立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

宿野かほる『ルビンの壺が割れた』(書籍版)を読んだ話

宿野かほる『ルビンの壺が割れた』の書籍版が出ていたので、読んでみました。内容についての感想は、キャンペーン版から特に変わらないのですが……。

新潮社は「波」というPR誌を毎月発行していて、そこに今月号(2017年9月号)は、

[宿野かほる『ルビンの壺が割れた』刊行記念特集]
村上貴史/刺激に満ちた破格のデビュー作
[公開往復書簡]
宿野かほる×担当編集者/覆面デビュー、なぜですか?

の二篇が、PRとして掲載されています。このうち、「公開往復書簡」の方は、ウェブ上でも読むことができます

しかし……。

私はこのインタビューを読んで、ヘナヘナと腰が砕けてしまいました。というのは、作者自身が、この小説の価値を的確に理解していたからです。

〈遊び半分で書いたのが、この作品です〉
〈原稿を読んだ友人たちは面白がってくれ、「新人賞に応募してみたら」と勧めてくれましたが、わたし自身は、そんなレベルの原稿ではないと思っていました〉
〈ミステリー風ですが、ミステリーではないし、ホラーの要素はあるものの、ホラー小説でもありません。一般的なエンタメ小説の枠からも大きく外れています。それで、応募する新人賞を見つけられなかったのです。そもそも新人賞などという厳しいレースを勝ち抜ける作品とは微塵も思っていませんでした〉

〈「本にしたい」と言っていただいた時も、最初はお断りしました〉

ええっ! この個所を読んだ時、私は驚きました。確か版元のキャンペーンの文章では、次のように書かれていたからです。

 読者のみなさまへ
ここに公開するのは、ある日突然送られてきた、まったく名前の知られていない著者による、刊行前の小説です。

編集部に「ある日突然送」ったのは、「まったく名前の知られていない著者」自身じゃなかったの? 

どうやって御社に原稿が渡ったのか、ということについて細かく言うと、わたしや友人たちのことを詳しくご説明しなければいけなくなってしまうので、それについてはここでは差し控えさせてください。申し訳ありません。

ここを読むと、「友人」の一人からなんとなく編集部に伝わった、くらいに読めてしまう……。まさかそんなところにトリックがあったとは!いやあ、すっかり騙されてしまいました。

ではなぜ、作者はこの小説を刊行しようと思ったのでしょうか。

何度も作品を褒められるうち、「ブタもおだてりゃ木に登る」という言葉がありますように、愚かにもわたしもまたブタのようにその気になってしまいました(Nさんの上手な誉め言葉のせいということにしたいです)。

私はこのインタビューを読んで、小説を読む時の基体、ということを考えました。

ふつう、作者がなんらかの意味で、マジメに書いたと思うからこそ、読者としての私も、マジメに(少なくともつもりとしては)読み、何か意見があったら、それを真摯に述べる、でも、〈遊び半分〉といわれると、どうもマジメに読もうという気分が、乗ってこない。私がマジメにボールを投げても、それを受け止める基体が、存在しない、と思われるからです。

たとえば、ネコがキーボードの上を歩いて、文章ができた。偶然(まぐれ)によるその言葉が、面白かった、と、私が賞賛することは、できます。でも、それがつまらなかったからといって、ネコに、「さっきの文章、いまいちだったよ」ということは、できないのです。つまり、マジメに書かれていない作品というのは、勝手に賞賛を送ることはできても、批判を受け止める基体が、存在しない。

もちろん、実の作者と、バーチャルなモデルとして仮構される作者像は、違う。でも、作品に対する評価は、私と実の作者とで、おおむね一致しているのです。それは、単価1000円の本が、たとえば5万部売れたとして、10%の印税(一説によれば新潮社の場合書き下ろしは12%)で考えれば500万円前後に、〈遊び半分〉が化けるとしたら、たいていの人は、悪い気はしないでしょう。「あえてやってるんだよ」といわれれば、それまで。では私は、どこに向かってボールを投げればいいのだろう。「担当編集N」氏でしょうか。でもそれこそ、輪をかけて、のれんに腕押し、というもの。

こう考えてきて、私は、なんとなく、この作者の方は、それでも、こうしたボールを受け止めようとするだけの感覚を、お持ちなのではないかという、気がするのです。それは、インタビューにおける関係者への気配り、だとか、書籍版で改変されたあの最後の一行(あれは完全に蛇足だと思うのですが、ドライに徹しきれずにイヤミス的完成度を低めてでも勧善懲悪にヌルめて世情を落ち着かせようというところに、どこか人の良さを感じてしまう……)だとかから、わずかに感じ取るのです。もし、そうした感覚をお持ちだとすれば、先に申し上げた、〈遊び半分〉に書かれた作品は、批判も受け止めきれない代わりに、賞賛も本当には、受け止めきれない、ということ、つまり、これだけの賞賛を受け止める基体が、実は自分にはなく、ただ虚しく身体を通り過ぎてゆく、ということにも、いずれ、気づかれるのではないかと思うのです。人気が出たら第二作がどうこうという話は、私にはどうでもいいのですが、もし、作者がこの「虚しさ」を受け止め、はかされた下駄を自ら脱ぐ時がくるならば、その時、〈遊び半分〉だった「宿野かほる」という人格は、真に、小説家としての基体を獲得することになるでしょう。

ところで、キャンペーンが終わったいま、版元が用意していた呼びかけ文は、サイトから消えてしまいました。これは梯子を外された感じで、もし何も知らず、この小説を読んだ読者が、半年後、一年後、この先いたとしたら、いったいどのようにこれらの賞賛の言葉が集まることになったのか、不思議に思われるのではないかと思います。

そこで、その読者の理解の一助のため、魚拓へのリンクを貼り、以下、発売前PR時の文言を、もし、検索でここまでたどりたいた方がいらしたら、という場合を想定して、引用させていただきます。

《担当編集者からお願い》
「すごい小説」刊行します。
キャッチコピーを代わりに書いてください!

読者のみなさまへ
ここに公開するのは、ある日突然送られてきた、まったく名前の知られていない著者による、刊行前の小説です。
ものすごく面白く、そして、ものすごく奇怪な小説でした。
あまりにすごいので、私はいまだ、この作品にふさわしいコピーを書けずにいます。
よろしければ、この小説をお読みいただき、すごいコピーを書いていただけませんか。
(ただし結末は絶対に明かさないでください)
なお、以下からお読みいただける〈キャンペーン版〉は、2017年8月22日に刊行予定の本を2週間限定で事前公開するものです。
よって、まだ修正途中の原稿であり、2週間が経つと消えてしまうものであることをご了承ください。
詳しいキャンペーン案内はこの小説本文の後に付しました。
まずは、この稀有な小説を、ぜひお楽しみください。
そして、みなさまのご応募を、心よりお待ちしております。
担当編集者 拝

〈ご注意〉本作品の全部または一部を、無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。

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社内でも驚嘆の声続々

小説にKO(ノックアウト)されるとは、まさにこの作品のことである。
オリエント急行(殺人事件)クラスの衝撃!!
少なくとも年に100冊は小説を読みますが、ここ5年で最も驚かされた作品。

この夏、新潮社が総力を挙げてお届けする、全く新人の匿名作家の小説です。まあ、騙されたと思って、読んでみてください。必ずや、あなたは騙されるでしょう。でも、“振り込め詐欺”とは違って、損をさせないどころか、騙される読書の快感をタップリと味わえること保証します。
冒頭は宮本輝氏の名作『錦繍』を彷彿とさせる大人の男女のやりとりに胸がドキドキ。
そのうちに奇妙にうねりだす読み味に、ページを繰る手が止まらなくなり、最後には、ただただ絶句……。
たとえこれが他社本でも、間違いなくお薦めしますね。絶対に読み逃さないでください。
読んだ人にしかわからない、この衝撃体験を共に語り合いたいです!

なんの予備知識もなくこの物語を読めたのは、本当に幸せだった。この作品に関しては、どんな些細な一言も、何らかの先入観になり兼ねない。迷っているなら、今すぐページを繰るべきだ。決して損はさせないから。
これから、まっさらな状態でこの作品を読めるなんて、本当に羨ましくて仕方ない。

担当編集者に薦められ、ついゲラに目を通したら一気読み! 短い中にこれでもかというぐらい何度も予想を裏切る展開が繰り返され、読了後はしばしボー然。このとてつもない読後感を誰かと共有したく、すぐに席で声を挙げました。「お~い、これ誰読んだ~?」

「話が違う!」という言葉が、いい意味で口をついて出たのは、50年生きてきて初めての体験でした。あらすじはおろかジャンルも、未読の人に絶対に「言ってはいけない本」です。

まさに一気読み!! ページを繰るごとに妖しさを増す書簡の応酬に本を閉じられない!!
大満足の読書体験をお約束します。この作品、売れる予感しかしない!!

圧倒的に読みやすく、それでいて超面白い!!
人の秘密を垣間見ているようなスリリングな読書体験に、読みながらドキドキとワクワクがとまりませんでした。「とにかく読んでみて!」と人に薦めたくなる小説です。

シンプルなプロットなのに、オセロの石がぱたぱたとひっくり返っていくようなどんでん返しの連続に瞠目。さらに……ラストまでいくと、まったく新しい貌が立ち上がってきます。
読み終わった人と、この本について語り合いたい! そんな思いにかられるミステリーでした。

人間はどこまで「化けの皮」をかぶれるのだろう。
身の毛がよだち、悪寒が走る戦慄の仮面(ペルソナ)小説。

男女ふたりのメールの秘密は、ミステリーを800冊以上(たぶん)所蔵している私の、どの書棚にも分類不可能なものでした。秘密が明かされていく過程で、自分史上MAXの興奮を味わいました。

一気に読みました!
「ルビンの壺」の絵を見たときのような「図」と「地」の関係性の変化にドキドキしました。
読後に誰かと語り合いたくなること間違いなしです!

SNS空間で繰り広げられる、男女の世界。
かつての恋人と、SNSでつながってしまうと、こんなことになるのか……
賭博黙示録カイジ』を彷彿とさせるような展開に、「エライもん読んでしまった!」という読後感です。

心臓に悪い小説です。昔の恋愛を回想追憶する手の小説かと思いきや、「?」と「!」が交互に津波のように押し寄せてきて、頭はフル回転で熱くなり、背筋はどんどん冷たくなって終いに全身フリーズ状態。
……読んでください。驚きます。

こういうおもしろさの小説をどうやって読者に届けるか――。出版社の腕を試される1冊になる……と身震いしています。

こんなにも期待を抱かせる小説に巡り合えること。これこそ、小説を売る仕事の醍醐味でしょう! 読み終えた直後から、この本が話題になっていく未来が目に浮かぶ! あーもう、ワクワクが止まりません!

 

 

 

書き手と読み手のマジック・ミラー的関係についての走り書き

 昨年、室井光広の批評集『わらしべ集』を読んだら、そこに通底するマジック・ミラー的世界像にガツーンと衝撃を受けた。
「マジック・ミラー的世界像」とは、私が仮に名付けたものだが、たとえば柳田國男を論じた次のような文章におけるモデルだ。

 

「この世の中には現世と幽冥、すなわちうつし世とかくり世というものが成立している。かくり世からはうつし世を見たり聞いたりしているけれども、うつし世からかくり世を見ることはできない」(「ワラシベ長者考」)

 

 つまり、あの世からこの世は見えているが、この世からあの世は見えない、という、非対称的な関係である。
 この関係は、たとえば創作における「古典」と「現代」との関係において、次のようにも言い換えられる。

 

先祖が限りなく反復作業した同じ土地が男の前にある。しかし、この男がこの作業をこの土地でするのはこれがはじめてなのだ。(……)
 歴史という反復の土地に祖霊の声がこだまする。一回性のこの私がそれを背景に不器用なアリアをうたう。才能のあるなしをこえ、全古典に対峙する個人の位置関係をオペラ的に表現すればそういうことになろう。私が何かみすぼらしい内容の自作の歌をうたう。すると、背後の古典があのギリシャ悲劇の場面のようなコロスとなってある種のメッセージをエコーさせる。(……)
古典重層山脈への信仰の無いところでは、声は決してエコー化しない。(「泥縄式古典論」)

 

 現代に生きる我々の発する表現が、「祖霊=古典」との関係において何らかの「エコー」を生じる。それは、聞こえない人には聞こえないたぐいのものである。しかし、それは、聞こえる人には確かに、聞こえる。というか、聞こえる人にとって、あらゆる現代の表現は、どのように「みすぼらしい」ものであっても、過去との関係を持たずにはいない。過去は、具体的なモノとして触れられはしないが、われわれを監視している。現代に生きる者にとって、過去とは、そうしたマジック・ミラーの向こう側にある存在なのだ。そんなもの、ありはしない、幻想に過ぎない、と、一笑に付すこともできよう。しかし、もしその実在を信じるならば、ある種の事象、ないし、力をすっきりと説明できることも、確かである。
   ※
 このマジック・ミラー的感覚を受けて、私は、小説の作者と読者との関係のことを考えた。この場合、作者が「うつし世」、読者が「かくり世」である。作者(うつし世)は作品を商業的に発表することで読者(かくり世)から視線を集める。この場合、ほぼ全ての作者(うつし世)は、まだいるかいないか分からない読者(かくり世)の実在を信じて、作品を書くのである。その関係は圧倒的に非対称であり、読者のほうが数が多い。しかしインターネット登場以前なら、この両者の関係は、まだ遠かった。ないし、間接的な壁が強かった。

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 しかし、インターネット登場以降、この壁の「マジック」が、薄くなった。読者(かくり世)は作者(うつし世)に、以前より直接に視線をぶつけることもできるし、また、作者のほうも、読者の具体性に注目することのできるケースが増えた(エゴサーチとその後のウォッチングが、その例である)。

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 SNSの登場以降、以前なら「かくり世」にとどまっていた一般人でも、「炎上」することが多くなった。炎上とは、先のたとえでいえば、「かくり世」にいるつもりでの発言が、予想以上の注目を集め、いつの間にか「うつし世」にステージが移ってしまっていた、ということである。
 そう。ひとたび誰でもアクセスできる場で発言=テクストを生成するならば、うつし世=かくり世のステージは、かつてより容易に流動しうるのが、現在である。
 アマゾンレビューなり、読書メーターなり、ブログなり、ツイッターなりで、読者が、作品に対して感想を述べる。するとその感想という発言=テクスト=作品を通して、「マジック」の壁は薄くなり、誰でも「うつし世」=作者のステージに、立つことができる。すなわち、次のような関係である。

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 読者とはいわば覗き魔であり、作者は露出者である。先日来、話題になっている市川哲也氏の言葉は、ミステリ小説を長年読みつけたヒトにとっては、なじみ深いものだろう。小説の読者には、ゆくゆくは露出者になりたいと志望する覗き魔が常におり、露出者のステージをよく品評する。その品評という行為は、自身を小さなステージに立たせることに直結するのだが、それに気づかないまま、未だ覗き場の闇にいるつもりでぶかっこうなたたずまいでいる者も、多いようだ。たぶん、ステージで受けるスポットライトに、慣れないのだろう。
   ※
 インターネット上においては、このように、うつし世とかくし世の立場は流動しうるのだが、かくし世の住人の中には、この流動性が、理解できない者もいるのである。最悪の場合(本当に本当に最悪の場合)、この覗き魔の発言は、ほとんどテロ行為にも等しくなりうる。
「作者に向かって、オマエの書くものはツマラナイから、筆を折れ、と、あるいは、○すぞ、と、なぜ言ってはいけないのか?」
 こうした疑問文を発さないなどという程度の最低限以下の良識は、読者の側へ暗黙のうちに常識的なものとして委ねられている。しかし先に挙げた匿名という「マジック」は、時に良識を狂わす。もしこの疑問文が、発する者にとって根本的に理解できないものとして発されるならば、それは誰にも防ぎようがない。一方で、作者が忍耐しうるものでもない。その場合、その発言は作者ー読者というレベルでの関係を壊し、まったく別種のレベルにおける記号となるだろう。
   ※
 自分の言葉を公に出す、という行為は、自身を露出者のステージに立たせるということである。にもかかわらず、未だ覗き魔の暗がりにいるつもりで明るみに出てきてしまうヒトがいる。
 私がこのブログを開設したのは2008年だからもう九年前だが、その一端には、そうした、頭隠して知り隠さずな言動を当時、見聞きすることがあって、それに不満を覚えたからである。以来、何かを批判する際には、その対象の作者ないし編集者、賛同者への手紙のつもりで、駄文を書きつづってきた。どのような感想でも、それは私なりに応援したいという気持ちで、讃歌のつもりで、書いた(そこに確かに技術がともなっているかどうかは定かではないが……)。
 スタージョンの法則(「あらゆるものの九割はクズである」)が巷間、しばしば言われる。ではその「クズ」の存在価値がないかといえば、そうではない。「働かない蟻」のようなもので、むしろ、一割の傑作はわそうした九割のクズに、その存在を依存しているのである。もし九割のクズを排除したならば、一割の傑作の総量も、十分の一になっていることだろう。このレベルではいわば、九割のクズは「かくり世」であり、一割の傑作は「うつし世」である。
 安価な「古典」(かくり世)は、一個人(うつし世)の前に、接しきれないほど大量に存在する。一方で、雑誌なり単行本なりで比較的高価に生産される現代の「新作」は、「古典」のレベル、基準に厳密に比べるなら、そのほとんど(99%)は読むに耐えないものだろう。しかし、そうした「古典」のレベルに耐えないからといって、ならば「新作」は存在すべきではないのかというと、そうではない。「古典」(うつし世)のさらなる背後には、その同時代に、より膨大なクズ(かくり世)があったからだ。つまり、両者は互いに存在を依存しているのだ。
 私の考えでは、こうした流動的なマジック・ミラー的構造への認識こそ、すなわち「古典重層山脈への信仰」であり、それなしに、「声は決してエコー化しない」。この信仰を、これをここまで読んでくださっている、あなたへと向けて、書きつづった。

再説・走馬灯

ある方から教わり、ギャビン・ブライアーズの「Jesus Blood Never Failed Me Yet」(イエスの血は決して私を見捨てたことがない)という曲を聽く(有名な曲らしいので、検索してみてください)。

この曲は成り立ちが複雑であるので、ここでちょっと説明する。ブライアーズは現代音楽家。1971年、友人がロンドンの街をドキュメンタリー映像にした。その記録に、ホームレスが賛美歌らしい曲を歌うところが混じっていた。ブライアーズは、鼻歌のようなその25秒程度のサンプルフレーズをオーケストレーションに乗せ、ループさせることを思いつく。時はレコードの時代。片面ギリギリの約20分までループさせた。(本人の説明は以下)

http://www.gavinbryars.com/work/composition/jesus-blood-never-failed-me-yet

ループに採用されている歌詞は以下の通り。

 

Jesus' blood never failed me yet
never failed me yet
Jesus' blood never failed me yet
This one thing I know,
for he loves me so

 

この曲が評判を呼ぶ。CDの時代になり、1993年、ブライアーズは新たに70分を超えるバージョンを新録する(トム・ウェイツの歌も乗せた)。

聴いてみると確かに、不思議な力がある。なぜだろうと考えると、以下のようなことが思い浮かんだ。

春頃に、鑑賞者の記憶を急激に刺戟するようなテクニックを、仮に「走馬灯効果」と呼んだ。この「Jesus Blood Never Failed Me Yet」も、近いものを含んでいるのではないかと思う。

まずバックのコーラスとオーケストレーション。日常的というよりはどちらかというと物悲しく宗教的な崇高さで、この曲を聴いているあいだ、俗(生)から切り離されそれを俯瞰する聖(死)という感じに包まれる。ASA-CHANG & 巡礼の代表曲「」も、聴いているとなんだか精神のダークサイドに引き込まれるようなオソロシイ曲だが、バックのストリングスの元ネタはSADEの「PEARLS」で、これのミニマルな繰り返しの効果が大きいように思う。というのは、よりフィジカルなライブバージョンを聴くと、あんまりオソロシくはないからだ。

次いで歌詞。「Jesus' blood never failed me yet」というフレーズは、キリスト教に幼少時より親しんできた人ならばとりわけ、記憶領域を刺戟されるに違いない。かつてこのブログではエリアーデの、〈この経験には元気づけられます。自分の時間をなくしていない、人生を散逸させなかったと感じるのです。すべてがそこにある、たとえば軍務のような、無意味だと思って忘れていた時期さえも、すべてがあり、そうして自分はある目標に導かれていたということが分かります――ある指向性に。〉という言葉、またレミオロメンの〈三叉路 十字路 五叉路も振り向きゃ一本道だ〉というフレーズなんかを紹介してきたが、そういう感じ、つまり、人が過去を振り返ると、そこは一本道になっていて、断片的に思われたあれやこれやの雑多な経験も、すべてつながっている、無駄なものは何一つなく、すべてが意味のあるものとして蘇る、そして普段は気づかないかもしれないが、そこには常に一つの意志が働いていたのだ。という感懐が浮かぶと、人は、涙腺を直撃されやすいらしいだ。これが先に「走馬灯効果」と呼んだものの正体である。

「Jesus Blood Never Failed Me Yet」は、短いフレーズを繰り返すミニマル・ミュージックの一種である。25秒のフレーズを70分以上繰り返すのだから、単純計算でも同じ歌詞を160回以上、唱えることになる。しかも変化が少ない。むしろそこでは、繰り返しの上で、聴き手の記憶、感情が変化する。

このテクニックを使用するものとしてもっとも身近なのはおそらく、最近よくある、結婚式での花嫁による手紙朗読ではないか。この前も、東京ガスのCMで、似たようなことをやっていた。このCMの場合、「やめてよ」の反復がベースとなるミニマル・フレーズであり、個々のエピソードがその上で移りゆく差異である。つまり、結婚式というものが、ある種の最終回、シーズン・ワンの終了、に見立てられており、そこで人は、手もなく泣かされてしまうらしい。しかし他人の結婚式でそういう場面に遭遇するとわかるのだが、エピソードを共有している当人たちに比べると、その蚊帳の外に置かれた状態の人間は、同じコトバに接しても、いまいち涙腺を刺戟されない。

もし、「Jesus Blood Never Failed Me Yet」を、キリスト教にあまり親しくない聴き手が、歌詞の意味もよくわからない状態で聴くと、どういうふうな印象を持つのだろう?

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占いの思い出

anatataki.hatenablog.com

そういえば今年の一月ころ、生まれて初めて「占い」というものを紹介されて体験しました。

それはタロット占いでした。わたしはタロット(都筑道夫ふうにいえばタロー)が実際にはどういうものかもよくわからない状態だったのですが、占い手の方もフツーの感じで、別に超自然的なものを人格として捉えて、つまり「霊感」を「占い」の根拠としているわけではない。どちらかというと、カードで出た結果をダシにして、カウンセリング(カウンセリングを受けたこともないのですが)というか、対話によるセッションを行なう、という感じがしました。

まずどういうナヤミについて話すかを決める。わたしがカードをいくつか引く。なんらかの図柄が出る。この図柄は○○という意味なので、思い当たるかどうか、尋ねられる。正直、ピンとこないことも多い。占い手の人ももちろん私の個人的な事情は何も知らない。わたしはウンウンうなりながら、(こういう意味なのか?)などと考え、思いつきを話していく。するとしだいに図柄の組み合わせと思いつきによってあるストーリーラインができてきて、落としどころに落ちつく。

このときわたしは、当初予想もしなかったことを思い出しました。それは高校生の時に父親の本棚から勝手に借りて読んだ、トンデモ本でした。その存在を、十年くらい、すっかり忘れていました。結果、わたしは深層心理として、「本当はうさんくさいものが好きなくせに、それを恥ずかしがって、認めようとしない。もっと自分のうさんくさいもの好きを認めてはどうか」という話に落ち着きました。

ナルホド、これは物語制作だと思いました。

引いたカードの図柄は偶然にすぎない。これはどういう意味だ?と落とし所を考えるうち(そうしないとセッションが終わらないので)、事前に予想しなかった結論が導き出される。このとき、偶然にすぎなかった図柄は、結論と必然的に結びついています。わたしはアレコレと考えるうち、日常の中で固着していた見方(主観的・具体的)が客観的・抽象的に撹拌され、少々恥ずかしい記憶が見出されました(でもあの本は『水晶のピラミッド』とか、『星を継ぐもの』みたいな感じの壮大なアイデアで、インパクトがあったな)。ここには神秘的なものは、何もない。単に、考えを整頓したという、「作業」の体感が残るだけです。「結論」を頼りにしてもいいいし、しなくてもいい。まあ半信半疑ではありますが、せっかくいくばくかの金銭的・時間的なコストを費やしたのだから、せめて元はとりたい、と思うのは、人情でしょう。

そうか、「占い」の一端とは、こういうものなのか。

以来、わたしの今年のテーマとして、「うさんくさいものに身を任せる」というのが立ち上がったのですが、半年が経ち、その記憶もうすれかけてしまいました。こういうのは、外部から強制されるのではなく、自分をレセプターとして待ちの状態を設け、アンテナを張り巡らせる、つまり、ある意味では「共犯」志望のスタンスでなければなりません。でも、「うさんくさいもの」とは、まだまだ、出会っていないような気がする。

残り五ヶ月、どうなるのかな。

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宿野かほる『ルビンの壺が割れた』(キャンペーン版)を読んだ話

ひと様の思惑に乗せられるのはなんだかシャクではございますが……一応記録としてここにも書いておきます。

7月14日(金)に突如こういうキャンペーンが始まりました。

www.shinchosha.co.jp

「キャッチコピーが書けない」、などというカマトトを信じるピュアーで素直でヨゴレを知らない豊かな感性をお持ちの方はこのご時世、もちろんいらっしゃらないとは思うのですが、たとえばこの本の書籍情報が登録されたのは、7月12日のようです。

ルビンの壺が割れた/宿野 かほる 本・コミック : オンライン書店e-hon

一般読者は誰も知らなかったこの時点で既に本の内容紹介に「話題沸騰」と書けるところに、プロモーションへの自信が存分に現れていますね。

全文掲載の特設サイトのほかKindle、Digital e-honBOOK☆WALKER、 BookLive!、ブックパス、Reader Storeへの電子書籍配信を手配し、社内コメントをまとめるなどの、編集・営業チーム一体となった労力(それはもう単にコピーを書く何倍もの作業です)に、力の入れようを感じます。連休前というのもすばらしい。私は知った当初、(変わった試みだなあ)くらいにしか思っていなかったのですが、本文を読んで、考えれば考えるほど、本当に練られたプロモーションだなあ、と非常に勉強させていただきました。

ところで、特設サイトの宣伝文の中で、この小説について「言われていること」は、いくつかあります。

・著者が無名の覆面作家

・原稿がとつぜん送られてきた

・内容が「すごい」ので「ふさわしいコピー」が書けない

(以上、《担当編集者からのお願い》)

・騙される、驚かされる、衝撃体験

・読みやすく、面白い

・人に薦めたくなる

(以上、「社内でも驚嘆の声続々」)

さて、この小説テクストを読んだ後、読者の頭には――とりわけ、ミステリ小説を読みつけた人間であればあるほど――別種の謎が浮かんできます。

それは、「この、アイデアとしても取り立てて目新しくない、また、技巧的に優れているわけでもない、〈新人〉の小説、〈担当編集者〉と〈社内〉の言葉によれば、〈ものすごく面白く、そして、ものすごく奇怪な小説〉すなわち、〈ここ5年で最も驚かされた作品〉であり、〈“振り込め詐欺”とは違って、損をさせない〉し、〈他社本でも、間違いなくお薦め〉で〈この衝撃体験を共に語り合いたい〉ほどの気持ちにさせてくれ、〈なんの予備知識もなくこの物語を読めたのは、本当に幸せ〉だし、〈「話が違う!」という言葉が、いい意味で口をついて出たのは、50年生きてきて初めての体験〉と半世紀にわたるこれまでの全人生をつい振り返ってしまう、〈売れる予感しかしない!!〉〈自分史上MAXの興奮〉のまま〈一気に読み〉、〈小説を売る仕事の醍醐味〉まで味わわせてくれる、そんな〈「エライもん読んでしまった!」という読後感〉の〈心臓に悪い〉〈出版社の腕を試〉す小説を、〈よろしければ、この小説をお読みいただき、すごいコピーを書いていただけませんか〉と、不特定多数の見ず知らずの方よりお知恵を拝借して、〈この夏、新潮社が総力を挙げてお届けする〉にまで至ったのか?」という、謎です。

この謎には、二つの要素があります。すなわち、

・なぜ、新人の小説が刊行されることになったのか?

・なぜ、〈この夏、総力を挙げてお届けする〉ことになったのか?

そうした「小説の外」に謎を発見した読者は、その唯一の手がかり、すなわち、〈総力を挙げてお届けする〉特設サイトの文章を、じっくりと読んでしまいます。

すると、こうした覆面作家の常として、

「作者は小説家であるか否か」

「作者は他分野において著名であるか否か」

という二つを軸に、とりいそぎ四つの線が浮かびます。

 

1 作者は本当に無名かつ小説を刊行したことのない新人で、編集者は持ち込み原稿を読み、本当に感動した。

2 作者はあまり著名ではないが、小説家である。

3 作者は小説を刊行したことはないが、著名人である。

4 作者は小説家で、あえて変名を使った。

 

この後、「作者はミステリ作家であるか否か」といったより細かい軸もありますが、とりあえず大まかに四つの線で考えます。

1は、そのままではなかなか考えにくい。というのは、「小説新潮」や「新潮」の巻末には常に、投稿原稿はすべて新人賞への応募として扱うとあるように、投稿原稿というのはほとんど読まれない。少なくとも「◯◯編集部御中」で送ってもまず読まれないでしょう。紹介なり顔見知りなりといったルートで、編集者にダイレクトに届かないと読まれない。そして実際にそうだった場合は、そういうルートが〈ある日突然送られてきた〉という文言でスルーされていることになります。するとここで先の第二の謎に突き当たります。「なぜ、〈この夏、総力を挙げてお届けする〉ことになったのか?」という謎です。こうした手法は焼畑農法みたいなもので、自身のブランド力を糧にするわけですから、そう何度も何度も使えるものではありません。内容に伴わない形容を乱発してしまうと、「あなた方は自社の文学的遺産をどのように考えているのか?」と客側から疑念を呈されるリスクがあるためです。思えば、竹内雄紀『悠木まどかは神かもしれない』(2013年、新潮文庫)の売り方はもうちょっとマイルドだった。あるいは、まだプレ段階だった。

2も「なぜ、〈この夏、総力を挙げてお届けする〉ことになったのか?」を考えると、ちょっとよくわからない。他に何も含みのない、まっさらな状態で、ショーバイとリスクを天秤にかけて、この内容で釣り合うのだろうか、と、もし自分が仕掛人だったとしたら、たいていの人は、逡巡してしまうのではないでしょうか。

3はありえると思います。ただ、特設サイトの文章をまで「問題文」として、つまりミステリ的フェアネスを求めて読むと、〈ある日突然送られてきた、まったく名前の知られていない著者〉という書き方は、本当に〈(世間に)まったく知られていない者〉なのか、〈(著述家としては)まったく名前の知られていない著者〉なのか、どちらにも解釈ができ、逆に推測の根拠とするにはアヤフヤなので、あんまりエレガントではない。ただ、4よりは可能性が高い。

4は〈まったく名前の知られていない著者〉という書き方からすれば、けっこう無理な感じがする。変名だとしたら、〈まったく名前の知られていない著者〉で「実は有名な小説家の変名でした!」は、やっぱり苦しい。苦しいけど考えざるをえないのは、本文の言語感覚に照らして(アリかな……)とも思えるからです。この小説は後半三分の二あたりから、新事実が次々と明らかになるのですが、一度読み終わって、二週目に入ると、(うーん、この時点でこの人についてこういう書き方をするのはアンフェアだよなあ)という記述があまりにも多い。それが「アリ」なら、〈まったく名前の知られていない著者〉=著名作家の変名、という言語感覚も、アリかもしれない。

〈この夏、総力を挙げてお届けする〉キャンペーン告知のページは〈キャッチコピーを代わりに書いてください!〉という見出しですが、募集要項の、

〈優秀作品に選ばれた5名様に、5千円の図書カードと、あなたのキャッチコピーが帯になった特装本をプレゼントいたします〉

〈本キャンペーンのために投稿されたツイート、応募フォームから投稿されたキャッチコピーやご感想は、『ルビンの壺が割れた』プロモーションの一環として、公式サイト、TwitterFacebook、および宣伝媒体(雑誌・新聞・TV・WEBサイト)、店頭宣伝物に使用させていただく場合があります〉

が伝えていることを意訳すると、応募したコピーは、店頭に並ぶ帯(その少なくとも表面)には使わない可能性が高く(「前代未聞のキャンペーンでネット上、話題沸騰!」の方がまだありえそうです)、せいぜいネット上かポップで使うかも、くらいになるかと思います。

たぶん本屋大賞以降だと思うのですが、2000年代半ばくらいから、書き手ではない、書店員の方のコメントを帯に載せるケース(特に国内エンターテインメント小説において)が増えてきました。それ自体は私はかまわないと思うのですが、それがインフレ化した一時期(2007~08年頃)は、20~30名のコメントが、目を凝らさないとよく見えないくらいに、ギッシリ羅列されているような状態もあって、ちょっと可哀想だな、と思うこともありました(コメント提供はおそらく無償――あっても図書カード程度――で、ヒドイものになると、内容というよりは「ギッシリ」という密度、オブジェとしての文字、が優先されている感じのものもありましたので)。

今だとたとえば二、三年前に創元推理文庫北村薫『空飛ぶ馬』のキャンペーンでは採用されたコメントが実際に掲載されていましたし、他にも読書メーターのコメントから採用される、というような例は、いくらもあり、それ自体はとりたてて目新しいことではないわけです。

私のようなふつつか者が、こんなふうにアレコレと憶測をたくましくしてしまうのは、おそらく、そうした「著名人ではない読者のコメント募集」を、「推薦の言葉が浮かばないくらいすごい、分類不能、前代未聞」という価値へと転換した錬金術のためでしょう。

そんなふうに考えてくると、一方、〈キャッチコピーを代わりに書いてください!〉の見返りが、上記、というのは、自分の言語感覚に照らして、ウーン、魂をセルアウトしてるかな、という印象を抱きます。こういう博打打ちの感覚、そしてそれを実現させる手腕は、自分には乏しいものなので、やっぱり、すごい

作家の正体に関して、私はある一つの推測を抱いているのですが、〈この夏、総力を挙げてお届け〉の邪魔(私が投げかけることのできる波紋など、凪のようなものですが……)をしてしまうのは心苦しいので、いちおう伏せておきましょう。

果して8月22日以降、なんらかの情報が明らかになるのか、否か。もし覚えていたら、また思い出してみてくださいね。

このブログに長らくお付き合いいただいている方ならご存知の通り、やるやる詐欺の多いわたくしですが、そろそろ何か同人誌にでもまとめてみようかなとおもっていることがあります。そのためにはちょっとヘヴィーな関門があるのですが、たぶん宣言しないと腰が上がらないので、こちらでも宣言しておきます。

この数年、五月頃になると不調気味になることが多く、今もアンマリなんですが、だんだん上向いてくる気分がないこともないので、とりあえずボチボチ活動していきたいなあとおもっています。ワッショイ!