TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

柾木政宗『NO推理、NO探偵?』

【本書の趣向に触れている箇所があります】

 第53回メフィスト賞受賞作。
 読み始めればすぐにわかるが、本作はメタフィクションだ。2000年前後の一時期、メタフィクション(あるいはメタミステリ)が持ち上げられる傾向があったが、メタフィクションだから新しい、とか、メタフィクションだから過激、というわけでは今更勿論ないのは、誰もが知っている通り。メフィスト賞にはメタフィクションの系譜があり、例を挙げれば、清涼夷院流水『コズミック』、積木鏡介『歪んだ創世記』、真梨幸子『孤虫症』、深水黎一郎『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』などが連なる。『歪んだ創世記』『ウルチモ・トルッコ』において惜しかったのは、作品の性質上、メタ要素としてその作品が「新人賞応募作品」である必要はないということ。今回はその必要性に焦点を当てている点が目を引く。

 読み終えて、私の頭にはふと、サミュエル・ベケット作品が論じられる際のキーワードである「唱和」の世界という言葉が浮かんだ。
 先日、堀江貴文『多動力』という本に触れたが、これはNewspicks Booksというシリーズの一巻で、その著者と編集方針にはある共通性がある。私の理解する限りでのその一点をひとくちでいえば、それは共同作業の称揚ということにある。これまでの出版物の単著というものはだいたい、著者と編集者の人格が一対一で、つまり二人三脚で作られていた。しかし我々は、いやこれからはそうではない。執筆も編集も販売も複数人によるチームの作業で行なって良い。つまり人格の多核化。同シリーズの一巻である西野亮廣『革命のファンファーレ』ではそれをこういう。自作である絵本『えんとつ町のプペル』執筆時、なぜ絵本(絵と文)を一人で作らなければならないのかと思いあたった。たとえば映画を一人で作ることはほとんどない。映画を作るようにして絵本を作ればいいのではないか(そこでクラウドファンディングやオンラインサロンの話になる)。進行状況を共有する範囲を従来よりも広めて、それまでの消費者を共犯者として巻き込んでしまえば良い、共犯者は多ければ多いほど、応援者になってくれる、……云々。
 私は別に回し者(しかしこの「回し者」という言葉を使うのもずいぶん久しぶりだ……唱和ならぬ昭和の感じがする)ではないからここらでやめる。何がいいたいかといえば、私はこの「唱和」と「共同作業」という概念を併置した上で(元の意味からはズラした上で)、この『NO推理、NO探偵?』を眺めてみたいということだ。
 本作のアイデアは基本的に、「新人賞を受賞させてくれという土下座を作中で行なう」というものだ。しかし作者個人がそうしたことをいっても通常は何の効果もない(それは作品の価値に何ら関係がないから)。しかし本作が特異なのは(普通やらねえだろ! と思われるのは)メタフィクションの要素を用いて、終盤のある一点において土下座をするところだ。それも、作品世界「で」土下座をするのではない。作品世界「が」土下座するように作られている。つまり単なる作者個人ではなく、終盤まで読み進めてきた読者(編集部)が登場人物たちに多少なりとも情がうつってきた上で、その登場人物たちが土下座(さっきから連呼してますが比喩です)するのだ。
 そしてそこには、あの走馬灯効果が働いている。走馬灯効果とはある一時点の回想において、過去のあれこれが奔流のようにして一挙になだれこむことで人の感動を喚起するという現象で、日常的には卒業アルバムや結婚式の手紙朗読などで用いられる。ミステリにおける連作短編集が引き起こすオドロキ(別個の事件だと思われていた数々が実は長編としてつながっていた)も同様の効果である。つまり本作が用いているのは、連作短編集として最終話に長編化するのみならず、無関係と思われていた人物までもが再登場してこちら(編集部)を向き、土下座する(くりかえしますが比喩です)、連作短編集×唱和という二重の走馬灯効果だ。

 思えば、新人賞応募作品がメタフィクションの仕掛けを用いて選考者に目配せを行うことは、これまでにもいくつかあった。講談社の小説でいえば、たとえば阿部和重アメリカの影』には、映画評論家のH(蓮實重彦)は頑張っているというフレーズがあり、その時の群像新人賞の選考委員は蓮實に近い柄谷行人後藤明生だった。中井英夫の『虚無への供物』も乱歩賞に送られたものだが、乱歩への言及があり、落選したにもかかわらず二倍に加筆して刊行された。こうした目配せはふつう、イヤらしい媚びになってしまい、選考者を「共犯者」化させるところまではなかなかいかない。それを土下座にまでエクストリーム化したところにこの小説の賭があった。
 すぐれた小説は、必ずしも一人のみからは生み出されない。『虚無へ供物』の完成には洞爺丸事故や尾崎左永子の存在が不可欠だった。関西弁監修を塚本邦雄に頼んだり、ファッション監修を尾崎に頼んだりといった「共同作業」も私は、その一つだと思う。

 もう一つ、「メタ発言」について思うところを述べる。メタフィクションには幾つかの種類があり、作中作を扱うタイプもあれば、作中人物が作品世界がフィクションであると認識している発言を行うというタイプもある。本作は後者だ。ところでこうした「メタ発言」は、ふつう小説にはあまりない。ゆえに、「お約束」への「おちょくり」というかたちをとりがちであり、多ければ多いほど読み手はたいてい冷めてしまう。『三つの棺』の「メタ発言」は、作品の流れとはなんの関係もないにもかかわらず、なぜこれほどまでに言及されるのか。それはまさに、その少なさゆえに他ならない。実にさりげなく、一度だけ言及されるからこそ、かえって印象に残る。それは調味料のようなものだ。どれほど上等のネタでも、鮪を醤油抜きで食べ続けるのはなかなかつらい。少々の醤油があってこそネタの味が引き立つ。しかし、度を過ぎてベトベトにしてしまっては台無しだ。
 本作はどうか。構えとして、『三つの棺』のような少量タイプではない。むしろ出ずっぱりであり、「メタ発言」こそがメインであるといっていい。それはコントよりも漫才に近い。コント(フィクション)において客席の存在は作中世界に組み込まれていないが、漫才においては、客席への語りかけという構えをとるのが普通だ。本作の「メタ発言」は聞き手への語りかけに、先の「土下座」は客いじりにあたる。コントと漫才半々という演目スタイルがあるが、そういう感じだと捉えれば、本作への評価としてそう外してはないと思う。考えてみれば、完全コントにおいては作り込まれたセットがその虚構性を掻き立てるが、半コントにおいてはセットはむしろ邪魔になる。言葉と所作のみによって架空の情景を造っては壊し造っては壊しという激しい切り替わりが必要になるからだ。そう思えば、描写される作中世界の書き割りのペラペラさも、半コント半漫才というスタイルが要請するものなのだろう。
 
 そろそろ締めくくりにかかる。本作には核となるアイデアが二つある。「NO推理」と「メタフィクション」がそれだ。しかし、実はその二つはうまく連携していない。私の感触としては、最終的に「メタフィクション」の方に振ったために、せっかくの「NO推理」というアイデアが、十全に開花されないままに終わってしまったのではないかという気持ちがある。一篇のミステリを成立させるには様々な要素(パラメータ)があって、これを着脱可能な構成要素と見なす実験はすでに、たとえば麻耶雄嵩がこの十年ほど行なってきた。『貴族探偵』二冊や『さよなら神様』『化石少女』『あぶない叔父さん』で示されてきたのは、ある要素をゼロにしてなおかつミステリとして成立させるならどうなるのか?という実験だった。それはバンドがある縛りを設けてコンセプト・アルバムを創るような、あるいはギターレスなりベースレスなりボーカルレスなりドラムレスなりノーエフェクトノーダビングなりで一作を構成してみようという発想に近いものだといっていい。
 ひとくちに「推理」といっても、そこには、事件の探究という理論的・抽象的側面と、それを作中で演説するという物理的・具体的側面の二面がある。つまり、「考えること」+「話すこと」=「推理」だ。それを無くすと一体どうなるのか? この発想はすばらしい。「名探偵が推理を演説する」という行為の本質的要素とは何か。その一つは、語り手として聞き手を説得させるということだ。声(言葉)によって風景が塗り替わる。そこに全ての「推理」の醍醐味がある。助手役の語り手・ユウは冒頭、探偵役のアイの演説(話すこと)が長時間にわたるあまり、聴衆である容疑者たちが退屈している様子を見て、「推理って、別にいらなくない?」という疑問を持つ。ここに罠がある。「考えること」と「話すこと」は別だからだ(それは名探偵コナン麻耶雄嵩の諸作を読んでもわかる)。考え上手+話し下手なら、ふつう、考え上手+話し上手というふうに目指すだろうところを、ユウは考え無し+話し無し=推理無しという思い切った発案をする(そこへ都合よく催眠術の得意な犯人が現われ、アイをNO推理状態に陥れる)。しかし、そこに一度きりしか使えない「メタフィクション」という要素を先の半コント・半漫才スタイルでとりこんだがために、中途半端になったのではないか。具体的にいえば、ユウは「日常の謎」とか「旅情ミステリ」とかいったジャンルへの「擬態」を提案するのだが、なぜそのように急に提案するのか、読者は「説得」されない。NO推理とはNO説得なのだ。
 思うに、ここには先行世代への反発がある。一昔前、「推理」の弱体化を示すと思われた作品群を笠井潔がすでに「脱格系」と呼んだ。「格」とはいわば、芸事における「型」であって、その習得は一朝一夕でできるものではない。そうした型=伝統を権威的・体育会系的なものと見做して、「持たざる者」としてのパンク的な行き方があった。これは私の考えでは、語の正しい意味における反知性主義(Anti-intellectualism)的反発だったと思う。その時期も過ぎ、「脱格」と呼ばれた作家も生き残っている人はそれなりに自分なりの方法を育ててきた。今後も「推理」の全体的な弱体化(というか、拡散化)は進みこそすれ、かつての「新本格ムーヴメント」ほど強化はしていかないのではないかと思う。
 話を戻すと。ユウはきちっとした説得をしないので、なんとなくなあなあで話は進んでいく。そこには「日常の謎」とか「エロミス」とかいった(サブ)ジャンルを根底的におちょくってやろうというようなラディカルさは当然、ないし、「あ、ちょっと軒先お借りしてます」と単に乗っかる感じ(殊能将之ならそうはしなかっただろう)。推理が無いので、真相は「向こうからやってくる」というか、「こちらから当たりに行く」というか、そういう「身体」を使った「体当たり」的展開になる。つまり、第四話までで身体=100、頭脳=0というパラメータにしておいて、最終話「安楽椅子探偵っぽいやつ」で身体=0、頭脳=100という振り分け方をして、その対比(ギャップ)によって読後感を良いものにしようという方法になる(雨の日のヤンキー子犬理論)。最終話には「読者への挑戦」も挿入され、いざ「推理」の解放へ、という展開になるのだが、この「推理」が思うに、きちっとしていない。全ての事件は解決済みなので、「後から思えば」という、既に結果の出た「事後」の蓋然性の積み重ねであって、解決前の「事前」にこれらのことごとが推理できたかというと、かなり無理がある、というか、「その時点でその可能性まで推理しきるのは無理でしょう」という推論があまりにも多い(最後に付け加えていえば、「メタ」という用語の使い方において、一部誤用あると思うし、また解決編に問題編の伏線部分の頁数を示すというのも、倉阪鬼一郎サン他に作例があると思います)。

 くりかえせば、本作のメタフィクション趣向は一度きりのものだ。一方で、「NO推理」という趣向はまだ完全に試されきっていない。催眠術師との対決も終わっていないし、「NO推理」の命脈はきっとまだ絶たれてない。

 著者の今後の飛躍を祈願します。

 

NO推理、NO探偵? (講談社ノベルス)

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