TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

山村正夫『断頭台』

 表題作を読んで、かつてスタンリイ・エリン『特別料理』の1982年版訳者(田中融二)あとがきにあった「よほどバカでもないかぎり二ページも読めば作者が何を書くつもりでいるのか見当がつくので、徹頭徹尾ムードで、読ませる作品」という言葉を想起した。そうか、これは山村版異色作家短篇集なのかなあ、と(その時点では)思った‬。
 ‪親本の帯に「異常心理の世界」とあるように、この本の短篇は概ねHOWよりもWHYに力点がある。発表は1959年から70年までだから、ほぼ1960年代で、いわば高度経済成長の、東京五輪大阪万博の時代。集中で「異常心理」を持つとされるのは、だいたい若者たちだ。この時期、社会状況において古いものと新しいものとが急激に移り変わりつつある対照が、作品のあちこちで見てとれる。大平洋戦争の記憶もまだ遠くはなく、しかし科学は進歩しつつあり、月に向かって有人ロケットだって飛んでいる……すなわちここでいう「異常心理」の正体とは実は、そうした状況における「いま生きているこの社会はどうもヤだ」という「息苦しさ」ではないか。そう見ることは可能なはずだ。
 今やこの作品群が書かれた1960年代も「ノスタルジア」の対象となっているが、しかしここでの彼ら若者たちは、だいぶ鬱屈している。どうすれば良く生きていけるのか。それがわからない。ある男主人公はこう嘆く。戦中世代なら自分も特攻隊にでもなれて目的に向かってパッと生命を燃焼できただろうが、今の生はまったくアヤフヤで手ごたえがない……。実は普遍的なその「心のスキマ」に(80年代のミュージックまではもうすぐだ)、フランス革命や古い打掛やマヤ文明や特攻隊といった、森村誠一いうところの「タイムスリップ」要素が、あるいは犯罪が入り込み、殺人として表現される‬。6篇に共通しているのは、このスタイルだ。
 こうした日常の「心のスキマ」に付け入る胡散臭いモノを、怪奇的な道具立てに用いる小説ないし物語は、この頃の流行りだったのだろうか。本書は狭義の「ミステリ」というよりも、SFやサタイアやホラーなどにもまたがった、「異色作家」や「トワイライト・ゾーン」や「異端作家ブーム」の流れにあるように見える。
 巻末対談では森村・山村とも、時代状況の変化による捜査方法のリアリズム描写の難化について苦慮しつつ、「心理」方面の探究の将来について、だいぶん期待しているように見える。しかし一口に「異常心理ミステリー」といっても、本書の短篇には差がある。たとえば表題作は、こういう設定を出せばもうこうとしか書けない、というたぐいのもので、実は「異常心理」について、他の短篇のようには必ずしも説明されていない。しかし、中盤の「短剣」や「天使」は違う。WHYの説明について、もっとフリーな領域に出ている(私にはこれらの真相は少々無理があるように見える)。
 この事態を最もわかりやすく説明するのは、最終話「暗い独房」だろう。少し詳しく記せば、この短篇の少年は、他人から干渉されるのがイヤだった。独りでいた方が心安らぐ。だから最終的に殺人を犯した。それを取り調べの刑事は、「実の母親が死んで愛情に飢えていたんだろ?」とわかりやすく「翻訳」しようとする。現在ならば「他人から干渉されるのがイヤ」という動機に容易に納得する読者も多いだろうが、作中現在の取り調べ室においてそれは通じない。それは「異常心理」であって、「異常」でない心理に翻訳せよ、と法の(つまり公的領域の)言葉は求めるのだ。それはいってみれば、「オマエのコトバは訛りがキツすぎて何をいっているのかわからない。もっとキチンとした標準語で喋ろ」という強要=暴力だ。ゆえに、ラストは必然的なものとして導かれてくる。
 こういうふうに考えてくれば、ここでの山村の作風はしごく「まっとう」だ。少なくとも、その三、四十年後にしばしば目についた、「さあ、ゲームの始まりです」と犯人に言わせることで「異常心理」を片付けようとした作り手の態度に比べれば(その「まっとう」さが逆に物足りない、という人もいるだろう)、これらの小説には「異常」なところなど、どこにもない。
 しかし、時間が経ってみれば、執筆時には「通常」だったかもしれない「心理」も、現在ではいささかフシギに見えてくるところはある。たとえば6篇中、自分を強姦した男に惚れる強姦された女が二人(2篇)、出てくる。これなど「そういうもの」として(たとえば「クロロホルムを嗅がされた人間はすぐ気絶する」とか「テニスボールを脇に挟んで寝たふりしておけば発見者は死体として扱ってくれる」ぐらいのいかにも昭和ミステリ的ローカルルールのイージーさで)さらっと流されているように見えるが、本当にそうなのだろうか。そこでスルーされているように見えるある心理にこそ、個人を超えた時代状況の「異常」さが、巨大な暗がりにわだかまってはいないだろうか。
 各篇の執筆時から約半世紀が経過した今、そんなようなことを感じさせられた。

 元版はカイガイ・ノベルス1977年刊、文庫版は角川書店1984年刊。
 収録作は
「断頭台」:「宝石」1959年2月。あるパッとしない俳優(元少年飛行兵としてラバウルの刑務所に二年収容され還ってきた)が、フランス革命の斬首刑執行人サンソンの役をあてがわれ、役柄に打ち込んだことからサンソンの人格が転移(?)し、現代と過去が融合してゆく話。過去のフランスと現代日本の場面転換がある(この辺はちょっとフレドリック・ブラウンの「さあ、きちがいになりなさい」を思わせる)。作中、日本の時間は「1963年」と初出時より未来の設定になっているんですが、これは元々そうだったんでしょうか(ここで読めます)。江戸川乱歩は「この作品は日常の現実は架空となり、架空の夢が現実となる転倒心理を描いている。私のいわゆる『うつし世は夢、夜の夢こそまこと』の系列に属するものであろうか」と評したという。しかし、サンソンの心理は描いても、俳優の心理はまったく描いていないところに、実はこの短編のミソがあるように思う。
「女雛」:ある地方に赴任してきた新聞記者が、男同士の心中を祀るべく建てられた比翼塚を訪ねたことから、十年以上前に起こったその事件に疑問を抱き調べ始める。歴史ミステリ+ワイダニットの形態。婚姻の夜に新郎が死ぬというと『本陣殺人事件』を想起するが、これは新郎が宴を抜け出して別の男と心中する、という謎。事件後、新婦を調査に訪ねると立ち小便をしていた、というような描写がなんとなく印象に残る。肝心のWHYはすぐ予想がつくけれど、それをなぜこんな事件にする必要が?という点はうまく説明されていないのではないか。「宝石」1963年3月。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1964年版』選出。
ノスタルジア:金ができると自然の中で野宿をする、というワイルドライフを送っているヒッピー風の男が、新薬実験用の犬を育てている人物の家に盗みに入り、なぜか古代マヤの骨笛を入手したことから、古代マヤの生贄男の生と交錯してしまう。現在と過去を交錯させる「断頭台」の方法のバリエーション(過去による侵入の契機として、あちらが役への没入なら、こちらはドラッグによる幻覚と謎の「骨笛」がキーになる)。しかしこうなるともう、骨笛が誘い出すトワイライト・ゾーン的フシギ現象の方が主に展開をリードしているので、「異常心理」的なWHYの理屈はほとんど描かれていない。大阪万博への言及有り。「推理文学」1970年10月。
「短剣」:母親の仇への復讐を誓う少年だったが、復讐相手は刑務所で死んでしまい……という話。過去を担うキーとなるのは、タイトル通り特攻隊に配られた短剣だが、こちらはWHYの方に主眼が置かれ、幻想は出てこない(ラストに匂わされる程度)。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1966年版』選出。1999年に映画化もされている
「天使」:文庫版で100頁に及ぶ、集中最も長い中篇。戦後、黒人米兵と日本人女性の間に生まれた混血児童を集めたキリスト教系孤児院の院長が殺害される。一点の曇りもない人物による理想的な院の光景(善)と、理想的に見えた院関係者の裏の顔(悪)は……という対比に神学的なドラマチックな効果を狙ったもの。きちんとフーダニットしています。ラストの「真相」は匂わされる程度だが、ドラマ的な対比の方を優先しすぎて、必ずしも説得されない(今ではこういうWHYは書けない)。「宝石」1962年5月。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1963年版』選出。
「暗い独房」:人の善意に堪えられない少年が殺人を犯すまでの心理を、取調室を舞台にして追う話。これは逆に心理の方はまったく現在にも通じる話だが、通じすぎて現在ではむしろ「通常」に感じられてしまう、という逆転現象が起こっている。「宝石」1960年3月。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1966年版』選出。
 以上六篇。こう見ると、山村の1960年代ベストともいえる代表作を集めた短篇集だが、まとまめられるのはけっこう時間がかかったんですね。

断頭台 (角川文庫 (5715))

断頭台 (角川文庫 (5715))

ゴーストライター、ゴーストシンガー

 たまにはベストセラーでも立ち読みして現世に対する怒りの力を取り戻すかと思い、書店の自己啓発コーナーで堀江貴文の『多動力』という本をパラパラめくっていたら、フシギな記述に遭遇した。
 この本の割と最初の方で、堀江は自分の執筆方法について解説している。最近の自著は大抵、話したことをライターがまとめたものであり、十時間話せば一冊ぶんになる。ただ、最近ではもうそれにも飽きた。新しく言いたいことなど出てこない。30万部突破した『本音で生きる』という新書はそれまでの自著から発言をまとめてもらったもので、自分は書くどころか一秒も話してない。こういうことをいうとゴーストライターがどうのと批判するヤツがいるが、これは単なる名義貸しではない、こういう分業こそが新時代のスキルなのだ……云々。
 実際、この『多動力』という本も自分ではまったく書いていないらしい。巻末のスタッフクレジットを見ると、自分のオンラインサロンの人間や出版社の編集部の名前が書いてある。いわば「堀江貴文」という固有名は単なる枠(フレーム)であり、その器を満たす作業は多数の別の人間が行なっている。
 このブログを読んでいただいている方はお気づきのことと思うが(そういえばもう先月で十周年だ……既にmemoの継続年数を超えてしまった……十周年企画を何かやろうと思っていたのにすっかり忘れていた……)私は小説における「語り」の仕組みに関心がある。だからその意味で「フシギ」と感じたことを以下に記す。
 文字記号(テクスト)主体の書物は、断片的な記述の集積である辞書などを除けば大抵、始め(スタート)と終わり(ゴール)が明確に設けられて内容が構成されている。文章がページに刻んだ何千もの折れ曲がりは書物という器が要請する仕様であって、そのシワシワを伸ばせば一本の線(ライン)というか流れ(ストリーム)になる。もちろん、どこからどう読んでも読者の自由なのだ。しかし構えとしては、始めから終わりまでのプロセスを段階的に読者は辿るよう想定されている。この「本には構えがある」ということは他の部分にもいえて、たとえば編著ではなく単著の場合、しかもこういうビジネス書の場合、著者の声(ボイス)のみが唯一の声として想定される。対談本のような共著なら複数の声がワイワイガヤガヤしている様子をイメージしながら読者は読み進めるが、単著なら一つの声をイメージするのが普通だと思う(講義を受けているような感じですね)。この声の単一性(というイメージ)を支えるのがカバー周りにおける著者の写真だ。こういうビジネス本の場合、有名人であればあるほど、著者の写真が載っている。それが、「個人としてのワタシが個人としてのアナタに向かって語っているんですよ」という幻想を与える。いくら実際は編集チームのスタッフで作っているからといっても、スタッフの写真は載らない――それがたとえ、「この本はみんなで作りました」という共同作業性を新奇なものとして称揚するような内容であっても。「著者=声は一人」という幻想がなければ単著は成立しないのだ。
 するとどうなるか。本当は合唱で、しかもそのことが聞き手にバレているにもかかわらず、架空の独唱を目の前でムリヤリ演じられ、それでいて都合の悪い部分についてはうまく適当に忘却を要求されているような、フシギな感触が読者には残る(ボーカロイドとかVtuberみたいな感じですね)。いまオマエが読んでいる=聞いているこの声、この本の著者はオレということになっているが、オレは書いていない。話してもいない。この声は別人がかき集めてそれっぽく仕立て上げただけのものだ。今後のオレの本は大体そうなっていくだろう。残骸。リサイクル。オレbot。それで充分じゃないか? 何が不足なのか? オレはオレという個人の輪郭をほどきたいのだが、そうすると既存の書物という形態においてはいろいろ不都合があるから仕方なく、今こうやってまるで一人の人間であるかのようなフリをしているのだ……。
 聞こえてくるのは、そういう声である(誤解を招くといけないので慌てて付け加えますが、私はそれが悪いことだとはまったく思っていません)。
 立ち読みしながら、私は、ナボコフの『目』や『青白い炎』のことを思い出していた。ビジネス本(しかしここでいうビジネスとは何だろう)に擬態した小説というのはジョルジュ・ペレックの『給料をあげてもらうために上司に近づく技術と方法』を始めすでにあるのだろうが(小説仕立てのビジネス本ということではなく、ビジネス本に擬態した小説、ということ)、まだまだいろいろ語りの仕組みを工夫すれば面白いことが起こるのではないかなあ、とフト思った。

 

多動力 (NewsPicks Book)

多動力 (NewsPicks Book)

 

 

 

青白い炎 (岩波文庫)

青白い炎 (岩波文庫)

 

 

 

給料をあげてもらうために上司に近づく技術と方法

給料をあげてもらうために上司に近づく技術と方法

 

 

ウィリアム・ギャディス『カーペンターズ・ゴシック』

 ウィリアム・ギャディスカーペンターズ・ゴシック』(木原善彦訳、本の友社、2000)。この小説の邦訳書がほしいなあと思いながら数年探してもまったく手に入らないので、しょうがないから図書館で借りて読んだ。といっても、どういう内容だか事前には全然知らなかった。まず訳者あとがきを見ると、現代アメリカ社会の病的な姿云々というような文言がある。難解で辛気臭い話なのかな……と思ったら、その懸念は見事に裏切られた。
 ウィリアム・ギャディス (William Gaddis, 1922-1998)の40年以上におよぶ小説家としてのキャリアにおいて、長篇は5作しかない。本書は3作目で、しかも一番短い小説らしい。英語圏では巨匠とされているようだけれども日本では訳書がこれ一冊しかない。だから今後紹介が更に進んでほしいと思うけれど、最もコンパクトな本書でさえ相当重量級のカロリーが詰め込まれているのは明々白々であるから、そう簡単にはいかないだろうなとも思う(でも他のもぜひ読んでみたいです)。
 この小説は一度で全部を把握しようとさえしなければ、割合スラスラ読めると思う。というのは、舞台はある夫婦が住む一軒の家に限られ、そこで一カ月近くの昼夜、十人足らずの男女が繰り広げる会話劇がテクストの大半を占めるからだ。シーンが変わる毎に、そこへ微細な風景描写が挟まれる。会話の内容はおおよそ世俗的で下世話な――つまり金銭にまつわるもので、ある種の共感(そうそうお金ってなんでこんなに入るのは少ないのに周囲からは細々と請求されてしかもそれがそれなりの説得力をもって迫ってきて結局は渋々支払わざるをえなくてでもなんとなく綱渡り状態で生活は続いていかないこともないんだよね、というような)さえ覚えることができる。では何が難解なのかというと、この会話に企業や人物といった固有名がいっぱい出てきてそれが複雑に絡み合ったネットワークを成しているからだ。
 主な登場人物である妻(エリザベス/リズ/ビブ)はある時、飛行機事故で身体を悪くした。航空会社に対する裁判が控えていて、自分側の医者と会社側の医者双方に診断を受けなければならず、でもこの医者どもが実にいい加減で妻は延々とたらい回しにされ、その都度細々と金額を請求されている。夫(ポール)はあるユード牧師という人物を政界進出させ自分はその選挙参謀におさまろうとしていて普段から各地を飛び回っており、そのために金が必要だからなんとか賠償金をふんだくりたい。前半で繰り広げられるのはこの夫婦の金銭をめぐるすれ違いにすれ違った会話という言語ゲームだ。金銭の支払いについて、あるいは家の中のルールについて、二人は常に言い争っている。相手を説得したい。言い負かしたい。支配したい。料理しながら。飲酒しながら。書類を整理しながら。愛撫しながら。長く延々と続くテニスのようなこのディベート合戦において面白いのは、相手の急所を突いたと思いきやそれが打ち返され、さらに打ち返して決まった相手に対するその勝利が現状改善のなんら役に立たず、かえって生活の無慙さをあらわにする瞬間だ。

 ――ねえ、窓を掃除しろって言うから、あの人が。窓はちゃんと掃除してある! 人は一生懸命働いて、それに対して私たちは報酬を払うのよ。あの人たちには、労働力しか売るものがないの、だから、私たちは引き換えに報酬を払う。払わなければあの人たちは。私たちが自分でするしかない。前と全然変わらないって言うのなら、自分で掃除すれば!
 ――いや、おい、待てよ、リズ、聞け……
 ――いえ、あなたこそ聞いてよ! 九百ドル、あの墓の中の、石の入ったあなたの箱、あんなの墓に入れといた方がいいわ。ほら、そっちの、手に持ってるもう一枚の方の請求書、二百六十ドルの花? 何の花、どこ? 半日かかって窓を掃除してる人間がいるのに、花束に二百六十ドル?
 ――いったいお前どうした、リズ……ゆっくりと擦り切れたラブシートに座り、苛立ちを押さえて膝に乗せた靴は、磨いて房をつけることで上品さを模倣していた。――ちゃんと見たのか? 請求書を開いて、広げて見せたその顔は履物と同じ程度には真に迫っていた。――誰に贈ったか見た? セティー・ティーケルって?
 ――私、いえ、私……
 ――話す時間がなかったけど、お前の名前で贈った。話す時間がなかったんだ……そして、安物の新しい靴と同じ程度に心を込めて女を見つめ、女が息を整え、厚めに輪郭を描いた唇をさらに引き締めるのを見て――お前が心配してることを伝えたがってるんじゃないかと思って……。
 ――いえ、ポール、ごめんなさい、(……)
 ――ときどき、お前は俺より優位に立とうとするよな、リズ。

 セティーというのは有力者の娘でリズの友人。現在、遠く離れた場所で意識不明の重体で入院している。夫のヤロー、清掃業者への支払いにはうだうだ言うくせに花束なんかに260ドルも使いやがって、と憤っていたら自分の親友に対する心遣いだったのでエリザベスはトーンダウンするのだが、後でこれがウソだったことが判る。

 ――同じ、リズ、同じこと、結論に飛びつく。お前があの花屋に電話をかけたりしなけりゃ……
 ――私じゃない、向こうがこっちに電話してきたのよ! 白いカーネーションで作った、百八十センチもある十字架の請求書のことで、電話してきたのよ。セティーに贈った花。そんな変なもの想像もできないって言ったら、カードを添えて贈りましたって。ユード牧師の心からの何とか、キリストのはらわたの中の何とか、吐き気がした、何もかも本当に吐き気がした。
 ――おい、お前からの花束ってことになってなかったのは悪かったって謝っただろ、きっと花屋が注文を間違えたんだ、花屋が……
 ――ああ、良かった、私が贈ったことになってなくて。私の名前で花を贈ったって言ってたわよね、あの、ぞっとする花、まるで葬式みたいな花。どうしてあんな嘘。ティーケル上院議員と手を組むんなら、あんなことしないで、どうしてそう言わないの。セティーを利用しないで。

 実はリズの名前で花を贈ったというのはウソで、それも選挙活動に利用していたのだ。これにはリズも激おこ(当たり前だ)。

 リズは大会社の元社長の娘だ。父親は不審死を遂げ、どうもそこには陰謀が絡んでいるらしい。遺産はあるんだかないんだかよくわからないがとりあえず管理者が仕切っていて自由に使えないことは間違いない。二人姉弟で弟(ビリー)がいるのだが、彼もなんだかフラフラしていてしょっちゅう姉のもとへ金をせびりにくる。ヒロインにたかっているという意味では似た者同士である夫はそれをよく思っていないから、そのことでもまたなんだかんだと三人の間で言い争いが起きる。
 私は舞台の基本構造について、アラン・ロブ=グリエの『嫉妬』をちょっと思い出した。ある家の内部をずうっと眺めている視線。ただ『嫉妬』においてはそこに心情が絡んで、時間と空間が区別のつかないままに混沌たる心象風景として延々と記述されるのだとすれば、本作はいってみれば、読者にとって舞台劇を眺めているような明快さがある。固定アングルが捉えた映像と会話という、「描写」のみですべてが成り立っているからだ(ここに語り手の心象風景や幻覚が入り混じってくるとヤヤコしくなるのだが、そういう心配はない)。ただそこで繰り広げられる会話の内容は相当複雑なので、あれこれと想像して自分で補足しなければならない。
 おおシャーデンフロイデ。他人の不幸は蜜の味。なるほど、これは確かに手のこんだ「現代批判」だ……。前半でそう納得しかけていた私は、後半部を読んでさらに驚いた。
 夫婦の住む家は借家で、不在がちの大家(マッキャンドレス)は謎の人物だ。何かヤバイことをやって誰かに追われているような気配もする(大家に帰ってこれないヤバイ事情があるとしたら家賃払わなくてよくね? それってラッキーじゃね? と夫はゲスな推測をする)。その彼がある日とつぜん現われる。そしてあっという間にリズと一夜を共にする。このさりげなさは思わず見逃しそうなほどあまりにも呆気なくて驚くのだが(大家が姿を現わして知り合いと喋り終わったと思ったら場面が変わってもうベッドの上にいる、というぐあい)、このセクシーシーンはなんともすばらしい。
 ギャディスの前作『JR』を日本で最も激賞した一人であられる殊能将之先生は、小説というものにおけるセクシーシーンの書き方には一家言あって、マンディアルグの『満潮』についてかつてこう書かれていた。……と思って、「memo」「reading」を検索してみたのだが、全然引っかからない。えーっと、私の覚え違いだろうか? twitterを探すと近い言葉を仰られていたけれど……。

  つまり、高尚めかしたエロは虻蜂取らずでダサい。エロならエロに徹したほうがかっこいい。ということですね。
 ところが、『カーペンターズ・ゴシック』のエロはエロに徹していないのになんとなく心地良い。ずっと読んでいたいような気持ちになる。

男は女を引き倒し、自分の横に真っ直ぐに寝かせて――いえ、いえ、違います、女の背中をたどっているその手と同様に、男の声は穏やかで、それもまた永遠のナンセンスの一つにすぎないんです、すべてのナンセンスは、復活と、輪廻と、天国と、カルマと、そういうタワゴトから来てるんです。――すべて、恐れなんですよ、と言って――考えてみてください、この国の四分の三の国民が本当に信じてるんです、イエスは天国で生きてるって。そして三分の二の国民が、イエスは永遠の生命へのチケットだと信じてる。指先が、息のように軽く、割れ目のてっぺんの周囲を囲むように進み、その縁をたどりながら下り、存在しなくなるって考えただけでパニックを起こしてしまうから、生まれ変わったときには同じモルモン教徒の妻と家族に再会するとか、審判の日に皆が集まるとか、大イマームシーア派の最高指導者)と共に戻ってくるとか、チベットのどこかの掃き溜めで両親を選んでダライ・ラマとしてこの世に戻るとか、何になってもいいから戻ってくること――犬でも、蚊でも、二度と戻ってこないよりましだから。どっちを向いても、同じパニック。どんなものでもいい。夜をやり過ごすだめの、狂った作り話。そして、現実離れしてればしてるほど好都合。人生で絶対に避けることのできない唯一の問題を避けられるものならなんでもいい――指が探るように割れ目の縁をたどり、その下へ、さらに深く、絶望的な作り話です、不滅の霊魂だとか、いまいましい赤ん坊たちが生んでもらうために、生まれ変わるために、押しかけてくるとか、湿り気を帯びた手の幅まで割れ目を広げ――生まれ変わるためならコンドルに生まれ変わりたい、昔、フォークナーがそう言ったそうです。コンドルなら、憎まれもせず、望まれもせず、必要ともされず、妬まれもせず……
 ――あ! 女は身を引き離して、恨みがましいことを言われた肘をついて再び起き――フォークナーはたくさん読んだ?(……)
 ――その、交尾してるところを見たことある? バッタとか、カマキリとか、なにかそういうの。とても、とても、精妙な……女の指先は骨をなぞり――素敵な足首、毛が生えてなくて、きれいで、すべすべして、ずっとこっちの方まで……ふくらはぎを越えて、まさぐりながら膝を過ぎ、さらに上の方へ、男の上に乗り、女の指に大事そうに包まれた陰毛の盛り上がりは、取り囲まれた中で膨らみ――以前、テレビで見たの、とても、とても、エレガント……上がったり下がったり、下がったり上がったりする女の手は、木の葉に遮られながら女の肩口から登り女が体を下げると下りてくる日の光のように、上がったり、下がったり、女の指先はたけり狂っている亀頭の裂け目まで膨れ上がった血管をなぞり、その先では女の舌が光るビーズ細工のような細い線を引いて、そこに女の肩越しに差してくる陽光が当たり、ふと止まって、焦点を合わせているかのようにそれを離して持ち――これ何……そして――これ何……そして、舌の先で、爪の先で――ほら、ここのところ、小さなかさぶたができてたみたい……
 ――そう見えるんなら、そうなんでしょう! もう、何だろうと知ったことじゃありません。戦争のときの傷ですよ、板切れにピンで留められたバッタみたいな格好をさせられて、これは何かしら、あれは何かしら、いちいち体を調べて……

 こういう調子で20頁近く続く。このシーンが読んでいて気持ちがいいのは、地の文と台詞に区別がない手法もさることながら、会話の内容、記憶と現在、映像と音声がさまざまなレベルでアナーキーに解け合っているからだと思う。しかしここを読んで驚くのは、夫によれば、リズは飛行機事故のせいで「夫婦の儀式」が遂行できなくなった(から航空会社はそのぶん賠償せよ)という扱いにそれまでおかれていたからだ。この場面には、浮世のヤヤコしくてメンドーな話がひたすら綴られていた作中にあって稀なオアシスのような晴れやかさがある。いや、それだけではない。その朝は、リズの人生の全時間においても、最も幸福な時間だったのだ(と、後で判る)。だから、そこへとつぜん弟が闖入者としてやってき、その光に満ちた静謐な朝をぶち壊す時、あるいは後日、大家が再びやってきてしかし今度は口論となり、その朝の記憶さえもが冴えない色に塗り替えられてしまう時、それは現代小説としては当然の流れ(特権的な存在など何もない)でもあるのだが、かえってこの場面の幸福な印象は強まる。
 一篇の圧巻をなすのは、クライマックスでのリズとマッキャンドレスの口論シーンだ。読者はここで、どうもこれまで断片的に読んできた世間話がすべて繋がっていて実に壮大かつ周到な陰謀をなしているらしいことを窺い知る。ここでのディベート合戦は、推理小説における探偵の長広舌にあたるといってよく、もちろん本作においては全ての謎解きがいっぺんに行われるのではなく数々の伏線がそのまま放置されるのだとしても、語りのテンションとしては類まれな熱量がこもっている。対話のキーの一つとなるのは、アメリカの宗教と政治(たとえばサムシング・グレート教育)だ。大家の本職は地質学者で、かつてある本のために教科書的記述を用いた原稿を書いた。ところが今や進化論は州の科学教育から排除されようとしており、代わりにアホーな宗教的説明が採用されつつある。彼は諦念を抱き、ニヒリスティックな立場から大衆批判を繰り広げる。ところが、リズはそんな彼の立場をも痛烈かつドラスティックに批判するのだ。この時、わずか数日前には出会って数時間で熱烈な一夜を共にした二人が、まるで全地球の運命が今この時に懸かっているかのようなカタストロフ的ディベート泥仕合を繰り広げているその展開に震撼とさせられる。
 ディベートが終わって大家は去る。そして――あまりにも無情な展開。と思いきや振り下ろされる、いきなりのフィニッシングストローク。これには驚かされる。ええっ? いやいや、いったい、何が起こっているのか……。

 こうしたパズルの複雑さと風俗小説的推進力のタフさを併せ持つところが、ウィリアム・ギャディスの面白さなのかなあと思いました。
 というわけでオススメです。

『JR』が訳されたらみんなで買いましょう。

澤木喬『いざ言問はむ都鳥』

   1

  さいとうななめ改め織戸久貴サンが以前言及していたから評判だけは知っていて(いま検索したらその言及はもう四年前だった)、フト思いたって読んだら大変すばらしかった。
 著者は1961年生まれというから親本刊行時(1990年)は28~29歳だったのではないかと推察されるけれど、その年齢にしてこれほど完成された文体と構築力を持っていたというのがまずすごい。「文体」と書いたが、それは単に気の利いた短いアフォリズムめいたフレーズを並べることができるというような程度のものではない。放っておけば単調になりがちな散文の流れに硬軟とりまぜたリズムを生み出し、思索と世界観と知識とをツギハギが目立たないように溶け込ませて、テクスト全体を統御する。語りとは何よりもまず芸なのだ。そう思わされる。
 この「芸」がどのように成り立っているか。それを少し紹介してみよう。

 

   2

 この作品には四つの話があり、そこにおおよそ一年の四季の時間が含まれている。語り手は三十代半ばの男性植物学者・沢木敬だ。ふだんは大学に勤めているから、しぜん勤務先の同僚や上司、学生、隣人知人が登場し、その界隈が舞台となる。作中に「那珂川」が出てくるから、たぶん栃木とか茨城とか、そのあたりに大学のモデルがあるのだろうか。作中では植物学の該博な知識が全編にわたって重要な役割を果たし、あえて括ればこれは「ボタニカル・ミステリ」なのだといってよい(作者には植物関係の書籍を編集した経験もあるらしい)。
 巻頭の表題作「いざ言問はむ都鳥」の書き出しはこうだ。

 山は一つの別世界なのだ、などと思いながら帰ってきた。
 久しぶりに見る高山植物群落は、自分と同じ次元に属する存在とは思えないほど精緻な、この世の驚異の全てを凝縮した結果のように見えたのだ。

 

 七月下旬から八月上旬にかけての二週間を、ぼくは文字通り雲の上で過ごしてきた。大学院時代以来すっかりご無沙汰していた鳥海を訪れ、山頂に居座って高山植物群落の変化を眺め暮らしてきたのだ。学生の頃はこういう贅沢をずいぶん簡単にしていたような気がするが、すまじきものは宮仕えである。考えてみれば、こうして樹林限界を越えて高山帯にまで上がったのは、実に何年かぶりのことだった。夏休みとは名ばかりに諸事多忙な昨今、こういう時間が取れたのは、実のところ奇蹟に等しい幸福と呼んでいい。

  語り手の素性を知る暇もなく、いきなり「山は一つの別世界なのだ」という断定がスパッと下され、続けて、くだくだと雑感が記される。しかしよく見ると、そこでは語の微細な配置が施されている。私は先に、「文体におけるリズム」と書いたが、あえてズバリといえば、ここでの文体におけるリズムの秘密とは、「対比」のテクニックのことである。上の二段落を詳しく見てみよう。
 山―別世界
 同じ次元―精緻・驚異
 贅沢―簡単
 学生の頃―宮仕え
 夏休み―諸事多忙
 昨今―奇蹟・幸福
プラスとマイナスとで互いに値の異なる語が、リズミカルにポンポンポンと結び合わされ配置されてゆく。この演奏のような呼吸。ここに秘密がある。むろんそれは単に反対の言葉を並べていけばいいというようなものではない。饒舌にして抑制の効いた語りは「すまじきものは宮仕え」といった野暮ったくなりがちな慣用句をものともせず乗りこなす。加えて「高山植物群落」「樹林限界」といった専門用語を説明無しにシレッと紛れ込ませている点も見逃せない。専門用語とは、門外漢にとっては、いってみれば異言語の一種だ。自分の知らないしかし確固たる知識体系があるということ。それに触れることは知らず知らずのうちにエキゾティシズムを掻き立てる。さらに行動のレベルでいえば、ここですでに「驚き」が産出されるメカニズムも提示されている。語り手は、学生時代には未だこの「奇蹟に等しい幸福」を知らなかった(それがあまりにも当り前=日常だったから)。「宮仕え」の時点でも知らなかった。しかし、学生時代→宮仕え→今回の夏休み、という往還を経ることによって、「高山植物群落の変化」という同じ事象が、「奇蹟に等しい幸福」として眺め直されている。それを感得するセンサーを醸成するのは、山⇆宮仕え、の行き帰りというギャップの経験に他ならない。ミニマムな語のレベルに引き戻していえば、先の「高山植物群落」という専門用語は、「高山」「植物」「群落」という単語に区切るなら、それは植物生態学の門外漢(つまり私のような)にとっても見慣れた言葉だ。しかしそれが「高山植物群落」という語として結びつけられ、上のような文脈に置かれた途端に、何やらフシギな生生しい感覚が生じる。こうした、普段遣いの言葉と慣用句と専門用語が入り混じった語り。それがこの語り手にとっての「日常」なのだ――と、読者は冒頭から知らされる。
 この「対比」の観点を、テクストにおいてかなりの割合を占める考察のレベルにまで敷衍してみよう。以下は、第一話前半の記述。

 梅雨どきというのは、植物にとってはちょっとひと休みという時期に当たる。春先のあわただしい新芽の展開の後、乾燥と高温の続く夏に疲弊させられる前の、休息期間だ。この時期、暑くもなく寒くもなく、抱えられるだけの水気を抱えた空気の中で、植物は妙に深々と繁って見える。すぐ向こうに住宅地が広がっているような、台地のきわにわずかに残った薄い雑木林の中を歩いていて、ふっと屋久島あたりの原生林にいるような錯覚に襲われたりもする。

 多分それは、空中湿度がほとんど飽和に達しているために発生しがちな霧に視界を遮ぎられるからなのだろう。しかし樋口は、きっとそれが植物の本性なんだよと言った。それは植物が休息を取る間に眠り込んで見ている夢、彼らの爆発的な進化の舞台となった、つまり彼らの本質が作り上げられた熱帯雨林的環境の夢がこぼれ出て、林の中を流れているからじゃないのと言う。ゆみちゃんに聞かせるための話なのかもしれないが、おかしな具合に想像力の豊かな奴だと思う。

 おかしいって言うことはないでしょう、個体発生は系統発生を繰り返すって言うじゃない、夢野久作だよ、と樋口は笑った。細胞の記憶というのは遺伝子に比定することができるかもしれないが、夢野久作なら胎児の夢だろう。言っちゃなんだが、林の木々は胎児ではあるまい。ろくでもないことを考える男だ。

 霧を抱えた夢幻的な描写。それがいったん科学的な推察によって説明される。しかしそれによって幻想のベールが剥がされ無味乾燥な退屈さを顕わにするかといえば、そうではない。「専門用語」の段で述べたように、「空中湿度が飽和に達し」という言葉遣いもまた、小説の文体にとっては一種の「異国語」によるエキゾティシズムを産出するからだ。そしてさらにそれが「夢野久作だよ」という別のフレーズによって塗り替えられる。この感覚は、霧→夢野久作、という順序では生じない。霧→科学→夢野久作というルート、行き帰りのギャップによってこそ生じるものだ。
 どうですか。私が「対比」と呼ぶものの正体が、だんだん感じられてきたのではないですか。

 

   3

 この作品はふつう、「日常の謎」の系譜とされている。では作中の「日常」を述べるこうした語りは、なぜこのようにエキゾティシズムを帯びているのだろうか。それは一口にいえば、「見慣れたもの」(日常)が「見慣れないもの」(非日常)として眺められているからだ。

 もう少し詳しく記す。作中の舞台の半分は大学だ。だから「大学ミステリ」として、本作はこの6年後に登場する森博嗣のS&Mシリーズの隣に並べて見てもいい。「大学ミステリ」においては、「学問」と「日常」とが重なり合うことで一種のエキゾティシズムが産み出されていた。学問=ロマンティックなもの、日常=リアリスティックなもの、という「対比」かといえば話はそう単純でもないのだけれど、「大学ミステリ」においては「学問」と「日常」のどちらか一方だけでは生じない、「大学」という場において両者が重なり合いせめぎ合うことによって初めて産み出される、あるロマンティックさがあった(と思う)。しかし今や、博士号をとって就職先の決まらないオーバードクターなど珍しくない。ロマンティックさなどどこにもない「日常」が多く(そのツラさと共に)語られるようになった。その観点からいえば、語り手の

 ぼくも二年くらいは浮き草的なOD(オーバードクター)の生活を経験しているが、それはそれでずいぶん楽しんだような記憶しかない。

 という述懐など、現在ではずいぶん牧歌的に見えるに違いない。
 いや、話は大学に留まらない。それは「日常の謎」の舞台となる「日常」そのものにおいても感じる。本作の「日常」を読むと、まあ確かにコワイことは多少あるけれど、友人にも恵まれて、職場も安定しているし、趣味のヴァイオリンは年四回の定期演奏会にも知人と楽団を組んで出たりしていて、なかなか愉しそうな……あえていえば、お気楽な「日常」ですね。そう感じた人がいたとしてもおかしくない(たとえば「大学ミステリ」としてその15年後に発表された奥泉光『モーダルな事象』と読み比べたらどう感じるだろうか)。

 北村薫の『空飛ぶ馬』が刊行されたのは1989年。バブルの真っ只中だった。その系譜とされる本作には、植物というテーマもあってずいぶん当時の環境問題についての考察が挟まれている。「当時」といったってたかだか30年近く前だから、地球規模の問題がそうドラスティックに変わっているとも思えないが、しかし主人公の述懐を読むと、意識の上でどうも隔世の感を受ける。(まあ、そうはいっても、この時はまだ余裕があったよねえ)……そういう感じ。そうか、彼らが住んでいる世界にはまだ、阪神淡路大地震地下鉄サリン事件もNY同時多発テロ小泉政権リーマンショックも東日本大地震もなかったんだよな……時間が微妙に近いぶん、そんなふうなギャップを、2018年のいま読むと覚える。

〈あの異常な出来事の連続は、本当に現実と地続きの事実なのだろうか〉というラストの述懐は、そのまま、この作品をめぐる状況についてもあてはまる。ウィキペディアでデビュー時のおおよその状況を見ていただきたいが、まず「女子大生はチャターボックス」という企画がすごい(いまなら考えられない)。「鮎川哲也と13の謎」という企画もすごい。売上的にはなんの実績もない新人を次々デビューさせる会社もすごいし、それに応えて次々とエポックメイキングな作品を世に問う作家たちもすごい。あの異常な出来事の連続は、本当に現実と地続きの事実なのだろうか……もちろん、それは、たしかに、あったのだ。

 

   4

 話がズレた。既に充分長くなってしまったので、本作のミステリ的仕掛けについてあまり言及する余力がないが、それはいずれ作者の短篇を読んだ時にでも述べる。もう少し「ギャップ」について述べて締めくくろう。本作において、最大のギャップをもたらすモチーフはもちろん植物だ。植物とは、細菌や微生物を除けば人間にとって最大の他者であって、その生態の読み解き方を知る者なら、いかにこの他者が知らず知らずのうちに人間の日常に接して・侵入しているか、熟知しているはずだ。主人公はそうしたrule of greenを知る者だが、しかし、熟知しているがゆえに見えない死角、植物学の門外漢にしか見えない死角があるのだということ、そうした死角の内に住まっている人間がこの現実には主人公と同じ次元に存在しているということが、作中の「謎」をめぐるディスカッションではしばしば指摘される。そして、イメージの塗り替えという順路を辿ることは、ある感慨を産み出す。謎の答えという唯一解は、別のオルタナティヴな解を否定するだろう。しかし、そうしたディスカッションの基盤をなす「日常」は、そうした解のせめぎ合いという対話が行われたプロセスそのものを否定しない。「夢野久作」が「科学」も「霧」も否定しないように。このシーズンに咲く植物が前のシーズンの植物を否定しないように。ならば、無事に過ごしているならもう60代の半ばを迎えたであろう沢木敬たちは、いったいあれから、どんな「日常」を過ごしたのか? 元気に過ごしているのかしらん?

 ……そんな具合にね。

 

 

 

 

いざ言問はむ都鳥 (創元推理文庫)

いざ言問はむ都鳥 (創元推理文庫)

 

 

木元哉多『閻魔堂沙羅の推理奇譚』

 木元哉多『閻魔堂沙羅の推理奇譚』(講談社タイガ、2017)を読んだ(実は読んだのは二か月前ですが、ぼやっとしているうちにもう続刊が出たらしいので、急いで一巻目の感想を書き付けます)。

 この小説はフシギな構造をしていて、主人公(三人称視点人物)の探偵役もとい推理役が毎回変わる(『笑ゥせぇるすまん』みたいに主人公が各話変わると思ってください)。すなわち彼らはみな殺人の被害者で、天国行きか地獄行きかという死後の審判の場(閻魔大王の娘が判断する)において自分にまつわる殺人事件の謎を解き明かせば生還できる、という推理クイズが毎回設定される。そうした短編が四話入っており、あえて各話のおおよその流れを起承転結構成で腑分けすれば、
 起:主人公の日常
 承:主人公が死に至る事件
 転:推理クイズ&解答
 結:謎の完全解明(+説教)&エピローグ
などというふうになるか。
 つまり謎を解くのは頭脳明晰な名探偵でもなんでもない殺人被害者=ただの一般人で、一般人が解くのだから事件の難易度は比較的易しめではあるが、しかしそれにしたって、老若男女誰もがいきなりこんなふうにきっちりと探偵役を務めることができるのだろうか? 私は読みながら城平京『虚構推理』(2011)のことを想起した。『虚構推理』という長篇はかなり難しいことをやろうとしていて、その分(ム、ム~ン)と合点がいかない部分が私は大きく、たとえばその一つは、自身の推理内容に対する探偵役の真剣さというか緊張感だったと思う。それに比べるならば、『閻魔堂沙羅の推理奇譚』の探偵役たちはみなずいぶん「真剣」だ。自分の命がかかっているのだからそれも当然だ。いってみれば、散文的に引き伸ばされた「比類のない神々しい瞬間」(バーナビー・ロス)が毎回しつらえられてあるようなものだ。固定キャラクターの閻魔堂沙羅(閻魔大王の娘)は「出題役」だが、とうぜん「真相」はすべて承知している。推理の多少のとりこぼしは大目に見てくれる。この推理空間はずいぶん安定している。ナルホド、『虚構推理』のように死後の世界を作中現実に繰り入れるという設定をこんなふうに組み替えて、これほど安定した短編のフォーマット(『黒後家蜘蛛の会』や『退職刑事』などのような)を作ることができるのか、と驚いた。

 略歴を見ると、この著者は生年などのプロフィールをほとんど明らかにしていなくて、デビュー作ながら「新人離れした筆運びと巧みなストーリーテリング」と紹介されてある。第一話の女子高生の話を読んだ段階では、学校を舞台にした割とありがちな作りに見えていて、そこに挟まれる

智子は、処女である。

 というような箇所に、(ウ~ム、そうであるか~。処女なのであるのであるか~)と、こういうことを「である」文体でわざわざ記述する若干のオジサン感を感じないでもなかったのであるのであるが、第二話の鶏肉卸業者の話を読んで考えを改めさせられたのである。この第二話の会社員が死に至るまでの日常業務内容描写はかなりしっかり書き込まれていて、これは作者が実際に関連業界にいたのでなければ、よほど取材力がしっかりされているのだなと思った。デビュー作でのこうした取材力は、たとえば同じメフィスト賞では早坂吝『◯◯◯◯◯◯◯◯殺人事件』でも感じた。早坂氏のその後の活躍はご存知の通り。この木元という方も、わずか二か月で続編を刊行できるほどだから、かなり基礎体力をお持ちなのではないかしらん?

 といっても、各話は基本的に「イイ話」なので、結末は時に人生訓的というか、自己啓発的というか、そういう説教臭さに落ちるところもないではない(特に第二話)。この安定した推理空間にも、書き継がれるうち次第に亀裂が入ってくるはずだが、それはどういったものになるのだろうか?

 

閻魔堂沙羅の推理奇譚 (講談社タイガ)

閻魔堂沙羅の推理奇譚 (講談社タイガ)

 

 

 

閻魔堂沙羅の推理奇譚 負け犬たちの密室 (講談社タイガ)

閻魔堂沙羅の推理奇譚 負け犬たちの密室 (講談社タイガ)

 

 

松井和翠編『推理小説批評大全総解説』

 来たる5月6日(日)に東京文学フリマで頒布開始される松井和翠さん編の『推理小説批評総解説』の巻末座談会&アンケートに、秋好亮平さん(探偵小説研究会)と一緒に参加しました。

 この本は日本のミステリ批評をオールタイム・ベスト的に70編選んでそれに解説をつける、というもので、対象作品本文はもちろん収録されていませんが、座談会では三人ともそれを全部読んだ上でああだこうだと話しています。オモシロイ本です(解説文はほぼ全てこちらに連載済)。私もたいへん勉強になりました。この本を一読すればきっと、小説も批評ももっと読みたくなる飢えが増すことでしょう。よければご一読ください。

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結城昌治『公園には誰もいない』(講談社文庫)

(承前)

 結城昌治『公園には誰もいない』は、私立探偵・真木三部作の二作目。和製ハードボイルドの傑作として名高いこのシリーズの最高傑作に挙げる声もある(個人的には一作目『暗い落日』の方が好み)。
 前作『暗い落日』が、ロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』のメイントリックへの不満から書かれたという作者の自註は有名だ(例・結城昌治作品集第2巻の「ノート」等)。チャンドラーとロスマクの強い影響下から出発したとされるこのシリーズは確かに、現在の眼からすれば、「翻訳ものの移植」としてはほとんど教科書的と映るまでによく出来ている。そのあまりにもシンプルな構成には、無駄を省いた文体とも相まって、あるいはある種の物足りなさすら覚えるかもしれない。ロスマクの『ウィチャリー家の女』『さむけ』が文庫版で四一〇頁程度なの比べ真木シリーズは三作とも二〇〇頁代後半に留まる。つまりその分、チャンドラーやロスマク特有のあの迷宮感覚――一つの依頼から事件を辿るうち謎も登場人物も次第に増加していき、読者は探偵がいったい何を追っているのかよくわからなくなってしまう感覚――は削ぎ落とされ、物語の構図はわりあいくっきりと印象に残る。

ハサミ男』巻末文献リストの最後尾にはこの『公園には誰もいない』が挙げられていて、しかし私は二度読んでもどこがどう参照されているのか、全然わからなかった。少し前、『ハサミ男』の電子書籍版を買い、そこでいくつか検索するうちにようやく、(ハハアここだったのか)と突きあたった。それは例の第20節、とし恵との対話シーンで事件現場の公園を訪れる場面で、

犬を散歩させる老人も、ベビーカーを押す主婦も、サッカーに興じていた子供たちも、みんな遠くへ行ってしまった。いまはただ、冷たい風に吹かれて、茂みの枯葉が地面に舞っているだけだ。公園には誰もいない。

  これは結城作中に出てくる(かつ、タイトルの元にもなった)シャンソンの歌詞の一節、

拾った貝殻を捨てるように
あなたは行ってしまったけれど
楡の木蔭で
束の間の恋は信じやすくて
小径にたわむれていた蝶も
魚をすくっていた子供たちも
みんな遠くへ行ってしまった
でも
あたしはもう泣いていない
風に吹かれ
枯れ葉のように
公園には誰もいない

 をふまえたものだろう(この文庫版には初版と「改訂版」の二種類あるのだが、このくらいの引用なら、どちらの版でも大した違いはないはず)。しかし『公園には誰もいない』はハードボイルドであるから、(参照したのは本当にここだけなのだろうか?)という疑念はぬぐえない。

 結城昌治は視点にうるさく、真木シリーズは一人称一視点にこだわった。一方、『ハサミ男』はハードボイルド小説(一人称パート)と警察小説(三人称パート)のハイブリッドだ。先行作と比べて浮かぶそれぞれの「独自性」が、作品のボリュームにも関わっているとおもう。

 ロスマクもまたチャンドラーの影響のもと出発したが、その「独自性」の一端はフロイディズム(精神分析)の大胆な導入にある。『ハサミ男』はいかにも精神分析的な読みを誘発しそうだが、しかし肝心なところでどうも尻尾をつかませないような、スルッと逃げていく感触を私は持っている。だから、巻末参考文献がチャンドラー『湖中の女』に始まって結城昌治『公園には誰もいない』で終わるにもかかわらず、ロスマクへの言及がないのは、何か意図的に避けているようにさえ思える。以前にも紹介したように、作者の好みはチャンドラーよりもロスマクの方だったろうから。

 松井和翠さんという方が今、日本の推理小説批評の歴史をふりかえる連載をされていて、そのうちの一編として挙げられた殊能将之「本格ミステリvsファンタジー」(「ユリイカ」1999年12月号)に加えられた解説(ネタバレ有)で恐縮にも私の同人誌に言及された上で、

孔田多紀氏の『立ち読み会会報誌 第一号』の第一章「『ハサミ男』を読む」の中に《「ライオス王」とは、オイディプス王の父親のことなのだが、その意味がどうもよくわからない》とあるのが、わからない。

 と書かれ、ソポクレスの「コロノスのオイディプス」を参照しつつ独自の説を展開されている。私はそれを読んで、ガツーンと衝撃を受けた。いや100%首肯するかといえばそうではないのだが、何か閉塞感が打破されたような気がした。

 私はなぜ去年、「その意味がどうもよくわからない」と書いたのだろうか。言い訳をさせてもらえれば、それは書いている時に、自分の家庭にも娘が誕生しそうだということがわかり、結城昌治ロス・マクドナルド作品で「家庭の悲劇」を立て続けにディグしていくのがなんとなくシンドくなってしまったからなのでした(特に『ウィチャリー家の女』で妊婦が泥酔する〔と後で判明する〕シーンなどはメチャメチャ怖くて読むのがイヤになってしまった、……おかげさまで無事誕生しましたが)。

 昔は私もイヤ~な話はふつうに読んで全然平気でいたのですが、いざ自分の親族関係が広がってみると、イヤ~な話を読むのは結構ツライな、と実感するようになったのは、なかなか貴重な経験でした。

「コロノスのオイディプス」はソポクレスのいわゆるオイディプス三部作のうち、一番最後に書かれたものだ。すなわち、作中の時系列では

オイディプス王」(オイディプスが生まれてから失踪するまでの話)→「コロノスのオイディプス」(失踪したオイディプスが放浪ののち死ぬ際の話)→「アンティゴネ」(オイディプス死後の話)

だが、執筆の順番は、

アンティゴネ」→「オイディプス王」→「コロノスのオイディプス

である。執筆時期には36年の広がりがあり、現代のような厳密なシリーズものを意図して書かれたものでは必ずしもないというが、しかし続けて読むと、ソポクレスは「コロノスのオイディプス」を書かざるをえなかったのではないかという感触を抱く。「オイディプス王」と「アンティゴネ」の筋は過酷極まりなく、運命に対して人間が自由な選択肢をもちうるような余地はない(そこが魅力でもある)。一方、「コロノスのオイディプス」は、ひらたくいえば、オイディプスが死ぬ前に言いたいことをあーだこーだと周囲に思うさまぶちまける話で、対話の劇的緊張感というようなものは他の二作に比べうすく、スピンオフ的緩衝材という感じ。一種の「甘さ」であるが、しかしクール一辺倒ではやりきれない、死ぬ前くらい言いたいことを言わせてやれ、というのは、人情ではないでしょうか。

「コロノスのオイディプス」によれば、オイディプスの最期を見届けるのはアテナイ王となったテーセウスである。そう考えれば、一見つながりのなさそうな『ハサミ男』と『美濃牛』とのあいだにもつながりが見えてくる。

 奇妙な題名はギリシア神話ミノタウロス(「ミノス王の牛」)のもじりだが、では美濃牛とはいったいなんなのか。
 そこで『美濃・飛騨の伝説』という本をあたると、洞戸村に藤原高光が牛鬼を退治した伝説があることがわかった。高賀神社には高光公の銅像があるらしい。
 ははあ、美濃牛とはこれのことか。ということは、舞台は洞戸村なんだな。(「洞戸村の思い出」/「IN★POCKET」2003年4月号)

 つまり、病室のシーンで「ライオス」の名前が出たことから、ライオス→オイディプス→テーセウス→ミノタウロス……という密かなリレーが生じたのだろうか。

 私は去年、十年以上ぶりに映画『ハサミ男』を観て、その結末の原作との違いをすっかり忘れていることに気づいた。映画では病室から出ていった後、〈医師〉がもう二度と出てこないであろうことが示唆される。原作でもそうである可能性はある……ということを私は長いあいだ、完全に見落としていた。「きみ、名前はなんていうの?」というフィニッシング・ストロークは、読者の誰にも「再発」を感じさせるが、オマエは何者かという問いは『ハムレット』(死んだ父親の亡霊が「ハムレット、復讐せよ!」と主人公にけしかけますね)の有名な冒頭第一行でもあって、「本当の名前を捜しつづける」主人公の回復の契機の可能性でもありえないことはないのだから。

 たぶん私は本当は、そこまで言い切らなくてはならなかったのだろう。松井サンのおかげで思い当たることができた。

 

公園には誰もいない・密室の惨劇 (P+D BOOKS)

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ギリシア悲劇〈2〉ソポクレス (ちくま文庫)

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