいと思われるが、私の場合はそれをナラティヴの形式面で分類してみたい、ということになる。かなり独断に頼る部分があり、誤りや見落としも多いだろうから、批判的に捉えていただければ幸いです。

1.狭義の叙述トリック

「言い落し」を基本原理として読者を騙すもの。地の文で作中現実と異なることを書かずに、「言い落し」およびそこから誘発される意味の多義性・曖昧性を利用して読者を誤読に導く。特徴は、一人称でも三人称でもOK、ということである。
叙法型:ある一つの視点で語られるパートにおいて、重要事実を伏せていたことが終盤で明らかになるパターン。一人称においてこのトリックを用いる場合、いわゆる「信頼できない語り手」(ウェイン・C・ブース)の概念と重なる部分が多い。
構成型:複数の視点間のつながりにトリックがあるパターン。長篇に多い。

 注意点として、ネタは一作品につき一つとは限らない。単一視点による作品の場合、利用できるネタは必然的に「叙法型」となるが、複数視点を持つ作品の場合、ある一つのパートで「叙法型」のネタを用い、パート間で「構成型」のネタを用いる、というような“合わせ技”も存在する。

2.妄想・幻覚・夢オチ

 作中現実と見せかけて、実は語り手の現実認識に著しい誤りがあったことが判明する、ということに力点があるパターン(したがって、基本は一人称である)。上記「叙法型」との違いは、地の文で作中現実と異なることを書けるかどうかにある。つまり、
一人称・叙法型(≒信頼できない語り手):何らかの理由で現実認識が正確ではないが、事実と違うことは語らないパターン。=叙述トリック

 しかし地の文に虚偽が混じると、狭義の「叙述トリック」からは外れ、以下の概念にあてはまる(ただし、語り手は故意にウソをついていないものとする)。

妄想:語りに事実と異なることが混じるパターン。ただし、誤りは現実判断のレベルに留まり、身体的認識にまでは及んでいない。
幻覚:視覚や聴覚といった身体的認識における誤りが作中現実とまだらに混じり合って記述されているパターン。
夢オチ:語り手の身体的認識の全てが基本的に作中現実と異なっている――つまり作中現実と独白の階層が異なっていることが判明するパターン。

 現実認識の誤りの度合いにおいて並べるなら、
  一人称・叙法型<妄想<幻覚<夢オチ
 の順に、地の文に混じる虚偽が占める割合は強くなる。

3.階層トリック

 作中現実と見せかけて実は、というサプライズに力点があるパターン。「言い落し」による隠蔽を利用しているということでは上記叙述トリック」と変わらないではないか、と思われるかもしれないが、ナラティヴの階層差に主眼があることから立項した。さらに、語りが「創作物」であるか否かを目印にして、仮に下位区分を作ってみよう。

作中作トリック:読者が読んでいたものが創作物であることが後になってサプライズとして判明するパターン。作中作であることがあらかじめ明記されている場合は、これにあてはまらない(その場合は前記「構成型」に該当する)。いわゆる「夢オチ」との違いは、作中作の場合、それが意図的に作られたものである、という点に特徴がある。手記であれ小説であれ映像であれ、それは物語の登場人物も触れることのできる創作物である。「夢オチ」の場合、一人称内的独白の記述は、作中現実には存在しない。
人称トリック:三人称と見せかけて一人称、一人称と見せかけて三人称、というようなパターン。
語り手・聞き手トリック:呼び方をどう表現して良いのかわからないのだが、とりあえず仮に名付けて立項してみた。物語が特定の語り手を持つことが明らかで、かつ、終盤に至って初めて、語り手あるいは聞き手が物語の内容に深く関わっていたという「正体」が判明するという、階層侵犯がサプライズになっているパターン。我孫子武丸『探偵映画』で紹介されている某映画がわかりやすい(私の拙い文章で恐縮ですが、その映画からインスパイアされてショートショートを書いたことがあります……。ああこんな感じね、と印象が伝わるかもしれません)。

✳︎

 以上では、小説におけるナラティヴの階層(物語の階層と語りの階層)差の操作をなんらかの効果をもたらすものとして実際に使用されているものを挙げてみた。ざっくりとした区分なので、抜け落ちているものもある(たとえば一人称語り手が故意に嘘をついている場合だとか、作中作に故意に虚偽がまぎれこませてある場合だとか、……)。

叙述トリック」といえば通常、本格ミステリにおけるものを意味するが、以上のように、それをナラティヴの階層操作の一環と捉えれば、それは本格ミステリに限らず、サスペンスに由来するより広いエンターテインメントの文脈、さらに、純文学的分野においても、20世紀の後半以降、多く利用されてきた。

 我孫子武丸は1990年代初頭の段階において、「叙述トリック」が今後流行するとは思っていないと述べた(「叙述トリック試論」)。しかしそれから四半世紀が経ち、われわれはその後の「叙述トリック」の隆盛を知っている。なぜ「叙述トリック」は流行したのだろう。それは、本格ミステリの枠を超えた広い小説領域でナラティヴの操作がこの半世紀ほど行われたということが一つある。付け加えられるのは、「試論」において「叙述トリック」という語で呼ばれたテクニックは、今回真っ先に挙げた「狭義」のもの(および、「階層トリック」で挙げたものの内の一部)がおそらく想定されていた一方、実作の発展では、作中作だとか、妄想・幻覚・夢オチまでをも含む、作中の現実レベルや視点の構成においてより複雑な組み合わせが開発されてきた……すなわち、(日本型)本格ミステリの文脈に留まらない「広義の叙述トリック」が使用されてきた……という、「ズレ」があったからではないだろうか。

 ここからは、議論の整理のために便宜上、我孫子叙述トリック試論」における用法からも離れて(さらに一般的なイメージからも離れて)、「叙述トリック」という用語の狭義と広義を作業仮説として次のように区別してみる。

 狭義の「叙述トリック」=上記1のみを指す。

 広義の「叙述トリック」=上記1、2、3すべてを含めたもの。(以下、狭義と区別するため、「語りのトリック」と仮に呼ぶことにする)

 先述したように、一つの作品は一つのネタ(トリック)のみをもっているとは限らない。たとえば三部構成になっていて、第一部は信頼できない語り手の一人称、第二部は幻想的な三人称の作中作、第三部は三人称で、かつ全体のつながりに構成型トリックが用いられている、……というような場合も考えられる。

 加えて、誤解されがちではあるが、こうした語りのトリックが用いられている作品が即本格ミステリであるかというと、そうではない。「本格ミステリ」というジャンルの要件は「謎と論理的な謎解き」であって、「叙述トリック」の使用はあくまでも副次的なものに留まるからだ。たとえば上記の「語り手・聞き手トリック」を用いた作品がそれだけで本格ミステリかというと、そうではない、ということは誰でもわかるとおもう。語りのトリック自体は単なるテクニックだから、純文学だろうとSFだろうとファンタジーだろうとホラーだろうと何にでも利用することができる(実際に作例もある)。「謎と論理的な謎解き」があり、読者の誤導をサポートするテクニックとしてこうした語りのトリックが使用される時、その作品は本格ミステリというジャンルに分類される。つまりある小説にジャンル的分類を適用しようとする場合、語りのトリックが使用されているか否かは無関係なのだ。

 よく、「叙述トリックは使っていることが分かるだけでネタバレ」などといわれる。それはなぜか。

「〇〇は密室トリックを使った長編で……」と言及しても、それだけではネタバレではない。それは「密室トリック」という言い方は、「謎」に対する呼称だからだ。一歩進んで、「〇〇で密室トリックを構成するのは一人二役トリックで……」などといえば、それは「ネタバレ」である。すなわち、同じく「〜トリック」と呼称するにしても、「トリック」という用語で呼ばれる意味内容にはズレがある。「密室トリック」「アリバイトリック」というような言い方は、作中の不可能現象=「謎」に対する呼称であるが、「叙述トリック」「一人二役トリック」などは作中の謎解き=「ネタ」を指すからだ。とりわけ「叙述トリック」は、謎を謎と悟られないことで成立する類いのネタ=サプライズである(それはおそらく先述の階層差にも由来する)。

叙述トリック」に関する議論は、現状、思春期男子の性知識のようなものだ……それは、確実にそこにあり、喧伝されている。集める興味も大きい。にもかかわらず、その内実を大っぴらに語ることはタブーであり、誰もが「ネタバレ」を避けてひそひそ声で囁きあう。そのことによって、歴史的伝言ゲームが不明瞭なものになっているのではないかと、私は思う。「目的から手段へ」(我孫子武丸「手段としての叙述トリック」/日本推理作家協会編『ミステリーの書き方』幻冬舎、2010 )という表現はつまりこうしたテクニックが実験室での技術開発競争から一般応用化へと拡散してゆくタームに既に入って久しいということで、私としてはその転換点をキチッと抑えておきたいと思っているのだが、……。

 以上書いてきたことはすべて、未だ思いつきの域を出ず、自前の用語をいくつも捏造したために、お読みになる方の理解に負担を強いている部分も大きいかと思う。今後、細部をより見ていきたいと考えております。

小沼丹『更紗の絵』

読み初めは小沼丹『更紗の絵』(講談社文芸文庫、2012)。1972年あすなろ社刊の長篇の文庫化。自伝的小説で、戦後直後からだいたい十年間ぐらいの教師生活を基にしたもの。文庫版あらすじには「青春学園ドラマ」とあるが、別に生徒との熱い交流が描かれているわけではない。むしろ、主人公教師はモデルとなった盈進学園(現・東野高等学校)と早稲田の先生をかけもちしながらしだいに学園からフェードアウトして早稲田に軸足を移していくという感じで、(戦後の住宅難は大変だったんだなあ)といった部分の方が印象に残る。終盤に一年間病気をわずらうことを除けば、作中場面で主人公が苦心する描写はあまりなく、希望が常にすんなり通る様子はどこかトントン拍子、というか、調子が良いのだが、解説で清水良典は、このトボけた味の下に実は底流している“暗さ”を指摘する。すなわち学園が新設された土地はもともと軍事工場で戦中、大規模空襲で焼き払われたのであって、作中の端々には昭和20年代に東京の人々が置かれた状況が見え隠れする。本編(作中時間からだいたい20年後)は“明”の筆致によってその“暗さ”を塗り変えた(最終部でタイトルの意味が明らかになる)。そして親本刊行から40年後、今や当時の空気も薄れた“暗”を解説が再び指摘することで、本編の読み方に重層的なものを促しているとおもった。

 

更紗の絵 (講談社文芸文庫)

更紗の絵 (講談社文芸文庫)

 

今年読んで印象に残ったもの

印象に残ったものをだいたい読んだ順に。

山城むつみベンヤミン再読」
室井光広『零の力』
さそうあきら『バリ島物語』1
加藤典洋『増補 日本人の自画像』岩波現代文庫
多島斗志之『黒百合』創元推理文庫
國分功一郎『中動態の世界』
金井美恵子カストロの尻』
岡本太郎の沖縄』
読書猿『アイデア大全』
阿津川辰海『名探偵は嘘をつかない』
岡和田晃『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷』
アーサー・シモンズ『完訳 象徴主義の文学運動』
ラヴクラフト全集』1~7巻、創元推理文庫
リン・カーター『クトゥルー神話全書』
エリオット『荒地』岩波文庫
中村光夫『藝術の幻』

数が少ない不勉強ぶりがバレますね。それになんだか年々、ミステリを読まなくなっているような……。
今年はなんといっても「ベンヤミン再読」で、年のどアタマに読むことができたのは僥倖でした。翻訳論編も待ち遠しいなあ。
一年が終わってみて、まあーいつものようにあまり変わりばえもせず……と思ってよく考えたら、某書に本名名義で原稿も書いたし、個人誌も発行したし、他いろいろと、例年よりは充実したといえなくもない感じで、学生時代にはよくわからなかったラヴクラフトに開眼できたのもよかった。
来年はもっとがんばります、がんばりましょう。

俺はANATAだ

 文学フリマで買った『幻影復興』という清涼院流水特集をした同人誌のオマケ冊子を読んでいたら、とても懐かしい気持ちになった。

 東京流通センター――通称TRCの第2展示場、エスカレーターで2階に来たあなたは、チラシ置き場の脇を通り、数多くテーブルが並んだホール内を進んでいく。(……)コピー用紙に印刷されたものをホチキスで綴じただけの冊子で、全8ページのようだ。ページの下に目をやると、「ご自由にお取り下さい」とあるから、来場者に無料で配っているのだろう。その表紙には大きめのゴシック体でこう書かれていた。

文学フリマ東京来場者限定小冊子

「幻影絡繰-Mephistrick-」

  ああ、この感じ。まさに流水節。
 高校生のころ夢中になった(たぶん一万枚分は読んだ)、この文章の特質とはなんだろう。
 それはもちろん、「あなた」という読者への呼びかけだ。
 初めて読んだ時は新鮮だったけど、年を経るとだいぶんそのカラクリがわかってしまった気がする。

「あなた」という呼びかけは、自己啓発や宗教の分野でも多用されるテクニックである。「あなたが自身の人生の主人公なんですよ」とか、「神はあなたを見ていますよ」だとか。「あなた」という語の意味自体は普遍的であるが、その語が使用される文脈において発揮する効果は、この世界にただひとりの「聞き手」という一点を目がけた、何らかの意味での覚醒を促す矢印なのだ。人は、聞き手の立場で「あなた」というただ一人を意味する呼びかけを聞き取る時、何やら特別な感情を抱いてしまうらしい。この瞬間、聞き手のうちにいったい、何が起こっているのだろうか。

 しばらく前に加藤典洋『増補 日本人の自画像』(岩波現代文庫、2017)という本を読んでいたら、印象的なエピソードがあった。
 ポーの『アッシャー家の崩壊』の終盤、死んだと思われていた妹がやってくるシーンはなぜ怖いのだろうか。語り手がコワイ話を親友(兄)に向かって朗読するうち、周囲の様子がだんだんシンクロしてくる。兄は自分のおそれを話す。妹は、実は死んでいないのにわれわれは埋葬してしまっていたかもしれない。そして、妹についての話をしていたまさにその瞬間、当の妹自身が語り手と聞き手を襲撃する。
 この時、起こっていることはこうだ。死んだはずの妹についての話をしている時、それがいくら作中で実在のかつ地続きの人物であろうと、話の中の次元と、それについて話している語り手/聞き手の次元は切れている。

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 話の中の妹=オブジェクトレベル
 語り手/聞き手=メタレベル
 つまり、コワイ話=物語=オブジェクトレベルにとどまっていたはずのことが、それを食い破り、メタレベルの語り手/聞き手の次元にまで侵入してきてしまう、そのことがコワイ。

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 私はこの説を読んだとき、いろいろなことが腑に落ちた。
 オブジェクトとかメタとかいうのは、ジェラール・ジュネット(『物語のディスクール』)的にいって、物語世界内存在とか物語世界外存在と呼んでもいい。
 すなわち、エンターテインメントとしての物語は畢竟、聞き手を楽しませるためにある。しかし聞き手とはふつう、メタレベルの存在、すなわち物語世界外存在で、ストーリーにとっては傍観者にすぎないといってもいい。この存在を、いかに「物語世界内」に没入させるか、その錯覚を抱かせるかが、エンターテインメントのナラティヴの究極の要件だ。
 先に挙げた自己啓発や宗教勧誘のテクニックもここにかかっている。すなわち、傍観者=外の存在をいかに内に引き込み、カモるかということ。そのキーワードが、呼びかけとしての「あなた」なのだ。
 以前、勤め先にアヤシゲな宗教団体からの教義書が届いたことがある。造りの立派な本(パステル色のぶあつい文庫版ハードカバー全三巻のボックスセット)で、私はデザイン的興味から中を覗いてみた。すると冒頭第一行が確か、〈あなたがこの本を開くことは、すでにわかっていました〉などと書いてあったので、思わず吹き出してしまった。
 お前はイタロ・カルヴィーノか。
 しかしよく考えると、ここには笑って見過ごすことのできないテクニックがある。いわゆる二人称小説のエポックとなった、ミシェル・ビュトールの『心変わり』や倉橋由美子の『暗い旅』は、確かに「あなた」という呼びかけを全編で使用しているのだが、それはあくまでも作中人物に対しての呼びかけであり、どう考えても読者自身が「これは私のことかな」と思うということはない。それはあくまでも、物語世界が、外に対して閉じているからだ。
 ところが、自己啓発や宗教の言説においては、語り手に対する聞き手は直接の読者で、つまり「あなた」という呼びかけに応じるならば、その物語の当事者、物語世界内存在になってしまう。
 ここにフィクションとノンフィクションの違いがある。しかし、いわゆるフィクションにおいてもこうした技法は、開発されてきた。

『アッシャー家の崩壊』の「怖さ」が、オブジェクトレベルからメタレベルへの侵犯に由来するならば、これはたとえばフレドリック・ブラウン「うしろを見るな」や日本のホラー映画『リング』などが印象に残る原理と同じものだといえるだろう。
 そしてそれはホラーにとどまらない。吉本ばななの某作(タイトル失念。割と初期の作品で、語り手が最後に急に「◯◯してあげたい、あなたにも」と読者に呼びかける小説がありませんでしたっけ)やゲーム『Ever17』のラストにおける印象的なテクニックにも通じる。ものすごく日常的な喩えをとれば、誰かの悪口で盛り上がっていたら、当の本人がその場へ偶然やってきたのでギョッとした……だとか。
 これらに共通するのは、オブジェクトレベルからメタレベルへの侵犯である。

 私は以前から、心霊スポット巡りと文学散歩(いわゆる「聖地巡礼」も含む)には、何か共通する原理があるのではないかと思っていた。どちらも、場所自体には何も変わりはなくとも、訪問者が事前にエピソードを聞いているかどうかで、訪れる印象は異なる。すると事前の話=物語であり、そこへの訪問は、先の図式とは逆に、聞き手が疑似的に物語世界内存在へと没入すること(メタ→オブジェクト)、であるとは考えられないか。いずれにせよ、問題は、物語世界の内と外の階層移動だ(たとえそれが錯覚にすぎないとしても)。

 ジュネット的にいえば、一人称/二人称/三人称という区分は間違っている。より本質的なのは、語り手が物語世界内(オブジェクトレベル)にいるか、世界外(メタレベル)にいるかどうかだ。その場合、「あなた」という呼びかけが占める位置は、語り手と聞き手の関係によって異なることになる。
 レイモンド・チャンドラー『湖中の女』の映画化は、ほぼ全編が主観ショットによって撮られるが、この作品が観客に異様な印象を与えるのは、登場人物のカメラ目線が終始映っているからだ。このカメラ目線を「あなた」という呼びかけと捉えれば、映画『湖中の女』の手法は、実は「二人称」的な効果を観客に与えるのではないか。

www.youtube.com

 上記トレーラーを観ていただきたい。カメラへの目線を観客が受けとる時、その異様な効果にギョッとすると思う。しかし映画全編は、このトレーラーほど魅力的ではなく、100分も眺めると次第に飽きてしまう。そしてやはりこの主観ショットがもたらす最大の効果は、トレーラー中のキャッチコピーでいうところの、

Mysterious STARRING ROBERT MONTGOMERY and you!

 主演はあなた! という呼びかけではないか。

 観客=登場人物という侵犯は現在、TVないしPCのアドベンチャーゲームにおいては既におなじみのものだ。だから、侵犯それ自体に効果をもたせようとすれば、別のレベルでの使用が必要になる(映画『湖中の女』のような出ずっぱりの使い方では、冒頭が最も盛り上がる、「出落ち」になってしまう。ここぞという時に使わないといけない……そしてそれはたいていの作品においては、物語終盤だ)。
 叙述トリックというのもこの文脈で考えることができる。「叙述トリック」は一人称でも三人称でも用いることができる。しかし結局のところそれは、この物語の語り方(テクニック)は読者の「あなた」を騙すための……つまりふつうの物語ならば傍観者にすぎない「あなた」を騙すために工夫されて語られていたのだ。これが判明する時、侵犯が起こり、読者はまるで『アッシャー家の崩壊』における兄のような衝撃を受ける。

叙述トリック」という名称は巷間、誤解されている。つまりメタトリック(現実だと思ったら実は作中作でした!というやつ)とか夢オチとか信頼できない語り手と同一視される傾向にあるが、厳密にはその原理は異なるものだ。しかし小説の実作においてそれらは複雑に絡み合ったものなので、叙述トリックだけを取り出すのもなんだか難しいな、と私はこれまで思っていた。要するにこれら(1970年代以降に急速な技術的発達を経てきた)はすべて、オブジェクトレベルからメタレベルへの侵入という点が共通するのであって、叙述トリックというのはその下位ジャンルの一部にすぎない(つまり、下位ジャンルの一部に狭義の叙述トリックがあり、かつ、ナラティヴを利用したどんでん返しのテクニックを現すそうしたグループ全体を総称するようにしてなんとなく「叙述トリック」という語がふんわりと流通している)。

 こう考えてくれば、叙述トリックの飽和化という問題は、単に狭いジャンル上のテクニックに限らない。問題は、聞き手である「あなた」への侵犯を、いつどこでどのように起こすか、という普遍的な問題へと開かれうる。時に暴力的な力を発揮するそれを人類は、手を変え品を変えずいぶん長いこと使用してきた。すなわち、宗教的勧誘から「叙述トリック」へと(呼びかけとメタフィクションとの関係についてはたとえば佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる。 パラフィクションの誕生』慶應義塾大学出版会、2014などが詳しい)。

 中学生の頃毎週見ていたNHK番組「爆笑オンエアバトル」では毎回最後に司会が、
「新しい笑いを作るのは、挑戦者の皆さんと客席の皆さん、そして、テレビの前の、あ・な・た・た・ちです!」
 と呼びかけるのが印象的で、われわれはしょっちゅうモノマネをしていた(歴代アナウンサーごとに少しずつ特徴が異なるから)。だからそれをパクって自分のハンドルネームにした時、「誰かから連絡を受けるたびに〈アナタさんは……〉と呼びかけられたら、奇妙な気分になるだろうなー」と思ってo(´∀`)oワクワクしていたのだが、すっかり慣れてしまった。たまに「神ナントカ」という名前の人がいて(たとえば神慶太)、そういう人はメールを受ける時なんかは〈神様は……〉と呼びかけられるんだろうけど、いわれるほうはそのうち慣れてくるとおもう。

 そういえばこの前、国会図書館に行く機会があり、せっかくだから自分が寄贈したブツ(『立ち読み会会報誌』第一号)を借りてみようかと思って申請して届いたものをパラパラ開いていたら、インタビュー後の本編冒頭が

国会図書館で資料が届くのを待つ間にTwitterを覗いていたら、

 で始まるのをすっかり忘れていて、あまりのシンクロぶりに「ウワッ!」という気もちになってしまった。こんなことで驚くのはたぶん、世界で私一人だけだろう。自分で自分に仕掛けたワナというか、なんというか、……。


 バカですねー。

 

 

俺はNOSAKAだ: ほか傑作撰

俺はNOSAKAだ: ほか傑作撰

 

 

藍川陸里さんの『探偵はその手を汚さない』(アミラーゼ、2017。私家版)を読みました。

これは北大推理小説研究会所属の方(来年卒業だとか)が今年書かれた(そして11月23日の文学フリマで頒布された)、黒岩涙香以来現在までの日本のミステリの歴史をたどった22万字におよぶ通史・長篇評論とのことで、ジャンルの成立、本格・変格論争から「大衆文学」という用語の来歴、東日本大震災以降の最近の作品まで、話題は多岐にわたります。

最初にその構想をウェブ上で拝見した時、私は、

(凄いな!)

と感嘆しました。もちろんご存知のとおり、ミステリ読者の世界には、年季の入った、というか、一生を賭すほどに詳しい方々がたくさんいらっしゃって、臆病者で不勉強な私などは、そのような射程をもつ論の構想をもし自分ならと考えるだに、トテモtotemo……と尻込みしたくなってしまうからです。実際、ある方面では微に入り細を穿った著作をものし喝采を浴びたプロの文学研究者の方でも、いざご自身の専門を飛び出して幅広い歴史的視野でのミステリに関するものを手がけると、あちこちから矢が飛んできて火達磨となる……そうした情景を目にしてきました。

そこでこの本です。

いつの間にかつまらない先入観に凝り固まってしまっていた私は、

(若者がこんな本を書いていいんだ!)

と衝撃を受けました。それは私の常識を変え、ある一つの勇気を、確かに与えてくれたのです。こんなことは久しくありませんでした。

藍川さん、ありがとうございました。

さて、以上は大雑把な感想です。以下では、私見というほどのものではございませんが、本の作りについて誰でも気のつくような、瑣末なことを、行きがかり上、あえて多少申し述べたいと思います。

 

【編集面で】

◯まず、あまりにもテーマが多岐にわたるため、用語の使い方がところどころ甘くなってしまっているかと思います。こうした評論のばあい、ふだんわれわれが何気なく用いてしまっている用語の解像度を上げて、時間的空間的なスケールでもって再考を促す、ということが主眼の一つですから、キーとなるワードに関しては、

 起源(内容の元祖)

 語源(用語の元祖)

 定義(その普遍化・定式化)

 あてはまる作品群の空間的ボリューム(ある時点において多数派か少数派か、など)

 あてはまる作品群の時間的ボリューム(いつからいつまで通用するのか、すでに衰退したのか拡散したのか、など)

をいちいち注意深く設定していきます。この起点の設定は、評論文の生命ともいえるため、開巻から

〈(まえがき)ミステリを目にする機会が増えています。〉

〈(第一章のまとめ)ミステリは幻想文学作家のエドガー・アラン・ポーにより打ち立てられたジャンルであり〉

というような文章に出くわすと、

(いつに比べてミステリを目にする機会が増えているのだろう?)

だとか、

〈「幻想文学」というジャンルは何だろう?筆者はソフォクレスディケンズバルザックやユージェーヌ・シューやについてどう考えているのだろう?〉

といった疑問を感じる読者もいらっしゃるかもしれません。そのため、「いや、わかっちゃいるけれど、議論の煩雑さを縮減するためにあえてここではこのような立場をとっているんですよ」というエクスキューズのチラ見せがあると尚良いかと思いました。

◯第二章「本格から変格へ」は前半が乱歩の登場、後半が「大衆文学」というジャンル的区分における「時代小説」と「探偵小説」の変遷の話に分離している、というか、二つのテーマが一つの章になっているため、他の章より二倍の長さになってしまっています(他の章は10〜20ページで、ここだけ50ページ近くあります)。ここはテーマを区切ることができる以上、二つの章に区切った方がスッキリするかと思いました。*1

◯一冊としてのスペース上言及できない作家についても、いちおうエクスキューズを述べておく必要があるかと思いました。たとえば本書中盤で詳しく述べられる「大衆文学」という用語は、この本にとって最重要キーワードの一つです。この用語において、「時代小説」と「探偵小説」という当時における二大区分が問題にされますが、となると、たとえばその両ジャンルにまたがって活躍した、山田風太郎柴田錬三郎笹沢左保都筑道夫といった、当時のメジャー作家かつ今でも作品の入手可能な人物について、いっさいあるいはほとんど言及がないと、アンバランスに見えてしまいかねない危惧があります。

◯もう一つ、「文学」と「ミステリ」という対立軸も重要なものとして登場します。そこで横光利一「純粋小説論」(1935)が何度か紹介され、例の有名な〈もし文芸復興というべきことがあるものなら、純文学にして通俗小説、このこと以外に、文芸復興は絶対に有り得ない〉という冒頭の言葉が、ピュア・リテラチャーとエンターテインメントの融合を目指す宣言として引用されます(全文は青空文庫で読めます)。が、この「純粋小説論」は、少し複雑な組み立てになっています。というのは、この宣言文は、横光自身によるそうした〈純文学にして通俗小説=純粋小説〉の実践としての『家族会議』(1935)とほぼ同時期に出されたもの、つまりマニフェストかつ自作宣伝的性格を帯びている文章だからです。ではその『家族会議』(もちろん現在の話題と知名度の点では「純粋小説論」の方が断然上ですが)以後はどうだったのか、に触れずに、同じ流れで横光作中現在最も人気のある『機械』(1930)を出すとなると、年代的にいってもチト苦しくなってきます(実際、横光の考えでは来るべき「純粋小説」とは長篇の分量をもつものであり――〈短篇小説では、純粋小説は書けぬということだ(……)私は、自分の試みた作品、上海、寝園、紋章、時計、花花、盛装、天使、これらの長篇制作に関するノートを書きつけたような結果になったが〉という言葉も同文中にあります――が、『機械』は短篇です。さらに加えて欲をいえば「純粋小説論」の冒頭は、単にシリアス対エンターテインメントの図式を描いたものでなく、〈今の文学の種類には、純文学と、芸術文学と、純粋小説と大衆文学と、通俗小説と、およそ五つの概念が巴となって乱れている〉という状況に言及されていた点にも触れていただければ、本書でのちにいう「文学対ミステリ」という図式も今少しスッキリするかと思いました)。

あと、見立てとして乱歩から清張へという線が主軸となるのですが、となると、このあたりはオモシロイ逸話が沢山あるので(編集長乱歩が依頼して『宝石』に『ゼロの焦点』が連載された話だとか、中央公論社の全集「日本の文学」事件だとか)、これも欲を言えばそのあたりにもサラリと触れていただくと尚オモシロイかと思いました。

◯第九章「京極夏彦以後」のあと、第十章〜第十三章は、より現在に近い作品を扱っていく章ですが、少なくとも、あるていど予備知識のある読者でないと、ここはさすがに危ういかと思いました。というのは、同時代を説明する仮説として見立てられた比較的新しい用語が生煮えのまま記述されてしまっているからです。すなわち、それまでの章では、「本格・変格」とは何か、「大衆文学」とは何か、あるいは「アンチ・ミステリ」とは、「新本格」とは、といった解説が、複数の見方・複数の実作者の紹介を通じて描かれていったのですが、この最近に近い章では、たとえば「動物化」(東浩紀)、「フラット化」(トーマス・フリードマン)といった若い用語が、歴史的な相克の薄い状態で紹介されています。確かにそれらのキーワードはジャーナリズム的に話題になりましたが、

 こうしたキーワードによるアングルは妥当か?

 そしてこれらのキーワードはどのようにミステリ小説についてあてはまるのか?

といった論述の手続きが、他の章と比べると弱くなってしまっているように思います(より細かなことでいえば、それまでは自身の言葉で咀嚼し述べられていた作品紹介に、〈世界を容赦なく切り裂くメフィスト賞受賞作!〉(p178 佐藤裕也〔「裕也」ママ〕『フリッカー式』)といった宣伝文からのコピペが以降いくつか紛れこんでしまっています)。

 

【校正面で】

◯あるていどの誤字脱字は仕方ないと思うのですが、「カルロ・ギンズガルグ」「X橋附近」「佐藤裕也」などは何度か登場するので、気になってしまいました。

◯これが単なる誤字脱字でなく、事実認識にまでおよぶと、なかなか厄介です(これもあるていどは仕方ないのですが)。たとえば、

 島田荘司『斜め屋敷の犯罪』について〈p139 重要なのはこの作品が書かれた一九八二年という時代であり、(……)八〇年代当時はバブルの時代であり〉(→バブルは正確には1980年代後半~90年代初頭にあたるため、1982年はバブル前という感じがします)

 清涼院流水の作品について〈p181 読む順番を読者に選ばせ、その順番によって物語が変化する『Wドライヴ院』や、それをさらに複雑にした『19ボックス』が書かれました〉(→正確には、『Wドライヴ院』〔講談社文庫、2001〕は親本『19ボックス』〔講談社ノベルス、1997〕の四篇中二篇だけを再構成したものなので、時系列が逆になってしまっています)

 法月綸太郎「初期クイーン論」について〈p188 ゲーデルの不完全定理とは「①いかなる公理体系も、無矛盾である限りその中に決定不可能な命題を残さざるを得ない。②いかなる公理体系も、自己の無矛盾性をその内部で証明することはできない。」というものですが〉(→これも現状よくある誤解を招く書き方になってしまっています)

 中上健次について〈p198 中上健次はある種純文学の王道である被差別部落を扱った作品を描き〉(→こうした「王道」という単語の使い方は大変危険です)

などなどは、「あとがき」中の〈既に十分なミステリ愛をお持ちの方は「この解釈は間違っている」などと否定的に感じられた方もいらっしゃるかと思います。そして、そのご意見はある意味で正しいのだろうとも思います。しかし、その誤った解釈、若造の突飛な考えもまた楽しめるのもミステリのひとつの醍醐味なのではないでしょうか〉で仰られるところの、「楽しみ」「醍醐味」というよりも、気がついてしまうと、とりあえず我慢して読み進める、という感じになってしまうかと思います。

◯カッコで半角が使用されていますが、これは全角の方が読みやすくなります(日本語文の実際の商業印刷物では全角を用います)。たとえば、

 丸カッコ ( )→( )

 山谷カッコ < >→〈 〉

(詳しくはこちら)

◯ルビが丸カッコ内にそのままになっている箇所があります。これは付すかナシにするとより読みやすくなると思います。*2

◯データ制作環境は存じ上げないのですが、本文の左端がなぜか一行少ない箇所が多数あります。すなわち52字×25行が、24行になっている箇所があります。*3*4文章が抜け落ちているということはないので、内容的には問題ないのですが……。*5

◯全体的に、中見出しが太字になっているものとなっていないものがありました。具体的には……と途中まで数えましたが、中見出しと小見出しの区別がつけづらいため、止めました。見出しと本文の表記関係を整理されると、より読みやすくなるかと思います。

◯巻末参考文献は、著者名、タイトル(論文なら収録書も)、版元、刊行年を明記すると良いかと思います。 *6

◯引用箇所を区分する際、三字下げ+枠囲み+鍵カッコ囲みでわけられていますが、これは過剰な感じがあるため、どれか一つで良いのではないかと思います(フォントやサイズを変える方もいますが、オススメは字下げです)。*7

◯要点整理の記号で、◆(ダイヤ)や・(ナカグロ)が混在しています。ナカグロだと画像のように、カタカナ表記で「・オーギュスト・デュパン」などとなってしまうため、避けた方が無難かもしれません。*8*9

 

以上、たいへん簡単ではありますが、 瑣末な(しかし大事な)ことを申しました。

現在、下記のリンク先で販売されていらっしゃいます。

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【目次】

日本のミステリを読み解くためのキーワード

第一章 イントロダクション――ミステリ前史と西洋探偵小説の誕生

第二章 本格から変格へ――江戸川乱歩と日本のミステリの特殊性・探偵小説と時代小説の交点

第三章 戦後の本格ミステリ――横溝正史坂口安吾らの本格ミステリの特質

第四章 戦後文学としてのミステリ――戦争と詩作と探偵小説との関係性

第五章 松本清張の登場――社会派ミステリの影響力

第六章 純文学とミステリ――横光利一「純粋小説論」と松本清張評価

第七章 アンチ・ミステリの系譜――ミステリの形式化とメタミステリへの志向性

第八章 新本格以降の展開――島田荘司以降の本格ミステリ

第九章 京極夏彦以後――京極・麻耶・メフィスト賞の特質

第十章 本格形式の臨界点――後期クイーン的問題とその周辺

第十一章 フラット化するミステリ――オタク文化・SF的設定・特殊ルール

第十二章 村上春樹とハードボイルド――日本のハードボイルド受容の特殊性

第十三章 総括――東日本大震災以降のミステリ

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個人的にいちばん気になったのは、文章や単語の重複で、おそらくうまく推敲すれば、文章のボリュームの20%は削減できるのではないかと思います。しかしそうしたことは、実際に長い文章を書いてみないとわかりません。だから、こうした本が執筆されたことは、やっぱり、良いことなのです。

たった一人でもこれだけの領域と資料博捜をオーケストレーションできるのだということがわかり、来年に向かって生きる気力をいただいたような気がしています。

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*5:具体的には、31-32, 37, 40, 46, 49-50, 52-55, 57-60, 62-64, 67, 69, 71, 75-78, 81-84, 91, 94-95, 97, 100, 102-106, 109, 114,-116, 122, 124-126, 130, 132, 140-147, 151, 153, 162, 165, 168-170, 178, 181, 185, 195, 204, 206, 208, 219, 221-222, 224, 226-227, 229-230, 237, 239ページの左端が欠けています。

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クリスマスイブに『加藤郁乎俳句集成』(沖積舎、2000)をなぜかぶっ続けで読んでたらヘトヘトになってしまいました。

『立ち読み会会報誌』第一号改訂再版の追加内容は全部完成したので、あとは周辺情報が固まりしだいここに書きます。