TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

「推理」小説か、推理「小説」か?

 以下はいつものように思いついたことを試論というか一晩で走り書きしたものです。
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〈「推理」小説か推理「小説」か〉という評言を初めて見たのは学生時代、おそらく何かの文庫解説(1980年代のミステリ小説だったはず)で、以来、似たようなフレーズを見かけるたび、これはいったいどういうことなのだろうか、と考えずにはいられない。もちろんその表面的な意味はわからなくはない。その基本的な発想は「推理小説」という語を「推理」と「小説」に擬似的に分割するというもので、そうした構えをとる際、穏当な意見は往々にして、「推理小説も小説であるから、パズルである前にまず最低限売り物になる小説であるべきで、……」云々と、作家は(特に新人作家は)後者の技術に熟達すべきであるというふうな結論に落ち着きがちである。前者(「推理」)に理解のある人でさえ、結局は後者が伸びなければ職業作家としてサバイブすることは難しい、と心のどこかで思ってはいないだろうか(前述の解説者はもしかすると、新人賞の下読みとして日々そうしたどちらを採るかという選択を迫られている人だったのかもしれない)。「小説」に熟達しなければ、……というのは一面の真実で、20年、30年と書き続けている人はどうしたって「うまさ」を次第に身につけざるをえない。
 しかし素朴な疑問は、「推理小説」という語は本当に「推理」と「小説」に分割できるのだろうか、というところにある。「推理小説」はそもそも「小説」なのだから、そのオモシロサは「推理」だろうとなんだろうとすべて「小説」のオモシロサに包含されるんじゃないかしら。「推理」抜きの「小説」とは、いったい何なのか?
 ……こうした疑問を長年抱えていたところ、以前、松井和翠さん編の『推理小説批評大全 総解説』で紹介されている諸論考を通読して、その一端が掴めたような気がした。
 ジャンル論として「推理小説とそれ以外の小説」を分けて考える際、「それ以外の小説」はしばしば、
「(普通)小説」
「(一般)小説」
「(主流)文学」
 などと称されてきた。呼び方がマチマチなのは、それらには確定した名称がないからである。なぜ確定した名称がないかといえば、それはそれらが「~でないもの」という消極的な定義でしか存在しえない概念だからだ。どういう意味か。「普通」「一般」「主流」という語には、全体の中で多数を占めている、という含意がある。たとえばよりわかりやすい呼称として「非推理小説」という語もあり、私はこの「非~」という方が意味としても正確ではないかと思うが、「非(ノン)」ではなく「多数(メジャー)」という言い方にも確かに捨てがたいところがないではない(似たような言い方に「スリップストリーム文学」と「メインストリーム文学」という区別がある)しかし「普通」にしろ「一般」にしろ「主流」にしろ、それらは「ジャンル小説とは何か」と考えた時に、「ジャンル小説ではないもの」として初めて割り出される概念であって、それ単体としては存在しえない。「推理小説の本質とは何か」とか「自分は推理小説の書き手である」などと考えることはできるが、「普通・一般・主流・非推理小説の本質とは何か」とか「自分は普通・一般・主流・非推理小説の書き手である」などと考えることは(不可能ではないとしても)ほとんどないのではないか。つまりここでいう「メジャー」なものとは、「自分はメジャーではない」と自認する「マイナー」の側、疎外された(と感じている)者の立場から「あいつらはメジャーだ」と名指されるものである。それは実体としては確かに存在する。なんというか、世間的に「メジャーなもの」としか言いようのないものが確かにあるのだ(実際の数の多寡は問題ではない)。しかしなぜそうなったのかを説明しようとなると、そこには歴史的経緯やイデオロギーや構造的な段差などが複雑に絡み合っていて、すっきりとは説明しがたい。一言でいえば、「メジャーなもの」とは、ある構造の内部において「マイナーなもの」を気にしなくてもいい立場にあるもののことだ。しかし「マイナーなもの」の側は常に「メジャーなもの」を意識して「自分はマイナーである」と自任せずにはいられないほど不安定な立場にある。逆に「メジャーなもの」は自分が「メジャーなもの」という自任すら不要なほどその立場は安定している(と「マイナーなもの」の側からは見えている)。この両者の間には認識の断絶がある。
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 話がややズレた。
 先に「(普通)小説」「(一般)小説」「(主流)文学」という評言を紹介した。このカッコは原文そのママだが(いま時間がないのですが後で出典元を明記します)、このカッコの使い方には、その中の語が省略可能であるような意識がうかがえる。しかし、「一般小説」と「小説」とは、まったく異なる概念だ。
 これは図にするとわかりやすい。

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「一般小説」を部分A、「非一般=特殊ジャンル小説」を部分Bとすれば、論理的にいって「小説」全体はA+B=Cである(A≠C)。つまり「一般小説」(多数)は「小説」(全体)ではない。
 しかし時に、この「(一般)小説」のカッコ内が欠落して、すなわち多数が全体にとって代わって語られることがある。この時、最初に挙げたような、「推理小説はそもそも小説なのだから、そのオモシロサはすべて小説のオモシロサに包含されるんじゃないか?」というような齟齬=疑問が産まれる。よくよく見れば、「推理」「小説」という時の「小説」とは、「(一般)小説」のカッコ内を欠落させた語の用法であるようにも見える。この欠落には、これまで述べてきたような思考過程がおそらく働いている。たとえば「純文学」といわれて今、小説以外のものを思い浮かべる人はいない。しかしそれは男manという単語で人類manを表すようなものではないのだろうか。
 多数を全体として捉える(少数を全体から切り捨てる)、という錯誤は誰しも日々ありがちなことだ。たとえば私は「文学とは何か」といえば「小説」が真っ先に思い浮かぶ。しかし実際には「文学」には詩歌や演劇や随筆など膨大な他の領域がある。たとえば「小説とは何か」といえば「物語」というものが思い浮かぶ。しかし実際には「物語」は映像やコミックや戯曲などその他の媒体でも扱えるものだから、「小説」の必要条件ではない(物語がない小説もある)。……このように注意して考えれば自明なことが、ともすれば文学=小説=物語という式があたかも真理であるかのような不可視の公式として働いている場面に出くわすことがしばしばある。
 たとえば数年前、「ライトノベルは文学か」という座談会が「炎上」したことがあった。
 これは図書の分類法(日本十進分類表・NDC)でいえば、すべての「小説」は「文学」なのだから、当然、ライトノベルはすべて文学である。現実に図書館に行けばライトノベルはすべて文学コーナーに置かれてあるので、「ライトノベルは書店ではコミックと一緒に並べられることも多いのだから726.1(漫画.劇画.諷刺画)に置け!」などとクレームを言ってみても始まらない。実際、先の座談会でいう「文学」とは一貫して「純文学」のことなのだ。つまり「(純)文学」=「文学」という、部分の全体化が不可視の公式として「ライトノベルは文学か」という疑問文には働いており(文中に「文学(純文学)」という表現がある)、そこに齟齬がある訳で、これを最初から「ライトノベルは純文学か」と言い換えていれば答えはまた違ったものになっただろう。
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 では「小説」の必要条件、言い換えれば、これを抜くと小説でなくなってしまう、というような条件とは何なのか。そう考えると、その要件は答えに窮するほど少ない。辛うじて思いつくのは、フィクションを扱う文字記号の直列的な集積……というようなことでしかない。もちろんフィクションを扱わない「小説」も、直列的でない「小説」もあるが、ここでは仮にそうだとしておく。すると「小説」の面白さ、言い換えれば、「小説」にしかない面白さ、とは「文章や語りのうまさ」だとかにしか求められなくなってしまう。もう一点、表現しづらいものとして、媒体的特性が挙げられる。小説では魅力的に映った会話などのやりとりが、実写化されると途端に薄っぺらいものに見えてしまう、ということがある。逆に、魅力的な映像がノベライズ化されると(どうも違う……)と思われることがある。そうした、媒体自体の持つ固有性。
 たとえてみれば、「小説固有の面白さ」とは、汁物における「出汁」のようなものなのだろうか。「出汁」は「出汁」だけ味見してみても確かに旨い。しかしそれだけでは完成品としての「料理」にはなりえず、「出汁以外」のものと組み合わさることによって「料理」になりうる。「出汁以外」は「出汁以外」で、それだけで調理できないことはない。しかし、やはり何かが足りない。「出汁」と「出汁以外」が組み合わさることで「出汁料理」になる。ここで「出汁以外」とはたとえば「物語」にあたる。「出汁(小説の固有性)」を欠いた「物語」は、それだけで成立しなくもないが、しかし「小説の面白さ」と呼ぶには何かが足りない。というか、下手をすると、同じ物語を扱った「映像」の方が面白い、ということにもなりかねない(映像>小説というヒエラルキー)。しかしいくら上モノだけで旨いからといって、ベースの鰹出汁をマギーブイヨンに置き換えてしまっては台無しになってしまうものが、「小説」には、あるのだ。
 先の図を流用すれば、「小説の面白さ」(全体C)とは、「小説にしかない固有の面白さ」(B)と「小説以外でも扱える面白さ」(A)が組み合わさって成立するものなのだろう。しかしそうすると、「推理」は「物語」同様、「小説」にとっては「小説以外でも扱える面白さ」(A)にあたる、ということになる(映像やコミック、場合によっては評論でもそれは表現可能だから)。ならば、「推理」「小説」というあの分類は正しいのだろうか(「推理」=上モノ/「小説」=ベース)。

 だが、〈「推理」小説か推理「小説」か〉という評言においては、より事情がこみいっている。このときいう「小説」とは、「(一般・非推理)小説」のことであり、「小説にしかない固有の面白さ」(B)と「小説以外でも扱える面白さ」(A)の双方を含み、その上で、Aから「推理」(D)を排除したものを「小説」と呼んでいるのだ。

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 なおかつ、そのような場合に「小説の面白さ」というとき、「小説にしかない固有の面白さ」(B)が前述したように厳密な意味で意識されていることはおそらくほとんどない。その「面白さ」とは、「物語性」とか「読者の目を意識しているか」とか、「小説以外でも扱える面白さ」(A')にあたるものを指してそういっているのではないか(「小説」よりも「読み物」の方に力点がある、というぐあい)。
 もちろん他方で「推理の面白さ」といってもそれは一筋縄にはいかない。ここでは「推理」をとりあえずカッコに入れて「小説」の方をごく簡単に「小説の固有性」と「それ以外」に腑分けしてみた。上のように考えてくれば、「推理小説の面白さ」とは、「推理」と「小説の固有性」と「小説以外でも扱える面白さ」から成り立っている。しかも、その「面白さ」全体は、おそらく加算(+)ではなく乗算(×)のような関係にあって、ある一作品のどこをどう簡単に取り外すというふうにはいいづらい。というか、ここまで書いてきたものの、そもそもやはりそんな簡単に「推理」と「小説」が分離できるのだろうかという疑いが拭いきれない(これが「探偵小説」とか「ミステリ」とかなら、これほどスッキリとは分割できそうにない)。もともと「推理」も「小説」も別個に独自発展してきたのではなく、よくよく俯瞰してみればゴチャゴチャと絡まり合ってまったくワケガワカラナイのだから、私としてはまだまだその中でウダウダと行き泥んでいるしかないのだろうけれども。

青山文平『半席』

 青山文平『半席』(新潮社、2016)。私はふだんあまり時代小説は読まなくて、この著者も初めてです。この本は出た当初から「ワイダニットの秀作」の呼び声高く、そのうちいずれと思ううちもう文庫化されてしまったので、それを契機に読んでみました。
 時代は江戸の文化年間というから1800年代初頭。主人公の片岡直人は30歳手前。目付(武士の監察役)の配下の徒目付という役職。これはエリートとノンエリートでいうとエリート側の下っ端にあたるらしい。つまり江戸時代の武士の身分は御目見(将軍に直接謁見できるか否か)で分かれていて、御目見以上を「旗本」と呼び、御目見以下を「御家人」と呼んだ。この差がめちゃくちゃデカイ。主人公の父親はもともと御家人だったが、旗本の一番下っ端に出世した。しかし二代続けて旗本を出さなければその家は旗本(御目見以上)とは認められないというルールがあるらしく、主人公の直人はそのキャリアをまたノンエリートの御家人から出発しなければならなかった。自分も頑張って出世すれば子供以降は最初から旗本として認められる(この状態が「半席」)。だから父親に続くべくなりふりかまわず出世してエリート枠に入り込まなければならない……。しかし今いるこの徒目付という職は「やることを挙げるよりも、やらぬことを挙げるほうは早い」といわれるほど職務範囲が広く、また才覚があればなかなか儲けることもできる。そこへ半年に一度ほどの割で、自分の上司にあたる徒目付組頭の内藤雅之が正規の職務以外の裏仕事を持ちかけてくる。それは、ある武士が罪を犯した。しかし決して理由をいわない。その「なぜ」を解き明かしてくれ、というもの。この「なぜ」を問う裏仕事が毎回のキモで、そこにワイダニット連作の短編集とされる所以がある。
 タイトルや設定にもあるように、作中世界はシステムがすべてを支配する世界だ。かつ、中途半端さが停滞感として全体を覆っている。主人公の直人はエリートとノンエリートの宙ぶらりん状態にあり、上司・雅之が放つ「出世なんかしなくてもいいジャン」という雰囲気は強力だ。時代は江戸の文化年間というから、1800年代初頭。激動というには遠く(維新の頃にはちょうど彼らは皆死んでいるだろう)、武士は軍人というより役人となりつつあり、ビンボー武家は食うにはかつかつ。傘張りの内職をしてさえ生きていかれなかったりする。平時の酷薄な身分社会という、ダイナミックさに全く欠けるシステムの浸透しきった日常が彼らの生きる世界であって、これは確かに二百年後の現代日本に似ていなくもない。
 わたしが「システムの世界」と書いた理由はもう一つある。本連作の趣向は、なぜその人物が罪を犯したのか、その理由を読み解け、というものだが、その基本原理はおおよそ、武家社会のシステムから導かれるものだからだ。上司・雅之が解決済みの事件(しかし動機だけが不明)を持ちかける。直人は関係者何人かに聞き取りを行い、ある「仮説」を持って犯人を訪ねる。そして犯人から心情を聞いて答え合わせをする、という流れだが、これはミステリとして見るとかなりあっさりしている。推理の試行錯誤とか、どんでん返しとかはまったくないから、そこに物足りなさを覚える人もいるだろう(一編がだいたい40頁、事件から解決まではいずれもだいたい20頁程度)。この時代、この空間の武家社会というローカル世界に生じたシステムエラー。その解明は、「こういう立場の人がこういう状況に置かれたら、確かにこういう行動をとってもおかしくないな」というものだ。状況から行動が導かれる、という経験は誰しもある。そのとき導かれる行動は、個人の意志を超えている。たとえば会社の部下が上司から「奢るよ」といわれたら「いや払いますよ」と断りつつ結局は「いいっていいって」と奢られる。この、奢るよ→いや払いますよ→いいっていいって、という二者間の行動は、状況が強いるもので、個人の意志には左右されない。確かに人によっては、部下も「いや払いますよ」とは断らないかもしれないし、上司も「あっそうじゃ割り勘ね」と受け流すかもしれない。しかしたいていの場合、そうした個人差を超えたローカルルールがコモンセンスとしてできあがるもので、いったんできあがってしまえば、そうした仕草がないと物足りなささえ覚えてしまう。
 ワイダニットとしての『半席』の強みは、犯行理由に対する共感性の高さだといわれてきた。しかしその共感性の高さとは実際は上記のように、システムが個人の内面を規定する様相を描いたものなのではないか。犯人が導かれる行動は個人の意志を超えたもので、だから本当のところ、各犯人の登場人物としての影はうすい。「まあ、こういう立場の人がこういう状況に追い込まれたらこうなるんだろうなあ」という「なぜ」に、個人の性格が入り込む余地は少ないからだ。つまり「共感性の高さ」は、登場人物の交換可能性ということを想起させる。それは主人公の立ち位置にさえ及んでいる。正直なところ、「探偵役」としての主人公は、「もしかして犯人たちは、主人公じゃなくても、これくらいの若い青年であれば、ゲロったんじゃ……」と思われるフシがあるからだ。
【ここから結末の趣向に触れますので未読の方はご注意ください】
 連作全六編はこうした出世物語のパターンを踏まえていて、すなわち、第四話までは探偵役としてひたすら「見る側」だった直人は、やがて「見られる側」としての自身の存在を意識するようになる。そして最終話において、出世の道を諦めることを受け入れる。最終頁まで読んできて、その苦甘いようなラストにたどり着くと、上司・雅之はズルい人だなあ悪人だなあ、と思える。それはたぶん、わたしが直人と同世代で、出世欲とか名誉心とかを捨て切れていないからなのだろう。ひたすら出世を目指してきた人間が、その望みを絶たれた場合、どうするべきなのか。本連作の裏テーマを一言でいえば、コレである。ここでいう「出世」とは、システムのルールに乗っかることを意味する。しかしシステムからあぶれてくる人間は必ずいる。というか、システムからあぶれた時、人は事件を起こすのだ。するとラストでの主人公の「出世を諦める」という行為は、システム批判という意味を帯びてくる。武家社会という身分制度=ルールが働く内部でなければ、犯人たちは事件を起こさなかっただろうからだ(一部そうともいいきれないかもしれませんが)。そもそも、直人の「自分の家は半席だから子孫のために出世しなければ!」という若者らしい欲望自体、個人の意志とは無関係に、システムに強いられたものだった。だから、「出世を諦める」という行為は、どれほどこうした出世→転向物語のパターンに則り、かつ、雅之の描いた筋書きに乗せられているように見えようと、システムの内部で「個人」という主体性を発揮できる、リアリティのある行為に感じられたはずである。
 上で「中途半端さという停滞感」と書いた。タイトルにも顕著なこれは、ネガティブな意味ではない。というのは、本作は意図的にこうした宙ぶらりん感を描いているからだ。そしてワイダニットミステリとして事前に期待を持って本作を読んだ場合、読者は中途半端な感じを覚えるはずである。また時代小説として読んだ場合でも、確かに文章や筋立てはうまい、けれども、どこか中途半端な、閉息的な感じを覚えるのではないかと思う。しかしこの中途半端で閉息的な感じは、時間も空間も限られた江戸という作中世界のシステム自体が持つものなのだ。私は読みながら、カバーに描かれた白地に黒い版画が踊る様子を、アニメーションのようにして脳裡に想い描いていた。英雄話でも人情話でもない、どこか個性を抹消された人々が、のっぺりとした白い空間で繰り広げる、影のドラマ。それは、時代小説なのか、推理小説なのか、というこの小説自体が体現する中途半端さを象徴しているかのようだ。そう考えると、連作としてはやや冗長に感じられる、毎回挿入される世界観の説明(主人公は半席だから出世しなければならないのだ、というような)もどこか、ドラマやアニメで毎回OPやEDが律儀に再生されるような感じで、作り物としてのこの世界の存在を、主張しているかのように見えてくる。やがて、永遠に思われたシステムにもじりじりと、その閉塞空間を成立させていた経済的な底が見えてくる、……。
 だが。時代小説としても、推理小説としても、これくらいじゃあピンとこない、オレはもっとうまく書いてやる、出世してやるゾ、という、ギラギラした書き手が『半席』の子孫として出てきていい。そんな夢想が、どうにも掻き立てられてやまない。

ハサ医師アンソロの宣伝

 笹木志咲紫さん主宰のハサ医師アンソロジーに参加しました。

 これは何かというと、要は『ハサミ男』の「ハサミ男」と「医師」をメインにした二次創作アンソロジーです。他の方がどういうものを書かれているのか、全く存じ上げないのですが、私は5000字くらいのショートショートで参加しました。タイトルは「辺鄙な土地(OUTSIDE WORLD)」です。

 三ヶ月くらい前に書いたんで、いま読み返してみると、小ネタと自分の解釈を勢いに任せてぎゅうぎゅうに詰め込んだ感じで、わかりにくいところもあるかと思います。それを全部説明しようとすると、たぶん三倍の1万5000字くらいになってしまうと思うので、今回タイトルについてだけ触れます。

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ハサミ男』の本文中、「辺鄙な土地」という語は一度だけ登場します。それは語り手の「わたし」が喫茶店「おふらんど」の店主と会話する部分です(この言葉の意味については以前、詳しく書きました)

 「ひとつだけ質問していいですか」
「なんでしょうか」
「〈おふらんど 〉って、どういう意味なんですか 。辺鄙な土地、かな」
「なるほど、〈オフ・ランド〉ですか。そういう解釈は初めて聞いたな。はやらない店には、そのほうがふさわしいかもしれない」
 店主は感心したように笑って、
「じつはフランス語なんですよ。〈捧げ物〉という意味です」
 わたしにとって、店主から得た情報は、欲しくもない捧げ物だった。(第「17」節)

 つまり「辺鄙な土地」というのは(自分で言ってしまうと)「捧げ物」という意味です。tributeです。

 では副題というか英題の「OUTSIDE WORLD」は何かというと、これはもちろん、XTCの『Drums and Wires』の10曲目のタイトルです。11曲目が「Scissor Man」なので、(これも自分で言ってしまうと)「Scissor Man」の前日譚というつもりです。

 以下、寄稿の冒頭部分です。

――She can't hear what's going on In the outside world(XTC「OUTSIDE WORLD」)


   1

 高校生だった当時、わたしはまだ鷹番を「たかつがい」と呼ぶのだと思っていた。
 その日、わたしは学校からの帰り道を歩いていた。鞄には、頼まれて図書館から借りた大きな本が二冊も入っているので、重たいことこの上ない。
 一冊は小説で、トレーシングペーパーのカバーにうっすらと下の地が透けている。女性の顔の上に「L'offrande au néant」という文字が浮かび、金で箔押しされた文字が夕暮の日射しを浴びてきらきらと光を返す。もう一冊は詩集で、岩肌のような箱にオレンジ色の表紙の固い一冊が納まっている。
 この二冊の内容はどういうものか? それぞれの帯に書いてある言葉をここに引用してみよう。(……)

  以上、宣伝です。

 よろしくお願いします。

 

[追記]

 現在、BOOTHで通販もされているようです。

booth.pm

 急に早川書房の「異色作家短篇集」を読み直すことになったので、こちらに備忘録を書いておくことにする。

 以下は初刊時の作家17人の生没年月日をコピペして年長順に並べ直したもの。

ジェイムズ・サーバー(James Thurber 1894年12月8日 - 1961年11月2日)
ジョン・コリア(John Collier 1901年5月3日 - 1980年4月6日)
マルセル・エイメ(Marcel Aymé 1902年3月29日 - 1967年10月14日)
フレドリック・ブラウン(Fredric William Brown 1906年10月29日 - 1972年3月11日)
ダフネ・デュ・モーリア (Dame Daphne du Maurier 1907年5月13日 - 1989年4月19日)
ジョルジュ・ランジュラン(George Langelaan 1908年1月19日 - 1972年2月9日)
ジャック・フィニイ(Jack Finney 1911年10月2日 - 1995年11月16日)
ロアルド・ダール(Roald Dahl 1916年9月13日 - 1990年11月23日)
スタンリイ・エリン(Stanley Ellin 1916年10月6日 - 1986年7月31日)
シャーリイ・ジャクスン(Shirley Hardie Jackson 1916年12月14日 - 1965年8月8日)
バート・ブロック(Robert Albert Bloch 1917年4月5日 - 1994年9月23日)
シオドア・スタージョン(Theodore Sturgeon 1918年2月26日 - 1985年5月8日)
レイ・ブラッドベリ(Ray Douglas Bradbury 1920年8月22日 - 2012年6月5日)
レイ・ラッセル(Ray Russell 1924年9月4日 - 1999年3月15日)
リチャード・マシスン(Richard Burton Matheson 1926年2月20日 - 2013年6月23日)
ロバート・シェクリイ(Robert Sheckley 1928年7月16日 - 2005年12月9日)
チャールズ・ボーモント(Charles Beaumont 1929年1月2日 - 1967年2月21日)

うーん、一番離れているサーバーとボーモントは34歳も違うのね。知らなかった。

柾木政宗『NO推理、NO探偵?』

【本書の趣向に触れている箇所があります】

 第53回メフィスト賞受賞作。
 読み始めればすぐにわかるが、本作はメタフィクションだ。2000年前後の一時期、メタフィクション(あるいはメタミステリ)が持ち上げられる傾向があったが、メタフィクションだから新しい、とか、メタフィクションだから過激、というわけでは今更勿論ないのは、誰もが知っている通り。メフィスト賞にはメタフィクションの系譜があり、例を挙げれば、清涼夷院流水『コズミック』、積木鏡介『歪んだ創世記』、真梨幸子『孤虫症』、深水黎一郎『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』などが連なる。『歪んだ創世記』『ウルチモ・トルッコ』において惜しかったのは、作品の性質上、メタ要素としてその作品が「新人賞応募作品」である必要はないということ。今回はその必要性に焦点を当てている点が目を引く。

 読み終えて、私の頭にはふと、サミュエル・ベケット作品が論じられる際のキーワードである「唱和」の世界という言葉が浮かんだ。
 先日、堀江貴文『多動力』という本に触れたが、これはNewspicks Booksというシリーズの一巻で、その著者と編集方針にはある共通性がある。私の理解する限りでのその一点をひとくちでいえば、それは共同作業の称揚ということにある。これまでの出版物の単著というものはだいたい、著者と編集者の人格が一対一で、つまり二人三脚で作られていた。しかし我々は、いやこれからはそうではない。執筆も編集も販売も複数人によるチームの作業で行なって良い。つまり人格の多核化。同シリーズの一巻である西野亮廣『革命のファンファーレ』ではそれをこういう。自作である絵本『えんとつ町のプペル』執筆時、なぜ絵本(絵と文)を一人で作らなければならないのかと思いあたった。たとえば映画を一人で作ることはほとんどない。映画を作るようにして絵本を作ればいいのではないか(そこでクラウドファンディングやオンラインサロンの話になる)。進行状況を共有する範囲を従来よりも広めて、それまでの消費者を共犯者として巻き込んでしまえば良い、共犯者は多ければ多いほど、応援者になってくれる、……云々。
 私は別に回し者(しかしこの「回し者」という言葉を使うのもずいぶん久しぶりだ……唱和ならぬ昭和の感じがする)ではないからここらでやめる。何がいいたいかといえば、私はこの「唱和」と「共同作業」という概念を併置した上で(元の意味からはズラした上で)、この『NO推理、NO探偵?』を眺めてみたいということだ。
 本作のアイデアは基本的に、「新人賞を受賞させてくれという土下座を作中で行なう」というものだ。しかし作者個人がそうしたことをいっても通常は何の効果もない(それは作品の価値に何ら関係がないから)。しかし本作が特異なのは(普通やらねえだろ! と思われるのは)メタフィクションの要素を用いて、終盤のある一点において土下座をするところだ。それも、作品世界「で」土下座をするのではない。作品世界「が」土下座するように作られている。つまり単なる作者個人ではなく、終盤まで読み進めてきた読者(編集部)が登場人物たちに多少なりとも情がうつってきた上で、その登場人物たちが土下座(さっきから連呼してますが比喩です)するのだ。
 そしてそこには、あの走馬灯効果が働いている。走馬灯効果とはある一時点の回想において、過去のあれこれが奔流のようにして一挙になだれこむことで人の感動を喚起するという現象で、日常的には卒業アルバムや結婚式の手紙朗読などで用いられる。ミステリにおける連作短編集が引き起こすオドロキ(別個の事件だと思われていた数々が実は長編としてつながっていた)も同様の効果である。つまり本作が用いているのは、連作短編集として最終話に長編化するのみならず、無関係と思われていた人物までもが再登場してこちら(編集部)を向き、土下座する(くりかえしますが比喩です)、連作短編集×唱和という二重の走馬灯効果だ。

 思えば、新人賞応募作品がメタフィクションの仕掛けを用いて選考者に目配せを行うことは、これまでにもいくつかあった。講談社の小説でいえば、たとえば阿部和重アメリカの影』には、映画評論家のH(蓮實重彦)は頑張っているというフレーズがあり、その時の群像新人賞の選考委員は蓮實に近い柄谷行人後藤明生だった。中井英夫の『虚無への供物』も乱歩賞に送られたものだが、乱歩への言及があり、落選したにもかかわらず二倍に加筆して刊行された。こうした目配せはふつう、イヤらしい媚びになってしまい、選考者を「共犯者」化させるところまではなかなかいかない。それを土下座にまでエクストリーム化したところにこの小説の賭があった。
 すぐれた小説は、必ずしも一人のみからは生み出されない。『虚無へ供物』の完成には洞爺丸事故や尾崎左永子の存在が不可欠だった。関西弁監修を塚本邦雄に頼んだり、ファッション監修を尾崎に頼んだりといった「共同作業」も私は、その一つだと思う。

 もう一つ、「メタ発言」について思うところを述べる。メタフィクションには幾つかの種類があり、作中作を扱うタイプもあれば、作中人物が作品世界がフィクションであると認識している発言を行うというタイプもある。本作は後者だ。ところでこうした「メタ発言」は、ふつう小説にはあまりない。ゆえに、「お約束」への「おちょくり」というかたちをとりがちであり、多ければ多いほど読み手はたいてい冷めてしまう。『三つの棺』の「メタ発言」は、作品の流れとはなんの関係もないにもかかわらず、なぜこれほどまでに言及されるのか。それはまさに、その少なさゆえに他ならない。実にさりげなく、一度だけ言及されるからこそ、かえって印象に残る。それは調味料のようなものだ。どれほど上等のネタでも、鮪を醤油抜きで食べ続けるのはなかなかつらい。少々の醤油があってこそネタの味が引き立つ。しかし、度を過ぎてベトベトにしてしまっては台無しだ。
 本作はどうか。構えとして、『三つの棺』のような少量タイプではない。むしろ出ずっぱりであり、「メタ発言」こそがメインであるといっていい。それはコントよりも漫才に近い。コント(フィクション)において客席の存在は作中世界に組み込まれていないが、漫才においては、客席への語りかけという構えをとるのが普通だ。本作の「メタ発言」は聞き手への語りかけに、先の「土下座」は客いじりにあたる。コントと漫才半々という演目スタイルがあるが、そういう感じだと捉えれば、本作への評価としてそう外してはないと思う。考えてみれば、完全コントにおいては作り込まれたセットがその虚構性を掻き立てるが、半コントにおいてはセットはむしろ邪魔になる。言葉と所作のみによって架空の情景を造っては壊し造っては壊しという激しい切り替わりが必要になるからだ。そう思えば、描写される作中世界の書き割りのペラペラさも、半コント半漫才というスタイルが要請するものなのだろう。
 
 そろそろ締めくくりにかかる。本作には核となるアイデアが二つある。「NO推理」と「メタフィクション」がそれだ。しかし、実はその二つはうまく連携していない。私の感触としては、最終的に「メタフィクション」の方に振ったために、せっかくの「NO推理」というアイデアが、十全に開花されないままに終わってしまったのではないかという気持ちがある。一篇のミステリを成立させるには様々な要素(パラメータ)があって、これを着脱可能な構成要素と見なす実験はすでに、たとえば麻耶雄嵩がこの十年ほど行なってきた。『貴族探偵』二冊や『さよなら神様』『化石少女』『あぶない叔父さん』で示されてきたのは、ある要素をゼロにしてなおかつミステリとして成立させるならどうなるのか?という実験だった。それはバンドがある縛りを設けてコンセプト・アルバムを創るような、あるいはギターレスなりベースレスなりボーカルレスなりドラムレスなりノーエフェクトノーダビングなりで一作を構成してみようという発想に近いものだといっていい。
 ひとくちに「推理」といっても、そこには、事件の探究という理論的・抽象的側面と、それを作中で演説するという物理的・具体的側面の二面がある。つまり、「考えること」+「話すこと」=「推理」だ。それを無くすと一体どうなるのか? この発想はすばらしい。「名探偵が推理を演説する」という行為の本質的要素とは何か。その一つは、語り手として聞き手を説得させるということだ。声(言葉)によって風景が塗り替わる。そこに全ての「推理」の醍醐味がある。助手役の語り手・ユウは冒頭、探偵役のアイの演説(話すこと)が長時間にわたるあまり、聴衆である容疑者たちが退屈している様子を見て、「推理って、別にいらなくない?」という疑問を持つ。ここに罠がある。「考えること」と「話すこと」は別だからだ(それは名探偵コナン麻耶雄嵩の諸作を読んでもわかる)。考え上手+話し下手なら、ふつう、考え上手+話し上手というふうに目指すだろうところを、ユウは考え無し+話し無し=推理無しという思い切った発案をする(そこへ都合よく催眠術の得意な犯人が現われ、アイをNO推理状態に陥れる)。しかし、そこに一度きりしか使えない「メタフィクション」という要素を先の半コント・半漫才スタイルでとりこんだがために、中途半端になったのではないか。具体的にいえば、ユウは「日常の謎」とか「旅情ミステリ」とかいったジャンルへの「擬態」を提案するのだが、なぜそのように急に提案するのか、読者は「説得」されない。NO推理とはNO説得なのだ。
 思うに、ここには先行世代への反発がある。一昔前、「推理」の弱体化を示すと思われた作品群を笠井潔がすでに「脱格系」と呼んだ。「格」とはいわば、芸事における「型」であって、その習得は一朝一夕でできるものではない。そうした型=伝統を権威的・体育会系的なものと見做して、「持たざる者」としてのパンク的な行き方があった。これは私の考えでは、語の正しい意味における反知性主義(Anti-intellectualism)的反発だったと思う。その時期も過ぎ、「脱格」と呼ばれた作家も生き残っている人はそれなりに自分なりの方法を育ててきた。今後も「推理」の全体的な弱体化(というか、拡散化)は進みこそすれ、かつての「新本格ムーヴメント」ほど強化はしていかないのではないかと思う。
 話を戻すと。ユウはきちっとした説得をしないので、なんとなくなあなあで話は進んでいく。そこには「日常の謎」とか「エロミス」とかいった(サブ)ジャンルを根底的におちょくってやろうというようなラディカルさは当然、ないし、「あ、ちょっと軒先お借りしてます」と単に乗っかる感じ(殊能将之ならそうはしなかっただろう)。推理が無いので、真相は「向こうからやってくる」というか、「こちらから当たりに行く」というか、そういう「身体」を使った「体当たり」的展開になる。つまり、第四話までで身体=100、頭脳=0というパラメータにしておいて、最終話「安楽椅子探偵っぽいやつ」で身体=0、頭脳=100という振り分け方をして、その対比(ギャップ)によって読後感を良いものにしようという方法になる(雨の日のヤンキー子犬理論)。最終話には「読者への挑戦」も挿入され、いざ「推理」の解放へ、という展開になるのだが、この「推理」が思うに、きちっとしていない。全ての事件は解決済みなので、「後から思えば」という、既に結果の出た「事後」の蓋然性の積み重ねであって、解決前の「事前」にこれらのことごとが推理できたかというと、かなり無理がある、というか、「その時点でその可能性まで推理しきるのは無理でしょう」という推論があまりにも多い(最後に付け加えていえば、「メタ」という用語の使い方において、一部誤用あると思うし、また解決編に問題編の伏線部分の頁数を示すというのも、倉阪鬼一郎サン他に作例があると思います)。

 くりかえせば、本作のメタフィクション趣向は一度きりのものだ。一方で、「NO推理」という趣向はまだ完全に試されきっていない。催眠術師との対決も終わっていないし、「NO推理」の命脈はきっとまだ絶たれてない。

 著者の今後の飛躍を祈願します。

 

NO推理、NO探偵? (講談社ノベルス)

NO推理、NO探偵? (講談社ノベルス)

 

 

文學界」2018年9月号に、金井美恵子が『「スタア誕生」』刊行記念で6月にB&B野崎歓と行なった対談が載っているのを読んだ。
 面白かった。
 しかしこの対談は様々な話題が数珠つなぎ式につながっているので、いざ紹介しようと思うと、なかなか部分だけでは取り出しづらい。少し長くなるが、たとえば以下のような箇所の物腰には、有無をいわさぬ硬い核のような感触があり、(さすがだなあ)と思い、また勇気づけられもする。

 まずは冒頭、芸術選奨を受けた『カストロの尻』について。

金井 芸術選奨というのは、この間亡くなった朝丘雪路さんももらっていて、略歴を見ていると、朝丘さんはその後も勲章を二つもらっているんです。だから、勲章をもらうための第一歩らしいですね。芸術選奨の三十万円という賞金がいかに安いかってことを書いた「50年、30年、70歳、30万円」の載った「新潮」を、文化庁の役人に送っておくようにと新潮の人に言っておいたので、勲章とかを今後もらうことはないわけです(笑)。
野崎 まあ、役人がちゃんと読めば、の話ですけれど(笑)。ともあれ、今までも数々の金井作品があったなかで、『カストロの尻』が芸術選奨を取るというのは痛快ですね。とにかく「尻」にはびっくりしました。スタンダールの『カストロの尼』というのは、ロマンチックな、パッション溢れる傑作ですよ。「恋愛はすべてを許す、しかし身を引くことだけは許さない」という調子の絶対恋愛主義の極地です。金井さんも間違いなくお好きですよね。それが、ある男が「尼」を「尻」と読み違えてしまったことから、全く印象の異なるタイトルが生まれて……。でも、この男に僕は惚れましたね。(……)金井さんのエッセイで触れられているとおり、この『カストロの尻』でお取りになった芸術選奨は七十歳を超えると対象にならない賞なんですね。どういうわけで、あのような年齢制限があるんでしょう。百歳まで生きても驚かないという時代に、暗に小説家には七十歳での引退を促しているんでしょうか(笑)。
金井 七十すぎたら芸術院賞、芸術院会員、という階級制度があって文化勲章で死ぬ(笑)というシステムだからでしょう。ちなみに大岡昇平は『レイテ戦記』で芸術院賞を断っていますね。大岡さんみたいに大々的に言いふらさないのですけど、瀧口修造さんから芸術選奨を断ったという話を伺ったことがあります。断りたい、という気持ちも当然ありましたけど、話の種ね、もらおうかと(笑)。七十歳という決まりがあったし、私は五十周年ということで小説を出したわけだし、賞をもらったのが三十年ぶりで、賞金が三十万円、すぐに、「50年、30年、70歳、30万円」という語呂のいいタイトルを思いついて、このタイトルを思いついたのが嬉しかった。これが万一、野間文芸賞で三百万円なんてもらっていたら、タイトルに決まりがつかないですもんね。三十万っていうのが、いかにもみじめでいいですね(笑)。

溝口健二の失われた映画『血と霊』をめぐって。

金井 「『スタア誕生』」を書きながら『成瀬巳喜男の設計』を時々読み返したんです。同時期に『カストロの尻』の連作も書いていたんですけれど、「新潮」の二〇一五年九月号に、四方田犬彦さんが「大泉黒石表現主義の見果てぬ夢:幻の溝口健二『血と霊』の挫折」を書いていらして、なかなか刺激的な文章でした。(……)四方田さんの文章に「溝口健二研究家の佐相勉は、背景部にいた久保一雄と渡辺造酒三が担当した可能性が高いと推理している」と引用されている佐相勉さんの本というのが、『1923 溝口健二「血と霊」』(筑摩書房)なんです。けれど、佐相さんの文章を読めば、推理という消極的なものではなくて、(……)これには続きがあって、久保一雄の「映画美術」という雑誌に載った回想を引用して、この映画を撮った年に大震災がガラガラと来て、向島の日活の大道具の人に「てめえらが変なひん曲がったものを作ったからあんな地震が来たんだ」とよく言われていたという(笑)エピソードも引用しています。
野崎 無茶な言われようだなあ(笑)。
金井 朝鮮人が虐殺された震災だったわけですからね。無茶ですよね。四方田さんが引用している佐相勉さんの本は、『成瀬巳喜男の設計』の翌年に、同じリュミエール叢書から出ているんです。けれど、四方田さんはお読みになっていないようですね。
野崎 僕は今挙がった本は一応全部読んでいるんですけど、仰ったようなことはさっぱり覚えてないですね。本当に情けない。今、隣で拝見していて、金井さんがいろいろメモをお取りになっているもの、それから切り抜き、それから書物、これらをつなぎ合わせながらお話しになる、これはまさに「金井美恵子の現場」を目の当たりにしたようで、興奮しました。

 十四年続いた時評「目白雑録 ひびのあれこれ」の連載が終わったのはもう三年近く前のことで、ある種のメディア批評の性格を持っていたこの連載は、2011年の東日本大震災の頃から微妙にトーンが変わった。「メディア」というもの自体の構造も変わった。私はこの連載をゼロ年代時評の三本指に入ると思い、また相当にいろいろなことを教わったと思う(他の二本は殊能将之「memo」と山城むつみ「連続するコラム」)。そのことを忘れないように、ここに記しておくことにする。

 

文學界2018年9月号

文學界2018年9月号

 

 

山村正夫『断頭台』

 表題作を読んで、かつてスタンリイ・エリン『特別料理』の1982年版訳者(田中融二)あとがきにあった「よほどバカでもないかぎり二ページも読めば作者が何を書くつもりでいるのか見当がつくので、徹頭徹尾ムードで、読ませる作品」という言葉を想起した。そうか、これは山村版異色作家短篇集なのかなあ、と(その時点では)思った‬。
 ‪親本の帯に「異常心理の世界」とあるように、この本の短篇は概ねHOWよりもWHYに力点がある。発表は1959年から70年までだから、ほぼ1960年代で、いわば高度経済成長の、東京五輪大阪万博の時代。集中で「異常心理」を持つとされるのは、だいたい若者たちだ。この時期、社会状況において古いものと新しいものとが急激に移り変わりつつある対照が、作品のあちこちで見てとれる。大平洋戦争の記憶もまだ遠くはなく、しかし科学は進歩しつつあり、月に向かって有人ロケットだって飛んでいる……すなわちここでいう「異常心理」の正体とは実は、そうした状況における「いま生きているこの社会はどうもヤだ」という「息苦しさ」ではないか。そう見ることは可能なはずだ。
 今やこの作品群が書かれた1960年代も「ノスタルジア」の対象となっているが、しかしここでの彼ら若者たちは、だいぶ鬱屈している。どうすれば良く生きていけるのか。それがわからない。ある男主人公はこう嘆く。戦中世代なら自分も特攻隊にでもなれて目的に向かってパッと生命を燃焼できただろうが、今の生はまったくアヤフヤで手ごたえがない……。実は普遍的なその「心のスキマ」に(80年代のミュージックまではもうすぐだ)、フランス革命や古い打掛やマヤ文明や特攻隊といった、森村誠一いうところの「タイムスリップ」要素が、あるいは犯罪が入り込み、殺人として表現される‬。6篇に共通しているのは、このスタイルだ。
 こうした日常の「心のスキマ」に付け入る胡散臭いモノを、怪奇的な道具立てに用いる小説ないし物語は、この頃の流行りだったのだろうか。本書は狭義の「ミステリ」というよりも、SFやサタイアやホラーなどにもまたがった、「異色作家」や「トワイライト・ゾーン」や「異端作家ブーム」の流れにあるように見える。
 巻末対談では森村・山村とも、時代状況の変化による捜査方法のリアリズム描写の難化について苦慮しつつ、「心理」方面の探究の将来について、だいぶん期待しているように見える。しかし一口に「異常心理ミステリー」といっても、本書の短篇には差がある。たとえば表題作は、こういう設定を出せばもうこうとしか書けない、というたぐいのもので、実は「異常心理」について、他の短篇のようには必ずしも説明されていない。しかし、中盤の「短剣」や「天使」は違う。WHYの説明について、もっとフリーな領域に出ている(私にはこれらの真相は少々無理があるように見える)。
 この事態を最もわかりやすく説明するのは、最終話「暗い独房」だろう。少し詳しく記せば、この短篇の少年は、他人から干渉されるのがイヤだった。独りでいた方が心安らぐ。だから最終的に殺人を犯した。それを取り調べの刑事は、「実の母親が死んで愛情に飢えていたんだろ?」とわかりやすく「翻訳」しようとする。現在ならば「他人から干渉されるのがイヤ」という動機に容易に納得する読者も多いだろうが、作中現在の取り調べ室においてそれは通じない。それは「異常心理」であって、「異常」でない心理に翻訳せよ、と法の(つまり公的領域の)言葉は求めるのだ。それはいってみれば、「オマエのコトバは訛りがキツすぎて何をいっているのかわからない。もっとキチンとした標準語で喋ろ」という強要=暴力だ。ゆえに、ラストは必然的なものとして導かれてくる。
 こういうふうに考えてくれば、ここでの山村の作風はしごく「まっとう」だ。少なくとも、その三、四十年後にしばしば目についた、「さあ、ゲームの始まりです」と犯人に言わせることで「異常心理」を片付けようとした作り手の態度に比べれば(その「まっとう」さが逆に物足りない、という人もいるだろう)、これらの小説には「異常」なところなど、どこにもない。
 しかし、時間が経ってみれば、執筆時には「通常」だったかもしれない「心理」も、現在ではいささかフシギに見えてくるところはある。たとえば6篇中、自分を強姦した男に惚れる強姦された女が二人(2篇)、出てくる。これなど「そういうもの」として(たとえば「クロロホルムを嗅がされた人間はすぐ気絶する」とか「テニスボールを脇に挟んで寝たふりしておけば発見者は死体として扱ってくれる」ぐらいのいかにも昭和ミステリ的ローカルルールのイージーさで)さらっと流されているように見えるが、本当にそうなのだろうか。そこでスルーされているように見えるある心理にこそ、個人を超えた時代状況の「異常」さが、巨大な暗がりにわだかまってはいないだろうか。
 各篇の執筆時から約半世紀が経過した今、そんなようなことを感じさせられた。

 元版はカイガイ・ノベルス1977年刊、文庫版は角川書店1984年刊。
 収録作は
「断頭台」:「宝石」1959年2月。あるパッとしない俳優(元少年飛行兵としてラバウルの刑務所に二年収容され還ってきた)が、フランス革命の斬首刑執行人サンソンの役をあてがわれ、役柄に打ち込んだことからサンソンの人格が転移(?)し、現代と過去が融合してゆく話。過去のフランスと現代日本の場面転換がある(この辺はちょっとフレドリック・ブラウンの「さあ、きちがいになりなさい」を思わせる)。作中、日本の時間は「1963年」と初出時より未来の設定になっているんですが、これは元々そうだったんでしょうか(ここで読めます)。江戸川乱歩は「この作品は日常の現実は架空となり、架空の夢が現実となる転倒心理を描いている。私のいわゆる『うつし世は夢、夜の夢こそまこと』の系列に属するものであろうか」と評したという。しかし、サンソンの心理は描いても、俳優の心理はまったく描いていないところに、実はこの短編のミソがあるように思う。
「女雛」:ある地方に赴任してきた新聞記者が、男同士の心中を祀るべく建てられた比翼塚を訪ねたことから、十年以上前に起こったその事件に疑問を抱き調べ始める。歴史ミステリ+ワイダニットの形態。婚姻の夜に新郎が死ぬというと『本陣殺人事件』を想起するが、これは新郎が宴を抜け出して別の男と心中する、という謎。事件後、新婦を調査に訪ねると立ち小便をしていた、というような描写がなんとなく印象に残る。肝心のWHYはすぐ予想がつくけれど、それをなぜこんな事件にする必要が?という点はうまく説明されていないのではないか。「宝石」1963年3月。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1964年版』選出。
ノスタルジア:金ができると自然の中で野宿をする、というワイルドライフを送っているヒッピー風の男が、新薬実験用の犬を育てている人物の家に盗みに入り、なぜか古代マヤの骨笛を入手したことから、古代マヤの生贄男の生と交錯してしまう。現在と過去を交錯させる「断頭台」の方法のバリエーション(過去による侵入の契機として、あちらが役への没入なら、こちらはドラッグによる幻覚と謎の「骨笛」がキーになる)。しかしこうなるともう、骨笛が誘い出すトワイライト・ゾーン的フシギ現象の方が主に展開をリードしているので、「異常心理」的なWHYの理屈はほとんど描かれていない。大阪万博への言及有り。「推理文学」1970年10月。
「短剣」:母親の仇への復讐を誓う少年だったが、復讐相手は刑務所で死んでしまい……という話。過去を担うキーとなるのは、タイトル通り特攻隊に配られた短剣だが、こちらはWHYの方に主眼が置かれ、幻想は出てこない(ラストに匂わされる程度)。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1966年版』選出。1999年に映画化もされている
「天使」:文庫版で100頁に及ぶ、集中最も長い中篇。戦後、黒人米兵と日本人女性の間に生まれた混血児童を集めたキリスト教系孤児院の院長が殺害される。一点の曇りもない人物による理想的な院の光景(善)と、理想的に見えた院関係者の裏の顔(悪)は……という対比に神学的なドラマチックな効果を狙ったもの。きちんとフーダニットしています。ラストの「真相」は匂わされる程度だが、ドラマ的な対比の方を優先しすぎて、必ずしも説得されない(今ではこういうWHYは書けない)。「宝石」1962年5月。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1963年版』選出。
「暗い独房」:人の善意に堪えられない少年が殺人を犯すまでの心理を、取調室を舞台にして追う話。これは逆に心理の方はまったく現在にも通じる話だが、通じすぎて現在ではむしろ「通常」に感じられてしまう、という逆転現象が起こっている。「宝石」1960年3月。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1966年版』選出。
 以上六篇。こう見ると、山村の1960年代ベストともいえる代表作を集めた短篇集だが、まとまめられるのはけっこう時間がかかったんですね。

断頭台 (角川文庫 (5715))

断頭台 (角川文庫 (5715))