立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

木元哉多『閻魔堂沙羅の推理奇譚』

 木元哉多『閻魔堂沙羅の推理奇譚』(講談社タイガ、2017)を読んだ(実は読んだのは二か月前ですが、ぼやっとしているうちにもう続刊が出たらしいので、急いで一巻目の感想を書き付けます)。

 この小説はフシギな構造をしていて、主人公(三人称視点人物)の探偵役もとい推理役が毎回変わる(『笑ゥせぇるすまん』みたいに主人公が各話変わると思ってください)。すなわち彼らはみな殺人の被害者で、天国行きか地獄行きかという死後の審判の場(閻魔大王の娘が判断する)において自分にまつわる殺人事件の謎を解き明かせば生還できる、という推理クイズが毎回設定される。そうした短編が四話入っており、あえて各話のおおよその流れを起承転結構成で腑分けすれば、
 起:主人公の日常
 承:主人公が死に至る事件
 転:推理クイズ&解答
 結:謎の完全解明(+説教)&エピローグ
などというふうになるか。
 つまり謎を解くのは頭脳明晰な名探偵でもなんでもない殺人被害者=ただの一般人で、一般人が解くのだから事件の難易度は比較的易しめではあるが、しかしそれにしたって、老若男女誰もがいきなりこんなふうにきっちりと探偵役を務めることができるのだろうか? 私は読みながら城平京『虚構推理』(2011)のことを想起した。『虚構推理』という長篇はかなり難しいことをやろうとしていて、その分(ム、ム~ン)と合点がいかない部分が私は大きく、たとえばその一つは、自身の推理内容に対する探偵役の真剣さというか緊張感だったと思う。それに比べるならば、『閻魔堂沙羅の推理奇譚』の探偵役たちはみなずいぶん「真剣」だ。自分の命がかかっているのだからそれも当然だ。いってみれば、散文的に引き伸ばされた「比類のない神々しい瞬間」(バーナビー・ロス)が毎回しつらえられてあるようなものだ。固定キャラクターの閻魔堂沙羅(閻魔大王の娘)は「出題役」だが、とうぜん「真相」はすべて承知している。推理の多少のとりこぼしは大目に見てくれる。この推理空間はずいぶん安定している。ナルホド、『虚構推理』のように死後の世界を作中現実に繰り入れるという設定をこんなふうに組み替えて、これほど安定した短編のフォーマット(『黒後家蜘蛛の会』や『退職刑事』などのような)を作ることができるのか、と驚いた。

 略歴を見ると、この著者は生年などのプロフィールをほとんど明らかにしていなくて、デビュー作ながら「新人離れした筆運びと巧みなストーリーテリング」と紹介されてある。第一話の女子高生の話を読んだ段階では、学校を舞台にした割とありがちな作りに見えていて、そこに挟まれる

智子は、処女である。

 というような箇所に、(ウ~ム、そうであるか~。処女なのであるのであるか~)と、こういうことを「である」文体でわざわざ記述する若干のオジサン感を感じないでもなかったのであるのであるが、第二話の鶏肉卸業者の話を読んで考えを改めさせられたのである。この第二話の会社員が死に至るまでの日常業務内容描写はかなりしっかり書き込まれていて、これは作者が実際に関連業界にいたのでなければ、よほど取材力がしっかりされているのだなと思った。デビュー作でのこうした取材力は、たとえば同じメフィスト賞では早坂吝『◯◯◯◯◯◯◯◯殺人事件』でも感じた。早坂氏のその後の活躍はご存知の通り。この木元という方も、わずか二か月で続編を刊行できるほどだから、かなり基礎体力をお持ちなのではないかしらん?

 といっても、各話は基本的に「イイ話」なので、結末は時に人生訓的というか、自己啓発的というか、そういう説教臭さに落ちるところもないではない(特に第二話)。この安定した推理空間にも、書き継がれるうち次第に亀裂が入ってくるはずだが、それはどういったものになるのだろうか?

 

閻魔堂沙羅の推理奇譚 (講談社タイガ)

閻魔堂沙羅の推理奇譚 (講談社タイガ)

 

 

 

閻魔堂沙羅の推理奇譚 負け犬たちの密室 (講談社タイガ)

閻魔堂沙羅の推理奇譚 負け犬たちの密室 (講談社タイガ)

 

 

松井和翠編『推理小説批評大全総解説』

 来たる5月6日(日)に東京文学フリマで頒布開始される松井和翠さん編の『推理小説批評総解説』の巻末座談会&アンケートに、秋好亮平さん(探偵小説研究会)と一緒に参加しました。

 この本は日本のミステリ批評をオールタイム・ベスト的に70編選んでそれに解説をつける、というもので、対象作品本文はもちろん収録されていませんが、座談会では三人ともそれを全部読んだ上でああだこうだと話しています。オモシロイ本です(解説文はほぼ全てこちらに連載済)。私もたいへん勉強になりました。この本を一読すればきっと、小説も批評ももっと読みたくなる飢えが増すことでしょう。よければご一読ください。

note.mu

結城昌治『公園には誰もいない』(講談社文庫)

(承前)

 結城昌治『公園には誰もいない』は、私立探偵・真木三部作の二作目。和製ハードボイルドの傑作として名高いこのシリーズの最高傑作に挙げる声もある(個人的には一作目『暗い落日』の方が好み)。
 前作『暗い落日』が、ロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』のメイントリックへの不満から書かれたという作者の自註は有名だ(例・結城昌治作品集第2巻の「ノート」等)。チャンドラーとロスマクの強い影響下から出発したとされるこのシリーズは確かに、現在の眼からすれば、「翻訳ものの移植」としてはほとんど教科書的と映るまでによく出来ている。そのあまりにもシンプルな構成には、無駄を省いた文体とも相まって、あるいはある種の物足りなさすら覚えるかもしれない。ロスマクの『ウィチャリー家の女』『さむけ』が文庫版で四一〇頁程度なの比べ真木シリーズは三作とも二〇〇頁代後半に留まる。つまりその分、チャンドラーやロスマク特有のあの迷宮感覚――一つの依頼から事件を辿るうち謎も登場人物も次第に増加していき、読者は探偵がいったい何を追っているのかよくわからなくなってしまう感覚――は削ぎ落とされ、物語の構図はわりあいくっきりと印象に残る。

ハサミ男』巻末文献リストの最後尾にはこの『公園には誰もいない』が挙げられていて、しかし私は二度読んでもどこがどう参照されているのか、全然わからなかった。少し前、『ハサミ男』の電子書籍版を買い、そこでいくつか検索するうちにようやく、(ハハアここだったのか)と突きあたった。それは例の第20節、とし恵との対話シーンで事件現場の公園を訪れる場面で、

犬を散歩させる老人も、ベビーカーを押す主婦も、サッカーに興じていた子供たちも、みんな遠くへ行ってしまった。いまはただ、冷たい風に吹かれて、茂みの枯葉が地面に舞っているだけだ。公園には誰もいない。

  これは結城作中に出てくる(かつ、タイトルの元にもなった)シャンソンの歌詞の一節、

拾った貝殻を捨てるように
あなたは行ってしまったけれど
楡の木蔭で
束の間の恋は信じやすくて
小径にたわむれていた蝶も
魚をすくっていた子供たちも
みんな遠くへ行ってしまった
でも
あたしはもう泣いていない
風に吹かれ
枯れ葉のように
公園には誰もいない

 をふまえたものだろう(この文庫版には初版と「改訂版」の二種類あるのだが、このくらいの引用なら、どちらの版でも大した違いはないはず)。しかし『公園には誰もいない』はハードボイルドであるから、(参照したのは本当にここだけなのだろうか?)という疑念はぬぐえない。

 結城昌治は視点にうるさく、真木シリーズは一人称一視点にこだわった。一方、『ハサミ男』はハードボイルド小説(一人称パート)と警察小説(三人称パート)のハイブリッドだ。先行作と比べて浮かぶそれぞれの「独自性」が、作品のボリュームにも関わっているとおもう。

 ロスマクもまたチャンドラーの影響のもと出発したが、その「独自性」の一端はフロイディズム(精神分析)の大胆な導入にある。『ハサミ男』はいかにも精神分析的な読みを誘発しそうだが、しかし肝心なところでどうも尻尾をつかませないような、スルッと逃げていく感触を私は持っている。だから、巻末参考文献がチャンドラー『湖中の女』に始まって結城昌治『公園には誰もいない』で終わるにもかかわらず、ロスマクへの言及がないのは、何か意図的に避けているようにさえ思える。以前にも紹介したように、作者の好みはチャンドラーよりもロスマクの方だったろうから。

 松井和翠さんという方が今、日本の推理小説批評の歴史をふりかえる連載をされていて、そのうちの一編として挙げられた殊能将之「本格ミステリvsファンタジー」(「ユリイカ」1999年12月号)に加えられた解説(ネタバレ有)で恐縮にも私の同人誌に言及された上で、

孔田多紀氏の『立ち読み会会報誌 第一号』の第一章「『ハサミ男』を読む」の中に《「ライオス王」とは、オイディプス王の父親のことなのだが、その意味がどうもよくわからない》とあるのが、わからない。

 と書かれ、ソポクレスの「コロノスのオイディプス」を参照しつつ独自の説を展開されている。私はそれを読んで、ガツーンと衝撃を受けた。いや100%首肯するかといえばそうではないのだが、何か閉塞感が打破されたような気がした。

 私はなぜ去年、「その意味がどうもよくわからない」と書いたのだろうか。言い訳をさせてもらえれば、それは書いている時に、自分の家庭にも娘が誕生しそうだということがわかり、結城昌治ロス・マクドナルド作品で「家庭の悲劇」を立て続けにディグしていくのがなんとなくシンドくなってしまったからなのでした(特に『ウィチャリー家の女』で妊婦が泥酔する〔と後で判明する〕シーンなどはメチャメチャ怖くて読むのがイヤになってしまった、……おかげさまで無事誕生しましたが)。

 昔は私もイヤ~な話はふつうに読んで全然平気でいたのですが、いざ自分の親族関係が広がってみると、イヤ~な話を読むのは結構ツライな、と実感するようになったのは、なかなか貴重な経験でした。

「コロノスのオイディプス」はソポクレスのいわゆるオイディプス三部作のうち、一番最後に書かれたものだ。すなわち、作中の時系列では

オイディプス王」(オイディプスが生まれてから失踪するまでの話)→「コロノスのオイディプス」(失踪したオイディプスが放浪ののち死ぬ際の話)→「アンティゴネ」(オイディプス死後の話)

だが、執筆の順番は、

アンティゴネ」→「オイディプス王」→「コロノスのオイディプス

である。執筆時期には36年の広がりがあり、現代のような厳密なシリーズものを意図して書かれたものでは必ずしもないというが、しかし続けて読むと、ソポクレスは「コロノスのオイディプス」を書かざるをえなかったのではないかという感触を抱く。「オイディプス王」と「アンティゴネ」の筋は過酷極まりなく、運命に対して人間が自由な選択肢をもちうるような余地はない(そこが魅力でもある)。一方、「コロノスのオイディプス」は、ひらたくいえば、オイディプスが死ぬ前に言いたいことをあーだこーだと周囲に思うさまぶちまける話で、対話の劇的緊張感というようなものは他の二作に比べうすく、スピンオフ的緩衝材という感じ。一種の「甘さ」であるが、しかしクール一辺倒ではやりきれない、死ぬ前くらい言いたいことを言わせてやれ、というのは、人情ではないでしょうか。

「コロノスのオイディプス」によれば、オイディプスの最期を見届けるのはアテナイ王となったテーセウスである。そう考えれば、一見つながりのなさそうな『ハサミ男』と『美濃牛』とのあいだにもつながりが見えてくる。

 奇妙な題名はギリシア神話ミノタウロス(「ミノス王の牛」)のもじりだが、では美濃牛とはいったいなんなのか。
 そこで『美濃・飛騨の伝説』という本をあたると、洞戸村に藤原高光が牛鬼を退治した伝説があることがわかった。高賀神社には高光公の銅像があるらしい。
 ははあ、美濃牛とはこれのことか。ということは、舞台は洞戸村なんだな。(「洞戸村の思い出」/「IN★POCKET」2003年4月号)

 つまり、病室のシーンで「ライオス」の名前が出たことから、ライオス→オイディプス→テーセウス→ミノタウロス……という密かなリレーが生じたのだろうか。

 私は去年、十年以上ぶりに映画『ハサミ男』を観て、その結末の原作との違いをすっかり忘れていることに気づいた。映画では病室から出ていった後、〈医師〉がもう二度と出てこないであろうことが示唆される。原作でもそうである可能性はある……ということを私は長いあいだ、完全に見落としていた。「きみ、名前はなんていうの?」というフィニッシング・ストロークは、読者の誰にも「再発」を感じさせるが、オマエは何者かという問いは『ハムレット』(死んだ父親の亡霊が「ハムレット、復讐せよ!」と主人公にけしかけますね)の有名な冒頭第一行でもあって、「本当の名前を捜しつづける」主人公の回復の契機の可能性でもありえないことはないのだから。

 たぶん私は本当は、そこまで言い切らなくてはならなかったのだろう。松井サンのおかげで思い当たることができた。

 

公園には誰もいない・密室の惨劇 (P+D BOOKS)

公園には誰もいない・密室の惨劇 (P+D BOOKS)

 

 

 

ギリシア悲劇〈2〉ソポクレス (ちくま文庫)

ギリシア悲劇〈2〉ソポクレス (ちくま文庫)

 

 

『子規全集』(講談社)

(承前)

ハサミ男』の巻末の参考文献はけっこういいかげん、というか、あるいは、おそらくわざと曖昧に書かれている。実際に元にあたろうと思ったら、いくつかハードルがあることは否めない。
 たとえば、

『子規全集』(講談社

 1975年から78年にかけて講談社から刊行された正岡子規の全集は本巻22巻+別巻3巻の計25冊で構成されているため、何巻の何を参考にしたのか? ということがわからない。それは

 

『ハイネ散文作品選集』(松籟社

 や、

『世界文学大事典』(集英社

 なども同様で、実はどちらも全六巻本である。

 さらに厄介なのは、

結城昌治『公園には誰もいない』(講談社文庫)

 で、この小説の講談社文庫版には2バージョンある。すなわち、1974年の文庫版初版と、1991年の改訂新版で、後者では作中の風俗が微妙に改変されているのだが、これだといったいどちらのバージョンなのかが不明になってしまう(どちらかでもいいということか)。
 初版止まりで一つのバージョンしかない本ならともかく、ロングセラーの古典がリストに連なると確かに、どの版でいつ刊行されたものか、それをどう統一的に表記するか、微妙な煩雑さが伴う。しかしともかく、例の「参考文献」にはかなり空白があるといっていい。

 藤野古白(1871-1895)は正岡子規(1867-1902)の従弟(叔母の息子)で、作中では終盤の対決シーン、医師の台詞によって言及される。

「きみね、腹なんか撃ち抜いたって、痛いだけで即死なんかしないよ。映画なんかで、よく銃口をこめかみにあてて自殺するシーンがあるけど、あれもうまく死ねるとはかぎらないらしい。知ってるか?正岡子規の従弟の藤野古白は拳銃自殺したんだが、前頭部に一発、後頭部に一発撃ち込んだあと、四、五日ほど生きていたらしい。明治時代の医療技術でこれだから、現代なら生還できたかもしれないね」

 文学志向のあった古白は生前、俳句のほか小説や戯曲もものした。その死亡時、子規は従軍記者として広島から大陸に旅立つところだった。訃報を聞いた28歳の子規は衝撃を受ける。
 子規の晩年の日記『仰臥漫録』は元々、二冊のスクラップブックに書かれた記述や絵をまとめたもので、その第一冊の最終部に有名な一節がある。脊椎カリエスをわずらい寝たきり(仰臥)状態の子規は、妹と母から介護を受けていた。状態はひどかった。身体に穴が開いていて、毎朝行なわなければならない包帯の取り替え(主に妹が担当した)は文字通り神経に障り、近隣に叫び声が響き渡るほどだった。二人がたまたま外出していたある日(1901年10月13日)、かたわらに刃物を発見して(これがあれば死ねる)と思う。

この家には余一人となったのである 余は左向に寐たまま前の硯箱を見ると四、五本の禿筆一本の験温器の外に二寸ばかりの鈍い小刀と二寸ばかりの千枚通しの錐とはしかも筆の上にあらわれて居る さなくとも時々起ろうとする自殺熱はむらむらと起って来た 実は電信文を書くときにはやちらとしていたのだ

以下、煩悶が二頁分ほど続き、

心の中は取ろうと取るまいとの二つが戦って居る 考えて居る内にしゃくりあげて泣き出した その内母は帰って来られた

 結局未遂に終わって助かるのだが、そのことをふりかえって仰臥したまま自分一人の秘密の日記にねちねちと書き連ねる子規の筆(確か誰か「しりとりのような思考」と評していた)には異様な迫力がある。この場面には小刀と錐の自筆絵も添えられている。

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 この「古白曰来」の「古白」が、先述の従弟。しかしこの日記には彼についての記述は他に一カ所もない。だから読者は、別の本を読まなければ古白とは誰なのかわからない。実際は子規にとってフシギな距離感の人物であったらしい。古白の死去から二年後、子規が編集した『古白遺稿』を読むとそう思う。同書を収録した講談社版全集第20巻に付された参考資料中、河東碧梧桐の書簡が最期の日の様子を伝えている。

明治28(1895)年4月14日子規宛碧梧桐書簡
長々の御無音御海容被下度候 扨て此度古白子の珍事につきてハ嘸かし御吃驚の事と奉推察候(……)
(4月7日)音きこえけり 此度は小供も共に朝飯をくひ居られければ何やらんとていそぎ古白子の部屋に入りて見玉ひしに古白子ハ左手にピストルをもち寝衣臥褥皆汗血にまみれ殆んど死状を呈し居たり 皆々事の意外に驚き直ちに警察へ届け(……)是より先町医堀沢とかいふ人来り一応疵口(眉間に一つ、後頭ぢぢんこあたりに一つ)に姑息の手あてしたりしが入院後(入院の手続など凡て内藤先生の尽力による)当直医も亦た血どめ位の手あてにてやみぬ(……)
小生と高浜ハ最初より毎日夜伽に参り居候ひしが十日の夜より手足の運動漸く弱はり煩悶よりは安眠の時間長くなりたるの感あり 十一日の夜二時頃より寝て朝七時起きて見しに昨夜よりは又瓦羅離と変りたるの思ひあり 色漸く両眼瞼に下りし血液色黒く紫となりて瞳孔の動きようよう鈍く口も閉づる事能はざるに到れり 医師も亦其危篤を告ぐ 乃ち急に人を走せて諸人を呼び来りしが十二日の午後二時終に溘然として逝きぬ(……)

 碧梧桐から報せを受けた当時の心境を、子規は『古白遺稿』にこう記す。

余は明治廿八年三月三日(古白の死に先つ一ケ月)を以て東都を発し軍に従はんとす。前夜古白は余の寓に来り余のために行李を理す。挙動快活なり。翌日手を新橋に分ちて余は広島に赴く。広嶋に居ること一ケ月明日早旦を以て発せんといふ其前夜古白危篤の報あり。意外の凶報に驚きたりといへども、孤剣飄然去つて山海関の激戦を見んとする余の意気込は未だ余をして泣かしむるに至らざりき。金州の舎営に在りて訃に接したる時も、只仕方無しと思ひたるのみ。戦は平和に帰し余は病を獲て還る。神戸病院に養ふこと二ケ月、はかなき命を辛く取りとめて身は衰弱の極度に在る時、碧梧桐は余のために古白病中の状況を詳に話しぬ。其後は傍に人無き折々古白の事を想ひ出だしては我身にくらべて泣きたる事あり。骨と皮とをのみ余したる我身の猶涙の源尽きざるを怪みぬ。病やや癒えて郷里に帰り始めて古白の墓に謁でしは同じ年の秋の初なり。惘然として佇むこと少時、
  我死なで汝生きもせで秋の風
後東都に帰りて複褥に臥す。さめざめと雨ふる夜の淋しさに或は古白を思ふことあり。古白の上はわが上とのみ覚えて、古白は何処に我を待つらんといと心細し。(……)彼は自ら文学者を以て任じ余等には劣らじと誇りながら、生存競争に於て余に負けたるは古白の長く恨を抱く所ならん。されども余も永く勝を制する者ならじ。

 古白本名藤野潔(きよむ)という人は気難しかったようで、同文中で子規は、幼い頃から孤独癖が強かった、とか、勤め人に向いてなかった、とか、アイツの俳句も最初は良かったけど後でダメになった、とか、大文学者になるとか言ってたのに一作書いて反応がなかったくらいで弱気になっちゃった、とか、オレが活躍するのを妬んで生きるのがイヤになっちゃったんじゃないかなまあオレも先は長くないけど、などと、わりあい冷徹に書いている。手加減のなさも含めて愛情なのだなあと思わされる。同書巻末に収めた哀悼詩「古白の墓に詣づ」では、

何故汝は世を捨てし
 浮世は汝を捨てざるに
 我等は汝を捨てざるに
汝は我を捨てにけり(……)

 古白の厭世の理由についてはいくつか説があるようだが、その従弟(古白の父の兄の息子)の服部嘉香という人は、「〔古白の自殺の原因〕」(同20巻)で、恋愛問題が大きかったとしている。

早稲田文学」に発表した苦心の戯曲「人柱築島由来」が思いの外に反響がなく、ひどく失望しました上に、実は恋愛問題が非常に大きかったのですね。その失恋問題があまり表われておりませんのです。しかも、失恋の相手が叔母なんですね。叔母ですから結婚はできない、それに煩悶があったのです。古白の母の十重は古白七歳の時に死亡しましたが、妹の五つになる琴というのもおりますので、父の漸は京都の士族栗生家から後妻に十四歳も若いいそを迎えましたが、その妹のすみというのが古白の恋人なのです。(……)複雑な家庭の事情があったかと、暗にまま母であるということのせいではないかと、そういうほのめかし方、論じ方をする向もあるのでありますが、これは絶対にそういう気配は私たちの見る範囲においてはありませんでした。

 ……きりがないので、このへんでやめておく。

 あらためて上の場面を読み返してみる。古白が来いといっている。この「古白曰来」という四字は以来、『仰臥漫録』の読者にとって印象的な有名なフレーズとなる。

 子規の死去はそれから一年半後、1902年9月19日。「古白曰来」からさらにいたる心境は、亡くなる二日前まで連載していた随筆『病牀六尺』に特に詳しい。

ピエール=ルイ・マチユ『象徴派世代』(窪田般彌訳、リブロポート)

 同人誌の感想はいくつかいただいたんですが、nemanocさんの
〈孔田さんは(……)必要な文献をていねいにあたり、フィードバックして、複雑な殊能世界をときほぐしていきました。〉
 という過分な言を目にして、そういえば参考文献について、スペースの関係でいくつか書き漏らしたことがあるなと思ったので、思い出せるうちに記しておくことにします。

 ピエール=ルイ・マチユ『象徴派世代 1870-1910』(窪田般彌訳、リブロポート、1995)はいわゆる「象徴派」について主に美術の面から解説した本で、大判正方形200頁強の書物はさながら画集の趣きを持つ。
ハサミ男』作中、ミートパイが何度か登場する店として印象を残す喫茶店「おふらんど」についてこういう記述がある。

(第「17」節――久しぶりに喫茶店を訪れた場面)
壁には写真複製の絵画が数点飾られていた。わたしは美術にはうといので、誰のなんという絵かは知らない。
 遠目に一枚の絵を見やると、紗がかかったような色調で、雪山に横たわった女性が描かれているようだった。眠っているのか、死んでいるのか、両目をつぶっている。雪山遭難を描いた絵なのだろうか。それにしては、女性の衣服が薄着すぎるように思えた。

 ここで「わたし」は〈誰のなんという絵かは知らない〉と述べるのだが、由紀子との夢の語らいでは、

(第「20」節――夢の場)
 ねえ、食べないの?
 食べるさ。ここのミートパイは絶品だ。店主が勧めるだけのことはある。
 不思議な絵ね。彼女は自分のミートパイには手をつけずに、壁の複製画をながめていた。
 雪山のなか、女の人があおむけになって、宙に浮かんでいる。いったい、なんの絵かしら。
 ジョヴァンニ・セガンティーニの「淫蕩の罪」だ、とわたしは解説した。十九世紀末の象徴主義の画家だよ。彼はイタリアに生まれ、インドにあこがれ、スイスの高山にこもり、山小屋で若くして死んだ。このコレクションから察するに、どうやら、店主は象徴主義がお好きらしいね。

 ここでいうジョヴァンニ・セガンティーニの「淫蕩の罪(涅槃のプリマ)」はこういう絵。

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 リアルな雪山を背景に、宙に浮かんだまま眠る二人の女性がファンタスティックかつ異様な印象を与える(「堕胎の罪」を表しているのだという)。

 ジョヴァンニ・セガンティーニ(Giovanni Segantini、1858-1899)はイタリアの画家で、アルプス山脈を斬新に描いた数々の作品で知られる。『象徴派世代』ではこう書かれている(少し長くなりますが……)。

ジョヴァンニ・セガンティーニ「邪淫の懲罰」
 画家はインドのバンジャービー語の詩篇から着想を得たこの主題に、数点の油絵を寄せている。《はるかの高み、青みがかった無限の空間のなかに、涅槃が光り輝いている……かくして邪悪な母は、一本の枝も緑とならず、一輪の花も咲かない、永遠の氷に鉛色となった谷で、たえず転がりまわる……あの女を見よ、一枚の葉さながら、不安げにさまよう。そして、彼女の苦悩のまわりでは、一切が沈黙している》。

「エンガディンでの死――ジョヴァンニ・セガンティーニ
 画家ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858-1899)は、悲惨主義小説の主人公となりえたかもしれない。ごく幼少のときに孤児となり、殆んど無学文盲であったが、それでも何とかブレラ・アカデミーの講義を受けられるようになり、その画業の当初からヴィットーレ・グリュビチに注目された。(……)
 当時からすでに一種の伝説に包まれていた彼の生涯と作品は、一人の画家を扱った、ごく初期の精神分析研究の対象となった。フロイト側近の弟子の一人カール・アブラハム博士は、たえず死の観念に取りつかれていた人間における一種の自殺願望を、この夭折にはっきりと認めている。
 芸術家はミレーの影響を受けて画業にふみだしたが、主題の感傷的レアリスム(羊飼いや羊の群れ、農民生活の風景)によってだけでなく、様式からも、彼はこの高名なバルビゾン派の画家に近い。隠れ家のなかで、セガンティーニは非常な教養をつんだが、こうして1891年以後、ニーチェ――彼は『ツァラトゥストラはかく語りき』のイタリア語版に挿絵を描きさえもした――や、その根本のペシミズムが彼の深部の自我と通じあうものがあったショーペンハウアーの著作を発見した。ショーペンハウアーを読んだことで、彼は輪廻を信じ、インド文学に霊感源を求めるようになった。1893年に彼はこう書いている。《そう、真の生活は唯一つの夢にすぎない。可能な限り遠くにあって、高められ、物質の消滅にまで高められた理想へと、次第に近づいていく夢である》。
 こうした瞑想から、1891年から1897年にかけて、邪悪な母たちの運命を想起させる一連の作品(初版「邪淫の懲罰」)が生み出された。このなかで芸術家は、母性よりも邪淫を選んだ女たちに運命づけられた刑罰を、いささか、ダンテ『地獄篇』風に描写している「バンジャービー文学」のインド詩篇の数節――氷の広大な空間の永遠の彷徨――を絵としている。奇妙な主題に加えて、セガンティーニはこれらの油絵において、技法上の非常な独創性を発揮したが、それは分割技法のタッチにだけではなく、万年雪のなかで風景を写生するように彼をかり立てたその根源的な自然主義に帰するべきである。このような作品の深層の意味に関しては、カール・アブラハムが、若きセガンティーニの自分自身の母親に対する無意識的な抑圧の表現であると、正当な解釈を下した。

 小説の夢の場面では、セガンティーニへの言及の後、次のように続く。

〈おふらんど〉という店名も、ポール・ヴァレリーの「消えた葡萄酒」の一節からとったのかもしれない。
 わたしは少し考えた。あるいは、ミステリファンなのかな。同じ一節から題名をとった、有名なミステリがあるから。
 あなたって博識なのね。彼女は笑った。

 このポール・ヴァレリーの「消えた葡萄酒」に絡めて言及される「ミステリ」とは、もちろん中井英夫の『虚無への供物』を指す。
 Paul ValéryのLe Vin perdu第一連を引こう。

J'ai, quelqe jour, dans l'Océan,
(Mais je ne sais plus sous quels cieux),
Jeté comme offrande au néant,
Tout un peu de vin précieux...

  すなわち、「おふらんど」とはoffrande(ささげもの)の意で、「虚無への供物(offrande au néant)」をひらがな表記すれば、さしずめ「おふらんど・お・ねおん」などとなるだろう。

「ひとつだけ質問していいですか」

「なんでしょうか 」

「〈おふらんど 〉って、どういう意味なんですか 。辺鄙な土地、かな」

「なるほど、〈オフ・ランド〉ですか。そういう解釈は初めて聞いたな。はやらない店には、そのほうがふさわしいかもしれない」

 店主は感心したように笑って、

「じつはフランス語なんですよ。〈捧げ物〉という意味です」

 わたしにとって、店主から得た情報は、欲しくもない捧げ物だった。(第「17」節)

「ミートパイ」は「葡萄酒」の対として登場するのだろうか

 磯達雄さんへのインタビューでも申し上げたのだけれど、私は、中井英夫と殊能作品とは微妙な関係があると思っていた。

 (……)中井英夫という作家もこうした作り方をするところがあります。作者本人の志向としては、完璧なフィクションを作りたい。それもコンスタントに発表したい。しかし、いざ書くとなると、どうしても現実的な素材が入り込んでしまう。このあたり、殊能さんと似たものを感じていたところ、この前『BMS』を読み返していたら、冒頭あたりで「私は中井英夫はあんまり好かんので」と仰られていて、おお、と思いました。二人とも若い頃から批評眼が鋭く、大学を中退して編集者になり、ミステリ作家として出発し、詳細な日記をつけ、テレビが大好き。親しいお姉さんもいらっしゃいます。そういった経歴や読み手としての好みは二人とも近いように感じていたんですけれども、作風ないし文体は微妙に(いやかなり?)異なります。

 ここで挙げなかった点がもう一つある。「ユリイカ」1999年12月号での作者インタビューにおいて、

三年間家に籠ってブラブラしていて、暇だから昼のワイドショーをよく観ているんです。去年の八月くらいに、テレビを観ているうちに、『ハサミ男』の話が出来ちゃったんです。出来たと同時に、書き出しや途中やクライマックス、結末まで分っていて、これは完成した、と思ったんです。それでしょうがないから……。

 この「デビュー作の構造を自然に思いついた」という発言は、中井のあの有名な自注を彷彿とさせる。

 昭和三十年一月に鎌倉で太田水穂氏の葬儀があり、「短歌研究」編集長の私はぜひとも出掛けねばならない。当時の鎌倉はひどく遠い所に思えたので、往復の車内で読む本を何にしようかと考えた。結局貸本屋からディクスン・カア『ユダの窓』を借り、楽しく読み進んで行くうち、何とそれ(早川ミステリー)は肝心なトリックの説明部分がそっくり欠けている落丁本だった。私はがっかりもしたが、そこまでは楽しくてならなかったので、自分でそのトリックをあれこれ推理してみた。その中で、いくら何でもこんなお粗末なオチではないだろうなと考えた、そのお粗末が完本を読むとまさに同じだった。
 軀から火を噴くという言葉はあっても、頭から火を噴くことはない。しかしその時の私はまったくそうだった。本当に一瞬の裡に、この長編の隅から隅までが出来上った。(『中井英夫作品集』第10巻、三一書房、1987)

 中井が『ユダの窓』を読んだのは、まだ三十代の始め。『虚無への供物』は完成までに十年を要したが、ほぼ同じ年頃で着想された『ハサミ男』の執筆はもっと短かったようだ。
 また、デビュー作における『虚無への供物』へのささやかな言及といえば、もう一つのつながりをどうしても連想する。『ハサミ男』の作者が実際に目にしていたかどうかは知らないが、おそらく執筆の最中であっただろう、1998年9月にハルキ文庫から復刊された、連城三紀彦『変調二人羽織』巻末の法月綸太郎の解説だ。

サンプリングとカットアップ(コラージュ)を自在に駆使し、さらにリミックスを施したような「変調二人羽織」の破格の構成を掌るキーワードは二つある。伊呂八亭破鶴の売り文句「八方破れでございます」と、狂言回し役の亀山刑事が洩らす「どうやら私は今度も結果の後の人生を生きてしまった」という一行がそれだ。(……)右のように言うのは、具体的には『虚無への供物』のことを指している。新人賞の選考委員に、中井英夫が名をつらねていたせいかもしれないが、「変調二人羽織」の作者は、明らかに黒鳥館主人こと塔晶夫の語り口を意識した書き方を選んでいる。新聞記事や登場人物の地の語りを交えた多彩な話術の妙、二転三転する真相と「解決篇だけの推理小説」という逆説的な言い回し、なかんずくエピローグにそっと書き込まれた「アリョーシャ」という人名――こうした符号が偶然でないとすれば、大晦日の東京の空をいずこへともなく飛び去る一羽の鶴、という映像的な書き出しは、『虚無への供物』の名高いラストシーン、漆黒の翼を震わせて闇へと翔び立つ凶鳥のイメージをネガポジ反転したものと見なすことができるだろう。

 そういえば『ハサミ男』の冒頭でも鷹が飛んでいたなあ(想像の中でだけど)、それに確か当時のメフィスト賞には、『虚無への供物』を文庫化させた宇山日出臣サンがいたはずだし……などと連想してしまうわけですが、まあそこまでいくとコジツケすぎかしら、と思わなくもない。

 この無名の新人のたくらみは、大胆不敵としか言いようがない――中井英夫が自作を「アンチ・ミステリー」と命名することで、「探偵小説の終焉」を宣言したとするなら、連城三紀彦は「最後の探偵小説」が終った地点から、その終りを始まりへと反転させることによって、自らのミステリー作家としての経歴をスタートさせたのだから。そしてこうしたたくらみが一度きりの思いつきではなく、確信犯的な「反復」の意志に裏打ちされていたことは(……)

 終わった場所から始めること。反転と反復――。
『虚無への供物』の刊行は1964年で、殊能と法月がこの世に生まれ出た年でもある。つまり、
 殊能将之(1964年1月19日)
 『虚無への供物』(1964年2月29日)
 法月綸太郎(1964年10月8日)
ハサミ男』の作者は、執筆時にこの解説を意識していたか、否か? もししていたとすれば、どの時点で?(受賞決定後に、あるいは帯文の推薦者が決定した後に書き加えたという可能性もなくはない)……しかし仮にそれが「偶然」に過ぎなかったとしても、その結びつきは、ある種の小説的「必然」として読むことができるとおもう。

ポー、カー、メナール、アルテ

◯ある方の示唆で松田道弘「新カー問答」を読んでいたら、カーが初期のバンコランものでフランス人を探偵役に、パリを舞台にしたことを「エキゾチシズム」と評していたのが印象に残った。というのは少し前に、ボルヘスの文章でポーがデュパンものをパリに設定したことを「エキゾチック」と呼んでいたので。ポーとカーという二人のアメリカ人がフランスをその探偵小説の舞台に設定した理由についてはいくつかの見方があるが(いち早く警察機構が整っていた国だ、いやそれよりも外国だから英語読者にはアラがわかりにくかったのではないか、云々)、「フランス」と「エキゾチック」という語の結びつきは一般的なものなのでしょうか。
ボルヘスの随筆風短篇「『ドン・キホーテ』の作者、ピエール・メナール」で「車輪の再発明」としての長篇執筆をあえて行なう登場人物ピエール・メナールはフランス人だ。短篇の語り手は『ドン・キホーテ』の文体について、17世紀のセルバンテスが書けば当時のスペイン語(母国語)をのびのびと使用しているが、20世紀のピエールが同じように書けばそれはフランス人がスペイン古語(外国語)を無理して使っているのだから同じテクストでも持つ意味合いは異なる、というふうなことを述べる(ボルヘス自身はスペイン/カスティーリャ語母語とするアルゼンチン人)。ここでポーとカーとボルヘスにおいて「フランス人」が共通の扱われ方(エキゾチシズム)がされていることになる。
◯すると私の中ではどうしてもあの有名な「フランス人の勘違い」という評言につながっていく。『殊能将之読書日記』のポール・アルテ評価(「偽物を書くことによって独自性を獲得している」)はピエール・メナール的だから。この辺の、言語と国の関係は重要だとおもう(ちなみに若い頃、ポーはロンドンに、カーはパリに暮らしていたことがある――カーはその後1946年までロンドンで小説を書く等、けっこう移動している)。
新倉俊一『詩人たちの世紀 西脇順三郎エズラ・パウンド』(みすず書房、2003)とボルヘス『無限の言語 初期評論集』(旦敬介訳、国書刊行会、2001)を並行して読んでいたら、西脇順三郎(1894-1982)とボルヘス(1899-1986)の境涯がしぜんと比較されてきて興味ふかかった。すなわち、両者とも若い頃にヨーロッパへ遊学して複数の言語に接したのち、母国へ帰る。文学者のキャリアとして考えると、西脇は日本の詩壇に海外の風をもちこみ、後年、江戸趣味が目立ってくる。ボルヘスは逆に、母国でのナショナリズムの盛り上がりに熱狂し、後年、より普遍的なコスモポリタンな作風へといたる。そこには母国の政治状況も反映しているとおもう(あと二人ともノーベル賞候補うんぬんといわれたとかいうのはまあ、オマケみたいなものですが……)。
◯全然関係ないけど、「新倉俊一」という文学研究者は同時代にお二人いらっしゃるんですね。
 新倉俊一 (フランス文学者。にいくら・しゅんいち。1932-2002)
 新倉俊一 (アメリカ文学者。にいくら・としかず。1930-)
不勉強ながら初めて知りました(『詩人たちの世紀』はもちろん、アメリカ文学者の方のほう)。

フランスとアメリカ。同じ文字でも意味が違う、という、ムリヤリな示唆をいちおう見出しておいて、本日はこれにて。

言葉のデトックス

昨日ぐらいからインターネット上でニガテなタイプの文章に立て続けに出くわしてしまい、アタマの防衛本能なのか、ゾゾゾ―っという拒否感が抜けないので、私自身のデトックスのためにこちらに箇条書きに放置しておくことにします(それぞれの項目は互いに別個の事象で、その間に関係はありません)。というとなんだか不幸の手紙というか、毒物の連鎖みたいですが、まあいちおう先にその旨明記しておくことにして、……。

◯小学生か中学生のころだったか、ちゃれんじを読んでいたら、編集部からのメッセージで「すぐキレることでモテようとする男子がたまにいるけどすぐキレるのはホントは恰好よくない」と書いてあった(たぶん木村拓哉主演の何かのドラマが流行っていた頃)。大人になっても有益なアドバイスだなあとおもう(しかしインターネット上ではしばしば、沸点の低い人がけっこうモテたりする)。
◯ふとしたことから有料記事購入を促すnoteにたどりつき、その冒頭をパラパラ見ていたら、twitter上では日々即マウンティングとも見えるような人物(フォローはしてないけどよく流れてくる)が急にへりくだるトーンになったので、客商売の現実と、レイアウトのキレイなキラキラ感と、テクストの内容のドヤ感のアマルガムが一挙に押し寄せてきて、ウアアアーという感じになってしまった。
◯漫画やアニメやゲームを論じるのにアカデミックな書物をもちだしてくるという所作が一時期流行った(昔からあったのかもしれないが十代までそれが真似できるぐらい2000年代以降流行った。と思う)。論じる対象の面白さを引き出す傍証としてそういうホンをもちだすのは勿論アリだけれど、「偉い人が高い本の中でこれこれこういう頭の良さそうなことを言っている(そしてそれは正しい)」「制作者は気づいていないかもしれないがこの作品には偉い人がいった正しい要素がナントカカントカのかたちで見受けられる」「だからこの作品は○○←結論(そしてそれを指摘できる自分もまた偉い)」というドヤ感が無言の内に透けて見えると、(ダサいなー)と思う。むかし保母大二郎だったかが「ミュージック・マガジン」で使った表現でいうところの「田舎の軽音部がコピーでやるファンタスティック・プラスティック・マシーン」みたいというか。いや田舎の軽音部がファンタスティック・プラスティック・マシーンやっても勿論いいんだけど、その両者が組み合わさった時にはどうしてもあるアトモスフィアーが醸し出されてくるので、そのすかしたアトモスフィアーを逆手に取って独自の表現を編み出すぐらいのことはしてほしい。偉い人がこんなことをいってるんですよ!あなた、それに気づいてないでしょう!じゃあ、僕が仲介してあげましょう!(そんなことに気づいてあげられる自分は名誉偉い人だ!)みたいな構図はなんかこう、いやーな感じがする。しかもそれをアカデミック風(あくまで風)文体でやったりすると最悪である。筒井康隆が「ポスト構造主義による『一杯のかけそば』分析」(『文学部唯野教授のサブ・テキスト』文藝春秋、1990)を書いた頃ならまだギャグとして通用したのかもしれないが(リアルタイムじゃないので知りませんが……)、それ以降になると、内容もパロディ、形式もパロディ、で、戦略としては弱すぎる。本当にその作品を大事に思っているなら、偉い人なんか二番手、三番手だろう。もしその偉い人が同時に大事な人でもあるならば、唯一できることは(そしてそれはもしかしたら最高のことかもしれない)、仲人としての務めを果たすことだろう。
◯30代くらいまでの若い人が書いた小説を読んでいると、たまにどうしてもこう、翻訳文体がしみついているというか、(あらま、ずいぶん新潮クレスト・ブックスと白水社エクス・リブリスと早川SFと国書刊行会で日本語作文のお勉強をなされたのですね)という感じが気になって仕方がなくてツライ、という時がある。さっきのFPMの比喩を引き継いでいうと、なんだろう、大学の軽音サークルのポスト・ロックバンドが作るオリジナル曲(ボーカルレス)のいけすかない感じ、とでもいうか……。もちろん思春期の頃はたいてい、前世代の音楽はキライである。私も民謡やフォークよりはFPMやポスト・ロックの方が好きだった。しかしいざ自分がパフォーマンスする番となると、FPMやポスト・ロックでは別種のダサさが醸し出されてしまう。ある存在が周知された共同体の中でそのフォロワーをやると、どうしてもダサさが自然に生じる。それを避ける道は三つある。1.まったく新しい形式をとること(これは最も難しい)。2.その共同体の中ではマイナーな外部の形式をもちこむこと(しかしこれは外部から見れば田舎のFPMに見える可能性がある)。3.もう一つは、いけすかなさ・ダサさを逆手に取って、外部でも内部でもない独自の胡散臭さにまで昇華させる方法〔しかしどうやって、……)。

以上述べてきたことはすべて、文章の内容には立ち入らない、形式の問題にすぎない。形式の問題もまた、古くて新しい、扱うに現在的な繊細さを要求する問題だ(たとえば最悪の場合これは今トーン・ポリシングと呼ばれる)。
以上のように書き始めた最初は、知らず知らず摂取したそうした毒物をやや乱暴に忘れる――排出するためだったはずなのに、いつの間にか、自分のための覚え書きのようになってしまった。すなわち、そうした繊細さをできるかぎり忘れないために、これを書いてしまったようだ。

たまに「毒吐き注意」と自己紹介欄に書いてしまう人物がいて、そうした所作は世間ではひたすらそっと遠い視線を送られる対象として扱われてしまうわけですが、(しかしそうした方々もやはりあまりにもハードな日常の中で自然と溜まってしまったポイズンを排出せざるを得ないのかもしれない……)と考えると、初めて、寛容的な気持ちになることができ、自分でも驚いた。