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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

続・からだ、あったまりましたか――エリック・マコーマックの2長編

耽篇奇賊

【※エリック・マコーマックの『パラダイス・モーテル』および『ミステリウム』の結末に触れていますので、未読の方はご注意ください】

先に『ミステリウム』について。実はこの作品にも、「信頼できない語り手」は登場する。もちろん、「第一部」の大半を占める「手記」を書いた、ロバート・エーケンだ。読者はまず、このロバートの「手記」によって、キャリックで続発する謎の事件の全貌を掴む手がかりを得る。「手記」の中でロバートは、街にやってきた「水文学者」のカークを終始、犯人として疑っている。しかし実際には、そのロバートが真の容疑者と目されているのだ! そしてジェイムズがインタビューを開始し、話が進むにしたがい、「手記」に描かれた人々の、病に冒され変わり果てた姿、ますます混沌を深める謎に出会う(このインタビューを受ける街の人々も、胡散臭いわけだけれど)。読者はまるで歪んだレンズを通すようにして、出来事の中心へと迫っていく。ここで、「どうやって事件を起こしたか How done it」という謎は、実はあまり問題にならない。いくつか手段が提示されるが、作者も、「まあどうとでもひっくり返せるさ」といったふう。最大のミステリーは、やはり「動機」、そして「原因−結果」という因果律に関してである。
ここで少し話題を転じる。
私はこの作品を読んだ時、ある作品を思い出した。私は「ジャーナリストや作家が、いま、まさに作品を作り上げつつあるその様子を作品化した小説」とか、「作品化の前で試行錯誤する小説」というのが好きで、これまで読んだ中に、辻原登の「谷間」と「黒髪」がある。大雑把に言うと、どちらも、語り手である作家の「辻原登」が事件に取材し、作品化しようと腐心するが、難航する、というもの。「唯一の“真相”は掴めない」という諦念の主題は、アンチ・ミステリに通じるものも感じる。
短篇「谷間」は、去年復刊された『家族写真』(河出文庫)に収録されている。
少しだけ概要を。語り手である作家・辻原は、雑誌編集者から、迷宮入り事件の謎を追いかけるノンフィクション記事を執筆するよう依頼を受け、生まれ故郷の和歌山県で17年前に起こった男二人の無理心中事件について調べる。事件は、ある町の暴れ者が、年上の男と二人で酒盛りをしていた最中、相手に農薬入り酒を飲ませ、無理心中をはかった、というもの。毒を飲まされた男は近くの民家に「ヘンなものをのまされて気分が悪い。水がほしい」と助けを求めたが、間もなく死亡。のちほど、暴れ者の死体も発見される。しかし、この農薬はあまりに臭いがきつく、酒に混ぜていたとはいえ、他人に騙して飲ませられるようなものではない。ではなぜ相手は毒を呷ったか。そもそもなぜ心中事件は起こったか。理由を考えると、いろいろと辻褄が合わない。語り手は妻と二人、取材時のテープを神奈川の自宅で聞きながら事件について考える。その時、テープからふっと女の声が聞こえてくる。「プ・チエン・ドゥ」。不見得。中国語で、「とはかぎらない」というほどの意味だ。しかし取材時、その場所に、そんな言葉をつぶやいた女はいなかった。まるで幽霊の声だ。これはいったい何なのか? 語り手は妻と散歩に出、近くの川を水源まで歩いてみようと提案する。さかのぼってみると、源流は二手にわかれていた。互いに別行動をとって、さらにさかのぼってみる。ぎりぎりまで行ってみて、後で下流で落ち合う。落ち合った場所は畑の中で、老婆が刈り取った草を盛大に燃やしていた。そして彼らに向かってこう言う。「夏草はね、刈っても刈ってもはえてくる。からだ、あったまりましたか」。
作品中で、事件の「真相」そして声の正体が判明することはない。謎めいた短篇だ(のちに、同じような事件をモチーフに中篇「マノンの肉体」が書かれている)。河出文庫版の湯川豊氏の解説がふるっている。少し長くなるけれど、引用してみよう。

私にはこのセリフがごく自然に次のように聞こえてきた。/「物語というのは、刈っても刈ってもはえてくる」/という、溜め息のような作者の声だ。すなわち、この短編は物語とは何かがテーマなのだ。/事件がある。事件を構成している事実の断片らしきものがある。それを組み立てて、事件を解釈する。解釈は物語をつくる。そこで確かに、一つの物語が生まれる。しかし、事件の確実性は、それで確定されるのだろうか。あらゆる物語について、プ・チエン・ドゥ――とはかぎらない、といってみることができる。人間が不確定なものであるかぎり、物語はつねに「とはかぎらない」という不確かさにつきまとわれる。不確かさにつきまとわれながら、物語は生まれつづける。人間や世界を知ろうとするかぎり生まれつづける。(……)人は世界に対しているかぎり、不断に物語をつくりつづけていかなければならない存在である、ということでもある。では物語の専門家である作家はどうすればいいのか。「谷間」の「私」は、物語をどう書いていったらいいのか。/その答えは用意されてはいない。「私」ではなく作者の辻原氏はそういっているかのようだ。「刈っても刈ってもはえてくる」ことこそ物語の特性なのだと見きわめて、覚悟するしかない。覚悟して、「そうとはかぎらない」物語を書きつづけていくしかない。そして季節はずれかもしれない焚火をして、「からだ、あったまりましたか」と読者に問いかけてみる。

この読解はほとんどそっくり、『ミステリウム』にもあてはまる。つまり、作中で語り手のマックスウェルがしきりに気にし、読者に呼びかけるあの「におい」――気づかない人間は全く気づかないあの「におい」――は、「谷間」でテープ録音から聞こえてくる「プ・チエン・ドゥ」(とはかぎらない)という声と同じ役割(単一の解釈への疑い)を持っているのだし、ラストにおいてブレアとマックスウェルは、全てが物語化された世界(=「謎のない世界」)や無秩序な世界(=「動機がなく、プロットもない宇宙のヴィジョン」)ではなく、「まことの賢者とは、おのれの無知をしっかり保ちつづけるくらい賢くなった人々のことだ」と志向する。「そうとはかぎらない」物語を書きつづけていくしかない、という立場に立つ。
   ※
だから「谷間」がそうであるように、『ミステリウム』も、人間と世界と、物語についての小説だ。それはたびたび、作中の現実世界が書物にたとえられていることからも明らかだ。<遠くの薄暗い丘が、いまは大きな本のページのように見える。丘にかかったリボン状の霧が栞のようだ。私自身が、もうすぐキャリックという本の最後のことばになるのかもしれない>(p85)というように。そして「世界」や「現実」や「出来事」は、「小説」の比喩にも転換される。<ときには、確かなことについて話せば話すほど、それは確かではないものになっていくような気がする――ことばはほんとうに重要なことがらのあいだに生えている雑草のようだ。ひょっとすると、夢の狂った論理が理性的な世界に導入されるとき、ことばは役に立たないのかもしれない。あるいはひょっとするとある種の感情は――たとえば復讐だが――私たちがそれのために発明したいかなることばよりも何百万年も古いのかもしれない>(p258)というロバート・エーケンの独白は興味深い。
何より、『ミステリウム』で一番笑ってしまったのが、ブレア行政官による犯罪理論講義だ(p211−)。従来的な警察の捜査方法に対して、<反乱の創始者はフレデリック・デ・ノシュールという男だった。彼の論文『一般犯罪学講義』において、(……)クリミニフィエ、クリミニフィアン、クライミュの三つの用語を中心につくられた、まったく新しい専門用語が導入されるべきだと彼は提案した>とあるのは、ソシュールの『一般言語学講義』そしてシニフィエシニフィアンシーニュという概念のあまりにもあからさまなパロディであり、その他、差異の体系、ジェンダー犯罪理論、「犯罪者の死」、……なども同様。こうした「犯罪理論」が発達した結果、<見習い保安官たちは一日中カフェテリアにすわって、さまざまな理論的立場の賛否両論をめぐって議論していた。そのうち何人かは、実際に犯罪者に出会ったことも、犯罪を捜査したこともなかった>という「理論家」ばかりが増殖し、一方で彼らが議論をしている間にも犯罪は横行している。やがて理論家の一人に戦争における敵対国協力者がいたために、こういった理論のブームは終速し、古いタイプの捜査が復活するのだが……。

「私はかつてドレイミの講義を聞いたことがあるのだが、彼の理論にはある種の美しさがあることを認めなければならない――不確実性の承認だ。彼は世界の混沌を考慮に入れようとした。しかし実際には、彼の理論は島の刑務所を空っぽにしてしまった」ブレア行政官の灰色の瞳は微笑していたかもしれない。「われわれ人類は犯罪者とそうでない人間とのあいだには明確な区別があると信じる必要があると思わないか、ジェイムズ? その保障がなかったら、われわれはどうなってしまうだろう?」(p219)

ここで「犯罪」が「テクスト」に重ねられていることは明らかだ。パロディにくるまれてはいるけれど、私はこの箇所には、マコーマックの考えがある程度こめられているように思う。『パラダイス・モーテル』文庫版の解説で、マコーマックは以前<根本的な、実存的不安を別とすれば、人生において不幸に思うべき事柄はそんなにたくさんないんじゃないか>と語っていたとあるけれど、彼が数少ない本当の「不幸」だとしているその「実存的不安」とはたとえば、「世界」と「私」との乖離ということなのだと思う。「物語」や「解釈」はその二つをつなげようとする試みである。しかし一つの意味や因果律に還元する方法は、今や全幅の信頼を置くことができない。また過剰にポストモダン的な、つまり無秩序とほとんど変わらない行き過ぎた相対主義も当然、肯定できない(その意味では、マコーマックは「ポストモダン」に関しては否定的だとも言える)。ならばどうするのか。第五部でのブレア行政官の葬儀における彼の妹の言葉にしたがえば、「とはかぎらない」と自由な姿勢を保ちつつ、謎を楽しむこと、謎に恋すること、なのではないか。「谷間」の解説で湯川豊氏は「その答えは用意されてはいない」としているけれど、『ミステリウム』を読むと私には、それこそが答えなのだ、とマコーマックが秘かなメッセージをはなっているように思える。
原稿をボツにした後、主人公のマックスウェルは、高齢になった今でも、キャリック事件についての文章をつづり続けている。<「どちらかというと幸せで、どちらかというとごく普通の、私たちみたいな人たちのお話が読みたいわ」と彼女はいった。「ねえねえ、ジェイムズ、どうしてこんな人たちについて書いてみようなんて思ったの?」>と妻に問いかけれた彼はこう思う。<こう問い返したいぐらいだ――私たちの人生と同じような、とても普通で、とても退屈な人生なんか、どうして書かなければならないんだ?(……)実をいうと、もはや自分でもなぜ書いたのか、さらにはなにについて書いたのか、わからなくなっていた。わかっていることといえば、人生のある時にたしかにそれを書いたことと、それゆえに私にとって大切なものであるということだけだった>。
それこそが書く理由だ。
   ※
しかしこうやって読んでいくと、私が今書いていることも、肉体性を欠いた頭でっかちの議論のように思えてくる。『ミステリウム』は図式的にも読めてしまえるけれど(そして、だからこそ『パラダイス・モーテル』に比べ「きちっとし過ぎている」ように感じられるけれど)、本当に面白いのは、そうした構造にリアリティを与えるものの方だ。たとえばブレア行政官の初恋のエピソードは、最後、年老いたかつての恋人に「会わない」という点で、「真実」の追究を断念するマックスウェルの姿にも重ねられるが、そのエピソードがあることでブレア−マックスウェルという二人の関係に奥行きが増し、「あれはああだ、これはこうだ」といった読解を離れて、どこかしみじみとしたものが感じられる。からだがあったまる。
ところで、『パラダイス・モーテル』→『ミステリウム』と順番に読んだ読者は、ある箇所で驚いたはずだ。例の犯罪理論講義のすぐ後。

「きみはモーテル・パラディーゾ事件が見出しを飾ったときのことを憶えているか、ジェイムズ? 学校の先生たちはあの大失敗の裏と表について何時間も議論して過ごしたものだ――彼らはあの件について私に一連の講義をさせたがった。だれもがあれはエズラ・スティーブンソンという偽名の男の発明だということを知っていた」/もちろん、私はモーテル・パラディーゾ事件なんて聞いたこともなかったが、彼にその話をはじめさせたくなかった。だから私がうなずいただけだった。

言うまでもなく、マコーマックの長篇第一作『パラダイス・モーテル』とその語り手エズラ・スティーブンソンを想起させる言及だ。しかし、あの作品を最後まで読んで、見出しを飾るような「事件」「大失敗」と呼ばれるような出来事って、何かあったっけ?
(この項続く)