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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

すっかりミッド・ウィンターですね。

これは前にも同じことを述べたような気がするんだけど、何か書く(あるいは作る)時のやりかたを有酸素運動無酸素運動にたとえれば、私はかなり無酸素系である。ゆっくりかつ悠々と語る資質に欠けていて、あるていど見取り図ができてきたら、短時間で一気にバーっと書いてしまう。別にそれが良いと思っているわけではなく、どうもそういうやりかたしか(今のところ)できないんですね。

なんというか、こう、日々の呼吸を取り入れながら目論見を達成していきたいなあ、とおもう。

映画

そういえば映画『この世界の片隅に』を見て胸中に思い浮かんだことごとを書いていなかったので、今のうちにそうした雑感をメモしておきます。


◯この映画には何か、見る者を引きつけ、それぞれが読み取りたいものを読み取ることができる、鏡のような、ブラックホールのような感触がある。この抵抗感のなさは凄い。
◯なぜこのような抵抗感のなさが可能なのだろうか。もちろん技術力の高さ、さらにそれを感じさせないだけの技術力の高さがあるのだろうことは、門外漢の私にもうすうすとわかる。しかし加えてアニメーションという表現媒体によるところも大きいとおもう。筋の進行は時系列通りに進むが、小エピソードの連なりというところは「サザエさん」的でもある。たとえば先の「抵抗感のなさ」は、「サザエさん」に抵抗感を覚えないのと同じようなものなのだろうか。これが実写だと、どう頑張っても違和感は出てくるのではないか。
◯しかしそう考えたとき、私はフレデリック・ワイズマンのいくつかのドキュメンタリーをおもいだした。ワイズマンの映画にも「抵抗」は感じない。この作品をめぐっては「ドキュメンタリー的」という評言をいくつか見たが、おそらくそうした感想が出てくるのは、そこにいる(いた)人々の日常の再現というところに主眼の一つがあるからだ。ではここで私のいう「抵抗感」の正体とはいったい、なんなのだろうか。
◯「抵抗感」とはおそらく、「作り物性が出過ぎていて、作中の中にうまく入っていけない」という時に覚えるものだ。だからアニメーションだろうとドキュメンタリーだろうと、「作り物性」が鼻につけば「抵抗」を感じるし、作劇技術の高いレベルにおいては、「抵抗」を打ち消すことができる。しかし「抵抗感のなさ」だけでは、ブラックホールのように「引きつける」までにはまだ、たどり着かない。「ここに描かれている世界とオレのいる世界とは、見た目は違うが連続しているのではないか」という強いリアリティの感覚が必要だ。
◯「太平洋戦争下の広島の日常」を題材として考えるとき、その情報量はとてつもなく大きい。ここでいう情報量とは、見る者がこれまでに溜めこんできた記憶の集積も含めてのことだ。誰もが何らかの記憶を持ち、時には目を背けたい、思い出したくない、ストレートに語ることのできない困難さ、まともに向き合えばいたたまれなくなってしまうからこそクリシェとして情報を簡略化することで精神の安定を図らずにはいられないほどのスケールの大きさ、またそうして消費してきたこと自体にまつわる後ろめたさ、胡散臭さ……等などが当然ある。
◯そうしたあまりにも大きなものをストレートに投げつけられると、見る者の器は壊れてしまう。良いピッチャーの球を受けるには、良いキャッチャーになる必要があるからだ。この映画を見ていると、間口の広い、低いところから、しだいしだいに高いところへ連れて行かれるような感じ、つまり二時間の中で自分がキャッチャーとして育てられてゆくような感じを持った。最初に直観した、「抵抗感のなさ」と、「見る者を引きつけ、それぞれが読み取りたいものを読み取り……」とはおそらく、そういうことだとおもう。だから、重くストレートなものは一度見ればグッタリしてしまうが、この映画はその大きさにもかかわらず、多くの人がくりかえし見られるし、実際に見るのではないかとおもう。
◯私は涙もろいので、だいたい開始五分くらいで堤防ぎりぎりとなり、流れこむ水になんとか耐えていたのだが、もちろん彼らを待ち受けるおおよその運命は知っている(原作未読)。最近、「歴史物は最初からネタバレ」云々などと口にする人がいるが、この場合、筋の結末を「ネタバレ」と捉えるのは適当ではない。以前、桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』角川文庫版の辻原登解説から、『オイディプス王』についての「劇的アイロニー」という言葉を引用した。

毎年三月、ディオニュソスの大祭のとき、アテネで上演された『オイディプス王』を観て、アテネ市民はその都度、オイディプスの運命を哀れみ、同情して涙を流す。劇が終わると、観客は涙をぬぐい、一種晴れ晴れと澄み切った気持ちで野外劇場をあとにした。
 なぜ、毎年、同じ劇を観、結末を承知しているにもかかわらず、人々は涙を流すのか。いや、そうではない。観客は、劇のはじまる前に、オイディプスの運命を知っているからこそ涙を流すのだといえる。
 観客は分かっているが、登場人物は知らないことになっている皮肉な状況、劇的アイロニーと呼ばれるこの状況が、じつは涙の源泉なのだ。しかし、おのれが何者なのか、と最後の最後まで捜査を推し進めてゆくオイディプスは、すべてを知っているつもりの観客の思惑を越えて、彼みずからを謎にみちた存在、怪物へと変貌させてゆく。
 その変貌に立ち合ったとき、結末を知っていると高をくくった観客・読者は、おのれの存在がいかに卑小なものであるかを思い知らされ、おそれおののく。このときだ、ほんもののカタルシスがおとずれるのは。

観客は、眺めている登場人物の「運命」を知っている。しかし、眺められている登場人物は、その「運命」を知らない。そしてまだその「運命」は到着していない……。この宙吊りの感覚を、「サスペンス」として捉える論にこのところ関心を抱いているのだけれども、それはひとまず置く。しかし私は、この一文を読んで以来、〈結末を知っていると高をくくった観客・読者は、おのれの存在がいかに卑小なものであるかを思い知らされ、おそれおののく。このときだ、ほんもののカタルシスがおとずれるのは。〉という感覚を、今回初めて実感した。それは登場人物だけではなく、「太平洋戦争下の広島の日常。ナルホド……」という事前の「高をくくった」感じを超えてゆく、制作側の突破力に対してでもある。
◯私はこれまであまり感じていなかったのだが、感想を見ていると、戦後教育への反発はこれほど強かったのか、と驚いた。もちろん知識としては知っていたが、自分が反発を感じたことはあまりなかった(というか私の場合、良くも悪くも、記憶に残るほどの反発や尊敬を覚えた教師を持っていないのだが……)。
これも以前引用したが、小林信彦の『時代観察者の冒険』(新潮社、1987)の一節を想起する。

41年前の8月15日を語ることの困難さは、まさに、この奇妙な〈明るさ〉にある。8月15日そのものは、41年前もたってしまえばたいした意味はないので、問題は、8月15日に終った太平洋戦争(ぼくの記憶の中では今でも大東亜戦争であるが――)をどう考えるかだ。(……)〈戦争を語り伝える〉というのも、ほとんど至難のわざである。そうした〈わざ〉を持続しておられる方々への尊敬の念は別として、ぼくはといえば、自分の子供さえ説得しかねているありさまだ。「戦争は……」と口に出しただけで、「クラい話!」という否定的な声がかえってきて、二の句がつげなくなるからである。〈語り伝えられる側〉の気持もわからないではない。ぼくが子供のころ、〈震災記念日〉というのがあって、当時からみても20年ほど前の関東大震災をしのんで、黙とうをささげたり、記録映画を見せられたりするのが、ひどく、うっとうしかった。こんなものがオレにどういう関係があるのか、と腹立たしくもあった。――今の子供が〈敗戦記念日〉〈終戦記念日〉について抱く印象は、あのいらだちに近いのではあるまいか。(「現代の奇妙な〈明るさ〉」初出は京都新聞1986年8月15日)

あるていど自我ができてくると、信条を押し付けられることに対して反発――抵抗を感じる。信条というものは自分で選び取ったほうが強い。くどいようだが、「抵抗感のなさ」というのは、時間が経ち、〈語り伝える〉側にも世代交代が起こったということも大きいとおもう。あまりにも近く、激烈なことというのは、発信者も、受信者も、屈折した、たどりにくい表現、すなわち、「抵抗感のなさ」に対する抵抗を伴うことが多いから。

◯押し付けは何も戦後に限らず、もちろん戦前からあった。しかし、「精神性は何も変わっていないではないか」と感じられるイヤ~な連続性は〈オレにどういう関係があるのか〉どころではなく、日常のそこかしこにある。数十年前の人物の運命に涙し、女優の不遇に憤りを覚えるその同じ心が別の誰かを踏みにじって〈オレにどういう関係があるのか〉と平然としていてもなんら不思議ではない。しかしたとえば玉音放送を聞いたすずが見せるあの「激情」のかたち、最後にとる行動の意味は、加害と被害は流動するということに気づかなければわからない。実は私は見ている最中はわからなかった。上のように考えてきて、ようやくわかったような気がした。〈関係〉を受け取るキャッチャーとなることを、押し付けではないかたちで自らが選び取る間接的な力となること、もし作品に何らかの力があるとすればその場所においてだろう(こういう重要なことは直接的にいうとそれはそれで胡散臭くなってしまうので、あまりいわないが)。

◯私が作品との〈関係〉で受け取ったのは、そんなようなことだった。

音楽

いわゆるPPAP動画を見たのは二週間前で、それでようやく私は、一連の話題がどういうものであるかを知った。

それからいろいろなアレンジバージョンを見たりすると、やはり元がダンス調だからか、EDMふうのものがピッタリくるように思った。

http://fatherlog.com/ppap-arrange/

しかし一番印象ふかいのはこのWHITE JAMというクリスマスソング風の人たちである。

https://youtu.be/yl_rfoI313c

音楽版文体練習と化した素材としてのPPAPはそれ自体ほとんど無内容である。だから各人のアイデアと技術力の差が浮き彫りになるが、レベルが高ければ高いほど「◯◯風」という形式自体がもつ力も感じられてくる。

上記クリスマスソングの映像は物語仕立てになっている。歌詞自体に物語性は皆無なのにもかかわらず、どういう内容のストーリーであるかは一見すればわかる。それは「クリスマスソング」という形式自体にまつわるいわば紋切り型のストーリー(「一足す一は二だよ」式の)を採用したことが大きそうだ。

興味ふかいのは、ストーリーが作られることによって、無内容に思われた歌詞が何やら意味をもって感じられてくることだ。

クリスマスソング風では、「I have a pen tonight」と、「tonight」の語が新たに付加されている。これを「俺は今夜、突起物を持っている(そしてそれを果実に突き刺そう)」などと解釈すれば、単にヒワイである。しかしそこから更に踏み込んで、「一足す一からさらに新たな一を生み出そう」などと捉えることもできる。いやそうではなく、ペンという筆記具に林檎という知恵の実が合わさることで新たな未知の領域が開かれるのだ……たとえば意図不明な歌詞にエモーショナルな力を持つ形式が合わされることで、こうした寓意的な解釈が可能となるように……というようなことも考えられるのではないか。

そういう実例を目の当たりにしたようにおもった。

本人のCDも来月初旬に発売されるそうで、人のいい私は、自分になんの関係もないにもかかわらず、(せめてそれまではブームよ持ってあげてくれ〜)などとつい願ってしまいますが(ボキャ天世代だから)、たぶん忘年会でやる人も多いだろうから、年末くらいまでは続きそうですね。

一年半ぶりくらいになんとなくショートショートを書いてみました。

kakuyomu.jp

最近特にここに書くことがないというか、腰を据えて読んだり書いたりしていないのですが、以下雑感です。

室井光広『わらしべ集』(深夜叢書社、2016)という本が出ています。
http://shinyasosho.com/home/book1610-01/
論考中心の【乾の巻】と書評中心の【坤の巻】という二巻本で、今は【乾の巻】を読んでいるんですが、これがすごい。圧倒されっぱなし。おそろしいくらいに本当のことしか書かれていない。
室井光広といえば現代日本でも最重要作家の一人でありながら、独特の文体ゆえか読者が少ない気がするのですが、その名著の数々には学ぶところ激甚(とりわけ「模倣」だとか「引用」だとかの奥義については)。目次を見て気になる方は手にした方がいいです。

浦賀和宏『緋い猫』(祥伝社文庫、2016)
珍しく1950年代を舞台にした、220頁くらいの中編。しかし読後感、重い……ある時点から登場人物が失明してしまうんですが、ジーン・ウルフ「眼閃の奇蹟」のような盲目小説の系譜でもあるかもしれない。
浦賀和宏の小説には奇妙な不安定さがある。たいていのミステリはもっと足場がしっかりしていて、探偵は事件を慎重に検討することができる。けれど浦賀作品では信用ならない人間があまりにも多すぎる。主人公含め誰も信用できない場合もあり、世界全体に対するこの根本的な不信感に私は、ディックや連城三紀彦に通じるものを感じる。
それくらい信用できない人間だらけだから読者は常に作中人物の会話には眉唾なのだが、若い主人公だと、眉唾感アリアリの話に即「怒った」とか「悲しんだ」とか直情的に反応してしまうので、「もっと慎重になった方がいいのでは?」と当惑させられる。つまり読者は主人公もそれ以外も何も信用できない不安感にさらされる。
この不安感が語りのレベルにまで及ぶ作品がいくつかある。『頭蓋骨の中の楽園』を頂点に、『こわれもの』『眠りの牢獄』最近だと『ふたりの果て/ハーフウェイ・ハウスの殺人』などだろうか。もちろんそういう作品は量産できるものではないから、最近は語りの操作を禁止して、あるていど底のレベルが見える作品を書かれている印象を受ける。
(主人公は今こんなふうに考えているが、こいつは必ずこのあと滅茶苦茶ヒドイ目に遭う)とあらかじめ知っているにもかかわらず、その詳細がわからないサスペンス感覚と、自分が読んでいるものがなんなのか、最後まで半ば推理を禁じられた不安感……浦賀作品のエッセンスとして、本書でその二点を想起しました。

最近、Ulverという人たちをよくきいています。ブラック・メタルとして出発しながらアルバム毎にスタイルを変えていき、オーケストラと共演したりウィリアム・ブレイクの「天国と地獄の結婚」をアルバム化したりしている。特に『shadows of the sun』https://ulver.bandcamp.com/album/shadows-of-the-sunというアルバムは、ドラムもギターもない重苦しいアンビエントみたいな感じですごい。リプレイしています。

サンプリング・アルバムは走馬灯の夢を見るか?――法月綸太郎『挑戦者たち』

ミステリ

法月綸太郎の『挑戦者たち』を読んで、僕はずいぶん懐かしい気持ちになった。十代の頃、むさぼるように読みふけった本格ミステリで接した「読者への挑戦」という文章から受けた、あの不思議な感じを思い出したからだ。
この本の形式をどう呼ぶかは難しい問題だが、レーモン・クノーの『文体練習』をモチーフにした99の言語遊戯あるいは掌編集と、ひとまずはいうべきだろうか。本格ミステリというジャンルに固有の「読者への挑戦」という文章を、『文体練習』よろしく99通りの文体で書き分けた……とまでいえないのは、実際には、「読者への挑戦」をテーマとするエッセイやショートショートの類いも含まれているからだ。
法月綸太郎という作家のキャリアの中では余技(とはいえ恐ろしく手間のかかった)に入るだろうし、「賢明すぎる読者諸君に告ぐ――これは伝説のミステリ奇書である」「さて、この本の面白さが諸君にわかるかな――」というアオリ文はなんだかいかにも「博覧強記」ぶりをイヤミにアピールする売り方に感じられて、(そう急いで読む必要はあるのかなあ……)などと思っていたら、おそらく三時間もあれば通読できるだろうこの本の途中で、僕はうっかり泣き出しそうになってしまった。

本編の内容に触れる前に、一つの音楽アルバムを紹介しよう。それは、The Avalanchesのこの七月に出たセカンド・アルバム『Wildflower』だ。以前にもこのブログで言及したことがあるが、2000年にリリースされた『Since I left you』はボーカルも含め全てのサウンドがサンプリングだけで出来ている驚異のアルバムとして話題になった。それから実に十六年ぶりの新作である。デビュー作の印象が強すぎ、リリース以来なかなか聞き出せなかったのだが、つい先日再生してみた。なかなか良かった。前作とほとんど変わらないサウンドの感触に安堵し、そして僕はやっぱり懐かしい気持ちとともに、ふいに泣き出しそうになった。
これは僕だけではなく、たとえばロッキング・オンのサイトでは小池宏和という人が、こう書いている。

『ワイルドフラワー』にあるのは、まさにいつの世も路傍の花のように咲く、音楽バカの思いである。リスナーの世代が交代しようが、新しいスタイルが生まれようが、これを求めている人はいるはずだ、という確信だけが鳴っている。で、「ああ、俺は本当にこれを聴きたかったんだ」と阿呆のように気づかされて、泣きそうになる。(……)テクノロジーやアイデアの新しさだけでは零れ落ちてしまいそうな、言葉通りの意味でのタイムレスな価値が、ここには詰まっている。http://ro69.jp/blog/ro69plus/145798

なぜ、「タイムレス」な不変性が「泣きそう」な気持ちを誘うのだろうか。『Wildflower』を聞いて僕が感じたのは、「これはまるで夢というよりか、走馬灯のようだな」ということだった。たとえばある曲では映画『サウンド・オブ・ミュージック』から「私のお気に入り」があからさまに引用される。またある曲ではThe Beatlesの「come together」のボーカルがピッチを上げられ、子供のコーラスのように改変されて現在のラッパーがフロウするバックトラックに配置される。そのように時代も場所もジャンルも異なる様々なサウンドが、一堂に会して曲を作り上げる。「私のお気に入り」や「come together」は超有名曲だが、60年代ソウルや80年代ヒップホップの聞いたことのないマイナー曲などであっても、(この時代のこういうジャンルってこういうサウンドだよな)くらいのイメージは誰でも持っているだろう。つまり、あらゆる時代・場所・ジャンルの音源が絶え間なく入れ替わり組み合わされることによって、聞き手がこれまで生きてきた全時間を貫く聴覚の記憶が、意識的/無意識的な濃淡に拘わらず、再生しているあいだ常に刺激され続けるのだ。それは夢の作用に似ている。いや、聞き手の全時間が素早く現れては過ぎ去っていく様は、死に際に活発化した脳が見せるという回想のようだ。
「泣きそう」な感覚とはおそらく、そこからくるものなのだ。録音された情景は、現実の時間から切り離され、死者のように何も変わらないまま聞き手の鼓膜に届く。彼らが住み、作り上げる世界は、まるであの世のようにハッピーだ。

『挑戦者たち』の狙いも、おそらくはそこにある。法月綸太郎によるサンプリング・アルバムともいうべき本書は、単なる『文体練習』のパクリないし変奏ではない。「読者への挑戦」というものの存在意義を「探究」し続けてきたからこそ、書くことができたものである。「読者への挑戦」とは何か。それはそれなりに広い幅をもつ「本格ミステリ」というジャンルを貫く、巨大な共通項である。ある時から広がり始めたこの流儀に対し、ある作家は真面目に自作へ採り入れた。ある作家は単なる飾りとして挿入した。ある作家は古典復興を目論んで挑戦した。ある作家は古臭い遺風として笑いのめした。
そうした作例の集積として、「読者への挑戦」という歴史的装置はある。それが様々な文体と掛け合わされた時、読者(とりわけ、本格ミステリをよく読んできた)はこれまでの全時間における様々な記憶を刺激されるだろう。初めて本格ミステリを手にした時。つまらない授業中に机の下にコッソリ隠しながら読んだ時。自分でも何かトリックを考案しようと頭を悩ませた時。寡作家の復活作に歓喜した時。高騰した古書をやっと入手したら復刊されることを知った時。もうこんなものを読む子供でもないだろうと思った時。……それだけではない。『古畑任三郎』のドラマを毎週追いかけた時。震災後の不安な時間につい覗いたTwitterでおバカな改変ネタに吹き出してしまった時。つまらないジョークを聞かされて内心ムッとした時。ある問題の解決法を検索して「Yahoo知恵袋には自分が辿り着く前に既にあらゆる悩みが相談されているんだな」と感じた時。あまりにも疲れ果てて、もう何も文字が目に入らなくなった時。……
一編一編だけなら、インターネット上で誰でも発表できそうな「あるあるネタ」から本書が脱しているのは、集積によってこうした時空間のスケールを獲得しているからである。この点に関し、スタニスワフ・レム『完全なる真空』の書評形式を下敷きにした「不完全な真空」で、作者はこう自註している。

クノーの対戦スタイルから多くを学びながら、その拳をピンポイントに連打して伝統的な本格ミステリ形式をノックアウトしようと目論んでいる。「読者への挑戦」という針穴を通して、謎解き小説の全体像をあべこべに映し出す「カメラ・オブスクラ」的なメタフィクションと呼んでもいい。

つまり、クノーの『文体練習』は素材をありふれた日常のスケッチに採ったが、本書ではそこにレムの「架空の書物」というスタイルをもまた接ぎ木することで、「架空の本格ミステリの読者への挑戦」という針穴=断片から逆照射しジャンルの記憶まるごとを読者の脳裏に召喚しようとしているのだ。
ユーモアに紛らわせて、随所に鋭い考察がある。瀬戸川猛資ふうの「挑戦状アレルギーの弁」などはエッセイとしてもすぐれた批評で、

あえて極論をいえば「読者への挑戦」というのは、物語の作者が読者に対して、
「俺の考えた謎を、俺が引いた図面通りに推理して、俺と同じ答えを導いてみろ」
と頭ごなしに命じるようなものだ。しかし、読者にしてみれば、そこまで律儀に作者のわがままに付き合う義理などありませぬ。挑戦状がなかったら「なるほど」で済んだかもしれないのに、なまじ作者が俺様仕様のルールをごり押ししたせいで、「そりゃそうだろうけど」という醒めた感想を引きだしてしまうわけである。

という指摘には示唆を受けたし、そこからクリスピン『お楽しみの埋葬』へと広がって「選挙というのは、複数の候補者から代表一名を選びだすイベントだから、本格ミステリの犯人当てとイメージが重なるのはいうまでもない」と読むのは面目躍如というところ。文学理論ふうの「分類マニア」に書かれた、

「作者説」=「挑戦状」はもともと二つに分裂しており、その片割れどうしが「問題編」と「解決編」双方に属しているという立場。(……)要するに「読者への挑戦」と称されるものは、「問題編」の「あとがき」(以上ですべての手がかりが示された)と、「解決編」の「まえがき」(これから論理的な手続きによって新しい物語の幕が開く)が、あたかもひと続きの文章のように混ぜ合わされているにすぎない、というのがこのユニークな新説の骨子である。

という見方など、思いつきもしなかった。

「読者への挑戦」とは何か。それは作者から読者への呼びかけである。それは生身の書き手が死んだ後も、不死身の「作者」による声の痕跡を残し、誰とも知らない未知なる「あなた」へと語りかける。既に事件は起こった後だ。探偵は相も変わらず頭を悩ませ、ようやく一つの真相に辿り着いた。……そう告げる声の背後では、幾度も繰り返された無数のドラマが影絵として踊っている。そうした記憶の集積のみでできた『挑戦者たち』という本には、だから、まるであの世のように物哀しいハッピーな気分が漂っている。これを時代遅れのレトロな感傷だと切って捨てる人もいるだろう。確かにここには目新しいものはない。しかし一見マニア向けで排他的に見えかねないこの本いやジャンル自体が、常に読者を必要とし、外部へ向けて門を開いていることが、最後まで読むとわかる。たとえ「あなた」が「本格ミステリ」を見捨てようとも、いつだって作者は、作品は、readerに、playerに、challengerに、読み解かれるのを待っている――そんな具合にね。

すぐれた料理人がたったひとつの食材からさまざまな味の料理をつぎつぎと作りだしてみせるように、限られた材料を使って九九通りの異なった「書き方」を実践してみせたのがこの書物というわけである。(……)しかしそのとき読者が感じるものは、おそらく快い楽しさだけではなく、何やら不気味な居心地の悪さでもあるだろう。なぜなら、ことばの可能性を極限まで追求しようとするクノーの試みは、同時にわれわれが日頃使っていることばがどれほど空虚なものであり得るかということを暴き出す試みでもあるからだ。表現やコミュニケーションの機能から解放されたことばは、文学が夢見るユートピアの彼方から、われわれが口にすることばに向かって皮肉であたたかい眼差しを投げかけている。 ――朝比奈弘治「訳者あとがき」/レーモン・クノー『文体練習』 

「珍味」…考えてみると不思議な言葉である。「珍しい味」…けして美味しいとは言っていない。
珍味と呼ばれる食べ物の多くは、万人にとってのご馳走とは言いがたく、実際、くさや、鮒寿司など、嫌う人も多い。
また、雲丹、このわた、からすみの日本三大珍味にしても、あるいはキャビア、フォアグラ、トリュフの世界三大珍味にしても、いずれもレアで高価なものではあるが、モリモリ食べて喜びを感じるようなものではない。 ――ラズウェル細木酒のほそ道』39巻

「くそっ、くそっ、くそっ!」
すると、応答が帰ってきた。「こんどはキノコ料理ですか、悪くない考えです。ちょっぴり炒めてから、生クリームをからませればね。これもいつだかカンブロンヌが言っていたことではありますが……」こう言うと、サックドレスではらりと身を包んで、相方は不機嫌を足であらわした。
小生としては返す言葉がなかった!べろをどっかに置き忘れてきたみたいだった!あの野郎のせいで、小生は口も利けなくなるはめに。自分の言葉が自分のものではない。自分の言葉を横取りされた!――ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『トランス・アトランティック』西成彦

同じ言語をもつことは、同じ生活形態をもつことをも意味する。だが、もしそうだとすれば、つまるところ、われわれはいっさい本音の感情をもつことはできないのか ―― そんなふうに思い込むのは、言ってみれば、もう何百万もの人々が「アイ・ラヴ・ユー」を口にしているからには、私はもう決して心底からこの言葉を発することなどできないと考えるのと、同じことだ。―― テリー・イーグルトン『詩をどう読むか』川本皓嗣

最初の場面はきわめて迅速に展開される。それはすでに何度も繰り返されたものであることが感じられる。誰もが自分の役割をそらんじているからである。言葉や動作がいまではしなやかに、連続的に継起し、油の十分利いた機械仕掛の必要不可欠な部品みたいに、なんのひっかかりもなく相互に連繋する。――アラン・ロブ=グリエ『ニューヨーク革命計画』平岡篤頼

「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロスも、獣人も」
「ほんと?」
「ほんとうだとも」彼は立ち上がり、きみの髪をもみくちゃにする。「きみだってそうなんだ、タッキー。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ」――ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」伊藤典夫

絶対の二つの面の間、二つの死の間、内部の死あるいは過去と、外部の死あるいは未来との間で、記憶のもろもろの内的な広がりと現実のもろもろの層は、攪拌され、延長され、短絡され、一つの流動的な生の全体を形成するが、それは同時に、宇宙の生であり、頭脳の生であって、一つの極からもう一つの極に稲妻を走らせる。こうしてゾンビたちが歌を歌うのだが、それは生の歌なのである。 ――ジル・ドゥルーズ『シネマ2』宇野邦一ほか訳

 

挑戦者たち

挑戦者たち

 

 

 

ミステリ

市川哲也『蜜柑花子の栄光 名探偵の証明』(東京創元社、2016)を読みました。鮎川賞受賞作から続くシリーズ三作目にして完結編。前二作以上に凄まじく、圧倒された……というのは、あんまりポジティブな意味ではないんですけども。

私は基本的に、この著者を応援したいと思っています。というのは単に歳が近いからというだけではなく、「読んだから書いた」という初発の志へのシンパシーがあるからですが、シリーズが終わった以上、このままではたぶん同社から次作を出すハードルは高いだろうし、他社からも厳しいと考えられるので、作風を変化させない限り作家活動を続けるのは難しいはずだという危機感をも持っています。だから多少なりとも作者のゆくえが気になる方がいらっしゃれば、ぜひそのあたり、自分の思うところをネット上でもなんでもいいからバンバン書いて、話題にしてほしい。

さて作品自体について。版元の公式サイトにある「あとがき」http://www.webmysteries.jp/afterword/ichikawa1608.htmlでは、作者はこう書いている。

 私が当初、この三部作トータルでなにがしたかったのかというと『もしも名探偵が現実にいたら?』ということをなるべくリアルに考えてみることでした。
 名探偵って頭良すぎない? 現実に大掛かりなトリック殺人なんてやれる? なんで名探偵はやたらめったら事件に巻きこまれるの? 等々、世間からツッコまれそうな疑問に自分なりになるべくリアルな解答をしてきたつもりです。

しかしたいていの読者は、三部作を読んでも、いったいどこが「なるべくリアル」に書かれているのか、まったくわからないのではないだろうか。私はそう思い、なぜ作者の意図と作品とがすれ違っているのか考え、自分なりに有益な答えを引き出そうとしました。

まったく関係ない話題ですが、アザラシさんという方が先日、次のように書いていました。

「魔法は一つだけ」というのは、作品のリアリティのレベルがどのあたりにあるか、ということに関わります。作品世界が現実に近い場合、ある虚構の設定を一つ放り込む、するとAがA'になれば隣接するBもB'になり……というふうに、さざ波がどこまでも広がるように世界そのものもそれにふさわしいものに変わってゆく。それを支えるのがいわゆる「論理」であり、この改変がうまくいっている時、読者は「リアリティ」を感じる。逆にいえば、虚構だからといって作者はなんでも好き勝手に操っていいわけではなく、あくまでもこの「リアリティ」に沿わなければ、読者は混乱してしまうんじゃないでしょうか。
『蜜柑花子の栄光』の場合、たとえば第一の事件の「動機」について、納得する人はいるのだろうか。誰もが、「作者の都合で登場人物の心理が捻じ曲げられている」と感じるのではないか。つまりこの作中世界では、ワイダニットが成り立たなくなってしまう。

ふりかえってみれば……三部作を通じて、人物心理に関するリアリティは、かなりいいかげんというか、しっちゃかめっちゃかに書かれてきた(評価されることもある第一作の犯人の「動機」にしても、私は釈然としないものを感じています)。しかし「なるべくリアル」を目指すなら、心理のリアルさの追求は、かなり重要なものなのではないでしょうか。

 『蜜柑花子の栄光』を読んだ後、私はこの本がどういうストーリーであるかを、未読の人に伝えようと試みました。ところが「彼らはなぜそんなしち面倒くさいことを?」という人物心理の不自然さにいちいち引っかかり、うまく説明することができませんでした。つまり本作のあらすじというのは、かなり吞み込みがたいものを抱え込んでいる。そして……最後まで読んで明かされる真相は、そうした、万歩ゆずって不自然さを吞み込んだ読者の梯子を、「これは推理小説ではない」というあの伝家の宝刀で外してしまうていのものでしょう。いったい、なぜそんなことになってしまうのか?

考えるに、「これは推理小説ではない」と言わせてしまう書き手たちは、「現実」という刀を、自分が好きに抜くことのできるものだと捉えているのではないか(自分が「現実」に属する存在だから)。しかしフィクションにとって「現実」というものは、そうではないと思います。作品が始まった時点で、「魔法」は大なり小なりかけられている。後になって「現実」を持ち出すなら、それはフィクションの中でもう一つの「魔法」となるから、それなりの必然性(リアリティ)に支えられなければならない、必然性(リアリティ)にうまく支えられていない現実(リアル)というのは、最悪の場合、最も不自然(アンリアル)なものになりうる。現実(リアル)はフィクションの中で、無条件に必然性(リアリティ)を持つわけではない。そしてフィクションにとって重要なのは、現実(リアル)よりも必然性(リアリティ)のほうではないか。

小説とはふつう、始まりと終わりとを明確に持つ一本の線、つまり一次元のものです。「魔法」のリアリティとはこの中で、さざ波のように静かに、しかし確実に広がってゆく。後になって急に持ち出される別の「魔法」とは、一本の線からとつぜんもう一本の別の線に移るようなものでしょう。この、後の「魔法」がリアリティに支えられないなら、それは前の「魔法」を打ち消すような効果を持ってしまう……これが「梯子を外す」ということであり、つまり読者に「これまで読んでいたのはいったい何だったのか……」という徒労感をもたらす。それはフィクションの快楽とは違うのではないでしょうか。

以前admiralgotoさんという方が『密室館殺人事件』について、「持たざる者の戦い方」ということを書いていましたhttp://www.twitlonger.com/show/n_1sm5ros。物理トリック(HOW)での戦い方は厳しく、険しくなってゆく。けれどそれがどれだけ陳腐なものであっても、心理(WHY)による料理しだいで、作品に対する印象は変わってきます。たとえば殊能将之『鏡の中の日曜日』。あの小説において、作中の館における物理トリックは陳腐だし、全体の展開も「名探偵に推理ミスがあったと思ったらやっぱりなかった」という打ち消し系のものです。でも徒労感はない。その差異はおそらく、心理のリアリティの充実によるものなのでしょう。

『蜜柑花子の栄光』を読むと、どうしても、行動における人物心理に不自然さを感じてしまう。HOWの解明が重視される一方、WHYがおざなりに駆け足で消化されイビツさが累積してゆくさまを感じてしまう(このへん、たとえば邦画におけるストーリーのツッコミ所を主に突いていく時評『皆殺し映画通信』を読むと勉強になるところ)。

フィクションにとって重要なのは現実(リアル)よりも必然性(リアリティ)であり、そして必然性(リアリティ)にとって重要なのは、HOWよりもWHYなのではないか。三部作が終わった今、作者においては、フィクションと「魔法」との関係、人物心理の「リアリティ」を、真剣に考察して、再デビューするような心持ちで次作を執筆していただきたいと(勝手ながら)思っています。もし今後、「市川哲也の栄光」ということがあるべきものなら、必ずやそこから始まるはずだから。

 

 

名探偵の証明 蜜柑花子の栄光

名探偵の証明 蜜柑花子の栄光