立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

ネタバレについて2017

【はじめに】
 このブログでは二、三年に一度ほど、いわゆる「ネタバレ」という問題について、自分の思うところを述べてきました。というのは、「ネタバレ」への批判、およびその過剰な批判への反批判について、巷間、コンフリクト(摩擦)が起こっているのをたびたび目にするからです。
「ネタバレ」批判は主に、ミステリ作品(ざっくりいえば)を語るに際して起こっているように、見受けます。対して、「ネタバレ」批判批判は、主にミステリでない作品について語られることが多い。
 私自身は、ミステリの分野にホームグラウンドがあると感じています。だから、基本的に、ミステリについてのネタバレは、避けます。でも、敬愛する多くの作家ないし論者の方(主に純文学系の方ですが)が、「ネタバレ」批判の過剰さへの批判をされているの目にし、理解できる気持ちも、あります。「ネタバレ」回避には確かに、深いコミュニケーションを阻害する弊というべきものがある。だから、両者のあいだで摩擦が起きているのを見るたび、もどかしい思いを抱いてきました。
 なぜ「ネタバレ」を語ってヒトはすれ違うのでしょうか。それは、ひとくちに「ネタバレ」といっても、実はさまざまなバリエーションがあり、その内実は論者の文脈によって異なるからだ、というのが、二〇一七年時点での私の考えです。

 

【ネタバレとは何か】
 ここで私のいう「ネタバレ」の基本的な意味を、まず始めに書いておくことにします。
 それは、

「演劇・小説・映画・漫画などの物語芸術作品(フィクション)について、既読者が、作品の重要な転換点ないし結末を、未読者に対し明かす(特に、事前の注意喚起ぬきに)こと」

だと、仮にしておきます。

 

【「ネタ」が重要となる作品とそうでない作品】
 あまりにも当たり前のことですが、フィクションにおいては、「ネタ」=物語の展開が読者に対し重要な役割を果たす作品とそうでない作品があります。
 そしてミステリ(これもその内実は複雑なのですが、詳しく説明するのは煩雑なので、なんとなく「推理もの」「探偵もの」と呼ばれる作品群だとしておきましょう)、中でも「本格ミステリ」と呼ばれるジャンルにおいては、その「ネタ」が、作品の生命とも呼ぶべきほど重要です。
 なぜなら、ミステリにおける読者の読書行為とは、作者対読者の「ゲーム」だからです。この「ゲーム」においては、作者が作品に仕掛けた「ネタ」を、作中において解き明かされる前に、読者が推理する、というのが、対決の形式です。読者が解決よりも先に「ネタ」にたどり着くことができれば、読者の勝ち・作者の負け。逆に、読者の想像を超える「ネタ」を仕込むことができれば、作者の勝ち・読者の負け。
 それは将棋やチェスや囲碁のような一対一の一回勝負のゲームに似ています。相手の手の内が先にわかってしまっては、ゲームになりません。相手の出方がわからないという緊張感があるからこそ、このゲームは成り立ちます。ものすごく大ざっぱにいえば、ミステリというジャンルにおけるあの手この手の技法は、この作者対読者の緊張感を掛け金に開発されてきました。そして往々にしてそこでは(とりわけ、アイデアに重きをおくみじかい短篇などでは)、作品の構造において、ある一点(ネタ)をひねることによって読者の風景をまるきり違うものに変えてしまうというテコの一点性、スマート性が、エレガントなものとして評価されてきました。すなわち、些細な一点の錯誤によって、全体を大きく塗り替えてしまう、という、エコノミクスです。こうした評価軸をもつ作品において、錯誤という仕掛け=「ネタ」の事前暴露は、致命的です。
 もちろんこの「ゲーム」という関係は、フィクションをめぐる環境の一領域にすぎません。狭義のミステリにおいては、「ネタバレ」が問題となる可能性が比較的「高い」、ということは、いえるでしょう。しかし、「ネタ」に重きが置かれていない作品の場合は、どうなるでしょうか。たとえばプルースト。たとえばジョイス。たとえばベケット。彼らの作品は、あるたった一点の暴露によって作品全体の意味が変わる、ゆえに作者もそれを隠す、というふうにはなっていない。むしろ何度も読まないとわからない。とはいえ、だからたった一点の「ネタバレ」によって読者へ与える感動を減じてしまう作品など文学的価値の低いものであり、むしろ何度も読んでようやく理解できる作品こそ価値が高いのだ、とも一慨にはいえない。そうではなく、「ネタ」が鑑賞において重要な役割を果たす作品とそうでない作品があり、その両極は幅を持つ、という話です。このグラデーションがないかのようにして「ネタバレ」を語ってしまうと、摩擦の問題をうまく言い当てることはできません。
 たとえば先の「緊張感」がなければ、ミステリというジャンルがこれほどまでに発展することはなかったでしょう。逆に、たとえミステリを鑑賞するのであっても、「ネタバレ」など全然気にならない、という鑑賞者も、いくらでもいるでしょう。作品にも鑑賞者にも、たくさんのグラデーションがあるので、「ネタバレ」が重要だとかそうでないとかいうことは、場合によって異なります。

 

【四つのファクター】
 ではその「場合」とは、どのように異なるのか。そこで「ネタバレ」に注意するに際して、どのようなファクターに着目していけばよいのか。私がいま思いつくのは、次の四つです。
1作品
2読者
3鑑賞
4論評
 このそれぞれが、「ネタ」の重要度において高から低への二つの極を尺度として持っているのではないか。
1作品。ここでの「高」は、先に挙げたようなミステリ、中でも「ネタ」こそが作品の命、というような見せ物小屋的なものが挙げられます。逆に「低」は、一度読んでもわからないような、難解なもの。
2読者。ミステリでないフィクションであっても、どんな些細な「ネタバレ」でも気になるというヒトが「高」。どんな作品であっても気にしない、というヒトが「低」にあたります。
3鑑賞。「ネタ」の重要度が「高」いのは、なんといっても初読時です。再読時は、忘れている場合をのぞき、「ネタ」というものはすでに知っているわけですから、「低」です。
4論評。たとえば紙誌での短い書評はふつう、未読者を多くの対象にしていますから、「高」といえそうです。反対に、作品全体をガッツリ論じた長い論文などでは、「ネタバレ」など気にしていては論じ切れません。

「ネタバレ」が問題になるのは、1〜3を受けた4の論評においてです。そこで「ネタバレ」に気をつけるにあたっては、このあたりの尺度への留意が必要になるかと思います。これを一緒くたに論じていても、摩擦はおきるばかりでしょう。

 

【私史上最大のネタバレ】
 私が知る限り、フィクションにおける「悲劇」としての史上最大のネタバレは、島田荘司占星術殺人事件』に関するものです。冗談ではなく、このケースは数万人単位で人生を狂わされた「犠牲者」を生み出しています。
【以下、有名なケースですが一応、ご存じでない方のために、ある漫画作品について言及することをお断りしておきます】
 一九九〇年代、講談社の大ヒット漫画『金田一少年の事件簿』のある作品において、『占星術殺人事件』のトリック=「ネタ」が二つまでも流用されました。その『金田一少年』を読んだ多くの青少年は、独自の物語として面白く思い、やがて小説を読むようになり、ある日、ミステリというジャンルにおける有名作『占星術殺人事件』を手にして、(あれっ、このトリックは見たことあるぞ……)という疑問を抱いたのです。
 この「ネタ」が真に独創的なものであったために、その経路を辿った若者は、というか私は、「自分は何かを奪われた」という感覚に強く捕らわれました。同じトリックが流用された(これはオマージュといえるのかどうか、問題にもなりました)別のフィクションにたまたま先に出会っていたために、自分は、この小説に正当に出会い驚くことのできる権利を失ってしまったのではないか。もし、別の出会い方をしていたら、たぶん、違う人生になっていたのかもしれない、云々。
 これは、「たった一つのネタによって読者へ与えるエモーションを減じるような作品は、フィクションとして価値が低い」というような話ではありません。読者と作品との出会い方の問題です。
「驚異」の念は、何か未知なるものと出会った時、個人の内側に生じます。それは時に、その個人の内側をかたちづくり、その後に左右します。そしてそのような大きな出会いは、若い時のほうが多い。
「ネタバレ」など些細な問題にすぎない、と述べることのできるほどの余裕を持つヒトは、けっこう、「読み巧者」と呼ばれる方に見受けられます。たいていの作品には動じないくらい、経験を重ね、スキルを積み、むしろ個々の作品よりもシーン全体を眺めわたしたいという野心に駆られるほど、読者としての自分がすでにほぼほぼできあがっているからだと思います。でも、まだまだできあがっていないヒトにとっては、作品との「出会い方」は、なかなか重要です。場合によっては、「ネタバレなど気にするな」というアドバイスは、年長者からの「押しつけ」として、反発をも招きかねません。
 もちろん、フィクションを愛好する誰もが、そうした紆余曲折を経て、やがて読者としての身体を、それぞれに作り上げてゆくわけですけれども。

 

【事前/事後の視野】
 前節で述べたのは、「読者」というファクターにおける「ネタバレ」の重要性の高低です。
 続いて「鑑賞」について述べてみましょう。
 前述のように、「ネタバレ」が問題になるのは初読においてで、再読では問題になりません。再読というのは確かに重要です。理解度においては、再読と初読では比べものにならない。しかしここでいう「理解」とは何でしょうか。それは作者が執筆における難点をどのようにクリアしたかという、「答え合わせ」の、リバース・エンジニアリング的観点に限られることなのでしょうか。
 物語を扱ったフィクションは、ふつう、始点と終点を持つ一本の線、一次元的存在です。鑑賞者は多くの場合、それを順序通りに潜ってゆく。もちろんそれは一つの正当な読み方に過ぎません。実際はためつすがめつ、どのように自由に扱ってもよい。
 ミステリなど「狭義」の「ネタ」を離れて、もっと広い意味で「ネタバレ」という時の「ネタ」とは、たいてい、物語の展開をさしています。たとえば、登場人物の運命だとか。
歴史小説は最初からネタバレ」などといいます。特に死に方の有名人物……織田信長なんかを扱う際は、その最期を鑑賞者の誰もが知っている、その前提で作品は作られる。その時、鑑賞者は、物語時間の外部から登場人物を眺めます。作中人物の最期が悲劇的であることを知っていればいるほど、自身の最期を知らない登場人物の泣き笑い、一挙手一投足と、それを眺める鑑賞者の視線のあいだに、いいようのないアイロニーが生じる。
 同時に他方で、鑑賞者の内側にはサスペンス=宙吊り感覚も生じます。自分は結末を知っている。それと作中の物語展開は、どうにもかけ離れている。作者はどうやってあの結末まで持って行くのだろうか。……そういう謎、宙吊りの感覚です。
 この宙吊り感覚は、演出の一種です。歴史物で有名な人物・事象を扱うなら必然的に生じますが、そうでない場合、作者は、ナシにしたり、逆にこしらえたりすることもできる。
 たとえばナボコフの『ロリータ』。たとえば太宰の『人間失格』。この二つはそれぞれ、著名な書き出しをもっています。しかし実はそれは、真の冒頭ではない。この二つは手記を囲む枠、すなわち主な語り手とは異なる人物による序文を持っていて、そこでは作品の核をなす手記の書き手の運命がほのめかされます。つまり読者は作中人物の運命をチラ見させられた上で、宙吊り状態に置かれます。このチラ見→宙吊りは、一種の演出です。この時、「ネタバレ」と原理を同じくする効果が生じています。この効果をもたらすのが、手記の書き手とは異なる人物による「序文」であることには、注意が必要です。それは例えてみれば、作中人物の運命をあらかじめチラ見せする、セルフネタバレを作品に組み入れての利用=演出です。作者は、作品にその効果が必要だから書いたのです。必要でなければ、最初から書かないでしょう。
 作中人物と鑑賞者のあいだに生じるアイロニー。鑑賞者は彼らの未来を知っているからこそ、そこに至る「過去」の彼らの行動に馬鹿だなあと思ったり、かえって勇気を受けたりする。この原理はフィクションに限らず、作品の外の現実においてもいえます。
 つまりふつう、ヒトにとって、未来とは確実なものではない。確実でない未来を前にして、何かしら行動している。ゆえにそこには、賭けとしての倫理性が宿ります。もし、未来を熟知した「事後」の視野から「事前」を眺めるならば、ヒトの行動はずいぶん安全で安心な、「緊張感」のないものになっているでしょう。自分が何をすればいいのか、すでに「理解」しているからです。しかしヒトは未来を熟知などできない。
 古くからの有名作に対しては、作者が「チラ見」をこしらえなくとも、先の歴史物と似たような効果が生じます。『吾輩は猫である』の猫はビールを飲んで酔っぱらって溺死する。『失われた時を求めて』の語り手は小説を書き始める。これは作者が執筆時には意図していなかったであろう、作品をめぐる環境です。
 現在において発表される新作は、もっと違う環境にあります。

 

【古典と新作】
 物語の展開を知った上で作品を鑑賞することは、安全で、安心です。作中人物のメタレベ
ルに立った上で、不確定性にふりまわされるということがない。
 同じように、クオリティの保証された有名な古典だけを鑑賞するのも、安全で、安心です。何より、クズを掴まされるという無駄が縮減されます。
 しかし、「現在」生み出され続ける新作については、安全で安心な立場はまだ確定していません。その立場は、鑑賞者個人々々の鑑賞体験の賭けを基礎にして作られてゆくものです。
 たとえば「現在」の実作者は、安全安心とは違うレベルに立たされています。ナボコフ、太宰、といえば、今や、揺るぎない人気を誇る小説家に見えます。しかし、作品を生成しているその時点においては、なんの保証もありません。作者は不安にさらされていたでしょう。いま書いている作品は果たして傑作となるのかどうか。自身のキャリアにおいてどういう位置付けを持つのか。読者に受け入れられるかどうか。売れるかどうか。後世に残り文学史に記録されるのかどうか。自分の運命について「ネタバレ」されてメタレベルに立つことなどできません。
 それらすべてをのりこえてきたようにいま見える過去の古典も、五十年後、百年後、どうなるかわかりません。それを左右するのは、鑑賞者たちです。その時々において、「現在」の「私」たちの読み一つ一つまでもが、実は、未来から問われているのです。
「ネタバレ」という問題が常に私に投げかけるのは、こうした、時間の内すなわち不確定性にさらされた丸腰の存在者としての倫理性です。

 

【論評における語り口の選択】

 話が大きくズレてしまいました。
 しかしここまでの話で、「ネタバレ」とは、その時々において、論評の語り口のバリエーションを要求するという、しごく当然のことが、はっきりしてくるのではないしょうか。作品は有名なのか無名なのか。一度読めばわかるのか、何度読んでも難解なのか。読者は何を気にしているのか。鑑賞について何を重視しているのか。論評は単なるオススメなのか、論者の全身を投じたテクストなのか。これらは「ネタバレ」を全否定すべきか全肯定すべきかというような、単純な話ではありません。
 しかしどうもこの話になると、感情的になってしまっていけません。
 ちなみに、私が大学二年生で、ミステリ研究会のサークル勧誘をオリエンテーションでしていた時、ある新入の男子学生が、「面白いミステリとはネタバレされても面白い作品を指す」理論の信奉者で(当時は)、アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』という有名作の真相について、勧誘ブースで大声で論評するという行為に及んだことがありました。さすがにその時は、複数人で注意して、別所に移っていただきました(彼はその後、入会し、サークルの会長になりました)。

「ネタバレ」を肯定する際、もし効率性をのみ重視するならば、それは極論にまで敷衍すれば、現在作られる新作、そして鑑賞者としての「私」という個人そのものの否定にも、通じていきかねません(作品に対する最大にして最悪の「ネタバレ」とは何かと想定すると、「……とまあ、以上のような次第で、あれは誰が見ても古典になりえない、いま世間で重視されているどのような評価軸にもひっかかりえないクズだから、君が読んでも意味ないよ」というような、丁寧な解説ではないでしょうか)。逆に、一切の「ネタバレ」を禁ずるならば、それはそれで、鑑賞者に膨大なコストを要求し、個人の獲得できるスキルはずいぶん貧しいものになってしまうでしょう。
 先の四つのファクターの組み合わせによるバリエーションは、この両極のあいだにあります。その時々において必要とされる論評の語り口の選択をどうするかが、鑑賞する「私」の個人性と、作品の評価、そしてフィクションをめぐる環境そのものを、やがてかたちづくってゆくことになるのではないでしょうか。

LUSTMORDの夜

昨晩、文庫版『ラヴクラフト全集』をパラパラめくりながら、気分を高めるためにスマホでLUSTMORDという人の音楽を聴いていたら、急にすべてのアプリが画面から消えて使えなくなってしまった。それだけでも怖いのだが、なんと再起動さえできない。ただ音楽がバックグラウンド再生できるのみだ。こんな事態は初めてだ。

(⬇︎試しにスクショしたら撮れていた。画面が常にこんな状態)

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だからスマホをバッテリー切れにしてむりやり再起動させるために、LUSTMORDの『OTHER』というアルバムを一晩中、何度も何度も再生しなければならなかった。

で、聴いた方はすぐおわかりになると思うのだけど、このLUSTMORDという人の曲は、(いったい何が楽しくてこんな音楽作り続けてるんだろう……)と思うぐらいの(褒めてます)100%ピュア・ダーク・アンビエントなのだ。

これを何時間も聴き続けるのは正直ツラくて仕方がなく、最後の方はもう聴こえないよう単にイヤホンをぶっ挿して放置していたのだが、朝方になってようやく、パワーを使い尽くし、再起動して元に戻すことができた。

この疲労した気分を共有したく、ここにLUSTMORDのbandcampを紹介する次第です。たいていのアルバムが全曲試聴できます。

[ O T H E R ] | Lustmord

ちなみに、『OTHER』のジャケットはこんな感じです。

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「memo」におけるロス・マクドナルド関連記述

11月23日の東京開催の文学フリマに出展する予定で、殊能将之センセー関連のあれこれをいま、読み返しています。

するとそのうち、自分がかつてここ

読書日記ページ「reading」は原書の紹介がメインで、邦訳された本の感想については、通常の日記ページ「memo」に記されることが多かった。そうすると、600枚に収まりきるような分量ではない……。

 と書いたことをフト思い出し、「memo」から小説・映画・音楽関連の記述だけを抜粋していったら、2000枚くらいあった(古川日出男『聖家族』くらいですね)。

ボリュームとしては『殊能将之読書日記』の三倍強。関連する内容も多いから、講談社様におかれてはぜひ続篇として出していただきたい。『読書日記』は少なくとも一度は重版したそうだから、いけるんじゃないかなあ(読んでいるとまあ、面白いとはいえ、個人的にはどうも心の中にむなしい風が吹き過ぎてしまうことは否めないのですが、……)。

ところで『読書日記』といえば、本文最終部のロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』に関する分析がリンク切れして入手できないということがありました。私も記憶がおぼろげなので、もし保存していらっしゃる方がいたらぜひ拝見したいなあと思います。

↓の個所ですね。

 ジャック・ヴァンスのThe Anome(1971)冒頭に、The Chilitesというソウルグループみたいな名前の宗教集団が登場する。

 これは女性嫌悪の宗教で、メンバーは男性のみ。いずれも10代の頃に母親から引き離され、全身消毒されたあと、生涯女性と接触せずに暮らしている。
 さて、The Chilitesはどうやってコミュニティを維持するのか? 生涯女性と接触しないのでは、The Chilitesの子供は産まれないはずだ。
 答え。街道沿いに女性たちが店を開いていて、通りかかる旅人とセックス(要するに売春)して子供をつくる。男の子の場合はThe Chilitesに加入する。女の子の場合は店を引き継ぐ。
 確かに女性嫌悪の宗教コミュニティを維持するには、これしか方法はない。エレガントな解答である。
 こうしたエレガントな解答を小説化すると(つまり生身の人間によって演じさせると)、異常な設定に見えたり、どろどろした人間関係が生まれたり、イヤな話になったりする。わたし流の形容をすると、これがロスマク理論である。

 ロス・マクドナルドは主に性愛関係とそれに基づく親子関係をもとに人物どうしを関係づける。その際の方針は完全性(関係づけられるところはすべて関係づける)と対称性である。
 こうしてできあがった人物関係グラフを小説化すると、家庭の悲劇が生まれる。なぜなら、性愛関係とそれに基づく親子関係によって結びついた集団を親族というからである。
 以下、最高傑作『ウィチャリー家の女』(小笠原豊樹訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)のネタバレを含む分析([リンク切れ→http://www001.upp.so-net.ne.jp/mercysnow/Reading/wycherly2.html])。(「reading」2009年6月27日)

ロス・マクドナルドについての記述は、memoにもいくつかあります。たぶん、下記のような親族構造に関することが書かれていたんじゃないかなあと思います(時期も近いし)。

こうしたネタバレ分析のことごとくリンク切れなのが残念なので、何かご存知の方はご教示いただけましたら幸いです。

 人間どうしを関係づける方法はいくつも考えられるが、ロス・マクドナルドは主に性愛関係とそこから生じる親子関係を用いた。彼の作風がしばしば「家庭の悲劇」と呼ばれる理由はそこにある。
 ロス・マク作品の登場人物たちは、時には「ここまでやらなくてもいいだろうに」と感じられるほど、複雑に結びつけられている。おそらく最も複雑なのは『別れの顔』(菊池光訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)だろう。人物相関図を描いてみればわかるが、その入り組み方たるや、パラノイアックにすら感じられるほどだ。
 ところで、現在ではロス・マクが思いつかなかった(あるいは思いついても時代の制約から採用できなかった)関係づけが許されている。
 この関係づけには、いくつかの利点がある。
 第一に、「接着剤」(佐野洋)を用いなくてもいいため、何人かの登場人物を省くことができ、人物相関図をいわば「縮約」できる。
 第二に、「奇偶性」が消えるため、関係づけの自由度が増す。たとえば、従来の三角関係にはふたつの結びつきしかなかったが、現在は三つの結びつきを与えることができる。
 かつては、第三の利点「新たな関係づけが一般的ではないため、読者に意外性を与えることができる」があったのだが、これはいまやさほど利点ではなさそうだ。新たな関係づけがごく一般的、日常的なものとなったからである。(「memo」2006年1月後半)

 

 瀬戸川猛資氏の「ロス・マクドナルド本格ミステリ作家である」(『夜明けの睡魔』創元ライブラリ)という宣言は、いまやほぼ定説と化している。次はそろそろ「ロス・マク横溝正史説」が定着するんじゃないか。
 わたしの知るかぎり、この説を唱えた人がふたりいる。
 ひとりは瀬戸川猛資氏だ。確かなにかの座談会での発言で、もちろん「ロス・マク横溝正史のようにおもしろい」という趣旨。
 もうひとりは矢作俊彦氏で、こちらは「ロス・マク横溝正史のようにつまらない」という趣旨なのだ。記憶をもとに大意を書けば、「ロス・マクは田舎を舞台にどろどろした家族関係を描いていて、あんなの横溝正史と変わらない。だからつまらないんだ」という発言だったと思う。
 このように立場が正反対ともいえるおふた方が同じことを言うのだから、この説はたぶん正しいんじゃないかと思う。(「memo」同)

 

ロス・マク横溝正史説」が正しいとすれば、『ウィチャリー家の女』(小笠原豊樹訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)は実は『ウィチャリー家の一族』なのか。
 しかしながら、この小説のタイトルは『ウィチャリー家の女』でなければならない。ネタバレありの理由はこちら[リンク切れ→http://www001.upp.so-net.ne.jp/mercysnow/LinkDiary/wychery.html]。

「人間を殺す方法はいくつもあるが、人間をつくる方法はひとつしかない」とは、いったい誰の名言なのか。

 殺人と子づくりには、もうひとつちがいがある。すなわち、
「人間はひとりで殺せるが、人間をつくるにはふたり必要である」
 では、ひとりで子供をつくれるが、ふたりでないと殺人を犯せない宇宙人がいたとしたら、どうか。宇宙人のロス・マクドナルドは、いったいどんなミステリを書くんだろう?
 ……ということを思いついたことがあるんだが、こんなのネタにならないから、すぐに考えるのをやめた。フランク・ハーバートが書けば、おもしろくも難解な小説に仕上がるかもしれない。
 ひとつ言えるのは、「この宇宙人は自殺できない」ということですね。(「memo」同)

 

 わたしが「スルース」をそれなりに楽しめたのは、一時期、ロス・マクドナルド作品における人間関係の分析に熱中していたからかもしれない。
 わりといろいろなことがわかり、おもしろかったんだが、残念ながら新たな発想源にはならなかった。基礎研究はできたが、応用には至らなかったわけ。残念。
 せっかくの機会だから、ごく簡単にまとめておくか。(「スルース」をごらんになり、ロス・マク諸作をお読みになった方限定です[リンク切れ→http://www001.upp.so-net.ne.jp/mercysnow/LinkDiary/rossmac.html])。(「memo」2008年5月後半)

 

 英ニューカッスル大学のカリム・ナヤーニア(Karim Nayernia)教授がES細胞から人工精子をつくりだしたと発表。
 理論的には男女どちらのiPS細胞からでも精子卵子をつくりだすことが可能なはずで、ロスマク ver.3への道筋は着々とつけられつつあるようです。

「ふたりのあいだにできた子供」を「ふたりの遺伝子を共有する子供」と解釈するならば、同性間で子供をつくる方法は現段階でも存在する。
 男Aと男Bのあいだで子供をつくるには、男Aが女Cと性愛関係を結んで女Dを出産し、男Bが女Dと性愛関係を結んで子供Eを出産すればよい。子供Eにとって、男Aは祖父、男Bは父にあたるため、両者の遺伝子が受け継がれている。
 このネタは3、4年ほど前に思いついたが、相当いやな話になるから廃案にした。
 たとえば、こんな話。男Aと男Bは同性愛関係にあったが、別れてしまい、男Aは女Cと結婚して女Dを出産する。男Bは男Aのことを忘れられず、男Aとのあいだの子供が欲しくなり、女Dを拉致監禁して……(以下略)。
 いやな話になるにも関わらず、人間の心の闇とかとはいっさい関係ないパズル的な発想だから、読者は誰もこの動機に納得してくれないでしょう。(「memo」2009年7月前半)

 

 細田守は各種インタヴューで、デジタルネットワークと親族の類縁性を語っている(たとえばここ[→http://www.cyzo.com/2009/07/post_2341.html])。
 しかし、わたしの考えでは、親族は家族ではないし、ましてやデジタルネットワークではない。
 なぜなら、親族であることはやめられないからだ。
 夫婦は家族であっても親族ではないため、離婚することができる。デジタルネットワークは非公開に設定したり、アカウントを取りなおすことができるし、いっそのことケータイとパソコンを捨ててしまえば、完全に縁を切ることができる。しかし、親子の縁を切ることは(比喩的にしか)できない。

 実は「サマーウォーズ」にはある工夫がなされている。(以下、公式サイトの家系図を参照してください[→http://s-wars.jp/characters/images/chart01.jpg])
 篠原夏希の母雪子は陣内家の長男の娘だが、この長男夫婦(夏希から見れば祖父母)は登場も言及もされないどころか、名前と容貌すらわからない。つまり、設定上はつながっていても、物語上はここでネットワークが断絶している。
 逆の工夫もある。三男万作家の嫁である典子、奈々、由美は、栄の誕生会のため実家でかいがいしく働いている。指揮をとる栄の長女万里子は、まるで母親のようだ。しかし、世間一般ではこういう人を小姑と呼ぶ。
 なぜこういう展開が成立するかというと、典子、奈々、由美が万作の性格を反映しているからだ(一方、次男万助の娘である直美と聖美は万助の性格を反映しており、万助/万作が陣内家女性グループの大分類となっている)。三人は家族であっても親族ではない(離婚しようと思えばできる)はずなのに、あたかも親族であるかのような緊密なネットワークで結ばれている。
 篠原家の家族に対する親族の圧力は祖父母の不在により弱められる。一方、篠原家以外の親族は緊密に結びつき、ひとまとまりの「親戚のおじさんおばさんたち」を形づくる。この結果、夏希は親戚と戯れつつ、自由に行動できる。
 さらにいえば、夏希の両親(和雄、雪子)は他のキャラクターに比べるとかなり影が薄い。こうして恋人たち(健二と夏希)に対する家族の圧力も弱められる。
 本作では、こうした工夫があってこそ、恋愛=家族=親族を破綻することなくつなげられたのだと思う。(「memo」2009年8月前半)

 

 クロード・レヴィ=ストロース死去。
 あまり読んではいないんだけど、結局、最も斬新で間違いなく構造主義だったのは『親族の基本構造』のような気がする。

 わたしはレヴィ=ストロース「料理の三角形」の影響を受けた玉村豊男『料理の四面体』の影響を受けたから、いわば孫弟子にあたるのではないか。ちがうか。(「memo」2009年11月前半)

 ※

どうですか。気になりませんか。気になった方は出版社にリクエストをしてみましょう。

 

宿野かほる『ルビンの壺が割れた』(書籍版)を読んだ話

宿野かほる『ルビンの壺が割れた』の書籍版が出ていたので、読んでみました。内容についての感想は、キャンペーン版から特に変わらないのですが……。

新潮社は「波」というPR誌を毎月発行していて、そこに今月号(2017年9月号)は、

[宿野かほる『ルビンの壺が割れた』刊行記念特集]
村上貴史/刺激に満ちた破格のデビュー作
[公開往復書簡]
宿野かほる×担当編集者/覆面デビュー、なぜですか?

の二篇が、PRとして掲載されています。このうち、「公開往復書簡」の方は、ウェブ上でも読むことができます

しかし……。

私はこのインタビューを読んで、ヘナヘナと腰が砕けてしまいました。というのは、作者自身が、この小説の価値を的確に理解していたからです。

〈遊び半分で書いたのが、この作品です〉
〈原稿を読んだ友人たちは面白がってくれ、「新人賞に応募してみたら」と勧めてくれましたが、わたし自身は、そんなレベルの原稿ではないと思っていました〉
〈ミステリー風ですが、ミステリーではないし、ホラーの要素はあるものの、ホラー小説でもありません。一般的なエンタメ小説の枠からも大きく外れています。それで、応募する新人賞を見つけられなかったのです。そもそも新人賞などという厳しいレースを勝ち抜ける作品とは微塵も思っていませんでした〉

〈「本にしたい」と言っていただいた時も、最初はお断りしました〉

ええっ! この個所を読んだ時、私は驚きました。確か版元のキャンペーンの文章では、次のように書かれていたからです。

 読者のみなさまへ
ここに公開するのは、ある日突然送られてきた、まったく名前の知られていない著者による、刊行前の小説です。

編集部に「ある日突然送」ったのは、「まったく名前の知られていない著者」自身じゃなかったの? 

どうやって御社に原稿が渡ったのか、ということについて細かく言うと、わたしや友人たちのことを詳しくご説明しなければいけなくなってしまうので、それについてはここでは差し控えさせてください。申し訳ありません。

ここを読むと、「友人」の一人からなんとなく編集部に伝わった、くらいに読めてしまう……。まさかそんなところにトリックがあったとは!いやあ、すっかり騙されてしまいました。

ではなぜ、作者はこの小説を刊行しようと思ったのでしょうか。

何度も作品を褒められるうち、「ブタもおだてりゃ木に登る」という言葉がありますように、愚かにもわたしもまたブタのようにその気になってしまいました(Nさんの上手な誉め言葉のせいということにしたいです)。

私はこのインタビューを読んで、小説を読む時の基体、ということを考えました。

ふつう、作者がなんらかの意味で、マジメに書いたと思うからこそ、読者としての私も、マジメに(少なくともつもりとしては)読み、何か意見があったら、それを真摯に述べる、でも、〈遊び半分〉といわれると、どうもマジメに読もうという気分が、乗ってこない。私がマジメにボールを投げても、それを受け止める基体が、存在しない、と思われるからです。

たとえば、ネコがキーボードの上を歩いて、文章ができた。偶然(まぐれ)によるその言葉が、面白かった、と、私が賞賛することは、できます。でも、それがつまらなかったからといって、ネコに、「さっきの文章、いまいちだったよ」ということは、できないのです。つまり、マジメに書かれていない作品というのは、勝手に賞賛を送ることはできても、批判を受け止める基体が、存在しない。

もちろん、実の作者と、バーチャルなモデルとして仮構される作者像は、違う。でも、作品に対する評価は、私と実の作者とで、おおむね一致しているのです。それは、単価1000円の本が、たとえば5万部売れたとして、10%の印税(一説によれば新潮社の場合書き下ろしは12%)で考えれば500万円前後に、〈遊び半分〉が化けるとしたら、たいていの人は、悪い気はしないでしょう。「あえてやってるんだよ」といわれれば、それまで。では私は、どこに向かってボールを投げればいいのだろう。「担当編集N」氏でしょうか。でもそれこそ、輪をかけて、のれんに腕押し、というもの。

こう考えてきて、私は、なんとなく、この作者の方は、それでも、こうしたボールを受け止めようとするだけの感覚を、お持ちなのではないかという、気がするのです。それは、インタビューにおける関係者への気配り、だとか、書籍版で改変されたあの最後の一行(あれは完全に蛇足だと思うのですが、ドライに徹しきれずにイヤミス的完成度を低めてでも勧善懲悪にヌルめて世情を落ち着かせようというところに、どこか人の良さを感じてしまう……)だとかから、わずかに感じ取るのです。もし、そうした感覚をお持ちだとすれば、先に申し上げた、〈遊び半分〉に書かれた作品は、批判も受け止めきれない代わりに、賞賛も本当には、受け止めきれない、ということ、つまり、これだけの賞賛を受け止める基体が、実は自分にはなく、ただ虚しく身体を通り過ぎてゆく、ということにも、いずれ、気づかれるのではないかと思うのです。人気が出たら第二作がどうこうという話は、私にはどうでもいいのですが、もし、作者がこの「虚しさ」を受け止め、はかされた下駄を自ら脱ぐ時がくるならば、その時、〈遊び半分〉だった「宿野かほる」という人格は、真に、小説家としての基体を獲得することになるでしょう。

ところで、キャンペーンが終わったいま、版元が用意していた呼びかけ文は、サイトから消えてしまいました。これは梯子を外された感じで、もし何も知らず、この小説を読んだ読者が、半年後、一年後、この先いたとしたら、いったいどのようにこれらの賞賛の言葉が集まることになったのか、不思議に思われるのではないかと思います。

そこで、その読者の理解の一助のため、魚拓へのリンクを貼り、以下、発売前PR時の文言を、もし、検索でここまでたどりたいた方がいらしたら、という場合を想定して、引用させていただきます。

《担当編集者からお願い》
「すごい小説」刊行します。
キャッチコピーを代わりに書いてください!

読者のみなさまへ
ここに公開するのは、ある日突然送られてきた、まったく名前の知られていない著者による、刊行前の小説です。
ものすごく面白く、そして、ものすごく奇怪な小説でした。
あまりにすごいので、私はいまだ、この作品にふさわしいコピーを書けずにいます。
よろしければ、この小説をお読みいただき、すごいコピーを書いていただけませんか。
(ただし結末は絶対に明かさないでください)
なお、以下からお読みいただける〈キャンペーン版〉は、2017年8月22日に刊行予定の本を2週間限定で事前公開するものです。
よって、まだ修正途中の原稿であり、2週間が経つと消えてしまうものであることをご了承ください。
詳しいキャンペーン案内はこの小説本文の後に付しました。
まずは、この稀有な小説を、ぜひお楽しみください。
そして、みなさまのご応募を、心よりお待ちしております。
担当編集者 拝

〈ご注意〉本作品の全部または一部を、無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。

キャッチコピー案を応募する
【プレゼント】5千円の図書カード&あなたのキャッチコピーが帯になった特装本

社内でも驚嘆の声続々

小説にKO(ノックアウト)されるとは、まさにこの作品のことである。
オリエント急行(殺人事件)クラスの衝撃!!
少なくとも年に100冊は小説を読みますが、ここ5年で最も驚かされた作品。

この夏、新潮社が総力を挙げてお届けする、全く新人の匿名作家の小説です。まあ、騙されたと思って、読んでみてください。必ずや、あなたは騙されるでしょう。でも、“振り込め詐欺”とは違って、損をさせないどころか、騙される読書の快感をタップリと味わえること保証します。
冒頭は宮本輝氏の名作『錦繍』を彷彿とさせる大人の男女のやりとりに胸がドキドキ。
そのうちに奇妙にうねりだす読み味に、ページを繰る手が止まらなくなり、最後には、ただただ絶句……。
たとえこれが他社本でも、間違いなくお薦めしますね。絶対に読み逃さないでください。
読んだ人にしかわからない、この衝撃体験を共に語り合いたいです!

なんの予備知識もなくこの物語を読めたのは、本当に幸せだった。この作品に関しては、どんな些細な一言も、何らかの先入観になり兼ねない。迷っているなら、今すぐページを繰るべきだ。決して損はさせないから。
これから、まっさらな状態でこの作品を読めるなんて、本当に羨ましくて仕方ない。

担当編集者に薦められ、ついゲラに目を通したら一気読み! 短い中にこれでもかというぐらい何度も予想を裏切る展開が繰り返され、読了後はしばしボー然。このとてつもない読後感を誰かと共有したく、すぐに席で声を挙げました。「お~い、これ誰読んだ~?」

「話が違う!」という言葉が、いい意味で口をついて出たのは、50年生きてきて初めての体験でした。あらすじはおろかジャンルも、未読の人に絶対に「言ってはいけない本」です。

まさに一気読み!! ページを繰るごとに妖しさを増す書簡の応酬に本を閉じられない!!
大満足の読書体験をお約束します。この作品、売れる予感しかしない!!

圧倒的に読みやすく、それでいて超面白い!!
人の秘密を垣間見ているようなスリリングな読書体験に、読みながらドキドキとワクワクがとまりませんでした。「とにかく読んでみて!」と人に薦めたくなる小説です。

シンプルなプロットなのに、オセロの石がぱたぱたとひっくり返っていくようなどんでん返しの連続に瞠目。さらに……ラストまでいくと、まったく新しい貌が立ち上がってきます。
読み終わった人と、この本について語り合いたい! そんな思いにかられるミステリーでした。

人間はどこまで「化けの皮」をかぶれるのだろう。
身の毛がよだち、悪寒が走る戦慄の仮面(ペルソナ)小説。

男女ふたりのメールの秘密は、ミステリーを800冊以上(たぶん)所蔵している私の、どの書棚にも分類不可能なものでした。秘密が明かされていく過程で、自分史上MAXの興奮を味わいました。

一気に読みました!
「ルビンの壺」の絵を見たときのような「図」と「地」の関係性の変化にドキドキしました。
読後に誰かと語り合いたくなること間違いなしです!

SNS空間で繰り広げられる、男女の世界。
かつての恋人と、SNSでつながってしまうと、こんなことになるのか……
賭博黙示録カイジ』を彷彿とさせるような展開に、「エライもん読んでしまった!」という読後感です。

心臓に悪い小説です。昔の恋愛を回想追憶する手の小説かと思いきや、「?」と「!」が交互に津波のように押し寄せてきて、頭はフル回転で熱くなり、背筋はどんどん冷たくなって終いに全身フリーズ状態。
……読んでください。驚きます。

こういうおもしろさの小説をどうやって読者に届けるか――。出版社の腕を試される1冊になる……と身震いしています。

こんなにも期待を抱かせる小説に巡り合えること。これこそ、小説を売る仕事の醍醐味でしょう! 読み終えた直後から、この本が話題になっていく未来が目に浮かぶ! あーもう、ワクワクが止まりません!

 

 

 

書き手と読み手のマジック・ミラー的関係についての走り書き

 昨年、室井光広の批評集『わらしべ集』を読んだら、そこに通底するマジック・ミラー的世界像にガツーンと衝撃を受けた。
「マジック・ミラー的世界像」とは、私が仮に名付けたものだが、たとえば柳田國男を論じた次のような文章におけるモデルだ。

 

「この世の中には現世と幽冥、すなわちうつし世とかくり世というものが成立している。かくり世からはうつし世を見たり聞いたりしているけれども、うつし世からかくり世を見ることはできない」(「ワラシベ長者考」)

 

 つまり、あの世からこの世は見えているが、この世からあの世は見えない、という、非対称的な関係である。
 この関係は、たとえば創作における「古典」と「現代」との関係において、次のようにも言い換えられる。

 

先祖が限りなく反復作業した同じ土地が男の前にある。しかし、この男がこの作業をこの土地でするのはこれがはじめてなのだ。(……)
 歴史という反復の土地に祖霊の声がこだまする。一回性のこの私がそれを背景に不器用なアリアをうたう。才能のあるなしをこえ、全古典に対峙する個人の位置関係をオペラ的に表現すればそういうことになろう。私が何かみすぼらしい内容の自作の歌をうたう。すると、背後の古典があのギリシャ悲劇の場面のようなコロスとなってある種のメッセージをエコーさせる。(……)
古典重層山脈への信仰の無いところでは、声は決してエコー化しない。(「泥縄式古典論」)

 

 現代に生きる我々の発する表現が、「祖霊=古典」との関係において何らかの「エコー」を生じる。それは、聞こえない人には聞こえないたぐいのものである。しかし、それは、聞こえる人には確かに、聞こえる。というか、聞こえる人にとって、あらゆる現代の表現は、どのように「みすぼらしい」ものであっても、過去との関係を持たずにはいない。過去は、具体的なモノとして触れられはしないが、われわれを監視している。現代に生きる者にとって、過去とは、そうしたマジック・ミラーの向こう側にある存在なのだ。そんなもの、ありはしない、幻想に過ぎない、と、一笑に付すこともできよう。しかし、もしその実在を信じるならば、ある種の事象、ないし、力をすっきりと説明できることも、確かである。
   ※
 このマジック・ミラー的感覚を受けて、私は、小説の作者と読者との関係のことを考えた。この場合、作者が「うつし世」、読者が「かくり世」である。作者(うつし世)は作品を商業的に発表することで読者(かくり世)から視線を集める。この場合、ほぼ全ての作者(うつし世)は、まだいるかいないか分からない読者(かくり世)の実在を信じて、作品を書くのである。その関係は圧倒的に非対称であり、読者のほうが数が多い。しかしインターネット登場以前なら、この両者の関係は、まだ遠かった。ないし、間接的な壁が強かった。

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 しかし、インターネット登場以降、この壁の「マジック」が、薄くなった。読者(かくり世)は作者(うつし世)に、以前より直接に視線をぶつけることもできるし、また、作者のほうも、読者の具体性に注目することのできるケースが増えた(エゴサーチとその後のウォッチングが、その例である)。

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 SNSの登場以降、以前なら「かくり世」にとどまっていた一般人でも、「炎上」することが多くなった。炎上とは、先のたとえでいえば、「かくり世」にいるつもりでの発言が、予想以上の注目を集め、いつの間にか「うつし世」にステージが移ってしまっていた、ということである。
 そう。ひとたび誰でもアクセスできる場で発言=テクストを生成するならば、うつし世=かくり世のステージは、かつてより容易に流動しうるのが、現在である。
 アマゾンレビューなり、読書メーターなり、ブログなり、ツイッターなりで、読者が、作品に対して感想を述べる。するとその感想という発言=テクスト=作品を通して、「マジック」の壁は薄くなり、誰でも「うつし世」=作者のステージに、立つことができる。すなわち、次のような関係である。

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 読者とはいわば覗き魔であり、作者は露出者である。先日来、話題になっている市川哲也氏の言葉は、ミステリ小説を長年読みつけたヒトにとっては、なじみ深いものだろう。小説の読者には、ゆくゆくは露出者になりたいと志望する覗き魔が常におり、露出者のステージをよく品評する。その品評という行為は、自身を小さなステージに立たせることに直結するのだが、それに気づかないまま、未だ覗き場の闇にいるつもりでぶかっこうなたたずまいでいる者も、多いようだ。たぶん、ステージで受けるスポットライトに、慣れないのだろう。
   ※
 インターネット上においては、このように、うつし世とかくし世の立場は流動しうるのだが、かくし世の住人の中には、この流動性が、理解できない者もいるのである。最悪の場合(本当に本当に最悪の場合)、この覗き魔の発言は、ほとんどテロ行為にも等しくなりうる。
「作者に向かって、オマエの書くものはツマラナイから、筆を折れ、と、あるいは、○すぞ、と、なぜ言ってはいけないのか?」
 こうした疑問文を発さないなどという程度の最低限以下の良識は、読者の側へ暗黙のうちに常識的なものとして委ねられている。しかし先に挙げた匿名という「マジック」は、時に良識を狂わす。もしこの疑問文が、発する者にとって根本的に理解できないものとして発されるならば、それは誰にも防ぎようがない。一方で、作者が忍耐しうるものでもない。その場合、その発言は作者ー読者というレベルでの関係を壊し、まったく別種のレベルにおける記号となるだろう。
   ※
 自分の言葉を公に出す、という行為は、自身を露出者のステージに立たせるということである。にもかかわらず、未だ覗き魔の暗がりにいるつもりで明るみに出てきてしまうヒトがいる。
 私がこのブログを開設したのは2008年だからもう九年前だが、その一端には、そうした、頭隠して知り隠さずな言動を当時、見聞きすることがあって、それに不満を覚えたからである。以来、何かを批判する際には、その対象の作者ないし編集者、賛同者への手紙のつもりで、駄文を書きつづってきた。どのような感想でも、それは私なりに応援したいという気持ちで、讃歌のつもりで、書いた(そこに確かに技術がともなっているかどうかは定かではないが……)。
 スタージョンの法則(「あらゆるものの九割はクズである」)が巷間、しばしば言われる。ではその「クズ」の存在価値がないかといえば、そうではない。「働かない蟻」のようなもので、むしろ、一割の傑作はわそうした九割のクズに、その存在を依存しているのである。もし九割のクズを排除したならば、一割の傑作の総量も、十分の一になっていることだろう。このレベルではいわば、九割のクズは「かくり世」であり、一割の傑作は「うつし世」である。
 安価な「古典」(かくり世)は、一個人(うつし世)の前に、接しきれないほど大量に存在する。一方で、雑誌なり単行本なりで比較的高価に生産される現代の「新作」は、「古典」のレベル、基準に厳密に比べるなら、そのほとんど(99%)は読むに耐えないものだろう。しかし、そうした「古典」のレベルに耐えないからといって、ならば「新作」は存在すべきではないのかというと、そうではない。「古典」(うつし世)のさらなる背後には、その同時代に、より膨大なクズ(かくり世)があったからだ。つまり、両者は互いに存在を依存しているのだ。
 私の考えでは、こうした流動的なマジック・ミラー的構造への認識こそ、すなわち「古典重層山脈への信仰」であり、それなしに、「声は決してエコー化しない」。この信仰を、これをここまで読んでくださっている、あなたへと向けて、書きつづった。

再説・走馬灯

ある方から教わり、ギャビン・ブライアーズの「Jesus Blood Never Failed Me Yet」(イエスの血は決して私を見捨てたことがない)という曲を聽く(有名な曲らしいので、検索してみてください)。

この曲は成り立ちが複雑であるので、ここでちょっと説明する。ブライアーズは現代音楽家。1971年、友人がロンドンの街をドキュメンタリー映像にした。その記録に、ホームレスが賛美歌らしい曲を歌うところが混じっていた。ブライアーズは、鼻歌のようなその25秒程度のサンプルフレーズをオーケストレーションに乗せ、ループさせることを思いつく。時はレコードの時代。片面ギリギリの約20分までループさせた。(本人の説明は以下)

http://www.gavinbryars.com/work/composition/jesus-blood-never-failed-me-yet

ループに採用されている歌詞は以下の通り。

 

Jesus' blood never failed me yet
never failed me yet
Jesus' blood never failed me yet
This one thing I know,
for he loves me so

 

この曲が評判を呼ぶ。CDの時代になり、1993年、ブライアーズは新たに70分を超えるバージョンを新録する(トム・ウェイツの歌も乗せた)。

聴いてみると確かに、不思議な力がある。なぜだろうと考えると、以下のようなことが思い浮かんだ。

春頃に、鑑賞者の記憶を急激に刺戟するようなテクニックを、仮に「走馬灯効果」と呼んだ。この「Jesus Blood Never Failed Me Yet」も、近いものを含んでいるのではないかと思う。

まずバックのコーラスとオーケストレーション。日常的というよりはどちらかというと物悲しく宗教的な崇高さで、この曲を聴いているあいだ、俗(生)から切り離されそれを俯瞰する聖(死)という感じに包まれる。ASA-CHANG & 巡礼の代表曲「」も、聴いているとなんだか精神のダークサイドに引き込まれるようなオソロシイ曲だが、バックのストリングスの元ネタはSADEの「PEARLS」で、これのミニマルな繰り返しの効果が大きいように思う。というのは、よりフィジカルなライブバージョンを聴くと、あんまりオソロシくはないからだ。

次いで歌詞。「Jesus' blood never failed me yet」というフレーズは、キリスト教に幼少時より親しんできた人ならばとりわけ、記憶領域を刺戟されるに違いない。かつてこのブログではエリアーデの、〈この経験には元気づけられます。自分の時間をなくしていない、人生を散逸させなかったと感じるのです。すべてがそこにある、たとえば軍務のような、無意味だと思って忘れていた時期さえも、すべてがあり、そうして自分はある目標に導かれていたということが分かります――ある指向性に。〉という言葉、またレミオロメンの〈三叉路 十字路 五叉路も振り向きゃ一本道だ〉というフレーズなんかを紹介してきたが、そういう感じ、つまり、人が過去を振り返ると、そこは一本道になっていて、断片的に思われたあれやこれやの雑多な経験も、すべてつながっている、無駄なものは何一つなく、すべてが意味のあるものとして蘇る、そして普段は気づかないかもしれないが、そこには常に一つの意志が働いていたのだ。という感懐が浮かぶと、人は、涙腺を直撃されやすいらしいだ。これが先に「走馬灯効果」と呼んだものの正体である。

「Jesus Blood Never Failed Me Yet」は、短いフレーズを繰り返すミニマル・ミュージックの一種である。25秒のフレーズを70分以上繰り返すのだから、単純計算でも同じ歌詞を160回以上、唱えることになる。しかも変化が少ない。むしろそこでは、繰り返しの上で、聴き手の記憶、感情が変化する。

このテクニックを使用するものとしてもっとも身近なのはおそらく、最近よくある、結婚式での花嫁による手紙朗読ではないか。この前も、東京ガスのCMで、似たようなことをやっていた。このCMの場合、「やめてよ」の反復がベースとなるミニマル・フレーズであり、個々のエピソードがその上で移りゆく差異である。つまり、結婚式というものが、ある種の最終回、シーズン・ワンの終了、に見立てられており、そこで人は、手もなく泣かされてしまうらしい。しかし他人の結婚式でそういう場面に遭遇するとわかるのだが、エピソードを共有している当人たちに比べると、その蚊帳の外に置かれた状態の人間は、同じコトバに接しても、いまいち涙腺を刺戟されない。

もし、「Jesus Blood Never Failed Me Yet」を、キリスト教にあまり親しくない聴き手が、歌詞の意味もよくわからない状態で聴くと、どういうふうな印象を持つのだろう?

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占いの思い出

anatataki.hatenablog.com

そういえば今年の一月ころ、生まれて初めて「占い」というものを紹介されて体験しました。

それはタロット占いでした。わたしはタロット(都筑道夫ふうにいえばタロー)が実際にはどういうものかもよくわからない状態だったのですが、占い手の方もフツーの感じで、別に超自然的なものを人格として捉えて、つまり「霊感」を「占い」の根拠としているわけではない。どちらかというと、カードで出た結果をダシにして、カウンセリング(カウンセリングを受けたこともないのですが)というか、対話によるセッションを行なう、という感じがしました。

まずどういうナヤミについて話すかを決める。わたしがカードをいくつか引く。なんらかの図柄が出る。この図柄は○○という意味なので、思い当たるかどうか、尋ねられる。正直、ピンとこないことも多い。占い手の人ももちろん私の個人的な事情は何も知らない。わたしはウンウンうなりながら、(こういう意味なのか?)などと考え、思いつきを話していく。するとしだいに図柄の組み合わせと思いつきによってあるストーリーラインができてきて、落としどころに落ちつく。

このときわたしは、当初予想もしなかったことを思い出しました。それは高校生の時に父親の本棚から勝手に借りて読んだ、トンデモ本でした。その存在を、十年くらい、すっかり忘れていました。結果、わたしは深層心理として、「本当はうさんくさいものが好きなくせに、それを恥ずかしがって、認めようとしない。もっと自分のうさんくさいもの好きを認めてはどうか」という話に落ち着きました。

ナルホド、これは物語制作だと思いました。

引いたカードの図柄は偶然にすぎない。これはどういう意味だ?と落とし所を考えるうち(そうしないとセッションが終わらないので)、事前に予想しなかった結論が導き出される。このとき、偶然にすぎなかった図柄は、結論と必然的に結びついています。わたしはアレコレと考えるうち、日常の中で固着していた見方(主観的・具体的)が客観的・抽象的に撹拌され、少々恥ずかしい記憶が見出されました(でもあの本は『水晶のピラミッド』とか、『星を継ぐもの』みたいな感じの壮大なアイデアで、インパクトがあったな)。ここには神秘的なものは、何もない。単に、考えを整頓したという、「作業」の体感が残るだけです。「結論」を頼りにしてもいいいし、しなくてもいい。まあ半信半疑ではありますが、せっかくいくばくかの金銭的・時間的なコストを費やしたのだから、せめて元はとりたい、と思うのは、人情でしょう。

そうか、「占い」の一端とは、こういうものなのか。

以来、わたしの今年のテーマとして、「うさんくさいものに身を任せる」というのが立ち上がったのですが、半年が経ち、その記憶もうすれかけてしまいました。こういうのは、外部から強制されるのではなく、自分をレセプターとして待ちの状態を設け、アンテナを張り巡らせる、つまり、ある意味では「共犯」志望のスタンスでなければなりません。でも、「うさんくさいもの」とは、まだまだ、出会っていないような気がする。

残り五ヶ月、どうなるのかな。

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