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襤褸は着ててもロックンロール

ウィリアム・ギャディス『カーペンターズ・ゴシック』

 ウィリアム・ギャディスカーペンターズ・ゴシック』(木原善彦訳、本の友社、2000)。この小説の邦訳書がほしいなあと思いながら数年探してもまったく手に入らないので、しょうがないから図書館で借りて読んだ。といっても、どういう内容だか事前には全然知らなかった。まず訳者あとがきを見ると、現代アメリカ社会の病的な姿云々というような文言がある。難解で辛気臭い話なのかな……と思ったら、その懸念は見事に裏切られた。
 ウィリアム・ギャディス (William Gaddis, 1922-1998)の40年以上におよぶ小説家としてのキャリアにおいて、長篇は5作しかない。本書は3作目で、しかも一番短い小説らしい。英語圏では巨匠とされているようだけれども日本では訳書がこれ一冊しかない。だから今後紹介が更に進んでほしいと思うけれど、最もコンパクトな本書でさえ相当重量級のカロリーが詰め込まれているのは明々白々であるから、そう簡単にはいかないだろうなとも思う(でも他のもぜひ読んでみたいです)。
 この小説は一度で全部を把握しようとさえしなければ、割合スラスラ読めると思う。というのは、舞台はある夫婦が住む一軒の家に限られ、そこで一カ月近くの昼夜、十人足らずの男女が繰り広げる会話劇がテクストの大半を占めるからだ。シーンが変わる毎に、そこへ微細な風景描写が挟まれる。会話の内容はおおよそ世俗的で下世話な――つまり金銭にまつわるもので、ある種の共感(そうそうお金ってなんでこんなに入るのは少ないのに周囲からは細々と請求されてしかもそれがそれなりの説得力をもって迫ってきて結局は渋々支払わざるをえなくてでもなんとなく綱渡り状態で生活は続いていかないこともないんだよね、というような)さえ覚えることができる。では何が難解なのかというと、この会話に企業や人物といった固有名がいっぱい出てきてそれが複雑に絡み合ったネットワークを成しているからだ。
 主な登場人物である妻(エリザベス/リズ/ビブ)はある時、飛行機事故で身体を悪くした。航空会社に対する裁判が控えていて、自分側の医者と会社側の医者双方に診断を受けなければならず、でもこの医者どもが実にいい加減で妻は延々とたらい回しにされ、その都度細々と金額を請求されている。夫(ポール)はあるユード牧師という人物を政界進出させ自分はその選挙参謀におさまろうとしていて普段から各地を飛び回っており、そのために金が必要だからなんとか賠償金をふんだくりたい。前半で繰り広げられるのはこの夫婦の金銭をめぐるすれ違いにすれ違った会話という言語ゲームだ。金銭の支払いについて、あるいは家の中のルールについて、二人は常に言い争っている。相手を説得したい。言い負かしたい。支配したい。料理しながら。飲酒しながら。書類を整理しながら。愛撫しながら。長く延々と続くテニスのようなこのディベート合戦において面白いのは、相手の急所を突いたと思いきやそれが打ち返され、さらに打ち返して決まった相手に対するその勝利が現状改善のなんら役に立たず、かえって生活の無慙さをあらわにする瞬間だ。

 ――ねえ、窓を掃除しろって言うから、あの人が。窓はちゃんと掃除してある! 人は一生懸命働いて、それに対して私たちは報酬を払うのよ。あの人たちには、労働力しか売るものがないの、だから、私たちは引き換えに報酬を払う。払わなければあの人たちは。私たちが自分でするしかない。前と全然変わらないって言うのなら、自分で掃除すれば!
 ――いや、おい、待てよ、リズ、聞け……
 ――いえ、あなたこそ聞いてよ! 九百ドル、あの墓の中の、石の入ったあなたの箱、あんなの墓に入れといた方がいいわ。ほら、そっちの、手に持ってるもう一枚の方の請求書、二百六十ドルの花? 何の花、どこ? 半日かかって窓を掃除してる人間がいるのに、花束に二百六十ドル?
 ――いったいお前どうした、リズ……ゆっくりと擦り切れたラブシートに座り、苛立ちを押さえて膝に乗せた靴は、磨いて房をつけることで上品さを模倣していた。――ちゃんと見たのか? 請求書を開いて、広げて見せたその顔は履物と同じ程度には真に迫っていた。――誰に贈ったか見た? セティー・ティーケルって?
 ――私、いえ、私……
 ――話す時間がなかったけど、お前の名前で贈った。話す時間がなかったんだ……そして、安物の新しい靴と同じ程度に心を込めて女を見つめ、女が息を整え、厚めに輪郭を描いた唇をさらに引き締めるのを見て――お前が心配してることを伝えたがってるんじゃないかと思って……。
 ――いえ、ポール、ごめんなさい、(……)
 ――ときどき、お前は俺より優位に立とうとするよな、リズ。

 セティーというのは有力者の娘でリズの友人。現在、遠く離れた場所で意識不明の重体で入院している。夫のヤロー、清掃業者への支払いにはうだうだ言うくせに花束なんかに260ドルも使いやがって、と憤っていたら自分の親友に対する心遣いだったのでエリザベスはトーンダウンするのだが、後でこれがウソだったことが判る。

 ――同じ、リズ、同じこと、結論に飛びつく。お前があの花屋に電話をかけたりしなけりゃ……
 ――私じゃない、向こうがこっちに電話してきたのよ! 白いカーネーションで作った、百八十センチもある十字架の請求書のことで、電話してきたのよ。セティーに贈った花。そんな変なもの想像もできないって言ったら、カードを添えて贈りましたって。ユード牧師の心からの何とか、キリストのはらわたの中の何とか、吐き気がした、何もかも本当に吐き気がした。
 ――おい、お前からの花束ってことになってなかったのは悪かったって謝っただろ、きっと花屋が注文を間違えたんだ、花屋が……
 ――ああ、良かった、私が贈ったことになってなくて。私の名前で花を贈ったって言ってたわよね、あの、ぞっとする花、まるで葬式みたいな花。どうしてあんな嘘。ティーケル上院議員と手を組むんなら、あんなことしないで、どうしてそう言わないの。セティーを利用しないで。

 実はリズの名前で花を贈ったというのはウソで、それも選挙活動に利用していたのだ。これにはリズも激おこ(当たり前だ)。

 リズは大会社の元社長の娘だ。父親は不審死を遂げ、どうもそこには陰謀が絡んでいるらしい。遺産はあるんだかないんだかよくわからないがとりあえず管理者が仕切っていて自由に使えないことは間違いない。二人姉弟で弟(ビリー)がいるのだが、彼もなんだかフラフラしていてしょっちゅう姉のもとへ金をせびりにくる。ヒロインにたかっているという意味では似た者同士である夫はそれをよく思っていないから、そのことでもまたなんだかんだと三人の間で言い争いが起きる。
 私は舞台の基本構造について、アラン・ロブ=グリエの『嫉妬』をちょっと思い出した。ある家の内部をずうっと眺めている視線。ただ『嫉妬』においてはそこに心情が絡んで、時間と空間が区別のつかないままに混沌たる心象風景として延々と記述されるのだとすれば、本作はいってみれば、読者にとって舞台劇を眺めているような明快さがある。固定アングルが捉えた映像と会話という、「描写」のみですべてが成り立っているからだ(ここに語り手の心象風景や幻覚が入り混じってくるとヤヤコしくなるのだが、そういう心配はない)。ただそこで繰り広げられる会話の内容は相当複雑なので、あれこれと想像して自分で補足しなければならない。
 おおシャーデンフロイデ。他人の不幸は蜜の味。なるほど、これは確かに手のこんだ「現代批判」だ……。前半でそう納得しかけていた私は、後半部を読んでさらに驚いた。
 夫婦の住む家は借家で、不在がちの大家(マッキャンドレス)は謎の人物だ。何かヤバイことをやって誰かに追われているような気配もする(大家に帰ってこれないヤバイ事情があるとしたら家賃払わなくてよくね? それってラッキーじゃね? と夫はゲスな推測をする)。その彼がある日とつぜん現われる。そしてあっという間にリズと一夜を共にする。このさりげなさは思わず見逃しそうなほどあまりにも呆気なくて驚くのだが(大家が姿を現わして知り合いと喋り終わったと思ったら場面が変わってもうベッドの上にいる、というぐあい)、このセクシーシーンはなんともすばらしい。
 ギャディスの前作『JR』を日本で最も激賞した一人であられる殊能将之先生は、小説というものにおけるセクシーシーンの書き方には一家言あって、マンディアルグの『満潮』についてかつてこう書かれていた。……と思って、「memo」「reading」を検索してみたのだが、全然引っかからない。えーっと、私の覚え違いだろうか? twitterを探すと近い言葉を仰られていたけれど……。

  つまり、高尚めかしたエロは虻蜂取らずでダサい。エロならエロに徹したほうがかっこいい。ということですね。
 ところが、『カーペンターズ・ゴシック』のエロはエロに徹していないのになんとなく心地良い。ずっと読んでいたいような気持ちになる。

男は女を引き倒し、自分の横に真っ直ぐに寝かせて――いえ、いえ、違います、女の背中をたどっているその手と同様に、男の声は穏やかで、それもまた永遠のナンセンスの一つにすぎないんです、すべてのナンセンスは、復活と、輪廻と、天国と、カルマと、そういうタワゴトから来てるんです。――すべて、恐れなんですよ、と言って――考えてみてください、この国の四分の三の国民が本当に信じてるんです、イエスは天国で生きてるって。そして三分の二の国民が、イエスは永遠の生命へのチケットだと信じてる。指先が、息のように軽く、割れ目のてっぺんの周囲を囲むように進み、その縁をたどりながら下り、存在しなくなるって考えただけでパニックを起こしてしまうから、生まれ変わったときには同じモルモン教徒の妻と家族に再会するとか、審判の日に皆が集まるとか、大イマームシーア派の最高指導者)と共に戻ってくるとか、チベットのどこかの掃き溜めで両親を選んでダライ・ラマとしてこの世に戻るとか、何になってもいいから戻ってくること――犬でも、蚊でも、二度と戻ってこないよりましだから。どっちを向いても、同じパニック。どんなものでもいい。夜をやり過ごすだめの、狂った作り話。そして、現実離れしてればしてるほど好都合。人生で絶対に避けることのできない唯一の問題を避けられるものならなんでもいい――指が探るように割れ目の縁をたどり、その下へ、さらに深く、絶望的な作り話です、不滅の霊魂だとか、いまいましい赤ん坊たちが生んでもらうために、生まれ変わるために、押しかけてくるとか、湿り気を帯びた手の幅まで割れ目を広げ――生まれ変わるためならコンドルに生まれ変わりたい、昔、フォークナーがそう言ったそうです。コンドルなら、憎まれもせず、望まれもせず、必要ともされず、妬まれもせず……
 ――あ! 女は身を引き離して、恨みがましいことを言われた肘をついて再び起き――フォークナーはたくさん読んだ?(……)
 ――その、交尾してるところを見たことある? バッタとか、カマキリとか、なにかそういうの。とても、とても、精妙な……女の指先は骨をなぞり――素敵な足首、毛が生えてなくて、きれいで、すべすべして、ずっとこっちの方まで……ふくらはぎを越えて、まさぐりながら膝を過ぎ、さらに上の方へ、男の上に乗り、女の指に大事そうに包まれた陰毛の盛り上がりは、取り囲まれた中で膨らみ――以前、テレビで見たの、とても、とても、エレガント……上がったり下がったり、下がったり上がったりする女の手は、木の葉に遮られながら女の肩口から登り女が体を下げると下りてくる日の光のように、上がったり、下がったり、女の指先はたけり狂っている亀頭の裂け目まで膨れ上がった血管をなぞり、その先では女の舌が光るビーズ細工のような細い線を引いて、そこに女の肩越しに差してくる陽光が当たり、ふと止まって、焦点を合わせているかのようにそれを離して持ち――これ何……そして――これ何……そして、舌の先で、爪の先で――ほら、ここのところ、小さなかさぶたができてたみたい……
 ――そう見えるんなら、そうなんでしょう! もう、何だろうと知ったことじゃありません。戦争のときの傷ですよ、板切れにピンで留められたバッタみたいな格好をさせられて、これは何かしら、あれは何かしら、いちいち体を調べて……

 こういう調子で20頁近く続く。このシーンが読んでいて気持ちがいいのは、地の文と台詞に区別がない手法もさることながら、会話の内容、記憶と現在、映像と音声がさまざまなレベルでアナーキーに解け合っているからだと思う。しかしここを読んで驚くのは、夫によれば、リズは飛行機事故のせいで「夫婦の儀式」が遂行できなくなった(から航空会社はそのぶん賠償せよ)という扱いにそれまでおかれていたからだ。この場面には、浮世のヤヤコしくてメンドーな話がひたすら綴られていた作中にあって稀なオアシスのような晴れやかさがある。いや、それだけではない。その朝は、リズの人生の全時間においても、最も幸福な時間だったのだ(と、後で判る)。だから、そこへとつぜん弟が闖入者としてやってき、その光に満ちた静謐な朝をぶち壊す時、あるいは後日、大家が再びやってきてしかし今度は口論となり、その朝の記憶さえもが冴えない色に塗り替えられてしまう時、それは現代小説としては当然の流れ(特権的な存在など何もない)でもあるのだが、かえってこの場面の幸福な印象は強まる。
 一篇の圧巻をなすのは、クライマックスでのリズとマッキャンドレスの口論シーンだ。読者はここで、どうもこれまで断片的に読んできた世間話がすべて繋がっていて実に壮大かつ周到な陰謀をなしているらしいことを窺い知る。ここでのディベート合戦は、推理小説における探偵の長広舌にあたるといってよく、もちろん本作においては全ての謎解きがいっぺんに行われるのではなく数々の伏線がそのまま放置されるのだとしても、語りのテンションとしては類まれな熱量がこもっている。対話のキーの一つとなるのは、アメリカの宗教と政治(たとえばサムシング・グレート教育)だ。大家の本職は地質学者で、かつてある本のために教科書的記述を用いた原稿を書いた。ところが今や進化論は州の科学教育から排除されようとしており、代わりにアホーな宗教的説明が採用されつつある。彼は諦念を抱き、ニヒリスティックな立場から大衆批判を繰り広げる。ところが、リズはそんな彼の立場をも痛烈かつドラスティックに批判するのだ。この時、わずか数日前には出会って数時間で熱烈な一夜を共にした二人が、まるで全地球の運命が今この時に懸かっているかのようなカタストロフ的ディベート泥仕合を繰り広げているその展開に震撼とさせられる。
 ディベートが終わって大家は去る。そして――あまりにも無情な展開。と思いきや振り下ろされる、いきなりのフィニッシングストローク。これには驚かされる。ええっ? いやいや、いったい、何が起こっているのか……。

 こうしたパズルの複雑さと風俗小説的推進力のタフさを併せ持つところが、ウィリアム・ギャディスの面白さなのかなあと思いました。
 というわけでオススメです。

『JR』が訳されたらみんなで買いましょう。